ダマコラム 2007.4〜8月     →top    

 

☆古書店でMYアイドルと出会う                         2007.8.27

 吉祥寺のミステリ専門店がついに閉じてしまって悲しんでいたのだが……しばらくして前を通ると、またまたミステリ古書店になっていた。店の名は『そらや』という。店主が「ミステリにこだわらずにやっていくかもしれない」などというのに、いや、古書店激戦区の吉祥寺ではむしろこの立地じゃ専門性がないと生き残れませんよ、と、まともな意見のような自分の希望のようなものを押しつけた熱弁ふるった手前、なるべく立ち寄るようにしている。今のところちゃんと「ミステリ専門古書店」であり、行くたびにしっかり欲しいものが見つかるからうれしい。

 先日買ったのは『エラリイ・クイーンとそのライヴァルたち』というムック本。発行元は「西武タイム」。79年に刊行されたものを、87年に新装版として出している。編者は石川喬司と山口雅也。まるで見たことなかったなあ。こうした「探偵読本」の類は少なくない。しかし、私がこれをつかんだのは表紙にドルリー・レーン、ファイロ・ヴァンス、フェル博士、ヘンリイ・メリヴェール卿に並び、ネロ・ウルフの名前があったからである(このシリーズでは先に『シャーロック・ホームズ』『ポアロとミス・マープル』が出た模様。そりゃ順当)。ほかの探偵に比べたら、レックス・スタウトの生んだネロ・ウルフは極端に日本での紹介が少ないので、この扱いにワクワク。巻末にスタウトの全作リストと、雑誌掲載を含む翻訳リストがあったので狂喜する。これまで古本屋で古い『EQMM』『宝石』『ミステリマガジン』などの山に遭遇すると、スタウトが載ってるかコツコツ目次チェックしてた苦労がしのばれる。これがありゃあ、国立国会図書館で一網打尽だぜ! ここ1〜2年ハヤカワミステリで『編集者を殺せ』、ウルフものではないがスタウトの『手袋の中の手』『苦いオードブル』が次々刊行されたので、この先も期待してるんだけど。

 もう一冊、ネロ・ウルフがらみの収穫あり。『知られざる名探偵物語』(ジュリアン・シモンズ/ハヤカワ・ミステリ文庫)。本書で扱っているのは、ホームズ、ミス・マープル、ネロ・ウルフ、エラリイ・クイーン、メグレ警視、エルキュール・ポアロ、フィリップ・マーロウ。それぞれ贋作だったり、研究レポート形式だったり、あるいは登場人物の架空インタビューという形をとりながら、探偵の秘密、探偵のその後、書かれなかった事件などを書いていく変則パスティーシュ。こんな本があったのか! これまた87年の刊行。よく見りゃ著者はミステリ作家にして評論家のジュリアン・シモンズ、目の利く人は、これが凡百の探偵解説本や安い贋作小説と勘違いしてスルーしたりしてなかっただろうな……。

 ネロ・ウルフは巨漢の、いわゆる安楽椅子探偵である。趣味は蘭の栽培で、温室の管理をする雇用人もいる。美食家で腕のいいコックも雇っている。私は、探偵があちこちかけずり回っちゃ、行く先行く先で5分前まで生きてた死体に遭遇するという展開の、ちっとも知的じゃないミステリは嫌いだ。とはいえ頭の中だけで推理して、見てきたようなことを言う《知的な》探偵というのも、やりすぎると不自然だ。このシリーズでは、アーチー・グッドウィンという右腕がウルフの代わりに外をかけ回ることで、そこを解消している。また語り手の役を果たすこのキャラクターにはウルフと拮抗する魅力があり、主人公が二人いるかのような充実したドラマを見せてくれる。ワトソンやヘイスティングスよりずっと存在感がある、《主張する右腕》。

 中学2年の冬に『EQ』に掲載された『苦いパテ』を読んでから、エルキュール・ポアロは私の中で「2位」に陥落した。最初に読むなら『料理長が多すぎる』か『赤い箱』をおすすめします。ともにハヤカワ・ミステリ文庫。

 

☆間隙を縫って!                              2007.8.20

「ひょっとして行けるかな?」が確信に変わりつつあったのは火曜日の夜。もろもろの仕事や用事を巻き巻きでやっつければ、水曜の夜に大阪へ向かえるか。宿で寝て朝から試合見て、木曜じゅうに帰ってくればなんとかなるんでは。木曜の深夜に素材がそろってすぐ書かなきゃいけない原稿があるし、金曜も土曜も予定が入ってるから、もうそこしかない…高校野球を観るならば!

 というわけで、がぜん張り切る火曜の夜。こういう時、勝手に脳内で流れるイメージ画像は、一心不乱に畳を縫う山田太郎のじっちゃんの姿である。早く太郎の応援に行こうというサチコ。しかし、じっちゃんは自分が仕事を放り出して行っては太郎も負けるような気がする…みたいなことを言い、とにかく早く仕上げて甲子園に赴かんと励むわけです。じじいに深く共鳴する私。仕事をしつつ、ネットでホテルの前日予約をする。通常7500円が5000円になってるとこ、16000円が7000円になってるとこを秤にかけて、後者にする。割引率が魅力。この時点で大事なのは、やたらに迷って予約ごときに時間をかけないこと。制限時間20分と決めている。こんなんに大事な時間を費やすのは、1000円2000円安くホテル代をあげることより、ずっと不経済だ。

 水曜日、やるべきことが終わってみたら17時すぎ、まあまあ読み通りだ。と、今日は宅配野菜の配達日だったことを思い出す。箱はドアの外に到着していた。幸いにしてすぐ食べなきゃいけないようなものは入ってない。あまりにおいしそうだったのでブドウを食べ、ここから30分で用意をする、と制限時間を決める。一泊だから荷物は少ない。デカいバッグに書きかけの譜面のファイル、手帳、化粧ポーチ、筆記用具。ここまではふだんどこへ行く時も持ってる標準装備だ。日焼け止めとファンデーションと化粧水の小袋、サンダルウッドの香水の小瓶を入れたポーチを追加(サンダルウッドは夏でも意外と爽やかなのだ)。着替えは上だけで十分(翌日の朝じゃなくて、観戦後に着替えるつもり)。タオルと手ぬぐいだけは多めに持つ。夜と朝用のインスタントコーヒーをジップロックの小さな袋に入れる(ホテルの湯のみで飲む)。冷凍庫に入れといたお茶、せんべい。おっと、忘れちゃいけない携帯ラジオ(中継を聞きながら観るため)! それから新幹線用に本を1冊…。新書を手に取りかけたが、軽い小説がいいなと思い直し、千種堅が訳してるってんで翻訳者買いしたイタリアミステリ『おやつ泥棒』を。バッグの内ポケットに汗ふきシートとムヒ(私はやけに蚊に刺されるので)。帽子を乗っけて完了だ。

