誤謬と悪から守るもの・・・信仰の真理

 

天界の秘義6502[]

 

エゼキエル書には―

 

その川のそばのその岸の上に、かなたかなたに、あらゆる食物の木が生え、その葉は落ちず、その果もつきはしない、その水は聖所から流れ出ているため、それはその月の中に再び生まれる、そこからその果実は食物となり、その葉は薬となる(47・12)。

 

この予言者の書の中でここにとり扱われている主題は神の新しい家、または新しい神殿であり、それにより新しい教会が意味されており、内的意義では主の霊的な王国が意味されており、それで『その岸に食物の凡てが生える川』は理知と知恵とに属している事柄を意味し(108、109、2702、3051番)、『木』は善と真理の認識と知識とを意味し(103、2163、2682、2722、2972、4552番)、『食物』は善と真理そのものを意味し(680、4459、5147、5293、5576、5915番)、『聖所から流れ出る水』は理知を作る諸真理を意味し(2702、3058、3424、4976、5668番)、『聖所』は天的な愛を意味し、その最高の意義では、その愛の源泉である主の神的な人間的なものを意味し、『食物となる果実』は愛のいくたの善を意味し(913、983、2846、2847、3146番)、『薬となる葉』は信仰の真理を意味している(885番)。

 

このことから『薬』の意味していることが、すなわち、誤謬と悪から守るものが明らかである、なぜなら信仰の真理が生命の善に導くときは、それは悪から遠ざけるため、(そこから)守るからである。

 

 

天界の秘義885

 

「葉」が真理を意味することは聖言の多くの記事から明らかであり、そこには人間は木にたとえられ、または木と呼ばれており、「果実」は仁慈の善を、「葉」はそこから発した真理を意味している(それらは実にそうしたものに似ているのである)。例えばエゼキエル書には、

  そしてその川のそばのその岸のこちら側とむこう側とに食物のための木がことごとく生えており、その葉は落ちない、実もまた尽きることもなく、月毎にそれは新しく生まれている。その水は聖所から流れ出ているためである。またその実は食物となり、その葉は薬となるであろう。(47・12、黙示録22・2)

ここに「木」は主の王国を内に宿した教会の人間を意味し、その「果実」は愛の、また仁慈の善を意味し、その「葉」はそこから発した諸真理を意味し、その諸真理は人類に教え、人類を再生させるために役立っており、そうした理由から葉は「薬」になると言われている。さらに―

  かれはその根を引き抜き、その果を切り去られてそれは枯れてしまわないであろうか。これはその枝の葉をことごとく摘みとられて枯れてしまうであろう。(17・9)

これはぶどうについて、すなわち、剥奪される状態におかれた教会について言われており、「果実」であるその教会の善と「摘みとられた枝の葉」であるその教会の真理はかくて死滅してしまうのである。

 

エレミヤ記には

  ぶどうにはぶどうの実はなく、いちぢくの木にもいちぢくの実は無く、葉は落ちてしまった。(8・13)

「ぶどうの実」は霊的な善を、「いちぢくの実」は自然的な善を意味し、「葉」はこの場合、落ちてしまった真理を意味している。イザヤ書にも同じことが言われている。(34・3)

同じことがイエスが眺められ、葉の外には何物もその上にはないのを見られ、そのために枯死してしまったいちぢくの木によっても意味されている。(マタイ21・19,20、マルコ11・13.14.20)

とくにこのいちぢくの木により自然的な善のいかようなものも最早存在しなくなったユダヤ教会があって、その中に保存された宗教的な教訓または真理が葉なのである。なぜなら剥奪された教会は真理を知ってはいるが、しかしそれを理解しようとはしない底のものとなるからである。自分は真理をまたは信仰のいくたの事柄を知っているとは言うが、しかし仁慈の善を何ら持っていない者もそれに似ていて、かれらはいちぢくの葉に過ぎず、枯死してしまうのである。