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練習嫌い   2015.8.5

 私は練習が嫌いである。こう言い切ると「練習しないクズ自慢?」とか「勉強してないって言って陰でやってんだろ」と深読みされるリスクがあることを、私は経験からよく知っているのだが……しかし、正直なところ、ただただ言葉の通 りだ。練習が嫌いなのである。仕方ない。練習が好きな人を羨ましいとも思わない。だって練習しないのがカッコいいとも思っていないように、練習するのがカッコいいとも言えないから。

 しかし、そうはいっても私だってしばしば練習や勉強が必要なことがある。そんなときに、どうやって練習を面 白いものに思えるようにするかを考えるのが重要なのである。身の入らない練習を、世の「これが練習だ」という型どおりにやっても身につくわけがない。

 

 バンドでいえば、私にとってメンバーとのスタジオ練習は楽しいけれど、一人の練習はまったく楽しくない。ときおり「(一人で)気がついたら何時間も弾いていた」という人に出会うが、まるで想像できない。ベースなんか一人で弾いても面 白くないじゃん、と言いそうになるが、いやいやベーシストでも個人練習好きな人もいるよね。うん、それは知ってる。

 

 家でベースを練習したことがほとんどない。ベースを買った高校生のころから通 算しても……今リアルに想像してみたが計100時間に満たないだろう。前文の冒頭に「恥ずかしながら」と書いてみたくなったが、実際に恥ずかしいと思ってるかと自分に問えばそうでもなくて、それが恥ずかしくないような人間だからこの通 りだ。でも「練習しないからうまくなんないんだよ」と言われたとしても、それも仮定であるとしかいえない。いっぱい練習しても全然うまくならない人もいる。

 

 ただし、一人のときにベースのフレーズや弾き方、フィンガリングについてはけっこう考えている。ピッキングのタッチ、それから最近よく考えるのはフレットをおさえる左手のタッチについて。そうやって思いついたことをスタジオ練習のときに試す。楽器を持っていないからこそ考えつくこともある。フレージングなどは、楽器を持ってると自分の得意な弾き方、弾きやすいほうに引っぱられることがありがちだ。

 

 以前、ライブ中に左手人差し指の第一関節をなんでか強くぶつけて内出血してしまって腫れ上がり、指先に力が入らなくなったことがあった(わりとすぐに復旧したけど)。という事態を想定し、スタジオで「左手の人差し指を使わない」縛りでやってみたらなかなか難しかった。ご存知の方は多いと思うが、フレットを押さえるのに人差し指・中指はいちばんよく使う。それを使わないとなると、自然に薬指や小指の登場機会が増える。うん、これはけっこう練習になった。「薬指と小指を鍛えるエチュード」を練習しない私にとっては実践的な練習になる。一種サバイバル訓練的でもあり、そこが私好みでもあるってことか。

 

 そういえばずっと前に、ライブがまさに始まるというときに3弦のペグが壊れて弦がぶらんぶらんになり、しかもだれかベース貸してくださいと言ってる時間的余裕がない事態に遭遇したことがあった。日ごろいちばんよく使う3弦を使わないで弾くのは相当難しいお題でスリリングではあったが、それによって発見もあった。

 

 反復練習に意味がないとはいわない。ただ、一度弾けるようになったものが、ちょっと時間をおいただけで弾けなくなったとしたら、それはもともとの練習が自分に根づいていないということではないのか。私は練習が嫌いだけど、弾けたものが弾けなくなるという経験はない。とはいえ30代のときに「もっと楽器うまくなったらいいんじゃない?」と思いついたので(これがそもそも遅いのだろうが、必要性を感じたのがその年齢だったんだから仕方ない)……もう少し考えるべきかな。自分に向いた、おもしろい練習の方法を。

 

 

ブスとは何か  2015.6.30

  「平安時代はおたふく顔が美人とされていた」とは、だれもが聞いたことのある知識だろう。しかし……ならば、その時代はどんな顔がブスとされていたのかもおおいに気になる。しかるべき研究書などを探せば、書いてあるのだろうか?

