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自分を縛るのは自分  2012.12.31

 「普通」なんてものはない。みな、理屈ではこのことを知っていると思うのだけど、それでも不思議と《多数》のものを《普通 》と思ってしまいがちなようである。そして、それに苦しめられている人が多いように感じる。流されるのはご自由にどうぞ、だけど、苦しめられるのは損だ。

 ときどき耳にする言い方に、こういうのがある。「みんなが○○するから、それが普通 になっていて、○○(が好き)でない自分は困る。みんな○○をやめればいいのに」。冷静に読めば、大変に矛盾した言い方だよね。

 

 たとえばそうだなあ、私は《普通》も《多数》にも縛られていないから、たいへん自由に生きているのであまり我慢を感じることがないんだけど。何かいい例は……あ、まさにタイムリーなことでいうと、私は実家に帰るのが好きではない。だけど、「みんなが年末年始に帰省する《風潮》」に悪態をついたりはしない。できれば帰りたくないけど、日ごろ親孝行のひとつもしておらず、また一応(たぶん)帰りを待たれてはいて、自分を育ててくれた恩義に応えなくてはという想いはある……ので、帰るのである。もちろん友人には帰省の習慣がない人もいるし、仕事で帰れない人もいる。必ずしも正月に帰らなくてもいいのだけど、いい機会だと思うので、帰るのである。逆に、正月でもないと間が持たなそうだ。

 

 私は「どうしてもみんなでいっしょにしなければならないこと」と、そうでないことをきっちり見極めてきたと思っている。たとえば学校なり職場なりで、みんなの誘いを断り、一人で昼食に行くことはそんなに大変なことではない。かつての職場で、私が多くの《それまでの慣例》を破ったことは、場の雰囲気を悪くすることにはつながらなかった(むしろ先輩方に感謝された)。先輩方がそれを望んでいながら慣例を破れなかったのは、《普通 》に縛られていたためだ。

 

 もちろん、折れることも必要だ。だって、そりゃ相手に世話にもなっているんだもの! 愛情を持っている、もしくは金銭的な契約で成り立つ相手に、「ま、ここは譲って合わせましょう」と思うことも、そんなにたいしたことではない。

 

 《みんな》が盛り上がってるときに、疎外感を感じていじけるのも勝手な話。なぜ、そんなに《みんな》を気にする必要があるのだろうか?

 

 自分が世間の被害者だと思っているうちは、何も変わりやしないよ。

 

 

さらば焼き海苔前髪   2012.12.21

 けっこう長いこと、AKBたちの前髪が気になっていた。まっすぐに下ろされた黒髪。ポイントは左か右か……生え際からぱくっと切れこみを入れたようなスペースができているところだ。実に直線的な、二等辺三角形のスペース。分け目、というわけではなく、前髪を突如「寄せて固めた」感じ。前髪の下ろし方があまりにぺったりとしているため、私はそれを心の中で「焼き海苔前髪」と呼んでいた。

 しかし、これはちょっと前までの現象で、最近のアーティスト写真を見てみると、この《焼き海苔・二等辺三角形スペース前髪》はほぼなくなっていた。前髪を下ろしている子でも、ふんわり軽く巻いたようにしている。そこに曲線があると、額が見えるすき間があっても《三角》には見えない。なんとなく安心感を覚えるとともに、なぜあれが心にひっかかって仕方なかったのかを考えてみた。

 

 10〜20代のファッション誌において、決してあの前髪が流行っていたわけではない。近年長く主流だったものは「エアリー」「ゆるふわ」で、最近はロングよりもミドルが多くなってきた。《焼き海苔・二等辺三角形スペース前髪》にいちばん近い、ストレートヘアを強調したいわゆる「前髪ぱっつん」は流行とは関係なくロリータ系を中心に一定の支持者がいるけれども、あの《二等辺三角形スペース》があるかどうかで、印象は大きく変わる。

 

 男子の間で無造作ヘアが流行ったように、90年代以降は「無造作」に加え、「自然な(に、見える)ゆるふわ」が発展していった。それと比較してみると、AKB前髪は実に不自然だ。モードの不自然さとは違う。それが何を思わせるのか……と考えたところ、あれは《絵に描いた髪型》なのだと気づいた。

