試練

 

 

苦しみ剥奪[荒廃]絶望浄め

醗酵良心の

 

 

 

 

 

1.苦しみ

3.力以上に試すことを主は許さない

4.勇気を出すように

5.良心の呵責・・・霊的な試練は良心の呵責以外の何ものでもない

6.再生の手段

7.十字架

8.感謝の気持ちで思い出す

9.アヴィラの聖テレサ

10.恥ずかしめ

11.迫害

12.地上の天

13.長い闘い

14.私は平安をもたらすために来たのではない

15.主の十字架上の試練・・・なぜわたしをお見捨てになったのですか

16.試練を通った霊魂

17.主の苦しみ

18.使徒たちの試練

19.ニケア会議以来、三人の神を信じた者は凡て、霊的な試練を受けることは許されていない

20.仁慈の教義より

21.理解の事柄の方面の試練は軽いが、しかし意志の事柄の方面の試練は苛烈である

22.天的な試練、霊的な試練、自然的な者の試練は心労

23.自分自身の中に何かの悪を認めて、その悪から離れようと欲する

24.人間は成人期に達しない中は試練を受けない

25.何人も試練のいかようなものであるかをその中にあった者を除いては知ることは出来ない

26.試練の中にいる者は地獄の中にいる

27.そして彼は凡ての財産を取り返した

28.試練は世から来る迫害であり、内なる試練は悪魔からくる迫害である

29.現今何らかの霊的な試練に入れられる者は殆どいない

30.善と真理との連結は試練により遂行される

31.試練に何らかの功績を置く者はその試練のために救われはしない

32.ルイザ・ピッカレータ

33.マリア・ワルトルタ

34.凡ゆるものは主の慈悲から発していることを試練により学ぶ

35.その者が心を引き寄せられるものによらなくては試練を受けはしない

36.霊的な試練は内的な人のものである良心に働きかける

37.善が主役を演じ始めるとき試練が来る

38.悪霊を追い出す時、存在する霊的試練

39.その善良な者の悪に結合することにより為される

40.主御自身はそのとき試練に置かれている者たちのもとに直接に現存[臨在]されているのみでなく、また天使たちにより間接的にも現存され

41.善がそこから生まれるという目的がないなら、すなわち、試練に置かれている者たちのもとに真理と善とが形作られて、強められるという目的がないなら、主は彼らには許されはしない

42.ヴァッスーラ

43.身体の生命の中でそれを受けない者は、もしその者が再生することが出来るならば、他生でそれを受ける

44.かつれて

45.試練に堪えた後で、真に教会となる

46、試練は絶望にまで至る

45.霊的な者の心労

46.信仰は霊的な教会に属している者たちには試練によらなくては到底植え付けられることは出来ない

47.人間は一つの試練によっては再生されないで、多くの試練により再生する

49.取りつかれて悩まされることは試練ではない

50.悪との戦い

51.地の塩である人びとは、火による試練を受けない

52.理由もないのに憂鬱な不安に悩まされる者における流入、霊的な試練を受けている者における流入もこうしたもの

53.いかような試練もその人間が真理の善の中に、即ち、真理を愛する愛または情愛の中にいない限り、起ることは出来ない

54.真理の方面の試練

55.この格闘を人間が認識することが試練

 

 

 

 

 

 

 

詩篇66・10―12

 

神よ、あなたは我らを試みられた。

銀を火で練るように我らを試された。

あなたは我らを網に追い込み

我らの腰に枷をはめ
人が我らを駆り立てることを許された。

我らは火の中、水の中を通ったが

あなたは我らを導き出して

豊かな所に置かれた。

 

 

 

詩篇118・17−21

 

死ぬことなく、生き長らえて

主の御業を語り伝えよう。

主はわたしを厳しく懲らしめられたが

死に渡すことはなさらなかった。

 

正義の城門を開け

わたしは入って主に感謝しよう。

これは主の城門

主に従う人々はここを入る。

わたしはあなたに感謝をささげる

あなたは答え、救いを与えてくださった。

 

 

 

 

天界の秘義1717

 

 「そして彼は凡ての財産を取り返した」。これは内的な人が外なる人における凡てのものを(内的な人に)順応した状態に至らせたことを意味していることは、『凡ての財産を取り返すこと』の意義から認めることが出来よう。ここの『財産』は前に記したことの中に話されたように、ケダラオメルが、また彼とともに王たちが彼らの敵から取ったものである。ケダラオメルと彼とともにいた王たちにより外的な人の諸善と諸真理とが意味されている。彼らがその敵から取り上げた財産はその敵が悪を行い、誤謬を考える力を奪われること以外の何ものでもなかったのであり、そのことが[その敵が悪を行い、誤謬を考える力が]ソドムとゴモラとの富により意味され、また彼らの取った凡ゆる食物によっても意味されたのである。(そのことは前の11節にとり扱われている)。

 

 

 

[2]この事柄は僅かな言葉では示すことが出来ないような性質を持っているが、しかしここに以下に記されていることによってそれについて若干知ることが出来よう。試練の争闘の中にいて、征服する者は、悪霊を支配する、または悪魔の一味を支配する力を益々自らに取得して、遂には彼らは些かも敢えて試みようとはしなくなるのである。しかし勝利が得られる度毎に、主は争闘が行われた源泉である諸善と諸真理とを秩序付けられ、またかくてその度毎にそれらは浄められるのであり、そして浄められるに正比例して、愛の天的なものが外的な人の中へ徐々に注ぎ入れられて、相応が行われるのである。これらが凡ゆる財産を取り返すことにより意味されている事柄である。

 

 

 

[3]外なる人が幾多の試練の争闘なしに内なる人に相応するようになることが出来ると想像する者は誤っている、なぜなら試練は幾多の悪と誤謬とを消散させる方法であり、また同じく諸善と諸真理とを導き入れ、外なる人に属したものを服従に至らせる方法であり、かくてそれは[外なる人は]内的なまたは合理的な人に仕え、またそのことを通して内なる人に仕えることが出来るのであり、すなわち、内なる人を通して働かれつつある主に仕えることが出来るからである。これらの事柄が試練により行われることは幾多の試練を通して再生している者以外には何人も知ることは出来ないのである。しかしいかようにしてこれが為されるかは、最も全般的にさえも殆ど記すことは出来ない、なぜならそれは人間が何処からまたいかようにして為されるかを知ることなしに為されるからである、なぜならそれは主の神的な働きであるからである。

 

 

 

1.苦しみ

 

 

黙示録3・19

 

「わたしは愛する者を皆、叱ったり、鍛えたりする。

だから熱心に努めよ。悔い改めよ。」

 

 

 

サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書/P278

 

この世において霊的心をもつ者が苦しむというのは、真理を味わうことができないために性格が歪み、隠れた罪によって霊的識別力を失ってしまった者たちが誤解するからである。この種の人々は、正しい人間を前にすると違和感を覚えて本能的に敵対せざるをえなくなる。だが、神に敏感な感性と良心をもっているその人は、似た心の人を前にすれば互いに引き寄せあう神の生命をそこにみる。

 

 

 

デボラ/生ける神よりあかされた英知/3巻下P162

 

あなたのために私が選んだ仕事はあなたに好まれるものとなってはならず、非常な喜びをあなたに与えてもいけない。私はそこからも、あなたの苦しみを獲得したいからである。

 

 

 

デボラ/生ける神よりあかされた英知/3巻上P101

 

一つの霊魂の苦しみごとに、救われるもう一つの霊魂がある。まさにこれが、なぜ私が神聖な血の最後の一滴までを流し、わたし自身を葬らなければならなかったか、という理由である! それはあなたがた各自の霊魂のためであった。木から、柱から、十字架の上から私は勝ち、皆を引き寄せるのである。あなた方も苦しみながら勝つように定められている。あなたがたが、苦悩を私への捧げ物として受け入れるとき、悪魔は何もできない。落胆させようとする彼のもくろみは失敗し、同時に彼の喜びの狙いも切断される。

 そう思いわずらうことはない。愛する人たちは皆、私と同じであるために苦しまなければならない。そして心の中にあるこの愛は、ただちに私の霊の力によって膨張し、あらゆる人の上に吹きかけられて特別なわざを示すであろう。この救いの仲介者として私があなたがたを選んだので、あなたがたは嬉しくはないか? 私はあなたがたに言う。天使たちもそれに驚いている、と。

 だから勇気を出しなさい。私とあなたがたの母であるあのおとめが、いかに苦しみを霊の喜びのうちに生きるべきかということを教えてくださるだろう。

 

 

 

ルイザ・ピッカレータ/被造界の中の神の王国/4P39

 

愛する子よ、少なくとも時折、極度の苦しみをあなたが感じることは必要なことである。先ずそれはあなたのために。なぜかというと、鉄がいかに良質のものであっても、それを炎の中に入れずに長いこと放っておいたら、さびを食ってしまうだろう。

 

 

 

ベルナデッタ/P318

 

聖母:「私が約束するのは、あなたをこの世ではなく、あの世において幸せにすることです。」

 

 

 

コンチータの出現日記/P133

 

 そのとき、聖母はつけくわえて、こうおっしゃいました、

「あなたは地上では、あまり楽しくないでしょう。でも、天国で幸福になれます」と。

 

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち8巻P90

 

あなたをいとおしんでいなかったなら こうしたことを行おうか?あなたが有頂天となって私を悲しませる機会がないよう これからも目に覆いをかけておく。自らを打ち消す従順な者となるように 我が好みの霊魂たちを私はこのように扱う。私は王 彼らを治め こうして彼らは我が三位一体の聖性にとって誉れとなり 全き善良さに達しよう。

 

 

 

マリア・ワルトルタ/マグダラのマリア/P234

 

 露の最も小さい一滴にも、その存在のよい理由がある。最も小さい、うるさい昆虫の一匹も存在するによい理由がある。火山の爆発とその火の流れもそれだけの理由がある。また、理由のない台風もない。そして物質の世界から人間のことにうつれば、近眼の目しか持っていない人間の傲慢にとって分かりにくいことであっても、涙も喜びも誕生も死も、貧しさ、または病気の不幸、繁栄と健康なども、それそれの理由がある。

 

 ・・・神経をいら立たせて衰弱させ、この世での一日を苦しくするさまざまの疑問に打ち勝つために秘訣は、神が知恵深く、または、あるよい理由のためにすべてを行うと信じ、神が行っていることすべて人を苦しめるための愚かな目的のためではなく、愛のためであると信じることである。

 

 

 

3.力以上に試すことを主は許さない

 

 

コリント1・10・13

 

あなた方を襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。

 

 

 

天界の秘義761

 

 人間の中の霊的な試練はその者のもとにいる天使たちと悪霊らの争闘であり、この争闘は彼の良心の内に普通感じられることは前に述べたところであるが、この争闘についてはまた以下のことを知っておかなくてはならない、すなわち、天使たちは絶えず人間を守っていて、悪霊どもが彼に加えようと努力している幾多の悪を外らしているのである。天使たちは人間の中の誤った悪いものを守りさえしている、なぜなら彼らは彼の幾多の誤謬と悪とは何処から発しているかを、すなわち、悪い霊らと鬼どもから発していることを充分に知っているからである。人間は自分自身からは誤った悪いものを一つとして生み出しはしない、それを生み出すと同時にその人間にその人間が自分自身からそれを行っているのであると信じ込ませるものこそ人間のもとにいる悪霊らである。かくの如きが彼らの悪意である。更に、私は多くの経験から確認することが出来るのであるが、彼らはこの信念を注ぎ入れ、強制していると同時に人間を訴え、罪に定めるのである。主に対する信仰を持っていない者は自分は自分自身で悪を行っていると信じないように明るくされることは出来ない、それで悪を自分自身のものとし、自分と共にいる悪霊どものようなものになる。これが人間の実情である。天使たちはこのことを知っているため、再生の試練においては彼らは人間の幾多の誤謬と悪をまた守るのである、なぜならもしそれらを守らないなら人間は屈服するからである。なぜなら人間の中には悪とそこから発した誤謬以外には何ものもなく、かくて人間は諸々の悪とその諸々の誤謬の集合体、合成体そのものに過ぎないからである。

 

 

 

天界の秘義762

 

 しかし霊的な試練は現今ほとんど知られていない。またそれは以前ほどに許されてもいない、それは人間は信仰の真理の中にはいないし、それで屈服してしまうためである。これらの試練に代って自然的な身体的な原因から生まれている不運、悲哀、心労といった他のものがあり、また人間のいくたの快楽と欲念の生命をある程度抑え、破って、彼の思いを内的な宗教的な主題に方向づけ、高揚させるところの身体の病気、疾患といった他のものもあるのである。しかしこれらは霊的な試練ではなく、霊的な試練は主から真理と善との良心を受けた者たちによってのみ経験されるのである。良心はそれ自身諸々の試練の面であり、その中に試練が行われるのである。

