4−2 ユダヤでの伝道

仮庵の祭での説教


紀元32年10月 ユダヤのエルサレム
ヨハネ7:11-53(ジョセフ・スミス訳)

ユダヤ人らは祭の時に、「あの人はどこにいるのか」と言って、イエスを捜していた。
群衆の中に、イエスについていろいろとうわさが立った。ある人々は、「あれはよい人だ」と言い、他の人々は、「いや、あれは群衆を惑わしている」と言った。
しかし、ユダヤ人らを恐れて、イエスのことを公然と口にする者はいなかった。
祭も半ばになってから、イエスは宮に上って教え始められた。
すると、ユダヤ人たちは驚いて言った、「この人は学問をしたこともないのに、どうして律法の知識をもっているのだろう」。
そこでイエスは彼らに答えて言われた、「わたしの教はわたし自身の教ではなく、わたしをつかわされたかたの教である 。
神のみこころを行おうと思う者であれば、だれでも、わたしの語っているこの教が神からのものか、それとも、わたし自身から出たものか、わかるであろう 。
自分から出たことを語る者は、自分の栄光を求めるが、自分をつかわされたかたの栄光を求める者は真実であって、その人の内には偽りがない 。
モーセはあなたがたに律法を与えたではないか。それだのに、あなたがたのうちには、その律法を行う者がひとりもない。あなたがたは、なぜわたしを殺そうと思っているのか 」。
群衆は答えた、「あなたは悪霊に取りつかれている。だれがあなたを殺そうと思っているものか」。
イエスは彼らに答えて言われた、「わたしが一つのわざをしたところ、あなたがたは皆それを見て驚いている。
モーセはあなたがたに割礼を命じたので、(これは、実は、モーセから始まったのではなく、先祖たちから始まったものである)あなたがたは安息日にも人に割礼を施している。
もし、モーセの律法が破られないように、安息日であっても割礼を受けるのなら、安息日に人の全身を丈夫にしてやったからといって、どうして、そんなにおこるのか 。
言い伝えによって人をさばかないで、正しいさばきをするがよい 」。
さて、エルサレムのある人たちが言った、「この人は人々が殺そうと思っている者ではないか。
見よ、彼は公然と語っているのに、人々はこれに対して何も言わない。役人たちは、この人がキリストであることを、ほんとうに知っているのではなかろうか。
わたしたちはこの人がどこからきたのか知っている。しかし、キリストが現れる時には、どこから来るのか知っている者は、ひとりもいない」。
イエスは宮の内で教えながら、叫んで言われた、「あなたがたは、わたしを知っており、また、わたしがどこからきたかも知っている。しかし、わたしは自分からきたのではない。わたしをつかわされたかたは真実であるが、あなたがたは、そのかたを知らない 。
わたしは、そのかたを知っている。わたしはそのかたのもとからきた者で、そのかたがわたしをつかわされたのである 」。
そこで人々はイエスを捕えようと計ったが、だれひとり手をかける者はなかった。イエスの時が、まだきていなかったからである。
しかし、群衆の中の多くの者が、イエスを信じて言った、「キリストがきても、この人が行ったよりも多くのしるしを行うだろうか」。
群衆がイエスについてこのようなうわさをしているのを、パリサイ人たちは耳にした。そこで、祭司長たちやパリサイ人たちは、イエスを捕えようとして、下役どもをつかわした。
イエスは言われた、「今しばらくの間、わたしはあなたがたと一緒にいて、それから、わたしをおつかわしになったかたのみもとに行く。
あなたがたはわたしを捜すであろうが、見つけることはできない。そしてわたしのいる所に、あなたがたは来ることができない 」。
そこでユダヤ人たちは互に言った、「わたしたちが見つけることができないというのは、どこへ行こうとしているのだろう。ギリシヤ人の中に離散している人たちのところにでも行って、ギリシヤ人を教えようというのだろうか。
また、『わたしを捜すが、見つけることはできない。そしてわたしのいる所には来ることができないだろう』と言ったその言葉は、どういう意味だろう」。
祭の終りの大事な日に、イエスは立って、叫んで言われた、「だれでもかわく者は、わたしのところにきて飲むがよい。
わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その腹から生ける水が川となって流れ出るであろう 」。
これは、イエスを信じる人々が受けようとしている御霊をさして言われたのである。すなわち、イエスが栄光を受けられたのちに、信じる人には御霊が下ると約束されているのである。
群衆のある者がこれらの言葉を聞いて、「このかたは、ほんとうに、あの預言者である」と言い、
ほかの人たちは「このかたはキリストである」と言い、また、ある人々は、「キリストはまさか、ガリラヤからは出てこないだろう。
キリストは、ダビデの子孫から、またダビデのいたベツレヘムの村から出ると、聖書に書いてあるではないか」と言った。
こうして、群衆の間にイエスのことで分争が生じた。
彼らのうちのある人々は、イエスを捕えようと思ったが、だれひとり手をかける者はなかった。
さて、下役どもが祭司長たちやパリサイ人たちのところに帰ってきたので、彼らはその下役どもに言った、「なぜ、あの人を連れてこなかったのか」。
下役どもは答えた、「この人の語るように語った者は、これまでにありませんでした」。
パリサイ人たちが彼らに答えた、「あなたがたまでが、だまされているのではないか。
役人たちやパリサイ人たちの中で、ひとりでも彼を信じた者があっただろうか。
律法をわきまえないこの群衆は、のろわれている」。
彼らの中のひとりで、以前にイエスに会いにきたことのあるニコデモが、彼らに言った、
「わたしたちの律法によれば、まずその人の言い分を聞き、その人のしたことを知った上でなければ、さばくことをしないのではないか」。
彼らは答えて言った、「あなたもガリラヤ出なのか。よく調べてみなさい、ガリラヤからは預言者が出るものではないことが、わかるだろう」。
そして、人々はおのおの家に帰って行った。

姦淫をした女


紀元32年 ユダヤのエルサレム
ヨハネ8:1-11(ジョセフ・スミス訳)

イエスはオリブ山に行かれた。
朝早くまた宮にはいられると、人々が皆みもとに集まってきたので、イエスはすわって彼らを教えておられた。
すると、律法学者たちやパリサイ人たちが、姦淫をしている時につかまえられた女をひっぱってきて、中に立たせた上、イエスに言った、
「先生、この女は姦淫の場でつかまえられました。
モーセは律法の中で、こういう女を石で打ち殺せと命じましたが、あなたはどう思いますか」。
彼らがそう言ったのは、イエスをためして、訴える口実を得るためであった。しかし、イエスは身をかがめて、指で地面に何か書いておられた。
彼らが問い続けるので、イエスは身を起して彼らに言われた、「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい 」。
そしてまた身をかがめて、地面に物を書きつづけられた。
これを聞くと、彼らは年寄から始めて、ひとりびとり出て行き、ついに、イエスだけになり、女は中にいたまま残された。
そこでイエスは身を起して女に言われた、「女よ、みんなはどこにいるか。あなたを罰する者はなかったのか 」。
女は言った、「主よ、だれもございません」。イエスは言われた、「わたしもあなたを罰しない。お帰りなさい。今後はもう罪を犯さないように 」。
このとき以降、この女は神をほめたたえ、主の名を信じるようになった。


