奇蹟

 

偶然はない最大の奇蹟

 

 

1.奇蹟

2.主が奇蹟を行われる際、

『わたしがこのことを行なうことができることをあなたたちは信じますか』

と聞かれた理由

3.救う信仰

4.パンを五千人に食べさせた奇蹟

5.現今では奇蹟は行われない

6.奇蹟は有害であり、現今では奇蹟は行われない

7.奇蹟には何らの効果もない

8.魔法の奇蹟

9.何者かを知らせるため

10.奇跡を行うときのキリスト

11.主が奇跡のことを話さないように言われる場合

12.主が奇跡のことを話さないように特に言われない場合

13.主が奇跡のことを話すよう言われる場合

14.ヤコブの子孫の間にかくも大いなる奇蹟が行われた理由

15.善良な者は奇蹟を見ようとは欲しないが、聖言に記されている奇蹟を信じている

16.エジプトの奇蹟もその他奇蹟と呼ばれている他の多くの事柄も起ったのである

17.聖言に記されている奇蹟はすべて相応により行われた

18.学者

19.主の奇蹟は主として病いを癒されることから成っていた

20.グリニョン・ド・モンフォール

21.現今では公然たる奇蹟は行なわれはしないで、公然ではない、または顕著なものでない奇蹟が行なわれる

 

 

 

 

 

 

聖書

 

マタイ13・57−58

 

このように、人々はイエスにつまずいた。イエスは、「預言者が敬われないのは、その故郷、家族の間だけである」と言い、人々が不信仰だったのでそこではあまり奇跡をなさらなかった。

 

 

1.奇蹟

 

天界の秘義2383

 

なぜなら盲目の者が視覚を、耳しいが聴覚を、らい病人は健康を、死人は生命を得たということが実際行われたからであるが、・・

 

 

マリア・ワルトルタ/イエズスに出会った人々2・P86

 

“奇蹟”は、既に信仰の道を歩もうとしている人々に信仰を抱かせますが、謙遜のない人たちには―信仰は人の心に謙遜があるという証しではあるが―むしろ、冒涜を吐かせるものです。

 

 

天界の秘義6988〔3〕

 

 主により行なわれた奇跡はすべて主が世に来られたことにより救われた教会の状態と人類の状態とを、すなわち仁慈の信仰を受け入れた者たちは地獄から自由にされたことを意味していることを知られたい。主の奇蹟にはそうした事柄が含まれているのである。

 

 

天界の秘義7337

 

 神的奇蹟はすべて諸天界における主の王国と地における主の王国すなわち教会の状態を表象している。主が世におられたとき御自ら為された奇蹟はすべて教会の将来の状態を意味していた。盲人、耳しい、足なえ、不具者、らい病人により表象されている人間が福音を受け入れて、霊的に癒され、しかもそのことは主が世に来られることを通して行なわれることを意味したのである。これが神的な奇蹟の内なる形である。

 

 

天界の秘義10566

 

 神を奇蹟のゆえにのみ拝する者は神の名を拝するのみで、神を拝するのではなく、自分の欲望を得ないときは常に離れ去ってしまうのである。イスラエル国民はエホバの名のみ拝し、3732、4299、6866

 

かれらは心では偶像崇拝者であった。4208,4281、4820、5998、6877、7401、8301、8882

 

 

 

2.主が奇蹟を行われる際、『わたしがこのことを行なうことが

できることをあなたたちは信じますか』と聞かれた理由

 

スウェーデンボルグ/アタナシウス信条についてP79

 

 これがそのようになっており、これが教会の主要な事柄であるからには、またたれ一人、主の人間的なものにおける神性を承認しなくては、受け入れられて、救われることができないため、それで主は再三『わたしがこのことを行なうことができることをあなたたちは信じますか』、『あなたの信仰に従ってそれが行なわれるように』と言われたのであり、すなわち、主は全能であられ、神であられることを言われたのである。

 主は、自分が行なう業は父から行なうのであると再三言われたのは、かれらが主の神的なものそれ自体を信じるためであったのであり、または主の人間的なものは神的なものであることを信じるためであったのであり、それで主はまた御自身について、それと同じことを言われたのである。

 

 

マリア・ワルトルタ/マグダラのマリア/P366

 

