ヘレン・ケラー(1880〜1968)

My Religion』の邦訳:

『光の中へ』/鳥田恵訳/高橋和夫監修/めるくまーる

『わたしの宗教』/柳瀬芳意訳/静思社

 

「冷たい水の筋が私の手を流れているあいだ、私は全身の注意力を先生の指の動きに集中しながら、じっと立っていました。突然、私の中に不思議な感動が湧きあがりました。おぼろげな意識。遠い記憶のような感覚。それは、まるで死から甦ったような感動でした!先生が指を使ってしていることは、私の手を走り抜ける冷たい何かを意味しているのであり、こうした記号を使えばわたしも人に意志を伝えることができるのだということを、私は理解したのです。それは、けっして忘れることのできないすばらしい一日でした!前へ後ろへすばやく駆けめぐる思考がやって来ました。思考は、頭から出て全身にくまなく広がってゆくようでした。今では、それが私の精神的目覚めであったことが分ります。それは、何か啓示的な性質を帯びた経験だったように思います。

 

自分に大きな変化が起こったことを、私はすぐさまいろいろな方法で表現しました。手に触れるものはかたっぱしからその名前を知りたがりました。そして、その日の夜になるまでに私は三〇の言葉を憶えたのです。虚無感は消え去りました!自分の障害に立ち向かえるだけの歓びと強さを感じました!気もちのいい感覚が私の中をさざ波立って通りぬけ、心の中に閉じこめられていた甘く不思議な想いが歌いはじめました。

 

この最初の啓示は、暗い牢獄で過ごしたすべての年月を充分あがなってくれるものでした。凍りついた冬の世界に陽がさすように、あの“水”という言葉が私の心の中に沁みこんでいったのです。このすばらしい出来事が起こる以前の私には、食べて飲んで寝るという本能のほかには何もありませんでした。私の日々は、過去も現在も未来もなく、希望も期待もなく、好奇心も楽しみもない空白だったのです。」(「光の中へ」P203)

 

しかし、この出来事はまさに彼女の言う通り、「啓示的な」ものでした。ヘレン・ケラーが生まれて初めて知った言葉は、「水」という言葉だったのです。「水」は「真理・真理のいくたの知識」を表します。その真理によって彼女は生まれて初めて言葉という知識・認識・思考を得たのです。それは当初は自然界における知識・認識・思考でしたが、その後彼女がスウェーデンボルグによって霊的な知識・認識・思考を与えられることの前触れでした。

 

「けれども、この転機は私にとって、自然に対する驚きから霊的なものに対する驚きへと踏みこむ第一歩にすぎませんでした。スウェーデンボルグのメッセージが私に解き明かされたとき、もうひとつの別の貴重な贈り物が人生につけ加えられたのです。そのときの自分の感情を言葉にしてみるなら、それはあたかも光のなかったところに光がさし、漠然としていた世界が燦然たる確実性を帯びてきた、といった感じでした。」(P205)

 

「十八世紀スウェーデンの、この偉大な預言者の著作に私が初めて触れたのは、今からおよそ三〇年も前のことです。」(P37)

「ずっと以前、サリヴァン先生がこられるのを玄関先で待っていたときもそうでしたが、『天界と地獄』を読み始めた当初、私の生活に新たな喜びがやって来つつあることに少しも気づきませんでした。」(P51)

 

「読書好きの少女が、好奇心にかられてその分厚い本を開いたにすぎなかったのです。ところがどうでしょう、その序文の中でスウェーデンボルグの著作から放たれる美しい真理の光によって闇が照らされたという盲目の婦人についての一節を、私の指は奇しくも探りあてました。それらの真実は、失った現実の光をつぐなって余りある光を与えてくれたと、その婦人は断言しています。彼女は、肉体の中には完全な感覚をもった霊体というものが存在する、ということをけっして疑いませんでした。また、数年間闇の世界で過ごしたのちは、肉眼の内にある霊眼が、この世よりもっとすばらしく、完璧で、満ち足りた世界へ向けて、永遠に開かれるだろう、ということを疑いませんでした。

 