 

 

 

ルイザ・ピッカレータ/被造界の中の神の王国/1P47

 

彼らがあなたの力以上にあなたを試すことを、わたしは決して許さないということを知っておきなさい。それにわたしは、霊魂が自分を失うようにさせるために悪魔たちと戦わせるようなことは決してしないということも、もう一度覚えておきなさい、事実、わたしはまず彼らの力をよく計り、わたしの効果ある恵みを与え、それから彼らを苦しい戦いに導き入れます。万一、時にどれかの霊魂が落伍するような時でも、それは決してわたしの恵みの不足のために起こるのではなく、その人が絶え間ない祈りによってわたしとの一致を保つことを望まなかったからです。それを望まない霊魂はわたしだけが人間の心を満たし、満足させることができるということを考えずに、見失ったわたしの愛を人間に求めて頼っていったからなのです。または霊魂が自分の判断を信じ、自分の考えのほうが自分を導いてくれる人のそれよりももっと正確で、均衡のとれたものであると傲慢にも信じて、従順の確かな道から非常に逸れてしまったからです。

 

 

 

4.勇気を出すように

 

 

ルイザ・ピッカレータ/被造界の中の神の王国/1P48

 

イエス:「最後に勇気を出すように。あなたが大胆に戦いに入っていくように望みます。なぜなら敵軍をいちばん恐れさせるのは、彼らに勇気があると気づかせることです。つまり最も苦しい攻撃にたいして、なにも恐れることなく、彼らのもっとも忌まわしい攻撃に対抗することのできる力と勇気です。悪魔にとって勇気をそなえた霊魂ほど恐ろしいものはありません。霊魂はわたしを土台とするように。そして眼前に立ちふさがる破壊者に負けることなく、わたしに身を任せて彼らの真ん中に入っていきなさい。そうすれば悪魔は恐れおののいて、あわてふためき逃げ出したくなるでしょう。しかし彼らはわたしの意志につながれているのでそれができず、彼らにとってもっとも大きな苦悩と、もっとも恥ずかしい降参に甘んじなくてはならないように強制されるのです。さあ、ですから勇気を出して。もしわたしに忠実であるならば、あなたが彼らに勝利を得られるように、常に豊かなわたしの恵みと新たな力を与えましょう。」

 

 

 

P55

 

私が忍んだこのような悪魔的な戦いをすることを主から委ねられなかった人は、残念ながら前述したような試練があるなどということを信じることはなかなか難しいことだと思います。私のことを信じて下さり、それがどのようにして停止されることになったかを知りたい方に申しましょう。それは主、私のイエスが、ある聖体拝領のあと、このような地獄の霊を遠ざけるために用いる方法について教えて下さったからです。さて次のようにいたします。彼らが蟻ほどのものにも足りないかのように注意せず、軽蔑することによって、彼らの恥辱を極限にまでもっていくこと、またそれだけでなく、むしろ私の心を人間性のうちに苦しまれたイエスに一致させて、特にイエスのもっとも聖なる御傷の中へ自分を導き入れ、祈りと観想によって神のうちに心を集中すること。イエスは失われた恵みを再び統合するためのみでなく、あの超自然の世界と、勝利のイエスの精神にまで人間を高めて下さるために苦しまれました。

 

 

 

5.良心の呵責・・・霊的な試練は良心の呵責以外の何ものでもない

 

 

天界の秘義4299

 

「ペニエル」・・・ヤコブが天使と戦ったところの地名

 

 良心を持っている者を除いてはたれ一人試みられることは出来ないのである、なぜなら霊的な試練は良心の呵責以外の何ものでもなく、従って天的な霊的な善の中にいる者を除いてはたれ一人試みられることは出来ないからである。なぜならこれらの者は良心を持っているが、他の者はことごとくそれを持っていないのであり、良心とは何であるかを知りさえもしていないからである。

 

 

 

新エルサレムの教義139

 

良心を持った者を除いては何人も霊的な試練には入れられない。(847)

 

 

 

天界の秘義1668

 

 良心を持った者にあってはそこから鈍い苦痛が生まれて来るが、認識を持っている者にあっては激しい苦痛が生まれてくるのであって、認識が内的なものであればある程、苦痛は激しくなるのである。

 

 

 

天界の秘義4299

 

 「ペニエル」・・・ヤコブが天使と戦ったところの地名

 

 良心を持っている者を除いてはたれ一人試みられることは出来ないのである、なぜなら霊的な試練は良心の呵責以外の何ものでもなく、従って天的な霊的な善の中にいる者を除いてはたれ一人試みられることはできないからである。なぜならこれらの者は良心を持っているが、他の者はことごとくそれを持っていないのであり、良心とは何であるかを知りさえもしていないからである。

 

 

 

天界の秘義4299[2]

 

 良心は主から発している新しい意志と新しい理解であり、かくてそれは人間における主の臨在[現存]であり、しかもその臨在はその人間が善または真理に対する情愛の中にいるに比例して近くなっているのである。もし主の臨在がその人間が善または真理に対する情愛の中にいる比率以上に近いならば、その人間は試練に入ってくるのである。その理由は、その人間の中にある悪と誤謬とがその者の中に在る善と真理とにやわらげられているが、臨在がさらに近づいてくるとそのことに堪えることが出来ないということである。

 

 

 

天界の秘義4299[3]

 

 試練と呵責とは主の心的な臨在を通して発生してくるため神的なものから発しているかのように見えるのであるが、それでもそれらは神的なものからまたは主から発しているのではなくて、試みられ、または責めさいなまれている者の中にある悪と誤謬から発しているのである。なぜなら主からは善であり真であり、慈悲である聖いもの以外には何ものも発しないからである。善であり真で慈悲であるこの聖いものは悪と誤謬の中にいる者らの堪えることの出来ないものである、なぜならそれらは対立したものであり、または相反したものであるからである。悪と誤謬と無慈悲とはこれらの聖いものに暴行を加えようと絶えず熱中しており、それらのものを攻撃するに比例して責めさいなまれるのである。そしてそれらのものがそれらのものを攻撃して、その結果責めさいなまれると、それらのものを責め苛むものは神的なものであると考えるのである。このことが『恰もそれが神的なものから発しているかのように』という言葉により意味されているものである。

 

 

 

6.再生の手段

 

天界の秘義1692

 

 試練は、または試練の争闘はいかようなことを遂行するかはほとんどたれ一人知ることはできない。それはいくたの悪と誤謬とが破壊され、消散される手段であり、またそれにより悪と誤謬とに対する恐怖が生まれてくる手段であり、それにより良心が与えられるのみでなく、また強固にもされ、かくしてその人間は再生するのである、それが再生しつつある者が争闘に入れられて、試練を受ける理由であり、身体の生命の中でそれを受けない者は、もしその者が再生することができるならば、他生でそれを受けるのであり、そうした理由から主の教会は戦闘の教会と呼ばれている。しかし主のみが御自身の強さによりまたは御自身の力により試練の中でも最も残酷な争闘に堪えられたのである、なぜなら主は凡ゆる地獄に包囲されたもうて、絶えずそれらを征服されたからである。

 

[2]試練の争闘の中にいる人間の中で戦われて、征服される者もまた主のみである。人間は人間自身の力からでは悪い、または奈落の霊どもに対しては何ごとも些かも行うことはできない、なぜなら彼らはもし一人が征服されるならば、他の者が突入してきて、それが果てしもなくつづいているほどにも地獄と連なっているからである。かれらは堤防の凡ゆる部分に押し寄せている海のようなものであり、もしその堤防が裂け目またはひびのために破られでもするなら、海は絶えず流れ込んで、溢れ、ついには何一つ立ったままに残されはしなくなるのである。主のみが人間の中に試練の争闘を支えられないかぎり、人間もそのようにあるであろう。

 

 

天界の秘義3318

 

なぜならその容器は従順ではなくて、生命がそれに応じて活動する天界の秩序に反抗して頑強に抵抗し、また自分自身を頑なにするからである。なぜならそれらの容器を動かし、またそれらの容器がそれに順応している善は自己と世を求める愛のものであり、その善は、その中にあるところの粗悪な熱から、それらの容器にこのような特質をもたせるからである。それ故それらのものは柔軟なものとなり、主の愛の生命の何らかのものを受けるのに適合したものとなることができる以前に、柔らげられなくてはならないのである。この柔らげられることは試練以外のいかような手段によっても遂行されはしないのである。なぜなら試練は、自己への愛にぞくし、また自己に比較し他の者に対し覚える軽蔑の念に属しているところの凡てのものを遠ざけ、従って自負心に属し、また自負心のための憎悪と復讐とに属している凡てのものを遠ざけるからである。それでその容器が試練により多少なりと和らげられ、征服されると、その容器は、人間のもとに絶えず流れ入っているところの、主の愛の生命に服従し、またそれに従順になり始めるのである。ここからそのとき善は真理と連結され始めるのであり、それは先ず合理的な人の中に、後には自然的な人の中に行われるのである。なぜなら前に言ったように、真理は絶えず変化しつつあるいくたの状態に応じた形のいくたの多様なものの認識以外の何ものでもなく、これらの認識は流れ入ってくる生命から発しているからである。これが人間が試練により、またはそれと同一のことではあるが、霊的争闘により再生する、すなわち、新しくされる理由である。その後かれは他の性質を与えられて、柔和に、謙遜に、単純に、砕けた心になるのである。これらのいくたの考察から、試練がいかような用を増進するかを今や認めることができよう。すなわち、主から発している善が単に流れ入るのみでなく、そのいくたの容器を処理して、服従させ、かくしてその善自身をその容器に連結させるためである。真理は善を受けることのできる容器であることは前に認めることができよう(1496、1832、1900、2063、2261、2269)。

 

 

天界の秘義4317

 

試練こそ実に再生の方法そのもの。

 

 

天界の秘義4586

 

 たれ一人試練によらなくては真理と善に到達することはできない。

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/4巻P142

 

‘90・4・13

 

試練はたえずあろう、しかしこれらは成長するために与えられている、あなたに強くあってほしい、賢明さをもって 困難に立ち向かえるようになってほしい。我が誉れとなってほしい ♡

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/5巻P153

 

絶え間なく祈りなさい。私と会話し、与えているすべてを感謝し、しばしば祝福してほしい。常に試練はあろう。これは、まこと愛する者よ、あなたを成長させるためです。私にたいする望み、渇きをかき立てたい そして ああ・・・霊魂を完成させるためなら しないことがあろうか! 霊魂の完成には 死にそうなほど鞭打たせなければならないとしても、救いのために、ためらわず そうする。

 

 

7.十字架

 

スウェーデンボルグ/天界の秘義10490

 

「十字架」・・・試練におかれた際の人間の状態

 

 

デボラ/生ける神よりあかされた英知/1巻下P45

 

忘れないでほしい。ただ十字架を通してのみ、人は私の父の国にたどり着くということを。

 

 

8.感謝の気持ちで思い出す

 

キャロル・L・フリンダース/奇跡を見た七人の女性神秘家の肖像/天使館/P210

 

啓示を得た人々は、一般的に、その人生に一番の困難を与えた人を彼らの救済のための道具であったと後で考えて、感謝の気持ちで思い出すということを聞いたことがあります。

 

トマス・ア・ケンピス/キリストに倣いて3・59・2

 

 「人はみな自分のことを求め」ます(フィリピ書・21)。けれども主はただ私の救霊と、進歩ばかりをお望みになり、すべてのことを私にとってためになるようにしてくださいます。

 

そして主はたとい私をいろいろな誘惑や不運にお会わせになることがあっても、それはみな私のためになるようにとお定めになったことで、主はいつもさまざまの方法(みち)でお愛しになる者をお試しになるのであります。

 

ですからそういう試練のときでも、主は天来の慰めを私に満たしてくださるときと同じく愛され、讃美されたもうべきであります。

 

 

9.アヴィラの聖テレサ

 

ジャック・ネランク/あなたは預言を無視しますか―現代の予言者ヴァッスーラに聞く/天使館/P230

 

ヴァッスーラ:アヴィラの聖テレサの話がありますね。彼女はロバから落ちて凍った急流にとびこんでしまいました。ずぶ濡れになり、凍えて聖テレサはイエスに呼びかけました。

 

「どうして、このような仕打ちをなさるのですか?」。イエスは「私は友人をそのようにしてもてなすのだ」とおっしゃいました。

 