 奇蹟を願うには、要請の二つの様式がある。一つには、神は愛をもって応じる。もう一つには、怒りをもって背を向ける。前者は、私が教えたとおり、疲れず、信頼を捨てずして頼むもので、これには、神は必ず答えられる。なぜなら、神はよいお方で何でもできる力を持っておられるからである。この要請は愛であって、そして神は愛する人には何でも与える。もう一方は、神が自分たちの僕であるかのように、自分たちの悪さまで下って、自分たちが神に与えようとしない愛と従順とを求める反逆者の人々の要請である。これは、神に対する侮辱の一つで、神は、ご自身の恵みを拒むことによって罰するのである。

 

 

3.救う信仰

 

真の基督教98

 

父と子、すなわち神性と人間性とは霊魂と身体とのように主のなかに合一していることは、実に信仰箇条として教会により認められ、また聖書に一致しているが、しかし百人の中五人もこれを真理として認めていない。是は信仰のみによる義認の教義のためであり、この教義に、名誉と富とのために学問上の名声を得ようと熱中している者達が自らを非常な熱意を以って捧げ、遂にその心はその教義にとりつかれるに至るのである。而してそれは、アルコルと呼ばれる酒精のように、彼らの思考を酔わせてしまったため、彼らは教会のこの最も本質的な信条を―エホバなる神が降り、人間性を取り給うたことを理解することが出来ないのである。にも拘らず、これのみが神との交わりによる人間の救いを可能ならしめるものである。

 

 

スウェーデンボルグ/真の基督教/337

 

「救う信仰は主なる神 救い主 イエス キリストに対する信仰である」

 

救う信仰は救い主なる神に対する信仰であるのは、彼は神と人にて在し、また彼は父の中に在し、父は彼の中に在し、かくして両者は一人であり、それ故彼に近づく者はまた父に近づき、かくて只一人の神に近づき、そしてこれ以外の如何なる信仰も救うことが出来ないからである。

 

我々はエホバによって懐妊し、処女マリアから生まれ、イエス キリストと呼ばれる贖罪者にして救い主である神の子を信じ、あるいは、これを信仰しなければならぬことは、彼と彼の使徒達とにより、しばしば繰り返された誡命によって明白である。

 

「イエス言い給う、われを遣わし給いし者の御意はすべて子を見てこれを信ずる者の永遠の生命を得る是なり。われ終の日にこれをよみがえらすべし」(ヨハネ6・40)。

 

「御子を信ずる者は永遠の生命をもち、御子に従わぬ者は生命を見ず、反って神の怒そのうえに止まるなり」(3・36)。

 

「すべて信ずる者の彼によりて永遠の生命を得んためなり。それ神はその独子を賜うほどに世を愛し給えり。すべて彼を信ずる者の亡びずして永遠の生命を得んためなり」(3・15,16)。

 

イエス語り給う「我は復活なり、生命なり。我を信ずる者は死ぬとも生きん。凡そ生きて我を信ずるものは永遠に死なざるべし」(11・25,26)。

 

 

スウェーデンボルグ/真の基督教/339

 

人々は救い主イエス キリストなる神を信じなければならない、すなわち、彼に対する信仰を持たなければならないのは、これは見えない神がその中に在すところの見える神に対する信仰であるからである。何故なら、人でありまた神である見える神に対する信仰は人の受け入れ得るものであるからである。信仰の本質は霊的なものであるが、その形は自然的であり、それ故信仰は人間の中に霊的かつ自然的なものになるのである。何故なら、霊的なものは凡て、人間がこれを現実のものとして所有するためには、自然的なものの中に受け入れられねばならぬからである。純粋に霊的なものは実際人間に入りはするが、受け入れられない。それはエーテルの如きものであり、人間を感動さすことなくして彼に流れ入り、また流れ去って行く。人間を感動さすためにはそれは人間の心に認められ、かつ受容されねばならず、これは彼の自然的な心の中にのみ可能である。他方単に自然的な信仰または霊的本質を欠いた信仰は信仰ではなく単なる確信あるいは知識に過ぎない。確信は外的には信仰のように見えるけれど、内的には霊性を欠いている故、その内には救うものは少しも存在しない。これがアリウス派、ソツヌス派のように、主の人間性の神性を否定する凡ての者の信仰である。信仰はその対象無くして何であろうか。それは空間を凝視し、視覚がそれ自らを虚空に失うようなものである。(中略)約言すれば、見えない神に対する信仰は盲目である。それは人間の心はその神を見ないからである。(中略)これが見えない神に対する信仰の光であり、特に神がエーテルのような霊として考えられる時の光である。何故なら、そのとき人間は神をエーテルのように見、彼を物質的な宇宙に探し求め、そこに見出さないところから、自然が宇宙の神であると信ずるからである。これが現在流布している唯物論の源泉である。主は未だかつて父の御声を聞き、その御形を見た者はないと宣べ(ヨハネ5・37)また如何なる時にも神を見た者はなく、ただ父の懐に在す独子のみがこれを現し給うた(1・18)と述べ、神とともなる者が父を見た以外には何人も彼を見ない(6・46)と述べ、同様に何人も彼に由らなくては父に往くことが出来ない(14・6)更に、彼を見、且つ認める者が父を見且つ認める者であると述べ給うた。

