雑記1

以前、biglobeのブログに書いた記事を整理して載せています
 
井上長老夫妻  (2004/04/04)
今日、教会に井上龍一長老夫妻がいらっしゃいました。
教会教育部を退職されたあと、教育宣教師として、沖縄の地に赴任されたようです。
2年間、セミナリーやインスティトゥートで教師をされるとのこと。
NHKスペシャル「地球大進化」  (2004/04/19)
4月17日放送のNHKスペシャル「地球大進化」みました。
直径400キロメートルの巨大いん石が地球に衝突したときの
予測CGがすごかったです。こんないん石が過去8回は地球
に衝突したことがあるらしい。衝突したときのエネルギーで
地表は太陽の表面温度に匹敵する4000度の高熱で覆われて
しまう。地表の海はすべてひあがってしまい、地表の全ての
岩も灼熱のためどろどろにとけてしまう。まさに地獄の世界。
キリストの再臨時に世界が火で焼かれるの図を想像してしまいました。
これじゃ、こんなエネルギーがあれば、大陸が一つになったり、
山は低くされ、谷は埋められて、平地になってしまうだろうな
と思いました。


エリ、エリ、レマ、サバクタニ  (2004/05/09)
イエスは十字架にはり付けになられたとき、
次のように言われました。

イエスは大声で叫んで「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と言われた。 それは、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったの ですか。」という意味である。 (マタイ27:46)
福音書の著者はなぜ、単に、
イエスは大声で叫んで「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てに なったのですか。」と言われた。
と書かずに、原語を表記したのだろうか。 それは、この部分が旧約聖書の詩篇、第22篇からの引用だったためだ。 新約聖書自体はギリシャ語で書かれている。 しかし、当時の旧約聖書は大部分がヘブライ語で書かれていた。 「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」はヘブライ語だ。 当時のパレスチナ地方では日常生活にヘブライ語は使われていなかった。 ヘブライ語は聖書を読むときだけに使われていた、いわゆる古語だった。 当時でもキリストのこの言葉聞いて、旧約聖書から引用だということは、 すぐにわかったことだろう。 だから、ここではヘブライ語の音訳が載せられているのである。 詩篇第22編
1)わが神、わが神、なにゆえわたしを捨てられるのですか。 7)すべてわたしを見る者は、わたしをあざ笑い、くちびるを突き出し、 かしらを振り動かして言う。 8)「彼は主に身をゆだねた、主に彼を助けさせよ。主は彼を喜ば れるゆえ、主に彼を救わせよ」と。 16)悪を行うものの群れがわたしを囲んで、わたしの手と足を刺し貫いた。 18)彼らは互いにわたしの衣服を分け、わたしの着物をくじびきにする。
マタイ第27章
35)彼らはイエスを十字架につけてから、くじを引いて、その着物を分け、 39)そこを通りかかった者たちは、頭を振りながら、イエスをののしって 40)言った、「神殿を打ちこわして三日のうちに建てる者よ。 もし神の子なら、自分を救え。そして十字架からおりてこい」。 41)祭司長たちも同じように、律法学者、長老たちと一緒になって、嘲弄して言った、 42)「他人を救ったが、自分自身を救うことができない。あれがイスラエルの 王なのだ。いま十字架からおりてみよ。そうしたら信じよう。 43)彼は神にたよっているが、神のおぼしめしがあれば、今、救ってもらうがよい。 自分は神の子だと言っていたのだから」。 44)一緒に十字架につけられた強盗どもまでも、同じようにイエスをののしった。
詩篇のこの箇所を読んで分かるように、これは救い主が 十字架上で受けることを何百年も前に予言しているのである。 イエスは単に弱音を吐かれたのでなく、聖書に書かれてある 世の救い主に関する予言が成就したことを宣言されたのである。
信仰のきっかけ  (2004/05/17)
人はどうして、姿を見ることもできない、声を聞くこともできない
神様のことを信じることができるのだろうか。こういうわたしも、
神様にお目にかかったことはない。それでも信じている。なんの証
拠も無い。信じない者が信じるものになるには、何らかのきっかけ
があるように思える。そのきっかけは人それぞれだ。自分がそのき
っかけの話をしても、相手が信じるに至るきっかけを作るわけでは
ない。そのきっかけ、すなわち、「信仰の種」はそのひとの信仰の
元をつくる独特の経験である。わたしの信仰のきっかけは以下の所
に書いた。

=> 私の証

新約聖書の中で、信仰を抱くきっかけを得た人々の話が載っている。

井戸端のサマリヤの女(ヨハネ4:4-42)
生まれつき盲目の男の癒し(ヨハネ9:1-38)

とても感動的で好きな話だ。
昇栄について考える  (2004/05/20)
昇栄、それは末日聖徒独特の教えです。「すべての人は文字どおり
神の子供たちである。神がかつては人であったように、すべての人
もやがては神のようになる可能性を備えている。」

しかし、この考えを自分だけにあてはめると、「昇栄するためには
あれも、しなくては、これも、しなくては・・・大変だなあ。」に
なってしまいます。

むしろ、これは自分以外のすべての人にあてはめて考えるとよいで
しょう。そうすると、すべての人に対して、相手を神の子供たちと
して接するようになりますし、尊重することもできるようになりま
す。これこそが、まさに昇栄の状態と言えるでしょう。

「一人一人は全宇宙よりも大切な存在である。」このような思いを
持って、イエス様は人類の贖いのみわざを行なわれたのだと思いま
す。わたしたち、一人一人の神の子供たちが神のような存在になる
ことができるようにです。そして、苦しまれ、命を捨てられました。

イエス様はこのようにおっしゃられました。「わたしは、新しい
いましめをあなたがたに与える、互いに愛し合いなさい。わたしが
あなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」
(ヨハネ13:34)

* 人に対して神の子供たちとして接することについて、わたしが
  以前書いた文章があります。こちらもごらんください。
  => 愛するから価値が出る
選民について考える  (2004/05/21)
今年の日曜学校の福音の教義クラスのテーマはモルモン書です。モ
ルモン書を学びなおして、いろいろな新しい発見がありました。そ
のうちの一つが「イスラエル」というものについてです。イスラエ
ルは選民と言われています。神はイスラエルを特別扱いしてイスラ
エルのみに祝福を与えられるというのが以前の理解でした。しかし、
神は全人類に祝福を与えるために、イスラエルを「もとい」とされ
たのです。
(詳しくは、「オリーブの木のたとえ」)

前回の記事、「昇栄について考える」で紹介したような人たちを選民
と言うのだと思います。つまり、「自分の周りにいる人たちを、神の
子供たちとして扱い、相手に自分が価値ある存在、愛されるべき存在
であることに気付かせ、神の子としての属性を引き出させ、神のよ
うになれるよう、成長を手助けする。」こんな人たちが選民なのだ
なということです。
選民について考える2  (2004/05/21)
わたしはモルモン書のヤコブ書5章66節の以下のところについて
考えていました。

「根とこずえの力の釣り合いを取りながら、良い枝が生長するに応
じて悪い枝を取り除き、良い枝が悪い枝を負かすようにしなさい。
それから、悪い枝を切り取って火の中に投げ込み、悪いものが果樹
園の土地をふさがないようにしなさい。このようにして、わたしは
自分の果樹園から悪いものを一掃してしまおう。」

なぜ、悪い枝を一斉に取り除いてはいけないのか。一斉に取り除い
てしまうとどういうことになるのか。そのようなときに、NHKス
ペシャル「63億人の地図」第3回「富と貧困・引き裂かれる町」
(2004年 3月28日(日)午後9時00分~9時50分)を見る機会がありま
した。

バーミンガムでは産業の衰退により町に売春婦があふれていました。
夜になると市の中央の公園では何百人の売春婦が客引きをしていま
した。公園は毎朝使用済みコンドームが散乱していました。そこで、
住民たちが立ち上がり、100人規模で公園周辺に張り込み、売春
婦を公園から追い出したのです。その結果は、売春は公園から市全
体に拡散し、住宅周辺がコンドームだらけになってしまいました。
住民はそこで、「彼女たちを追い出しても何の解決にもならない。
むしろ彼女たちも貧困による被害者じゃないのか」という議論を繰
り返し、最終的に彼女たちへの生活相談や就職斡旋活動を始めまし
た。これが、効果を生み、売春はなくなり、バーミンガム再生につ
ながったのです。

この事例を見て、まさにこれが先の聖文の意味であったのだと感じ
ました。この住民たちの行為は、前回述べたところの「選民」的な
行為だったと思います。
悪い習慣を捨てる  (2004/05/22)
前回に紹介したヤコブ書5章66節の聖句は悪い習慣を捨て去る場
合にも当てはめることができるでしょう。良い習慣が身につくにし
たがって、悪い習慣を捨てていくのです。ただ単に悪い習慣だけを
捨ててしまうと、以下の聖句が示しているようになるでしょう。

汚れた霊が人から出ると、休み場を求めて水の無い所を歩きまわる
が、見つからない。そこで、出てきた元の家に帰ろうと言って帰っ
て見ると、その家はあいていて、そうじがしてある上、飾りつけが
してあった。そこでまた出て行って、自分以上に悪い他の七つの霊
を一緒に引き連れてきて中にはいり、そこに住み込む。そうすると、
その人ののちの状態は初めよりももっと悪くなるのである。
(マタイ12:43-45)

この聖句は、人がせっかく悪い習慣を捨てたのに、良い習慣が代わ
りに身に着いていないと、また悪い習慣がもどってくるというふう
に読取れます。悪い習慣を捨てた後、人は今まで自分を満たしてい
たものがなくなって、心に隙間ができ、寂しく、空しくなります。
この隙間に良い習慣を入れ、心を満たせればよいのですが、そのま
まにしておくと、悪い習慣がもどってきて、前よりも悪い状態にな
るのです。
肉食について考える  (2004/05/23)
教会の食物規定については「教義と聖約」89章に書かれています。
これは知恵の言葉として有名な箇所です。ここに、肉食については
次のように書いてあります。

まことに、獣の肉と空の鳥の肉もまた、主なるわたしは、人間が感
謝をもって用いるために定めた。しかしながら、これらは控えめに
用いなければならない。冬季や寒いときや飢饉のときのほか、これ
らを用いないことがわたしの心にかなう。(89:12-13)

この聖句を見ていると主は肉食を禁じているわけではないが、あま
りお勧めできないという感じが伝わってきます。わたしは気にせず、
どんどん肉を食べてしまっているのですが、わたしの知人の教会員
には、この聖句をまじめに受け取って肉を極力食べないようにして
いる人がいます。わたしは彼を馬鹿にする気はありません。ただ、
自分には難しいと感じています。わたしは外食することが多いので、
どうしても肉食をせざるを得ないからです。

主は「寒いとき」と「飢饉のとき」に肉食を許しておられます。
わたしが考えるに「寒いとき」の理由は、次のようだ思います。
  ・寒いときにはエネルギーが必要だからであろう。
  ・この啓示が与えられた当時はまだ冷蔵庫がないため、夏は肉
   が腐りやすく、肉食の危険性が高かった。
  ・極地に住む人は、穀物を主食にすることが難しく、あざらし
   の肉などを主食にしている人たちもいるので、肉食を禁じる
   わけにはいかなかった。
「飢饉のとき」の理由は、当然、食べる穀物がないので、動物の肉
を食べざるを得ないからででしょう。

最終的には、主は肉食を禁じられるのではないかと、わたしは考え
ています。それは福千年の時代であると思います。というのも、福
千年では、肉食動物がわらを食べると言われているからです。人間
もおそらく、肉食をやめるのだろうと思います。

現在でもできるなら、肉食を控えるべきだろうと、わたしは考えて
います。理由は2つあります。
1)現在の世界の穀物生産量は100億人を養う量である。60億
  人では飢餓は生じないはずである。しかし、1食の肉を生産す
  るのに10食分の穀物を消費していると言われている。食糧不
  足は豊かな国の人々が5回に1回、肉食をやめれば解決すると
  言われている。飢えている人がいるうちは肉を控えるべきであ
  る。
2)過度な肉食は生活習慣病などの原因となっている。肥満の原因
  にもなっている。食生活を改善するためにも肉食を控えるべき
  である。
梵我一如  (2004/06/01)
いきなり仏教のことで・・・。わたしが仏教を勉強した(かじった)
ときに一番感心したのがこの言葉です。「ぼんがいちにょ」。「梵」
は宇宙全体のこと。「我」は自分のこと。つまり、宇宙全体と自分
とは同一のものであるという考えです。たとえて言うと、「梵」
(宇宙全体)を浴槽の中の水とするなら、「我」(自分)はその
中に、ザルを沈めたときのザルの中の水。ザルの中の水も、浴槽
の水も同じ物。ただ、ザルの囲いの中にあるかどうかの違いです。
自分と宇宙、自分と他者、これらは人が勝手に区分けしているので
あって、元は同じであるということです。これを広げていくと自分
というものの自我が実は確実なものではないことが分かります。
先ほどのザルを流れる川の中に置いてみましょう。ザルの中の水は
絶えず入れ替わり、もう10秒前の水と同じではありません。実際
の自分は絶えず生まれ変わって、同じ自分は存在し得ないのに、人
は自分というものが絶えず同じであると思い込んでいるのです。
執着心というものはこんな所から出てきます。たとえば、生に対す
る執着は、自分が自分でありたいという執着心からきます。自分
が全体の一部だと考えると、死とは全体が全体にあるがままに
残るだけだということになり、生に対する執着心が消えるのです。
お釈迦さまはこのように説いて、人から執着心を取り、生老病死
の苦痛から人を開放されようとしたのだと思います。

=> 弁証法とは
愛の反対は?  (2004/06/03)
マザーテレサは「愛の反対は、憎しみではなく、無関心です。」とおっしゃいました。
自分の子供を見ているとそれが理解できます。
子供は親の関心を引くために、わざといたずらしたり、わがままを言ったりします。
親に怒られるという形でもいいから、関心を引こうとするのです。
大陸移動説  (2004/06/17)
大陸移動説というのは、昔はひとつの大陸(パンゲア大陸)であったものが、
今のようないくつかの大陸に分かれたという説です。

大陸移動説を最初に唱えたのはドイツのアルフレッド・ウェゲナー(1880
~1930)でした。しかし、大陸が移動するしくみを地球物理学的に説明す
ることができなかったため、当時の学会では受け入れられませんでした。
しかし、1960年代、地殻の下のマントルの対流により、地殻が移動するこ
とが発見され、大陸移動説が広く受け入れられるようになりました。

それより前の1835年に出版された教義と聖約には次のように書いてあります。

彼が大いなる深みに命じると、それは北の地方へ退き、島々が一つの地となる。
エルサレムの地とシオンの地は、それぞれの所に戻り、陸地はそれが分けられ
る前の時代のようになる。(教義と聖約133章23-24節)

ここには、以前は陸地が一つであったが、今は分かれていること。そして、主
の再臨のときに再び一つになることが書かれています。

いつの時代に分かれたかは、旧約聖書の創世記10章25節に記されています。

「エベルにふたりの子が生れた。そのひとりの名をペレグといった。これは彼
の代に地の民が分れたからである。その弟の名をヨクタンといった。」

日本語の口語訳聖書では「地の民が分れた」とあり、不明確ですが、英語の欽
定訳では明確に「彼の時代に地が分かれた」と書かれています。

いまでこそ大陸移動説は常識になっていますが、ジョセフ・スミスの時代には、
まだ、提唱すらされていませんでした。おもしろいですね。
教会の日本語公式サイト  (2004/07/03)
やっと、教会の日本語公式サイトができてました。
内容はまだ少ないのですが、今後増えていくのでしょう。
ぜひとも、教会の聖典や書籍の電子データをそろえて欲しいです。
あと、ブックセンターの商品カタログと注文フォームがあればいいな。

=> 末日聖徒イエス・キリスト教会 日本公式ウェブサイト
今日の格言  (2004/07/10)
幸せは経験するものではなくて、
後で思い出してそれと気付くものだ。
教会員2世のこと  (2004/07/29)
8月に使徒が数名いらっしゃるようである。

沖縄では、パッカー長老が来られる。今回、パッカー長老が沖縄に訪問することにした
のは、ヨーロッパ地域の管理をされることになったので、今後、世界各地を廻ること
ができなくなる。そこで、思い出の地の沖縄に来るのを希望されたとのこと。