 ここのところ、「ブス」がすごく気になっている。少し前に、古本屋でさる小難しい系の雑誌(ぼかしてるのではなく、あれだったかこれだったかが思い出せない)のバックナンバーを手に取ったのは、特集が「ブス」だったからだ。10年くらい前のものだったか。「おお、やるな!」と期待してぱらぱらめくったのだが、思ったより攻めてなかったのでよく読まずに棚に戻してしまった。もう一回見に行ってみようか。

 

 どこに失望したかというと、取り上げられていたのが女性のお笑い芸人などだったこと。あらかじめブスであることをネタにからかわれることさえ売りになってる人を俎上にあげるのってまったくもって安全すぎるではないか。それから「デブ」について触れた記事もあったかな。デブとブスはいっしょにしてはいけないと私は思うのだが。

 

「美」を探究する人は多く、しかし「醜」はあまり掘り下げられていないとしたら片手落ちではないか。「美」と「醜」はおそらく真逆ではないと思う。美の価値観は、時代によって移り変わることを私たちはうすうす知っている。私たちが知っている「美」は永遠ではない。しからば「醜」も。

 

 もしかしたら、現代において「ブス」をテーマに掲げるのって……何よりもアンタッチャブルなのかもしれないな。

 

 興味を持ってしまった以上、ちくちく自力で調べたり考察していくしかない。とりあえず古本屋に行って、アレを買ってきて真面 目に読んでみよう。

 

 

名前をつければ人格が生まれる  2015.6.30

 私はペンネームを持っていない。これは、仕事について行き当たりばったりな私が唯一自覚的にしてきたことだ。つまりは実名で書けないような原稿は書かないということ。

 あ、そもそもペンネームが身元を隠すために使われるものでないことは承知している。小説家やマンガ家にしろ、ライターにしろ、その作品を生み出す一個の看板としての筆名は必然であることもあろう。本名がばれると実生活に差し障りのある人気者もいる。そう、つまり先述したのは私だけの問題で、私自身が「実名では恥ずかしいものもペンネームなら書いちゃうかもしれない」ことに先手を打って、本名しか使わないルールを設けたのかもしれない。

 過去を振り返ると、かのB級ニュースマガジン『GON!』と『PHP』と『学習・科学』で同時期に記名原稿を書いていたのって、ひょっとしたら差し障りがあったのかもしれないが。でも、その当時も、差し障りがあるかどうかは自分が決めるというつもりはあったし……そうだな、やっぱり「実名で書けないような原稿は書かない」は《たとえ》であったとしても……ひっくり返すとどの自分も名前を出して書く覚悟をはっきりさせておきたかったのだ。「お仕事だから」という逃げ場を作らないために。くどいようだけど、これはだれかに「実名で書いてて偉いね」と評価されるようなことではなく(別 にそれ自体は偉くもなんともない)、ただ、こうでもしないと自分は調子のいいことを書き散らしてしまうのではないかという、自分への布石でしかない。

 

 なんちゃって、そもそも私は本名とペンネームとかハンドルネームとかを使い分けるのが面 倒くさいだけかもしれないけど。

 「使い分け」が生じると、いろいろややこしいこともあるだろう。名前って、やっぱり大きなもので。名前をつけると人格が生まれるものですからね。

 

 あまりにいくつものシーンに応じた名前(キャラ)を使い分けていると、シーンの要求によって自分で手綱を取れなくなるというおかしな事態を招きかねなかったり、ね。これは必ずしも《名前》の数に限ったことじゃないけれど。

 

 

テトリス生活の後に   2015.3.31

 忙しくなってしまうのは性分で……というのはわかっちゃいるんですが、今度ばかりはものすごい事態に陥っておりました。

 たいてい忙しいときは過去の最も厳しい局面を思い出して「あれに比べればましだな」と思って乗り切るのだけど、今回はあきらかにそれを上回っていて。なにしろ1月から2月のまる2か月で、単行本の校了が5冊。

 こんなスケジュールになるはずではなかったのに、版元の都合で刊行時期がズレたりして特大の団子状態になったのだ。年末に……考えましたね。いかに、この苦境を《生きて》乗り切るか。

 いやホント、あながち冗談じゃないんですよ。5冊の単行本以外の仕事もバラバラあるし、その間ライブだってトークイベントだってあるわけだし。一日一日薄氷を踏むスケジュールで、どこかでミスったら綻びがでかくなるのは目に見えている。とはいえ仕事は一人でやってるわけじゃなく、ちょいちょい予定にズレが生じたりするから、そこも見込みつつ修正しながらやっていく。

 この最中、ふと「テトリスに似てるな」と思いましたね。落ちてくるブロックをうまいこと当てはめてポイントにして消化していく。ときにはうまくはまらなくてロスが出ちゃっても、とりあえず天井が詰まってゲームオーバーにならないようにさばいていくことが最優先。あまりに似すぎていて笑ってしまった!

