らい病の者

 

 

冒涜

 

 

 

 

1.らい病の者

2.冒涜

3.主の奇跡

 

 

 

 

1.らい病の者

 

 

天界の秘義9209(4)

 

不潔ではあるものの、清められようと渇望している者たちは「らい病人」と呼ばれ

 

 

 

マリア・ワルトルタ/イエズス―たそがれの日々/P177

 

いや、らい病の人も嫌悪されるが、私は彼らをあわれみ、呼ばれるなら、走って行って彼らを清める。おまえは清めて欲しくはないのですか?

 

 

 

 

2.冒涜

 

 

天界の秘義6959

 

「エホバは更に彼に言われた」。これは、霊的な教会の者たちが信仰を持たないなら、彼らの性質はいかようになるかについて先見されたことを意味していることは、『エホバは言われた』の意義から明白であり、それは(前の6946番のように)先見である。この言葉が、霊的な教会の者たちがもし信仰を持たないなら、その者たちの性質はいかようになるか、を意味している理由は、以下の記事に取扱われている主題は、(イスラエルの子孫により表象されているところの)霊的な教会に属している者たちがもし信仰を持たないなら、その者たちの性質は更にいかようになるか、即ち、彼らは真理の冒涜者となるであろうということである。なぜなら棒が蛇になった最初の奇蹟は彼らの状態を、即ち、彼らは全く感覚的なものに、形体的なものになるであろうということを意味しているからである。手が癩病になったこの奇蹟は冒涜を意味しているのである、なぜならもし教会が無信仰の状態を固守するなら、そうしたことがそれに続いて起こるからである。

 

 

 

天界の秘義6959〔2〕

 

 霊的な教会の者たちは、その子供の頃、また後にはその青年時代にその教会の教義的な事柄を信じるが、しかしその時は彼らは両親や教師から信仰を得るのであり、彼ら自身から得ているのではない、それで後になって彼らは信仰から遠ざかるにしても、その真理を彼らは極めて僅かしか冒涜しないのであり、その冒涜は神的な手段によって除かれることが出来、かくてその当人はその罪責から自由にされることが出来るのである。しかし、もし人間が自分自身から、即ち、自分自身の中で色々と確認することによって教会の教義を、また聖言を信じるなら、そしてその後になって(そこから)遠ざかり、以前信じていたものを自分自身の中に否定するなら、特に彼が自分自身の中に確認していた真理に反した生活をし、それを自分自身に有利になるように説明するか、または全然それを斥けてしまうか、するなら、彼は真理を冒涜するのであり、それは彼が彼自身の中に真理と誤謬とを混入させ、連結させるためである。こうした人物は真理と善との残りのものを殆ど全く持っていないため、彼らは他生では遂には骸骨のようになり、肉の有機的な生命に比較されると骨には生命が残っていないほどにも、生命は残らなくなるのである。しかし真理を冒涜する者の運命よりは善を冒涜する者の運命は更に痛ましい、主の霊的な教会に属している者たちは真理を冒涜することは出来るが、善をそれほど冒涜することは出来ないのである。

 

 

 

天界の秘義6959〔3〕

 

『癩病』は真理を冒涜することを意味しているため、またそれが以下の記事に取扱われている主題でもあるため、冒涜について前に言いもし、示しもしたことを先ず参照されたい、即ち、教会の中にいる者たちは聖い物を冒涜することが出来るが、教会の外にいる者たちはそれを冒涜することは出来ない(2051、3399番)、聖い事柄は、それを以前に承認した者たちによらなくては冒涜されることは出来ない(1008、1010、1059、3398、3898、4289番)、真理と善とを承認し、信じつつも、それに反した生活を送ることもまた冒涜である(4601番)、人間は可能な限り冒涜から遠ざけられる(301−303、1327、1328、3398、3402、番)、冒涜者たちの運命は他生では凡てのものの中でも最悪である(6348番)。

 

 

 

天界の秘義6963

 

