聖なる病気

 

 

試練苦しみ霊的な者の苦しみ

苦しみを捧げる

 

 

 

1.マリア・ワルトルタ

2.マルタ・ロバン

3.アグレダのマリア

4.サンダー・シング

 

 

 

 

1.マリア・ワルトルタ

 

マリア・ヴァルトルタ/私に啓示された福音4巻下P235

 

 病気に見舞われることは避けられません。あらゆる病気は悪徳の、あるいは罰の証拠だとは限りません。からその義人たちに送られる聖なる病気があります、というのも、己をすべてと見なし、快楽の手段とする世には、他人の救いのために戦争の人質のようである聖人たちがいて、本人自ら彼らの苦しみで、世が日毎に積み重ね溜め込んでゆく大量の罪を償い、人類の上で潰え、その呪詛の下に人類を埋葬します。あなたたちは、ヨシュアがの名において戦っている間、祈っている老いたモーセのことを思い出しますか? 聖性を帯びて苦しむ者こそ、世にいて人びとや民の仮面をつけて隠れているサタン、拷問者、あらゆる悪の原因、残忍な戦士に対して最も偉大な攻撃を加えるということを、あなたたちが考えなければなりません。しかしながら、が送られるこれらの聖なる病気と、官能にまつわる不義の愛のための悪徳から送られる病気との間には、どれほどの相違があることか! 第一のそれはの有益な意志の証拠であり、第二のそれはサタン的腐敗の証拠です。

 だから聖人であるためには愛する必要があります、というのも愛は創造し、保存し、聖化するからです。

 わたしもまたこの真理をあなたたちに告げ、ネヘミヤとエズラのように『この日はわたしたちの神、主に奉献される。喪に服すな。泣くな』と言います。なぜならどの喪もの日を生きる時に止みます。死はその苦み、渋みを止めます、というのも息子の、夫の、父の母の、あるいは兄弟の死は、束の間の、限られた離別になります。瞬間的なのはわたしたちの死と共に止むからです。限られているのは、体に、感覚に限定されるからです。霊魂は亡くなった縁者の死と共に何一つ失いません。それどころか二分の一という自由には限界がありません。つまり生き残りのわたしたちの霊魂は肉体のうちにまだ閉じ込められているのに、ところが一方もう一つの部分、あのすでに第二の人生に移った霊魂は、自由を、また眠らずにいる力を肉体の牢獄から愛し合った時よりもはるかに享受しています。

「ネヘミヤとエズラのように、わたしはあなたたちに言います、『肥えた肉を食べ、甘い葡萄酒を飲みに行きなさい。そしてそれがない人びとにはその分け前を送り届けなさい、というのもの聖なる日であるからこの日は誰も苦しんではならぬのです。誰も鬱々としていてはなりません、なぜならあなたたちのうちにあるの喜悦は、自らの城壁の内にまた自らの心の中に、いと高きの聖寵を受ける者の力だからです』と。

 

 

マリア・ワルトルタ/マグダラのマリア/P367

 

「そして、もし苦しみがあなたたちを訪れるならば―苦しみは人を聖ならしめ、肉欲の腐敗から人を守る没薬ではあるが―私があなたたちを愛しているという信念をもち、私は“その苦しみの中でも”あなたたちを愛し、そして私の愛から来る平和を味わうことができよう。」

 

 

マリア・ワルトルタ/イエズスに出会った人々3./P336

 

「けれども病気、死、災い、悲惨な出来事が続き、皆に見捨てられる時、信、望、愛を忘れず、『いとも高き御方の望みが実現されますように。今起きていることは私にとって有益です』と変わらず言える人こそ、まことに言うが、神の助けを受けるに値するのみならず、神の国での住まいが用意され、もはや清めを必要としない。」

 

 

マリア・ワルトルタ/イエズスに出会った人々3./P195

 

シモン:「病気になった私が一体何の役に立つというのでしょう。」

アンドレア:「苦しむことで、もっと苦しむことで。イエズスは苦しみは労働と祈りに値するものだと言われました。」

 

 

2.マルタ・ロバン

 

マルト・ロバンの面影P156

 

 病気であるということは、はずかしめ、欠乏、みじめさにさらされることです。しかし、神を愛したいと思う霊魂にとって、このはずかしめ、欠乏、みじめさは、燃えるともしびに変わります。

 たしかに、『天』への道はどんなに暗くとも、少しも恐ろしいものではありません。決して絶望することはありません。ああ、わたしは、苦しみはみあるじに身を委ねる小さな霊魂にとって光明であると言いたいと思います。断定したいと思います。『もしも小さい者がいたら、わたしのもとに来なさい。わたし自身その力その慰めになるでしょう』。感動すべき真理ではありませんか。なぜなら、恩寵に従順な霊魂は、わたしたちを迷わすことのできない『かた』に、心たのしく、身を委ねるからです。

