豊かで満ち足りた人生

豊かで満ち足りた人生
スペンサー・W・キンボール大管長
(聖徒の道1986年3月号)

ナザレのイエスの教えの中で強調されているものに次の
ものがある。
「わたしがきたのは、羊に命を得させ、豊かに得させる
ためである。」(ヨハネ10:10)

しかしこの言葉から、イエスの教えを死すべき世である現
世で、より豊かな深い経験をするための方法を教えてくれ
るものとして限定してしまうのは間違いである。

また、宗教史上には、人々がキリスト教は来世のもので
あると間違って考えたときもある。そのような考え方のた
めに、ある人々は現世に対して肯定的というより逆に否定
的な見方をするようになり、そのために自分たちの現状を
改善する努力を怠った。

今日私たちは、真のキリスト教は現世のみに重きを置く
ものではないことを思い起こす必要があるだろう。イエ
ス・キリストの教えを今ここで生活に取り入れることによ
り、現世での生活はより豊かなものとなるが、すべてに勝
るキリスト教の核心は、人が死を含むあらゆる敵に打ち勝
つ機会を得ることにある。

ナザレのイエスがこの世に来られたのは、贖いをもたら
すためであり、復活を通して地上のすべての人々に不死不
滅を与えるためである。イエスの教えは確かに、私たちが
地上で正しい生活を送り、より幸福になる助けを与え、イ
エスの偉大な犠牲は私たちに不死不滅を約束し、私たちは
死後も引き続き自分自身として生きることができるのであ
る。もちろん復活の事実を受け入れない人々もおり、それ
は彼らの権利でもありまた損失でもあるのだが、人生が永
遠に続くものであることを語らずして、豊かな人生を語る
ことはできない。現世と言われるこの狭い世界の、私たち
に与えられた短い期間の中で、完全な正義、完全な健康、
完全な機会が万人に与えられることはない。しかし、恵み
にあずかるにふさわしい生活をした人々には、結局神の計
画に基づいて完全な正義がもたらされ、やがてほかの条件
や祝福もすべて完全なものとなるときが訪れるのである。

そこで現世と呼ばれる短い期間の日々の生活の中に、こ
のナザレのイエスの教えを確実に取り入れる方法を知るこ
とが是非とも必要になる。

第1に、ほかの人々に奉仕することである。そうすれば、
次のよりよい世界に住むための備えができると同時に、現
世での生活をもっと意義ある楽しいものとすることができ
る。実際に奉仕することによってこそ、奉仕の仕方は学べ
るのである。私たちは隣人への奉仕に携わるとき、その行
為によって人を助けるばかりでなく、自分自身の問題を新
たな観点から眺めることもできる。関心をほかの人々に向
ける時間が多くなれば、それだけ自分のことをあれこれ思
い悩む時間がなくなる。奉仕の奇跡の中枢に、まさしく自
己を捨てる者は自己を見いだすというイエスの約束が存在
するのである。

私たちは日々の生活の中に神の導きのあることを認める
とき、自己を見いだす。そればかりでなく、適切な方法で
隣入によく奉仕すれば、その熱意に応じて、心の中に充実
感を覚えるのである。私たちは他人に奉仕すればするほど、
より深い意義のある、より充実し、生き生きとした人生を
送るようになる。事実、自分自身を知ることは容易である。
なぜなら、自分自身について知るべきことは数多くあるか
らである。

スコットランドの小説家であり詩人であるジョージ・マ
クドナルドは、「人と親しく心を通わせる方法は、愛される
ことではなく、愛することである」と語った。言うまでも
なく、私たちは愛されることを必要としている。しかし、
健全な人生としっかりした目的意識を持ちたいと思ったら、
いつも受けるだけではなく、与えなければならない。

第2に、イエスの教えは人生そのものに対して、また人
生の中の様々な状況に対して正しい見方を培ってくれる。
時折、問題を解決するためには、状況を変えるのではなく、
そのような状況や困難に立ち向かう私たちの姿勢を変えな
くてはならないことがあり、それによって私たちは、さら
に豊かな奉仕の機会を的確に捕らえることができるように
なる。

神は私たちを心にかけ、いつも見守っておられる。しか
し、普通の場合、私たちの必要は第三者を通して満たされ
る。したがって、私たちは互いに奉仕し合うことが大切で
ある。私たちは自己の人生観を高め、ほかの人々に対する
見識を広めると同時に自己の可能性を伸ばしていくときに、
豊かで満ち足りた人生を送ることができる。このように、
キリストの教えに従えば、それだけで私たちは視野を広め
ることができ、このような広い視野を通してますます多く
の奉仕の機会を見いだして霊的平安を得ることができるの
である。言い換えれば、奉仕のないところに霊性はないの
である。