 

 

グリニョン・ド・モンフォール/聖母マリアへのまことの信心/山下訳P77

 

「このかた以外には、だれによっても救いはありません。世界中でイエズスの御名のほかには、わたしたちがすくわれるべき名としては、どのような名も、人間にあたえられていないからです。」

 

 

グリニョン・ド・モンフォール/聖母マリアへのまことの信心/山下訳P43

 

「わたしは救われる人にとっては、父であり弁護者ですが」

 

4.パンを五千人に食べさせた奇蹟

 

黙示録講解617イ

 

主は、女たちと子供の他に、五千人に五つのパンと二匹の魚を食べさせられたこと、かれらは食べ、満たされたとき、十二のかごの残ったものを取り上げた(マタイ14・15−22、ヨハネ6・5,13,23)。

また主が四千人を七つのパンと若干の魚から養われたこと(マタイ14・32以下)。

 

この奇蹟が行われたのはその前に主は彼らに教えられ、彼らは主の教義を受け入れて、それを彼ら自身のものとしていたためであり、このことが彼らが霊的に食べたものであり、それで自然的な食べることがそれに続いて起こったのであり、すなわち、天から彼らのもとに、マナがイスラエルの子孫のもとに流れ入ったように、彼らに知られないままに流れ入ったのである、なぜなら、主が欲しられるときは、霊的な食物は―それはまた真実の食物であるが、単に霊たちと天使たちとのためのものであるにすぎないが―自然的な食物に変化するからであり、そのことはそれが毎朝マナに変化したことと全く同一であったからである。

 

 

5.現今では奇蹟は行われない

 

天界の秘義7290

 

なぜなら奇蹟は信念を強要し、強要されたものはとどまらないで消散してしまうからである。信仰と仁慈である礼拝の内なるものは自由の中に植えつけられねばならない。また奇蹟は冒涜の生まれるもととなるので有害。

「トマスよ、あなたは見たので信じた、見ないで信じる者は幸いである」(ヨハネ20・29)。

奇蹟は何の効果もない。

「もしかれらがモーセと預言者に聞かないなら、たとえたれかが死人からよみがえっても納得はしないであろう」(ルカ16・31)。

 

6.奇蹟は有害であり、現今では奇蹟は行われない

 

天界の秘義7290[]

 

 しかし内なる礼拝の中に、すなわち、仁慈と信仰との中にいる者たちの間には奇蹟は行われない、それはこれらの者たちには奇蹟は有害であるためである、なぜなら奇蹟は信念を強要し、強要されたものはとどまらないで消散してしまうからである。信仰と仁慈である礼拝の内なるものは自由の中に植えつけられねばならないのである、なぜならそうしたときにそれらは己がものとされ、またそのようにして己がものとされたものは止まるに反し、強制的に植えつけられたものは内なる人の外側に外なる人の中に止まるからである、それは何一つ内なる人の中へは、理論である知的観念によらなくては入らないためである、なぜならそこで[内なる人の中で](入ってくるものを)受ける基底は明るくされた合理的なものであるからである。ここから現今では奇蹟は行われないのである。それが有害であることは今までに述べたことから認めることが出来よう。なぜなら奇蹟は人間を強制して信じさせ、それはそうであるという考えを外なる人の中に固定させはするが、もし内なる人が後になってその奇蹟から確認したものを否定するなら、内なる人と外なる人との対立、衝突が生まれ、ついには奇蹟から派生している観念[考え]が消散すると、そこに誤謬と真理との連結が生まれ、かくて冒涜が生まれるからである。ここから礼拝の内なる物が明らかに示されている教会の中では奇蹟は現今いかに有害なものであるかが明白である。さらにこうしたことがトマスに対する主の御言葉により意味されている事柄である、