使徒がこのように多く日本に来られるのは、あまり無いように思う。わたしの記憶では
東京神殿の奉献式の時以来のような気がする。だから、何か重大なことが発表される
のでは無いかと思ってしまう。

わたしも妻と推測をしているが、わたしはとんと思いつかない。妻は、家族の大切さ
を強調されるのではと言っている。最近は、教会員の2世の教会ばなれが多いらしい。
この間のステーク大会のときも、菊池長老が来られて、この話をされていた。

しかし、使徒のアイリング長老は日本の将来について語ったとき、若い人たちが、教
会のことを喜んで伝えるようなときが来るとおっしゃっている。若い人たちが教会か
ら離れていくことが問題になっている現状とは、かなり隔たりがあるように感じられ
る。

アイリング長老の言葉に答えるように「イエス・キリストを信じなさい」という
ビデオが作られた。
使徒、来日  (2004/08/08)
3人の使徒が来日された。
今回の来日は、3つの地域でステークの再編が行われるためだそうだ。
そのため、3人で手分けして、昨日と今日で各地域で大会が行なわれている。

今日の集会で聞いた話だ。
そのついでにパッカー長老は沖縄に来られるらしい。
10日に集会があるので、詳しいことは、その後に書きたい。

一度に3つの地域でステークの再編だなんて、すごいな。なんか理由があるのかな。
詳しいことは、リアホナに載るとは思うのだが、その地域の人が、
インターネットの掲示板に情報を書き込んでくれるかもしれない。
使徒、来沖  (2004/08/11)
パッカー長老が来沖された。

パッカー長老は太平洋戦争のとき、米兵として沖縄で生死をさまよう経験されたようだ。

パッカー長老は、ヨーロッパ地域に常駐し、管理されることになったため、今後世界中を
まわることができなくなるので、思い出の地の沖縄に来ることを望まれたとのこと。

以下は特別集会の案内チラシから。

  ボイド・K・パッカー長老は、さる第二次世
  界大戦当時、一兵士として沖縄の伊江島に上
  陸しました。非常に激しい戦闘が続き多くの
  犠牲者が出る中、パッカー長老も生きて帰る
  望みも失せてしまうような厳しい状況に置か
  れてしまいました。「伊江島タッチュー」の
  中腹で絶対絶命の死の危険にさらされる中、
  パッカー長老は特別な祈りを捧げました。主
  が御心とされるなら、自らの命が生き長らえ
  ますように。もし、生きて帰ることができる
  のなら残りの生涯をすべて主に捧げます。そ
  のように決意し、そして祈られました。沖縄
  そして伊江島はパッカー長老の人生を大きく
  変えた特別な地となりました。その沖縄に長
  年再度訪れたいとのパッカー長老の望みは、
  今回の沖縄訪問で果たされることになります。

パッカー長老は9日に伊江島を訪問され、10日
に集会、11日に大阪へ移動された。

大阪では、3人の使徒とアジア中の地域幹部と
伝道部長が集合し、ミーティングがあるとのこと。
このようなことはソルトレークでもめったにない
ことだとおっしゃっていた。
使徒、来沖2  (2004/08/11)
話の内容のまとめは次の通り。

・60年前の伊江島は全てが破壊しつくされ何も
 ない状態だった。昨日訪問したら美しい島にな
 っていた。

・当時、沖縄にいた兵士の中にはマックスウェル
 長老もいた。

・戦争が終わって、横浜に移り、そこで帰国する
 日を待っていた。もうすぐ帰れると喜んでいた
 帰国2日前、上官に呼ばれ大阪の司令部に行く
 よう命ぜられた。「嫌です」と断ったが、絶対
 命令だと言われしぶしぶ従った。家族には、
 「残念ながら帰れなくなった」と手紙を書いた。
 しかし、このことがなかったなら、今、教会で
 このような責任は受けていなかっただろう。

・大阪では、佐藤龍猪さんと出会った。彼は英語
 の教師をしていたため、駐留米軍相手にお店を
 やっていた。彼が、末日聖徒の軍人と知り合い、
 当時、大阪学院大学で福音を教えていた私の所
 へやってきた。彼は、モルモン書の日本語訳を
 持っていたが、翻訳の間違いを数々指摘した。
 私はモルモン書の翻訳者に適任だとメモをした。
 佐藤夫妻に福音を教え、バプテスマを施した。
 そのすぐ後、帰国することとなった。横浜へ行
 く汽車の乗り場で佐藤夫妻と涙を流し別れを告
 げた。その後、佐藤兄弟は、モルモン経、教義
 と聖約、高価なる真珠の翻訳を行ない、日本の
 教会の基盤を築くこととなった。

・大阪にいくことは佐藤兄弟に福音を伝えるため
 だという、神様の御心だったとわかった。

・知恵の言葉は大切だ。知恵の言葉があるために
 教会に入ることを躊躇している人がいるので、
 知恵の言葉を廃止したらどうだという人がいる。
 しかし、その人は知恵の言葉が、啓示を受ける
 備えをさせる大切な戒めであることを理解して
 いない。それに、知恵の言葉がなければ、佐藤
 龍猪兄弟はこの教会に改宗しなかった。佐藤兄
 弟が末日聖徒の軍人にお茶をすすめたとき、彼
 が、「いえ、けっこうです。モルモンはお茶を
 飲みません。」と言ったのが、きっかけになっ
 たからだ。
・日本の若い教会員たちは、前の世代よりもすご
 い力を持っている。彼らが日本を大きく変えて
 行くだろう。

若い教会員たちが日本を変えていくことはアイリ
ング長老もおっしゃっていたが、使徒が2人とも
おなじことをおしゃるのには驚いた。現状は2世
の教会離れが深刻なのはお二人ともご存知のはず。
使徒にしか分からない何かが起り始めているのかも。
=> 使徒のアイリング長老 日本の教会員について語る
感謝  (2004/08/27)
しあわせだから、感謝するんじゃなくて、
感謝するから、しあわせになるんだよね。

神様の愛を感じるから、お祈りするんじゃなくて、
お祈りするから、神様の愛を感じるんだよね。
今月のリアホナ  (2004/08/29)
今月のリアホナで、このたび参議院議員になった糸数さんが、
教会員であったことをはじめて知った。
沖縄に住んでいながら全く知らなかった。
だって、教会でもぜんぜんアナウンスしなかったし。
アナウンスしなかったのは、教会が特定の政治家や政治団体と
かかわらない方針があるからだと思うが。
今月のリアホナは沖縄特集だが、最近のリアホナでは、
沖縄のことが取り上げられるのが多いなと思う。

沖縄は100万人ほど人口ですが、
そこに2つのステークと1つの地方部があります。
日本の中では、人口全体の教会員比率が高いような気がします。
一時期は伝道部もあったり、
ヒンクレー大管長が香港神殿奉献のついでに
日本に来られたときは、沖縄に来ていただいたり、
今回のパッカー長老の訪問といい
沖縄は祝福されていると思います。
霊が見える人  (2004/09/04)
自分は宗教をやっているから、霊があることを信じている。
しかし、霊を見たことはない。

世の中には霊が見えると言う人がいる。
その人が、実際本当に霊を見ているのか、
幻覚を見ているのか判断することは難しい。

自分の知り合いの教会員の中にも何人か霊が見えると言う人たちがいた。

ある人は夜中に誰かが壁をうるさく叩いて眠れないと言っていた。
隣の部屋の人に抗議をしたが、隣の人は何もしていないというのである。
こういうのが毎日続くのだそうだ。
私はその人のホームティーチャだったので、そのような悩み事の相談をされたが、
結局、なにもできなかった。

また、ある人は霊が生きている人間のようにはっきり見えるといっていた。
その人が、ある教会員と一緒にいるとき、その相手の先祖たちが、
早く神殿で儀式をするように伝えて欲しいと言ってきたきたそうである。
その人はその言葉をそのまま相手に伝えたそうなのだが、
相手は怒ってしまった。あなたにそんなこといわれる筋合いはないと。
霊たちは霊の見える人たちのもとに集まってくるそうである。
いろいろと生きている人に伝えて欲しいことがあるかららしい。
しかし、言っても信じてもらえないことが多いので、断っているらしい。

私が独身のときは、ある教会員とアパートに一緒に住んでいた。
いわゆるルームメートというやつだ。
その人も霊が見えたり、声が聞こえたりするようである。
その声が何々をするように言ったので、何々して欲しいと、
その彼は私にいろいろと頼むのである。
ときどきならいいのだが、毎日のように頼まれる。
ひどいときは夜中に叩きおこされた。
こういう生活が、いやになったので、
結局、その彼とはルームメートを解消した。

霊が見えるという人の言うことは、私も宗教をやってるので、
あまり疑いたくはないと思っているのだが、
その人たちが、霊の声だからといって、私に大変なことや、
やりたくないことを要求してくると、嫌になってきてしまう。

一時期、こういうことが重なって、私は教会にしばらく行かなかったことがある。
宗教なんかやっているから、霊が見えるという人とかかわってしまうんだ、
というのが理由である。
みたまについて  (2004/09/05)
教会では、御霊(みたま)を大切にする。
今月のリアホナでオークス長老は啓示について話をされていた。
みたまはわたしたちに啓示をもたらしてくれる。
わたしが受けたものが、実際にみたまからもたらされた啓示か、
幻聴かの区別は、それが現実と一致するかによって分かる。
(オークス長老のおばあさんが受けたみたまからの警告は
現実のものとなった。)

わたしも、今まで個人的に数々の啓示を受けてきたが、
それが神からの霊感であることがわかるのも、
その導きが現実にわたしの助けとなっているからだ。

みたまなんて、ただの感情の高まりや、
思い過ごしだと言う人がいるかもしれない。
しかし、わたしの経験からいうと、みたまは確かに神様からの霊感
であるし、実際に存在するものである。

こちらも参照してください。
=> 霊性

わたしは前回に記事でつらい思いをしたことを書いたが、
実は、その経験こそが、わたしにみたまと幻聴を見分けること
を教えてくれたのである。
いまから思うとよい経験である。

自分にとって、なにが必要なことだったのかは、
後になってわかることがよくある。
死んだ人  (2004/09/07)
年間死亡者  922,139人(1995年)

交通事故死者数   7702人(2003年)
自殺者数     34427人(2003年)

中絶胎児の数  年間約34万件(1995年)
       (未報告を入れると約100万件)
       (1995年の出生者数約118万人)

太平洋戦争死者
  戦闘員死者数 約150万人
  非戦闘員死者数 約50万人
    広島原爆  約15万人
    長崎原爆 約7.5万人
    東京空襲   約8万人
    沖縄戦   約12万人

9.11テロ死者数          3234人
アフガニスタン戦争民間人死者数  3767人
イラク戦争民間人死者数       25814人
3と7と12  (2004/09/10)
教会では3と7と12という数字がよく出てくる。

「3」
  天父と御子と聖霊
  会長会
  モルモン書の3人の証人
  聖書とモルモン書と失われた十支族の記録

「7」
  曜日の数
  七十人
  7つの千年紀
    (現在が6つめの千年紀、福千年が7つめの千年紀)
  7つの神権時代
    (アダム、エノク、ノア、アブラハム、モーセ、キリスト、ジョセフ・スミス)

「12」
  12時間
  12月
  12支族
  12使徒
  モルモン書の証人の数
    =ジョセフ・スミス+3人の証人+8人の証人
ガジュマルの下で  (2004/09/18)
今日ツタヤに行ったら、Bless4の「ガジュマルの下で」のCDがあったので、
買ってみた。聞いてみた。さすが、プロです。歌が上手です。曲もさわやか
な感じでよかったです。

今は沖縄限定発売だけど、10月13日から全国リリースするみたいです。

* bless4は「リアホナ」で紹介された4人組の音楽ユニットです。
教会の伝説  (2004/09/22)
教会の中では伝説めいた話をよく耳にする。
たとえば、次のような話。

1.アインシュタインの話を聞いた学生たちが真実の教会を探そう
  と思い立った。そして、真実の教会の条件を書いたリストを作っ
  た。それを元にそれぞれが教会を探したら、全員が末日聖徒の
  教会にたどり着いた。

2.末日聖徒の画家が教会の依頼でキリストの肖像画を書いた。
  その絵は預言者からキリストに一番似ているとお墨付きをもらっ
  た。教会の集会でその絵を見せたら、交通事故で両親を失った
  少女が駆け寄ってきて、両親が死んだとき私を慰めてくれた人
  だと語った。

3.ある宣教師が伝道中に事故で骨折した。そこに、ある別の宗教
  の人が来て、奇跡で治してしまった。しかし、その宣教師は自分
  の信仰を無くしてしまった。その宣教師が伝道部長と面接しても
  らったとき、伝道部長が「再び骨が折れるように」と命じると、ポ
  キっといって骨が折れた。そして、その宣教師は信仰を取り戻し
  た。

これらは、口頭できくだけで、文書になったものを目にしたことは
なかった。しかし、インターネットをしていると、1と2については、
文章になったものを見つけることが出来た。そこで私は、その要約
を自分のサイトの証集に入れた。3については、いまだに文章は見
たことがない。

1と2については、さらに裏を取るために、教会の出版物をいろいろ
探したが、(過去の機関紙の英語のCDロムなど)見つからなかった。

1については、教会ではない会社からカセットが売られているのは
見つけた。だが未入手なので、内容は確かめていない。

2については、デル・パーソンの書いた赤いローブをまとった、
キリストの肖像画だ。教会の出版物(モルモン書等)で目にする。
デル・パーソン氏のサイトも見てみたがソースは見つからなかった。
別なサイトの情報によると、教会から依頼を受けて書いたのは事実
だが、預言者からキリストに一番似ていると言われたとか、少女が
この人に会ったと語ったという話はなかったとしている。
このサイトの情報も真実を確かめようがないのだが・・・。

というわけで、この2つの話は、私のサイトの証集では、別に分類を
設けて掲載しようと思う。

=> 証集
中国のキリスト教  (2004/10/11)
最近聞いたびっくり情報は、
今の中国のキリスト教の広まりです。
なんと中国のキリスト教徒は2億人もいるとのこと。
共産主義の国なので、宗教の活動が認められていたことに驚きですが、
その数にまたビックリです。
沖縄の教会に集っている中国人の求道者から聞いた情報です。
その人もクリスチャンです。
200万人の間違いではないかと確認したのですが、
間違いなく2億人だと言うのです。
12億人の中国で2億人がキリスト教徒というのはいまだに信じられません。

まだ中国は外国の宗教団体の活動は認めていません。
ですから、末日聖徒イエス・キリスト教会も伝道活動はできません。
国内のキリスト教組織は活動を許されているみたいです。
すでにこれだけのキリスト教の基盤が出来ているとなると、
外国のキリスト教団体に活動が認められると、
すごいことになると想像できます。
キリスト教の活発なフィリピンでは、当教会の会員数の多く、
使徒が一人常駐している状態です。
中国も近い将来、フィリピン以上のことが起こることは、
想像できます。

そうなると日本の教会でも大きな影響を受けます。
おそらく、日本の宣教師の数が減らされ、
中国の宣教師の数が増員されるでしょう。
日本の伝道部は統合され4つぐらいになるかもしれません。
1つの伝道部が管轄する地方部の数が増えるので、
その負担を減らすために、地方部の統合が行われ
ステークにしてしまうことになるような気がします。
日本の伝道活動は日本の会員の手で行わなくては
ならない日が来るのでしょう。

今回、使徒が3人日本にいらっしゃいました。
そのとき、アジア全域の指導者を集めての会をもったとききました。
リアホナには、今回使徒が3人もいらっしゃた理由として、
アジアでのみわざを速めるためとありました。
これは、近くあるだろう中国の伝道開始を見据えての
準備でもあるのだなと感じています。
預言者の言葉  (2004/11/07)
今日は全国共同のステーク大会があって、衛星放送で大管長や他の指導者の話を伺った。