当然のことながら、豊かで満ち足りた人生とは物質的な
ものを得ることとはほとんどかかわりがない。確かに、物
質的にも恵まれ、その富を使って隣人を助けているすばら
しい人々は大勢いる。しかし、聖典で述べられている豊か
な生活とは、ほかの人々に対する奉仕を増し、私たちの才
能を神と人類のために捧げることによってもたらされる霊
的な祝福のことである。

イエスがこう言われたのは、よく知られているところで
ある。「これらの二つのいましめに、律法全体と預言者と
が、かかっている。」(マタイ22:40)このふたつの戒めは、
神を愛することから始まり、自分自身、隣人、そしてすべ
ての人に及ぶものである。これらの偉大なふたつの戒めを
守り、実行せずして真の豊かな人生はあり得ないのである。

私たちの生活が、私たち自身を天父や隣人に近づけるも
のでなければ、どうしようもない空虚さだけが残ることだ
ろう。今日の多くの生活様式が、家族や友人、仲間たちか
ら私たちを引き離し、ただ快楽と物質のみを飽くことなく
追求する原因となっているのがその例である。これは何と
驚くべきことであろう。家族や社会、国家への忠誠を片隅
に押しやることにより、幸福を生み出すという誤った考え
のもとに、ほかの事柄を優先して追い求めることがよくあ
る。ところが実際には、利己心はあまりにはかなく過ぎ去
っていくむなしい快楽の追求にすぎないことが多いのであ
る。快楽と真実の喜びとの違いは、快楽の中のあるものは
他人の苦痛を代価としてのみ得られるが、喜びは無私と奉
仕から生み出され、人々を傷つけることなく人々に益をも
たらすということである。

このように問題の横溢する世の中にあって、ほかの人々
に奉仕するというような簡単なことをどうしてそうも重要
視するのかと不思議に思う人もいる。しかしイエス・キリ
ストの福音は、私たち自身を含め、この地球上に住む人々
すべてに対する見方を変える。それによって私たちは真に
大切な事柄を見きわめ、競って世の人々の注意を引こうと
する、あまり重要ではない様々な事柄に惑わされることが
なくなるのである。

私たちは人類を変えようとする前に、まず自分自身が変
わらなければならない。ある賢人はこう語っている。「人は
皆、自己を改善することを忘れて他人のことに干渉し過ぎ
る。その結果、何ら変わることがない」と。豊かで満ち足
りた人生は自分に始まり、次いでほかの人々に広がってゆ
くものである。私たちが豊かさと正義を備えているならば、
ほかの人々の生活を変えることができる。それは、私たち
一人一人が立派な人々のよい感化を受け、彼らがいなけれ
ば得られない豊かさを受けてきたことを考えればわかるこ
とである。

もし私たちが良き指導者になろうとするならば、私たち
に奉仕し、導きと教えを与えてくれた人々がどんな人々で
あるかをよく考えてみるべきである。あなたの人生に最も
感化を与えた人を2、3名選んでみていただきたい。人生
の苦難に直面したときに彼らはどのような特別なことをし
て、あなたを最もよく支えてくれたであろうか。彼らはあ
なたのことを心から心配し、あなたのために時間を割き、
あなたにとって必要なことを教えてくれたことがわかるに
違いない。

そして今度は、人を助けるというこうした基本的な特性
を、あなたの生活の中で具体的に実践しているかどうかに
ついて反省してみてほしい。記憶をたどってみると、心に
残っている人というのは特別な技巧を用いたということは
あまりなく、大抵は愛と理解の心を示し、私たちのために
時間を割き、模範の光を通して道を示すという方法で奉仕
し、助けてくれたのである。それゆえ今まであなたがほか
の人々に依存して特別な導きと教えを受けてきたように、
今度はあなたに依存している人々に同じことを行なうこと
が大切であることは、いくら強調しても強調しすぎること
はない。真の愛は決して無駄に終わることはなく、また真
の奉仕はどんな場合にも何らかの意義があることを忘れて
はならない。