 ともかく絶対にキープしなくてはならないのが心身のコンディション。自分で言うけどメンタルは強いほうなんで……とはいえ、今回のように「一歩も踏み外せない日々」が長期間に及んだ場合、気をつけようと思ったのは「○日には解放される」という期日を信用しすぎないこと。校了日は決まっていても、なんだかんだで後ろにズレたりするものなので……う〜ん、締切が延びるのはありがたいけど「まだ終わらない!」っていうストレスが生じてしまうからね。先のスケジュールを考えすぎると気が遠くなって余計な心配が生まれるので、とりあえず2〜3日分のことしか考えない。目の前の敵を確実に倒していくことで爽快感を得る。小さいカタマリでも「手放せる」のが何よりの快感だから。

 食べ物には日ごろから気をつかっているけど、ここも万全に。時間はなくても鍋に水とコンソメ、ざく切りにした玉 ねぎとキャベツを放り込むだけのスープをどれだけ作ったことか。あと、常に買い置いてる九州産の乾燥ねぎと乾燥ほうれん草、ローソンで売ってる宮崎産の冷凍ほうれん草にはお世話になったなぁ。炭水化物とたんぱく質は、簡単に摂取できるからね。それからキウイ(これも簡単に食べられるから)。毎日常温のポンジュースでビタミンCとカルシウム摂取。起床時、入浴前後、就寝前にお水を一杯。これで2014年から一度も風邪ひいてないからすごいでしょ!?

 そのほか習慣的にやってるのは、トイレに立ったときのストレッチと、風呂の入ったときの目の体操。自画自賛しまくるけど、身体のどこも痛いとこないっていう点では傭兵としてまったく優秀だと思う。

 

 地獄の終わりが見えて、ようやく《ふつうの忙しい人》くらいになれる状況になってきたとき……気を抜くとガクッといくからね。そこ、気を抜かないでゆるゆると速度を落としていくのもコツ。

 

 3月に入って「人間復興」を謳っているのだけど、ああ、人間界に帰ってきたんだなぁと思ったのはドラッグストアで買い物をした日。ドラッグストアに寄って、「そうだ、ホイルの予備を買っとこうかな」なんて思ったことに余裕を感じたのだ。そのあと、スーパーにも寄ったことも。だってしばらくの間、買い物さえ必要なものを頭の中で数え上げながら数分の無駄 もないようにしていたんだもの。ドラッグストアとスーパーをハシゴするなんて、それだけで楽しくってしょうがない。

 

 思えば1月頃、私が夢想していたのは……「丸一日休みが欲しい」なんて大それたことではない。たとえば移動中、駅ビルの中を通 ったときにふと雑貨屋でカレンダーかなんかに目がとまって「これかわいいなー買おうかなー」なんてあれこれと見て、迷った挙げ句に「あ、でもカレンダー別 に必要でもないから今はいいか……」と思ったりする時間を過ごしてみたい、ということだったんだから。

 

 人間界は最高だねー!!

 

 

個々の嗜好の成立についての仮説   2015.2.1

 個々の嗜好はどうやって作られるかに、興味を持っている。たとえば、何をかわいいと思うか、美しいと思うかについて。これらは「好きだから」の一言ですまされそうでいて、実は100%そうとは言い切れない気がしている。環境的な要素はもちろんのこと、いろいろな心理条件が重なってできていくのではないだろうか。

 

 これを考えていてふと思い出したことがあった。幼稚園くらいのころ……つまりまだおこづかいを持っておらず、また私物についていちいち親が「どれが好きか」と訊いてくれるとも限らない時代、私はあまり《かわいいもの》を持っていなかった。当時、最高にかわいがっていたのはパンダのぬ いぐるみだが、これは身体的な愛着が強くて、視覚的な美的感覚と直結していたと考えにくい。

 

 身の回りのものを買い与えてくれる母親は《絵柄》のついたものをあまり好まなかったので、持ち物は非常にさっぱりとしていた。ということに気づくのは、もちろん幼稚園に通 い出して、みんなの持ち物を目にするようになってからだ。

 