 

 「アイドルは時代のエネルギーのある場所から生まれる」という秋元康の考えにより、主戦場を秋葉原とし、その名を冠したAKB48。うーん、なんら不思議はなかった。あの髪型はいまどきのアニメ絵だったのですね。

 

 しかし、今ではもうAKBたちには、そのアニメ的な髪型は不要なところまで育ったというわけなんだな。多くの娘たちの写 真を見ると、今では普通のファッション誌に出てきそうな髪型だ。《生身の人間》として勝負する段階に来たというわけか。先に「前髪を下ろしている子でも、ふんわり軽く巻いたようにしている」と書いたが、たったこれだけのことで表出されるものは大きく違う。

 

 意図的にやっていたのだろうな。だって、あの髪型は少なくとも、《いまどきの私服》に似合いそうではなかった。かわいいかもしれないが、《ファッション》という視点から見たら決しておしゃれな髪型ではなかった。それを選択する、どこかのどなたかの才覚は素晴らしいと、今は素直に思いますね。

 

本のイベント始めます  2012.12.21

 NEWSのページにもちょっと書きましたが、来年から円盤で不定期イベントをやることになりました。円盤店主・田口さんから不意に「来年から、なんか、本のイベントやりませんか」と言われて、「そーねぇ…」と考えてるうちにたいしたプランはないものの、むくむくとやる気になったので。たぶん不定期になりますが、やります。初回は1月23日、水曜日です。

 「この本がおもしろい」と、一冊を俎上にあげて語る……みたいなものにはしません。ただ、本のおもしろさを伝えたい。

 

 本の話に限ったことではないのですが、ジャンルや作家に縛られてしまっている人は多いと感じます。縛られてる自覚はないかもしれないけど、好きだと感じたブランドに安住してしまうのでしょうね。もちろん私も「作家買い」はします。だけど客観的に見て、《全部の作品がおもしろい》作家でも、その作品の中で最高におもしろいやつと、まあまあのやつに分かれる。だったら、《まあまあ》のは置いといて、他の作家の《最高におもしろいやつ》を読みたいじゃないか。それをどうやって見極めるか。その作家に詳しい人に訊くのもいいけど、自分がおもしろいと思うカンを磨けば、まっすぐそこにたどり着けます。

 

 本が好き、という人と話をするのは楽しくて、だけど訊いてみると実は何年も東野圭吾と江國香織しか読んでいないみたいなことがわかると、ちょっと残念に感じます。いや、わかりやすいもんで例に挙げちゃってすみませんが、東野も江國も良いですよ! きわめて高打率の作家でしょう。だけど、世の中におもしろい本は星の数ほどあるんだぜ……別 に本なんか役に立たないけども、読書を楽しめる人にはついお節介を言いたくなってしまうのです……というところから、イベントをやってみようかな、と思った次第。

 

 今、まさにデアデビルでマンガ市をやってるのですが、お客さんは「こんなマンガがあったんだ」と喜んで買ってくださる。本が膨大にあふれる書店で、それを見つけるのは難しいと思います。上から目線、と思われても構いませんが、私は8歳からほとんど電気を消したことのない女(笑)。学者や評論家に読書量 はかなわないだろうけど、振り幅の広さには自信があります。「そんな本があるんだ!」と知ってほしいし、そして本屋に行ってほしい! ここは、出版業界に身を置く人間の一人としてというより、長く本に恩恵を授かってきた人間としての想いなのです。

 

 

☆正門ばかりが門じゃない  2012.11.25

 就職を控えた大学生の取材をする仕事がときどきあって、出版業界はいまだに人気なのだと感じさせられる。「ライターってどういう仕事なんですか?」と訊いてくる子がたまにいるのだが、初対面 の私にそう訊いてくる勇気に応えたくなって、できるだけ 質問に答えるようにしている。

 

 先日話した子は、50社受けたけれどダメだったと言っていた。こういう話は10年以上前から聞くし、今では出版業界に限った話ではないのだろう。どうしても出版をやりたいなら、入り口は正門ばかりじゃないよ、と話す。ほかの業界のことはわからないけれど、出版に関わろうと思ったらいくらでも方法はある。逆に、出版社に入れても編集に携われるとは限らないし、出版社以外でも広報など出版に近い業務に関われる部署もある。これを想定すると、考えはまたふるいにかけられると思う。どんな仕事でもよいから「出版社勤務」の肩書きを得ることがまず第一なのか、そうではないのか。