【動画】お帰りなさい。今後はもう罪を犯さないように




【解説】
イエスが最初に地面に書いていた言葉は、この後、語られた言葉で、
「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい 」。
その後、地面に書いていた言葉は、
「情欲を抱いて女を見る者はだれでも、心の中ですでに姦淫を行ったのである」
であったと思われる。

イエス、御自身を証される


紀元32年 ユダヤのエルサレム
ヨハネ8:12-30

イエスは、また人々に語ってこう言われた、「わたしは世の光である。わたしに従って来る者は、やみのうちを歩くことがなく、命の光をもつであろう」。
するとパリサイ人たちがイエスに言った、「あなたは、自分のことをあかししている。あなたのあかしは真実ではない」。
イエスは彼らに答えて言われた、「たとい、わたしが自分のことをあかししても、わたしのあかしは真実である。それは、わたしがどこからきたのか、また、どこへ行くのかを知っているからである。しかし、あなたがたは、わたしがどこからきて、どこへ行くのかを知らない 。
あなたがたは肉によって人をさばくが、わたしはだれもさばかない 。
しかし、もしわたしがさばくとすれば、わたしのさばきは正しい。なぜなら、わたしはひとりではなく、わたしをつかわされたかたが、わたしと一緒だからである 。
あなたがたの律法には、ふたりによる証言は真実だと、書いてある 。
わたし自身のことをあかしするのは、わたしであるし、わたしをつかわされた父も、わたしのことをあかしして下さるのである 」。
すると、彼らはイエスに言った、「あなたの父はどこにいるのか」。イエスは答えられた、「あなたがたは、わたしをもわたしの父をも知っていない。もし、あなたがたがわたしを知っていたなら、わたしの父をも知っていたであろう 」。
イエスが宮の内で教えていた時、これらの言葉をさいせん箱のそばで語られたのであるが、イエスの時がまだきていなかったので、だれも捕える者がなかった。
さて、また彼らに言われた、「わたしは去って行く。あなたがたはわたしを捜し求めるであろう。そして自分の罪のうちに死ぬであろう。わたしの行く所には、あなたがたは来ることができない 」。
そこでユダヤ人たちは言った、「わたしの行く所に、あなたがたは来ることができないと、言ったのは、あるいは自殺でもしようとするつもりか」。
イエスは彼らに言われた、「あなたがたは下から出た者だが、わたしは上からきた者である。あなたがたはこの世の者であるが、わたしはこの世の者ではない 。
だからわたしは、あなたがたは自分の罪のうちに死ぬであろうと、言ったのである。もしわたしがそういう者であることをあなたがたが信じなければ、罪のうちに死ぬことになるからである 」。
そこで彼らはイエスに言った、「あなたは、いったい、どういうかたですか」。イエスは彼らに言われた、「わたしがどういう者であるかは、初めからあなたがたに言っているではないか 。
あなたがたについて、わたしの言うべきこと、さばくべきことが、たくさんある。しかし、わたしをつかわされたかたは真実なかたである。わたしは、そのかたから聞いたままを世にむかって語るのである 」。
彼らは、イエスが父について話しておられたことを悟らなかった。
そこでイエスは言われた、「あなたがたが人の子を上げてしまった後はじめて、わたしがそういう者であること、また、わたしは自分からは何もせず、ただ父が教えて下さったままを話していたことが、わかってくるであろう。
わたしをつかわされたかたは、わたしと一緒におられる。わたしは、いつも神のみこころにかなうことをしているから、わたしをひとり置きざりになさることはない 」。
これらのことを語られたところ、多くの人々がイエスを信じた。


【動画】イエスは宣言した。「わたしは世の光である。真理はあなたがたに自由を得させるであろう。」


ユダヤ人への説教
身を隠して宮から出て行かれた[奇跡]


紀元32年 ユダヤのエルサレム
ヨハネ8:31-59

イエスは自分を信じたユダヤ人たちに言われた、「もしわたしの言葉にうちにとどまっておるなら、あなたがたは、ほんとうにわたしの弟子なのである。
また真理を知るであろう。そして真理は、あなたがたに自由を得させるであろう 」。
そこで、彼らはイエスに言った、「わたしたちはアブラハムの子孫であって、人の奴隷になったことなどは、一度もない。どうして、あなたがたに自由を得させるであろうと、言われるのか」。
イエスは彼らに答えられた、「よくよくあなたがたに言っておく。すべて罪を犯す者は罪の奴隷である。
そして、奴隷はいつまでも家にいる者ではない。しかし、子はいつまでもいる。
だから、もし子があなたがたに自由を得させるならば、あなたがたは、ほんとうに自由な者となるのである。
わたしは、あなたがたがアブラハムの子孫であることを知っている。それだのに、あなたがたはわたしを殺そうとしている。わたしの言葉が、あなたがたのうちに根をおろしていないからである。
わたしはわたしの父のもとで見たことを語っているが、あなたがたは自分の父から聞いたことを行っている 」。
彼らはイエスに答えて言った、「わたしたちの父はアブラハムである」。イエスは彼らに言われた、「もしアブラハムの子であるなら、アブラハムのわざをするがよい。
ところが今、神から聞いた真理をあなたがたに語ってきたこのわたしを、殺そうとしている。そんなことをアブラハムはしなかった。
あなたがたは、あなたがたの父のわざを行っているのである 」。彼らは言った、「わたしたちは、不品行の結果うまれた者ではない。わたしたちにはひとりの父がある。それは神である」。
イエスは彼らに言われた、「神があなたがたの父であるならば、あなたがたはわたしを愛するはずである。わたしは神から出た者、また神からきている者であるからだ。わたしは自分からきたのではなく、神からつかわされたのである。
どうしてあなたがたは、わたしの話すことがわからないのか。あなたがたが、わたしの言葉を悟ることができないからである 。
あなたがたは自分の父、すなわち、悪魔から出てきた者であって、その父の欲望どおりを行おうと思っている。彼は初めから、人殺しであって、真理に立つ者ではない。彼のうちには真理がないからである。彼が偽りを言うとき、いつも自分の本音をはいているのである。彼は偽り者であり、偽りの父であるからだ。
しかし、わたしが真理を語っているので、あなたがたはわたしを信じようとしない。
あなたがたのうち、だれがわたしに罪があると責めうるのか。わたしは真理を語っているのに、なぜあなたがたは、わたしを信じないのか。
神からきた者は神の言葉に聞き従うが、あなたがたが聞き従わないのは、神からきた者でないからである」。
ユダヤ人たちはイエスに答えて言った、「あなたはサマリヤ人で、悪霊に取りつかれていると、わたしたちが言うのは、当然ではないか」。
イエスは答えられた、「わたしは、悪霊に取りつかれているのではなくて、わたしの父を重んじているのだが、あなたがたはわたしを軽んじている。
わたしは自分の栄光を求めてはいない。それを求めるかたが別にある。そのかたは、またさばくかたである。
よくよく言っておく。もし人がわたしの言葉を守るならば、その人はいつまでも死を見ることがないであろう 」。
ユダヤ人たちが言った、「あなたが悪霊に取りつかれていることが、今わかった。アブラハムは死に、預言者たちも死んでいる。それだのに、あなたは、わたしの言葉を守る者はいつまでも死を味わうことがないであろうと、言われる。
あなたは、わたしたちの父アブラハムより偉いのだろうか。彼も死に、預言者たちも死んだではないか。あなたは、いったい、自分をだれと思っているのか」。
イエスは答えられた、「わたしがもし自分に栄光を帰するなら、わたしの栄光は、むなしいものである。わたしに栄光を与えるかたは、わたしの父であって、あなたがたが自分の神だと言っているのは、そのかたのことである。
あなたがたはその神を知っていないが、わたしは知っている。もしわたしが神を知らないと言うならば、あなたがたと同じような偽り者であろう。しかし、わたしはそのかたを知り、その御言を守っている。
あなたがたの父アブラハムは、わたしのこの日を見ようとして楽しんでいた。そしてそれを見て喜んだ 」。
そこでユダヤ人たちはイエスに言った、「あなたはまだ五十にもならないのに、アブラハムを見たのか」。
イエスは彼らに言われた、「よくよくあなたがたに言っておく。アブラハムの生れる前からわたしは、いるのである 」。
そこで彼らは石をとって、イエスに投げつけようとした。しかし、イエスは身を隠して、宮から出て行かれた。