日本のために直接話を頂いたのは感動した。
たぶん生だと思うが、わざわざ時間を取って頂けたことに感謝です。

話の内容としては、特に目新しいことはなかったが、
今一番必要とされていることに焦点を当ててもらったと思う。
このことをできるようにならなければ、さらに新しい事柄はお話にはならないだろう。
お祈り、聖典学習、家庭の夕べ、社会の中で善を行なうものとなること、
新会員が孤独を感じないようにすること、神殿での奉仕、夫婦で伝道に出ること、
等々・・・。いつも言われているができていないことである。
他力本願  (2004/11/20)
昨日、仕事の帰りの車の中で、ラジオから他力本願という言葉が聞こえてきた。
「他力本願じゃなくて、自分の力でやってください」、という発言だった。
以前、この「他力本願」の使い方は間違っていると聞いていたので、
気になって今日、ネットで調べてみた。
他力とは仏様のことで、本願とは仏様の願いのことだという。
つまり、仏様が人類を救おうとする願いのこと。

これは、キリスト教に似ている。
人類は自分自身の力では、自分の罪を克服し取り去ることができない。
そこで、キリストが人類の罪を贖うべく、救いの手を差し伸べた。

自分の生活を振り返ってみても、自分の力で行なっていることよりも、
他人の力に負うことの方がはるかに多い。
食べ物を食べるにも、これは農家の人が作ってくれたものだし、
服を着るにも、服屋が作ってくれたものだ。
電気、ガス、水道が止まったらなにもできない。
ほんと、自分では何一つできない。

人は助けあわなければ生きていけないのだ。
だから愛が必要だ。
他力本願の趣旨は、こういうことを自覚することだと思う。

トルストイの創作民話「ひとはなんで生きるか」は、
そのようなことを題材にした話だ。
実にわかりやすく書いてある。トルストイは天才だと思う。
暇があったらぜひ読んでみてください。
要約は私のサイトに載せています。
=> トルストイ作「人は何で生きるか」のあらすじ

現代社会では貨幣が発達しているので、
人にしてもらっても、その対価にお金を払うから、
人は助けあって生きていることが実感できない。
愛というものの必要性を感じなくさせている。
お金は、本来は、人にしてもらっったときの感謝の気持ちをあらわすものなのに、
そのお金のせいで、憎しみ、犯罪、暴力、殺人が起っている。
人類は本来のあるべき姿に立ち帰らなくてはいけないと思う。
聖文の研究  (2004/11/21)
これは教会で聞いた話。

生活の中での「祈り」「聖文研究」「教会の集会への出席」の相関関係について、
ブリカム・ヤング大学で調査した結果。

・毎日お祈りをする人が、毎日聖文研究をして、毎週教会に行くかというと、
 必ずしもそうではない。
・毎週教会に行く人が、毎日聖文研究をし、毎日お祈りするかというと、
 必ずしもそうではない。
・毎日聖文研究する人は、必ず、毎日お祈りするし、毎週教会に行く。
次の神殿はいつたつか  (2004/11/30)
日本の教会員数の2年毎の推移をみてみると、
1980年あたりの増加数がすごい。

年   教会員数  増加数

1976年  27,516人
1978年  31,948人  4,432
1980年  45,958人 14,010
1982年  65,682人 19,724
1984年  70,998人  5,316
1986年  82,000人 11,002
1988年  85,000人  3,000
1990年  91,000人  6,000
1992年  99,000人  8,000
1994年 103,000人  4,000
1996年 106,000人  3,000
1998年 108,000人  2,000
2000年 110,897人  2,897
2002年 117,329人  6,432

1980年 東京神殿
2000年 福岡神殿

私は1986年の改宗だったので、このころの状態を知らない。
妻はこの頃、若い女性の会長をしていて、
改宗者が若い人が多かったので、フォローが大変だったと言っている。
このころって東京神殿が建った年だし、教会員数5万人の目標で、
かなりもりあがっていたようだ。

神殿って教会員数が5万人毎をめどにして建てられるようだ。
ということは、次は15万人に達するあたりか。
このままの増加数でいくと、次に日本に神殿が建つのは、
2020年あたりになりそう。
1980年の増加数だと2008年には可能だろが、
1980年の再現は大変なので、いやだという声も良く聞く。

沖縄でも、「沖縄に神殿を」という目標があるが、
もう福岡にも台湾にも神殿があるので、
沖縄だけで使用する神殿ということになる。
ということは、沖縄だけで教会員5万人を達成せねばなるまい。
人口100万人の沖縄で、5万人はかなりきつい。
でも、トンガでは10万人の人口で5万人教会員がいて、
神殿も建っているから、不可能ではないと思う。
佃さんの本  (2004/12/20)
こんな本を見つけた。

  私の気になる事

ちょっと面白そう。
近所の小さな本屋には置いてないだろうな。
ネットとで注文しても、つまんない本だったらいやだし。
大きな本屋に行く機会あったら探してみて、
面白そうだったら買ってみよう。
長いスプーン  (2005/03/06)
「長いスプーン」

  地獄へ行ってみた。
  そこには、暖かい大量のスープがあった。
  しかし、それをすくうためのスプーンは、
  柄の長さが2メートルもあった。
  スープをすくっても自分の口には運べないので、
  イライラし、争いごとばかりしていた。

  天国へ行ってみた。
  そこにも、暖かい大量のスープがあった。
  そして、それをすくうためのスプーンも、
  同じく柄の長さが2メートルもあった。
  スープをすくって、お互いの相手の口に運んだので、
  みんなは満腹でしあわせだった。

神権ってこの長いスプーンのようだ。
神権は自分のためには使えないが、
上手に使うとみんながしあわせになる。

神権は男性にしか与えられていないが、
男性だけがそれによって利益を受けるわけではない。
神権は自分のためには使えないからだ。
神権による祝福は男女平等に与えられるのである。

男と女はそれぞれ別の役割が与えられている。
女は、神様のもとから、この現世へ、人を連れて来る役割。
男は、神様のもとへ、この現世から、人を連れて行く役割。

神権とは神様のもとへ、人を連れて行く力である。

女は、自分自身で自分をこの現世へ、連れて来ることはできない。
(自分で自分を産めないということ)
それと同じように、
男は、神権で自分を神様のもとへ、連れて行くことはできない。


* 上記の「長いスプーン」は、人から聞いた話だ。
原典はトルストイの「天国と地獄」らしいが、見つけられない。
下のリンク先も原典そのものでなく、アレンジが入っている。
=> 天国と地獄のお話
ローマ法王逝去  (2005/04/04)
世界の平和に大きく貢献されたお方なので、残念です。

現在行われている末日聖徒の総大会でも
大管長がお悔やみのコメントをされたようです。

末日聖徒イエス・キリスト教会の大管長会は、ローマ法王ヨハネパウロ二世の逝去に 伴い、哀悼の意を捧げる声明を発表した。 「法王ヨハネパウロ二世の逝去を悼む世界中の人々と同じように私達も悲しみを感じ ています。偉大な信仰の人であり、将来への展望と英知に富んだ人であった法王の勇 気ある行いは、多くの人々の心に触れ、その思いは次の世代へも引き継がれるものと なることでしょう。 自由、家族、キリストの教えを擁護するものとして語られた法王の言葉は、堅固なも のとして残されました。諸事の原則と道徳について妥協することはありませんでした。 世界中の貧しいものに対して憐れみの情を持ち、確固とした姿勢を貫き通されました。」
今回のニュースでヨハネ・パウロ2世が「空飛ぶ法王」と呼ばれていたのを 初めて知りました。世界各国を精力的に訪れていたようです。 歴代法王で始めて日本を訪れた法王でした。 1981年2月でした。当時私は中学3年生でした。 法王の日本来訪はかなり盛り上がっていたのを思い出します。 それがきっかけで私もキリスト教に興味を持ち、 聖書を買って読み始めたのでした。 やがて、聖書の他にも聖書のようなものがあると、うわさに聞きました。 いろいろ探して古本屋でそれらしきものを見つけました。 モルモン経と書かれた書物でした。 そのときはお金がなかったので、数日後、貯金をおろして、 買いに行く道の途中で、末日聖徒の宣教師に出会いました。 その年の12月の出来事です。 法王が日本に来られなかったら、今の自分はなかったかも知れません。
安息日  (2005/04/24)
今日の日曜学校は「安息日」について勉強しました。
安息日は毎週日曜日にあり、この日は日々の労働を休んで、
教会に行き、神様を礼拝します。

旧約聖書の創世記では、神様は6日で地球を創造し、
7日目に休まれたと記されています。
これに由来して、7日に1日を休息の日として定められました。

創世記第2章 01)こうして天と地と、その万象とが完成した。 02)神は第七日にその作業を終えられた。すなわち、そのすべての 作業を終って第七日に休まれた。 03)神はその第七日を祝福して、これを聖別された。神がこの日に、 そのすべての創造のわざを終って休まれたからである。
イエス・キリストが復活するまでは、週の終わりの土曜日が安息日 でした。イエス・キリストが週の初めの日に復活されてから、それ を記念して日曜日が安息日として定められました。 日曜学校では、安息日にどのようなことをしますかということが話 題になりました。私はこれを聞きながら、神様は創造のわざを終っ て休まれたとき何をしたんだろうかと考えてしまいました。ひたす ら寝ていたのだろうか、それとも自分の作ったものを眺めていたの だろうか。こんなつまんないことをボーっと考えておりました。
尼崎の電車脱線事故  (2005/05/02)
尼崎の電車脱線事故から1週間が過ぎた。
107人もの死者が出るとは思わなかった。

突然、無意識のうちに亡くなった方もいれば、
意識があるまま苦しみながら亡くなった方もいるようだ。
遺体に涙を流した跡があったと、遺族の方が語っていた。

そのようなことを聞くと、とてもつらい気持ちになる。

私はマスコミで取り上げられる悲惨な事故について、
つらい気持ちになるが、マスコミに取り上げられない
つらい思いで死んでいった人たちのことは知らない。

以前の記事「死んだ人」でとりあげたが、
マスコミで取り上げないが、
ひどい亡くなり方をする人が年に何百万人もいる。
そのこと一人一人について考えることは、
わたしにはできない。

神様はこのことについてすべてご存知であることを思うと、
神様の苦しみは大変なものだと思う。
日本国憲法  (2005/05/03)
今日は憲法記念日。
というわけで、久しぶりに日本国憲法を読んでみた。

読んで、毎回感動するのは、前文と第9条と第14条である。
平和と平等。
日本国憲法は日本国民がかかげる理想である。
日本が世界に誇れる憲法だと思う。

しかし、既に自衛隊があるので、現実にあわせて第9条は
無くすべきだという人がいる。
でも、太平洋戦争後、日本の軍隊が人を殺すことがなかったのも、
この第9条があったからだと思う。

第9条はイザヤ書の次の言葉を思い起こさせる。
主は国民の中で裁きを行い、 多くの人を責められる。 彼らは剣を鋤先に、槍を鎌に打ち直し、 国民は国民に向かって剣を上げず、 彼らはもう戦いのことを学ばない。 (ニーファイ第2書12章4節)
教会の若人  (2005/05/08)
私は以前、教会の若者の教会離れが問題になっていると書いた。
(以前の記事「教会員2世のこと」を参照)
若者の教会離れは世の中の悪化(薬物やポルノの氾濫)や、
インターネット上での教会攻撃などが原因だと思われる。

しかし、最近、私の周りでは、
この現象は収まりかけているように感じる。
去年、教会の使徒3人が来日してから、
良い方に向かっているようだ。
私の集っている沖縄のあるワードでは、
中高生の会員が、集会出席者の4分の1程度を
占めるほどに回復している。
神権会では約半分を占めている。
むしろ、以前よりも増えている感がある。
毎週2、3人は彼らが連れてきた
学校の友達も集会に参加している。
これまでの試練は逆に彼らを強めるための
試金石になったのかも知れない。
以前よりも信仰や証が増しているようだ。

今月のリアホナに掲載されている
2004年度の統計報告を見ると、
専任宣教師数は51067人だった。
2002年度は61638人だったので、
約2割減っているのだが、
私はもっと減ると思っていた。
というのは2003年から宣教師の基準が
厳しくなっていたからだ。
セミナリーやインスティトゥートで単位を得た人など、
宣教師になるために長年準備してきた人しか、
宣教師になれなくなってしまったからだ。
私は半分ほどに減るのではと予想していた。
厳しい基準は、宣教師の量の低下よりも、
逆に、質の向上に貢献したようだ。
岡崎智恵子さんの言葉を読んで  (2005/05/12)
岡崎智恵子さんの言葉を読んで、思ったこと。

ある方から、以下の内容を教えていただいた。

  岡崎智恵子さんの「よろこび輝け」という書籍をご存じですか?
  日系ではじめて中央扶助協会の会長会になり、
  「性的虐待からの癒し」というスピーチでも有名な末日聖徒です。
  => Chieko Okazaki (1926 – 2011)

  少し引用します。

  私たちは、違いを必要としています。
  多様性は、個人としても教会としても、重要です。
  それでも、多様性を問題だと感じることがあります。

  異なることが悪いとか、異なった経験を持つ姉妹とは何も共通点はないと
  か、福音は私たちを同一にするためにあるなどと感じます。自分にチャレ
  ンジや困難なことがあると、何か誤ったことをしているに違いないと感じ、
  チャレンジに加え、罪悪感を背負いこんでしまうのです。

  「リラックスしましょう」。もしあなたが最善を尽くしているのなら、そ
  れで十分です。私はあらゆる面で最善を尽くしていない女性を知りません
  が、彼女たちの多くは、完璧にやっていないことだけを把握しています。
  驚くほどのことをやりとげていながら、往々にして、やり遂げたことに注
  目しないのです。むしろ、やり残したことや、これからやらなければなら
  ないことに集中します。

  私はしばしば、人生が手に余ると感じている女性、大いに不幸に感じてい
  る女性、一生懸命努力しているのに、それでは十分でない、うまくやらな
  かった、あるいは、今のままでは主に受け入れられないと感じている女性
  にあいます。そして、時折、女性たちは、福音における姉妹や教会の組織
  から、このような悲しみと不十分の感情を強めるメッセージを耳にします。

  このことに、私の心が痛みます。これは福音ではありません。教会が存在
  する目的ではありません。「リラックスしましょう」とは、「無責任であ
  りましょう」を意味するメッセージではありません。これは、すでに自分
  の責任をあまりに深刻に受け取り、重圧を感じている女性へのメッセージ
  です。

  マタイ書に記された、素晴らしい約束を思い出して下さい。

  「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あな
  たがたを休ませてあげよう。わたしは柔和で心のへりくだった者であるか
  ら、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなた
  がたの魂に休みが与えられるであろう。わたしのくびきは負いやすく、わ
  たしの荷は軽いからである。」(マタイ11:28-30)

  いかにして、荷は軽くあり得るのでしょう。それは、くびきが二人で引く
  ようになっているからです。イエスは、くびきを引く相棒になることを望
  んでおられます。それでも、私たちは独りで荷を引くことを主張し、それ
  がなぜ傾いているのか理解せずに、苦闘することが何度あるのでしょうか。
  主はその荷を負うことを望まれ、私たちはそうしてもらう必要があるので
  す。(中略)

  すべての人にとって、暗いときは何度かやってきます。そのようなとき、
  人生に太陽の光を入れることを忘れないで下さい。自分に無情であっては
  いけません。他人に無情であってはいけません。自分が行う良いことを、
  自分の手柄として下さい。過ちを犯すなら、努力したことを手柄として下
  さい。

  (岡崎智恵子著 Lighten up!より)

まず思い出したのが「足跡」という詩。

どんなに辛いときであっても主がそばにいて支えてくれている、
このことに気づくことはどんなに私たちを癒してくれることか。

ボイド・K・パッカー長老は「贖罪についてのたとえ」
の中で、主は私たちから耐え難い重荷を取り去り、
新しい耐えられる重荷を与えてくださると語っている。

主の与えられる重荷は、けっして、
私たちに苦痛を与えるためのものでない。
以前の記事「長いスプーン」で述べたが、
自分の行なう奉仕が、
自分の問題を解決することにつながる。
主の与えられる重荷はそのようなものである。