 

 私の知り合いには、小さい編集プロダクションで仕事をするうちに、出入りする編集部に信頼され、中途採用で入ったケースもある。「下請け」である編集プロダクションのスタッフ募集には「○○の雑誌の仕事をやっています」などと明記しているものもあるから、やりたい仕事のターゲットがはっきりしている人には、むしろねらい目だ。編集プロダクションは、かなりキツいけれども現場仕事を覚えるには最適だと思う。これは私の経験上から。かつて私の属していた編集プロダクションでは「うちで1年働いたら、よその2年分と同じ」と恐ろしいことを言っていたが(笑)、その言葉通 り実に1年目からガンガン仕事をまかされたものだ。

 

 なんでもそうだと思うのだけど、入り口はひとつではないということ。たとえば仕事で関われなくても、自力で何かやる、その仕事に就いている人に個人的に出会うことがステップになることもあるし……知り合える場所なんていくらでもある。

 

 特に出版を目指したわけではなく、縁で始めて、最初の数年はそれこそ1年ごとに「もうやめる」と言いながら、私が今も出版の仕事を続けているのは、正直、情熱よりも出会いに引っぱられてきたせいのような。

 

人のお祭りを笑うな  2012.11.25

 この時期になると、どこからともなくクリスマスをディスる声が聞こえてくる。「キリスト教でもないのに」から丁寧に始める人もいるのだけど、まあそれをいっちゃあ、日本のいろいろな伝統行事って中国伝来のものが多いから、ホントはキリがないんだけどね。七夕にしろ端午の節句にしろ……(もっとあります)。

 圧倒的に多いのは、独り身の人。しかし、クリスマスにここぞとばかり《いちゃつくカップルが目障り》で、それが《むかつく》のはなぜなのか。羨ましいなら、素直に羨ましがればいい。人の幸せを呪うのは野暮きわまりない。まあ心から呪っているわけではなく、定番的な自嘲ギャグとしての《クリスマス憎し》が多数なのだろうが、これが20年くらい前ならともかく、今や全然おもしろくないことが私には不満なのである。何かをディスるなら、徹底的に論理的に、あるいはものすっごく面 白くあってほしい。 もし、クリスマスだなんだと騒ぐのがくだらないと心から思うのなら、漠然と世の中を呪うのでなく、ふだん親しくしている身近な人に、それがどんなにばかばかしく愚かなことか説くぐらいのことはしてもいいと思っているよ。

 

 また、「そうしたイベントごとでもないと騒げないなんて、よほど毎日がつまらないのだろう」という冷笑的な意見も見受けられる。しかし、私はバレンタインにしろ、クリスマスにしろ、心浮き立つきっかけになるなら別 にいいじゃないのと思う。バレンタインがお菓子屋の仕掛けであってもさ、いつ告白しようか踏み切れなくてもじもじしている女の子が踏み切るきっかけになるならいいじゃない。

 

 たとえば私は今のところサッカーに興味がないので、大きな大会のとき、街中で雄叫びをあげるユニフォームのサポーター集団には共感できない。だけど、彼らを「馬鹿じゃねーの」とは思わない。ただ、自分と関係がないだけにすぎない。たとえばそういう私を、彼らが「しらけやがって、つまらないヤツ」と思ういわれもないように、私も「騒ぎやがって、くだらないヤツ」と思う理由はない。自分が属していない集団を嘲るのは何より簡単で、感情的にすぎる。

 

 関係がない、と認めることで保たれる関係性もあるのではないだろうか。

 