彼女は「そのようなもてなし方をなさって、お友達がほとんどいなくなっても、驚いてはいけませんよ」と言ったそうです。

 

 

トマス・ア・ケンピス/キリストに倣いて/3・50・4

 

 主を愛するためにこの世で苦しみ悩むのは、たといいくたびであろうとも、まただれによってであろうとも、みな主のお許可(ゆる)しがあってそうなるのであって、これは主の友に対するお恩恵(めぐみ)なのであります。

主のご計画とみ摂理とがなく、原因なくして地上に行われることは一つもありません。

 

 

10.恥ずかしめ

 

トマス・ア・ケンピス/キリストに倣いて/3・50・4

 

 「ああ主よ、主がわたしを恥ずかしめくじきたもうのはよいことであります。それによって私は主のみ掟を学ぶことができ」(詩篇119・71)、また心のあらゆる高慢と僭越とをなげうつことができるからであります。

「恥ずかしさに顔をかくす」のは私のためになります。それによって私は人からよりもむしろ主から、自分の慰めを求めるようになるからであります。

 

 

 

 

11.迫害

 

 

デボラ/生ける神より明かされた英知/5巻下P14

 

 しかし私は、何回あなたを苦悩や欠乏の中に置いたことだろう? もしあなたが信仰のうちで元のままに残ったとしたら、それは傲慢にならないための理想的状態、つまり迫害のうちに、私があなたを置いたからである。

 

 

 

 

12.地上の天

 

デボラ/生ける神より明かされた英知/5巻下P15

 

 人間的望みと混じり合った愛をもって私を愛する限り、私が示した霊における完全ないのちを獲得することはできない。もしも、どんな値を払っても獲得したいと願う衣服が忍耐、信頼、自己犠牲であるなら、私と共に耐えるいかなる苦悩も、心地よいものとなるだろう。

 

13.長い闘い

 

天界の秘義5126

 

 それでもそれはもしかれが心から悔い改めて、その後長い間、誤謬と悪と闘わないかぎり、その善と真理とをかれ自身のものとはなさないのである。しかしながら自分自身が再生することに甘んじる者たちのもとには、その反対のことが起きるようになるのである。なぜなら徐々にまたは連続的に合理的なものがかれらの中に開かれ、これに内的な自然的なものが服従し、内的な自然的なものに外的な自然的なものが服従するからである。このことはとくに青年期の中に成人期に至るまで起こり、つづいてその生命の晩年にまでも起こり、その後天界で永遠に起こるのである。

 

 

14.私は平安をもたらすために来たのではない

 

天界の秘義10490[]

 

 「兄弟」、「仲間」、「隣人」、その他縁故関係を示している多くの名前により教会と天界の諸善と諸真理とが意味され、また悪と誤謬であるその対立したものが意味されていることを知らない者はそうした名前が示されている聖言の他の多くの記事の中に含まれている意味を知ることはできないのである、例えば以下の記事には―

 

 わたしは地に平安をもたらすために来たと思ってはならない、わたしは平安をもたらすために来たのではない、剣をもたらすためである。わたしは人をその父に、娘をその母に、嫁をそのしゅうとに争わせるために来たのである。人の敵はその者自身の家族の者となるであろう。わたしよりもさらに父または母を愛する者はたれであれわたしには価しない。わたしよりもさらに息子または娘を愛する者はたれでもわたしには価しない。たれでもその者の十字架をとって、わたしに従って来ない者はわたしには価しない(マタイ10・34−38)。

 

 再生することができる者たちが受けなくてはならない試練である霊的な争闘がここにとり扱われており、かくて人間のもとに地獄から発して存在している悪と誤謬と、また人間のもとに天界から発して存在している善と真理との間に人間の中に起こってくる争闘がとり扱われているのである。こうした争闘がここに記されているため、「たれであれ自分の十字架を取り上げて、わたしに従ってこない者はわたしには価しない」と言われており、「十字架」により試練におかれたさいの人間の状態が意味されているのである。

 

 こうした事柄が「人間」と「父」により、「娘と母」により、「嫁」と「しゅうと」により意味されていることを知らない者は、主は家と家族から平安をとり去って、争いをもちこむために世に来られたと信じるにちがいないが、主はヨハネ14・27その他における主御自身の御言葉に従って、平安を与え、争いをとり去るために来られたのである。

 

 

 

[]内なる人と外なる人との争いがこの記事に記されていることは『人[人間]』と「父」、「娘」と「母」、「嫁」と「しゅうと」の内意における意義から明白であり、その内意では『人[人間]』は主から発している善を意味し、「父」は人間自身のものから発している悪を意味し、「娘」は善と真理とを求める情愛を意味し、「母」は悪と誤謬とを求める情愛を意味し、「嫁」は教会の善に接合した教会の真理を意味し、「しゅうと」は誤謬の悪に接合した誤謬を意味しているのである。

 

 人間における、善と悪との間の、誤謬と真理との間の争闘が記されているため、「人間の敵はその者自身の家族のものとなるであろう」と言われているのである。なぜなら「人間自身の家族の者たち」により人間に所属しており、引いてその者自身のものである事柄が意味され、「敵」は霊的な意義では善と真理とを攻撃する悪と誤謬とを意味しているからである。

 こうした事柄が「人間」、「父」、「娘」、「母」、「嫁」、「しゅうと」により意味されていることはこれらの解説の中に遍く示したところである。

 

 

[]以下の言葉でも同様である―

 

 兄弟は兄弟を、父は息子を死にわたすであろう、子供たちはその父に反抗して立ち上がり、かれらを死にわたすであろう(マタイ10・21)。

 

 もしたれでもわたしのもとへ来て、その父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を憎まないなら、しかり、その者自身の魂をもまた憎まないなら、その者はわたしの弟子となることはできない。そしてたれでもその者の十字架を負って、わたしの後から来ないなら、わたしの弟子となることはできない。それであなたらの中でそのもっているものをことごとく棄て去らない者はたれでもわたしの弟子となることはできない(ルカ14・26、27,33)。

 

 これらの言葉はその文字に従って理解してはならないことを、少なくとも、人間が主の弟子となることができるためには、父、母、妻、子供、姉妹を憎まなくてはならないと無制限に言われているという事実からでも認めない者があろうか。たれでも、敵でさえも憎んではならないことは主の御戒めに従っているのである(マタイ5・43,44)。

 

 

[7]人間に属した事柄、すなわち、悪と誤謬とが秩序をもって、これらの名前により意味されていることが明白である。なぜならかれはかれ自身の魂を憎まなくてはならない、かれはそのもっておるものを凡て、すなわち、その者に属しているものを凡て棄て去らなくてはならないともまた言われているからである。

 

 試練の状態が、すなわち、霊的な争闘の状態がまたここに記されているのである。なぜなら「たれでもその十字架を負うて、わたしの後から来ない者はことごとくわたしの弟子となることはできない」と言われているからである。主の弟子となることは主によって導かれて、自己により導かれないことであり、かくて主から発している善と真理により導かれて、人間から発している悪と誤謬により導かれはしないことである。

 

 

15.主の十字架上の試練・・・なぜわたしをお見捨てになったのですか

 

詩篇89・39,40

 

しかしあなたは、御自ら油を注がれた人に対して

激しく怒り、彼を退け、見捨て

あなたの僕への契約を破棄し

彼の王冠を地になげうって汚し

 

 

詩篇89・45−47

 

あなたは彼の清さを取り去り

彼の王座を地になげうたれた。

あなたは彼の若さの日を短くし

恥で彼を覆われた。

 

 

天界の秘義9930[]

 

あなたはあなたの油注がれた者を怒られる、あなたはその王冠を地にまでさえも罪に定めされた(詩篇89・38、39)。

 

ここでもまた「油注がれた者」は主を意味し、「怒り」は主が諸々の地獄と戦われたときに存在した試練の状態を意味しており、そのときの悲嘆が「怒り」と「罪に定められること」により記されているのである。例えば主が最後に十字架の上で御自分が「見捨てられた」と嘆かれたことが(そのことにより記されているのである)。なぜなら十字架はいくたの試練の中の、すなわち、諸々の地獄とのいくたの争闘の中の最後のものであり、この最後の試練の後で主は神的な善を着けられ、かくてその神的な人間的なものを主の中に存在したところの神的なものそれ自身[神性それ自体]に結合されたからである。

 

16.試練を通った霊魂

 

マリア・ワルトルタ/マグダラのマリア/P191

 

試練を通った霊魂たちは、最も安心できる霊魂たちである。生まれたばかりの時から、ゆりかごと母親に守られて満腹して良い子のように寝たり、静かにほほえんだりする子供のような人々よりもましである。後者は、理性が年をとるに従って、または人生のさまざまの変遷によって時としてびっくりさせるような道徳的な迷いを表わす。

 

 

真の基督教598

 

 人間は試練を経た後は、その外なる人の方面では世の中に止まっているけれど、その内なる人の方面では天界の中に在るのである。かくして、天界と世との交わりが生ずるのは、試練によるのである。その時主は人間の許にとどまりたまいつつ、彼の世界を天界から神的秩序に従って支配し給うのである。

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/4巻P89

‘90・1・10

 

試練を経験したことない人は、殆ど何も知らない ♡

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/5巻P109

‘91・4・10

 

試練がないなら 成長もない。

 

 

17.主の苦しみ

 

マリア・ワルトルタ/イエズス―たそがれの日々/P60

 

私は教え苦しみながら人々を救わねばなりません。

 

 

マリア・ワルトルタ/イエズス―たそがれの日々/P61

 

「ありがとう、ヨゼフ。私の荷は大きくて重いが、あなたがこれを軽くしてくれます。苦しみの波が襲いかかり、憎悪で私は沈められようとしているが・・・しかし、あなたたちの愛があれば耐えられます。人の子は心を持ち・・・その心は愛を必要とするから」

 

18.使徒たちの試練

 

マリア・ワルトルタ/受難の前日/P115

 

私は師であるから、弟子のために何が良いか、彼らはどの程度まで耐えうるかを知っています。あなたちも、その試練を耐え忍べるほど十分に強くはない。だから、先の人たちと共に除外されれば、むしろ、それは恵みのようなものです。

 

 だが、あなたたちは、私の使命を受け継ぐべき者たちです。将来、弱い人たちに対して、どれほどのあわれみをもって接しなければならないかを知るために、あなたたち自身、自分がどんなに弱い者であるかを知らねばなりません。そのために、あなたたちを、この恐ろしい試練に直面させます。除外することはしません。この試練は、私とほとんど三年の間、共に過ごしてきたのに、自分がどれほどの者にしかなれなかったかを知らせるでしょう。

 

 

19.ニケア会議以来、三人の神を信じた者は凡て、霊的な試練を受けることは許されていない

 

真の基督教597

 

ニケア会議以来、三人の神を信じた者は凡て、霊的な試練を受けることは許されていない。何故なら、彼はその場合直ちに屈服するであろうし、かくして地獄に更に深く陥るからである。現今の信仰に先立つと言われる痛悔は試練ではない、私はこの点について多くの者に尋ねると、彼らはそれは無意義な言葉であるか、あるいは恐らく単純な人々が地獄の火を考える時、感ずる神経的な不安に言及するものであろうと語ったのである。

 

 

十字架のヨハネ/暗夜/P137

 

 なぜなら、これほど激しく、厳しい浄化のためには偉大な素質が必要だからである。前もって、下級部分の柔弱さが改められることがなく、また神とともにその後に楽しむようになった甘味で味わいに満ちた交わりによって、神における剛毅を獲得することがなかったならば、自然性はこの霊的浄化に耐えるだけの力も素質も持つことはないにちがいないからである。

 

 

20.仁慈の教義より

 

天界の秘義8958

 

 再生しつつある者たちは試練を受ける。

 

 

天界の秘義8959

 

 試練は人間の中にある霊的な争闘である。なぜならそれは地獄から発して人間の中に在る悪と主から発して人間の中に在る善との間の争闘であるから。

 

 

天界の秘義8960

 

 試練は人間のもとにその悪と誤謬との中に住んでいる悪霊らにより引きおこされるのであり、これらの霊は人間の悪を刺激して、人間を責めるのである。しかし主から来ている天使たちは、その人間の善と真理との中に住んで、人間のもとに在る信仰の諸真理を呼び出し、人間を守るのである。

 

 

天界の秘義8961

 

 試練においてとり扱われるものは、地獄から来てその人間のもとにある悪と主から来てかれのもとにある善との主権に関連している。主権を得ようとねがっている悪は自然的な、または外なる人の中に存在しているが、しかし善は霊的な、または内なる人の中に在り、ここから試練においてとり扱われているものはその何れか一方が他方を支配することに関連している、すなわち、もし悪が征服するなら、自然的な人は霊的な人を支配し、もし善が支配するなら、霊的な人が自然的な人を支配するのである。