キンボール大管長は次のように語っていた。
・奉仕することによって、生活を意義ある楽しいものにできる。
・他人を助けることによって、自分の問題を新たな観点で見られるようになる。
・関心を他の人に向ける時間が多くなると、自分のことを思い悩む時間がなくなる。
・わたしたちの問題を解決したり必要を満たすためには、
 お互いに奉仕しあうことが大切である。
・奉仕しあうことによって、人生観を高め、他の人に対する見識を広め、
 自己の可能性を伸ばしていくことができる。
・奉仕することによって、視野を広め、広い視野を通して、
 さらに多くの奉仕の機会を見いだせる。
・奉仕することによって、人々に対する見方を変え、真に大切なことを見極め、
 あまり重要でない事柄に惑わされることがなくなる。
  => 「豊かで満ち足りた人生」

信仰、希望、愛  (2005/05/13)
信仰、希望、愛の3つの徳は、
他の数ある徳と違って、
超自然的な徳と言われています。

他の自然的な徳は人間社会が生み出した、
社会ルールとも言うべきものですが、
超自然的な徳は神が生み出したもので、
人間社会が無くなっても、存在する徳です。
逆に言うと、超自然的な徳が、
世界や人間社会を生み出すことができる
と言うことができます。

コリント人への第一の手紙 第13章と
モロナイ書 第7章から、
この3つの徳について見ていきましょう。

・どんなことを語っても、愛がなければ、やかましいだけ。
・どんな能力や才能があっても、愛がなければ、無に等しい。
・どんな良いことをしても、愛がなければ、無益である。
・愛は寛容である。(長く堪え忍ぶ)
・愛は情深い。(親切である)
・愛はねたまない。
・愛は高ぶらない。
・愛は誇らない。
・愛は不作法をしない。
・愛は自分の利益を求めない。
・愛はいらだたない。(容易に怒らない)
・愛は恨みをいだかない。 (悪事を少しも考えない)
・愛は不義を喜ばないで真理を喜ぶ。
・愛はすべてを忍び。
・愛はすべてを信じ。
・愛はすべてを望み。
・愛はすべてを耐える。
・愛はいつまでも絶えることがない。
・いつまでも存続するものは、信仰と希望と愛の三つである。
・このうちで最も大いなるものは、愛である。
・慈愛がなければ、その人は何の価値もない。
・慈愛はキリストの純粋な愛である。
・信仰によって人は善いものをことごとく手にする。
・奇跡が行われるのは信仰による。
・天使が人に現れて教え導くのは信仰による。
・キリストの御名を信じることにより救われる。
・信仰があれば、希望もある。
 キリストを信じることで、永遠の命によみがえる希望が得られるから。
・柔和で心のへりくだった人でなければ、信仰と希望を持つことはできない。
 柔和で心のへりくだった人でなければ、神の御前に受け入れられないから。

聖句ガイドによると、

「信仰」 あるものに信頼を寄せること。 信仰とはイエス・キリストに対する確信と信頼である 確信と信頼があれば、人はイエス・キリストに従うようになる。 人を救いに導く信仰は、イエス・キリストを中心としたものである。 信仰は、まだ見ていない真実のことを待ち望む。 奇跡が信仰を生み出すのではなく、 イエス・キリストの福音に従うことによって強い信仰がはぐくまれる。 言い換えれば、信仰は義から生じる。 真の信仰は奇跡や示現、夢、癒し、 および神が聖徒にお授けになるあらゆる賜物をもたらす。 人は信仰によって罪の赦しを得、最後には神の前で生活できるようになる。 信仰の欠如は、人を罪悪の結果である絶望に至らせる。 「希望」 約束された義の祝福を固い確信をもって待ち望むこと。 聖典では、イエス・キリストを信じる信仰により 永遠の命を待ち望むこととして、この言葉がしばしば用いられている。 「愛」 心から大切に思い、そのために献身すること。 神への愛には、献身、礼拝、敬虔、思いやり、憐れみ、赦し、 同情、優しさ、奉仕、感謝、親切などの要素が含まれる。 御自身の子供たちに対する神の愛は、 イエス・キリストの無窮の贖罪の中に最もよく示されている。 「慈愛」 キリストの純粋な愛。 キリストが人の子らに対して抱いておられる愛、 また人の子らが互いに抱くべき愛。 単なる愛慕の情ではなく、最も気高く、尊く、しかも強い愛。
「信仰」は「神」に対して、 「希望」は「自分」に対して、 「慈愛」は「人」に対して の徳であると言われています。
「心をつくし、精神をつくし、 力をつくし、思いをつくして、 主なるあなたの神を愛せよ。 自分を愛するように、 あなたの隣り人を愛せよ。」 (マルコ12章30-31節)
これには、 「神」(主なるあなたの神を愛せよ) 「自分」(自分を愛するように) 「人」(あなたの隣り人を愛せよ) の3つが含まれています。
「愛」について  (2005/05/14)
愛の徳とは、
「ほかの何ものよりも神を愛し、
神のために他人をも自分のように愛すること」
と言われています。(マルコ12:30-31)

愛の永遠性について

「愛はいつまでも絶えることがない。」 (コリント第一13:8)
これに対して、愛というのは、 助けが必要な人がいるから必要なのであって、 そういう人がいなくなれば、 愛は必要なくなるという考えがあります。 この考えだと愛は永遠のものではありません。 愛が永遠だと言われるのは、 助けが必要な人が永遠に無くならないからでしょうか、 それとも、そうではなく、 助けを必要とする人がいなくなっても、 愛は存続するからでしょうか。 わたしは、助けが必要な人がいなくなっても、 人は人を求め、人と人の関係の間に 幸福があるのだと思っています。 私たちがこの地上での生活を終え、 神様のところに帰って、 全ての人が何不自由しない 生活になったとしても、 お互いの関係は維持し続けると思います。 だって、愛が無くなるということは、 各人が孤独に暮らすということなのでしょうから。 各人が完全な自立をし、 全て人が誰の助けを得なくても 暮らしていけたとしても 各人がばらばらに孤独に暮らすことは ないと思います。 この世の幸福の源と言われる、 富、名誉、社会的な地位は、 神様のところには持っていくことはできません。 しかし、この世での愛ある関係は、 神様のところに持って行くことができるのです。 だからこそ愛は永遠だと言われるのです。 だからこそ愛を一番大切にしなければなりません。 愛が最大の徳であることについて
「このように、いつまでも存続するものは、 信仰と希望と愛と、この三つである。 このうちで最も大いなるものは、愛である。」 (コリント第一13:13)
すべての徳が愛から派生しています。 「信仰」「希望」は「愛」に包含されます。 それは、「信仰」とは神を愛することであり、 「希望」は自分を愛することだからです。
「信仰」について  (2005/05/15)
信仰の徳とは、
「神から示された事柄を決して誤りのないものと信じること」
と言われています。

信仰とは、まだ見ていないことを確認すること。

「信仰とは、望んでいる事がらを確信し、 まだ見ていない事実を確認することである。」 (ヘブル11:1)
この世では神様を見ることができませんが、 信仰により、その存在を信じます。 目に見えないものを信じることが、 信仰であるといえます。 信仰には行いが伴います。 その行いの結果によって、 それが確かなものであることを 確認することができます。 建物を建てようとするときも、 建てる前はその建物を見ることができませんが、 建てるという行いを通して、建物を建て、 その結果、建物という確かな結果を 見ることができます。 このように信仰は、私たちの行いの原動力になるのです。 神様を信じ、その御言葉を受け、御言葉を行い、 その結果により、私たちはそれが真実のものであることを 確認することができます。 => 信仰を育てる まだ見ないものを待ち望むという意味では、 「信仰」は「希望」そのものであると いうこともできます。 信仰は神を愛すること。 信仰とは、神様を愛することです。 しかし、神様は完全に自立されたお方なので、 私たちの助けを必要とされているということ ではありません。 神様を愛するということは、 私たちが神様につながっているということです。 私たちは神様の言葉を受け、神様の言葉に従って生きます。 このことは、私たちが成長して、神様のようになる (神様の属性を身に付ける)ために必要なことです。 つまり、神様を愛することは、 そのまま、自分を愛することと同じことです。
「最も小さい者のひとりにしたのは、 すなわち、わたしにしたのである。」 (マタイ25:40)
またこの聖句からわかるように、 人を愛することは、神様を愛することと 同じであると言われています。 人を愛すること(慈愛)、 神様を愛すること(信仰)、 自分を愛すること(希望)、 これらは皆、同じことの違う側面を 捉えているにだけに過ぎないのです。 奇跡に先駆ける信仰 奇跡によって信仰が生じるのではありません。 信仰によって奇跡が起ることはありますが。 私たちはこの世に生まれてくるとき、 それまでに神様と一緒に住んでいた記憶を消されます。 それは私たちが信仰によって歩むためです。 テストの問題ではじめから答えがわかっていると、 問題を解く努力をしません。 結果がわからないから、それを求める努力をし、 私たちは成長します。 信仰によって歩まなければならないのは、 私たちが成長するためなのです。
「希望」について  (2005/05/16)
希望の徳とは、
「永遠の命と、それを受けるために必要な恩恵とを、
神の御約束によって望むこと」
と言われています。

信仰は希望をもたらす。

神様を信仰することによって、
キリストの贖いにより、
神様のもとへ戻ることができるという
希望をいただくことができます。

大切な人の死は、
人から希望を取り去ってしまうことが
あるかも知れません。
しかし、神様の福音により、
神様のみもとで再会できるという
希望を得ることができるのです。

絶望について。

「もしあなたがたに希望がなければ、 あなたがたは必ず絶望を味わうであろう。 絶望は罪悪のために生じる。」 (モロナイ10:22)
希望の反対は絶望です。 罪悪は絶望をもたらします。 どのような辛い境遇にあっても、 神様の御言葉に従っているのならば、 すべての境遇を自分を鍛えるための 試練であると捉えることができます。 そして、そこに希望を見出すことができます。 しかし、罪悪の結果で生じた苦しみは、 そのように捉えることはできません。 絶望の治療薬は愛。 哲学者キルケゴールは「死に至る病」の中で、 「絶望」は死に至る病であり、 人を「絶望」から救うのは「愛せよ」という 神様の命令であると述べています。 => 愛について 自分に喜びをもたらしていたものを失った時、人は絶望します。 しかし、いつまでもそのことを気にかけていたのでは、 絶望から脱却することはできません。 愛するということは、そのための最も効果的な方法です。 尼崎の電車脱線事故で子供を失ったある両親は 電車の運転手に対して、とても辛かったのだろうと、 気遣っていました。 このことによって、この両親はただ絶望の中に留まる ことはなかったのだと思います。 絶望からなかなか脱却できないとき、 実は、自分のことしか考えてなかったということは ないでしょうか。 参考
「いつまでも悲しみ続けるのは、厳しいようですが、 死んでしまった人に対する依存心や、 自分自身をかわいそうに思う気持ちの表れです。 故人のためを第一に思ったら、 いつまでも泣いてはいられないはずです。 故人のためにも、その人はもうこの世にいないという 現実を早く受け入れることです。 そして、遺されたほかの人たちを明るく励ませる自分になることです。 「生きているみんなで力を合わせてがんばろう」 そう心から言えるあなたになることが 故人に対する愛であり、 あなたのことを心配してくれているまわりの人たちに対する愛です。」 (江原啓之「いのちが危ない」より)
絶望的な環境で、希望を持って生きた、アンネ・フランクの日記も 参考になるでしょう。アンネはこの日記を書いたとき14歳でした。 => アンネの日記
想像力  (2005/05/17)
信仰、希望、愛の徳を実践するには、
想像力が必要になります。

正直、勤勉、純潔などの徳は、
具体的にどうすればよいのか、
わかりやすいです。

しかし、信仰、希望、愛の徳は
非常に難しいです。

「信仰」とは、
目に見えないことを、
目に見えているように、
信頼することです。

目に見えない力を感じ、
感謝できる人は、
目に見えない力に、
助けてもらえることでしょう。

「希望」とは、
まだ実現していないことを、
既に実現しているかのように、
喜ぶことです。

「愛」については、
次のような聖句があります。

「人々にしてほしいと、 あなたがたの望むことを、 人々にもそのとおりにせよ。」 (ルカ6:31)
つまり、「愛」とは、 人のことを、 自分のことように、 思うことです。 相手が何を必要としているのか、 なかなか良くわからないことが多いです。 これらの徳は、 よく想像し、よく考えないと、 行うことができません。 熟練が必要な徳なのです。 だから難しいのです。 超自然的な徳と言われるのは、 このためかもしれません。
ご飯とフリカケ  (2005/05/20)
人生はご飯とフリカケみたいなもの。

ご飯は、楽しくないけど、
しなくてはいけないこと。
フリカケは楽しいこと。

ご飯だけだと味気ない。
フリカケだけだと、
本当には満たされない。

ご飯とフリカケがあってこそ
満たされた楽しい人生になる。
価値  (2005/05/21)
信仰、希望、愛と価値の関係。

「信仰」
目に見えるものに価値を見出すのではなく、
目に見えないものに価値を見出す。

「現代は物質主義的価値観を至上とする世であり、 人は目に見えることのみに心をとらわれがちです。 人生の成功を物質中心に考えるのです。 そこに「たましい」の視点はありません。 良い学校を出て、大きな会社に就職し、 理想の人と結婚し、立派な家に住み、 衆望を集め、豊かな財産に恵まれ、 誉れ高き勲章を得ることが、 価値ある人生だと信じているのです。 しかしスピリチュアルな視点では、 それらは真実の生きる価値ではありません。 大切なのは『どれだけの経験と感動をなしえたか』 ということなのです。 物質はいつか失われます。 しかし、人それぞれの心に刻まれた経験と感動は、 どのようなことがあっても決して失われることなく、 何人にも奪われないのです。」 (江原啓之「いのちが危ない」集英社)
「希望」 価値があるから生きるのではなく、 生きることに価値がある。
「あなたが自殺を考えているひとりなら、 こんなふうに思ってはいませんか。 『私なんて生きている価値がない』 『私の人生に、どんな価値があるというのだろう』。 もしそうならご理解ください。 あなたの考え方と、たましいの真実は、ちょうど逆なのです。 つまり、人間は『価値があるから生きる』のではなく、 『生きることに価値がある』のです。 最後まで『生き抜く』ことに価値があるのです。」 (江原啓之「いのちが危ない」)
「愛」 価値があるから愛するのではなく、 愛するから価値が生まれる。 => 愛するから価値が出る
日本にバプテスマを受けにきた中国の人々  (2005/05/22)
いずれリアホナに詳細が載ると思うので概略だけ書きます。

先月、中国から日本に約70名の人がバプテスマを受けに来ました。
バプテスマ会は渋谷の教会で行われました。
夕方5時から始まり9時頃までかかりました。
バプテスマの衣装を集めるのが大変だったようです。
ご存知のように中国では外国の宗教団体の活動は認められていません。
バプテスマを受けるために外国に行かなければならないのです。
早く中国でも宗教が自由化されるといいのですが。
かつて日本では神殿の儀式を受けるためハワイまで行きましたが、
そのときと同じような犠牲を払って日本に来られたのでしょうね。
今日、教会でこの話を聞いて感動しました。

これらの人々は、上海にある会社の社員で、社員旅行の名目で日本に来ました。
この会社の社長はアメリカに留学していたときに改宗したとのことでした。
会社の社長が社員たちに福音を伝えたことによって多くの人が改宗したそうです。
有名な言葉の出所  (2005/06/02)
「いかなる成功も家庭の失敗を償うことはできない。」
(No other success can compensate for failure in the home.)