ミーハー心  2012.11.18

 ちょっと前に、私ってミーハー心が圧倒的に欠けているんだなと気づいた。

「ミーハー」という言葉は、揶揄的に使われるのが本当だけれども、近年はさほど批判的な意味合いでばかり使われるとも限らない。ここで私が使うのも、遠回しなミーハー批判などではない。ミーハーであることの良さは、深く考えないで飛びつく素直さ、ノリの良さであろう。カッコイイ人がいると思ったら瞬発的に「キャー!」って言える。(くどいようですが馬鹿にしているわけではないです) 私は「キャー!」って言ったことがないのだ。せいぜい「おおお」くらいです。でも、別 に無感動なわけではないんですよ。「おおお素晴らしい→なぜか。解釈したい、言語化したい」みたいになってしまう。理屈っぽいんです。また、心底憧れている人が手の届くところに来たとして、またしても「おおお!」となってですね……「ファンなんです!」とすぐに飛びつけないのは別 に私が奥ゆかしいからではない。

 

 さきごろ某所にて、マンガ家の平松伸二先生にお会いする機会があり(インタビュー仕事などではなく、まったくのプライベート)……大ファンである私はご本人を目にするやいなや、ズズッと数歩後ずさってしまったのでした。(その光景を目にした人たちに「アオウさんが後ろに下がった(笑)」とやけに連呼されたことからも、私の普段の姿が想像できるだろう)

 好きすぎる人は、ありがたすぎて近寄っていけないんですよ。有名人は道ばたとかで見つかるとたちまち取り囲まれたりするわけですが、もし私のような人が多数派だった場合には逆にさーっと人が散る、みたいなことになるはずだ。(ホントにホントに、くどいようですが上から目線じゃないのよ!)

 

 振り返ってみると、子ども時代、同性となかなか共感しあえなかったのは、このミーハー心の欠如のためではないかと思った。たとえば、女子の間でありがちな「『キャンディ・キャンディ』の中でつきあうならだれ?」「『はいからさんが通 る』では?」という話題の時に、ああ、得意なマンガの話であるはずなのに私は朴念仁と化す。皆に負けないくらい作品を愛して没入して読みこんでいる自信はあるのに、その手の質問をされるとまったく答えが出てこない。これが「お気に入りのキャラは?」だったら答えられるのだけど。「たかがマンガのキャラを恋人に仮定するとかアホらしい」と思っているわけではない。キャラに深く思い入れてはいる。理由はひとつ、自分が《作品のヒロイン》の立ち位 置で読めていないせいである。なーんて理屈をぶっても、だれも面白くないというか、答えられない時点で座は白ける。そういう時、せめて付き合いで答えをしぼり出そうともなかなか出てこないのね。

 

 芸能人の話となると、全然ついていけない。歌謡曲は聴いても、《スター》に夢中になったことはないせいだ。実在の有名人で私が唯一、透明下敷きに入れたことがあるのは月刊ジャイアンツの切り抜きとかだ。あ、あとパスケースにアガサ・クリスティの写 真を入れてたことがあります。バアさんの書影を持ち歩く小学生女子……なんのこっちゃい! いや、これも《スター》ではありますが。また、ロックを聴くようになってもっとわかりやすく《スター》と崇める存在が生まれはしても、反応の仕方は先に挙げたふたつ。「おおお」始まりか、畏れ多くて後ずさるかのどっちか。

 

 ミーハー心なるものが多かろうが少なかろうがどっちでもいいのだけど、このようなことを考えてみて、なるほど私がいろいろズレてる理由のひとつがあきらかになった、というところ。女子同士の共感を例に挙げるとさ、同級生が「聞いて〜、昨日○○(芸能人)見ちゃった!」と興奮気味に話すのに、いい感じの相槌を打とうにも限界があるわけで。そうすると、それが「スゴ〜い!」が多数派の世界では、そこに食いつかない人は《反応悪い》にほかならず。スゴいと思ってないのに「スゴ〜い!」じゃ、嘘臭くしかならないので「良かったじゃん!」と言う術を覚えましたが。これなら嘘じゃない。

 

 まあ私の側から見たら、自分が本筋なんで全然《ズレてる》わけじゃなく、《ズレてるとみなされてる》だけ、ですけどね。

 

老人合唱団の構想  2012.11.18

 やりたいことはたくさんあるが、とにかく時間は有限なので「老後の楽しみに…」と思っていることがいくつかある。昔から「時代小説は60歳まで封印」と決めていたりね。時代小説って大長編が多いじゃない。で、読んだら次々、同じ作家のをかため読みしたくなりそうじゃない。なので、20代の頃から「当分は読まない」と決めたはものの……しかし老後っていつなんでしょうかね。90歳から向こう30年間は読みまくる、というのもやはり20代から決めてる目標なんですが。