【解説】
イエスが「アブラハムの生れる前からわたしは、いるのである 」と
おっしゃたときに、ユダヤ人はなぜ憤慨したのか。

「わたしは、いる(わたしは有る)」とは、出エジプト記3:14で、
エホバが御自信をモーセに紹介したときに使われた言葉である。

神はモーセに言われた、「わたしは、有って有る者」。
(英語では I Am That I Am, つまり、「私は『わたしは有る』という者である。」という意味。)
また言われた、「イスラエルの人々にこう言いなさい、
『「わたしは有る」というかたが、わたしをあなたがたのところへつかわされました』と」。

だから、イエスが「わたしは、いる」と言われた場合、
御自身を旧約聖書の神であるエホバだとおっしゃっていることになる。
ユダヤ人はこれを神に対する冒涜であり、
モーセの律法によると死罪に当たると考えた。

生まれつき盲目の男の癒し[奇跡]


紀元32年 ユダヤのエルサレム
ヨハネ9:1-41(ジョセフ・スミス訳)


イエスが道をとおっておられるとき、生れつきの盲人を見られた。
弟子たちはイエスに尋ねて言った、「先生、この人が生れつき盲人なのは、だれが罪を犯したためですか。本人ですか、それともその両親ですか」。

イエスは答えられた、「本人が罪を犯したのでもなく、また、その両親が犯したのでもない。ただ神のみわざが、彼の上に現れるためである。
わたしたちは、わたしをつかわされたかたのわざを、あなたがたといる間にしなければならない。わたしが自分のわざを終えるときが来る。すると、わたしは父のもとに行く。
わたしは、この世にいる間は、世の光である 」。

イエスはそう言って、地につばきをし、そのつばきで、どろをつくり、そのどろを盲人の目に塗って言われた、「シロアム(つかわされた者、の意)の池に行って洗いなさい 」。

そこで彼は行って洗った。そして見えるようになって、帰って行った。
近所の人々や、彼がもと、こじきであったのを見知っていた人々が言った、「この人は、すわってこじきをしていた者ではないか」。
ある人々は「その人だ」と言い、他の人々は「いや、ただあの人に似ているだけだ」と言った。しかし、本人は「わたしがそれだ」と言った。
そこで人々は彼に言った、「では、おまえの目はどうしてあいたのか」。

彼は答えた、「イエスというかたが、どろをつくって、わたしの目に塗り、『シロアムに行って洗え』と言われました。それで、行って洗うと、見えるようになりました」。
人々は彼に言った、「その人はどこにいるのか」。彼は「知りません」と答えた。
人々は、もと盲人であったこの人を、パリサイ人たちのところにつれて行った。
イエスがどろをつくって彼の目をあけたのは、安息日であった。
パリサイ人たちもまた、「どうして見えるようになったのか」、と彼に尋ねた。彼は答えた、「あのかたがわたしの目にどろを塗り、わたしがそれを洗い、そして見えるようになりました」。
そこで、あるパリサイ人たちが言った、「その人は神からきた人ではない。安息日を守っていないのだから」。しかし、ほかの人々は言った、「罪のある人が、どうしてそのようなしるしを行うことができようか」。そして彼らの間に分争が生じた。
そこで彼らは、もう一度この盲人に聞いた、「おまえの目をあけてくれたその人を、どう思うか」。「預言者だと思います」と彼は言った。
ユダヤ人たちは、彼がもと盲人であったが見えるようになったことを、まだ信じなかった。ついに彼らは、目が見えるようになったこの人の両親を呼んで、
尋ねて言った、「これが、生れつき盲人であったと、おまえたちの言っているむすこか。それではどうして、いま目が見えるのか」。
両親は答えて言った、「これがわたしどものむすこであること、また生れつき盲人であったことは存じています。
しかし、どうしていま見えるようになったのか、それは知りません。また、だれがその目をあけて下さったのかも知りません。あれに聞いて下さい。あれはもうおとなですから、自分のことは自分で話せるでしょう」。
両親はユダヤ人たちを恐れていたので、こう答えたのである。それは、もしイエスをキリストと告白する者があれば、会堂から追い出すことに、ユダヤ人たちが既に決めていたからである。
彼の両親が「おとなですから、あれに聞いて下さい」と言ったのは、そのためであった。
そこで彼らは、盲人であった人をもう一度呼んで言った、「神に栄光を帰するがよい。あの人が罪人であることは、わたしたちにはわかっている」。
すると彼は言った、「あのかたが罪人であるかどうか、わたしは知りません。ただ一つのことだけ知っています。わたしは盲人であったが、今は見えるということです」。
そこで彼らは言った、「その人はおまえに何をしたのか。どんなにしておまえの目をあけたのか」。
彼は答えた、「そのことはもう話してあげたのに、聞いてくれませんでした。なぜまた聞こうとするのですか。あなたがたも、あの人の弟子になりたいのですか」。