 東京駅に着いて、5分後に発車の券を買う。下りの新幹線はすいてて快適だ。すぐさま読書に没頭。

 ひとつだけ誤算だったのは、車内販売の弁当が売り切れていたことだな。遅い時間だったのと、15号車だったことが敗因だ(車販のお姉さんが来たのは乗車1時間後だったもの)。まあ、家から持ってったせんべいに救われたというわけだ。かくして22時半大阪着、気分は盗塁成功。

 

☆茶飲み話としての《神経質》                             2007.8.13

 中国産の食べ物があれもこれもヤバイらしい、というニュースが流れると神経質を装う人々が瞬間風速的に増える。気をつかうのはけっこうだけど……実はその気のつかい方が気休め程度にすぎないことを言うのが親切か、言わぬが花か、といったらまあ後者なんだろうな。

 危険といわれる食品をなるべく食べないようにする心がけは、それぞれの心の中に、適当な「自分だけが納得できる基準」で用意されていればいいと思う。科学的根拠はないかもしれず矛盾もあるかもしれないが、自分が感覚的に納得できるカンのようなもの。根拠はなくとも、自分が安心できるために設置したボーダー。りこうな人は、それが「お守り」程度のものだと知っているから、わざわざ人には話さない。

 私が滑稽に感じてしまうのは、声高に「中国産が危ない」とか「話題にしたがり、そのわりにはそこらのファミレスで普通にご飯を食べてるような人である。要するに、科学的(といっても単なるニュースの受け売り)な根拠があることをやってるようで、しかしそれ以上自分で突き詰めようとはしない人だ。「TみんなUはこのくらい注意してる」ってのを参考に行動するタイプの人ですね。報道が下火になり、TみんなUが気にしなくなればそんなこと忘れてしまうんだ。

 先日、おもしろいニュースを読んだ。どこかの大学で水道管の設営ミスのため、蛇口から出る飲料にたえる水と、トイレの排水の水が入れ替わっていたという。しかも、10年以上もの間気づかれなかったらしい。その間、嘔吐や下痢の症状を訴えた人の数は70名くらいだったそうだ。意外と少ないな、と思った。水銀やPCBならともかく、このくらいは許してやってもいいんじゃないか。嫌いな上司のお茶に雑巾しぼりの水を入れる人って、ホントにいるらしいし。それにサバイバルな状況だったら、排水くらい自主的に飲みそうだしな。

 BSEにしても便所の水にしても、結局はだれかが問題を見つけてくるか、あるいは被害者が出て報道されるまでわからない。となると、個人レベルでできることは限られる。(1)危険を察知する野性のカンを磨く。(2)食に限らず身のまわりにあるあれこれを徹底的に疑い、膨大な専門書を読んでは追究する。安売りスーパーの「国産」の表示なんかひと目見ただけで信じることはなく、店長を呼びだして証拠を出せと詰め寄ったりもする(笑)。

 そこまでやるとキチガイ扱いされるかもしれませんが……私としちゃ「中国産のキュウリは買いません」と言いつつフィリピン産のオクラは買ってる人、タバコの副流煙は気にするくせに好んで都会に住み排気ガス吸ってる人よりは、(2)のほうがまっとうだと思うな。

 

☆自由を再認識する、夏                         2007.8.6

 かつて旧コラムにも書いたことだが、現在私は「仮想夏休み」中の真っ最中である。毎年7月21日から8月31日までは、仮想夏休み。その間の仕事は「バイト」と信じこむだけ、という非常にシンプルなルール。これだけでものすごくご機嫌になれるから安上がりである。何年もやってるとどんどん思いこむのが上手になり、今朝は「そろそろ、夏期講習の予約しといたほうがいいな」などと思いながら目が覚めた次第。

 1か月以上の夏休みを持っていた時代にも、勇んで海や行楽地に出かけるイベントフルな人間ではなかったので、十分事足りてしまう。要するに「夏休み」のキモとは、「自由だ!」と思うその一点なのではないか? 時間は好きなように使えばいいさ。たまたま自由な時間を仕事(バイト)に使ってたりもするわけだな。と考えてみれば、この考え方こそ普段の生活を見直す基本のような気がしてくる。義務教育を終えてしまえば、あとは本来自由である。もう、そのあとは全部休み、のはずなのだ。それをどう使おうかと……自分の意志で選んだ結果が今、ってわけだ。自由を、再認識する。

 私にとって「自由」はすごく大事なので、こうもそれにこだわって生きている。だれにとっても「一番」……ではないのだろうが。自由とは「自然体」(この言葉は好きじゃない)とは違うと、私は思う。自分を自分で縛らない、というところに細心の注意を払うべきだ。大人は、自分を決めつけがちだ。そうやって、自分を自由から遠ざけていく。

 友人のRさんは一見まともな勤め人なのだが、ときどきやらかす常識はずれっぷりがものすごく好もしい。会社に浴衣を着ていって怒られた、というエピソードのように、楽しげで前のめりだからだ。この夏は、会社の規定では休みは3日間なのに5日間と勘違いし、さらにまずいことに日数を上乗せして海外旅行の日程を組んでしまったという。なんという図々しさ(笑)。転職したばかりの職場で! これが判明し、非常識人の烙印を押されたまま旅立った彼女。そんな、堂々たるうっかりをかませる彼女の自由さが、好きだ。

 私が思う大事なものは、「自由であろうとすること」と「今より幸せになろうとすること」だ。「現状維持できればいい」と思っている人は、何かはき違えている。自分は変わらないと信じて今ある幸せを守っているつもりでも、世界は絶えず動き続けているから。守るだけでは、間違いなく陰っていく。

 

☆何かを終えて思うこと                              2007.7.30

「一段落」してしまいそうになるのを、止める。ひとつ終えたくらいで、何かをやり遂げたような気分になるのは大げさだと思う。自分をかわいがりすぎだ。えらい人は、量をこなしている。ひとつのことを、自分の中で大切に丁寧にやる……そんなのは当然のことだろう。すごい人はいくつものことを同時進行で、高いクオリティで、しかも多くの量をこなしている。力のある人にはスピードがある。「不器用だから」などという言葉で、力のない自分を肯定するようなことはしたくないものだ。

 戦士に休息なし、だ。それがいやなら戦列に立たなければいい、と自分に言う。

 

☆Challenge,博物誌                             2007.7.22

 ほめられる、のは難しい。素直に喜べる時もあるけれど、身に余る言葉をもらってアタフタし「それはほめすぎじゃ…」などと思ってもじもじすることもある。私は謙遜するのが嫌いなので、自ら「今日はよかったんじゃね?」と思えるときは、「カッコよかったです!」と言われて、「ありがとうございます」だけじゃなく、ついうっかり「私もそう思います」とぬけぬけ言ってもーたりする。こういう人間が、自分で納得いかないときにほめられると、本当は「いえ、そんなことありません。私はカスでクズで、どうしようもないのです!」と堂々言いたくなるところであるが、それじゃああんまり申し訳ないので、もじもじするよりほかにないのである。それに、人前で「私ってダメダメです!」などと言うのは、甘えた態度でしかない。そう言えばきっとだれかが慰めてくれるに決まっているし。だから、敗北した日はなるべく敗北感を表に出さずにそれを家に持ち帰る。しかし、帰ってからも安易に自分をなじってはならない。自分で自分をおとしめることは、意外と自分を楽にしてしまうからだ。