 私はふらりと(いや、ホントは血眼でスケジュール整備して)球場に行ったりするが、高校野球の地区予選や社会人野球の試合は客席はすいていて、その中でけっこうな割合をしめてるのがいかにも定年退職後のおじさん、おじいさん連だ。私は確かに野球好きで時には「マニアックだね」なんて言われもするが、いやいやその男性方の足元にも及ばない。彼らは基本、一人で来ているのだが、たまに同好の者同士、たむろして野球談義に花を咲かせている。その内容たるや……地区予選に毎日通 ってるなんてのは当たり前で、有名校の練習試合についてまで語っていたりする。また、ときには地方にも足を伸ばして新人戦やら秋季大会やらを楽しんでいる模様。ちなみに地区予選なんかだと入場料は700円くらいだったりするので、交通 費を別にすればまあまあ安い娯楽である。いいなあ、私も老後はこうありたいなあと考えるわけである。

 最近、またにわかに、バンドとかやめちゃったら合唱団を作ろう、と思いついた。私が合唱やってたのは小学生の5〜6年の時だ。ド本気でNHKコンクールの全国大会目指す先生のもとでの学校のコーラス部(2年連続、都3位 どまりだったけど)、その先生の学外での合唱団に所属していた。その時にわかったのは、《子どもの合唱》でも、先生の指導によってものすごくチームカラーが異なるということだ。子どもらしくも優等生っぽいとか、大人っぽいとか、優美とか。 私の習った先生は躍動感を大事にするタイプで……元気というよりはやんちゃに近いような……その影響をもろ受けている私が目指すのはこれしかない。大人の声で、バリバリ躍動感あふれる合唱なんかできたらいいじゃない。ただし老人になってからだけど(笑)。男女混声がいいな。男のみ、女のみのレパートリーもあって、混声もできるのもいいな。相当先になるけど、ゆるく団員募集中。声を出すのは健康にもいいってばよ!

 

☆かっこいいだけじゃダメなのよ 2012.10.23

 先日、おなじみコマツのやってる洋服屋さんデアデビルで、オフホワイト総レースのワンピースを購入した。もちろん自分で納得したから購入したのだけど、なんといってもこれを試着した時、デアデビルのもうひと方・スエタカヨーコ嬢に「フェアリーっぽい!」と言わしめたのが私としちゃあすごくうれしかったのです。嗚呼、フェアリー……思えば私にとって非常に遠い言葉だった。デアデビルの常連客には、生まれながらのフェアリーが何人かはいるわけですよ。可憐なんですよね……。

 

 で、私が通常もっともいただく賞賛の言葉はというと「カッコいい」「イケメン」「王子様っぽい」「馬に乗ってそう」……いや、最後のは別 に賞賛じゃないか(笑)。つまり、私はフリルのついた服を着ると「王子」と呼ばれる星のもとに生まれついている。 それもよいでしょう。しかし! 私は自分にもっと多くのものを求める。

 

 いや、私は世の可憐な女性と真っ向からはりあおうと思っているのではない。ただし、王子といわれるのもうれしいけれど、 フェアリーといわれるのにも憧れるのが正直な気持ちである、ということ。そしてまた、《王子》に安住していては進歩がないと思っている。得意分野を増やすことは自分の切り口を増やすことであり、 それは具体的に自分を掘り下げる、磨くということではないかな。ひとつのテーマ・スタイルに絞って邁進する道もアリだろうが、実はそっちのほうが難度は高いような気がしている。鮮度を保つのが難しいから。よく女性は《若かった頃に一番似合ったスタイル》にとらわれがちだといわれる。大げさなようだが真剣に《その道》に取り組み、自分の老いを自覚しながら微調整を行う審美眼が必要なのではないか。

 

☆勝手に見下される人の受難  2012.10.23

 「テレビを見ない」って言うと、「偉そうに」って思う人がいるのか。これは少し前に驚いたできごと。ほぼこの言葉通 りの意見を見かけてね、ちょうど私が8月にこのコラムで(8.10「オリンピックをチラ見して」)の冒頭に、まさに「ふだんはテレビはまったく見ないけれど」と書いた直後だったので、思うところがあった。