これはイギリスの政治家、ベンジャミン・ディズレイリ
(Benjamin Disraeli:1804~81)の言葉である。

末日聖徒イエス・キリスト教会、第9代大管長、
デビッド・O・マッケイは、この格言を好んで使っていた。
そのため、これをデビッド・O・マッケイのオリジナルの
言葉だと勘違いしている人が多い。

話は変わるが、新約聖書の中の言葉で、
イエス様のオリジナルの言葉と思われているものの中にも、
実は、イエス様のオリジナルでないものがある。
その例を以下に挙げる。

  新約聖書
  「心をつくし、精神をつくし、力をつくし、思いをつくして、
  主なるあなたの神を愛せよ。自分を愛するように、あなたの隣
  り人を愛せよ。」(マルコ12:30-31)

  オリジナル
  「あなたは心をつくし、精神をつくし、力をつくして、あなた
  の神、主を愛さなければならない。」(申命記6:5)
  「あなた自身のようにあなたの隣人を愛さなければならない。」
  (レビ記19:18)

  新約聖書
  「人々にしてほしいと、あなたがたの望むことを、人々にもそ
  のとおりにせよ。」(ルカ6:31)

  オリジナル
  ヒレルの言葉。ヒレルはイエス・キリストが生まれる数十年前
  に生まれた、ユダヤ教の教師だった。
  彼はユダヤ教に改宗を希望する異邦人から、「片足で立ってい
  る間に、ユダヤ教の全部を説明してください」と求められて、
  「自分が他人に欲するように他人に対して行え、あなたにとっ
  て痛みとなるようなことは他人にしてはならない。これが律法
  の全体である。ほかはすべて註釈にすぎない」と答えた。

  新約聖書
  『人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一
  つの言で生きるものである』(マタイ4:4)

  オリジナル
  「人はパンだけでは生きず、人は主の口から出るすべてのこと
  ばによって生きることをあなたに知らせるためであった。」
  (申命記8:3)

  新約聖書
  イエスは大声で叫んで「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と言
  われた。それは、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨
  てになったのですか。」という意味である。
  (マタイ27:46)

  オリジナル
  わが神、わが神、なにゆえわたしを捨てられるのですか。
  (詩篇22:1)
家族を強める方法  (2005/06/03)
教会では、家族を強めるための提言をしています。

・その一つが家庭の夕べです。
  家族全員が週1回、集まって会を催します。
  その内容は、福音の勉強、家庭内での計画、
  ゲームやお菓子を食べるなどの親睦などです。

・教会は次のようなパンフレットも配布していました。
  家族と一緒に過ごす時間を作る10の方法
  正しい価値観を家庭で教える10の方法
  家族の間で意思の疎通を改善する10の方法

・教会の出版ではないのですが、教会員が書いて市販されている
  次の書物があります。家族を強めるための方法について、
  7つの習慣の原則にあてはめて書かれています。

  「7つの習慣ファミリー」
  スティーブン・R.コヴィー著
  キングベアー出版
家庭での失敗とは何か  (2005/06/04)
それは、食事の後片付けをしていて皿を割ったというようなことではない。

家族の心がバラバラな状態のこと。

夫が妻とは違う女性に心を奪われているとか、
家族と過ごすよりも、趣味や遊びに没頭しているとか、
夫がギャンブルにはまり、金を家に入れないとか、
酒を飲むと家で暴力を振るうとか、
子供が親に対して信頼を失い、家出をしているとか
そんないろんな形で現れる。

子供のできが悪いとかは、家庭の失敗ではない。
むしろ、出来が悪いから価値がないと親が思っていることが、
失敗なのではないか。

モルモン書の中のリーハイの家族をみると、
レーマンやサムエルはできの悪い息子であったが、
リーハイはそれでも彼らを愛していた。
そうでなければ、彼らを一緒には連れて行かなかっただろう。
そのような家庭は失敗した家庭ではないと思う。

私は「いかなる成功も家庭での失敗を償うことはできない」という
言葉はあまり使いたくなかった。
なぜなら、自分の家庭は失敗したのではなかろうかと思っている人
にとって、厳しく責める言葉に感じられるだろうと思うからだ。

価値があるから愛するのではなく、
愛することに価値があるのだと理解している家族にとって、
家族になにが起こっても失敗ではない。
どのような問題も乗り越えられるだろう。

金銭や美貌で結びついた夫婦の絆はもろい。
それははじめから失敗している。
しかし、真実の愛で結びついた夫婦や
家族の絆は強い。
家族と一緒にいられなくても  (2005/06/05)
なすべきことによっては、家族と一緒にいられないこともある。

シャーキー族の王子であったシッダールタは、
結婚して、妻子を持っていたが、真理を究めるため、
家族を置いて、出家した。
これが後に仏教を開いたお釈迦様である。
彼が家族のために出家をあきらめていたら、
仏教はなかったであろう。

イエス様は結婚していたかどうかは定かでないが、
マグダラのマリアと結婚していたといわれている。
しかし、伝道中の3年間、イエス様はマリアと
行動をともにしていない。
もし、マリアとの生活を優先していたら、
キリスト教はなかったであろう。

末日聖徒イエス・キリスト教会の初期の時代では、
妻子を持つものでも、伝道に召されていた。
彼らの中には、病気の妻を抱えているものもいた。
しかし、彼らは家族をおいて伝道に出たのである。
また、教会の創始者、ジョセフ・スミスは、
家族を守って生活をするため、暴徒から逃げることもできたが、
真理を貫いて証をするため、暴徒たちに捕らえられ殉教した。
彼らの犠牲がなかったなら、今の教会はなかったであろう。

宗教的なこと以外でも、家族が離れて暮らさなければならないことがある。
家族の者がなそうとしていることの大切さを理解するならば、
夫、父が家族と離れて暮らしていても、
家族の心がばらばらになることはないだろう。
なぜ家庭は大切なのか  (2005/06/06)
子供たちにとって家庭は安らぎの場でなくてはならない。
家庭は、この地上の天国である必要がある。
天国とは作られたものではなく、
自分で作るものである。
家庭という天国をこの世で作ることができると、
それを次の世に持っていくことができる。
それがすなわちそのまま天国ということになる。
天国とは場所ではなく心の清い人の集まりである。

家庭はこの世の中にあるあらゆる人間関係の中で、
唯一、死後も永続する関係である。
その他の社会的立場は死後には消滅する。
大きな会社を持つ社長さんも、それを持っていくことはできない。
大きな権力をもつ政治家、権力者も、その立場を持っていくことはできない。
次の世に持っていけるものは、周りの人々とのよい関係、
苦労して得た経験など、心の資産である。
家庭は心の資産を貯えることのできる絶好の場所だ。
家庭は神様の教えを実践する最も適した場所である。
信じることの難しさ  (2005/06/07)
わたしの話を信じない人がいても、とがめません。
自分で経験していなければ、わたし自身も信じなかったでしょう。
(ジョセフ・スミス)

私はジョセフ・スミスのような経験をしていないんですが、
信じています。それは自分でも不思議なことです。
でも、人を説得して信じさせるほどのものは持っていません。
私は教会に行くと、多くの人が目に見ることのできないものを
信じることができるのを見て、驚きを感じることがあります。
しかし、中には確信を持てなくて悩んでいる人も多いのではとも思います。
でも、ジョセフ・スミスでさえ、上記のようなことを言うくらいですから、
普通の教会員では、気持ちが揺らいでも当たり前なんですよね。
だから、ちょっとしたきっかけで、信じられなくなる人もいるでしょう。
でも、ジョセフスミスは、とがめませんと言っています。
必要以上に気にとがめなくても、暗い気持ちにならなくても、
自暴自棄にならなくても良いのではないでしょうか。
まず、神様の愛が感じられるようになれればと思います。
うつ  (2005/06/10)
結構うつ病の人は多いのだそうだ。
うつ病は心のかぜと言われる。
かかっているときは辛いが、
しばらくすると治っていくからだそうだ。

自分も辛いときには「うつ」になるが、
重荷がなくなるとすぐ元気になる。
うつ病までにはなったことはないが、
自分もなることは十分にありうる。

気をつけなければいけないのは、
ひどいときには自殺してしまう人がいること。
まず、夜が眠れなくなり、その疲れのせいで、自殺を考えてしまう。
特にお酒などのアルコールで気を紛らわそうとすると、
かえって逆に自殺への抵抗感を失わせてしまうので注意がいる。
そういうときは、一人で悩まないで、必ず医者に行く必要がある。
薬で症状を和らげることができるからだ。

うつの人は、元気がないので、まわりの人はつい、
「がんばれ」と言って励ましてしまう。
しかし、うつの人は心のかぜなので、
かぜと同じように心の休息と栄養が必要である。
休息は「がんばれ」というような心の負担をかけないこと。
栄養は「愛」である。
人から愛を受けて、愛を蓄える必要がある。
末日聖徒  (2005/06/24)
「末日聖徒」は Latter-day Saint の翻訳です。

しかし、辞書で調べてもLatter-dayの訳として、「末日」は出てきません。
これは「現代の」という意味です。
「末日」というのはたぶん誤訳でしょう。
latter は late (遅い)の比較級で、時間的に後ろの方という意味があります。
last はその最上級で、時間的に最も後ということになります。
last dayなら「末日」になるでしょう。
そのへんを混乱したのかもしれません。

saint は 聖人というよりは、信者という意味ですから、
 Latter-day Saint の意味は「現代の信者」ということになります。

この「現代の信者」は「古代の信者」と区別するためにつけられました。
「古代の信者」とはキリストの時代の信者のことです。
トンガの政変  (2005/09/03)
末日聖徒イエス・キリスト教会とトンガの関係については、以前、私のサイト
「イエス・キリスト教会 なんでも帳」「トンガ」で紹介した。
そのトンガで政変が起こっている。

読売新聞の2005年8月18日の記事によると、
「トンガで民主化デモ暴徒化、学生200人逮捕」というタイトルで、
「トンガの首都ヌクアロファで18日、民主化を求めるデモが暴徒化し、
政府庁舎の一部と政府車両4台が焼かれた。」とある。
河北新報の2005年8月18日の記事でも、
「トンガ公務員が1カ月スト、賃上げ要求、緊張高まる」というタイトルで
「南太平洋の王国トンガで、大幅な賃上げを要求する公務員のストが1カ
月近く続いている。ここ数日はストを支援する学生約200人が逮捕された。」
とある。

トンガの公務員の賃上げ要求ストから端を発し、民主化運動に発展しているらしい。
この国は現在も王制で、王が実権を握っている。
国王がキリスト教に改宗して以来、キリスト教が国教になり、現在、国民の99%が
キリスト教徒である。安息日を厳格に守ることが有名で、日曜日になると交通機関や
店舗はすべて休んでしまう。

民主化され、王が実権を失うと、この国のキリスト教にどう影響するのだろうか。
今後が気になるところである。
末日聖徒イエス・キリスト教会 日本語公式ウェブサイト  (2005/10/02)
末日聖徒イエス・キリスト教会 日本語公式ウェブサイトでは、教会機関誌「リアホナ」が読める。
いままで、ローカルページは掲載されなかったのだが、最近掲載されるようになったようだ。

紙媒体の購読者が減るのではないか?
私は購読は続けるわけだが・・・。

子供ページの切り抜きの部分はパソコンから印刷したものを使えばよいので、助かるね。
あと、スクラップとかやりやすくなった。
1980年ころの教会  (2005/11/30)
教会員たちが集うある掲示板で、1980年ころの伝道について
論議がされているのを見た。
このころの教会の伝道は一人一人にあまり時間をかけず、
バプテスマの数をこなすという伝道方針だったらしい。
教会の統計資料を見ても、通常年間2500人のバプテスマが
1980年から1982年の間だけ年間8500人になっていた。

私が初めて宣教師に出会ったのが、1981年12月のこと。
ちょうどこの時期にあたる。
私は受け入れられる方だったから、何とも無かったが、
新会員を受け入れる方は大変だっただろう。
フォローし切れなくて、バプテスマを受けてもすぐ
教会に来なくなる人が多かった。

ただ、私だけに限って言えば、私のためにはこの伝道方法は効果的だった。
以前「ローマ法王逝去」の記事に書いたことだが、
1981年2月にローマ法王が初来日したことをきっかけに、
私はキリスト教に興味を持ち、聖書を読み始めた。
そして、古本屋でモルモン書に出会った。
宣教師に出会ったのはその直後である。
その時期でなければ、私は宣教師の誘いを断ったかもしれない。
私はこの伝道方針だった期間以外には宣教師に出会ったことがない。
もし、このときの伝道方針が1人に時間をかけるというものだったら、
私には、宣教師は回って来なかったかも知れない。
私はこの伝道方針のおかげで教会の教えを聞く機会に恵まれた。
難しい質問と信仰の維持  (2006/04/22)
難しい質問と信仰の維持

英語の原文(PDFファイル)
HARD QUESTIONS AND KEEPING THE FAITH

インターネットの普及で今まで知りえなかった情報に遭遇します。
教会の情報も多種多様な情報がインターネット上に存在します。
教会員になって日が浅いかたや、教会のことを学んでいるかた
は、これらの情報を見て困惑しているでしょう。
上記の文書はそのようなかたに役立つ情報です。
ちょっと読み応えのある内容ですが。
末日聖徒なんでも帳  (2006/05/01)
「末日聖徒なんでも帳」
*現在は「イエス・キリスト教会 なんでも帳」に名称変更しています。

このサイトは私が作ったサイトで、私の所属している教会について
私が勝手に紹介したサイトです。

「なんでも帳」というタイトルは、私の作ったサイトには共通で付
けています。

当初は「末日聖徒イエス・キリスト教会の紹介」としていたのです
が、オムナイさんのサイトが全く同名であることが判明したので、
「末日聖徒イエス・キリスト教会を紹介」に改名しました。(あん
まり変わってないけどね)

このサイトを作ったのは、ソルトレーク五輪のときです。多くの人
が教会について興味を持つだろうと思ったのですが、日本語で教会
のことを紹介するサイトがありませんでした。そこで、勝手な使命
感から作ってしまいました。

後に、教会の紹介をする公式サイトができたのをきっかけに、閉鎖
しました。

閉鎖したもう一つの理由は、当時のホームページの容量が10MB
しかなかったので、別の新たなサイトを作るために、このサイトを
消す必要があったからです。

その後、ホームページの容量が100MBバイトに増量されたので、
昔作ったサイトを復活させ、「末日聖徒なんでも帳」としました。

昔作った記念碑的なサイトのため、更新がほとんど行なわれない枯
れたサイトです。たまにリンク集を更新するぐらいです。

読み返してみると、恥ずかしく、照れくさい内容があるのですが、
自分の生きた証として、そのままさらし続けます。あまり、教会の
ことを称賛するような感じにしたくなかったので、自分の知ってい
る教会の知識を箇条書きにしました。そのため、一部の人たちから
マニュアルみたいと言われてますが、そのままにしておきます。
末日聖徒イエス・キリスト教会 日本語公式ウェブサイト リニューアル  (2006/06/24)
教会機関紙「リアホナ」2006年7月号のローカル
ページによると、日本語公式ウェブサイトが、
7月15日にリニューアルされるらしい。

今のサイトと比べてかなりグレードアップされるらしい。
驚くのは、教会出版物のほとんどがこのサイトで読める
ことになりそうである。
教会機関紙についても1957年からの「聖徒の道」の
創刊号から、PDFで提供されるとのこと。
「涼宮ハルヒの憂鬱」を見て思ったこと  (2006/11/16)
最近、「涼宮ハルヒの憂鬱」というアニメを見た。ずいぶん前から
評判になっていたが、私は流行に疎いので、今ごろ見ている。
とても面白かった。さすが、今年一番人気のアニメと言われること
はあった。あまりにも面白かったので、原作の小説まで全巻買って
読んでしまった。

主人公の高校生の男子「キョン」(本名不明)が涼宮ハルヒと知り
合い、とんでもないことに巻きこまれていくという学園・SF・
コメディーである。涼宮ハルヒは周囲の環境を自分の望むように変
えることができる特殊な能力を持っているが、本人はそれに気づい
ていない。極端な話し、宇宙全体を創造する能力を持っている。
だから、彼女がこの世界に幻滅していまうと、世界が新たに作りか
えられるかも知れないので、まわりは気を使う。キョンは彼女に選
ばれた「鍵」と言われていて、彼女の能力はキョンによってコント
ロールされている。

簡単なあらすじは以上である。詳しいことは、別の人が書いたサイ
トを見ればわかると思うので、内容についてはこれ以上は書かない。

人が神のように宇宙を創造する力を秘めているということは、末日
聖徒イエス・キリスト教会の教えにあるので、気になった。また、
キョンの地下活動するときの偽名がジョン・スミスという。この作
品の作者は末日聖徒イエス・キリスト教会と関係があるのだろうか?
と思った。

教会では、すべての人類は神の子供であり、子供がやがて大人とな
るように、神のようになることができると教えている。つまり、す
べての人類は涼宮ハルヒのような能力を秘めている。しかし、その
能力を使うには「鍵」が必要である。つまり、キョンのような役割
が必要になる。教会では、その「鍵」は「永遠の結婚」の中で最終
的に得られると教えている。アニメでは、涼宮ハルヒとキョンの2
人の関係によって、ハルヒの創造能力が発動されている。