「豊かで満ち足りた人生」について語るという召しを誠実
に果たすためには、次のことを是非とも述べなければなら
ない。イエスは、人生を豊かで満ち足りたものにするよう
にと語ると同時に、その豊かさを生み出す福音の基本原則
をも示しでくださった。人間の苦しみには、戦争、病気、
貧困など、数多くの原因がある。これらのどれひとつをと
ってみても、その苦しみは確かにとても大きいが、私の義
務を誠実に果たすためには、こう言わなければならない。
中でも最も長く、最も大きな苦痛を伴うのが罪悪すなわち
神の戒めに背く行為である。例えば、結婚前の純潔、結婚
後の貞節を完全に守らない人には、豊かで満ち足りた人生
はあり得ないのである。偽り、盗み、不正を働く人には、
高潔や正直を目指そうとする気持ちは起こり得ない。ねた
みやむさぼりの気持ちがあっては生活を麗しいものとする
ことができない。両親を敬う気持ちがなければ、生活を真
実の意味で豊かにすることはできない。もっと豊かで満ち
足りた生活をするために私たちに何ができるかもう少し詳
しく知りたければ、まず自分の良心に問いかけていただき
たい。大抵のことは、それで解決できる。

あなたが何のために他人へ奉仕し、あなたの時間や才能、
財産を使うのかを考え、良い目的を選ぶよう注意していた
だきたい。あなたが全力を尽くして自由に奉仕し、あなた
と奉仕を受ける人々にとって大きな喜びと幸福をもたらし
得る目的は非常に多くあるからである。それに対し、時折
もっと流行に合い、世の賞賛を博するような目的もあるが、
それらは大抵より利己的な性質のものである。これらの後
者の目的は、神の戒めではなく、聖典の中で「人間のいま
しめ」と呼ばれているものから生じている。その目的には、
美徳と効用もあることはあるが、神の戒めを守ることから
生じる目的ほどには重要ではない。

より豊かで満ち足りた人生を送るためになさなくてはな
らないことについて考えれば考えるほと、主キリストの言
葉に含まれる大切な原則について考えるようになってくる。
そして主に従って歩むならば、恐れではなく信仰によって
生活することができるであろう。もし私たちが人々に対し
て主と同じような見方をするならば、人々に不安や恐れを
抱くよりも、彼らに愛を示し、奉仕し、手を差し伸べるこ
とができる。

若いときには、時間はあっという間に過ぎ去る。無目的
な旅は無駄である。はっきりとした目的地を持たなくては
ならない。人生に何を望むかを決め、その目標に到達する
ようあらゆる努力を傾けるべきである。人生はただ飲み食
いしたり、楽しんだり、お金を稼いだりすることだけでは
ない。ところが、えてして若い人々は、最も安易な道を歩
みやすく、「ちょうど風に吹き散らされるもみがらのよう
に、またちょうど帆もいかりも舵もなしに波のまにまに漂
う船のように」(モルモン5:18)なりがちである。

私たちは全き者となることにより、この豊かで満ち足り
た人生を得ることかできるとパウロは示した。

私たちのほとんとは、完全とは程遠い存在である。だか
らと言って、それは私たちが完全になることができないと
いうことではなく、まだその目標に到達していないという
ことにすぎない。キリストも、もともと完全ではなかった。
しかし、苦難に打ち勝たれた。飢えや渇き、寒暑、苦痛、
悲しみと、まさにありとあらゆる苦難の連続であった。し
かし、その度にその苦難に打ち勝ち、完全へと近づいてい
かれたのである。

パウロはこう語った。「そして、全き者とされたので、彼
に従順であるすべての人に対して、永遠の救の源となり
……。」(ヘブル5:9)

「なぜなら、万物の帰すべきかた、万物を造られたかた
が、多くの子らを栄光に導くのに、彼らの救の君を、苦難
をとおして全うされたのは、彼にふさわしいことであった
からである。」(ヘブル2:10)

完成への道は長く険しく、その途中には多くの誘惑が待
っている。一日で到達できることではない。勝利を得るた
めには、不断の努力を積み重ねなけれはならない。敵に打
ち勝ち、私たち自身の人生の戦いに勝つためには、永遠に
努力し続けなければならない。気が向いたときに少しずつ
努力しただけでは達成することはできない。絶えずしっか
りとした目標のある正しい生活を送らなければならないの
である。

私たちにはこのような豊かな人生を送る力があるだろう
か。詩篇には次のような霊感あふれる言葉が書かれている。
「人は何者なので、これをみ心にとめられるのですか、人
の子は何者なので、これを顧みられるのですか。
ただ少しく人を神よりも低く造って、
栄えと誉とをこうむらせ、
これにみ手のわざを治めさせ、
よろずの物をその足の下におかれました。」(詩篇8:4-6)

人間は環境に支配される存在であり、環境を乗り越える
ことはできないと言う人がいる。あきらめ、失敗、あらゆ
る不道徳、そしてさらには弱点や犯罪すらも正当化しよう
とする人々は明らかに間違っている。幼年および青年期の
環境が影響力を持っていることは確かである。しかしそれ
にもかかわらず自由意志を持っている普通の人間ならだれ
にでも、川の流れに逆らって擢をこぎ、新たな活動や思い、
発展の翼を広げる力が備わっているはずである。人は自分
自身を変えることができる。いや、自分を変えなければな
らないのである。