それを読んだ私の心は喜びいさみました。なぜならそこには、私が切実に感じていたこと、つまり、霊魂と肉体は別ものだということを強調するような信仰が見られたからです。私が全体として心に描いている世界は、限定された肉体感覚がいたるところで出くわす断片的な事物や不合理な偶発事の混沌とした世界とは別ものだというのです。私は、五体満足で幸せな若者がするようにこの本に没頭し、長い単語やスウェーデンの賢人の重厚な思想を解明しようと試みました。」(P51)

 

「霊界についての記述は、人間界では見られない美と不思議に満ちた、遠いはるかな夢の領域へ私を連れ去ってくれます。そこでは、天使たちの衣裳がひるがえり、偉大な生命と創造的な心が暗澹たる境遇に光明を投げかけ、事件や力ずくの闘争は永久に一掃され、神のほほえみによって闇夜は終わりなき昼へと明けそめます。こうした霊魂の雰囲気に包まれてすわり、気品あるいでたちの紳士淑女の堂々とした行進を見守っていると、私までが煌々と輝いてゆきます。不死性ということがようやく私にも理解できるようになり、この世界が愛おしく意義あるものとして新しい像を結びはじめます。」(P52)

 

彼女は身体に障害を持つゆえに、私たちが気づかない点に付いて、鋭い洞察をしています。むしろ私たちよりも正確にスウェーデンボルグの言う意味を把握している、つまり見えているのではないかと思われます。

 

「『しかし、私が見てきたこととあまりに違うこんな大胆で奇妙な主張を、どうして受け入れることができるでしょうか?』またしてもだれかが訊ねることでしょう。ほかの著述家の作品を読むとき、私たちは批評というものさしや規準を案内役としているのは確かです。けれどもスウェーデンボルグの著作となると、あてはめるべき規準などほとんど見当たりません。そもそもこのような場合、彼が通過した心理状態については、彼自身が報告していること以外にはほとんどまったく知るすべはないのです。もし私たちを納得させるものが何かあるとしたら、それは彼自身の声明をおいてほかにはありません。

 

それは、私の経験にとっては目新しいことでもなんでもありません。日々私は、眼が見え、耳が聞こえる友人たちに絶対的な信頼をおいていますが、その友人たちは、自分の感覚にいくたび欺かれ迷わされたことか、などと話してくれるのです。それでも私は、自分の世界を築きあげるために、彼らの証言から無数の真実をかき集めますし、そのおかげで私の魂も、空の美しさを想い描くことができ、小鳥の歌に耳を傾けることができるのです。わたしを取り囲んでいるすべては、おそらく沈黙と闇なのでしょう。けれども、私の内側では、私の霊においては、音楽と輝きが私を取り囲み、色彩がすべての思考を彩ってゆくのです。それと同じようにして、私は地の果ての彼方からもたらされるスウェーデンボルグの証言をもとに、私の来世を築き上げています。」(P78

 

「自分のまわりで起こっていることを見たり認識したりするのは、内なる人間であり、この内なる源泉から見てこそ初めて感情や感覚は生き生きしてくる、と彼は言っています。けれども、すべての感覚的経験は外側のものだという錯覚があまりに一般的であるため、精神を集中する訓練をしないかぎり、この錯覚を頭から取り除くことはできないのです。私自身は、絶えず自分の思考やイマジネーションに没入しているので、この錯覚にとくに悩まされたことはありません。けれども、私が草花や音楽や美しい景色の描写などを楽しむことができるのを知って、人々が驚きを隠さないことから、私には彼らの錯覚が事実であることがわかります。もし、触覚や嗅覚の能力についてのきわめて単純な事実を人々に理解させることさえ信じられないほど困難なことだとすれば、たんに肉体的に見たり聞いたりするだけでなく、異常なまでに霊的能力を用いて、感知できる物質的領域をほとんど無限の地平にまで広げてゆくことのできるスウェーデンボルグのような人の立場にたいして、彼らはいったいどのようにして妥当な評価をくだすのでしょうか?」(P80)

 

私は次の個所を読んで、彼女の洞察力に驚嘆しました。

 

「エマーソンがその著書『偉人論』の中で、スウェーデンボルグをそのひとりとして取りあげていることをご記憶でしょう。彼はこう述べています。

『月光から不老薬を精製しようとする夢想家というふうに同時代人の眼に映ったこの人物が、当時の世界にあってだれよりも真実の生を生きたことは疑う余地もない・・・巨大な魂をもった人物だった。その時代の人々にはとても理解できないほどかけはなれており、彼を認めるには長い焦点距離が必要だった』。