 私のアルミのお弁当箱には女の子の絵が書いてあったが、それを私はそんなにかわいいと思わなかった。今振り返ると古くさい感じの絵だった。でも、絵がついていないよりいる方がかわいい、と感じていた気がする。

 

 みんな……ほかの女の子との持ち物の差に気づいたのは、たぶん傘と水筒が大きかったと思う。そのころ多くの女の子が持っていたのは、どちらも少女マンガっぽいイラストがプリントされていて、地色はほとんど赤だった。一方、私の傘は、黄色の無地のやつだった。交通 安全万歳というタイプである。そして、水筒はこともあろうに父親のおさがりの軍隊の人が持っていそうなやつだった。あの、ボトルに直接口つけて飲むやつ。子どもながらに恥ずかしかったが、これは母がかなり神経質で、当時プラスチックの容器に口をつけることを許さなかったためである。そういえば、うがい用に持っていくコップもみなさんのはプラスチックだったが、私のはステンレスのキャンプ仕様みたいなやつだった。 もちろんクラスでただ一人。

 

 雨の日に並んで歩く道々、私は前の女の子がくるくると回している傘の……円周にずらりと並んだ少女の絵をながめていた。

 

 自分の黄色い傘は好きではなかった。とはいえ、彼女らの持っている傘も「すっごくかわいい!」とは思わなかった。これは環境的な要因が大だと思う。しかし、「こういうのが欲しい」と思ったわけではなかったが、「こういうの、持ちたい?」くらいの気持ちはあった。

 

 純粋に美学的にそれを認めたわけじゃないけど、それを持てるならそっちの方がいい。《イケてる》という認識だったんじゃないかと思うのだ。「流行っているから持ちたい」「みんなが持っているから持ちたい」と似ているけれど完全にイコールではないように思う。

 

 真から「いいな」と思うものの中に、きっと《イケてる》が微妙に混ざりこんで、嗜好は作られるのかもしれない。

 

 それからもうひとつ要素を加えるならば、《見慣れる》ということか。私は黄色い傘とお弁当箱の女の子にはその感覚を覚えなかったが、長いこと我慢してミリタリー水筒を使っているうちに、不思議とそれのことは好きになった。なんでもかんでも《見慣れる》わけでないところも面 白い。《見慣れる》うちに、そのものの持つ魅力に気づいていく、ということもあるわけだ。

 

 「いいな」という純粋な嗜好+《イケてる》+《見慣れる》……とりあえずの仮説はこんなところ。

 

 嫌いという感覚についても考えてみたいところだ。女性には虫が嫌い、小さなイモムシでもさわれないという人が多いが、それはいつから「気持ち悪い」存在として認識されるのだろう?

 

「キャーーーーーッ!」とならないファンの心理   2015.2.1

 たとえば私も、オザケンや岡村ちゃんの楽曲はとても好きなのだが、その話題で盛り上がってるときに自分も好きだと言い出しにくいことには前々から気づいていた。つまり……ここに挙げたアーティストはたまたまの一例ではあるが、つまり妄信的なファンが多いのが共通 点である。知識が多いか少ないか、あるいはファン歴が浅いか長いか、なんてことで《ファンの資格》を問うつもりはないけれど、そのアーティストに対する「キャーーーーーッ!」という熱狂度に、正直私はおされているのである。自分が「キャーーーーーッ!」とならないタチである以上、そこをあいまいに共有してしまいそうになりたくないのだ。してしまいそうになるのは、ある種たやすいかもしれない、が(だって好きなんだから)。

 

 好きなものについて人と語るのは楽しい。しかし、同時に私は自分がのらないときは存分にしらけていたい。シンプルなことだ。

 

 これに近いことを以前にも書いたことがあるが、自分はもともと「キャーーーーーッ!」となりにくいほうである。どんなに好きでも。楽曲のみが好きであるのが純粋な音楽ファンであるなどとは間違っても思っていない! アーティスト個人にも興味はあるし、インタビュー記事なども読む。

 

 「キャーーーーーッ!」とならない理由は、自分の恋愛観にポイントがあるのではないかと思った。私は、「二人でひとり」のように溶けあう関係を好まない。そういう関係を否定しやしないが、自分は好まない。完全なひとりだからこそ、相手を外側から愛することができる。そうありたいと思っている。

 