 

「トマスよ、あなたは見たので信じた、見ないで信じる者は幸いである」(ヨハネ20・29)。

 

かくて奇蹟を通して信じない者たちは祝福されているのである。

奇蹟は何の効果もない。

「もし彼らがモーセと預言者に聞かないなら、例えたれかが死人からよみがえっても納得はしないであろう」(ルカ16・31)。

 

 

神の摂理131

 

 奇蹟から生まれた信仰は信仰ではなく、たんなる説得にすぎないことは、ここから明白であるに相違ない。なぜならその中には合理的なものはなく、まして霊的なものは全くないからである、なぜならそれはたんに内なるもののない外なるものにすぎないから。人が神を承認し、家でまたは教会で神を拝し、または善い業を為すにしても、このように説得されて為す凡ての物はそのようなものである。その承認、礼拝、敬虔がたんに奇蹟から生まれるとき、働くものは自然的な人であって、霊的な人でない。なぜなら奇蹟は外なる方法で信仰を注入して、内なる方法でそれを注入しないのであり、すなわち、世から注入はするが、天界から注入はしないに反し、主はただ内なる道によってのみ、すなわち、聖言により、それに基礎づけられた教義と説教により入られるからであり、奇蹟はこの道を閉じるため、現在奇蹟は行われないのである。

 

 

7.奇蹟には何らの効果もない

 

天界の秘義7290[]

 

ましてや、霊界から発している何らかの物が存在していることが承認されてはおらず、起こりはしても、自然に帰せられはしない種類の一切の物が否定されている現今では、その奇蹟の効果は無いのである、なぜなら地上における神的なものの流入と統治に対する否定が遍く行き亘っているからである。それでもし教会の人間が現今神の奇蹟そのものを万が一見るにしても、彼は先ずそれを自然の中へ引き降ろし、そこでそれを汚し、後には幻影としてそれを斥け、果てはそれを神に帰して、自然に帰しはしない者を嘲笑するのである。奇蹟には何らの効果も無いことはルカ伝の主の御言葉からもまた明白である―

 

もし彼らがモーセと予言者とに聞かないなら、たとえたれかが死人から甦っても納得はしないであろう(ルカ16・31)。

 

 

8.魔法の奇蹟

 

天界の秘義7337[]

 

しかし魔法の奇蹟は全く何ごとも含んではいないで、悪い者により他の者を支配する権力を得るために行われているが、それでもその外の形では神の奇蹟のように見えており、そのことはその奇蹟も秩序から流れ出ていて、秩序は奇蹟が示される究極的なものの中では同じもののように現れているという理由によっているのである。例えば、主から発出している神的真理はその中に凡ゆる力を持っており、かくて秩序の究極的なものにおける真理の中にすら力が在り、それで悪い者は真理によって力を得、他の者を支配するのである。

 

 

9.何者かを知らせるため

 

マリア・ワルトルタ/イエズス―たそがれの日々/P141

 

私がここに来て奇跡を行ったのも、真実を語ったのも、私が何者であるかを知らせるためでした。今はここを去ります。皆の中に正しい人が一人でもいれば、私について来ればよい。誘惑するため、裏切るため、蛇がとぐろを巻いているこの地はあまりにも悲しい。

 

 

10.奇跡を行うときの主

 

マリア・ワルトルタ/イエズス―たそがれの日々/P163

 

これこそ奇跡を行うときのキリストである。青く輝くその目は、燃え続けるたき火によって一層光って見える。

 

 

11.主が奇跡のことを話さないように言われる場合

 

マルコ1・40−45(マタイ8・1−4、ルカ5・12−16)

 