 

とはいえ、エマーソンがスウェーデンボルグの地獄を見る眼をもっていなかったということや、聖書のシンボリズムに対するスウェーデンボルグの解釈について理解力をもっていなかったということは、注目に値します。」(P57)

 

エマーソンはスウェーデンボルグを紹介した人物として知られています。私はエマーソンの文章を読んだことがないので直接知りません。しかし、彼が聖書のシンボリズム(表象)を理解しなかったということをヘレンが指摘しているのです。スウェーデンボルグの果たした役割はたくさん有るでしょうが、その大きな一つは「表象」の説明にあります。スウェーデンボルグを紹介した人間がそれを理解していなかったというのです。私はこれを読んで、驚くと同時に、彼女の指摘は真実だろうと思いました。なぜなら、私も実はこれとよく似た感覚を味わったことがあるからです。

 

それは、日本で初めてスウェーデンボルグを紹介した鈴木大拙博士についてのことでした。大拙博士は何冊かのスウェーデンボルグの本を翻訳しています。ところが、私は彼の「妙好人」か何かを読んでいて、キリストを評している文章の中で、キリストを神と思っていないことにびっくりしました。なぜならスウェーデンボルグの主張する最も主要な教義は、キリストは父なる神その方であるということだったからです。翻訳して紹介することと、その内容を理解する、あるいは賛同することとは全く別なのだということを私はその時初めて知ったのです。

 

また、これに関して、日本におけるスウェーデンボルグの優れた研究者であり紹介に努めた人である鳥田四郎牧師(1905〜1987)が、「予てから私が想像していた通り、博士にはスエデンボルグは殆ど受けられていないことを知った」(「新教会」誌201号)、と述べておられたということを伺い、ああ、鳥田牧師も同じことを感じておられたのだと思いました。

 

 

さて、次に、ヘレンの試練に対する見解を見てみましょう。

 

「私は自分の身体的障害を、どんな意味でも神罰だとか不慮の事故であると思いこんだことは一度もありません。もしそんな考え方をしていたら、私は障害を克服する強さを発揮することはできなかったはずです。いつも思うのですが、“ヘブル人に宛てたパウロの書簡”にある『神がこらしめられるのは、私たちを子として扱っておられるからである』(「ヘブル人への手紙」127節)という言葉には、とても特別な意味がこめられているようです。スウェーデンボルグの教えも、私のこの見解を支持してくれています。つまり彼は、必ずと言っていいほど誤解される“こらしめ”とか“せっかん”という聖書中の言葉を“神罰”としてではなく、“鍛錬”“試練”“魂の浄化”として定義しているのです。(中略)

 

そうなると、あらゆる種類の障害は、当人がみずからを開発して真の自由を獲得するように勇気づけるための、愛の鞭ということになります。それらは、石のように堅い心を切り開いて神からの高尚な贈り物を自分の存在の中から見つけ出すために、私たちに手渡された道具なのです。」(P190)

 

 

「これについては、人生の半ばで失明した人の例がきわめて具体的なので、それをあらゆる生命鍛錬の典型として使わせてもらいたいと思います。視力を失った人が最初に考えることは、自分に残されているのはもはや悲嘆と絶望だけだということです。彼は人間らしいことのすべてから閉め出されたと感じます。彼にとって生命は、冷えた暖炉の灰も同然です。野望の火は消え失せ、希望の光もありません。かつては喜んで使っていたものも、手探りで歩きまわる今では、彼に鋭い刃を突きつけているかのようです。もはや彼を愛している人たちを働いて支えてやることができなくなったため、そういう人たちですら知らず知らず彼の感情を苛立たせるような振舞いをします。

 

さてそこへ、教師でもあり友人でもあるなかなか賢い人が来て、こう保証します。たとえ眼が見えなくても、手を使って働くことはできるし、かなり訓練すれば聴覚が視覚の代わりもする、と。傷心の人というものは、なかなかこういうことを信じようとせず、絶望しているせいか、自分がからかわれているのだと誤解してしまいます。そして溺れかかっている人のように、自分を救おうとしている人をだれかれかまわず盲滅法になぐりつけます。それでも、本人がどう思おうと、彼を励まして前進させなければなりません。そしてひとたび彼が、社会に復帰して人間として価値ある仕事を遂行することもできるのだと気づけば、かつては夢にも思わなかったような存在が彼の中に花開くのです。もし彼が賢ければ、幸福というのは外的境遇にほとんど影響されないということを最終的には理解し、眼が見えたときよりもっとしっかりした足取りで闇路を歩いてゆくことになるでしょう。