 おや、今回はほめられてうれしかったことを書こうと思っていたのに、いつまにかまた主義者っぽい話になってしまいました。いやいや私も人の子(笑)、ほめられればやっぱりふつうにうれしいのですよ。

 うれしかった言葉はいろいろあるけれど、脳がピクつくほどうれしかったのは、岡部伊都子さんの文章を彷彿とさせるといわれた時かな。そういってくださったNさんは、私が岡部氏の大ファンであることを知らずにいたから、なおさらに。

 そのNさんが少し前に、遠距離通勤の僅かな乗り換え時間に電話をかけてきてくれた。串田孫一さんの『博物誌』を読んだことはありますか、という。この本を読んで、私のことを思い出したので…ということだった。ちょっと前に、ルナールの『博物誌』のことを書きましたしね。Nさんが入手した現代教養文庫版はとっくに絶版になっていたのだが、幸い平凡社ライブラリーから復刊されてたのを古本屋で見つけた。花や鳥や虫のことを書いた短いエッセイなのだが、すばらしい文章だ。自筆のスケッチもまたいい。

 先日、明け方の4時ごろゴミを出しに行ったら、コンクリの通路にかぶと虫がひっくり返ってジタバタしていた。毎年、夏になるとよく見る光景だ。私はかぶとを起こしてやった。しかし、なかなか歩きだそうとしないので心配になる。あんた、夜行性だろう? ケガでもしてるのかと思い、取り上げてしげしげ見たがそのようすもない。コンクリの上なんかにじっとしているとカラスの餌食になるのは間違いないので、くさむらに投げこもうと思ったが、その前に何かふるまってやろうと思った。かぶと虫はキュウリやリンゴが好きだ。しかし、わが冷蔵庫にはどっちもない。こんな時には基本中の基本、砂糖水だね。私は部屋にもどって砂糖とハチミツと水をまぜ、カブトム氏にもっていった。彼がそれをなめるのを、かなり長い時間眺めていた。どうやってなめているのか見たくて、コンクリにほとんど寝そべって眺めていた(同じ階の人がまさか外に出てきませんように、と願いつつ)。それから風呂に入って、彼の様子を見るとまだそこにいた。もう朝になる。まじめに危険である。前にカラスが食ったかぶとの残骸を見たことがあるんだ。手すりに乗せて「Go!」と2、3回声をかけたら、やつは飛んでいった。嘘みたいだけど本当の話。

 …やっぱ、串田孫一の域は遠いですわ!!!

 

☆「おもしろくない話」分析                           2007.7.16

 前回書いたことに続き、「おもしろくない話」について考えてみた。最近、友人が「自分の子どもの話は他人にはおもしろくないというから、そういうふうにならないよう気をつけなくては」と言ったとき、そうか、と思ったが、あとあと思い返してみると、子どもの話をおもしろく話す人もいっぱいいる。つまりこれは、よく槍玉にあがる「自分が見た夢の話」と同じで、「相手をうんざりさせる危険度が高い」、難度の高い話題ということだろう。

 では、この二つを鍵として「相手をうんざりさせる危険度が高い」話の法則が見えてくるのではないか。「夢の話」がつまらなくなりがちなのはなぜか? 本人にとっては「当人にあったこと」は、どんな小さなことでも意味があるように思える。しかし、相手にとってはそうではない。夢の中で、その人がふだん食べないとろろそばを食べたとして、本人は「なんでとろろそば?」とおもしろがれるかもしれないが、他人にとっては別になんでもない。そういった事柄を「ショートストーリー」に仕立てもしない状態で羅列されても、相手は退屈するばかりである。「子どもの話」が槍玉に上がるのも、かようにひとりよがりになりがちだからだろう。しかし、何もこの二つの例にかぎったことではない。

 いえば、多くの人がネット上にアップしている日記もこの手のが多い。ひとことでも《その人ならではの》感慨らしきものが書かれていれば、まだ興味をもてるのだが、「どこそこに行った」「○○を食べた。おいしかった。満足」式の日記は、たとえ知人のものであってもガックリくる。しかもこういう人ほど、個人情報がどうのというのを気にしていて、具体的なことはまったく書かないときてる。書きたいんだか書きたくないんだか、はっきりしてくれい!

 要するに、自分に起こった事実ばかりを、確実に正確に《私感なしで》報道する人の話は、おもしろくないということである。

 

☆「似ている」ことはおもしろいのか?                              2007.7.10

 ものまねをする芸人が騒ぎを起こしたのを受け、スポーツ新聞ではおもしろおかしく「永ちゃんがつんくの耳たぶをかみ切った」などと書かれていた。ところで、ものまね芸人というのはそうおもしろいものなんだろうか。一人でいろいろな顔面模写、形態模写を含めた多彩なものまねをする人には感心するが、もともと顔のつくりがちょっと似てる程度で、ある特定の人物のものまねをする……それで食っていこうとする本人よりも、それをおもしろがれる人のほうに疑問を感じる。

 日常生活で、ときに「人まね」はいやな印象を与えることがある。それが、あからさまに「悪意」をもって表現されるのではない場合でも。そこに愛が感じられない人には、「自分が的確に《その人について思っていること》を言語化できないのをごまかしつつ、気の利いたことを言おうとしてへたくそなものまねをしているのか」と思わざるを得ず、痛々しい。思わず笑ってしまう「人まね」には、オチやユーモアといった聞き手へのサービス精神が仕込まれているのだが、それがないものは、つらい。

 「○○さんは、(有名人の)誰それに似ている」という話題についても同様である。「似てますね」「いや、そうでもない」で、話は終わってしまう。……「鼻が似ているんだ!」とか「目がもう少しつり気味だったら完璧だ!」とか、盛り上がれる人もいるのだろうか? 私の場合、自分が「女優の誰それさんに似ていますね」と言われても、実はさほど興味を持てない。おそらく、相手は誉め言葉に近いニュアンスで言っているとは思う。むしろ、この場合、誉め言葉に近いほどおもしろくない。私がもらってうれしいのは「ハッとする気づき」や「おもしろみ」だ。「似ている」だけでは一芸にならないのだ。

 これは、私が芸能人をまるで知らないせいかと思ったが、そうでもないようだ。話に「オチやユーモアといった聞き手へのサービス精神」が含まれているかによっては、知らない人が俎上に上がった時でも、興味をそそられるからだ。