 

天界の秘義8962

 

 この争闘は聖言から発している信仰の諸真理によって行われる。その人間はその信仰の諸真理から悪と誤謬とに反抗して戦わなくてはならない。もし彼が何か他のものから戦うなら、彼は(それらを)征服はしない、なぜなら主は(信仰の諸真理)以外のものの中には決しておられないからである。

 

 

天界の秘義8963

 

 その争闘は聖言から発している信仰の諸真理により行われるため、その人間は真理と善とを知って、そこから多少霊的な生命を得るまでは、争闘には入れられない。それでこの争闘は人間が成熟期にたっしない中はそのもとに起こりはしない。

 

 

天界の秘義8964

 

 戦う手段となる信仰の諸真理を聖言から得ていない者は、かくて、その信仰の諸真理から自分自身の中に霊的な生命を何ら得ていない者は、かくて、その信仰の諸真理から自分自身の中に霊的な生命を何ら得ていない者は、降伏するため、いかような争闘にも入れられはしない、もし人間が降伏するなら、試練の後のかれの状態は試練の前のかれの状態よりはさらに悪くなる、なぜならそのときは悪は善を支配する力を、誤謬は真理を支配する力をそれ自身に対して得るからである。

 

 

天界の秘義8965

 

 現今信仰はまれにしか存在しないため―なぜなら教会はその終わりに達しているからである―それで今日では霊的な試練を受ける者は僅かしかいない。それでその何であるかは、またそれは何に貢献するかは殆ど知れらてはいない。

 

 

天界の秘義8966

 

 試練は、信仰の諸真理を確認し、またそれらを植えつけ、意志の中へ徐々に入り込ませ、かくてそれが仁慈の善となることに貢献している。なぜなら、前に言ったように、人間は悪と誤謬とに対抗して信仰の諸真理から戦い、その心はその時真理の中にいるため、征服する時は、その諸真理を自分自身の中に確認して、それを植え付け、また自分を襲った悪と誤謬とを敵と見なし、それを自分自身から斥けるからである。更に試練を通して自己と世に対する愛から発している欲念は征服され、その人間は謙遜になるのである。かくて彼は主から天界の生命を受けるに適わしいものとされるが、その生命は新しい生命であり、再生した人間に属しているものである。

 

 

天界の秘義8967

 

 試練を通して信仰の諸真理は確認され、仁慈の諸善は植えつけられ、また悪のいくたの欲念は征服されるため、試練を通して霊的な、または内なる人は自然的な、または外なる人を支配する主権を得、かくて仁慈と信仰にぞくした善は自己と世に対する愛にぞくした悪を支配する主権を得ることが生まれている。このことが行われると、その人間は明るくされて、真のものと善いものとを、また悪い誤ったものを認識し、従って理知と知恵を得、その理知と知恵は日毎に増大して行くのである。

 

 

 

天界の秘義8968

 

 人間は信仰の諸真理を通して仁慈の善へ導き入れられているとき、試練を受けるが、しかし仁慈の善の中にいるときは、試練は止んでしまう、なぜならかれはそのとき天界にいるからである。

 

 

 

天界の秘義8969

 

 試練にあっては人間は自分自身から悪と誤謬とに反抗して戦うものとして戦わなくてはならないが、それでも彼は主からそのように戦っていることを信じなくてはならない。 もし試練そのものの間で彼はそのことを信じないにしても―なぜなら彼はその時はそのことを明確には知らないからではあるが―それでもそのことを試練の後では信じなくてはならない。もし試練の後でその人間が主のみが自身のために戦われて、自分のために征服してくださったことを信じないなら、彼はただ外なる試練を受けたのみであり、そうした試練は深くは浸透しないのであり、また信仰と仁慈とを何ら根づかせもしないのである。

 

 

 

天界の秘義5356

 

試練はまた、悪霊どもがそのとき注ぎ入れるところの対立したものによりその善と真理を認める認識に性質を与えるのであり、対立したものを認めることにより関連したものが得られ、そこから性質が凡て発生するのである、なぜならたれ一人善くないものをもまた知らなくては善いものを知らないのであり、真でないものを知らなくては真のものを知らないからである、なぜならそのときその人間は悪と誤謬とに反抗して戦い、征服することによって、さらに強い肯定させるものの中へ入ってくるからである。さらに試練により悪と誤謬とは征服され、かくてそれらはもはや敢えて立ち上がりはしないのである、このようにして悪は誤謬とともにわきへ斥けられて、そこにぶらさがるが、しかし頭をうなだれてぶらさがるのであり、一方善は真理とともに真中にいて、情愛の熱意に従って、上の方へ、かくて天界の方へ主に向って引き上げられ、また主によって引き上げられるのである。

 

 

21.理解の事柄の方面の試練は軽いが、しかし意志の事柄の方面の試練は苛烈である

 

天界の秘義734

 

 しかしここには他の箇所のように極めて些細な言葉であっても冗漫で空虚なものは一つとしてないのである。なぜならそれは主の聖言であるからである。それ故繰返しがあれば必ずそこには他の意義が含まれているのである。そしてここでは、事実、前のように、その意義は、それが最初の試練であって、かれの理解の事柄の方面の試練であるが、しかし後ではそれは意志の事柄の方面のかれの試練であるということである。これらの試練は再生することのできる人間の許に次々に起ってくる。なぜなら理解の事柄の方面で試みられることは意志に属した事柄の方面で試みられることとは全く異なっているからである。理解の事柄の方面の試練は軽いが、しかし意志の事柄の方面の試練は苛烈である。

 

 

22.天的な試練、霊的な試練、自然的な者の試練は心労

 

天界の秘義847

 

「水は行ったり、帰ったりしながら、地から退いた。」これは真のものと誤ったものとの間の動揺を意味していることはすでに言ったことから、すなわち、ノアに関わる洪水の水は、または氾濫は試練を意味したことから明らかである、なぜならここでは試練後の最初の状態が主題となっているため、『水が行ったり、帰ったりしながら退くこと』は真理と誤謬との間の動揺以外には何ものをも意味する筈はないからであろう。しかしながらこの動揺の性質は試練の何であるかが知られない限り知られることはできないのである、なぜなら試練のいかんにその試練の何であるかが知られない限り知られることはできないのである、なぜなら試練のいかんにその試練の後の動揺が応じているからである。試練が天的なものであるときは、動揺は善と悪との間に在り、それが霊的なものであるときは、動揺は真のものと誤ったものとの間に在り、それが自然的なものであるときは、動揺は欲念に属した物と欲念に反した物との間に在る。

            

 

天界の秘義847[]

 

試練には多くの種類のものが在り、それらは全般的には天的なものと霊的なものとであって、これらは決して混同されてはならない。天的な試練は主に対する愛の中にいる者にのみ在りうるのであり、霊的なものは隣人に対する仁慈の中にいる者のもとにのみ在りうるのである。自然的な試練は全くこれらのものとは異なっており、実際は試練ではなくて、自然的な愛が不幸、病気により、または身体の血液と他の液体が悪化した状態により襲われて、そこから生まれてくる心労に過ぎないのである。この簡単な説明から試練の何であるかが、すなわち、それは何であれ、人間のいくたの愛に対抗する物により引き起される苦悶と心労であることがある程度知られることができよう。かくて主に対する愛の中にいる者にあっては、この愛を攻撃するものは、何であれ最も内なる責苦を生み、それは天的な試練であり、隣人に対する愛に、または仁慈にいる者にあっては、この愛を攻撃するものは、それが何であれ、良心の呵責を生み、これは霊的な試練である。

 

 

天界の秘義847[3]

 

しかし自然的な者にあっては、彼らが屡々試練、良心の呵責と呼んでいるものは試練ではなくて、彼らが名誉が、世の善い物が、名声が、快楽が、身体の生命とか言ったものが失われるのを予見し、知った時のように、彼らの愛が攻撃されるところから生まれてくる心労に過ぎないのであるが、それでもこれらの苦難は何かの善を常に生んでいる。試練はさらに自然的な仁慈にいる者によっても経験され、従って凡ゆる種類の異端者、異邦人、偶像教徒により経験されていて、それは彼らの抱いているその信仰の生命に攻撃が加えられることから生まれている。しかしこれらは単に霊的試練に類似しているに過ぎない苦痛である。

 

 

天界の秘義7217

 

「心の苦しさのあまり*」

 

*または『息切れがして』

 

これは、絶望に近い状態の理由により、を意味していることは、『心の苦しさ』の意義から明らかであり、それは絶望に近い状態である、なぜならこうした状態にいる者たちは心が苦しむからである。この状態はパロによりイスラエルの子孫に課せられた重荷、即ち、彼らは煉瓦を作る藁を彼ら自身で探さなければならないという重荷により意味されていることは、前章の終わりに示されたところである。心の苦しさは絶望に近い状態を意味していることは、絶望に近い状態にいる者たちは内なる心労をなめ、その時は事実息切れがするという事実から

認めることが出来る。外なる意味ではこの状態〔息切れの状態〕は胸が押さえつけられて、そのため謂わば呼吸困難に陥ることであるが、内意ではそれは信仰に属した真理と仁慈に属した善とを剥奪されるために生じる心労であって、そこから絶望に近い状態が起きるのである。(呼吸が圧迫される状態と信仰の真理と仁慈の善とを剥奪されて起きる心労とは、心における霊的な原因から生じる身体内の自然的な結果として、相互に相応していることは、前に示したことから認めることが出来よう、97、1119、3886、3887、3889、3892、3893番)。霊的な真理と善とを剥奪されると、こうした心労が生まれ、従ってこうした苦しさが生まれることは、信仰と仁慈とにいない者によっては信じられる事は出来ない、なぜならそうした者は、こうした理由で苦しむことは心が軟弱で病んでいるからであると考えるからである。その理由は、彼らは実質的なものを何一つ信仰と仁慈に置かず、それでその霊魂と天界とに属するものにも置かず、単に富と卓越することにのみ置き、かくて身体と世の事柄にのみ置いているということである。彼らはまた(以下のように)考えるのである、『信仰と仁慈とは単なる言葉でなくて何であろう。良心でさえもが何であるか。こうしたものにより苦しい思いをなめることは、人間が愚かにもその空想から作り出したものから自分の中に見るものにより、即ち、何ら存在もしていないのに、何か存在していると想像しているものにより苦しめられることと同じである。富と高い地位は私らは目で見ることが出来、またそれらはそこから提供される快楽から存在していることを私らは知っている、なぜならそれらは私らの全身をのびのびとさせ、また充分な喜びをそこにかき立てもするからである』。このように単に自然的な人間は考え、またこのように実際彼ら自身の間では話しているのである。しかし霊的な人間はそのようには考えはしないのである、なぜならこうした者たちはその霊の中に、かくてその霊に属したものの中に、即ち、信仰と仁慈の中にその主要な生命を得ており、それで自分自身が信仰と仁慈との諸真理と諸善とを剥奪されると信じると、死の苦悶をなめている者のようにも、悶えるのである、なぜなら彼らは己が前に霊的な死を、即ち、堕地獄を見るからである。前に言ったように、単に自然的な者にはこうした人物は心では弱く、病的なものであるように見えはするが、しかし彼らは強く、また健康なのであり、之に反し単に自然的な者のらは自分自身には強く健康なものであるように思われ、また〔事実〕身体の方面では強く、健康ではあるものの、霊の方面では、〔即ち〕霊的には死んでいるため、全く弱いのである。もし彼らが自分はいかような種類の霊を持っているかを見ることが出来るなら、それがそうであることを承認するであろう、が、彼らは死んでしまうまではその霊を見はしないのである。

 

 

 

 

 

23.自分自身の中に何かの悪を認めて、その悪から離れようと欲する

 

天界の秘義1580

 

「全地はあなたの前にあるではありませんか」。これは善そのものを意味していることは、善い意味における『地』の意義から、ここではカナンの地の意義から明白であり、それは天的なものであり、それでまた善である(それについては前の566、620、636、662番を参照)。ここの内なる人は外なる人に呼びかけているが、しかし外なる人の中にあって(内なる人)に一致していないものに呼びかけているのであり、それは人間が試練と争闘の中におかれた場合に実際起るように、自分自身の中に何かの悪を認めて、その悪から離れようと欲するとき行うのが常である。なぜなら試練と争闘の中におかれた者たちには以下のことは知られているからである、すなわち、彼らは自分自身の中に一致しないものを認めるのであり、争闘がある限り、そこから彼らは離れることが出来ないのであるが、それでも離れることを欲求し、ときには、悪に対して怒って、それを放逐しようと欲求するほどにもなるのである。これらがここに意味されている事柄である。

