認知症
2.マリア・ワルトルタ
3.アグレダのマリア
1.スウェーデンボルグ
真の基督教276
或る人々は自らの理智によって神、天界、地獄および教会の霊的な事柄に関する知識を獲得することが出来ると考える。然し、彼らは自然的な人は霊的な人とは本質的に相対立していることを、それ故自然的な人は霊的なものを、それが入ってくると、破壊し、或いはこれを植物の根を食い尽くす虫のような虚偽に巻き込もうと欲することを知らない。彼らは鷲に乗って高く飛んでいると夢み、或いは有翼の馬にまたがってパルナッサス山上をヘリコンに向って飛んで行くと夢見ている者たちに似ているが、実際は、地獄に在って尚も自らを暁の子と呼んでいるあのルシファの如きものである(イザヤ14・12)。彼らはまた、その頂きが天に達する塔を建設しようと試みたシナルの谷の人々に似(創世記11・2、4)、ゴリアテのように自信に満ちて、その額に落ち込む投石器の一石によって打ち倒されることを予想しない。私は死後の彼らの状態を録してみよう。最初、彼らは酔漢の如く、次に愚物の如く、最後に気が狂って、暗黒の中に座ってしまう。それ故このような狂気に警戒されよ。
霊界日記1752
地上で或る人物たちにより経験される幻が在り、彼らは自分らは多くの驚くべき光景を見ていると言いもし、そのことを誇ってもおり、彼らはまた幻視者とも呼ばれている。こうした種類の幻は以下のようなものである、即ち、何であろうと、何らかの物体[対象]が示されると、或る霊共はそれに幻想[妄想]により何らかの外観を生みつけるのであり、例えば、一条の雲が、または何らかの月光が夜間見られると、そのさい霊共は動物であれ、幼児であれ、または何か奇怪なものであれ、何か特殊なものを表象してみせ、その表象されたものの中に彼の心を集中させておき、かくて彼の想念を集中させておき、その想念がそうした種類のものの中に集中されていると、彼は自分は実際そうした物を見ている、と思い込んでしまうのである。このようにして非常に多くの幻が言いふらされはするが、しかしそれらは迷妄[妄想]以外の何ものでもないのである、しかしこうした物が幻想に大いにふけり、かくて心の病気の下で苦しんでいる者たちにしばしば起こるのであり、その心の病のためにそうした物を信じるようにもなるのである。
神の摂理226[2]
「もし人間はその後でそれらを拒否し、反対の状態に陥るならば、彼は聖い物を冒涜する」。
聖いものが冒涜されるには多くの方法があり、これは後の項目に取り扱われるであろう。しかしこれは凡ての中で最も痛ましいものである。なぜならこの種の冒涜者は死後もはや人間ではなくなり、実際生きてはいるが、しかし狂った妄想の不断の状態の中に生き、自分自身では高いところを飛んでいるように見え、そしてそこにいる間は空しい思いつきで自分自身を愚弄し、幻想的な外観と戯れて、それを現実と取り違えているからである。彼らはもはや人間ではないため、彼、彼女とは呼ばれず、「それ」と呼ばれている。実に彼らは天界の光の中で見られると、骸骨のように見え、或る者は骨の色を帯び、或る者は火のように、或る者は焼け焦げているように見える。これが冒涜者の運命であることは世では知られていない、なぜならその原因は知られていないから。その理由は、人間が最初神的な物を承認して、それを信じ、その後それに面を背けて、それを否定するとき、聖い物と汚れた物とを混合し、かくてそれらのものは全的な破滅によらない限り分離されることは出来ないということである。しかしこれを明らかにするため、その主題を以下のように適当な順序で説明しなくてはならない。
(イ)凡て人間がその意志を自由に働かせ、考え、語り、為すものは、それが善であれ、悪であれ、彼の性質に取入れられて、彼の中に永遠的なものとなる。
(ロ)悪と善とは離れて、分離するように、主はその神的摂理により絶えず人間の状態を予見し、処理されている。
(ハ)このことはもし人間が先ず信仰の諸真理を承認し、それに従って生き、その後それを斥け、否定するならば不可能となる。