さて、重い皮膚病を患っている人が、イエスのところに来てひざまずいて願い、「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と言った。イエスが深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると、たちまち重い皮膚病は去り、その人は清くなった。イエスはすぐにその人を立ち去らせようとし、厳しく注意して、言われた。「だれにも、何も話さないように気をつけなさい。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めたものを清めのために献げて、人々に証明しなさい。」しかし、彼はそこを立ち去ると、大いにこの出来事を人々に告げ、言い広め始めた。それで、イエスはもはや公然と町に入ることができず、町の外の人のいない所におられた。それでも、人々は四方からイエスのところに集まって来た。

 

マタイ12・13−21

 

そしてその人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。伸ばすと、もう一方の手のように元どおり良くなった。ファリサイ派の人々は出て行き、どのようにしてイエスを殺そうかと相談した。

イエスはそれを知って、そこを立ち去られた。大勢の群衆が従った。イエスは皆の病気をいやして、御自分のことを言いふらさないようにと戒められた。それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。

 

「見よ、わたしの選んだ僕。

わたしの心に適った愛する者。

この僕にわたしの霊を授ける。

彼は異邦人に正義を知らせる。

彼は争わず、叫ばず、

その声を聞く者は大通りにはいない。

正義を勝利に導くまで、

彼は傷ついた葦を折らず、

くすぶる灯心を消さない。

異邦人は彼の名に望みをかける。」

 

 

マタイ9・27−31

 

イエスがそこからお出かけになると、二人の盲人が叫んで、「ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」と言いながらついて来た。イエスが家に入ると、盲人たちがそばに寄って来たので、「わたしにできると信じるのか」と言われた。二人は、「はい、主よ」と言った。そこで、イエスが二人の目に触り、「あなたがたの信じているとおりになるように」と言われると、二人は目が見えるようになった。イエスは、「このことは、だれにも知らせてはいけない」と彼らに厳しくお命じになった。しかし、二人は外へ出ると、その地方一帯にイエスのことを言い広めた。

 

 

 

マルコ3・11−12

 

汚れた霊どもは、イエスを見るとひれ伏して、「あなたは神の子だ」と叫んだ。イエスは、自分のことを言いふらさないようにと霊どもを厳しく戒められた。

 

 

 

マルコ7・35−36

 

すると、たちまち耳が開き、舌のもつれが解け、はっきり話すことができるようになった。イエスは人々に、だれにもこのことを話してはいけない、と口止めをされた。しかし、イエスが口止めをされればされるほど、人々はかえってますます言い広めた。

 

 

 

ルカ8・54−56

 

イエスは娘の手を取り、「娘よ、起きなさい」と呼びかけられた。すると娘は、その霊が戻って、すぐに起き上がった。イエスは、娘に食べ物を与えるように指図をされた。娘の両親は非常に驚いた。イエスは、この出来事をだれにも話さないようにとお命じになった。

 

 

 

マリア・ワルトルタ/復活/P242

 

彼は群集の興奮のために、すべての行いにおいて注目されていたため、ある時はよくない好奇心のために苦しんでいました。イエズスは自分の弟子達や奇跡を受けた人々に“あなたは私が行ったことを言ってはいけない”と何度も命令したことでしょう。

 

 

 

 

12.主が奇跡のことを話さないように特に言われない場合

 

マタイ20・29−34(ルカ18・35−43、マルコ10・46−52)

一行がエリコの町を出ると、大勢の群衆がイエスに従った。そのとき、二人の盲人が道端に座っていたが、イエスがお通りと聞いて、「主よ、ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」と叫んだ。

群衆は叱りつけて黙らせようとしたが、二人はますます、「主よ、ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」と叫んだ。

イエスは立ち止まり、二人を呼んで、「何をしてほしいのか」と言われた。二人は、「主よ、目を開けていただきたいのです」と言った。イエスが深く憐れんで、その目に触れられると、盲人たちはすぐ見えるようになり、イエスに従った。

 

 

 

ルカ17・11−19

 

イエスはエルサレムへ上る途中、サマリアとガリラヤの間を通られた。ある村に入ると、重い皮膚病を患っている十人の人が出迎え、遠くの方に立ち止まったまま、声を張り上げて、「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」と言った。イエスは重い皮膚病を患っている人たちを見て、「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」と言われた。彼らは、そこへ行く途中で清くされた。その中の一人は、自分がいやされたのを知って、大声で神を賛美しながら戻って来た。