教会の指導者が、この力と鍵の関係について、とても興味深いたと
え話をしているので、以下に引用したい。

 昔ある人が、遺産として鍵をふたつ受け取りました。最初の鍵はどんな犠 牲を払ってでも守らなければならない倉の鍵であると指示を受けました。2 番目の鍵はその倉の中の箱の鍵で、その箱には宝が入っていました。彼は宝 の箱を開けて中の宝を自由に使ってよいと言われました。また多くの者が鍵 を盗もうとしているから気をつけるようにとも忠告されました。彼は、賢く 使えばその宝は殖えて、永遠にわたって決してなくならないという約束を受 けました。つまり彼は試されるわけです。またほかの人のためにその宝を使 えば、自分の祝福と喜びは増し加えられるとのことでした。  その男はひとりで倉に行きました。初めの鍵で扉を開けました。そして2 番目の鍵で宝の箱を開けようとしましたがだめでした。宝の箱には錠がふた つかかっていたからです。彼の鍵だけでは役に立ちませんでした。どんなに 頑張っても、開きません。彼にはわかりませんでした。確かに鍵をもらいま した。宝は自分のものだとも言われました。指示にも従いました。でも箱は 開きません。  すると、ひとりの女性が倉に入って来ました。彼女も鍵を持っていました。 彼の鍵とはひと目見て違うことがわかりました。それは、もうひとつの鍵穴 にぴったり合いました。男は謙遜になりました。彼女なくして宝が手に入ら ないことがわかったからです。  ふたりは、一緒になって宝の箱を開けることを誓いました。そして指示ど おり、男は倉を守り、女は宝を守りました。女は倉の番人である男がふたつ の鍵を持っていることを気にかけませんでした。なぜなら、ふたりにとって 最も大切なものを守っている自分を保護してくれることが、男の役目だと理 解していたからです。ふたりは一緒に宝の箱を開け、宝を手にしました。そ して約束どおりに殖えていく宝に、ともに喜びました。  彼らは、子供たちがその宝を受け継げることを知って大いに喜びました。 子供たち一人一人が、末代に至るまでそのままの形で宝を受け継げるのです。 たぶん子供たちの中には鍵を持った伴侶を見つけられなかった者や、 宝に ついての誓約を喜んで守ろうとしない、ふさわしくない者も出てくるでしょ う。しかし、戒めを守れば小さな祝福でさえ拒まれることはないのです。  宝を乱用するように誘惑する者がいましたから、彼らは子供たちに鍵と誓 約についてよく教えました。時がたち、子孫の中に一方がふたつの鍵を与え られ片方がひとつしか与えられていないために欺かれ、やきもちを焼き、利 己心をあらわにする者が出てきました。「宝は自分で好きなように使えるべ きではないのか。」利己的な者はそう考えました。  中には自分に与えられた鍵を相手の鍵に似せて作り変える者が出てきまし た。そうすれぼ両方の鍵穴に合うと考えたのでしょう。宝の箱は開きません でした。彼らの鍵は使いものにならず、宝は失われました。 それに、反して、感謝をもって宝を受け、律法を守った者たちはこの世から 永遠にわたって限りない喜びを得たのです。 (「聖徒の道」1994年1月号 ボイド・K・パッカー長老の説教より)
沖縄県知事選挙  (2006/11/18)
明日、11月19日は沖縄県知事選挙の投票日。
糸数慶子さんどうなるだろう。両者とも接戦だというし。

11月19日追記

残念ながら落選でした。
糸数慶子さんには、また別のところで、活躍していただきたいです。
「イエス・キリスト教会 なんでも帳」リニューアル  (2006/12/09)
ほとんど保守していなかった、私のサイト「イエス・キリスト教会 なんでも帳」をちょっとだけ
変更しました。

変更した内容は以下のとおりです。
 ・レイアウトをちょっとかっこよくした。
 ・「あいさつ」、「リンク集」、「日本のユニット一覧」の内容を整理した。
 ・「証集」に「ドン・ビンチェンツォ・デ・フランチェスカの証」を追加した。

たったこれだけです。

フランチェスカ兄弟の経験は私の経験と重なるところがあるので、
この話を読んで感動が大きかったです。

私の場合は16歳のとき古本屋でモルモン書と出会ったのが始まりでした。
その直後、偶然に宣教師に会って教会に行き始めました。
しかし、親の反対があったので、バプテスマを受けたのは、
4年後の20歳のときでした。
フランチェスカ兄弟よりはまだ困難は少なかったのですが、
彼の心待ちにした気持ちはわかるような気がします。
福男さんの聖典学習法  (2006/12/11)
某動画投稿サイトに掲載されている聖典テキストデータの利用法



私もやってます。
クリスマス的な話題  (2006/12/23)

=> クリスマスの本当の意味

クリスマス・ツリーやクリスマス・リースなどのクリスマス・アイテムに
こめられた意味について書かれている。

それと、某動画投稿サイトにあった、クリスマスソング。
前回記事で紹介した福男さんたちの歌声。


新年明けました  (2007/01/01)
わたしのサイト「イエス・キリスト教会 なんでも帳」「パッカー長老の証」を追加しました。

わたしはまだ「知ってる」とは言えないレベルです。
以前、無神論者の知人にいろいろ言われ、なんと答えたらいいか困ったことがあります。
結局、平行線で終わってしまうんですよね。
使徒ペテロ  (2007/01/03)
わたしのサイト「イエス・キリスト教会 なんでも帳」の「資料集」に
「わたしの兄弟ペテロ」を追加した。

ペテロは多くの人に「いくじなし」のように誤解されている。
しかし、彼はすばらしい人物である。
わたしは以前、わたしのサイト「パーマンなんでも帳」の「みつ夫とペテロ」で、
パーマン1号であるみつ夫と、キリストの第一使徒であるペテロの
共通点をあげて、そのことを解説した。
実は、その文章を書く元になったのが、上記の「わたしの兄弟ペテロ」である。

今年の教会の日曜学校のテーマが、新約聖書ということで、読む機会が
多いが、わたしには、ペテロがとてもお気に入りなのである。
キンボール大管長  (2007/01/20)
今年の日曜日の神権会・扶助協会の時間のテキストは、
「歴代大管長の教え:スペンサー・W・キンボール」である。

この本の中に、シカゴ空港での件の後日談が載っていたので、
わたしのサイト「イエス・キリスト教会 なんでも帳」の「証集」の
「キンボール長老の証」にこの分を追加した。

キンボール長老の徹底した善行には頭が下がる思いだ。
普通はここまでできない。
新約聖書に載っている「良いサマリア人」の話を思い出した。
QRコードで信仰箇条  (2007/04/30)
QRコードはバーコードを平面四方に拡張したものだ。
最近はいたるところで目にする。
携帯電話のカメラから読み込むことができる。

詳細は以下のサイトをご覧いただきたい。
=> QRコードドットコム

またフリーソフトで、QRコードの作成ソフトがあるので、
一個人でも手軽に使用できる。
アイデアしだいでいろんな使い方ができるのではと思う。

このQRコードはバーコードよりも記録できるデータが大きい。
漢字で約1800文字も記録できる。

ためしに信仰箇条をQRコードにしてみた。
でも、大きすぎて携帯電話のカメラでは取り込めなかった。



携帯電話では、漢字200文字ぐらいまでが限界のようだ。
自分の名前、住所、電話番号、携帯電話番号、メールアドレスの
入ったQRコードはらくらく取り込めた。
名刺の裏にでも印刷すれば、よいかもしれない。
千の風  (2007/06/14)
秋川雅史さんの歌う「千の風になって」という歌がヒットしています。
訳詞、作曲した新井満さんは英語の原文詩に感動し、この曲を作った
そうです。

原文はアメリカで約100年以上前に作られた作者不明の詩です。


英語の原文 a thousand winds Do not stand at my grave and weep; I am not there, I do not sleep. I am a thousand winds that blow. I am the diamond glints on snow. I am the sunlight on ripened grain. I am the gentle autumn's rain. When you awaken in the morning's hush, I am the swift uplifting rush Of quiet birds in circled flight. I am the soft stars that shine at night. Do not stand at my grave and cry; I am not there, I did not die.
日本語の直訳 千の風 私の墓に立って泣かないで。 私はそこにいない。私は眠ってない。 私は吹く千の風。 私は雪のダイアモンドのような輝き。 私は実った穀物に照る日光。 私は穏やかな秋の雨。 あなたが朝の静けさの中で目覚めるとき、 私は旋回飛行の静かな鳥たちの 急に起こる大群。 私は夜に輝く柔らかな星。 私の墓に立って泣かないで。 私はそこにいない。私は死んでいない。
"I am the swift uplifting rush ..." の部分の翻訳に苦労しました。 swift には「速い、速く」という意味のほかに「アマツバメ」という 意味があります。 rush には「突進、多忙、混雑」という意味のほかに「イグサ」という 意味があります。 普通の訳では「速く持ち上がる突進」ですが意味がわかりません。 そのほかにも「突然持ち上がるアメツバメ」「速く持ち上がるイグサ」 「イグサを持ち上げるアメツバメ」などがありますが、良いものは ありません。 とりあえず、rush の「混雑」という意味を採用しました。 「鳥たちで突然空が埋め尽くされる」イメージです。 ネットでいろんな人の翻訳を見ると次のようなものがあました。 「私は、静かに舞い上がり、急いで飛び立つつばめになっているでしょう。」 「私はすばやい流れとなって駆けあがり鳥たちを空でくるくる舞わせています。」 「わたしは翔け昇る上昇気流となって弧を描いて飛ぶ静かな鳥たちとともにいる。」
人口爆発と少子化  (2007/09/11)
同じ世界の中で、ある地域は人口爆発、ある地域では少子化という
正反対の問題を抱えている。

・人口爆発は工業化によって起こる現象である。
 工業化の途中にある発展途上国で見られる。
 始めにヨーロッパで産業革命により始まった。
 日本では明治以降の工業化で始まっている。
 現在では、日本以外のアジアで顕著である。
 人口爆発の原因は、工業化によって生活が豊かになり、
 食料や生活必需品について余裕ができたことにある。
 また、医療技術の発達により死亡率が減ったことも一因だ。

・一方、少子化は工業化が飽和状態になった社会に起こる現象である。
 情報化社会に移行した欧米や日本などの先進国で見られる。
 食料や医療の水準は発展途上国以上なのだが、なぜが人口が増えない。
 その原因には次のものが考えられる。

  ・情報化により生産の自動化が進んだため、労働力としての
   子供の必要性がなくなった。

  ・体力が必要とされる工業社会から、体力よりも知力が必要と
   される情報社会になったため、体力的に男性よりもハンデが
   ある女性の社会進出がしやすくなった。

  ・そのため、女性の結婚が社会でキャリアを積んでからという
   ことになり、晩婚化がすすんだ。

  ・また、コンビニや簡単に家事ができる手段が増えたので、
   結婚するメリットの一部が減ったため、結婚を必要としない
   人たちが増えた。

  ・知識が重要視される社会になったため、子供の教育に金がか
   かるので、多くの子供を持てないと思う人が多くなった。

  ・老後の社会保障が充実しているため、自分の子供に面倒を見
   てもら必要もないので、子供の必要性が減った。

  ・便利な暮らしになったため、相変わらず手間のかかる子育て
   がとても面倒なものと感じられるようになった。
   (昔は不便の中に子育ての面倒さが埋もれていた。)

  ・娯楽が多くない時代では、楽しみは性行為ぐらいしかなかっ
   たが、娯楽が多くなった現代では、性行為にそれが求められ
   る割合が減った。(ニューヨークで大停電があった日の10
   ヶ月後に子供の出産が増えたという話しがある。)

  ・ポルノの氾濫により、ポルノで性欲を満たしてしまう割合が
   増えて、実際の性行為の割合が減った。

  ・避妊法が普及した。

  ・婚前・婚外交渉が増加した。

  ・社会で受けるストレスが増えたので、性的不能になる人が増
   えた。

・少子化を解決するためには、上記の要素を解決すれば良いが、
 実際的ではない。
 例えば、自動生産技術を禁止したり、女性の社会進出を禁止したり、
 ポルノや避妊や婚前・婚外交渉を法律で禁止するのは難しい。
 つまり少子化は止められない。

・少子高齢化の問題は、お年より(非労働者)を支える労働者が少
 なくなり、労働者1人が非労働者を支える負担が増えるというこ
 とである。

・現代ではコンピュータ技術により、生産の自動化が発達している
 から、労働者の減少分は自動化による生産性の向上で補えるはず
 である。なぜ、それが少子化問題に還元できないかというと、人
 による労働では、賃金から税金を徴収できるが、機械化による労
 働では、賃金を払う必要がないので、その分の税収が減るからで
 ある。ある人はもっと外国人労働者を受け入れるべきだといって
 いるが、これは、外国人労働者からは税金を取れるからである。

・さらに詳しい私の意見は、私のサイトの以下のページに書いてあ
 るので、ご覧いただきたい。

  ・高齢化社会の問題
  ・未来の経済システム
タラントと才能  (2007/09/21)
新約聖書にタラントのたとえ話がある。
=> タラント[たとえ]

タラントは当時の貨幣単位である。
今の金額でいうとどれぐらいの価値があるのだろうか。
当時のデナリという貨幣は、だいたい1日の賃金に相当
するという。今の金額で1万円ぐらいになる。
1タラントは6000デナリだから、1タラントは
6000万円になる。
よく聖書の挿絵では、1タラントは1枚の小さな硬貨と
して描かれているが、実際はもっと多額なのである。

1タラントを受け取った者は、5タラント受けた者より
は少なかったが、事業を起こすには充分な金額であった。
それなのに、自分が他者より少ないのをひがんで、何も
しなかったのである。他者と比べることさえしなければ、
この者は、多く与えられたことに感謝したことだろう。

タラントは英語の talent (才能)の語源になっている。
自分の才能がないと悩んでいる人も、実は、多くの物が
与えられていると思うよ。
デナリと労働  (2007/09/23)
新約聖書にぶどう園で働く労働者のたとえ話がある。
=> ぶどう園の労働者[たとえ]

たぶん最初に雇われた人は朝6時から働き始めただろう。
他に9時、12時、午後3時、5時から働き始めた人がいた。
全員が夕方6時まで働いて、みなが1デナリをもらった。

12時間働いた者も、1時間働いたものも同じ賃金だった。
一番多く働いた者が不平を言いたくなる気持ちもわかる。

前回の記事に書いた通り、デナリは労働者1日の賃金に
相当する。別の言い方をすれば、1日の生活費になる。

ぶどう園の主人はみなに1日の生活費を得させたかった。
5時から働いた者は、それまで怠けていたのではない。
仕事を得ようとして準備して、11時間も雇ってくれる
人を探していたのである。家で待っている家族のために、
なんとしてでも、1日の生活費を得なければならなかっ
たからである。

神様は人が行なった成果の量によって報いてくださるのではない。
人の心のがどちらに向いているのかによって報いてくださる。

能力のある人は社会に多く貢献できる。
体に重い障害がある人はあまり貢献できないかもしれない。
でも心が何か貢献をしようと求めているのであれば、
両者は同じように神様に認められる。
レプタと大きな犠牲  (2007/09/24)
新約聖書にやもめのさい銭の話がある。
=> やもめのさい銭

「やもめ」とは、夫に先立たれた女性のことである。
家族の生活費を稼ぐ男性を失えば、資産家の妻でない限り、
貧しい生活になってしまう。

レプタという貨幣単位はデナリの128分の1である。
デナリを10000円とすると、約78円ぐらいである。
レプタ2つというのは、現在でいうと100円硬貨2枚という
感じであろう。

現在の社会でも、1日1ドル以下で生活する極貧の人たちがいる。
彼女もそのような人だった。当時は1デナリが1日の平均賃金だが、
極貧の人たちは1レプタぐらいが生活費だった。大きな所得格差である。
これがないと食べることができなくなる。彼女の犠牲は命がけだったのである。
後の者は先になり、先の者は後になる  (2007/10/15)
最近は沖縄と東京を行き来する飛行機の中で、星新一のショートショートをよ
く読んでいる。その中で、私の所属する教会で教えられていることに、とても
よく似た話があって驚いた。今回はそれを紹介したい。