『癩病』の意義は冒涜であり、特に、真理の冒涜である(そのことについては以下を参照)。

 

 

 

天界の秘義6963〔2〕

 

なぜならもし彼らが聖言の内なる事柄を知り、また彼らの間にある教会の祭儀により表象されている諸真理そのものを知り、それらを信じて、しかも彼らの性向に従って生きたとするなら、即ち、自己への愛と世への愛との中に生き、彼ら自身の間では憎悪と復讐の中に、異邦人に対しては残酷の中に生きたなら、彼らは必然的に、そのかつて信じた真理を冒涜したに違いないからである、なぜなら真理を信じつつも、それに反して生きることはそれを冒涜することであるからである。それで彼らは可能な限り内なる真理にかかわる知識から遠ざけられて(3398、3489番を参照)、自分たちは死後も生きることを知りさえもせず、メシアは魂を永遠に救うために来られていることを信じもしないで、その民像を世界の凡ゆる他の民族にもまさって高揚させるためにのみ来られると信じるほどにもなったのである。そしてその国民はそうしたものであったのであり、現今でもまたそうした者であるため。それで彼らは例え基督教国の真中に住むとしても、依然信仰からは通してざけられているのである。

 

 

 

 

3.主の奇跡

 

 

天使館/マリア・ヴァルトルタ/私に啓示された福音/2卷P149/94.4−5(あかし書房/イエズスに出会った人々1卷P289)

 

女は斜面を転げ落ちるかと思われるほどすばしっこく下りると、ペトロが先生のもとに戻るより先に、イエズスの足下に着く。

「主よ、憐れんでください!」

 

「わたしはあなたを憐れむことができると信じますか?」。

 

「はい、あなたは聖者ですから、そしてわたしは悔悛者(かいしゅんしゃ)ですから。わたしは罪でありますが、あなたは憐れみでいらっしゃいます。わたしに最初に憐れみをかけてくださったのは、あなたのお弟子で、わたしにパンと信仰を恵みに来てくださった。主よ、肉よりも先にわたしの霊魂を清くしてください。と申しますのもわたしは三重に不浄ですが、あなたがたった一つの清浄しか与えられないとおっしゃるのなら、罪人のわたしの霊魂を清浄にしていただきたいからです。あなたのお弟子がわたしに繰り返したあなたのお言葉を聞く以前、わたしは人びとの中に戻るために病を治癒してもらいたいと望んでおりました。今は、永遠の生命を有するために赦していただきたいのです」。

 

「あなたを赦します。それ以外には何も・・・」。

 

「あなたは祝されますように! わたしは隠れ家で神の平和のうちに生きるでしょう・・・自由に・・・おお! 良心の呵責から、恐怖から解き放たれて。赦していただいた今は、もはや死さえも恐れません! 今は、わたしを赦してくださった神、あなたをもはや恐れません!」。

 

「湖へ行き、体を洗いなさい。そしてわたしが呼ぶまでそのまま水の中にいなさい」。

 

(中略)

 

イエズスを凝視すること以外何一つ見ていない女は、その二人の悲鳴を聞き、自分を指差している手を見て、はたと自分を見る・・・そして、あの着ていたぼろと共に、彼女の癩も湖に残して来たことに気づく。走り出すかと思いきや、走らない。裸の自分に恥じ入り、岸辺にうずくまり、泣き崩れる。その慟哭は、どんな叫びより悲痛でいつ果てるとも知れず、哀切である。

 

 イエズスは彼女に近づく・・・傍らに来る・・・彼女に布を掛けてやり、そっと頭を撫でて言う。

 

「さようなら。善い人であってください。あなたの痛悔の真摯さにより、あなたは恩寵を受けるに値したのです。キリストへの信仰において成長しなさい。清めの掟に従いなさい」。

 

 女はいつまでも、いつまでも、いつまでも泣きつづける・・・ペトロが踏み板を舟に引きずり上げる音を聞いた時、初めて顔を上げ、両腕を延べて叫ぶ。

 