アブラハムもそうであった。彼の家族は偶像を崇拝して
いた。しかし、アブラハムは真実の生ける神を礼拝する人々
のために神権時代を開いた。モーセは貧しい奴隷の境遇の
下に生まれた。しかし宮殿で育てられ、多くのすばらしい
機会に恵まれた。そして、人が到達できる最高位にまで上
げられ、神と共に歩き、神と語ることができた。

タルソのサウロは生まれてからそれなりのしつけと訓練
を受けたが、自分自身を完全に変え、主の使徒になった。
パウロはコリント人へ次のように語った。「しかし、すべて
競技をする者は、何ごとにも節制をする。彼らは朽ちる冠
を得るためにそうするが、わたしたちは朽ちない冠を得る
ためにそうするのである。」(1コリント9:25)

このように自分を変える鍵となるのが克己である。人は
皆、自分の生活を振り返り、自己の希望、欲望、熱望を吟
味し、それを抑えて生活しなければならない。

人は自分自身を変えることができるし、また変わらなけ
ればならない。人はみずからの中に、神のようになる種を
宿しているのである。それは大きく生長する可能性を秘め
ている。どんぐりの実が生長して大木となるように、人は
成長して神となるのである。みずからの努力により、自分
を当然あるべき姿にまで引き上げるのは、その人の内に秘
められた力である。それは長く、多くの障害を乗り越えな
ければならない困難な仕事かもしれないが、そも可能性は
確かなものである。

言い換えれば、環境によって自分の限界を定めてはなら
ない。また、環境から自分の行く末を判断してもならない。
ましてや、壁を作って自分を牢の中に無理やり閉じ込める
ようなことをしてはならないのである。

人が完全を目指すとき、その出発点はいろいろある。(中
年あるいは老年になってから改宗した人も多い)完全な夫
になることもできるし、完全な妻になることもできる。あ
るいは完全な父親、完全な母親、完全な指導者、完全な僕
になることもできる。結婚は神聖な水準を保って行われ
なければならない。人生は慎重に歩まなければならない。
だれも皆みずからを清め、肉欲、姦淫、同性愛、麻薬など
から遠ざかり、敵を避けるように醜い汚れた思いや行ない
を避けなければならない。ポルノ小説やわいせつな話、ポ
ルノ映画は汚染された食物よりも悪い。それらに近づいて
はならない。身体には悪い食物を取り除く力がある。しか
しわいせつな小説を読み、ポルノ映画を見る人は、それら
を優れた人間のコンピュータである頭脳に記憶させてしま
う。そのような汚れは、頭脳にいったん記憶されるといつ
までも残り、いつでも呼び戻すことができるようになって
しまうのである。

前に述べたように完全を目指す過程の中で、私たちは自
分の生活を変え、どのような環境の下でも悪を善に変える
ことができる、ひとつずつ取り組めば、必ず最善の変化が
得られるのである。

永遠の見地から考えて自分の行動を決めるようにすれば。
この世における管理はうまくいくであろう。また、人生の
目的に関するイエスの教えを深く理解すれば、それだけ私
たちがどういう立場にいて、どういう人間であるかという
意識もはっきりしてくる。さらに父なる神の特質を受け入
れる程度に応じて、私たちは人類の間に兄弟愛を広めてい
くことができるのである。ゲツセマネの園やカルバリの丘
でナザレのイエスに起こったことを理解すればするほど、
私たちは自分の生活に犠牲や無私の精神がどれほど大切で
あるかがよくわかると思う。

今日の世の中にはますます利己心が満ちあふれ、自分自身
よりも他人に、より多くのことを要求する人が増えている。

利己的な人には人間的な魅力はないし、知りたいという
興味も覚えない。それに対し、豊かで満ち足りた人生を送
っている人とは近づきになり、話し、学ばせてもらいたい
と思う。この世の中ではそのような人は大変貴重であり、
その影響を受けたいと望む思慮分別のある人々を引きつけ
ないではおかないであろう。

最後に申し上げておくが、豊かで満ち足りた人生とは、
ただ長く生きることではない。それは、人生の長さではな
く、到達した高さ、質の問題である。ナザレのイエスの贖
いのお陰で、私たちは不死不滅の体を受け、永遠に存在で
きるようになった。そして、もし私たちがその教えに従え
ば、この世においてまた来るべき世においてはさらに一層、
豊かで満ち足りた人生を送ることができるのである。

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