そして、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。この人はサマリア人だった。そこで、イエスは言われた。「清くされたのは十人ではなかったか。ほかの九人はどこにいるのか。この外国人のほかに、神を賛美するために戻って来た者はいないのか。」それから、イエスはその人に言われた。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」

 

 

 

ルカ7・11−17

 

それから間もなく、イエスはナインという町に行かれた。弟子たちや大勢の群衆も一緒であった。

イエスが町の門に近づかれると、ちょうど、ある母親の一人息子が死んで、棺が担ぎ出されるところだった。その母親はやもめであって、町の人が大勢そばに付き添っていた。主はこの母親を見て、憐れに思い、「もう泣かなくともよい」と言われた。そして、近づいて棺に手を触れられると、担いでいる人たちは立ち止まった。イエスは、「若者よ、あなたに言う。起きなさい」と言われた。すると、死人は起き上がってものを言い始めた。イエスは息子をその母親にお返しになった。

人々は皆恐れを抱き、神を賛美して、「大預言者が我々の間に現れた」と言い、また、「神はその民を心にかけてくださった」と言った。イエスについてのこの話は、ユダヤの全土と周りの地方一帯に広まった。

 

 

 

 

13.主が奇跡のことを話すよう言われる場合

 

 

ルカ8・37−39

そこで、ゲラサ地方の人々は皆、自分たちのところから出て行ってもらいたいと、イエスに願った。彼らはすっかり恐れに取りつかれていたのである。そこで、イエスは舟に乗って帰ろうとされた。悪霊どもを追い出してもらった人が、お供したいとしきりに願ったが、イエスはこう言ってお帰しになった。「自分の家に帰りなさい。そして、神があなたになさったことをことごとく話して聞かせなさい。」その人は立ち去り、イエスが自分にしてくださったことをことごとく町中に言い広めた。

 

 

 

 

14.ヤコブの子孫の間にかくも大いなる奇蹟が行われた理由

 

 

天界の秘義5508[4]

 

 ヤコブの子孫の間にかくも大いなる奇蹟が行われたのは、かれらが強制されて教令をその外なる形において守るためであったのである、なぜなら単に教会を表象するものの中にのみいて、内なる物から分離した外なる物の中におり、それで内部の方面で改良されることの出来なかった者にはそれで十分であったからである、なぜなら彼らは内なるものを全く斥けてしまい、それで真理を冒涜することは出来なかったからである(3147、3398、3399、3480、4680番)。このような人間は聖いものを冒涜する危険無しに強制されることが出来たのである。

 

 

 

天界の秘義7290

 

「あなたらは不思議なこと〔驚くべきこと〕を示しなさい、と言う」。これは、そしてそれで彼らは確認することを求める、を意味していることは、『不思議なこととしるし』の意義から明白であり、それは真理を確認させるものである(3900、6870番を参照)。以下の記事に取扱われている不思議なこと〔驚くべきこと〕としるしとについては、それらは外なる礼拝の中にいて、内なる礼拝については何事も知ろうとは願わなかった者らの間に為されたことを知られたい、なぜならこうした礼拝の中にいた者らは外なる手段によって駆り立てられねばならなかったからである。そのことが奇蹟がイスラエルとユダヤ民族の間に行われた理由である、なぜなら彼らは外なる礼拝の中にのみいたからである。彼らは内なる礼拝を求める心を持っていなかったため、外なる礼拝の中にいなければならなかったが、それは彼らが外なる物によって聖い物を表象するためであり、そのことによって多少教会のものによる天界との交流のようなものが存在するためであったのである、なぜなら相応した物、表象する物、表意的な物は自然界を霊界と連結させるからである。そのことがかくも多くの奇蹟がその民族の中に行われた理由である。

 

 

 

天界の秘義7290〔3〕

 