そこで彼らは彼をののしって言った、「おまえはあれの弟子だが、わたしたちはモーセの弟子だ。
モーセに神が語られたということは知っている。だが、あの人がどこからきた者か、わたしたちは知らぬ」。
そこで彼が答えて言った、「わたしの目をあけて下さったのに、そのかたがどこからきたか、ご存じないとは、不思議千万です。
わたしたちはこのことを知っています。神は罪人の言うことはお聞きいれになりませんが、神を敬い、そのみこころを行う人の言うことは、聞きいれて下さいます。
神からきた人以外で、生れつき盲人であった者の目をあけた人があるということは、世界が始まって以来、聞いたことがありません。
もしあのかたが神からきた人でなかったら、何一つできなかったはずです」。
これを聞いて彼らは言った、「おまえは全く罪の中に生れていながら、わたしたちを教えようとするのか」。そして彼を外へ追い出した。

イエスは、その人が外へ追い出されたことを聞かれた。そして彼に会って言われた、「あなたは人の子を信じるか 」。
彼は答えて言った、「主よ、それはどなたですか。そのかたを信じたいのですが」。
イエスは彼に言われた、「あなたは、もうその人に会っている。今あなたと話しているのが、その人である 」。
すると彼は、「主よ、信じます」と言って、イエスを拝した。
そこでイエスは言われた、「わたしがこの世にきたのは、さばくためである。すなわち、見えない人たちが見えるようになり、見える人たちが見えないようになるためである 」。
そこにイエスと一緒にいたあるパリサイ人たちが、それを聞いてイエスに言った、「それでは、わたしたちも盲人なのでしょうか」。
イエスは彼らに言われた、「もしあなたがたが盲人であったなら、罪はなかったであろう。しかし、今あなたがたが『見える』と言い張るところに、あなたがたの罪がある。


【動画】イエス,盲目の人をおいやしになる



【動画】イエス生まれつきの盲人を癒す




【解説】
「この人が生れつき盲人なのは、だれが罪を犯したためですか。
本人ですか、それともその両親ですか」という弟子たちの質問から、
前世の存在を彼らが信じていたことが伺える。
前世の教義は、大背教の時代にキリスト教から失われたが、
預言者ジョセフ・スミスによって回復された。

良い羊飼い[たとえ]
他の羊


紀元32年 ユダヤのエルサレム
ヨハネ10:1-21(ジョセフ・スミス訳)


よくよくあなたがたに言っておく。羊の囲いにはいるのに、門からでなく、ほかの所からのりこえて来る者は、盗人であり、強盗である。
門からはいる者は、羊の羊飼である。
門番は彼のために門を開き、羊は彼の声を聞く。そして彼は自分の羊の名をよんで連れ出す。
自分の羊をみな出してしまうと、彼は羊の先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、彼について行くのである。
ほかの人には、ついて行かないで逃げ去る。その人の声を知らないからである 」。

イエスは彼らにこの比喩を話されたが、彼らは自分たちにお話しになっているのが何のことだか、わからなかった。
そこで、イエスはまた言われた、「よくよくあなたがたに言っておく。わたしは羊の門である。
わたしよりも前にきた人で、わたしについて証しなかった人は、みな盗人であり、強盗である。羊は彼らに聞き従わなかった。
わたしは門である。わたしをとおってはいる者は救われ、また出入りし、牧草にありつくであろう。
盗人が来るのは、盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしがきたのは、羊に命を得させ、豊かに得させるためである。
わたしはよい羊飼である。よい羊飼は、羊のために命を捨てる。
羊飼ではなく、羊が自分のものでもない雇人は、おおかみが来るのを見ると、羊をすてて逃げ去る。そして、おおかみは羊を奪い、また追い散らす。
彼は雇人であって、羊のことを心にかけていないからである。
わたしはよい羊飼であって、わたしの羊を知り、わたしの羊はまた、わたしを知っている。
それはちょうど、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。そして、わたしは羊のために命を捨てるのである。

わたしにはまた、この囲いにいない他の羊がある。わたしは彼らをも導かねばならない。彼らも、わたしの声に聞き従うであろう。そして、ついに一つの群れ、ひとりの羊飼となるであろう。
父は、わたしが自分の命を捨てるから、わたしを愛して下さるのである。命を捨てるのは、それを再び得るためである。
だれかが、わたしからそれを取り去るのではない。わたしが、自分からそれを捨てるのである。わたしには、それを捨てる力があり、またそれを受ける力もある。これはわたしの父から授かった定めである 」。
これらの言葉を語られたため、ユダヤ人の間にまたも分争が生じた。
そのうちの多くの者が言った、「彼は悪霊に取りつかれて、気が狂っている。どうして、あなたがたはその言うことを聞くのか」。
他の人々は言った、「それは悪霊に取りつかれた者の言葉ではない。悪霊は盲人の目をあけることができようか」。


【動画】良い羊飼い



【動画】良い羊飼いと他の羊




【解説】
「他の羊」とは、だれのことか。

救い主は復活後アメリカ大陸を訪れられたとき、
他の羊がだれのことであるか説明なさった。

わたしが言ったその羊とは、あなたがたのことである。
(アメリカ大陸のイスラエルの子孫)
わたしには、この地におらず、エルサレムの地にもおらず、
またわたしがこれまでに行って教え導いた周囲の地のどこにもいない他の羊がいる。
(その他の地に散らされたイスラエルの子孫)
わたしは彼らのところへ行って、彼らがわたしの声を聞いて、
わたしの羊の中に数えられるようにし、一つの群れ、
一人の羊飼いとなるようにすることを、父から命じられた。
だから、わたしは行って彼らにわたし自身を現す。

七十人の帰還


紀元32年 ユダヤ
ルカ10:17-24(ジョセフ・スミス訳)

七十人が喜んで帰ってきて言った、「主よ、あなたの名によっていたしますと、悪霊までがわたしたちに服従します」。
彼らに言われた、「わたしはサタンが電光のように天から落ちるのを見た。
わたしはあなたがたに、へびやさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けた。だから、あなたがたに害をおよぼす者はまったく無いであろう。
しかし、霊があなたがたに服従することを喜ぶな。むしろ、あなたがたの名が天にしるされていることを喜びなさい」。
そのとき、イエスは聖霊によって喜びあふれて言われた、「天地の主なる父よ。あなたをほめたたえます。これらの事を、自分を知恵のある者や賢い者とする者に隠して、幼な子にあらわしてくださいました。父よ、これはまことに、みこころにかなった事でした。
すべての事は父からわたしに任せられています。そして、子がだれであるかは、父のほか知っている者はありません。また父がだれであるかは、子と、父をあらわそうとして子が選んだ者とのほか、だれも知っている者はいません」。
それから弟子たちの方に振りむいて、ひそかに言われた、「あなたがたが見ていることを見る目は、さいわいである。
あなたがたに言っておく。多くの預言者や王たちも、あなたがたの見ていることを見ようとしたが、見ることができず、あなたがたの聞いていることを聞こうとしたが、聞けなかったのである」。