それは新潮文庫「白い服の男」の中の「時の渦」という作品である。
そのあらすじは次のとおり。

  ある未来の時点以降のことが予測できなくなるという不思議な現象が起こり
  始めることから物語りは始まる。その未来の日以降について、占い師や予言
  者は言葉が出なくなり、証券会社や気象庁のコンピュータも予測プログラム
  が機能しなくなってしまった。そして、やがてその日が来てしまう。その日
  の次の日は、次の日になるのではなく、また前日に戻ってしまうのだ。食べ
  たはずの食べ物は、次の日には冷蔵庫の中にまたあらわれ、スーパーで売っ
  た商品は、次の日にはまたスーパーに戻っている。季節も変わらず、ずっと
  同じ日が繰り返されるのだ。ただ、人の記憶だけは次の日になっても振り出
  しにもどるのではなく、前の日の記憶が残っている。ただ、物質のみが元に
  戻るのだった。そして、もう一つ不思議なことが起っていることが分かり始
  めた。死んだはずの人が復活しはじめたのだ。振り出しに戻る日になった日
  を基点とすると、基点から1日過ぎると、基点より1日前に死んだ人が復活
  し、2日過ぎると、2日前に死んだ人が復活した。病気や事故で死んだ人は
  健康体で復活する。2年前に事故で死亡した主人公の彼女も復活した。しだ
  いに世の中は復活する人で増え始める。しばらくたつうちに人々の関心はあ
  ることに向かい始めた。それは歴史の訂正であった。次々に復活した人の証
  言によって、歴史の間違った部分が訂正され、足りない部分が補足されてき
  た。隠されてきた悪事も明らかにされた。ある日、主人公の男が彼女に尋ね
  る。「いつになったらこの騒ぎは終わるんだろう。」彼女は答える。「毎日
  の論議で真実がより正確になり、各人についてのすべての結論が出そろって
  しまう。その後、あのかたは判決をくだすわけでしょう。」「だれのことな
  んだい」「知らないの。再び地上に来られ全人類の審判をする人のことを。
  イエス・キリストという名の・・・」

教会で教えでは、少し違うが次のようになっている。

  大きな世界戦争が起こったあと、イエス・キリストが地上に来臨される。
  その後キリストが千年間地上を統治される時代が始める。(福千年という)
  そして、過去に死んでいった人の復活が始まる。死んだ人の記録をもとに
  死者のための身代わりの儀式が生者によって行われ、儀式を受けた死者は
  復活する。復活した人の証言により、失われた記録が次々に明らかになり、
  さらに過去の死者の儀式が行われ、さらに過去の死者が復活する。これを
  繰り返しながら、新しい人から、古い人へと復活の連鎖が起こるのである。
  この千年の内にすべての儀式と復活が完成し、その後、キリストによる最
  後の審判が行われるのである。

この話は新約聖書の「ぶどう園の労働者のたとえ」でもほのめかされている。
  => ぶどう園の労働者[たとえ]
  ぶどう園で働く人が早朝、九時、十二時、三時、五時に雇われた。
  夕方になって、ぶどう園の主人は管理人に、労働者たちを呼び、最後にき
  た人々からはじめて順々に最初にきた人々にわたるように、賃銀を払って
  やるように言った。五時、三時、十二時、九時、早朝に雇われた人の順で、
  賃金が払われた。いつから働き始めたかに係わりなく、皆、1デナリづつ
  受け取った。

これを福千年の出来事にあてはめるとこうなる。

  時のはじめにこの地上に生まれた人、古代に生まれた人、中世に生まれた
  人、現代に生まれた人、福千年の直前に生まれる人がいる。その人々は福
  千年になると後に生まれた人から、先に生まれた人への順で復活していき、
  公平に「復活」という「報酬」を受け取る。

これは「後の者は先になり、先の者は後になる」法則にあてはまる。
これは物事がA->B->Cと進んで行き、あるときを境にC->B->Aと
逆転して進むようになるという法則である。

  => 「先のものは後になり、後のものは先になる」法則
神権のカイアズマス  (2007/10/30)
神権の消滅と回復のカイアズマス的配置

A)アダムの時代、カインの罪悪により、カインの子孫から神権消滅。
  ノアの息子ハムがカイン子孫と結婚したことにより、
  ハムの血統(アフリカ系人種)から神権消滅。
B)紀元約100年、ヨハネを残してユダの血統から神権消滅。
C)紀元約421年、モロナイを残してヨセフの血統から神権消滅。
C’)紀元1829年、ジョセフ・スミス(ヨセフの血統)に神権回復。
B’)紀元1839年?、ユダの血統に神権回復。
A’)紀元1978年、ハムの血統(アフリカ系人種)に神権回復。

カイアズマスについて
  => 交差並行法(カイアズマス)
オープニングとエンディングの歌  (2007/11/06)
テレビ番組にはオープニングとエンディングに歌が流れるものがある。
特にアニメ番組に多い。

前々から思っていたのだが、これは教会の集会が賛美歌で始まり、
賛美歌で終わるところから来たのではないだろうか。
教会の新しい大管長  (2008/02/09)
末日聖徒イエス・キリスト教会(俗称モルモン教会)のトップである
ゴードン・B・ヒンクレー大管長が1月27日に97歳で死去された。
2月5日に後継者としてトーマス・S・モンソン長老(80歳)が、
第16代大管長に就任された。教会では最も先に任じられた使徒が、
大管長になる決まりがあるので、今回も自動的に新大管長が決まった
訳である。

この件で私のサイト「イエス・キリスト教会 なんでも帳」も以下のページを更新した。
・教会の概略教会歴史年表

ヒンクレー大管長の功績はいろいろあるが、特に目立つのが、多くの
神殿を建てたことである。下の神殿一覧を見ると、124の神殿中、
85の神殿をヒンクレー大管長が奉献している。

・神殿一覧

もう一つ特徴的だったのが、世界各国を勢力的に訪問されたことである。
たぶん歴代大管長の中では最多ではなかろうか。
電子書籍版の口語訳聖書の無料公開  (2008/03/29)
電子書籍(EPWING)形式の聖書が以下のサイトで無料で公開されています。

  => 口語訳聖書(新約1954年版、旧約1955年版) JIS X4081形式(EPWING)

口語訳新約聖書(1954年版)、口語訳旧約聖書(1955年版)をはじめ、
著作権が切れたものや、利用自由の聖書の電子データが公開されています。

電子書籍の閲覧ソフトは同サイトの以下のページで無料公開されています。

  => EB series support page
教会の福祉  (2008/04/25)
アルビン・トフラーはその著書「第三の波」の中で、
末日聖徒イエス・キリスト教会(俗称 モルモン教会 )の
福祉制度について次のように語っている。

米国のモルモン教徒もまた、未来のライフ・スタイルの手がかりを 提供する。モルモン教区の多くは、農場を持っている。都市の教徒 を含め教区のメンバーは、自由時間を使ってボランティアとして働 き、農作物を作っている。大部分の収穫物は売らず、緊急用に貯え たり、必要とするモルモン教徒に配る。缶詰工場、瓶詰工場、穀物 倉庫もある。自分の作った食料を缶詰工場に持っていく者もいるし、 スーパーで買った野菜を缶詰工場に持っていく者もいる。ソルトレ イクシティのあるモルモン教徒は「母はトマトを買い缶詰にします。 婦人組織の互助会が日を決めて集まり、自分たちのトマトを缶詰に するのです。」と言う。同じように教徒の多くは自分たちの教会に 単に献金するのでなく、たとえば何かを建設するなどのボランティ ア活動を行っている。
これは教会の福祉プログラムの中の「福祉農場と福祉工場」、そして、 「家庭における生産と貯蔵」について述べているようである。 詳しくは、私のサイトの「教会の福祉」を参照のこと。 未来の共同体社会では、このような社会の仕組みが浸透していくと 予測される。 共同体社会については私のサイトの「未来の共同体」を参照のこと。
教会の中央幹部  (2008/05/23)
教会の中央幹部の人数配置の美しい図式

教会の日本語公式サイト、再新  (2008/05/25)
末日聖徒イエス・キリスト教会(俗称モルモン教会)の日本語公式
サイトが再新されました。

  => 末日聖徒イエス・キリスト教会 日本語公式ウェブサイト

今回のデザイン変更は全世界の国別サイトのデザインを統一する
ためだそうです。

主に変わったと感じる点は、広報に力を入れている点です。

ニュースの一覧がトップページに常に表示されていて、教会がどの
ような奉仕活動をしているのかを、広く一般の人に知らせるような
作りになっています。

また、モルモン書やビデオのプレゼントページや、最寄の集会所の
検索ページへもトップページから簡単に飛べるようになっていて、
以前より教会外の人を意識した作りになっています。

また各地域への広報担当者の一覧が載っていることからも、
広報への力の入れようが伺われます。
創造論(インテリジェント・デザイン論)と進化論  (2009/06/18)
久保有政著「天地創造の謎とサムシンググレート」(学習研究社)を読んだ。

創造論またはインテリジェント・デザイン論とは、この大自然は、なにか知性
を持ったものによって創造されたという考えかたである。進化論とは対極をな
すものである。創造論は、この知性をもつ存在を「神」としているのに、対し
て、インテリジェント・デザイン論では、何かを特定しない。インテリジェン
ト・デザイン論の方は、科学としての理論なので、「神」という言葉を使わな
いのである。

このことは、以前、私のホームページ上でも書いたことがある。
  => 万物は神の存在を証する
この本では、このことがさらに詳しくかかれている。

今まで、インテリジェント・デザイン論を知らなかった人が、この本を読んで
一番驚くことは、日本では確固とした事実と思われている進化論が、まだ、仮
説の域を出ていないということだろう。

並行進化やミッシング・リンクという進化論の問題は、いまだに解決されてい
ない。これについては、上記の私のホームページを参照してほしい。

また、地層の年代の問題がある。一般に、深い層は何億年も前で、浅い層は数
万年前というふうに判断して、そこに含まれる化石を見て進化の順番を決めて
いた。だから、恐竜は数億年前に存在し、人類は数万年前から現れたことにな
っている。

しかし、この原則が当てはまらないものが多く見つかっている。恐竜と人の足
跡の交差した化石が何箇所も発見されている。また、始祖鳥は爬虫類から鳥類
への進化の中間形と思われているが、始祖鳥の見つかった地層の下の地層から
現在のものとあまり変わらない鳥の化石が見つかったりしている。進化論者は
この事実を無視する。

従来の地層の年代測定の信頼性にも疑問が生じている。恐竜の出た地層は
数億年前のものと思われているが、炭素14法を使って測ってみると、数万
年前と出てしまう。炭素14法は最近使われる精度の高い年代測定法である。
以前はカリウム・アルゴン法というものが使われていた。恐竜の地層が
数億年前というのは、この方法によって出された数値である。
しかし、カリウム・アルゴン法は信頼性の低いものであることが、最近分か
ってきた。歴史的資料から、確実に約200年前と分かっているものを、
カリウム・アルゴン法で測定すると2千万年前と出てしまうのである。
炭素14法で測定しなおすと一番古い生物でも10万年以上前のものは
見つからない。進化論では、この短い時間での生物の変化は説明できない
だろう。

そういう訳で、最近では、多くの科学者が進化論から離れ始めている。一方、
インテリジェント・デザイン論の科学者たちは、自然の中から、知的存在がデ
ザインしたとしか思えない数多くの証拠を見つけ出している。近い将来、イン
テリジェント・デザイン論が広く受け入れられるようになるだろうと思う。
サイゾーにモルモン書ものがたり  (2010/05/08)
サイゾーという月刊誌の5月号に、「モルモン書ものがたり」の
紹介記事が載っていた。

「モルモン書ものがたり」はモルモン書の中の物語を、子供たちに
読めるようにした絵本である。

今月号のサイゾーは「マンガ」特集。その中に宗教マンガのコーナー
があって、各宗教団体から出されているマンガを紹介している。
「モルモン書ものがたり」はマンガではなくて絵本なのだが、
当教会ではマンガが無いため、この本が選ばれたのだろう。

それぞれのマンガを、ストーリー性、作画力、トンデモ度の3つ
の観点で5段階評価している。

総合優勝したのは、幸福の科学のマンガだった。幸福の科学は、
去年、アニメ映画もつくっているので、腕のいいプロ集団が
いるのだろう。

一方、「モルモン書ものがたり」は、ストーリー性は2、作画力は5、
ドンデモ度は1だった。作画に関しては、芸術性の高い絵だと、
高評価をいただいた。私も「モルモン書ものがたり」の絵は好き
なので、素直にうれしい。

  => 「モルモン書ものがたり」
遺書  (2010/11/22)
私が死んだときのために、子供に残す言葉。
当面、死ぬ予定はないが、事故などで、いつ死ぬか分からないため。

幸福になるためには、互いに信ずること。相手を疑いたいと思う誘
惑に負けずに、信ずること。疑って生きるよりも、信じて死ぬほう
がましである。生きるために生きるという現代科学的思想では、人
を幸福にすることはできない。なんのために生きるかという質問に
は、生きるためと答えることしかできない。肉体には終りがあるが
愛には終りがない。真理とは永遠に続くものなのだ。生きるために
生きるという繰り返しの質問は、肉体の生命が終りがあるために生
じる。この繰り返しを断ち切るためには、永遠のものをその繰り返
しに投じなければならない。本当の幸福は、永遠のものの中にしか
見出せない。どんなに周りの状況が悪くても、二人の間に信じあい
があれば、いつでも、幸福なのだ。そして、それを克服するための
力が得られる。しかし、周りの状況がどんなに良くても、二人の間
に疑いが生じれば、人は不幸になる。疑いが罪を生み、罪は人から
希望を奪い、人を破滅へと導く。連続殺人を犯した男の母親は、そ
れでも、息子を信じていると言った。小公子という物語の主人公は、
自分のおじいさんが人々から嫌われている悪い人であったが、良い
人間であることを信じて疑わなかった。信じることは、人の心を変
えるという奇跡の源である。もし、建築家が自分の設計した建物が
建つと信じなかったなら、建物は建っていないであろう。まず、す
べてに先立って信ずることがある。

人はなぜ生きるのかを考えていくと、その目的は「幸福になるため」
だということができる。人によって、この幸福の定義はさまざまだ。
というのは、人によって、喜びとするものが違うからである。

人にとって最も大切なものは、命と自由だと思う。これは、人が幸
福になるために必要なものだからである。命を維持するために、肉
体的な欲求があり、自由を得るために、精神の理想がある。

自由というのは、何でもできることである。お金があると何でもで
きるという考えが世の中を支配している。また、能力があると自由
であると言える。ピアノを弾くことができる人は、ピアノを弾く、
弾かないを選ぶことができるが、弾くことのできない人は、弾かな
いことしか選べない。また、知識があると自由であると言える。一
方に自由になる道があり、もう一方には不自由になる道があるとす
る。この場合、どの道を選ぶと自由になるかという知識がないと自
由になれない。台風の日は危ないという知識がないと、人は怪我を
するかもしれない。怪我をして入院してしまうと、サイクリングを
することも、テニスをすることもできなくなる。完全な自由とは、
だれにも頼らなくても、自分で何でもできることである。人は自分
の義務をなおざりにして、権利を要求する傾向があるが、人に頼っ
ている限りでは、自由になることはできない。完全に自立すること
は、完全に自由になるための、精神の最高の理想ではないかと思う。

自由の定義が、肉体を喜ばせることにある人にとっては、それほど
苦労はない。ただ、肉体を喜ばせようと思っても、なかなか、そう
はならない時は、その人は苦労するかも知れない。でも、そのよう
な人は利己的であることに間違いない。自由の定義が、完全の自立
にある人にとっては苦労は多い。肉体の欲求が、しばしば、精神の
理想を邪魔するからである。そのような人は闘っている。心の中の
小さな部屋で行われる大きな闘いに勝つことが、その人の人生の課
題である。そのような人は、他人を犠牲にせずとも、何でも行うこ
とができるので、利己的ではない。