 先日、美容院に行った時。担当美容師いわく、その店の若い衆が「あおうさんはアニメの『攻殻機動隊』の『少佐』に似ている」と言ってると。どんなキャラクターなのかと訊くと、女で少佐で強くていばっていてサイボーグだって。顔が云々というよりは、話し方とか体型など全体のイメージだという。帰ったら調べてみようと思ったのは、たぶん与えられた情報の中にお世辞めいたニュアンスが感じられなかったためじゃないか。

 帰りがけ、美容師たちがニコニコと、しかしいつもとは違った含みのある目線で見送っているのを察知したので、つい敬礼してしまいました。大サービス(笑)。

 

☆今週は東京都S氏のリクエストから                             2007.7.2

 先日、吉祥寺でS君とばったり会って、お茶をした。久々に話したのでいろんな話が噴出し、考えなければならないテーマが目白押しなのだが…。最後に彼が言った「『まったり』とか『ほっこり』とかいう言葉がいかにイラくつか」に共感する。最近すっかり定着している言葉なので、まずは、なぜそれに私たちがムカつくかを検証してみることにした。

 正確にいうと、「まったり」や「ほっこり」という言葉自体に嫌悪を持っているわけではない。文章表現上、それを使うのにぴったりくるシーンがあることもある。おそらく嫌悪を覚えるのは、自分がただダラダラしている様子や、ボケーッとしていることを、かわいらしげな言い方にすり替えて言う輩のみみっちさに、であろう。つまりはとことん「自己肯定」してみせる、そのおめでたさに。たぶん、こうした言い換えを行う人は、心のどこかで「怠け者の自分」に罪悪感を持っているのだろう。罪悪感持つなら怠けるな! 怠けるのが楽しけりゃ堂々と徹頭徹尾胸を張って怠けを堪能すべし! これだけのことなのだが、自分にやさしくしすぎる人の中では、矛盾した状態だけが延々と続く。

 こういう人の扱いは難しい。人からハッパをかけられるのは嫌いだが、期待はされたいらしいから。まあ、他人からやさしいまなざしで「できる範囲で、あなたなりのペースでがんばっていけばいいんじゃない?」と言われたら、それはまるで期待されてないってことだと思ってよいでしょう。

 あるいは、「まったり」「ほっこり」を連発する人は、「落ち着いた状態」を過剰に欲しているのかなという気もする。きっと日ごろから疲れすぎないように気をつかったり、マッサージやらリフレクソロジーに通いつめたり、外出すれば2時間おきに落ち着くカフェを探したりと…日常生活よりも、むしろ癒しを求めるのに忙しく頭を使いすぎてるんじゃないかという気がするが。暇人は忙しいな。

 

☆フライング事件                            2007.6.25

 スタジオに向かって通りを歩いていると、反対側から黒Tシャツの人がやってくる。コマツとここで遭遇することは何度かあった。ふだんなら手を振ったりするくらいなのだが、その日の私は無駄にごきげんであったのかもしれない。あるいは、前夜に「コマツの部屋」でスカイブルー100を観たことが影響していたのかもしれないが、なぜかベースをしょったままバンザイの姿勢で激しくジャンプしながら、「フォウウ〜フォウ〜!フォ〜!!」とでかい声で叫んだのだ。

 彼は、すっと脇道に入って姿を消した。私は、コマツはわざと無視したのだろうと思った。走っていって追いかけようかと思ったそのとき。向こうから…茶色のTシャツを着たコマツがやってきたのである。なんと、さっきのは別人だったのだ。追いかけなくてよかった…。

 おかしな人が多いから気をつけなきゃいけない世の中ではあるが、意外とそのうちの10%くらいはこんなものかもしれない。いや、5%くらい? 2%くらい…?

 

☆ジェルーシャより愛をこめて                              2007.6.18

 調布の図書館に、延滞を2回催促されてこそこそ返却しにいく。調布の図書館員の方は取り立て電話でも礼儀正しく、高圧的でないのでこっちも素直に「すまない」と思いつつ。さて、調布に行ったおりには、あまり時間がなくても古書店「円居」だけには寄るようにしている。以前、「BOOK BOOK こんにちは」にちらっと書いたと思うが、ここにはとても相性のいい「売り手」がいるからだ。

 私が新刊で買ったばかりの本が並んでいることが何度もあったから、これはどうも特定の一人の「売り手」のしわざかなとにらんでいた。それも、一読してさっと手放すようなタイプの本じゃないので、おそらく出版スジの方じゃないかと推測。 

 先日、創元推理文庫からトーマス・オーウェンの『青い蛇』が文庫化した。さらに前の月に『黒い玉』が文庫化していたので、『青い蛇』も出るんかなと思ってはいたが。どちらもオディロン=ルドンをカバーとするにふさわしい、不気味素敵な短編集。そういえば、昔、地下鉄の中で中原昌也さんにばったり会ったとき、中原さんが私に気づいたのは、あきらかに『黒い玉』を読んでいたからだと思う。『黒い玉』→それを持ってる人、という順番に視線を移したにちがいない。

 『青い蛇』をなんとなく買いのがしていた私としては、文庫が出たとなればそりゃとびつく…しかし、何かが私にブレーキをかけていた。で、はたして『青い蛇』の文庫本は「円居」に出ていたのである! ついにまだ見ぬ足長おじさん(個人と確信している)の「売り」を読むことに成功した!

 ほかにヘンリー・ミラーの『オプス・ピストルム』(富士見ロマン文庫)を見つける。ミラーのポルノは……どの作品もポルノだという向きもあるかもしれないが……実に快速ポップで痛快だ。会計をしてる間、まだいじましく棚を見ていると…。

 これまた、私がチェックを入れてた本がささっているではないか。『日本災害史』って、まだ出て半年ですよ。決して安い本じゃないし、読者も限られる本だし。まさかこんなに早く古本屋に出るなんて? 足長おじさんはきっと近くに住んでる人なんだろうな。いつか「売り」の場面に遭遇してみたいものであるが、見知らぬ人とささやかにコミュニケーションしているような感じがしているこの状態、ちょっとおもしろい。

【調布雑記】駅構内に、花屋がを出ている。店をやってるのはおっさんなのだが、花束の札に「おぱなちゃん」という言葉が連発されいるのが、なんともかわいい。この日は安売りの黄バラの束を買った。黄バラの中には毛虫が住んでいて、小さなフンをまきちらしていた。エレガントなやつである。

 

☆客観的というより自己満足的                              2007.6.18

「自分はこれ以上はできない」といいきる人は、無駄に自信満々だなあ、と思う。

 

☆ライター稼業                             2007.6.11

 ときどき「ライターになりたいのですが、どんな仕事か教えてください」という相談が舞いこむ。果たして、その人の想像しているライター仕事がどんなものかはわからないが、まあ「なりたい」と思ってるくらいだから素敵なイメージをもってるのだろう。あとで「こんなはずじゃなかった」と思わないように、私の知る範囲での赤裸々な現実をお話しすることにしている。