 だから、恋愛対象でなくとも…憧れの人、好きな人にも「絶対服従!オールオッケー!」という気持ちにはなれないようだ。ひねくれてないよ。これが、私にとってのいつも素直であるということ。

 

 

学生のうちにまるで勉強しなくって、なんら困っていないなぁ   2015.1.1

 私は「学生のうちにもっと勉強しておけば良かった」と思ったことがない。私がどのくらい勉強していなかったかというとずいぶんなもので……いや、決して勉強しなかったことを自慢に思うわけではないから、ここではその詳細を書くことは控えよう。もちろん、勉強に励まなかった代わりに素晴らしい何かに寸暇を惜しんで打ちこんでいた、とも言えない。ただ、私が後悔しないのは「そのときに興味がわかなかったんだから仕方ない」からなのだ。

 

 間違っても、勉強ばかりしていた人を蔑んだりはしないよ。純粋にすごく勉強が好きだったり、百点をとることが楽しかったりする人もいるだろう。それはそれでいいと思う。いい成績を取るってことに価値を見いだせるなら、いいじゃない。「わけがわからないなりに、勉強に打ちこんだ」ことが糧や自信になっている人もいるとは思う。それもいい。つまりは価値観によるものだ。

 

 ただ、自分に関していえば、どうしたってやりたくないこと、目的が見いだせないことはギリギリで帳尻を合わせてきたのだ。あまり綺麗に言うのもおこがましいけど、学生時代にそのやり方を学んできたともいえるだろう。高校受験のとき、私は私立が第一志望で、そこに受かるつもりでいたから三教科の勉強しかしていなかった。落ちたら、第二志望の都立(五教科)を受けるのだが、私立の合格発表から都立の試験までには五日くらいあったので「理科と社会は落ちてからやればいいや」と思っていた。第一志望に落ちていたらどうなってたかはわからないが、結果 としてはいやなことをやらずにすんで良かったと思っている。

 

 やりたくないことはできるだけやらないで済ますにこしたことはない。

 

 最近、マンガ絡みの仕事をしていてよく思うのは、子どもの頃にいっぱいマンガを読んでおいてよかったということだ。必要になってから読むことだってできるけれど、過去の蓄積にどれだけ助けられているかわからない。

 

 ああ、あれだけ親に叱咤されながらも、全然勉強しないで、自室にいるときはひたすら音楽を聴き、本やマンガや雑誌を読み狂っていてよかったなぁ。

 

 仕事の役に立っていないとしたって、まったくそう思うよ。

 

私はサブカルチャーが大好き   2015.1.1

 いつからか「サブカルクソ野郎」とか「サブカルブス」とかいう言葉が蔓延するようになった。

 こうした言葉が使われる背景には「他に自信がないから変わり者を気取って、サブカルに浸る」という揶揄があるようだ。他者に対して批判的に使うだけでなく、自嘲的にも使われるから始末が悪い。いやはや! 私はサブカルチャーが大好きだよ。音楽、映画、本やマンガ、雑誌etc……サブカルチャーにどっぷりと浸ってきた者としては、こういう使われようは至極残念だ。

 

「《みんな》と違う嗜好を求めようとする」という自意識による入り口があったとして、それのどこが悪い? それは《自分にしっくりくるものを求めよう》という、まったく当たり前の要求ではないだろうか。親に買い与えられた本や服、年上のきょうだいが持っている文化。それに飽き足らなくなったとき、または(私の場合でいえば)姉の影響下にあった世界からもっと自分にぴったり来るものが欲しい、と感じたローティーンの頃に出会ったのがサブカルチャー的なものだったと思う。その中に「これだ!」とズバッとはまったものもあれば、「みんなとは違う《から》カッコいい」という想いが一滴もなかったとは言わない。しかし、だとしても私はそれがよこしまだとは思わない。人が背伸びをしようとする年頃には、きわめて当たり前のことだと思うからだ。

 

 《サブカル》が貶められるに並行して、「これこれは素晴らしいのにサブカルチャーの枠に押し込められているのが問題である」的な論旨も見受けられるようになった。これもおかしなことである。サブカルチャーならではの魅力を否定してどうするというのか。だって、国政と市政をごっちゃにすることができようか? 

 

 市政だからできる、市政だから魅力を放つ取り組みが、国政でも活きるとは限らないのである。

 

 どんなに優れていても市政に向くものと、国政に向くものとがある。これは優劣で語るものではないということだ。