「主よ、ありがとうございます。祝されたお方よ、祝されたお方よ!・・・」。

 

 イエズスは、舟が小さなフィヨルドの岬を曲がって消える前に、彼女に手を振って別れを告げる・・・

 

 

 

 

 

マリア・ワルトルタ/イエズスに出会った人々3./P336/ (マリア・ヴァルトルタ/私に啓示された福音/7卷上P179/450.10)

 

「私には何もできず、あなたの信仰は幻滅を覚えるだけだと言ったら?」

 

「それはいとも高き御方の思し召しであり、あなたはいつかななる時も主だと希望し続け、あなたを信じ、愛します」

 

イエズスは息をのみ、群衆に向かって呼びかける。

 

「まことにまことにあなたたちに言うが、この人は山をも動かすほどの信仰を持っています。信、望、愛は、喜びよりも苦しみの時に試されるものです。大き過ぎる喜びは、未熟な人の心を滅ぼすおそれがあります。平穏な日々に、善い方だと信じて生きるのは簡単です。けれども病気、死、災い、悲惨な出来事が続き、皆に見捨てられる時、信、望、愛を忘れず、『いとも高き御方の望みが実現されますように。今起きていることは私にとって有益です』と変わらず言える人こそ、まことに言うが、神の助けを受けるに値するのみならず、神の国での住まいが用意され、もはや清めを必要としない。なぜなら、この人の正義が、過去における生活のすべての負債を帳消しにしたからです。人よ、あなたに言うが、“神はあなたとともにおられるので、平和に行きなさい”」

 

こう言いつつ振り向き、癩病者をまるで自分の方へ引き寄せるかのようにし、すぐそばでよく見えるようになった時、命令する。

 

「私は望む! 清められますように・・・」

 

月が、銀の光で、あの恐るべき病気のすべての膿、傷跡、かさぶたを清め、取り去るかのようである。この人の体は再び健康を取り戻す。

 

「奇跡だ」と叫ぶ群衆のホザンナによって、そうと知った人は、その痩身に神秘的な威厳を漂わせる老人である。律法に定められた時までイエズスの足に触れられないので、大地に接吻する。

 

「立ちなさい。祭司の所へ行くための清潔な服が届きます。あなたは神の御前に、いつまでも心の清さをもって進むことを心に留めておきなさい。さようなら、平和があなたとともに」

 

イエズスは群衆の中に戻り、皆と一緒に村へ戻る。

 

 

 

 

サンダー・シング/イエス・キリスト封印の聖書/P303

 

「またあるとき、わたしは、司祭とともにハンセン病患者を見舞いに行った。友は病人に『可哀想に、あなたの苦しみを見るのはとても辛い』と声をかけたが、相手の答をきいていたく驚いた。『あなたは悲しみばかりを思っておられるが、わたしは心が素晴らしい平和に満たされていることを、神に感謝しています。自分がこのような病にかかっていることについても感謝しているのです』。わたしは、この男が難病であることに感謝しているときいて驚かされたが、彼はさらにこう付け加えたのである。『自分が健康体だったら、きっと、人殺しや盗賊になっていたでしょう。しかし、わたしはこの病を通して罪という病を知ったのです。肉体の病から癒されることを、今は願っていません。わたしは、霊的な病を癒やされて、今や、イエス・キリストにある歓びを発見したのですから』。この貧しい人は、言葉には尽くすことのできない歓喜を持っていた。言葉には出せずとも、彼の涙がそれを静かに物語っていた。キリストは、貧しい者に福音を伝えるために来られたが、貧しい人はそれを身をもって知るのである。わたしは、ともにいた司祭は、この貧しい人ほどの幸せを得てはいないと思った。そして、富める人、健康な人の多くもまた、貧しい人々ほどには幸せではないと知った。本の中にではなく、生けるキリストの中に貧しい人への福音があることは、経験が証明している」