 なにしろ「ライターの世界」というのは広すぎて、私だってほんのごく一部しか知らないはずだ。雑誌や単行本だって、大人のものから子ども向け、かたいものからいかがわしいもの、学術的なものから超ピンポイント趣味的世界まであるものなあ。分野が違うと、人種もかなり違う。さらに「商品」は本屋に並ぶものばかりじゃない。広告パンフレットやらチラシやら社内報やら取扱説明書やら……。印刷物あるところにライターあり、てなわけだ。

 志望者にきいてみると、まあ「女性誌の仕事をしたい」などの普通な回答が多い。あくまで私個人の見解として、まず、いうのは「ライターは肉体労働者である」ってことだ。物(ネタ)を集めてくる、資料を集めてくる、人に会いにいく。で、かけずり回る。いや、このネット時代とはいえ、やっぱネットごときじゃまともな調べ物はできっこない。日々、資料との追いかけっこだ。アマゾンの配達を待ってる猶予すら、ないときゃない! 図書館、本屋、古本屋でしょっちゅう何かを探し集めているが、おかげで私の腰骨には「本担ぎアザ」(笑)がありますよ。

 そして、原稿を書く。ここにきてやっと「知的作業」のようだけれど、私の中のイメージはちょっと違う。目の前にある、膨大な原稿量を前にすると、きまって浮かぶひとつの映像がある。それは、まだ耕されていない広大な荒れ地。これを、何時間後かの締切までに、きちんと耕された畑にしなくてはならぬ、と思う。もくもくと地道に、やれば終わる。やらなければ終わらない。

 ひらめきとか、そういったものとは関係なく、確実にクワを振り下ろさなければならないと思うのである。

 

☆ワンテーマで一冊、の楽しみ                              2007.6.4

 古本市で『ポケット 合理的な作り方65』(稲毛美代子/文化出版局)という本を買った。洋裁をやる人向けの専門書で、私には関係なさそうではある。しかし、「ポケット」だけで1冊、というのが気に入った。ポケットだけで65の作り方が紹介されているって、見ているだけでも十分楽しい。フタがついてるやつ(フラップポケットという)、表に出ない(内袋をしこむ式の)ポケット、間仕切りのあるポケット、内ポケット、ポケットの中にまたポケットがあるもの。手を入れる部分のラインもいろいろでおもしろい。なにか、ヒントになることがきっとありそうな気がする。何が役に立つかわかりませんからね。

 私はポケットによく物を入れるほうなので、ことに上着を買う時はポケットの大きさを気にする。文庫の1冊くらいは入らないとなあ。あとペンやメモもよく入れる。かばんに入れりゃいいじゃないの、とも思うが、ホントに急いでいる時はバッグを探る時間さえもどかしい。おっと、バッグも使い勝手のよい内ポケットがついてることが必須条件だけど。

 コロボックルシリーズで有名な佐藤さとる氏の短編に『ポケットだらけの服』というのがある。これに出てくる薬屋さんの服は背中にまでポケットがあり、手の届かないところはネズミに取りにやらせるのであった。すてきだ。

 先日、友人に「アオウさんはけっこうハウツー本が好きですよね」と言われたが、そうかもしれない。最近買ったのは『フリー・クライミング上達法』。別にクライミングをやろうと思ってるわけじゃなく、こういう入門書を読むと山岳マンガがよりおもしろく読めるかな、と……。あ、でも狭いとっかかりに指をかけてぶら下がるトレーニングは、つい家でやってみました。

 手軽な入門書のシリーズ、保育社のカラーブックスは愛好家が多い。たぶん昭和の家庭には、どこのうちにも1冊くらいはあったのでは。実家にも『さつき入門』というのがあったような。古本屋で、ものによってはちょっと高値がついてることもある。100円くらいで見つけた時にちょこちょこ買ってたら、けっこう増えていた。『紙の手芸』『木彫り入門』『世界の船』『凧づくり』『トランプ』『茶碗のみかた』『毒のある植物』『食べられる野草』『山菜入門』『山草入門』(こっちは草花)などなど。特に気に入っているのは『ふぐ大学』。ふぐの種類や調理の仕方、毒についての話だけでなく、ふぐをデザインした民芸品や切手などが紹介されているのがいい。「入門」や「百科」じゃなくて「大学」とつけたところもご愛嬌である。

 

☆Hey! ご近所サン!                              2007.5.28

 先日、近所のコンビニで『ヤングアニマル』を立ち読みしていたら、声をかけられた。川染氏であった。うろたえた。聞けば、彼もこの辺に住んでいるという(もうすぐ引っ越すと言ってましたが)。彼いわく「今までも何度か見かけてたんですが、声をかけるタイミングを逃して…」。私「ええっ? どこで見かけたんですか?」 川「いなげやの前あたりとか…」 来るロックフェスの話などをして別れたが、あとあとその言葉がやけに気になってくる。

 声をかけられた時、私はヤンアニの極めてまえ〜のほうのページを見ておった。そして、オダキューOXの袋をぶら下げ、小脇に『ヤングジャンプ増刊 漫革』をかかえておった。立ち位置は、青年誌前からはみ出してエロ雑誌コーナーの真ん前だ。あまり声をかけやすい状況にも思えないが。

 「いなげや」に買い物に行く時の私は、そうとうヒドいよ。ご近所買い物圏で「オダキューOX」に行く時の私は、まだ余裕がある。しかし、「いなげや」は……長時間籠城仕事をしていて湯を沸かす気力さえなくなり、手近でぱっと食えるものやせっぱ詰まった日用品を買い求めに行く場所なのである。「いなげや」あたりでは目撃されたくない!

 とはいえ見た目のやつれ具合など、自分が思ってるほどにはふだんと変わりはなかったりする(ふだんの自分を過大評価するのはあほらしい)。じゃあ、じゃあ? もっと決定的な「声をかけにくさ」があったとしたら?

 たとえば、鼻をほじりながら歩いているとか。これは話しかけられんだろう!

 と思った私はコンビニの帰り道、おもむろに鼻に指をつっこんでみた。むむっ、ほじれない。歩きながら鼻をほじるのは、私には難しい行為のようだ。ああよかった。つまりは無意識にやってはいないってことなのね。

 ……という光景を、だれが見てないとも限らないから余計なことはしないがいいよね。

 

☆私も好きな無印良品                              2007.5.20

 先日、ロックなねえさんがオリジナル製品を作っちゃ売ってる吉祥寺の名店Vを訪れた時のこと。いつものようにあれこれ雑談していると…店主H氏の言葉「そのバッグ、無印ですか?」。さよう、無印のデカいポリエステル黒バッグに本を詰めこんでいた私「は、はあ…なんだかんだ言ってコレ丈夫なんですよね」。そう、この瞬間、私は無印を恥じていたのである…と、気づく。私「あれ、私、無印って嫌いじゃないのになあ?」

 嫌いじゃないどころかけっこうのぞく。収納とか文具とか食品とか、しっかり買ってもいる。じゃあ、なぜなんだ、この恥じらいは?