(ニ)彼はこうして善と悪を混合し、そのため両者は分離されることは出来ない。
(ホ)各々の人間の中に善と悪とは分離されねばならず、冒涜者の中には両者は分離されることは出来ないため、その真に人間的なものは凡て破壊される。
神の摂理227(ホ)
「凡ての人間の中に善と悪とは分離されねばならず、冒涜者の中にはそれらは分離されることは出来ないため、その真に人間的なものは凡て破壊される」。
前述したように、各々の人間の真に人間的な要素は合理性から来ており、それは、もし彼が欲するなら、真で善いものを認め、知ることが出来る能力と、またそれに従って自由に意志し、考え、行動することが出来ることから成っている。しかしこの自主性と合理性は自分自身の中に善と悪とを混合した者の中に破壊される、なぜなら彼らは善と悪が彼らの中に不可分離に結合しているため、善から悪を見ることは出来ず、悪から善を見ることも出来ず、それ故彼らはもはや合理性を実際的にも潜在的にも持たず、また自主性も何ら持たなくなるからである。この理由から彼らは前述したように狂った想像から作り出された妖怪のようなものとなって、もはや人間のようには見えず、皮膚で包まれた骨のように見え、そのため彼らは口に出されるときは、彼または彼女とは呼ばれないで、「それ」と呼ばれる。これがこのように聖い物と汚れた物とを混合する者の運命である。しかしこれとは異なった多くの種類の冒涜があり、それらは次の項で論じられるであろう。
(冒涜者について)
霊界日記5950
冒涜者らは、西の非常な遠方に、南寄りに、そこの深い下に、その地獄を得ている。彼らは冒涜者となると、もはや人間ではなくなる、なぜなら彼らは、天界の光の中では、焦げ付いたミイラとなって現れるからであり、それで彼らは女性または男性として話されはしないで、中性の「それ」として話されるのである。
(中略)
彼女はまた暗がりの中で、黒ずんだ顔をした人間として見られた。このように、同じく、冒涜者らの顔は徐々に黒くなって行くのである。
2.マリア・ワルトルタ
マリア・ヴァルトルタ/私に啓示された福音/8卷上P186/515・4
ユダを呼びなさい。彼にも言っておくことがあります・・・」。
ユダが来る。イエズスは山を下りてきて狭くなった視界を指さして言う、
「あなた方、将来霊魂の先生になる人たちのために、短い譬え話をしましょう。あなた方は、辛く厳しい完全への道を上るにしたがって、視界が開けるでしょう。先ほどまでは、ペリシテとシャロンの二つの平原、多くの村、畑や果樹園、はるか遠くの青い広がり、つまり、大きな湖も見えました。そして、その先には、緑のカルメル山も見えました。今は、ほんの少ししか見ることができません。下るにつれて眺望は狭まり、谷底に着くころには何も見えなくなるでしょう。霊魂においても、上らずに下る人には、同じことが起きます。その人の徳と知恵は徐々に失せ、判断力は狭まり、ついには消えてしまうでしょう。すると、霊魂の先生は、その使命を果たすことができません。もはや、判別も指導もできなくなります。もはや死体となり、腐ってしまいます。下ることは、ときには魅力的で、心を誘われます。底には感覚的満足があるからです。わたしたちも、休息と食事を求めて、谷間へと下っています。わたしたちの体のためには、それが必要です。けれども、道徳や霊魂のためには、官能の谷へ下って感覚的満足や霊的怠惰にふけることは不要です。あなた方が行くことを許されている谷は、ただ一つです。謙遜の谷です。なぜなら、神ご自身が、謙遜な霊魂たちをご自身の所へ引き上げるために、そこへと下るからです。自ら遜る者は高められるでしょう。その他のすべての谷は破滅的で、人を天から引き離します」。
3.アグレダのマリア
アグレダのマリア/神の都市/P119
私たちは世間の評判を気遣い、理性をほとんど全部なくします。世間から名誉を受けなくなると、理性を完全に失い、気違いになります。