 しかし奇蹟は内なる礼拝を持たない外なる礼拝にいる者らには有害ではない、なぜならその者らには内なる人と外なる人との対立は在り得ないのであり、かくて衝突も在り得ないし、従って冒涜も在り得ないからである。奇蹟は信仰に何ら寄与しないことはエジプトにおける、また荒野におけるイスラエルの民の間に行われた奇蹟から、即ち、その奇蹟も彼らには全く何らの効果もなかったということから充分に明白となるであろう。その民はエジプトで非常に多くの奇跡を見、その後スフの海が分かれて、エジプト人がその中に落ち込むのを見、日中は雲の柱が、夜は火の柱が彼らの前に進むのを見、マナが日々天から雨のように降ってくるのを見て間もなかったものの、またシナイ山が煙るのを見、そこからエホバが話されるのを聞き、その他多くの奇蹟に接したものの、それにも拘らずそうした事の真中にあってさえも、信仰からは全く離れ去って、エホバ礼拝から子牛礼拝へと移ったのである(出エジプト記32章9、そのことから奇蹟の効果のいかようなものであるかが明らかである。

 

 

 

 

15.善良な者は奇蹟を見ようとは欲しないが、聖言に記されている奇蹟を信じている

 

 

神の摂理133

 

 しかし善良な者に及ばす奇蹟の効果は邪悪な者に及ばすその効果とは異なっている。善良な者は奇蹟を見ようとは欲しないが、聖言に記されている奇蹟を信じている。もし彼らは奇蹟について聞くなら、それを信仰を確認する些細な論証として考えるにすぎない。なぜなら彼らはその信仰を聖言に、すなわち主に基礎づけ、いかような奇蹟にも基礎づけないからである。邪悪な者はそうではない、彼らは奇蹟により実に信仰へ、礼拝と敬虔へすら駆り立てられ、強制されるかもしれないが、しかしそれもしばらくの間のみのことである、なぜなら彼らの悪は閉じ込められ、この悪の欲念とそこから生まれる歓喜は絶えず彼らの示す礼拝と敬虔の外なる形に反撥し、かくて束縛を逃れて、迸り出ようとして、奇蹟をそしり、ついにはそれをトリックまたは詭計、または自然現象と呼び、かくて、その悪にかえり、宗教の善と真理とを冒涜するからであるが、しかし冒涜する者の死後の運命は凡ての中最悪なものである。主がその後の状態は始めの状態よりも悪いと語られるのはこれらの者のことである(マタイ12・43−45)。さらに、もし奇蹟が聖言の奇蹟によっても説きつけられない者の益のために行われねばならぬなら、それは絶えず彼らの眼前に行なわれねばならぬであろう。これが現在奇蹟の行なわれない理由を明らかに示している。

 

 

 

 

16.エジプトの奇蹟もその他奇蹟と呼ばれている他の多くの事柄も起ったのである

 

 

霊界日記1391

 

さらに、世にもまた同じような表象が在るのである、なぜなら地上でもそうした事柄が霊的な事柄を意味している限り、存在するようにしかならないからである、例えばヨナはくじらにより呑み込まれたのであり(ヨナ1・17)、そのことは現実に世に起ったのであり、同じくエジプトの奇蹟もその他奇蹟と呼ばれている他の多くの事柄も起ったのである。

 

 

 

 

17.聖言に記されている奇蹟はすべて相応により行われた

 

 

天界の秘義8615[]

 

相応には力そのものがあり、相応に従って地上で行われることは天界でも用を果たしているのである、それは相応は神的なものから発しているためである。愛の善と信仰の善の中にいる者たちは相応の中におり、神的なものは彼らに属している凡ゆるものを為されるのである、なぜなら神的なものから愛の善と信仰の善とが発生するからである。聖言に記されている奇蹟はすべて相応により行われたのである。聖言はその中にある事項がことごとくその最も微細な点までも天界に存在する物に相応するように記されているのである。従って聖言には神的な力があり、それは天界を地に連結させているのである、なぜなら聖言が地上で読まれるとき、天界の天使たちはその内意に含まれている聖いものに感動するからである。このことは聖言の幾多の表現の凡ての相応により行われている。

 

 

 

 

18.学者

 

 

天界の秘義6316

 

 学者の大部分は感覚的なものであると聞くと、あなた方は驚かれるであろう。その理由は、彼らは名誉を得て、それにより利得を得ようとして、ただ名声のためにのみ知識を得ているのであるが、賢明な者になろうという目的を抱いてはいなかったということである、なぜなら学界の科学は凡て賢明になる手段ともなり、また発狂する手段ともなるからである。学者たちは名誉を与えられると、その後は単純な者よりも更に感覚的に生き、その時は神に何かを帰して、深慮と自然とに帰しはしないことは、また他の者凡ゆる物を偶然に帰しはしないことは、愚物の為すところであると信じるのである。