 これを皮切りに無印談義スタート。そもそも、まだそこらの西友に無印良品が行き渡っていない中学生くらいのころ、私は無印良品青山店へ憧れのまなざしを注ぎつつ足を運んでいたものである。あのころは、無印良品に都会的洗練を感じていたのにな。H氏「無印良品って、もともとはエッジィなんですよ」。言われてみれば、そう。さらに、H氏はさっきからの疑問に終止符を打つ決定的なひとことを繰り出す。「私も無印は好きなんだけど、たぶん『無印大好き』みたいな人が嫌いなんですよ」

 うわあ、それだぁ〜〜〜〜! 大げさではなく、ハートを撃ち抜かれた私は二、三歩後ずさった。不自然なほどに「全部ナチュラルです」的な態度および風貌、「一切ムダなしナチュラル教」「無地なら間違いナシ」的貧乏くさい姿勢が嫌いなのだ。

 冷静に見れば、今も無印良品は都会的洗練を失ってはいないと思う。しかし、商品構成が広がった分だけ、全部に《無地》の持つエッジィさは行き届いていないのでは? 

 ある、雑貨バイヤーの方に取材したときのこと。「日本人は『ナチュラル』信仰にしばられすぎでは」というようなことを言っていたのに、膝を打った。私はめったなことじゃ「日本人は…」などと口走れないが、この方はしょっちゅう買いつけに海外に行ってる方だから許されよう。インテリアの専門家である彼女いわく、日本人は異様なほどにナチュラルテイストの家具を揃えれば「落ち着く」と思いこんでいるふうだ、と。確かにねえ。人の趣味はいろいろでけっこうだが、その「落ち着く」基準すら実は自分で選択できていない(ことを知らない)のは、貧しいと思う。

 『無印大好き』は、結局のところ人に委ねている点では高級ブランドマークにぶら下がるのと同じなのだ。それが安いか高いかはあまり関係がない。

 何にでも合いそうな服が、実は何にも合わなかったりすることがままある。ここに、ナチュラル信仰を解く鍵がありそうだ。

 

☆Tパッと見ふつうUを仕込む技                              2007.5.13

 仕事の必要にかられ、『それいけズッコケ三人組』(那須正幹/ポプラ社)を読んだ。78年に最初の単行本が出てから27年間で、全50巻をもってシリーズは完結。公式研究本も出ているし、そういえばT中年バージョンUも書かれた説明不要のヒット作である。子ども時代、大人の本をガンガン読んでた私は「こりゃ子どもの読み物だな」と遠目に見てたふしがあるが、これが今あらためて読んでみたらものすごくおもしろいので感心してしまった。

 遊ぶことだけに命を賭けてるようなハチベエ。図体でかく、食べることに執着するのんびり屋のモーちゃん。いつも本に向かっているハカセ。パッと見、いかにもお決まりのパターンのように思える三人組だが、ちゃんと読んでみると、実は「お決まり」っぽい設定にちょっとずつヒネリがきいていて、その加減が絶妙な魅力をはじき出しているのがわかる。ハチベエはまるで子どもっぽいようだが、実は一番色気づいててクラスの女の子をどうにかしようという下心満載。モーちゃんのようなキャラは「オチ」要員にされがちだが(戦隊モノ風に言うとキレンジャー的な)、その落ち着きとやさしさから意外と女子にモテたりしている。それからハカセ。読書家だから知識の幅は広いのだが、しじゅう勉強してるわりに学校の成績はイマイチ。こういう一面的でない設定が、話をおもしろくしてるのだなあ。

 だれもが入りこみやすいような、わかりやすさ。それだけでは退屈する。物語に限らず音楽でも、ヒット作を見て「こういうの、かんたんに作れそうじゃん?」と思っても、そうはいかない。パッと見ただけではわからない……いやわからせない程度のギリギリのスパイスが、名作の中にはあるのだと感じた。

 

☆何がなんでも降りるもんか                              2007.5.7

 メジャー入りした松坂が何かと話題の今日このごろ。「松坂よりスゴイ男がいた!」との謳い文句で紹介される嶋清一、という投手についてのノンフィクションが3月にいきなり2冊出た。『嶋清一 戦火に散った伝説の左腕』(山本暢俊/彩流社)と、『嶋清一の真実』(富永俊治/アスペクト)。丸い黒縁メガネのルックスが超好みだったこともあり、さっそく買って読んでみた。

 松坂が高校3年の夏の甲子園大会の決勝でノーヒットノーランをやったのは有名な話ですが、なんとこの嶋清一は準決勝、決勝とたて続けにノーヒットノーランをやっていたのである(しかも甲子園大会では決勝まで5試合をすべて完封!)。戦前の話とはいえ、そんな選手がなぜあまり話にのぼらなかったのか? 太平洋戦争で死んだ幻の投手といえばだれでも真っ先に思い出す沢村栄治が花形選手の真っ盛りで死んだのに比べ……徴兵されたとき嶋は明大野球部の選手だったのだが、目立った活躍はしていなかったことが原因だろう。

 しかし、この嶋選手、本人も「将来はスポーツ記者になりたい」と漏らしてたというし、生きて帰ったとしてもプロ野球には進んでいなかったかもしれない。なにしろ、性格が基本的にファイターではなかったのである。高校野球時代も、実力は折り紙つきながら、本番で何度も突如異様な崩れ方をしてボコボコに打たれマウンドを降ろされてたようだ、高校の最後の夏までは。その原因は、まずい投球をすると先輩のキャッチャーが露骨に不機嫌な表情になるのがコワかったからだという……。打者にビビる以前に、味方にビビっていたわけですね。そんな気弱な嶋選手が、まず自分に誓ったのが「プレートを(※すなわちマウンドを)死守する」ということだった。降ろされない。ということですね。この言葉が、なんだか胸に刺さった。

 勝つこともあるし、負けることもある。当たり前のことだ。もちろん、何がなんでも勝つつもりでやるに、決まってる。だけど「負けそうになっても逃げ出さない」も、重要なことだ。はたから見たら相当みじめなことになっていても、逃げ出さない限り勝つ目はあるのだ。降りないこと。それは消極的な表現のようだけれど、意味ある誓いだと感じたのだ。

 

☆素朴で強い自己主張                              2007.4.30

 Myファースト鉢植えは小学3年の時、国分寺市東恋ヶ窪のサンコーフラワーで購入した「クモマ草」。300円で買ったと記憶している。こづかいで買った鉢植えを自分の部屋に置くというのがすごくうれしく、わずか1cmくらいの濃いピンクの花が次々増えていくのが楽しくて毎日数をかぞえていたものだ。しかし、今や……迂闊さがたたって鉢植えを元気に保つ自信は地に落ちまくっているから、もっぱら切り花専門だ。