 

 

24.人間は成人期に達しない中は試練を受けない

 

天界の秘義1661[2]

 

たれ一人悪と誤謬とは何であるかを学んで知らない中は、それで教育されない中は悪と誤謬に反抗して戦うことは決して出来はしない。人間は自分の理解と判断とを十分に用いない中は悪の何であるかを知らないし、ましてや誤謬の何であるかを知らない、それが人間が成人期に達しない中は試練を受けない理由となっている、それで人間はことごとくその成人期に試練を受けるが、しかし主はその子供時代にそれを受けられたのである。

 

 

天界の秘義1661[3]

 

人間はことごとく知識を通して受けている諸善と諸真理から先ず戦うのであり、その諸善と諸真理から、またその諸善とその諸真理により悪と誤謬とについて判断するのである。人間はことごとくまた、始めて戦いはじめるとき、その者が戦う源泉と成っている諸善と諸真理とは彼自身のものであると考えるのであり、すなわち、それらのものを彼自身に帰すると同時に、彼がそれによって抵抗する力も彼自身に帰してしまうのである。このこともまた許されている、なぜならその人間はその時はそのようにしか考えることは出来ないからである。人間は再生しない中は、善と真理とは些かも彼自身からは発していないことを、また善と真理とはことごとく主から発しており、彼自身の力ではいかような悪にも誤謬にも抵抗することが出来ないことを到底知ることは出来ないし、それでそのことを彼は知り、承認し、信じていると言うことは出来ないのである、なぜなら彼は悪霊が諸々の悪と誤謬とを刺激し、それらを注ぎ入れていることを知っていないし、まして彼は彼が悪霊により地獄と交流しており、地獄は海が堤の凡ゆる部分に押し寄せているようにも彼に押し寄せており、たれ一人その地獄の圧迫には彼自身の力によっては決して抵抗することが出来ないことを知っていないからである。しかし人間は再生しない中は彼は彼自身の力により抵抗すると想像しない訳にはいかないため、このこともまた彼に許されており、かくて彼は争闘または試練に入れられるが、しかし後に彼は益々明るくされて行くのである。

 

 

天界の秘義1661[4]

 

人間が善と真理とは彼自身のものであると想像しているといった状態の中にいるときは、その者が悪と誤謬とに反抗して戦う源泉である善と真理とは、善と真理のように見えるけれども、善と真理ではない、なぜならそれらのものの中には彼自身のものであるものがあり、彼は自己の功績を勝利の中に置き、悪と誤謬を征服した者は自分であるかのように誇るが、戦って、征服するのはただ主のみであるからである。それが真に真実であることは、試練により再生しつつある者を除いては、何人も知ることができないのである。

 

 

天界の秘義1661[5]

 

主はその子供時代の最初期に諸々の悪と、諸々の誤謬とに反抗する最も痛ましい争闘に入れられたもうたため、主もまた当時それ以外のことを想像したもうことはできなかったのであるが、これは主の人間的な本質が神的な本質へ導入されて、不断の争闘と勝利とによりそれに結合されることが神的秩序に順応していたためであったのみでなく、主が諸々の悪と諸々の誤謬とに反抗して戦われた源泉である諸々の善と諸々の真理とは外なる人のものであったためでもあったが、それでこうした善と真理とはことごとく神的なものでなかったため、それでそれらは善と真理との外観と呼ばれているのである。主の神的な本質はその人間的な本質を、それがそれ自身の力から征服するためにこのように導入したのである。しかしここには到底書き記すことのできないアルカナがあるのである。約言すると、最初の争闘にあっては、主がそこから争闘されたところの、主における諸々の善と諸々の真理には、母から遺伝したものが浸透していたのであり、そしてそれらのものに母から遺伝したものが浸透している限り、それらのものは神的なものではなかったのであるが、しかし徐々に、主が悪と誤謬とを征服されるにつれ、それらのものは清められて、神的なものにされたのである。

 

25.何人も試練のいかようなものであるかをその中にあった者を除いては知ることはできない

 

天界の秘義1661[4]

 

人間が善と真理とは彼自身のものであると想像しているといった状態の中にいるときは、その者が悪と誤謬とに反抗して戦う源泉である善と真理とは、善と真理のように見えるけれども、善と真理ではない、なぜならそれらのものの中には彼自身のものであるものがあり、彼は自己の功績を勝利の中に置き、悪と誤謬を征服した者は自分であるかのように誇るが、戦って、征服するのはただ主のみであるからである。それが真に真実であることは、試練により再生しつつある者を除いては、何人も知ることができないのである。

 

 

天界の秘義1690[2]

 

福音書における主の生命[生活]の聖言の中には、荒野における主の試練を除いては、最後の試練以外には何一つ記されてはいない。それ以上のものは弟子たちに明らかにされなかったのである。明らかにされた事柄は文字の意義ではほとんど言うに足りないものであるほどにも軽微なものに思われている、なぜなら主の試練はいかような人間にも決して把握されることも信じられることもできないほどに苛烈なものであったにも拘らず、そのように語り、また答えもすることは何ら試練ではないからである。何人も試練のいかようなものであるかをその中にあった者を除いては知ることはできないのである。マタイ伝4・1−11、マルコ伝1・12、13、ルカ伝4・1−13に述べられている試練は凡ゆる試練を要約して含んでいるのである、すなわち主は全人類に対する愛から地獄に満ちている自己と世への愛と戦われたのである。

 

 

天界の秘義1717[3]

 

外なる人がいくたの試練の争闘なしに内なる人に相応するようになることができると想像する者は誤っている、なぜなら試練はいくたの悪と誤謬とを消散させる方法であり、また同じく諸善と諸真理とを導き入れ、外なる人にぞくしたものを服従にいたらせる方法であり、かくてそれは[外なる人は]内的なまたは合理的な人に仕え、またそのことを通して内なる人に仕えることができるのであり、すなわち、内なる人を通して働かれつつある主に仕えることができるからである。これらの事柄が試練により行われることはいくたの試練を通して再生している者以外には何人も知ることはできないのである。しかしいかようにしてこれが為されるかは、最も全般的にさえもほとんど記すことはできない、なぜならそれは人間が何処からまたいかようにして為されるかを知ることなしに為されるからである、なぜならそれは主の神的な働きであるからである。

 

 

天界の秘義1917

 

 「エホバがわたしとあなたの間をさばかれますように。」これは主の憤慨を意味していることは、今し方言われたことから明白であり、それで説明を要しない。これらの事柄についてはこれ以上の考えを、いくたの試練の争闘の中にあった者たちを除いては、たれ一人持つことは出来ない。試練にあっては剥奪と荒涼とがあり、絶望の状態があり、そこから発してくる悲哀と憤激の状態があり、さらに他の内的な苦痛に満ちた情緒があり、しかもそれは悪い魔鬼と霊とによりかき立てられるところの、またそれに反抗して争闘が行われるところの悪と誤謬のいくたの状態に応じて変化し、交互しているのである。悪魔的な霊どもは何かの誤謬を見つけ出すことにまさって求めるものは何一つなく、事実かれら自身から誤謬を引き出すと同時に、それを非難の主題とすることがかれらには共通しているのである。ここから主の憤激は非常なものであられ、主の最初の合理的なものの中には誤謬はなくて、それ自身では真のものではない真理の外観があったのである(このことは前の1661、1911の終りに述べられたところである)。

 

 

天界の秘義2694[2]

 

 改良されつつある者たちは真理の無知[真理に対する無知]、または荒涼[荒れすさぶこと]の中に陥り、悲哀と絶望にすら陥るが、その時になって初めて主から慰安と助けとを得ることは、現今では僅かな者しか改良されはしないという理由から知られてはいない。改良されることが出来るようなものである者はもし身体の生命の内でこの状態に入れられないなら、それでも他生でその状態に入れられるのであって、この状態は他生では良く知られており、剥奪または荒廃と呼ばれている。このような剥奪または荒廃の中にいる者は絶望にすら陥るが、彼らがこの状態の中にいる時、主から慰めと救いとを得て、遂には天界に挙げられ、そこで天使たちの間に謂わば新しく信仰の幾多の善と真理とを教えられるのである。この剥奪と荒廃の理由は主として、彼らが彼ら自身のものであるものからみごもった[はらんだ、考えついた]説得的なものが破壊されるためであり(2682番参照)、また彼らが善と真理との認識を[善と真理とを認識することを]受けるためでもあり、その善と真理との認識を彼らは彼ら自身のものであるものから発している説得的なものが謂わば柔らげられてしまわないうちは受けることが出来ないのである。このことが絶望にすら至る心労と悲哀の状態により行われるのである。善いものは、否、祝福された幸福なものは、たれ一人その者が善くない、祝福されない、幸福でないものの状態の中にいた経験がなくては、精妙な感覚をもって認識することは出来ないのである。そのことから[そうした経験から]彼は認識のスフィアを得るが、しかもそれはその者がその対立した状態の中にいた度に応じているのである。認識のスフィアとその範囲の拡がりとは対照したものを身を以て知ることから生まれている。これらが、剥奪または荒廃の原因であるが、その他多くのものがある。

 

 

 

26.試練の中にいる者は地獄の中にいる

 

天界の秘義1691[5]

 

ヨナ書には―

 

  水はわたしをめぐって、魂にさえも達し、深淵はわたしをとりかこみ、海草はわたしの頭を包んだ、わたしは山のねもとにまでも下った、地のかんぬきはいつもわたしの上にあった、それでもあなたはわたしの生命を坑から救い上げられた、ああ、わたしの神、エホバよ(2・5、6)

 

 主の地獄に対する試練がヨナにより、かれがその大きな魚の腹の中にいたとき、このように予言的に記されているのである。聖言の他の記事にも、とくにダビデの書にも同じようにそのように記されている。試練の中にいる者は地獄の中にいるのであって、場所は地獄の中にいることに何ら関係していないで、ただ状態がそれに関係しているのである。

 

 

27.そしてかれは凡ての財産をとりかえした

 

天界の秘義1717

 

 「そしてかれは凡ての財産をとりかえした」。これは内的な人が外なる人における凡てのものを(内的な人に)順応した状態に至らせたことを意味していることは、『凡ての財産をとりかえすこと』の意義から認めることができよう。ここの『財産』は前に記したことの中に話されたように、ケダラオメルが、また彼とともに王たちが彼らの敵から取ったものである。ケダラオメルが、また彼とともに王たちが彼らの敵から取ったものである。ケダラオメルと彼とともにいた王たちにより外的な人の諸善と諸真理とが意味されている。かれらがその敵から取り上げた財産はその敵が悪を行い、誤謬を考える力を奪われること以外の何ものでもなかったのであり、そのことが[その敵が悪を行い、誤謬を考える力が]ソドムとゴモラとの富により意味され、またかれらの取った凡ゆる食物によっても意味されたのである。(そのことは前の11節にとり扱われている)。

 

[2]この事柄は僅かな言葉では示すことができないような性質をもっているが、しかしここに以下に記されていることによってそれについて若干知ることができよう。試練の争闘の中にいて、征服する者は、悪霊を支配する、または悪魔の一味を支配する力を益々自らに取得して、ついにはかれらは些かも敢えて試みようとはしなくなるのである。しかし勝利が得られる度毎に、主は争闘が行われた源泉である諸善と諸真理とを秩序づけられ、またかくてその度毎にそれらは浄められるのであり、そして浄められるに正比例して、愛の天的なものが外的な人の中へ徐々に注ぎ入れられて、相応が行われるのである。これらが凡ゆる財産をとりかえすことにより意味されている事柄である。

 

[3]外なる人がいくたの試練の争闘なしに内なる人に相応するようになることができると想像する者は誤っている、なぜなら試練はいくたの悪と誤謬とを消散させる方法であり、また同じく諸善と諸真理とを導き入れ、外なる人にぞくしたものを服従にいたらせる方法であり、かくてそれは[外なる人は]内的なまたは合理的な人に仕え、またそのことを通して内なる人に仕えることができるのであり、すなわち、内なる人を通して働かれつつある主に仕えることができるからである。これらの事柄が試練により行われることはいくたの試練を通して再生している者以外には何人も知ることはできないのである。しかしいかようにしてこれが為されるかは、最も全般的にさえもほとんど記すことはできない、なぜならそれは人間が何処からまたいかようにして為されるかを知ることなしに為されるからである、なぜならそれは主の神的な働きであるからである。

 

 

28.試練は世から来る迫害であり、内なる試練は悪魔からくる迫害である

 