完全に自立した人は、他の人々が完全に自立しようとするのを助け
る。なぜならば、そのような人は、他人を自分の中に感ずる能力を
持っているので、そうせずにはいられないのである。他人のの喜び
は、自分の喜びとなる。

しかし、人は完全ではないので、失敗したりする。他人が失敗した
時には、その失敗をあげつらうのではなく、互いに足りない所を補
い合うことが必要だ。人は不完全であるがゆえに、互いに愛し合う
ことが必要なのだ。

「思い上がり」と「自己卑下」は反対のものに見えるが、本質的に
同じものである。その中心には敵対心がある。思い上がった人は、
自分を最高の存在であると思う。その地位を揺るがす者が表れると、
その存在を消し去ろうとする。精神的な向上心を持たないので、外
側だけの人になる。このような人は、他人にどう思われるかを気に
するので、自由を失う。自己卑下する人は、自分の能力を過小評価
し、現状に妥協するので、精神的な向上心を持たない。そのような
人の特質は、あら探し、うわさ話、中傷、不平、収入以上の生活、
そねみ、うらみ、人を高める感謝の念や賞賛の言葉の欠如、人の過
ちを赦さない不寛容さ、嫉妬などの形で現れる。不従順も本質的に
は、自分より上の立場にある人に反抗することである。また、容易
に怒り、恨みを抱く。そして、相手に責任を負わせたまま赦しを与
えず、自分の傷ついた気持ちだけを正当化しようとする。その人の
価値観は損か得かに縛られる。このような人の幸福の判断は、他人
との比較の上になっている。他人の失敗は自分の幸福なのである。
このようなことは、他人から見るとすぐわかるが、自分のこととな
ると、なかなか見えにくいものである。
だれでも  (2011/03/25)
「がんばれ」って、はげまされるよりも、
「がんばってるね」って、ほめられたい。
老子の教えの抜粋  (2011/05/14)
・「(自然は)万物を生み出しながら、支配することなく、
  万物を育成させながら、所有することなく、
  万物を成長させながら、能力を誇示することなく、
  功成っても、居座ることがない。」
  (道徳経2章)

・「徳ある人はまるで水のようである。(上善は水のごとし)
  水には3つの特性がある。
  第1に、水は万物を育て養う。
  第2に、水の性質は柔らかく弱い。自然に従い、争うことをしない。
  第3に、水は人々が嫌がる低い所を流れる。
  水は低いところを流れ、徳ある人は人の下に甘んずる。
  水は底深く清らかであり、徳のある人は心静かに何も語らない。
  水は万物に施し、徳のある人もまた施して報酬を望まない。
  水は万物をありのままに映し出し、徳のある人の言葉は偽りがない。
  水は柔らかく弱くどこにでも流れていく。
  人々も水のように争わず、下に立つことができて、はじめて道に近づくのである。」
  (道徳経8章)

・「怨みのある者には徳行を持って報いなさい。」
  (道徳経63章)

・「大きな怨みは、どんなに仲裁しても怨みが心の底に残るものである。
  これでは妥当な解決とはいえない。
  だから聖人は人に与えてもその見返りを求めない。
  徳のある人は借用書を持っていながら取り立てない人のようだ。
  反対に、徳のない人は税吏のように取り立てて、人には何も与えない。」
  (道徳経79章)

・「私には3つの宝があり、大切に守り続けている。
  第1に慈愛、第2に控えめな態度、第3に天下の人々の先に立たぬこと。
  慈愛の心があるから生あるものすべてを守ることができ、したがって勇気が生まれる。
  控えめだから人格を向上することで影響力を広められる。
  人の先に立とうとしないから、みなから敬愛され、指導者に仰がれる。
  勇敢なだけで、慈愛心がなく、
  影響力だけを求めて、控えめでなく、
  先に立とうとばかりして、退くことを知らなければ、
  結果は破滅あるのみだ。
  3つの宝のうち、最も大事なのは慈愛である。」
  (道徳経67章)
ユダヤ教の教えの抜粋  (2011/05/14)
・「あなたはあだを返してはならない。
  あなたの民の人々に恨みを抱いてはならない。
  あなた自身のようにあなたの隣人を愛さなければならない。」
  (旧約聖書、レビ記、19章18節)

・「あなたの父と母を敬え。
  あなたは殺してはならない。
  あなたは姦淫してはならない。
  あなたは盗んではならない。
  あなたは隣人について、偽証してはならない。
  あなたは隣人の家をむさぼってはならない。」
  (旧約聖書、出エジプト記、20章12-17節)
キリストの教えの抜粋  (2011/05/14)
キリストは愛について教えられ模範を示された。

  ・「人々にしてほしいと、あなたがたの望むことを、人々にもそのとおり
   にせよ。」(新約聖書、ルカによる福音書、6章31節)

  ・「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いな
   さい。」(新約聖書、ヨハネによる福音書、13章34節)

    「わたしが言ったとおりにしなさい」と言う人は多くいるが、「わた
    しがしたとおりにしなさい」と言える人は、キリストだけであろう。
    キリストは完全な模範をわたしたちに示してくださった。
    キリストはご自身がおっしゃったこの言葉を次のように行いで示された。

    ・「もしだれかがあなたの右のほおを打つなら、ほかのほおも向けな
     さい。」(新約聖書、マタイによる福音書、5章39節)

      キリストは捕らえようとする者に対して逃げたり抵抗したりする
      ことなく、十字架におかかりになった。

    ・「敵を愛し、迫害する者のために祈れ。」
      (新約聖書、マタイによる福音書、5章44節)

      十字架上で、自分を十字架につけた兵士たちに対して「父よ、彼
      らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにい
      るのです 。」と神に祈られた。
      (新約聖書、ルカによる福音書、23章34節)

    ・「人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛
     はない。」(新約聖書、ヨハネによる福音書、15章13節)

      キリストは人類の贖いのため、苦しまれ、命を捨てられた。

    ・「もしあなたが完全になりたいと思うなら、帰ってあなたの持ち物
     を売り払い、貧しい人々に施しなさい。」
     (新約聖書、マタイによる福音書、19章21節)

      キリストは病人を癒されたり、うとまれている人を祝福された。

    ・「自分の義を、見られるために人の前で行わないように、注意しな
     さい。あなたは施しをする場合、右の手のしていることを左の手に
     知らせるな。」(新約聖書、マタイによる福音書、6章1-3節)

      キリストは人を癒されたときに、その人にこのことをだれにも言
      わないようにと言われた。

パウロはキリストの教えを引き継いで、自分の手紙の中で次のように書いている。

  「愛は寛容であり、愛は情深い。また、ねたむことをしない。愛は高ぶら
  ない、誇らない。不作法をしない、自分の利益を求めない、いらだたない、
  恨みをいだかない。不義を喜ばないで真理を喜ぶ。そして、すべてを忍び、
  すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える。」
  (新約聖書、コリント人への第一の手紙、13章4節-7節)
孔子の教えの抜粋  (2011/05/14)
・「人が自分を認めないからといって、思い悩んではいけない。
  自分こそ人の長所を認めたがらない、それを思い悩むべきである。」
  (論語、学而、第1)

・「馬小屋が火事になった。
  孔子は朝廷から退出して来ると、こう気遣った。
  『けが人はなかったか。』
  馬のことは何も聞かなかった。」
  (論語、郷党、第10)

・「子貢は質問して言った。
  『生涯守るべき信条を一言で表せますか。』
  孔子は言った。
  『それは相手を自分と同じように見る心だ。
   自分が好まない事は、他人にも押し付けないことだ。』」
  (論語、衛霊公、第15)
釈迦の教えの抜粋  (2011/05/14)
・四諦(心の苦しみから解放される方法)
  ・苦 苦しみの現状分析
       この世の人生では苦しみがあるのが常である。
  ・集 苦しみの原因を探る
       欲と執着心(煩悩)が苦しみを生み出す。
  ・滅 苦しみの無い状態の推定
       欲と執着心を捨てれば、苦しみが滅する。
  ・道 解決方法と実践
       以下のものを実践すること

・五戒
  ・不殺生戒 殺さない
  ・不偸盗戒 盗まない
  ・不邪淫戒 不倫しない
  ・不妄語戒 嘘をつかない
  ・不飲酒戒 酒を飲まない

・六波羅蜜(修行)          対立概念
  ・布施 物と心をプレゼントする。 貪欲 欲しがること
  ・持戒 ルールを守る。      破戒 ルールを守らないこと
  ・忍辱 耐え忍ぶ。(反省する。) 瞋恚 思うようにならないと怒ること
  ・精進 前向きに努力する。    懈怠 怠けること
  ・禅定 心を澄ます。       混散 心が混乱すること
  ・般若(知恵) 心の工夫をする。  愚痴 自分の考えに執着して、
                      正しい意見に耳を貸さないこと

・無財の七施(お金がなくてもできる布施)
  ・眼施    人に優しいまなざしを向けること
  ・和顔悦色施 にこやかなほほえみをたたえた顔で人に接すること
  ・言辞施   優しい言葉で人に接すること
  ・身施    勤労奉仕をすること
  ・心施    感謝の心を持つこと
  ・牀座施   席を譲ってあげること
  ・房舎施   一宿一飯の施し
         (貧しい旅人、家のない人を家に泊めて食事をあげること)

・八正道
  ・正見  物事を正しく見る。
  ・正思惟 正しく考える。
  ・正語  正しく言葉を使う。(嘘や悪を言わない。)
  ・正業  正しく行動する。 (道徳的に正しい行動をする。)
  ・正命  正しく生活する。
  ・正精進 理想現実のために正しく努力する。
  ・正念  正しい信念を持つ。(自覚を失わない。)
  ・正定  正しい瞑想。瞑想によって心を正しくコントロールする。
イスラムの教えの抜粋  (2011/05/14)
イスラームの特徴的な所は、それが単なる教義ではなく、実践そのものである
こと、また、宗教団体でなく、社会システムそのものであることである。

・ザカート(喜捨)
  ・「本当に信仰して善行に励み,礼拝の務めを守り,定めの喜捨をなす者
   は、主の報奨を与えられ,恐れもなく憂いもない。」
   (クルアーン2:277)
  ・貧しい者に自発的に施しをしなければならないことである。
  ・義務としての喜捨は、年に1回、1年間所有していた財産(家屋、生活
   必需品を除く)の2.5%を貧しい者に施す。1年間の所得に対してで
   はなく、1年間使われずにいた財産に対してである。
   *ゲゼルの減価するお金(自由貨幣)の考えに似ている。
  ・義務の喜捨以外にも自発的に喜捨することが奨励されている。
  ・キリスト教のような聖職者の組織(教団)がないため、直接施すのが原
   則だが、喜捨する人と受ける人を取り持つネットワーク組織がある。

・サウム(断食)
  ・「信仰する者よ、なんじら以前の者に定められたように、なんじらに斎
   戒(断食)が定められた。おそらくなんじらは主を畏れるであろう。」
   (クルアーン2:183)
   「ラマダーンの月こそは、人類の導きとして、また導きの明証正邪の基
   準のために、クルアーンが下された月である。それでなんじらのうち、
   この月家にいる者は、この月じゅう斎戒(断食)しなければならぬ。」
   (クルアーン2:185)
  ・ラマダーン月(9月)の1ヶ月間、日の出から日没まで、飲食、喫煙、
   性交をしないこと。
  ・断食の目的は、身と心を清めることと、飢餓に苦しむ人に対する同情心
   を養うことである。
  ・断食をして浮いた分の食費を貧しい人に喜捨することになっている。

・利子の禁止とイスラーム銀行
  ・「あなたがた信仰する者よ,(真の)信者ならばアッラーを畏れ,利息
   の残額を帳消しにしなさい。」
   (クルアーン2:278)
  ・貸したお金に対して利子をとることが禁じられている。利子によって、
   自分は働かずに他人を働かして得ること(搾取)を、罪と考えるからで
   ある。
   *ゲゼルの利子のつかないお金(自由貨幣)の考えに似ている。
  ・イスラームでは利子の付かない銀行が成功を収めている。約束された定
   額の利子は付かないが、銀行の貸付先が利益を得た場合、その利益を銀
   行と預金者に分かちあうことになっている。しかし、貸付先が損失を出
   したときは元本の保証すらない。多くのムスリムたちは、利子で儲ける
   よりも、イスラームの教えを実践し、助け合い、共同責任の精神で、率
   先して無利子銀行に預けているのである。

イスラームが実に実践の宗教であり、それが社会に根づいている例を紹介する。

  聖なる断食月であるラマダンの期間のことです。わたしは家族とともに、
  イスラム教徒の友人ナビルから夕食に招かれました。それは彼らが断食を
  解く日のことでした。カイロで最も貧しい地域の一角にあった彼らの粗末
  なアパートに入ると、一部屋に数え切れないほど大勢の女性とその子供た
  ちがいました。広げた布の上の食べ物を前に、全員が床に座って、その日
  の断食の終わりを告げる祈りの合図を静かに待っていました。彼らは親戚
  なのかどうかを尋ねると、ナビルはこう答えました。「いいえ、私が知っ
  ている人は一人もいません。食べ物がない人々を通りで集めてきて、ラマ
  ダンの食事を分かち合うのがわたしたちの習慣なのです。わたしたちがこ
  うするのは預言者ムハンマドの習慣を実行しているからです。」

(末日聖徒イエス・キリスト教会機関紙「リアホナ」2002年6月より引用)

イスラームのこのような社会システムは、「でんし共産制社会」の中で提唱し
た、自由貨幣制度と共同体社会に近いものがある。未来の社会システムへの変
化の中で、今後、イスラームは大きな役割を担うに違いない。
ヒレルの教え  (2011/05/14)
ヒレルはイエス・キリストが生まれる数十年前に生まれた、ユダヤ教の教師で
した。

彼は旧約聖書を徹底的に読みこみ、「あなたは心をつくし、精神をつくし、力
をつくして、あなたの神、主を愛さなければならない。」(申命記6章5節)
と「あなた自身のようにあなたの隣人を愛さなければならない。」(レビ記
19章18節)という二つの律法を初めて結び付けました。そして、神を愛す
ることと隣人を愛することが同じ意味で、すべての律法はこれに結集するのだ
と結論付けたのです。

彼はユダヤ教に改宗を希望する異邦人から、「片足で立っている間に、ユダヤ
教の全部を説明してください」と求められて、「自分が他人に欲するように他
人に対して行え、あなたにとって痛みとなるようなことは他人にしてはならな
い。これが律法の全体である。ほかはすべて註釈にすぎない」と答えました。


人類人主義とは  (2011/05/14)
人類人主義とはエスペラントの創案者であるザメンホフが提唱した考え方です。

ザメンホフは、ポーランドに生まれ育ちました。ここは外国に支配されている
ことが多く、当時はロシアが支配していました。そして、彼は人々が言語や宗
教の違いで争うのを幼少のころから見て憂いていました。

そのようなことから、ザメンホフは言語の違いからくる争いをなくすためにエ
スペラントを創案し、宗教の違いからくる争いをなくすために人類人主義を提
唱したのです。

人類人主義はエスペラントではホマラニスモと呼ばれています。
(homaranismo:homは人、arは集団、anは一員、ismは主義、oは名詞を表す。)

「どこの出身かと尋ねられれば、生まれた国を答えるが、何人(なにじん)か
と尋ねられれば、人類人であると答える。」とザメンホフは言っています。

人類人主義とはどの宗教や思想にも共通な教えを土台に、人類共通の思想を構
築して、この思想によって生きる人、すなわち、人類人という意識を人々に確
立しようというものです。

ザメンホフはこの思想の土台として、次のものを根本原則に置きました。

  ・「自分に対して他人からして欲しいと望むことを、他人に行なう。」
  ・「つねに自分の良心の声に耳を傾ける。」

つまり、各宗教や思想が「愛」とか「慈悲」と呼ぶものが土台になっているの
です。

詳しくはこちら => 人類人主義:未来の共通思想
日常の中の奇跡  (2012/09/02)
今、こうして普通の生活をしていられることをあたりまえに思っているが、
これは奇跡の積み重ねかもしれない。

ただ、その奇跡を感じられていないだけ。

奇跡とは有り難いこと。

なにげないことに心から感謝できる人は、奇跡を感じる能力に優れているのだろう。

神を知るとはこういうことかもしれない。

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