二つの大切な戒め
良いサマリヤ人[たとえ]


紀元32年 ユダヤ
ルカ10:25-37


するとそこへ、ある律法学者が現れ、イエスを試みようとして言った、「先生、何をしたら永遠の生命が受けられましょうか」。
彼に言われた、「律法にはなんと書いてあるか。あなたはどう読むか」。
彼は答えて言った、「『心をつくし、精神をつくし、力をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。また、『自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ』とあります」。
彼に言われた、「あなたの答は正しい。そのとおり行いなさい。そうすれば、いのちが得られる」。
(関連 5−3「偉大な戒め」

すると彼は自分の立場を弁護しようと思って、イエスに言った、「では、わたしの隣り人とはだれのことですか」。

イエスが答えて言われた、「ある人がエルサレムからエリコに下って行く途中、強盗どもが彼を襲い、その着物をはぎ取り、傷を負わせ、半殺しにしたまま、逃げ去った。

するとたまたま、ひとりの祭司がその道を下ってきたが、この人を見ると、向こう側を通って行った。

同様に、レビ人もこの場所にさしかかってきたが、彼を見ると向こう側を通って行った。

ところが、あるサマリヤ人が旅をしてこの人のところを通りかかり、彼を見て気の毒に思い、
近寄ってきてその傷にオリブ油とぶどう酒とを注いでほうたいをしてやり、自分の家畜に乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。

翌日、デナリ二つを取り出して宿屋の主人に手渡し、『この人を見てやってください。費用がよけいにかかったら、帰りがけに、わたしが支払います』と言った。

この三人のうち、だれが強盗に襲われた人の隣り人になったと思うか」。

彼が言った、「その人に慈悲深い行いをした人です」。そこでイエスは言われた、「あなたも行って同じようにしなさい」。


【動画】良いサマリヤ人



【動画】良きサマリア人のたとえ




【解説】
「隣り人とはだれのことですか。」という質問に対して、イエスは「だれが隣り人になったか」と質問し返しておられる。
つまり、隣り人だから愛するのではなく、愛するから隣り人になるのだと教えられた。
このたとえ話で強盗に襲われた人はユダヤ人である。
サマリヤ人の地域はユダヤに北接していたが、ユダヤ人とサマリヤ人の関係は良くなかった。
イエスの時代まで、数百年にわたってユダヤ人とサマリヤ人の確執は続いていた。
サマリヤ人はサマリヤに住むユダヤ人の子孫で、異邦人と姻戚関係を結んでいた。
サマリヤ人は異邦人との交流によって腐敗し、背教していると、ユダヤ人は思っていた。
ユダヤ人はサマリヤを避けて,はるかに遠回りをして旅をしていた。
つまり、当時の常識では、ユダヤ人にとっては、サマリヤ人は隣り人ではなかった。
イエス・キリストは社会から価値がないとして見捨てられた人々を愛された。
重い病気にかかっていた人、目が見えない人、体が不自由な人などである。
このような自分で働けない人、自立できない人は社会から価値がない人とされていた。
なにもできない人たちは無価値なのだろうか。
人はただそれだけで価値をもっている。
すべての人は神の子供であり、やがては神となる可能性をその中に備えている。
一人の人は全宇宙よりも価値がある。
なぜなら、全宇宙すら神によって造られたのであり、人は、その神のようになることのできる存在だから。
人の価値というのは、初めから存在するわけではなく、愛されることによって出てくる。
それは、ダイヤモンドの原石はそのままでは美しくないが、磨かれることによって美しさが出てくるのと似ている。
人を愛する時には、相手が愛するに値するか考えてはいけない。
愛することによって価値が出てくるからである。
相手が貧しい人、病気の人、容姿の美しくない人、罪を犯した人、不愉快な人など、自分にとっては何の利益をももたらさない人かもしれない。
それでも、天上では、サタンに従わず、神に従った神の子供たちだった。
すべての人には神の面影がある。
ただ磨かれていないだけである。
価値があるから愛するのではなく、愛するから価値が出てくる。
隣り人だから愛するのではなく、愛するから隣り人になる。

イエス、マリヤとマルタを訪問


紀元32年 ユダヤのベタニヤ
ルカ10:38-42

一同が旅を続けているうちに、イエスがある村へはいられた。するとマルタという名の女がイエスを家に迎え入れた。
この女にマリヤという妹がいたが、主の足もとにすわって、御言に聞き入っていた。
ところが、マルタは接待のことで忙がしくて心をとりみだし、イエスのところにきて言った、「主よ、妹がわたしだけに接待をさせているのを、なんともお思いになりませんか。わたしの手伝いをするように妹におっしゃってください」。
主は答えて言われた、「マルタよ、マルタよ、あなたは多くのことに心を配って思いわずらっている。
しかし、無くてならぬものは多くはない。いや、一つだけである。マリヤはその良い方を選んだのだ。そしてそれは、彼女から取り去ってはならないものである」。

祈りについての弟子たちへの教え
真夜中の友の訪れ[たとえ]


紀元32年 ユダヤ
ルカ11:1-13(ジョセフ・スミス訳)

また、イエスはある所で祈っておられたが、それが終ったとき、弟子のひとりが言った、「主よ、ヨハネがその弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈ることを教えてください」。
そこで彼らに言われた、「祈るときには、こう言いなさい、『父よ、御名があがめられますように。御国がきますように。
わたしたちの日ごとの食物を、日々お与えください。
わたしたちが自分に負債のある者を赦していますように、わたしたちの負債をお赦しください。わたしたちを誘惑に陥らせることのないようにし、悪からお救いください。』」
(関連  3−2「祈り」
そして彼らに言われた、「あなたがたの天の父はあなたがたが求める物を与えないことはないであろう。」そして、たとえて言われた。「あなたがたのうちのだれかに、友人があるとして、その人のところへ真夜中に行き、『友よ、パンを三つ貸してください。
友だちが旅先からわたしのところに着いたのですが、何も出すものがありませんから』と言った場合、
彼は内から、『面倒をかけないでくれ。もう戸は締めてしまったし、子供たちもわたしと一緒に床にはいっているので、いま起きて何もあげるわけにはいかない』と言うであろう。
しかし、よく聞きなさい、友人だからというのでは起きて与えないが、しきりに願うので、起き上がって必要なものを出してくれるであろう。
そこでわたしはあなたがたに言う。求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。
すべて求める者は得、捜す者は見いだし、門をたたく者はあけてもらえるからである。
あなたがたのうちで、父であるものは、その子が魚を求めるのに、魚の代りにへびを与えるだろうか。
卵を求めるのに、さそりを与えるだろうか。
このように、あなたがたは悪い者であっても、自分の子供には、良い贈り物をすることを知っているとすれば、天の父はなおさら、求めて来る者に聖霊を通して良い贈り物を下さらないことがあろうか」。
(関連  3−2「熱心な祈り」