天界の秘義1846[]

 

 外なる試練は世から来る迫害であり、内なる試練は悪魔からくる迫害である。

 

 

29.現今何らかの霊的な試練に入れられる者は殆どいない

 

 

天界の秘義7090〔4〕

 

 ここから霊的な教会は『闘う』ものと呼ばれなくてはならないのである。しかし今日ではそれは世の何人のもとでもめったに闘う教会とはなっていないのである、なぜなら教会の人間は、世で生きている間は、悪い者の群の真中に置かれているため、また弱い肉の中に置かれているため、争闘に堪えることは出来ないからである。他生では人間は良心の絆の中に堅く留められることが出来るが、しかし世ではそれは不可能である、なぜならもし彼が、争闘に置かれている者の常として、何か絶望状態に入れられると、彼はすぐにその絆を破ってしまい、もしそれを破るなら、その時は降伏し、もしそのように降伏するなら、その救いは絶望となるからである。ここから今日の教会の中では僅かな者しか真理のために誤謬に反抗する争闘に主により入れられることを許されていないのである。この争闘は霊的な試練である。(低地とそこにおける剥奪について前に示したことを参照されたい、4728、4940−4951、6854番)。

 

 

新エルサレムの教義193

 

現在仁慈はないため、信仰も稀であるので―なぜなら教会はその終わりにあるから―現今何らかの霊的な試練に入れられる者は殆どいない。かくてそれはいかようなものであるか、またそれはいかようなことに役立っているかは殆ど知られていない。

 

 

新エルサレムの教義197

 

 それで現今では霊的試練に入れられる者は極めて僅かしかいない(8965番)。

 

 

30.善と真理との連結は試練により遂行される

 

天界の秘義2272

 

「かれは言った、恐らく四十人がそこに見出されるかもしれません」。これは試練の中におかれた者たちを意味していることは四十という数字の意義から明白であり、それは試練である(そのことは第一部730番に説明した)。これらの事柄はいかように連続しているかは試練から認めることができよう。試練は人間が真理を確認するためのみでなく、真理が善にさらに密接に連結するために起きるのである、なぜなら人間はそのとき誤謬に反抗して真理のために戦っており、かれはそのとき内的に苦しめられ、責められるため、欲念の生命の歓喜とそこから派生してくる快楽とは、止んでしまい、そしてそのとき善が主から流れ入り、その結果、それと同時に悪は嫌忌すべきものとして認められ、その結果前に持っていた思いに反した性質の新しい思いが生まれ、そうした思いにその後かれは向けられ、かくて悪から善へ向けられ、そしてこの善は真理に連結することができるからである。そして善と真理との連結は試練により遂行されるため、また前の節には、そのもとで善が真理に連結されることのできる者が救われるであろうと言われているため、それでここに言われていることが続いて言われており、実に善と真理とは試練により連結されることができることを意味しているといった言葉を用いて言われているのである。このように内意の中にいる者たちのために主題の内容が関連づけられているのである。

 

 

31、試練に何らかの功績を置く者はその試練のために救われはしない

 

天界の秘義2273

 

わたしは人間はもし試練に何らかの功績を置くならば、その者はその試練のために救われはしないとすら言いたいのである、なぜならもしかれがそうしたことを行うならば[もしかれが試練に功績をおくなら]それは以下の点で自己愛から発しているからである、すなわち、かれはその試練のために自分自身を祝って、自分は他の者以上に天界に価しているものであると信じると同時に他の者を自分に比較して軽蔑することにより自分自身が他の者よりも遥かに卓越しているものと考えるのであるが、こうしたことのすべては相互愛に反しており、それで天界の祝福にも反しているのである。

 

[]人間が試練の中におかれて征服するさい、その試練には他の者はすべて自分自身よりも価値があり、自分は天界的なものであるよりはむしろ奈落的なものであるという信念が伴っているのである、なぜなら試練におかれている間にはこうした観念[考え]がかれに示されるからである、それで試練の後でかれがこうした考えに反した考えを持つようになるときは、それはその者が勝利を得てはいない[征服してはいない]ことを示しているのである、なぜならその人間が試練の中でもった思考「考え」は、その思考[考え]に向って、その人間が試練の後で持つ思考[考え]がたわめられることができるものであり、もし試練の後の思考が試練の中の思考に向ってたわめられることができないなら、その人間はその試練の中で敗北したか、または再びそれに類似した試練に入れられ、ときとしてはそれよりもさらに甚しい試練に入れられて、ついには自分は何物にも価してはいないことを信じるといったまともな考えを抱かせられるか、その何れかであるからである。ここから『四十人』によりここでは試練によりその者のもとで善が真理に連結している者たちが意味されていることが明白である。

 

 

32.ルイザ・ピッカレータ

 

ルイザ・ピッカレータ/被造界の中の神の王国/1巻P33

 

そうです。まさしくそのためにこうするのです。わたしなしでは、あなたは何者であるかということを、よくあなたに分からせるために。悲しまないで下さい。わたしはあなたのよりよい善のためにこうするのですから。あなたに施そうとわたしが確保してある新しい恵みを受けるために、あなたの心をこのようにして準備したいからなのです。今まであなたを目に見える形で助けてきました。これからは見えない形で、自分が無であるということにあなたを触れさせ、さらに深い謙遜へとあなたを分け入らせ、あなたによって実現しようとわたしが意図している高い城壁をあなたの上に築くために、もっともすぐれたわたしの恵みをあなたに注ぐでしょう。ですから悲しむ代わりにわたしに感謝し、わたしと喜びをともにするための理由としなくてはなりません。この嵐の海を早く渡らせてあげたら、それだけあなたは早く救いの港に着くことができるのです。あなたに服させる試練がきびしければきびしいほど、より多くの恵みを与えましょう。でうから勇気を出して。苦しみの中のあなたを慰めるために間もなく来てあげましょう。

 

 

ルイザ・ピッカレータ/被造界の中の神の王国/1P47

 

彼らがあなたの力以上にあなたを試すことを、わたしは決して許さないということを知っておきなさい。それにわたしは、霊魂が自分を失うようにさせるために悪魔たちと戦わせるようなことは決してしないということも、もう一度覚えておきなさい、事実、わたしはまず彼らの力をよく計り、わたしの効果ある恵みを与え、それから彼らを苦しい戦いに導き入れます。万一、時にどれかの霊魂が落伍するような時でも、それは決してわたしの恵みの不足のために起こるのではなく、その人が絶え間ない祈りによってわたしとの一致を保つことを望まなかったからです。それを望まない霊魂はわたしだけが人間の心を満たし、満足させることができるということを考えずに、見失ったわたしの愛を人間に求めて頼っていったからなのです。または霊魂が自分の判断を信じ、自分の考えのほうが自分を導いてくれる人のそれよりももっと正確で、均衡のとれたものであると傲慢にも信じて、従順の確かな道から非常に逸れてしまったからです。

 

 

33.マリア・ワルトルタ

 

マリア・ワルトルタ/イエズスに出会った人々3./P336

 

「けれども病気、死、災い、悲惨な出来事が続き、皆に見捨てられる時、信、望、愛を忘れず、『いとも高き御方の望みが実現されますように。今起きていることは私にとって有益です』と変わらず言える人こそ、まことに言うが、神の助けを受けるに値するのみならず、神の国での住まいが用意され、もはや清めを必要としない。」

 

 

トマス・ア・ケンピス/キリストに倣いて/2・11・2

 

けれども自分の慰めのためでなく、イエズスのおんためにイエズスをお愛しする者はつらい悲しいことや心配のある時でも、この上ない慰めをいただいている時と同様に、かれを賛美するのである。

 そしてたといかれが少しも慰めを与えようとなさらずとも、いつもかれを賛美し、かれに感謝しようとするのである。

 

 

34.あらゆるものは主の慈悲から発していることを試練により学ぶ

 

天界の秘義2334

 

試練にはことごとく主の現存[臨在]と慈悲について、また救いといった事柄について多少の疑惑がもたれるのである、なぜなら試練の中にいる者は内的な不安の中にいて、絶望にすら陥るからである、その中にかれらの大半が留めおかれるのはかれらがついには以下の事実を確認するためである、すなわち、あらゆるものは主の慈悲から発しており、かれらは主のみにより救われるのであり、かれら自身には悪意外には何ものも存在していないということであり、そのことをかれらは試練により、すなわち、その中で征服することにより確認するのである。試練の後でその試練から真理と善の多くの状態が残り、その状態へかれらの思いがその後主によりたわめられる[向けられる]のであるが、もしそうでないならその思いは狂った事柄に突入して、その心を真で善いものに対立したものへ引きずりこんでしまうのである。

 

 

35.その者が心をひきよせられるものによらなくては試練を受けはしない

 

天界の秘義2818[2]

 

 主が世に来られて死の苦しみを受けられるということが最古代教会から知られていたことは、異邦人の間に、自分の息子を生けにえにする習慣が全般的に行われていたという事実から明白である、かれらは自分たちはそのことにより清められ、神と宥和ができると信じたのである、もしかれらが、神の子が来られて、かれらが信じたところでは、生けにえとなられるということを古代人から学んでいなかったかぎり、かれらはその憎むべき習慣にかれらの最も重要な宗教的な行事を置かなかったであろう。この憎むべきことへイスラエルの子孫さえも心を動かされ、アブラハムもまた心を動かされたのである。なぜならたれ一人その者が心をひきよせられるものによらなくては試練を受けはしないからである。ヤコブの子孫もまたそのように心を動かされたことは予言者の書に明白である。しかしかれらがそのような憎むべきことに突進しないように、燔祭と生けにえとを設けることが許されたのである(922、1128、1241、1343、2180番参照)。

 

 

36.霊的な試練は内的な人のものである良心に働きかける

 

天界の秘義4249

 

善が先在的な位置に立って、善自身に諸真理を服従させつつあるときは―そのことはその人間が霊的な試練を受けつつある時起るのであるが―そのとき内から流れ入ってくる善は、かれの内的な人の中に貯えられている非常に多くの真理を伴っているのである。これらの真理は、善が主役を演じるまではその心に認められはしないし、また把握もされはしないのである、なぜなら善が主役を演じると、そのときは自然的なものは善により明るくされはじめ、そこから自然的なものにおけるいかようなものが一致しているか、またいかようなものが一致していないかが明らかとなり、そこから霊的な試練に先行している恐怖と苦痛とが生まれるからである。なぜなら霊的な試練は内的な人のものである良心に働きかけるのであり、それでその人間がこの試練に入ると、かれはどこからこうした恐怖と苦悩が来るかを―かれとともにいる天使たちはそれを良く知ってはいるものの―知りはしないからである、なぜなら試練は悪霊たちがその人間を悪と誤謬との中に留めおいている一方では天使たちがその人間を善と真理との中に留めおいていることから生まれるからである。

 

 

37.善が主役を演じはじめるとき試練が来る

 

天界の秘義4341

 

善が真理と連結することはすべて試練を通しておこなわれるため、それでここに意味されているものは試練の状態である。(善は試練を通して真理と連結することについては2272、3318番を参照、善が主役を演じはじめるとき試練が来ることについては、4248、4249番を参照、また主の神的な本質がその人間的な本質と結合したことは試練を通して行なわれたことについては、1737番を参照)。

 

 

38.悪霊を追い出す時、存在する霊的試練

 

啓示による黙示録解説639

 

『試練』によりここでは、主に対する信仰を持ち、主の戒めに従って生きている者たちのもとに、その者たちがその者たちの欲念と一つのものとなって活動しているところの、その者たちのもとにいる悪霊を追い出す時、存在する霊的試練が意味されている。これらの試練が以下の『十字架』により意味されている―

 

 己が十字架を取らないで、わたしに従う者は、わたしにふさわしくはない(マタイ10・38)。

 イエスは言われた、たれでもわたしに従って来ようとするなら、自分自身を否定し、、その者の十字架を取って、わたしに従わなくてはならない(マタイ16・24、ルカ9・23−25、14・26、27)。

 

またパウロの『肉を十字架につけること』によっても意味されている―

 

 キリストのものである者たちはその肉をその情欲と欲念とともに十字架につける(ガラテヤ5・24)。

 

己が魂を苦しめ、己が肉を十字架につけ、試練を受けた者たちが『死んだ者』により意味されている理由は、そのことにより彼らは己が以前の生命を苦しめ、そのため世の前ではいわば死んだ者のようになっているためである、なぜなら主は以下のように言われているからである―

 

 一粒の麦が地に落ちて死ななくては、ただ一つのままに止まるが、しかしもしそれが死ぬなら、多くの果を結ぶのである(ヨハネ12・24)。

 