 

これと同じように、“じわじわとやって来る世の中の試練”の中で精神的眼しいになってしまった人たちにも、自分の中にある新たな可能性を探して、幸福に向かって新たな道を切り開くよう説得することはできますし、またそうしなければなりません。彼らは、自分たちにもっと高尚なことを期待するような信条に、反発さえ感じるかもしれません。彼らは実際こう言うのです。「鈍感だろうが、みっともなかろうが、頑固だろうが、わがままだろうが、今あるがままの自分として見てくれればそれで充分です」と。

 

けれども、それを言葉どおりに受け取ってしまったのでは、彼らを侮辱し、人間の尊厳を侮辱することになります。私たちの内側には、あえてさらけ出さなかったり、そうしたいと思わなかったり、そうできなかった、もっと多くの感情や力や人間らしさがあり、もっとも近しい友人ですらそれを知らずにいるということに、私たちはいくたび気づかされることでしょう。私たちはあまりに自分自身を知らなすぎます。だからこそ、内なる自己を開き、無知を追放し、仮面をはぎ取り、古い偶像を捨て、間違った規範を打破するために、私たちには障害と試練が必要なのです。このような荒っぽい覚醒手段だけが、絶え間なく圧力をかけてくる外的世界の執拗な窮屈さや煩わしさから私たちを解放してくれます。」(P192)

 

「彼はどんな出来事やどんな障害の中にも選択の機会があり、選択は創造であるということを私たちに説いているのです。私たちは、試練を自己破滅へと方向づけることもできれば、逆に試練を善のための新しい力へと転換することもできます。一般的な意見や因習に身をまかせて漂うこともできれば、内なる霊魂の導きに身をゆだね、真理へ向かって勇敢に漕ぎ出すこともできます。自分の経験が本当に神によって祝福されたものであるかどうかは、外側から判定することはできません。私たち自身がそこに何を注ぐかによって、それが毒の盃ともなり、健康な生命ともなるのです。」(P196)

 

「アザミは土から生い立ち、バラにもとげがあるのなら、どうして人生に試練があってはいけない理由があるでしょうか?それは不思議でも残酷でもありません。試練は、私たちの生命を拡大し、この限られた地上では達成不可能なあの高い天命にそなえて私たちに強さを身につけるよう促す、神の激励なのです。自分を超えたものに向って努力してこそ、意識の拡大と歓びが獲得されるのです。ですから、弱い人や試されている人、意気消沈している人に、生命を吹きこむ思想と意欲を授ける輝かしい霊感の与え主になろうとして、この世の十字架を華奢な肉体の肩に背負われた主イエズス・キリストの模範を見習って、私たちもそれぞれ自分の障害を担ってゆこうではありませんか。」(P196)

 

そして彼女の信仰は希望に満ち、死をも恐れない力強いものとなります。

 

「けれども私は、二つの世界があることを知っています。ひとつは、紐やものさしで測ることができる世界であり、もうひとつは、心や直感で感じ取ることができる世界です。スウェーデンボルグは来世とはたんに想像できるだけでなく、望んでそこに行けるところである、としています。この世に生きている人たちは、やがて別離と悲しみを引き連れた死の脅威に出会うことになりますが、その人たちに対する彼のメッセージは、神のみもとから吹き出す甘美な息吹のように人々の心に吹きわたります。今や私たちは、“大自然”と同じような姿勢で死と出会うことができます。あたかも“大自然”が不滅性を奪おうとする死をものともせず、金やエメラルドや真紅の衣裳でみずからを着飾るように、私たちももっとまぶしい思想と光輝く期待を身にまとって、楽しげな足取りで墓場へと行進し、炎と輝いて死と出会うことができるのです。」(P206)

 

「私には、死を直視することを恐れるような貧弱な信仰は理解することができません。死の前でくずおれるような信仰は、頼りがいのないか細いアシにすぎないからです。」(P208)

 

以上