悪霊を追い出したことをサタンの力によるものだと非難される
悪霊を追い出される[奇跡]
汚れた霊[たとえ]


紀元32年 ユダヤ
ルカ11:14-36(ジョセフ・スミス訳)

さて、イエスがある男から悪霊を追い出しておられた。その男は口のきけない人であった。悪霊が出て行くと、口のきけない人が物を言うようになったので、群衆は不思議に思った。
その中のある人々が、「彼は悪霊のかしらベルゼブルによって、悪霊どもを追い出しているのだ」と言い、
またほかの人々は、イエスを試みようとして、天からのしるしを求めた。
しかしイエスは、彼らの思いを見抜いて言われた、「おおよそ国が内部で分裂すれば自滅してしまい、また家が分れ争えば倒れてしまう。
そこでサタンも内部で分裂すれば、その国はどうして立ち行けよう。あなたがたはわたしがベルゼブルによって悪霊を追い出していると言うが、
もしわたしがベルゼブルによって悪霊を追い出すとすれば、あなたがたの仲間はだれによって追い出すのであろうか。だから、彼らがあなたがたをさばく者となるであろう。
しかし、わたしが神の指によって悪霊を追い出しているのなら、神の国はすでにあなたがたのところにきたのである。
(関連 3−3「ベルゼブルについての教え」
強い人が十分に武装して自分の邸宅を守っている限り、その持ち物は安全である。
しかし、もっと強い者が襲ってきて彼に打ち勝てば、その頼みにしていた武具を奪って、その分捕品を分けるのである。
わたしの味方でない者は、わたしに反対するものであり、わたしと共に集めない者は、散らすものである。
汚れた霊が人から出ると、休み場を求めて水の無い所を歩きまわるが、見つからないので、出てきた元の家に帰ろうと言って、
帰って見ると、その家はそうじがしてある上、飾りつけがしてあった。
そこでまた出て行って、自分以上に悪い他の七つの霊を引き連れてきて中にはいり、そこに住み込む。そうすると、その人の後の状態は初めよりももっと悪くなるのである」。
イエスがこう話しておられるとき、群衆の中からひとりの女が声を張りあげて言った、「あなたを宿した胎、あなたが吸われた乳房は、なんとめぐまれていることでしょう」。
しかしイエスは言われた、「いや、めぐまれているのは、むしろ、神の言を聞いてそれを守る人たちである」。
さて群衆が群がり集まったので、イエスは語り出された、「この時代は邪悪な時代である。それはしるしを求めるが、ヨナのしるしのほかには、なんのしるしも与えられないであろう。
というのは、ニネベの人々に対してヨナがしるしとなったように、人の子もこの時代に対してしるしとなるであろう。
南の女王が、今の時代の人々と共にさばきの場に立って、彼らを罪に定めるであろう。なぜなら、彼女はソロモンの知恵を聞くために、地の果からはるばるきたからである。しかし見よ、ソロモンにまさる者がここにいる。
ニネベの人々が、今の時代の人々と共にさばきの場に立って、彼らを罪に定めるであろう。なぜなら、ニネベの人々はヨナの宣教によって悔い改めたからである。しかし見よ、ヨナにまさる者がここにいる。
だれもあかりをともして、それを穴倉の中や枡の下に置くことはしない。むしろはいって来る人たちに、そのあかりが見えるように、燭台の上におく。
あなたの目は、からだのあかりである。あなたの目が澄んでおれば、全身も明るいが、目がわるければ、からだも暗い。
だから、あなたの内なる光が暗くならないように注意しなさい。
もし、あなたのからだ全体が明るくて、暗い部分が少しもなければ、ちょうど、あかりが輝いてあなたを照す時のように、全身が明るくなるであろう」。


【動画】内わで分かれ争う家


清くあるべきことについての説教


紀元32年 ユダヤ
ルカ11:37-54(ジョセフ・スミス訳)

イエスが語っておられた時、あるパリサイ人が、自分の家で食事をしていただきたいと申し出たので、はいって食卓につかれた。
ところが、食前にまず洗うことをなさらなかったのを見て、そのパリサイ人が不思議に思った。
そこで主は彼に言われた、「いったい、あなたがたパリサイ人は、杯や盆の外側をきよめるが、あなたがたの内側は貪欲と邪悪とで満ちている。
愚かな者たちよ、外側を造ったかたは、また内側も造られたではないか。
もし、あなたが持っているものを施しに用いたり、わたしが命じたすべてのことを守るならば、あなたの内側にあるものはきよめられるだろう。そうすれば、いっさいがあなたがたにとって、清いものとなる。
しかし、あなた方パリサイ人は、わざわいである。はっか、うん香、あらゆる野菜などの十分の一を宮に納めておりながら、義と神に対する愛とをなおざりにしている。それもなおざりにはできないが、これは行わねばならない。
あなたがたパリサイ人は、わざわいである。会堂の上席や広場での敬礼を好んでいる。
あなたがたは、わざわいである。人目につかない墓のようなものである。その上を歩いても人々は気づかないでいる」。
ひとりの律法学者がイエスに答えて言った、「先生、そんなことを言われるのは、わたしたちまでも侮辱することです」。
そこで言われた、「あなたがた律法学者も、わざわいである。負い切れない重荷を人に負わせながら、自分ではその荷に指一本でも触れようとしない。
あなたがたは、わざわいである。預言者たちの碑を建てるが、しかし彼らを殺したのは、あなたがたの先祖であったのだ。
だから、あなたがたは、自分の先祖のしわざに同意する証人なのだ。先祖が彼らを殺し、あなたがたがその碑を建てるのだから。
それゆえに、『神の知恵』も言っている、『わたしは預言者と使徒とを彼らにつかわすが、彼らはそのうちのある者を殺したり、迫害したりするであろう』。
それで、アベルの血から祭壇と神殿との間で殺されたザカリヤの血に至るまで、世の初めから流されてきたすべての預言者の血について、この時代がその責任を問われる。
そうだ、あなたがたに言っておく、この時代がその責任を問われるであろう。
あなたがた律法学者は災いである。あなたがたは知識の鍵、すなわちすべての聖文を取り上げて、自分が王国に入らないばかりか、入ろうとする人々を妨げてきた。
イエスがそこを出て行かれると、律法学者やパリサイ人は、激しく詰め寄り、いろいろな事を問いかけて、
イエスの口から何か言いがかりを得ようと、ねらいはじめた。