 

 

19.主の奇蹟は主として病いを癒されることから成っていた

 

天界の秘義8364〔6〕

 

 病いは霊的な生命の有害な悪いものを表象したため、それで主が癒された病いにより、教会と人類とにとりついてこれを悩ませ、霊的な死にも至らせたであろう色々な種類の悪と誤謬から解放されることが意味されているのである、なぜなら神的な奇蹟〔神の奇蹟〕は教会と天国との状態を包含して、これに関わりを持っているという事実により、それは他の奇蹟から区別されているからである。それで主の奇蹟は主として病いを癒されることから成っていたのである。

 

 

20.グリニョン・ド・モンフォール

 

グリニョン・ド・モンフォール/聖母マリアへのまことの信心/山下訳/P33

 

19.イエズスのご生涯の事跡を、たんねんにしらべていくと、イエズスが、マリアをとおして、かずかずの奇跡をおこない始めるのを望まれたことがよく分かります。イエズスは、マリアのことばをとおして、先駆者ヨハネを、その母エリザベトの胎内で聖化されました。マリアが、ごあいさつをとおして、先駆者ヨハネを、その母エリザベトの胎内で聖化されました。マリアが、ごあいさつのことばを述べられるとすぐ、ヨハネはまったく聖化されたのです。これは、恩寵界の最初にして最大の奇跡です。(ルカ1・41)

 イエズスは、カナの結婚披露宴で、マリアのつつましいねがいによって、水を、ぶどう酒に変えてくださいました。これは、自然界での最初の奇跡です。(ヨハネ2・1〜12)イエズスは、マリアをとおしてこそ、ご自分の奇跡をおこない始め、おこない続けられたのです。イエズスは世界終末の夕べにいたるまで、マリアをとおして、奇跡をおこない続けていかれるのです。

 

 

 

 

21.現今では公然たる奇蹟は行なわれはしないで、公然ではない、または顕著なものでない奇蹟が行なわれる

 

 

天界の秘義4031[3]

 

 しかしかれはこれらの手段はすべて強制的なものであって、たれ一人それによっては到底改良されることはできないことを知らないのである。なぜなら何であれ人間を強制するものはことごとく人間にいかような情愛も与えはしないし、またはもしそれがそれを与えるような性質のものであるなら、それはそれ自らを悪の情愛に結びつけるからである。なぜならそれは何か聖いものを注入するように見え、それを注入さえもするのであるが、しかしその人間の状態が変わると、かれは以前の情愛へ、すなわち、悪と誤謬へ帰ってしまい、そのときはかの聖いものはそれ自らを悪と誤謬とに連結させていて、冒涜的なものとなり、そのときは凡ての中でも最も痛ましい地獄へ導き入れる性質のものとなるからである。なぜならその人間は先ず承認し、信じ、また聖いものに感動し、次にそれを否定して、嫌忌さえするからである。(一度心で承認し、後に否定する者らは冒涜する者であるが、心で承認しなかった者たちは冒涜はしないことは前の301−303、571、582、593、1001、1008、1010、1059、1327、1328、2051、2426.3398、3399、3402、3898番に見ることができよう)。こうした理由から現今では公然たる奇蹟は行なわれはしないで、公然ではない、または顕著なものでない奇蹟が行なわれるのであり、それは聖いものの感じを吹き込んだり、または人間の自由を取り去ったりはしないようなものであり、それで死人は甦りはしないし、人間は直接の啓示により、または天使により悪から遠ざけられはしないのであり、または公然たる力により善へ動かされはしないのである。

 

 

 

 

22.最大の奇蹟は再生

 

 

サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書/P227

 

 最大の奇蹟は人の中の「新生」である。この奇蹟を体験した者には他のことすべてが可能になる。極寒の地においては水の橋は当たり前の現象である。下の水は自由に流れていても河の表面は凍っているので、人は難なく河の上を渡ることができるのだ。だが、灼熱の気候の中で絶えず熱気で汗をかいているような人々に水の橋のことを語ろうものなら、すぐに「自然界の法則に反するのであり得ない」という答が返ってこよう。新生を体験し、祈りによって霊的生命を保つ者と、この世的生活を生きて物質的なことにしか価値をみない者との差も同じほど大きい。