 『かれ』のように情深い『友』、慈愛に富む『父』、愛深い『天配』に守られているのに、苦しむことができるでしょうか。泣くことができるでしょうか。絶え入ることができるでしょうか。いいえ、『かれ』ほど理解し、慰めてくださるかたはありません。神のくださる慰めにくらべるならば、人間の慰めはきわめて冷たいものです。人間の支えは、苦しむ者をしっかと支えるには、きわめて弱い葦のようなものです。限りないすべての苦しみを支えてくださった神だけが、これをみなやわらげてくださることができるのです。

 愛は心を彫ります。愛は清めます。悲しみは平和をもたらします。

 ああ、わたしのイエスよ、あなたの小さいいけにえは苦しむべきです。しかし、あなたが愛してくださったように、あなたを愛すべきです。あなたを離れては、生きることも苦しむこともできないでしょう。ああ、イエスよ、わたしを永久にお守りください。わたしはあなたのものです。わたしに忍耐をお与えください。なにごとにおいても、平静をお与えください。

 あまり前やうしろを眺めないようにしましょう。いつも高いところを眺めましょう。

 

 

 

3.アグレダのマリア

 

アグレダのマリア/神の都市/P178

第四章

聖ヨゼフの幸いなる死

 

 八年間聖ヨゼフは病気にかかり、毎日、苦しみと神に対する愛の溶鉱炉の中で益々清められました。

 

 

 

 

4.サンダー・シング

 

 

サンダー・シング/イエス・キリスト封印の聖書/P303

 

「1920年、英国滞在中に、わたしは死の床にある男性の見舞いを頼まれた。時間がなかったので最初は断ったが、『是非とも行って会うとよいでしょう。あなたのためになります』と神の人が言ったため、見舞いに行くことにした。彼は極貧の人で、世話をする娘と二人だけで暮らしていた。全身が病に冒され、長い年月のあいだ苦しみ続けていた。体はすっかり衰弱し、まるで骸骨のようである。しかし、彼の瞳は星のように光り輝いていた。彼はこう語った。『あなたはわたしに教えるために来られたのですか。しかし、教えたいのはわたしの方です。人々は、苦しみの最中では真の幸福は持てないといいますが、わたしは神に感謝しているのです。わたしは、長い苦しみの中にあっても、驚くべき幸せを見ています。それは、国王が宮殿にいても得られないほどの歓びです』。彼は、体は衰弱しきっているように見えたが、顔は天使のように輝き、目には天国があった。『わたしは、もうすぐ死ぬでしょう。どうか、皆にいってください。わたしは死ぬのではありません。真の意味で生きようとしているのです』。わたしは、行って彼の歓びのメッセージを人々に伝えた。伝え終わったときに、彼が死んだことをきかされた。この人は、死の直前に驚くほどの歓びをもって、人々にこう語ったという。『わたしは、天使たちとともに救い主にお会いするために行きます。救い主とともに住むために』。しかし、人々にはこれを理解することができなかった。この世的な人々は、この貧しい男が持てたような歓びに与ることができないのである。

 

 またあるとき、わたしは、司祭とともにハンセン病患者を見舞いに行った。友は病人に『可哀想に、あなたの苦しみを見るのはとても辛い』と声をかけたが、相手の答をきいていたく驚いた。『あなたは悲しみばかりを思っておられるが、わたしは心が素晴らしい平和に満たされていることを、神に感謝しています。自分がこのような病にかかっていることについても感謝しているのです』。わたしは、この男が難病であることに感謝しているときいて驚かされたが、彼はさらにこう付け加えたのである。『自分が健康体だったら、きっと、人殺しや盗賊になっていたでしょう。しかし、わたしはこの病を通して罪という病を知ったのです。肉体の病から癒されることを、今は願っていません。わたしは、霊的な病を癒やされて、今や、イエス・キリストにある歓びを発見したのですから』。この貧しい人は、言葉には尽くすことのできない歓喜を持っていた。言葉には出せずとも、彼の涙がそれを静かに物語っていた。キリストは、貧しい者に福音を伝えるために来られたが、貧しい人はそれを身をもって知るのである。わたしは、ともにいた司祭は、この貧しい人ほどの幸せを得てはいないと思った。そして、富める人、健康な人の多くもまた、貧しい人々ほどには幸せではないと知った。本の中にではなく、生けるキリストの中に貧しい人への福音があることは、経験が証明している」