パリサイ人のパン種、偽善と勇気


紀元32年 ユダヤ
ルカ12:1-12(ジョセフ・スミス訳)

その間に、おびただしい群衆が、互に踏み合うほどに群がってきたが、イエスはまず弟子たちに語りはじめられた、「パリサイ人のパン種、すなわち彼らの偽善に気をつけなさい。
おおいかぶされたもので、現れてこないものはなく、隠れているもので、知られてこないものはない。
だから、あなたがたが暗やみで言ったことは、なんでもみな明るみで聞かれ、密室で耳にささやいたことは、屋根の上で言いひろめられるであろう。
そこでわたしの友であるあなたがたに言うが、からだを殺しても、そのあとでそれ以上なにもできない者どもを恐れるな。
恐るべき者がだれであるか、教えてあげよう。殺したあとで、更に地獄に投げ込む権威のあるかたを恐れなさい。そうだ、あなたがたに言っておくが、そのかたを恐れなさい。
五羽のすずめは二アサリオンで売られているではないか。しかも、その一羽も神のみまえで忘れられてはいない。
その上、あなたがたの頭の毛までも、みな数えられている。恐れることはない。あなたがたは多くのすずめよりも、まさった者である。
そこで、あなたがたに言う。だれでも人の前でわたしを受けいれる者を、人の子も神の使たちの前で受けいれるであろう。
しかし、人の前でわたしを拒む者は、神の天使の前で拒まれるだろう。」
弟子たちは、自分たちが人々の前で主のことを悪く言ったので、主がこのように言われたのだと分かっていた。彼らは、人の前で主を信じていると告白するのを恐れたのである。
そして、彼らは互いに論じ合った。「主はわたしたちの心を見抜いておられる。主はわたしたちが罪に定められると言っておられるのだ。わたしたちは赦されないだろう。」しかし、主は彼らに答えて言われた。
「人の子の悪口を言っても悔い改める者は赦されるが、聖霊を冒涜するものは赦されない。
あなたがたが会堂や役人や高官の前へひっぱられて行った場合には、何をどう弁明しようか、何を言おうかと心配しないがよい。
言うべきことは、聖霊がその時に教えてくださるからである」。

愚かな金持ち[たとえ]


紀元32年 ユダヤ
ルカ12:13-21

群衆の中のひとりがイエスに言った、「先生、わたしの兄弟に、遺産を分けてくれるようにおっしゃってください」。
彼に言われた、「人よ、だれがわたしをあなたがたの裁判人または分配人に立てたのか」。
それから人々にむかって言われた、「あらゆる貪欲に対してよくよく警戒しなさい。たといたくさんの物を持っていても、人のいのちは、持ち物にはよらないのである」。
そこで一つの譬を語られた、「ある金持の畑が豊作であった。
そこで彼は心の中で、『どうしようか、わたしの作物をしまっておく所がないのだが』と思いめぐらして
言った、『こうしよう。わたしの倉を取りこわし、もっと大きいのを建てて、そこに穀物や食糧を全部しまい込もう。
そして自分の魂に言おう。たましいよ、おまえには長年分の食糧がたくさんたくわえてある。さあ安心せよ、食え、飲め、楽しめ』。
すると神が彼に言われた、『愚かな者よ、あなたの魂は今夜のうちにも取り去られるであろう。そしたら、あなたが用意した物は、だれのものになるのか』。
自分のために宝を積んで神に対して富まない者は、これと同じである」。

弟子は地の宝よりも先に神の王国を求める


紀元32年 ユダヤ
ルカ12:22-34(ジョセフ・スミス訳)

それから弟子たちに言われた、「それだから、あなたがたに言っておく。何を食べようかと、命のことで思いわずらい、何を着ようかとからだのことで思いわずらうな。
命は食物にまさり、からだは着物にまさっている。
からすのことを考えて見よ。まくことも、刈ることもせず、また、納屋もなく倉もない。それだのに、神は彼らを養っていて下さる。あなたがたは鳥よりも、はるかにすぐれているではないか。
あなたがたのうち、だれが思いわずらったからとて、自分の寿命をわずかでも延ばすことができようか。
そんな小さな事さえできないのに、どうしてほかのことを思いわずらうのか。
野の花のことを考えて見るがよい。紡ぎもせず、織りもしない。しかし、あなたがたに言うが、栄華をきわめた時のソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。
きょうは野にあって、あすは炉に投げ入れられる草でさえ、神はこのように装って下さるのなら、あなたがたの信仰が薄くないかぎり、神はあなたがたにも同じように装わせてくださるであろう。
あなたがたも、何を食べ、何を飲もうかと、あくせくするな、また気を使うな。
これらのものは皆、この世の異邦人が切に求めているものである。あなたがたの父は、これらのものがあなたがたに必要であることを、ご存じである。
だから、まず神の王国を築くことを求めなさい。そうすれば、これらのすべてのものは添えて与えられるであろう。
恐れるな、小さい群れよ。御国を下さることは、あなたがたの父のみこころなのである。
(関連 3−2「十二使徒への特別な指示」
自分の持ち物を売って、施しなさい。自分のために古びることのない財布をつくり、盗人も近寄らず、虫も食い破らない天に、尽きることのない宝をたくわえなさい。
あなたがたの宝のある所には、心もあるからである。
(関連 3−2「天に宝を積むこと」


【動画】御国を求めなさい


主の再臨の備え
用心深い僕[たとえ]
忠実な思慮深い家令[たとえ]


紀元32年 ユダヤ
ルカ12:35-59(ジョセフ・スミス訳)

