愛するから価値が出る

「価値があるから愛するのではなく、愛するから価値が出てくる。」
これはマザー・テレサの体験を読んで、わたしが思いついた言葉です。

マザー・テレサが率いる救護組織は、インドで貧しい人々を助ける活動をしています。マ
ザー・テレサはあるとき、助けてもすぐに死んでしまう人々を助けるのは、どういう意味
があるのかと問われました。彼女は自分たちの体験したことについて語りました。

彼女たちの救護組織は、道端で死にかけているような貧しい人を、療養施設に連れて行き
介護します。ある人は道のわきの溝の中に動けなくなっていました。病気で衰弱していて、
体のあちこちをネズミにかじられるままでした。病院に運んでも拒否されます。一文なし
で、しかも、助かる見込みのないからです。彼らの体は血と膿にまみれ、傷口にウジがわ
いているような瀕死の人たちです。その悪臭だけでも耐えられないほどです。看護婦さえ
そばに来てくれず、鼻をつまみ、口を押え逃げてしまうのです。でも彼女たちは鼻もつま
まず手当てをするのです。介護を受けている人は、それまで自分自身には何も価値が無い
と感じていました。しかし、彼女たちが介護し、心から愛を示すことによって、その人々
は自分に価値があることに気づくのです。そして、幸せに死んでいくのだそうです。

イエス・キリストも似たようなことを述べておられます。

  ある律法学者が現れ、イエスを試みようとして言った、「先生、何をしたら永遠の生
  命が受けられましょうか」。彼に言われた、「律法にはなんと書いてあるか。あなた
  はどう読むか」。彼は答えて言った、「『心をつくし、精神をつくし、力をつくし、
  思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。また、『自分を愛するように、あな
  たの隣り人を愛せよ』とあります」。彼に言われた、「あなたの答は正しい。そのと
  おり行いなさい。そうすれば、いのちが得られる」。すると彼は自分の立場を弁護し
  ようと思って、イエスに言った、「では、わたしの隣り人とはだれのことですか」。
  イエスが答えて言われた、「ある人がエルサレムからエリコに下って行く途中、強盗
  どもが彼を襲い、その着物をはぎ取り、傷を負わせ、半殺しにしたまま、逃げ去った。
  するとたまたま、ひとりの祭司がその道を下ってきたが、この人を見ると、向こう側
  を通って行った。同様に、レビ人もこの場所にさしかかってきたが、彼を見ると向こ
  う側を通って行った。ところが、あるサマリヤ人が旅をしてこの人のところを通りか
  かり、彼を見て気の毒に思い、近寄ってきてその傷にオリブ油とぶどう酒とを注いで
  ほうたいをしてやり、自分の家畜に乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。翌日、デナ
  リ二つを取り出して宿屋の主人に手渡し、『この人を見てやってください。費用がよ
  けいにかかったら、帰りがけに、わたしが支払います』と言った。この三人のうち、
  だれが強盗に襲われた人の隣り人になったと思うか」。彼が言った、「その人に慈悲
  深い行いをした人です」。そこでイエスは言われた、「あなたも行って同じようにし
  なさい」。(ルカ10:25−37)

「隣り人とはだれのことですか。」という質問に対して、イエスは「だれが隣り人になっ
たか」と質問しかえておられます。つまり、隣り人だから愛するのではなく、愛するから
隣り人になるのだと教えられたのです。

このたとえ話で強盗に襲われた人はユダヤ人です。サマリヤ人の地域はユダヤに北接して
いましたが、ユダヤ人とサマリヤ人の関係は良くありませんでした。今で言うと、イスラ
エル人とパレスチナ人の関係に似ているでしょうか。つまり、当時の常識では、ユダヤ人
にとっては、サマリヤ人は隣り人ではありませんでした。

イエス・キリストは社会から価値がないとして見捨てられた人々を愛されました。重い病
気にかかっていた人、目が見えない人、体が不自由な人などです。このような自分で働け
ない人、自立できない人は社会から価値がない人とされています。なにもできない人たち
は無価値なのでしょうか。しかし、人はただそれだけで価値をもっているのです。すべて
の人は神の子供であり、やがては神となる可能性をその中に備えているのです。一人の人
は全宇宙よりも価値があります。なぜなら、全宇宙すら神によって造られたのであり、人
は、その神のようになることのできる存在だからです。

人の価値というのは、初めから存在するわけではなく、愛されることによって出てきます。
それは、ダイヤモンドの原石はそのままでは美しくないが、磨かれることによって美しさ
が出てくるのと似ています。人を愛する時には、相手が愛するに値するか考えてはいけま
せん。愛することによって価値が出てくるからです。相手が貧しい人、病気の人、容姿の
美しくない人、罪を犯した人、不愉快な人など、自分にとっては何の利益をももたらさな
い人かもしれません。それでも、天上では、サタンに従わず、神に従った神の子供たちな
のです。すべての人には神の面影があるのです。ただ磨かれていないだけです。

マザー・テレサは貧しい人や困っている人に奉仕するのは、キリストに行なっているのだ
と言いました。

  そのとき、王(キリスト)は右にいる人々に言うであろう、『わたしの父に祝福され
  た人たちよ、さあ、世の初めからあなたがたのために用意されている御国を受けつぎ
  なさい。あなたがたは、わたしが空腹のときに食べさせ、かわいていたときに飲ませ、
  旅人であったときに宿を貸し、裸であったときに着せ、病気のときに見舞い、獄にい
  たときに尋ねてくれたからである』。そのとき、正しい者たちは答えて言うであろう、
  『主よ、いつ、わたしたちは、あなたが空腹であるのを見て食物をめぐみ、かわいて
  いるのを見て飲ませましたか。いつあなたが旅人であるのを見て宿を貸し、裸なのを
  見て着せましたか。また、いつあなたが病気をし、獄にいるのを見て、あなたの所に
  参りましたか』。すると、王は答えて言うであろう、『あなたがたによく言っておく。
  わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしに
  したのである』。(マタイ25:35−40)

彼女たちは、貧しい人や困っている人の中に神を見ているのだと思います。

  心の清い人たちは、さいわいである、彼らは神を見るであろう。(マタイ5:8)



マザー・テレサの言葉参照

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