幻想
天界の秘義1306
『塔』は自己礼拝であることは『塔』の意義から明白である。自己礼拝は人間が自分自身を他の者の上に高めて礼拝されさえもするほどになる時存在している。それで傲慢と誇りである自己愛は『高いこと』、『高くそびえていること』、『もたげられていること』と呼ばれて、高い所にある凡ての物により記されている。例えばイザヤ書には―
人間のほこった眼は卑しくされ、人間の高ぶりも低くされ、エホバ御自身のみがその日高く崇められたもうであろう。万軍のエホバの日は凡てほこり高ぶっている者のうえに、もたげられている者凡ての上に臨んで、その者は卑しくされるであろう。また高くもたげられているレバノンの香柏の凡ての上に、バシャンの凡てのかしの木の上に、凡ての高い山の上に、もたげられている凡ての岡の上に、凡ての高くそびえた塔の上に、垣根をめぐらした壁の凡ての上に臨むからである(2・11,18)。
これは自己愛にかかわっており、自己愛が『高い』また『もたげられた』『香柏』『かしの木』『山』『岡』『塔』により記されているのである。
[2]さらに―
大いなる殺りくの日に、川が、水の流れが在り、塔は倒れるであろう(30・25)
これも同様に殺りくの自己愛を、礼拝の中で自己を高めることを意味している。さらに―
見よ、カルデヤ人の地を、この民はいなかった。アッシルはその基礎をズィームの中につくった、彼らはそのもの見の塔を立てるであろう、彼らはその宮殿をたてるであろう、かれはそれを廃墟にされるであろう(23・13)。
これはツロとその剥奪とについて言われている、他の言葉により表現されているもの見の塔はそこから発した幻想を意味している。エゼキエル書には―
ああ、ツロよ、わたしは多くの国民をおまえにむかって来させよう、彼らはツロの壁を滅ぼし、その塔を砕くであろう、わたしまたかれからその塵をかき落し、かれを乾ききった岩のようにしよう(26・3,4)。
その意義は類似している。
天界の秘義1389
他生に入ってきた霊魂は他の者の思考がこのように伝達されることに驚き、またかれらが他の人間の気質の特質のみでなく、その者の信仰の特質をも直ぐに知ることに驚いたのである。しかしかれらは霊はそれが身体から引き離されると更に遥かに卓越した能力を受けると告げられたのである。身体の生命の間では感覚の対象から来る流入があり、またその対象から記憶の内に内在している事柄から幻想が流入しており、さらに将来に対する不安があり、外なる物により刺激される種々の欲念があり、食物、衣服、住居、子供達その他に対する心づかいがあり、またその他の物もあるが、それらについてはかれらは他生では何ら考えはしないのである、それでこうした妨げや煩わしさが粗悪な知覚をもった形体的な部分とともに除かれると、かれらは更に完全な状態の中にいないわけにはいかないのである。その同じ能力は残っているが、しかしそれは更に遥かに完全であり、澄明であり、自由であり、とくに主における仁慈と信仰の中に、無垢の中に生きていた者たちにあってはそうである、なぜなら凡てこうした者たちの能力はかれらが身体の内で持っていたものの上に無限に高揚され、ついには第三の天界の天使たちの能力にさえも高揚されるからである。
天界の秘義1969
他生における悪霊どもはほとんど欲念と幻想以外の何ものでもない。(中略)こうした幻想は奈落の者らのもとには絶えず存在しており、かれらの間では互に幻想により悲惨な拷問を加え合っているのである。
霊界日記1752
地上で或る人物たちにより経験される幻が在り、彼らは自分らは多くの驚くべき光景を見ていると言いもし、そのことを誇ってもおり、彼らはまた幻視者とも呼ばれている。こうした種類の幻は以下のようなものである、即ち、何であろうと、何らかの物体[対象]が示されると、或る霊共はそれに幻想[妄想]により何らかの外観を生みつけるのであり、例えば、一条の雲が、または何らかの月光が夜間見られると、そのさい霊共は動物であれ、幼児であれ、または何か奇怪なものであれ、何か特殊なものを表象してみせ、その表象されたものの中に彼の心を集中させておき、かくて彼の想念を集中させておき、その想念がそうした種類のものの中に集中されていると、彼は自分は実際そうした物を見ている、と思い込んでしまうのである。このようにして非常に多くの幻が言いふらされはするが、しかしそれらは迷妄[妄想]以外の何ものでもないのである、しかしこうした物が幻想に大いにふけり、かくて心の病気の下で苦しんでいる者たちにしばしば起こるのであり、その心の病のためにそうした物を信じるようにもなるのである。