ヨハネ伝の『死んだ者』によってもまたそれ以外の者は意味されてはいない―

 

 イエスは言われた、父が死んだ者をよみがえらせて、生かされるように、子もその欲する者を生かすのである(ヨハネ5・21)。

 

同書に―

 

 イエスは言われた、死んだ者が神の子の声を聞いて、生きる時が来る(ヨハネ5・25)。

 

また『死人のよみがえり』(ルカ14・14、黙示録20・5、12、13)によっても、他の所でもそのことが意味されている。前(106番)を参照されよ。ダビデの書には―

 

 エホバの目にはその聖徒たちの死は貴い(詩篇116・15)。

 

 イエスはまた言われた、わたしのためにその魂を失う者は、それを見出すでしょう(マタイ10・39、16・25、ルカ9・24、25、17・33、ヨハネ12・25)。

 

 

39.その善良な者の悪に結合することにより為される

 

神の摂理19

 

しかし彼は善良な者を些かも害することは出来ない、もし彼が時折起ることではあるが、善良な者に害を加えるならば、それはその善良な者の悪に結合することにより為されるのである。これが人が自分に付き添っている悪霊により試みられ、苦しめられる原因であり、この試みと苦しみが争闘を生み、そのことにより、善良な者はその悪から自由にされることが出来るのである。

 

 

40.主御自身はそのとき試練におかれている者たちのもとに直接に現存[臨在]されているのみでなく、また天使たちにより間接的にも現存され

 

天界の秘義6574

 

他生では主は奈落の霊どもが善良な者を試練に引き入れることを許され、従って悪と誤謬とを注ぎ入れることを許されているが、悪霊らはまたそのことを力を尽くして行っているのである、なぜなら彼らはそれを行っている時は、その生命と歓喜の中にいるからである。しかし主御自身はその時試練におかれている者たちのもとに直接に現存[臨在]されているのみでなく、また天使たちにより間接的にも現存され、奈落の霊らの誤謬を反駁することにより、その悪を消散させることにより、かくて活気と希望と勝利を与えられることによって抵抗されるのである。かくて善の諸真理の中にいる者たちのもとには、信仰の諸真理と仁慈の諸善とはさらに内的に植え付けられ、またさらに強く確認されるのである。これが霊的な生命を与えられる手段である。

 

 

天界の秘義7195

 

彼らが試練の状態の中では教会の神的な事柄について考えなかったその時にも連結が存在したのであるが、なぜなら主は、試練の状態の中では、その状態の中にいない時よりも、更に現存されておられるからである―例え外観ではそのようには見えないにしてもそのように現存されているのである(840番)。

 

 

 

41.善がそこから生まれるという目的がないなら、すなわち、試練におかれている者たちのもとに真理と善とが形作られて、強められるという目的がないなら、主は彼らには許されはしない

 

天界の秘義6574[2]

 

この凡てからこの節の言葉の内意に意味されていることが明白である、すなわち、試練をもたらす霊共のように、真理と善から離反している者らは悪以外には何ごとも意図しないが、しかし神的なものはそれを善に変えられ、しかもそのことは永遠から秩序に順応しており、そこから善の真理の中にいる者たちに生命が発しているのである。なぜならこのように善良な者を悩ますことを許されている奈落の霊どもは悪以外には何ごとも意図しないことを知られたい、なぜなら彼らはその全力を尽して彼らを天界から引きずり下ろして、地獄に投げ込もうと欲しているからである、それは凡ゆる者の霊魂を破壊することが彼らの生命の歓喜そのものであるためである。しかしいかように小さいものでも、善がそこから生まれるという目的がないなら、すなわち、試練におかれている者たちのもとに真理と善とが形作られて、強められるという目的がないなら、主は彼らには許されはしないのである。全霊界を主から発生している目的が支配しているが、それはいかようなものであっても、最小のものでさえも、善がそこから生まれることが出来ない限り、何一つ生じないということである。ここから主の王国は目的と用との王国と呼ばれている。

 

 

42.ヴァッスーラ

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/4巻P141

‘90・4・13

 

主よ? 心を虜にして下さい。

 

そうさせてくれるなら、そうする。 ♡ その余地を与えなさい。 愛している。 メッセージが知られるようになるのは私を通してだと分かっているか。 すべての扉の鍵を握っている。 妨げがある時は 我が栄光のためにそれを許したと覚えておきなさい。 明敏な心くばりで我がわざに接しなさい 同じことを穀粒を蒔くように選んだすべての人にも求める、望むように行わない者たちは他の人に置き換えられよう。 蛇のように聡く しかし鳩のように素直であるように。 誰も怖れてはならない。 危険に対しては警戒していなさい。 互いに打ち明け、分かち合いなさい。 皆で我が愛のうちに留まっていなさい。 覚えておくように あなたのほうから私を見い出したのではない、あなたを選んで形造り、変容させ 熱心にさせたのは私です、一人ひとりに務めを課したが 出て行って実を結ぶためである。 この仕事にあなたを任命したのは私です ♡ 愛している それで最後まで導こう。 最後まで屈せずに努力しなさい。 サタンに足掛かりを与えないように 眠ってはいけない、目覚めていなさい。 必要なら休みを取るがよい しかし我がわざを疎かにはしないように、できるすべてを尽くすなら あとは私が行おう。 私は扉であり 私を通らなければ誰も我が王国には入れない。

 

どうぞ 主よ、話しかけられておられる人びとの名を仰って下さい。

 

ヴァッスーラ、みことばを運ぶ人は皆我が光を運んでいる、私が彼らを選んだが 自分がどのような者かを皆知っている ♡ あなた方皆を、我がメッセージをひろめる者を 祝福する。 ヴァッスーラ、我が仔羊よ、あなたはいつも弱い者だった だからこそ選んだのです、弱さは私を引きつける。 ♡ 我が力は弱さのうちに一番発揮される。 試練はたえずあろう、しかしこれらは成長するために与えられている、あなたに強くあってほしい、賢明さをもって 困難に立ち向かえるようになってほしい。我が誉れとなってほしい ♡

 

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/5巻P153

 

「絶え間なく祈りなさい。私と会話し、与えているすべてを感謝し、

しばしば祝福してほしい。常に試練はあろう。これは、まこと愛す

る者よ、あなたを成長させるためです。私にたいする望み、渇きを

かき立てたい そして ああ・・・霊魂を完成させるためなら し

ないことがあろうか! 霊魂の完成には 死にそうなほど鞭打たせな

ければならないとしても、救いのために、ためらわず そうする。」

 

 

 

 

43.身体の生命の中でそれを受けない者は、もしその者が再生することが出来るならば、他生でそれを受ける

 

天界の秘義1692

 

 試練は、または試練の争闘はいかようなことを遂行するかは殆どたれ一人知ることは出来ない。それは幾多の悪と誤謬とが破壊され、消散される手段であり、またそれにより悪と誤謬とに対する恐怖が生まれてくる手段であり、それにより良心が与えられるのみでなく、また強固にもされ、かくしてその人間は再生するのである、それが再生しつつある者が争闘に入れられて、試練を受ける理由であり、身体の生命の中でそれを受けない者は、もしその者が再生することが出来るならば、他生でそれを受けるのであり、そうした理由から主の教会は戦闘の教会と呼ばれている。しかし主のみが御自身の強さによりまたは御自身の力により試練の中でも最も残酷な争闘に堪えられたのである、なぜなら主は凡ゆる地獄に包囲されたもうて、絶えずそれらを征服されたからである。

 

 

44.かつれて

 

天界の秘義6829

 

しかしその人間が試練から出て来ると、その時は光はその霊的な熱と共に、即ち、真理はその善と共に現れ、そこから彼は心労の後で喜びを得るのである。これが他生で夜に続いている朝である。善がその時認められ、真理が現れる理由は、試練の後で善と真理とは内部に浸透して、そこに根を張るということである。なぜなら人間が試練を受けている時は、彼は謂わば善に飢え、真理に渇いており、それで(試練から)出て来る時は、飢えた人間が食物をむさぼり食うように善を吸引し、渇いた人間が飲み水を飲むようにも真理を受けるからである。更に神的なものから光が現れると、幾多の誤謬と悪とは遠ざけられ、そしてこれらのものが遠ざけられると、真理と善とが更に内的に浸透する道が開かれるのである。これらが、試練の後で愛の善が主からその真理と共に現れてくる理由である。試練の暗さと心労との後に、輝きと喜びとが現れてくることは他生の凡ての者に知られている、なぜならそれはそこでは普通の出来事となっているからである。

 

 

45.試練に堪えた後で、真に教会となる

 

天界の秘義6658

 

人間が情愛から善を為す時、教会は実際彼のもとに新しく設立されたのではあるが、しかしそれでもそれは、彼が悪と誤謬との対して戦わない中は、かくて彼が試練に堪えない中は、充分に新しく設立されてはいないのである、即ち、彼は試練に堪えた後で、真に教会となり、その時天界へ入れられるのであり、そのことはイスラエルの息子たちがカナンの地へ入れられたことにより表象されているのである。

 

 

 

46、試練は絶望にまで至る

 

天界の秘義7166

 

なぜなら神的なものから発している法則は秩序の法則であり、そして誤謬から取り憑かれて悩まされている状態にいる者たちに関わる秩序の法則は、彼らは絶望するまでも取り憑かれて悩まされねばならないのであり、そして彼らが絶望するまでも取り憑かれて悩まされない限り、その取り憑かれて悩まされることの用の最高のものは欠けるということであるからである。試練は絶望にまでも増大することはゲッセマネにおける主の試練から極めて明白であり(マタイ26・38、39、マルコ14・33−36、ルカ22・44)、また後には十字架上におけるその試練からも明白であり(マタイ27・46)、即ち、それは絶望の状態に至るまでも行われたのであり、そして主の試練は忠実な者たちの試練の型であり、それで主はたれでも主に従おうと願う者は自分の十字架を取らなくてはならないと言われているのである(マタイ10・38、16・24)、なぜなら主の栄化は人間の再生の型であり(3138、3212、3296、3490、4402、5688)、再生は主として試練により遂行されるからである。

 

 

45.霊的な者の心労

 

天界の秘義7217

 

「心の苦しさのあまり*」

 

*または『息切れがして』

 

これは、絶望に近い状態の理由により、を意味していることは、『心の苦しさ』の意義から明らかであり、それは絶望に近い状態である、なぜならこうした状態にいる者たちは心が苦しむからである。この状態はパロによりイスラエルの子孫に課せられた重荷、即ち、彼らは煉瓦を作る藁を彼ら自身で探さなければならないという重荷により意味されていることは、前章の終わりに示されたところである。心の苦しさは絶望に近い状態を意味していることは、絶望に近い状態にいる者たちは内なる心労をなめ、その時は事実息切れがするという事実から

認めることが出来る。外なる意味ではこの状態〔息切れの状態〕は胸が押さえつけられて、そのため謂わば呼吸困難に陥ることであるが、内意ではそれは信仰に属した真理と仁慈に属した善とを剥奪されるために生じる心労であって、そこから絶望に近い状態が起きるのである。(呼吸が圧迫される状態と信仰の真理と仁慈の善とを剥奪されて起きる心労とは、心における霊的な原因から生じる身体内の自然的な結果として、相互に相応していることは、前に示したことから認めることが出来よう、97、1119、3886、3887、3889、3892、3893番)。霊的な真理と善とを剥奪されると、こうした心労が生まれ、従ってこうした苦しさが生まれることは、信仰と仁慈とにいない者によっては信じられる事は出来ない、なぜならそうした者は、こうした理由で苦しむことは心が軟弱で病んでいるからであると考えるからである。その理由は、彼らは実質的なものを何一つ信仰と仁慈に置かず、それでその霊魂と天界とに属するものにも置かず、単に富と卓越することにのみ置き、かくて身体と世の事柄にのみ置いているということである。彼らはまた(以下のように)考えるのである、『信仰と仁慈とは単なる言葉でなくて何であろう。良心でさえもが何であるか。こうしたものにより苦しい思いをなめることは、人間が愚かにもその空想から作り出したものから自分の中に見るものにより、即ち、何ら存在もしていないのに、何か存在していると想像しているものにより苦しめられることと同じである。富と高い地位は私らは目で見ることが出来、またそれらはそこから提供される快楽から存在していることを私らは知っている、なぜならそれらは私らの全身をのびのびとさせ、また充分な喜びをそこにかき立てもするからである』。このように単に自然的な人間は考え、またこのように実際彼ら自身の間では話しているのである。しかし霊的な人間はそのようには考えはしないのである、なぜならこうした者たちはその霊の中に、かくてその霊に属したものの中に、即ち、信仰と仁慈の中にその主要な生命を得ており、それで自分自身が信仰と仁慈との諸真理と諸善とを剥奪されると信じると、死の苦悶をなめている者のようにも、悶えるのである、なぜなら彼らは己が前に霊的な死を、即ち、堕地獄を見るからである。前に言ったように、単に自然的な者にはこうした人物は心では弱く、病的なものであるように見えはするが、しかし彼らは強く、また健康なのであり、之に反し単に自然的な者らは自分自身には強く健康なものであるように思われ、また〔事実〕身体の方面では強く、健康ではあるものの、霊の方面では、〔即ち〕霊的には死んでいるため、全く弱いのである。もし彼らが自分はいかような種類の霊を持っているかを見ることが出来るなら、それがそうであることを承認するであろう、が、彼らは死んでしまうまではその霊を見はしないのである。