 

 私はテレビが好きではない。やかましいから。だけど生まれてこのかたテレビの恩恵には授かっている。自分がテレビ向きの人間じゃないだけだと思っている。なので、テレビ番組を面 白がっている人を、まさか下に見たりはしない。「テレビを見ない」は、単なる事実でしかない。

 

 しかし、こういった誤解はあらゆるところにあるんだろうなあ。いろいろ考え出すと面 白いもので、「マンガは読まない」と言ったら「インテリぶってる」と思う人がいるのかもしれない一方、「小説は読まない」と言ったところで「小説を読む人を見下してる!」と感じる人はいなさそうだ。人のコンプレックスに関わる話ですね。たとえば話の前ふりとして必要があるのに「東大に通 っていた時」と言ったら、即「自慢してる!」と思う人もいるのか?と考えると面 倒くさくなってくる。

 

 ただ、聞くところによれば、相手に「すごいですね」と《言わせる》のを目的に学歴や出自や華やかな経歴について長々語る人もいるようなので、そうしたフレーズが出るやいなや「偉そうに」「自慢しやがって」と過敏に毒づく気持ちも想像できなくはない。私は、爽やかに自慢する人は好きだ(遠回しに自慢する人には会ったことがない。或いは鈍さゆえに気づいていない可能性もあるが)。しかし、堂々と自慢されるのを快く思わない人もいるのだろうし……《謙遜》を美徳とする文化の中で、こうした《相手に「すごい」と言わせる》定型が生まれていったのかもしれないな。

 

 そういう定型が行き渡ったから、「テレビを見ない」→「偉そう」という発想も特殊ではなく、ある種の定型として存在しているのかも。人の言葉はフラットに聞き、必要が生じたときに行間を読めば、余計なことに怒りを感じずにすむと思うのだが。

 

 

 

「俺」という女について  2012.10.9

 精神的にどこか男っぽいところ、たくましいところがある女性は、ときに「俺は…」と口走ってしまうものである。かくいう私もその一人である。いや、そろそろ「で、あった」と、過去形にしてよくなってきたか。中にはギャグの一種として使用する人もいるかもしれないが……多くは、威勢よくやるときに、初めの頃はいささか意識して……慣れてくるとスルッと「俺は!」と口から出るようになってしまう。そういうものではないか?

 

 10年くらい前だったか、あるとき、あまりにスムーズに「俺は」と口から出てしまっていることに気がついた。しかし、これは自然なようでやっぱり不自然な気持ちがした。だって、それでも常日頃の自分の一人称は「俺」になりえないからだ。その言葉が自分に勢いをつけるとしたら別 段悪くはないけれど、やっぱりそれは《補助輪》のようなものであるように思った。

 

 安野モヨコさんのマンガ『働きマン』で主人公がここ一番の仕事モードに入るときの「男スイッチ入ります」という、あのフレーズのようなものか、「俺」という言葉の発動は。しかし、ここぞというときに《「俺」という一人称の表すもの》に頼ってカブいているうちは、まだまだ《勇ましさを纏う》段階なのではないかな。そして、過酷な状況に飛びこむ気概のある…「俺」を使いがちな女性にこそ、最終的に、それは必要ないはずの言葉なのじゃないかと思っている。

 

 

自分を「好き」も「嫌い」もあるものか! 2012.10.1

 「今の自分が嫌い」「自分大好き(笑)」「自分を好きになろう」などのフレーズを比較的よく目にするのだけど、自分のことなど《好き》も《嫌い》もあるかい!……と、私は思う。自分はどこまでいっても自分。自分でも嫌悪してしまうことをやらかそうとも、自分は自分の味方にしかなり得ないから。法的な話ではない。敵になることは不可能なのだ。

 ……というわけで、好きになったり嫌いになったりする対象ではないんじゃないか、と思い至る。厳しくいえば《好き》は自己満足だし、《嫌い》は現実逃避。似ているようだが、自分を「好き」と言う《こと》は、自分を愛おしむことと必ずしもイコールでない。同様に、自分を「嫌い」と言うことも、自分を客観視することとイコールではない。前者はともすれば《言いっぱなし》になりがちで、それに対して後者のほうが意味があるというより……これこそが本来実際に《できる》ことじゃないかと思う。

