弁証法とは
弁証法とは物事を動的に見ることです。
例を使って説明します。
1)タロウというロボットは部品ABCでできている。
2)部品AをDに交換した。
3)部品BをEに交換した。
4)部品CをFに交換した。
5)捨てられた部品ABCを集めて、別のロボットを作った。
1のタロウと4のタロウは同じタロウといえるだろうか。
1のタロウと5のロボットは同一のものだろうか。
弁証法的に見なければ、1と4は別のもので、1と5が同一のものです。
弁証法的に見れば、1と4は同一のもので、1と5は別のものです。
なぜそうなるのでしょうか。
これを人間に置き換えてみると納得がいきます。
1)赤ちゃんの太郎がいる。
2)少年の太郎になった。
3)大人の太郎になった。
4)老人の太郎になった。
人間は新陳代謝によって、体内の物質が数ヶ月で入れ替わるといわれています。
となると、赤ちゃんの太郎を構成していた物質と老人の太郎を構成している
物質はまったく違うことになります。でも、どちらも同じ太郎です。
ここで、かつて赤ちゃんの太郎を構成した物質を寄せ集めてきて、人間の形に
作り上げたとします。これは、上記のロボットの例でいうと5にあたります。
これはどう見ても太郎ではありません。
ミリンダ王の問い(紀元前2世紀の仏教の経典)
ミリンダ王は尊者ナーガセーナに近づき、挨拶して次のように言った。
「どのようにして尊師は世に知られているのですか。尊者は名を何といわ
れるのですか。」
「大王よ、私はナーガセーナとして世に知られ、修行の仲間たちは私にナ
ーガセーナと呼びかけます。また父母はナーガセーナという名前をつけま
した。しかし、それは名称、呼称、通称であって、仮の名前にしかすぎま
せん。そこには個人的実体は存在しません。」
そこでミリンダ王は言った。
「ここに個人的実体は存在しない、こんなことを信ずることができるだろ
うか。もしナーガセーナという個人的実体が存在しないというなら、あな
た方に布施した布や食物を用いるのは誰ですか。戒を守り、修行に励むの
は誰ですか。あなたは修行の仲間たちが私にナーガセーナと呼びかけると、
いわれましたが、そのナーガセーナというのは何ですか。髪がナーガセー
ナなのですか。」
「いいえ、そうではありません。大王よ。」
「それでは爪や歯や肉や骨がナーガセーナなのですか。」
「いいえ、そうでもありません。」
「それでは、認識作用がナーガセーナなのですか。」
「そうではありません、大王よ。」
「ナーガセーナというのは一体何なのですか。」
そこで、ナーガセーナはミリンダ王にこう反問して言った。
「あなたはここまで車で来られたそうですが、何が車であるか教えてくださ
い。かなえが車なのですか。」
「いいえ、そうではありません。」
「それでは、軸、輪、くびきが車なのですか。」
「いいえ、そうではありません。」
「あなたは車で来たというのに、車を指し示すことができなかった。」
というような問答の後、かなえによって、軸、輪、くびきなどによって車
という仮の名が起こると同様に、髪や爪や感覚や認識作用などによってナー
ガセーナという仮の名が生じるのであり、ここに個人的実体は存在しないと
いうことが証明された。
最初、タロウの実体はABCの集まりだと思っていたところ、DEFの集まりも
同じタロウだといわれると、いったいタロウの実体はどこにあるのだろうかと、
思ってしまいます。元々、タロウの実体など無かったのではないかということです。
上記の「ミリンダ王の問い」では、物事を空間的部分で捉えきれないと説かれ
ています。同様に、時間的部分でも捉えきれないのです。
上記のロボットの例で1と4が別のものであるように思えるのは、時間的部分で
しかとらえきれていないためです。
弁証法では、変化の流動過程を実体として捉えます。つまり、1から4の変化の
過程そのものがタロウなのです。
万物は必ず変化します。変化しないものは存在しません。
ごく短期的にみると、まったく動かず、変化しないように見えるものもあるかも
知れません。しかし、長期的に見ると全てのものは必ず変化するのです。
また、動かないように見えるものでも、微細な世界を見てみると、原子レベルで
は絶えず振動、運動しており、原子核のまわりでは、絶えず電子が回り続けてい
るのです。
弁証法とは、物事を、空間的、時間的に切り離して見るのではなく、空間的つ
ながり、時間的な流れの中で、物事を見ることです。
弁証法的な見方をすると、多数決で物事が決まる民主主義において、少数意見
が尊重されるべき理由が分かります。それは、全ての多数意見はかつては少数
意見から始まっているからです。1980年ころ、ある議員が国会で、炭酸ガ
スによる温室効果によって、地球が温暖化して、海面が上昇する危機が迫って
いると発言したところ、ほとんどの人たちが、この意見に同調しませんでした。
でも、現在では、これは皆が認めるものになっています。
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