 

 

 

46.信仰は霊的な教会に属している者たちには試練によらなくては到底植え付けられることは出来ない

 

天界の秘義8351

 

信仰は霊的な教会に属している者たちには試練によらなくては到底植え付けられることは出来ないのであり、かくてまた仁慈も植え付けられることは出来ないのである、なぜなら試練においてその人間は誤謬と悪と戦うからである。

 

 

47.人間は一つの試練によっては再生されないで、多くの試練により再生する

 

天界の秘義8403〔2〕

 

 人間の再生について教えられていない者らは人間は試練も無しに再生することが出来ると考えており、或る者は人間は一つの試練に堪えた時再生したのであると考えている。しかし試練が無くてはたれ一人再生しないのであり、多くの試練が次々に続いて起ってくることを知られたい。その理由は再生は古い人の生命が死んで、新しい天界の生命が植え付けられるために起るということであり、そのことは戦いが必然的に起らなくてはならないことを示している、なぜなら古い人の生命は抵抗して、消滅されようとは欲しないし、新しい生命は古い人の生命が消滅してしまったところ以外には入ることは出来ないからである。そこから両方の側に戦いが起り、この戦いは生涯続くため、激しい戦いであることが明白である。

 

 

 

天界の秘義8403〔3〕

 

 明るくされた理性から考える者は、このことからたれ一人戦いが無くては、即ち、霊的な試練が無くては、再生することが出来ないことを認め、また人間は一つの試練によっては再生されないで、多くの試練により再生することを見、認めることが出来るのである。なぜなら非常に多くの種類の悪が彼の前の生命の歓喜を作っており、即ち、彼の古い生命を作っており、この凡ての悪が急にまた同時に征服されることは不可能であるからである、それはその悪は太古の時代から両親の中に根を張っていて、非常に頑強にその人間に密着しており、従って彼の中に先天的に存在しており、更に彼の中に彼の幼児時代から彼自身の実際の悪を通して確認されているためである。これらの悪は、植え付けられて新しい生命となれねばならない天界の善とは反対のものである。

 

 

49.取りつかれて悩まされることは試練ではない

 

天界の秘義7474〔3〕

 

 とりついて悩ますことを再三述べたため、その何であるかを、またその性質の何であるかを話さなくてはならない。とりついて悩ますことは真理に対して誤謬を注ぎ入れることによって行われるが、この誤謬はとりついて悩まされつつある者たちの中に、天界から発する流入により、即ち、主から天界を通して発する流入により反駁されるのである。誤謬を剥奪されつつある者たちは、信仰に属した諸真理に浸透し、徐々に内的な諸真理に浸透するまでは、こうした状態に留め置かれるが、彼らがそうした諸真理に浸透するに応じて、取りつかれて悩まされることから自由にされるのである。取りつかれて悩まされることは試練ではない、なぜなら試練は良心の苦悶を伴って起り、試練に置かれている者たちは罪に定められた状態に留め置かれ、そこから苦悶と悲哀の状態に留め置かれるからである。

 

 

 

50.悪との戦い

 

生命99

 

悪との戦いは―それは試練であるが―聖言の多くの所に取り扱われている。それらは主の以下の御言葉により意味されている―

 

 わたしはあなたたちに言う、一粒の小麦が地に落ちて、死なないなら、それはただその一粒のままである、もし死ぬなら、多くの実を結ぶのである(ヨハネ12・24)。

 

また以下の御言葉によっても意味されている、

 

 もしたれかがわたしに従ってきたいなら、その者は自分自身を否定し、自分の十字架を取り上げて、わたしに従いなさい。たれでも自分の生命を救おうとする者はそれを失うであろう、そしてたれでもわたしと福音のために自分の生命を失う者は、それを救うであろう(マルコ8・34、35)。

 

『十字架』は(またマタイ10・38、16・24、マルコ10・21、ルカ14・27におけるように)試練を意味している。自分の生命により(またマタイ10・39、16・25、ルカ9・24、特にヨハネ12・25におけるように)人間の固有性の生命が意味されており、それはまた『何ら益を与えない肉の生命』である(ヨハネ6・63)。

 

 

 

 

51.地の塩である人びとは、火による試練を受けない

 

 

ヨハネ5・24

 

はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。

 

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/10巻P228

‘02・6・1

 

愛に基づく我が教えと 我が掟を守り、地の塩である人びとは、火による試練を受けない、私を彼らの神とし、私をいのちの主として受諾したがゆえ。 彼らはすでに試され、もはや私の一部として至高の神と一致し 絶え間なく我が聖なる光のうちに存在する。 そしてあなたも言ったように、娘よ、ノアの時代には 我が訪れと共に 天は大雨を降らせた。 そして今地上は 火によって炎に包まれ こうして試される。

 

 

 

天界と地獄491

 

直ぐ天界に挙げられる者は世で再生し、従って天界に入る準備をしていた者たちである。再生し準備していて、ただ身体にある自然的な不潔なものを斥けさえすればよい者たちは天使によりすぐ天界へ連れて行かれる。

 

 

 

トマス・ア・ケンピス/キリストに倣いて/2・12・1

 

「自分を捨て、自分の十字架を取ってイエズスにしたがえ。」(マタイ16・24)とはひどい言葉だと多くの人は思っている。

 しかし「のろわれた者よ、わたしをはなれて永遠の火に入れ。」(マタイ25・41)という最後の言葉はもっとひどく聞こえるだろう。

 だからいま喜んで十字架の言葉を聞き、これにしたがう者は、永遠の刑罰の宣告を聞く心配はあるまい。

 主がさばくためにおいでになる時には、この十字架の印が天に現われるだろう。

 その時生前自分を、十字架に付けられたもうお方に肖(あや)からせた十字架のしもべたちは、みな大きい信頼をもって審判者であるキリストに近づくだろう。

 

 

 

あかし書房/フェデリコ・バルバロ訳編/マリア・ワルトルタ/イエズスに出会った人々3/P336

 

「けれども病気、死、災い、悲惨な出来事が続き、皆に見捨てられる時、信、望、愛を忘れず、『いとも高き御方の望みが実現されますように。今起きていることは私にとって有益です』と変わらず言える人こそ、まことに言うが、神の助けを受けるに値するのみならず、神の国での住まいが用意され、もはや清めを必要としない。」

 

 

 

 

52.理由もないのに憂鬱な不安に悩まされる者における流入、霊的な試練を受けている者における流入もこうしたもの

 

天界の秘義6202

 

 他の流入もまた認められているが、それは人間のもとにいる霊たちを通して行われるものではなく、或る奈落の社会からその人間の生命のスフィアの中へ送り出される他の者らを通して行われている。 これらの者はその人間に不利な事柄について共に語り、そこから普通厄介な、不愉快な、悲しい、または不安な事柄が、多くの変化をもって流れ入ってくる。 こうした霊たちがしばしば私と共にいたことがあり、不安を注ぎ入れた者らは胃の領域に感じられたが、私はこうした不安がどこから起こってくるかを知らなかったのである。 しかし彼らは常に摘発されたのであり、私はその時彼らが彼ら自身の間で語り合ったことを ― それは私の情愛とは容れないものであったが ― 聞いたのである。貪欲な者が時々その同じ領域の中に、しかし少しもっと高い辺りに現われ、将来に対する心遣いから不安を注ぎ入れたが、私は彼らを譴責して、あなたらは胃の中の消化されない、悪臭を発し、反吐を催させるような物に関係しているとその者らに言うことができたのである。私はまた、彼らが追い払われると、その不安が全く止んでしまうのを見たが、しかもそのことが繰返されたため、私はそれが彼らから発していることを確実に知ることができたのである。 理由もないのに憂鬱な不安に悩まされる者における流入はこうしたものであり、また同じく霊的な試練を受けている者における流入もこうしたものである。 しかしこの後の場合ではこうした霊は全般的に流れ入るのみでなく、個別的にも奈落の霊どもはその人間が行った悪を呼び覚まし、善を歪め、それを悪く解釈するのである。 それで天使たちはこれらの者どもと争闘するのである。 再生しつつある人間はこうした状態へ入り、そのことにより彼は彼自身のものの中へ引き下ろされるが、これは彼が彼自身を世と身体の物に余りに深く浸し、そのため霊的なものへ上げられねばならない時に起こるのである。

 

 

 

 

53.いかような試練もその人間が真理の善の中に、即ち、真理を愛する愛または情愛の中にいない限り、起ることは出来ない

 

 

天界の秘義4274

 

「するとそこで一人の男が彼と組打ちをした」。これは真理の方面の試練を意味していることは『組打ちすること』の意義から明白であり、それは試練である。試練そのものは組打ちまたは格闘以外の何ものでもない、なぜなら真理は悪霊らにより攻撃され、その人間と共にいる天使たちにより守られるからである。この格闘を人間が認識することが試練である(741、757、761、1661、3927、4249、4256番)。しかしいかような試練もその人間が真理の善の中に、即ち、真理を愛する愛または情愛の中にいない限り、起ることは出来ない。なぜなら真理を愛しない者は、または真理により感動しない者は、真理を何ら意に介しはしないが、それを愛する者はそれが害されはしなかと不安を感じるからである。人間が真であると信じるものを除いては他の何ものも人間の理解の生命を生み出しはしないし、また人間が善いものとして自分自身に印刻したものを除いては何ものも彼の意志の生命を生み出しはしないのである、それで彼が真のものであると信じているものを攻撃されると、彼の理解の生命は攻撃され、彼が善いものとして彼自身に印刻したものが攻撃されると、彼の意志の生命は攻撃されるのであり、それで人間が試みられているとき、彼の生命は危機にさらされるのである。争闘の最初のものは真理の方面のものであり、または真理に関わるものであるのは、それが彼が第一次的に愛するものであり、たれであれその者の愛のものであるものが悪霊らにより攻撃されるが、しかしその人間が真理よりもさらに善を愛する後では―そのことは秩序が転倒するとき起るのであるが―かれは善の方面で試みを受けるからである。しかし試練の何であるかは僅かな者しか知っていない、それは現今では僅かな者しか試練を受けはしないためである、なぜなら信仰の善の中に、即ち、隣人に対する仁慈の中にいる者以外の者は一人として試みられることは出来ないからである。もしこの仁慈の中にいない者が仮にも試みられるなら、その者は直ぐさま屈服し、そして屈服する者は悪を確認し、誤謬を確信するのである、なぜならそのようにしてその者らが共に結合する悪霊らはそのときその者らの中にあって屈服するからである。このことが現今では僅かな者しか霊的な試練へ入れられはしないで、ただ単に何らかの自然的な心労にのみ入れられるが、その自然的な心労にのみ入れられるのは、そのことによって彼らが自己をまた世を愛する愛から引き出されるためであり、もしそうした心労がないなら、彼らは抑えられはしないでその愛へ突入してしまう理由である。

 

 

 

 

54.真理の方面の試練

 

 

天界の秘義4274

 

「するとそこで一人の男が彼と組打ちをした」。これは真理の方面の試練を意味していることは『組打ちすること』の意義から明白であり、それは試練である。試練そのものは組打ちまたは格闘以外の何ものでもない、なぜなら真理は悪霊らにより攻撃され、その人間と共にいる天使たちにより守られるからである。この格闘を人間が認識することが試練である(741、757、761、1661、3927、4249、4256番)。

 

 

 

 

55.この格闘を人間が認識することが試練

 

 

天界の秘義4274

 

「するとそこで一人の男が彼と組打ちをした」。これは真理の方面の試練を意味していることは『組打ちすること』の意義から明白であり、それは試練である。試練そのものは組打ちまたは格闘以外の何ものでもない、なぜなら真理は悪霊らにより攻撃され、その人間と共にいる天使たちにより守られるからである。この格闘を人間が認識することが試練である(741、757、761、1661、3927、4249、4256番)。