腰に帯をしめ、あかりをともしていなさい。
主人が婚宴から帰ってきて戸をたたくとき、すぐあけてあげようと待っている人のようにしていなさい。
その僕たちの主人が帯を締めて、僕たちを食卓に着かせ、そばに来て給仕をしてくれるであろう。
主人は夕方に帰り、夜中にも帰り、夜明けにも帰るからである。
よく言っておく。書かれているとおり、すでに帰って来たのだ。そしてまた、夜中に帰って来ても、夜明けに帰って来ても、目を覚ましているのを見られる僕は、幸いである。
さて、これらのことをあなたがたによく言っておく。あなたがたは、主人が帰って来るのは夜の盗人のようであることを知っておくがよい。
それは、ある家の主人のようである。自分の持ち物を見張っていないと、気がつかない時に盗人が来てその持ち物を奪い、仲間の間で分けてしまう。」
すると、彼らは互いに言った。「家の主人は、盗人がいつ来るか知っていたら、気をつけていて、自分の家に押し入られて持ち物を奪われるようなことはしないだろう。」
すると、主は彼らに言われた。「よく言っておく。あなたがたも用意していなさい。思いがけない時に人の子が来るからである。」
すると、ペテロが言った。「主よ、このたとえを話しておられるのはわたしたちのためなのですか。それとも、みんなのためなのですか。」
そこで主は言われた。「主人が召し使いたちの上に立てて、時に応じて定めの食事を備えさせる者たちにあてて、わたしは語っているのである。」
すると、彼らは言った。「では、その忠実な思慮深い僕は、一体だれですか。」
主は彼らに言われた。「気をつけていて、時に応じて定めの食事を分ける僕である。
主人が帰って来るとき、そのようにしているのを見られる僕は、幸いである。
よく言っておくが、主人はその僕に自分の全財産を管理させるであろう。
しかし、気をつけていると認められない僕は、悪い僕である。気をつけていると認められない僕は、主人の帰りが遅いと心の中で思い、男女の召し使いたちを打ちたたき、食べたり、飲んだりして酔い始める。
その僕の主人は思いがけない日、気がつかない時に帰って来るであろう。そして、彼を厳しく罰して、不忠実な者たちと同じ目に遭わせるであろう。
主人の思いを知っていながら、主人が帰って来るときのために用意もせず、主人の思いどおりにしなかった僕は、多く鞭打たれるであろう。
しかし、主人の思いを知らずに、打たれるようなことをした者は、打たれ方が少ないであろう。多く与えられた者からは多く求められ、主人から多く任された者からはさらに多く要求されるのである。
わたしは、火を地上に投じるためにきたのだ。火がすでに燃えていたならと、わたしはどんなに願っていることか。
しかし、わたしには受けねばならないバプテスマがある。そして、それを受けてしまうまでは、わたしはどんなにか苦しい思いをすることであろう。
あなたがたは、わたしが平和をこの地上にもたらすためにきたと思っているのか。あなたがたに言っておく。そうではない。むしろ分裂である。
というのは、今から後は、一家の内で五人が相分れて、三人はふたりに、ふたりは三人に対立し、
また父は子に、子は父に、母は娘に、娘は母に、しゅうとめは嫁に、嫁はしゅうとめに、対立するであろう」。
イエスはまた群衆に対しても言われた、「あなたがたは、雲が西に起るのを見るとすぐ、にわか雨がやって来る、と言う。果してそのとおりになる。
それから南風が吹くと、暑くなるだろう、と言う。果してそのとおりになる。
偽善者よ、あなたがたは天地の模様を見分けることを知りながら、どうして今の時代を見分けることができないのか。
また、あなたがたは、なぜ正しいことを自分で判断しないのか。
たとえば、あなたを訴える人と一緒に役人のところへ行くときには、途中でその人と和解するように努めるがよい。そうしないと、その人はあなたを裁判官のところへひっぱって行き、裁判官はあなたを獄吏に引き渡し、獄吏はあなたを獄に投げ込むであろう。
わたしは言って置く、最後の一レプタまでも支払ってしまうまでは、決してそこから出て来ることはできない」。
(関連 5−3「オリブ山での教え」

ガリラヤ人の虐殺
実を結ばないいちじくの木[たとえ]


紀元32年 ユダヤ
ルカ13:1-9

ちょうどその時、ある人々がきて、ピラトがガリラヤ人たちの血を流し、それを彼らの犠牲の血に混ぜたことを、イエスに知らせた。
そこでイエスは答えて言われた、「それらのガリラヤ人が、そのような災難にあったからといって、他のすべてのガリラヤ人以上に罪が深かったと思うのか。
あなたがたに言うが、そうではない。あなたがたも悔い改めなければ、みな同じように滅びるであろう。
また、シロアムの塔が倒れたためにおし殺されたあの十八人は、エルサレムの他の全住民以上に罪の負債があったと思うか。
あなたがたに言うが、そうではない。あなたがたも悔い改めなければ、みな同じように滅びるであろう」。
それから、この譬を語られた、「ある人が自分のぶどう園にいちじくの木を植えて置いたので、実を捜しにきたが見つからなかった。
そこで園丁に言った、『わたしは三年間も実を求めて、このいちじくの木のところにきたのだが、いまだに見あたらない。その木を切り倒してしまえ。なんのために、土地をむだにふさがせて置くのか』。
すると園丁は答えて言った、『ご主人様、ことしも、そのままにして置いてください。そのまわりを掘って肥料をやって見ますから。
それで来年実がなりましたら結構です。もしそれでもだめでしたら、切り倒してください』」。

宮清めの祭り、
イエス、御自身がメシヤであることを宣言


紀元32年12月 ユダヤのエルサレム
ヨハネ10:22-39

そのころ、エルサレムで宮きよめの祭が行われた。時は冬であった。
イエスは、宮の中にあるソロモンの廊を歩いておられた。
するとユダヤ人たちが、イエスを取り囲んで言った、「いつまでわたしたちを不安のままにしておくのか。あなたがキリストであるなら、そうとはっきり言っていただきたい」。
イエスは彼らに答えられた、「わたしは話したのだが、あなたがたは信じようとしない。わたしの父の名によってしているすべてのわざが、わたしのことをあかししている。
あなたがたが信じないのは、わたしの羊でないからである。
わたしの羊はわたしの声に聞き従う。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしについて来る。
わたしは、彼らに永遠の命を与える。だから、彼らはいつまでも滅びることがなく、また、彼らをわたしの手から奪い去る者はない。
わたしの父がわたしに下さったものは、すべてにまさるものである。そしてだれも父のみ手から、それを奪い取ることはできない。
わたしと父とは一つである 」。
そこでユダヤ人たちは、イエスを打ち殺そうとして、また石を取りあげた。
するとイエスは彼らに答えられた、「わたしは、父による多くのよいわざを、あなたがたに示した。その中のどのわざのために、わたしを石で打ち殺そうとするのか 」。
ユダヤ人たちは答えた、「あなたを石で殺そうとするのは、よいわざをしたからではなく、神を汚したからである。また、あなたは人間であるのに、自分を神としているからである」。
イエスは彼らに答えられた、「あなたがたの律法に、『わたしは言う、あなたがたは神々である』と書いてあるではないか。
神の言を託された人々が、神々といわれておるとすれば、(そして聖書の言は、すたることがあり得ない)
父が聖別して、世につかわされた者が、『わたしは神の子である』と言ったからとて、どうして『あなたは神を汚す者だ』と言うのか。
もしわたしが父のわざを行わないとすれば、わたしを信じなくてもよい。
しかし、もし行っているなら、たといわたしを信じなくても、わたしのわざを信じるがよい。そうすれば、父がわたしにおり、また、わたしが父におることを知って悟るであろう 」。
そこで、彼らはまたイエスを捕えようとしたが、イエスは彼らの手をのがれて、去って行かれた。

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