 にぎやかな街に住みたいほうでないから、住居の周辺に多くの店は求めない。しかし、いい花屋がないのが唯一不満の種だったのだが、最近これが解消されて喜んでいる。

 なにしろ、知らない花がたくさんあるのでわくわくする。札に名前が書いてないのはかたっぱしから「これ、なんていう花ですか?」と訊いてみる。色や質感の組み合わせを考えながら、1本1本選んでいくのが楽しい。先日は、花屋に山吹があるのに驚いた。山吹といったら、家の庭に生えてるもんだという印象があったからだ。そういえば、ここのところ花屋には「枝もの」が増えているような気がする。「美女柳」というのをひと枝買ってみた。まさに「枝」という感じで、これだともうキッチンばさみではうまく切れない。花用のはさみを買わなきゃいけないかな。カラーとかアンスリウムとか極楽鳥花(ストレリチアともいう。これは非常に好き!)なんかはたまに買うけれど、今まであまり手を出してなかった背の高いものを生けてみたくなる。そこで「部屋の中だけど鬱蒼としてる」をコンセプトに枝ものを集めてみたら、なんだか新境地が開けた気がした。

 植物はかわいい。今の季節、そこらを歩くと植えこみの若い葉が、まるで道行く人に手をさしのべるようににょきにょき伸びているのが、実にかわいい。壁をはいのぼるツタの、なんてかわいいこと。そういえば、ルナールの『博物誌』の中で庭の一風景を描いたものがあったな。子どものころに読んだきりだが。植物が対話する形式で書かれたその一篇の中で、なぜだか「そうよ、あたしがすかんぽよ」という言葉が、ずっと心に残っている。道を狭めんばかりの勢いで前のめっている植物たちには「そうよ、あたしがすかんぽよ」的な、生けるものの自己主張があって、それがたまらなく愛しく感じさせるのかもしれない。

 

☆今日(こんにち)の名言に悶絶する                              2007.4.22

 本を読んでいて「この一文!」と思う文章に出会うとシビれるような快感が走る。本のはしっこをちょいと三角に折る。折り目だらけになる本、線をひいたり書きこみをしてしまう本ほど愛しい。自分でもうすうす思っちゃいるけれど、そこまではまとめきれていないことをビシッと書き切っている文章に出会うとひれ伏すような気持ちになる。

 新宿のジュンク堂のノンフィクション棚で、辺見庸の『記憶と沈黙』(毎日新聞社)をパラパラめくった時が、まさにそうであった。(カギカッコ内引用)「だれにでもなく、自身にくりかえしいいきかせなければならない。あらためて記すまでもないことだけれども、残りの生を意識し、ここにあえて書きおく。みなともっと別れよ。みなからもっと離れよ(後略)」。「まったくの単独者として、孤絶のなかで、私だけの理由と責任で、自問し、嘲り、叫び、祈り、泣き、狂い、殺意を向けるのでなければならない。あるいは、むしろまったくの単独者として、孤絶のなかで、嘲られ誹られ殺意を向けられるのでなければならない。おそらく、そこからしか血や肉や、まして神性をおびた言葉など立ちあがらない」「みなといっしょに安息を得ようとしてはならない。みなとともに癒されてもならない。他とともに陶酔するな。他とともに変質するな。(後略)」……冒頭に書き下ろされた「垂線」と題されたこの文章、ものすごい気迫と正確さに満ちています。参った。ここに引用したのはほんの一部ですが、ゾゾッとくるには十分でしょう。血が沸騰してきた方はぜひ1500円(安い!)を出してこの本を買っていただきたい。図書館で借りてはならない。まったくの単独者として、私だけの理由と責任で、購入するのでなければならないっ(笑)。

 最近では、新潮社のPR誌『波』の柳瀬尚紀と穂村弘の対談に感じ入った。柳瀬尚紀といえば説明無用、かの『フィネガンズ・ウェイク』を個人完訳した奇跡のスーパースターだが……なんと『フィネガン〜』に着手していた時は一日18時間没頭していたという。そんな柳瀬氏に、あの穂村氏が「(そんな非社会的な生活のしていても)生活やお金や名誉とかに少しは足をとられるものでしょう?」と訊くのもなんだか愉快。それに答えて柳瀬氏「ぼくには基本的に『日常』というものがないからな」ですって、カッチョイイ! よくぞ言ってくれました! そのあと携帯電話を持っていないことを告白しつつ「だいたい、電気釜が普及してから世の中は悪くなったんです。」と言い切る柳瀬氏。うーん、日ごろ「電子レンジ不要」を唱える私もこれには一枚上手がいたかと思うとともに頼もしい気分になる。柳瀬氏、さらに「米は土鍋で炊くものですよ。(中略)保温なんて機能は必要ありません。あるいは月賦で車買ったり、家買ったりするのはなぜか。自分の収入の範囲内でやればいいじゃないですか。間借りで十分。自由と引きかえにちっぽけな家をローンで買うなんて、人間を駄目にします。」だって。これまた言ってくれる。おっと、柳瀬氏はローンで買い物している人をばかにしているわけではないのよ。もちろん人にはそれぞれ事情があるのを知っていて、その上での発言であって……しかし、どんな小市民然とした人にもふとした時心によぎるラディカルなものがあるはずで……彼の生み出す「言葉の仕事」がそうした気分とクロスすれば、という思いで日々「闘争」しているわけなのですね。

 ちょっと前のこと。ごはんを食べる約束をした時にTさんが「語りあいましょう、世間話ヌキで」と言ったのが、実にピタリと感じた。そういえば誰それさんは元気かとか、さして衝撃的でもない噂話とか、「世の中の人はどんなふうにやっているのか」的な話は、わざわざするもんでもないからだ。

 闘争はそんなに難しいものじゃない。足がかりは「ま、こんなもん、だろう」と思わない、こと。そのくらいのことを実行していれば、もっと自由になれるはずではないかな。

 

☆歩きやすいにもほどがある                              2007.4.15

 私にとってスニーカーをはくことは、わりに敷居が高い。

 そこに「快活さ」が表れていないと、スニーカーはあわれにも単なる「運動ぐつ」になりさがるからだ。そいつが、私が〈履く前〉よりも……つまり、〈モノとしてそこにあっただけの時〉よりも輝きを失うのは悲しい。要するに「こなれているか」かどうかが問題なのだが。

 それでもコンバースのハイカットのバッシュを3足持っているけど、ピンクのを除くとしばらく稼働していない。紺のはちょっと子どもっぽく見える気がするので、注意が必要。紫のはピンとこなくなったのだが、ペイントを施してみたら履いてもよさそうな気がしてきたところ。

 かなり歩き回るほうなので、もう少しスニーカーを味方につけられたらよいのだが。と、靴屋に行ってみても気に入るものがなかなか見つからない。いいなと思っても、いざ自分に合う24cmくらいのを出してもらうと格段に美しさが減っていてがっかりする。自分の足が26cm、いやせめて25cmあったら、もっとスニーカーを履くだろうに。ノーズが短いスニーカーはなんでこんなに美しくないんだろう。しかし、スニーカーをカッコよく履く女性は世の中にたくさんいる。電車の中などで日々観察し、やるもんだなあと感心している。

 研究の結果、ようやく買うに至ったのはピンクと紫と抹茶色の3色づかいのナイキのスニーカーである。履いて、姿見の前に立ってみたら「遠足然」としていなかったので合格とする。表に出てよいことにする。

 コンバースのバッシュ以外の……こういった近代的スニーカーを履いていなかったので、歩いてみて驚いた。いまどきのスニーカーは想像を絶するほど機能性が高かったのである! 足がぐんぐん前に進んでしょうがない。私はわりと歩くのが速いほうだが、いつもに増してぐんぐん人を追い抜いてしまう。勝手に足が運ばされる感じ、といってもいいくらいである。しまいには走り出してしまった。なんじゃこりゃ、楽しい!!助けて!!止まらない!!

 あの、死ぬまで踊らされる「赤い靴」を思い出してしまった。歩きやすいのはけっこうだけれど、いつもこんなスニーカーを履いていたら、私、死んでしまうかもなあ。と、冗談でなく思った。

 

☆腸こそすべて!                              2007.4.8

 「脳を鍛える」ことがブームといえるほど盛り上がって、だいぶ経つ。もちろん、サビつかせないためには「使う」ことは必須だと思うけれども、そこまでして鍛えて具体的にどうなるものなのか、と思っていた。そんなおり、雑誌を読んでいてものすごくピンとくる記事に出会った。

 科学者である西原克成先生は、「腸こそが人間のこころのいちばんのおおもと」ゆえに、「脳を鍛えるうんぬんではなく、体全体の活性を考えたほうがいい」「腸をよくすれば、脳だってよくなる」という意味のことを述べている。

「脳とはまさしく外界と腸管をつなぐ窓口。神経細胞に電流を配電するトランジスターか、あるいはモニター」「(細胞間の)電流を発生させているのはどこかというと、それが腸を始めとする内臓なのです。なので、『こころは脳の中での現象だ』という、今、流行している唯脳論に、私は賛成できません。脳はたんなる電極にすぎません。電極から生まれるのは計算と論理だけです」(抜粋)。

 「腸」はなぜそんなに重要なのか? 

「生命現象とは、外界から摂取した栄養と酸素を反応させて、エネルギーの渦をめぐらせながら、旧くなった細胞を新しく作り換えて、それによってエイジング(老化)を克服するシステムのこと。まず、腸からの酸素と栄養の吸収がなければ、なにごとも始まらないのです」(抜粋)。

 インタビュアーの「確かに、すべての精神活動は、お腹がへっていては遂行できませんね」という言葉にも深く同意。腹が減っているときって、「生きたい!」と身体(=こころ)が叫んでいる状態だなあと日々実感している。「おいしいものを食べたい」という嗜好的なものの入る余地はない、ただ「供給したい」という……もっともっと原始的な、それでいて力強い欲望につき動かされる感じ。大食らいの私は、しょっちゅうつき動かされっぱなしなんだ!

 ストレスなど心の不調が腸にくる、って話もよく聞く。総合的に心身の機能を上げるためには、これからは「腸」に注目ですよ! 西原先生いわく、腸をよくするには食べ物・飲み物は温かいものをとる、半身浴で身体を温めるのがいいらしい。生命エネルギーを司る細胞内のミトコンドリアを活性化させるのに最適な温度は39度なのだそうだ。そういえば最近は「低体温(子どもや女性に多いらしい」も問題になってますが。

 トンデモ科学と思う人もいるかもしれんが、私は断然「腸」を支持します! ちょっと前、古い本で「いい女の条件は“よく食べる”こと。内側の新陳代謝が活発でないと、外側だって輝かない」……というようなことが書いてあるのを読んで、これまた膝を打ったんですが。まあ、私の口から言うと「人は自分に都合のよい論に寄りたがる」としか思われないでしょうな(笑)。

 

☆やっぱり「時間がない」はウソである                              2007.4.1

 岡崎武志『読書の腕前』(光文社新書)をパラパラ読んでいる。『本は積んで、破って、歩きながら読むもの』という第一章のタイトルに、さっそく心をつかまれる。大賛成! 本を大切にするというのは、決してていねいに扱うという意味ではないと思う。そんなことより、不幸なのは読まれない本だ。いや、読まれないというより「完全に忘れられる」本か……。

 当然愛情を感じたから買ったはずなのに、結局この先も読まずじまいになりそうな本は出てきてしまう。書棚を見直していてそういう本を見つけたら、どんどん外に出す。家に押しこめて一生を終わらすのはかわいそうだ。かわいがってくれる新しいご主人様にめぐりあっておくれ、という気持ちで送りだすのだ。「一回も読まないで手放すのはもったいない」とか、「本を破損すると売れなくなるからもったいない」というのは貧乏くさい考えだ。少なくともそういう考えの人にとって、本はさほど大事なものじゃないのだ、と思う。本をその「購入価格」でしかはかれない、また「モトをとろう」なんて、思うのは真の本好きではない。

 (以下、『読書の腕前』より引用)「本を読む時間がない、と言う人は多いが、ウソだね。その気になれば、ちょっとした時間のすき間を利用して、いくらでも読めるものなのである。たとえ、それが二分、三分といった細切れ時間であっても、合計すれば一日二十、三十分にはなるはずだ。一ページ一分かかるとしたって、毎日三十ページ近くは読める。土日に少し時間を稼げば、新書程度の分量なら一週間に一冊は読了できる。要は、ほんとうに本が読みたいかどうか、なのだ」

 『バルザックと小さな中国のお針子』(ダイ・シージェ/早川epi文庫)。意外と文庫になるのが早かった。舞台は中国、ときは70年代。医者を親に持つため反革命分子の子として、山奥で再教育を受けることになった主人公の青年たちは、一切の本を取り上げられる。しかし、禁書中の禁書である西洋の小説を手に入れることに成功! 二人が粗末な小屋の中で、バルザックやロマン・ロランに夢中になって読みふけるさまは、読書の愉しみを今一度鮮烈なものとして感じさせてくれる。

 読むために読むのでなく、「読みふける」。これがすべてであろう。

 本を読むだけじゃなく何に関しても「時間がない」はあり得ない。ただし「なんでも」はできない。優先順位をつけることが必要なんだ。たとえば「平穏で波風立たない暮らし」を望んでいる人が、「刺激的でいそがしい毎日」を夢見るのは矛盾している、ということだ。自分が真に、「耽溺する」のはどれなのか? 素で後回しにしてるような「一番やりたいこと」を「時間さえあればやる」と言うことすら、ウソのような気がするけれど……まあ「耽溺したい」という希望があるとして「したい」を、「する」に変えるには何が必要なのか。

「時間がないからできない」のじゃなく、本当は「さほどやりたいわけでもない」と知るのは、勇気がいる。自分に「夢」を見られなくなるからだ。考える必要のあることだと思う。