 ただ言葉尻を捉えて、屁理屈をこねているつもりはない。同じように見えることでも、言葉の扱いを厳密にしていくことが精神的な成熟につながると思う。だから、日々こうしたことを考えているのだ。

 

【付記 10.9】ふと気づいたのだが、私は「自分が美人に生まれていたならば…」と嘆いた時代がない。諦めというよりは、変えようのない現実をわりに早くから受け止めていたのだと思う。これがまさしく《好きも嫌いもない》ということかなあ?

 

声の大小が場に与えるもの 2012.9.25

 小さい頃、近所のYさんのことが好きでなかった。後から考えてみると、その理由は話し方にあった。小さい声というよりは、声をひそめて話す感じ。いつも人の噂話をしているようなイメージがあった。そういう内容もあっただろうが、母とYさんが話すすべてを聞いていたわけではないのであくまでイメージなのだが、どんな時でもそういう雰囲気を漂わせる話し方をしていたことは確かだ。単に癖なのだろう。

 私は声が低いし地声が通るほうではないけど、コソコソッと喋るような話し方はしないようにと思っている。小さく喋る時は、ゆっくりと。

 

 基本的に、声が大きい人は明朗な感じでいいなと思う。だけど、それがときに暴君的になることに、決定的に気づいた瞬間があった。とあるライブの、終演後のこと。出演者を前に、大きな声で、大げさな面 白い言葉で「私が一番のファン」とばかりにほめちぎる人。まず、人をほめるのに自分を誇示している感じがしていやだった。人気者を、大きな声の迫力で独り占めにしてしまっていた。少しだけ距離を置いて周囲を取り巻いていた、割って入れずにもじもじしている他のファンの人たちの、「近寄りたいけど近寄れない」空気をひしひしと感じた。さほど残っていた客の人数が多くなかっただけに。こういう場では話しかけたきゃ臆せずドンドン行ったモン勝ち……ではあるものの、やっぱりあの、人を押しのけるような大声が周囲の人たちを制していると感じた。その場面 がずっと目に焼きついてはなれない。

 

「ケンカは声が大きいほうが勝つ」などという。音量を大にして戦わないといかん時もある。けれども、音量 が大きいことが絶対的な力になってはいけない。音量のコントロールは《表現》をともなう演出上の力であるべきだ。

 

やってるつもり 2012.9.25

 私の母はかつて病的に神経質、今は並程度の神経質である。なので、当然放射能対策についても相当やかましいかと思ってはいたが、さほどでもないのは、年がいくほど放射性物質に対する健康リスクが低くなるという定説を信頼しているせいか(といっても、低線量 被曝についてはまだ確かなデータはないのだけど)。

 先日、正月ぶりに会った時にその話題になると、どうやら西日本の食材を選んで買っている模様。しかし、その一方で、庭で採れた野菜をフツーに食べているのはいかがなものなのか!? この日、母が私に庭で採れた野菜をくれようというのを、申し訳ないけれども「この後出かける用があるから」と口実をつけて断った。小さな庭で食べられる何かを育てるのは近年の母の趣味であり、それがとても楽しいことはわかっているから、さすがの私も「そんなもの食べるべきじゃない(もっと言えば、人に勧めるべきじゃない)」とは言いづらかったのだ。

 

 前にも書いたことだが、私も外食しないわけではない。産地のわからないものを日々、食べている。また100%西日本の食材を買っていたとしても、対策が完璧であるとは思っていない。だけど、必要に応じ割り切って外食するのと、日ごろ避けている《東京の雨》が降り注ぐ地で採れたものを義理立てして食べるのとは、話が違うように思える。

 

 つまり、この件に関しては《私より神経質でない》母にとって「西日本の食材」を苦労しつつ買い集めることは、ちょっとしたゲームなのかもしれない。たとえばそれは、テレビの健康番組から得た情報で、身体によいとされる食材に夢中になるようなもので。いや、私はその類のことを否定はしない。「これが健康にいいのだ」と信じて夢中になることは、たぶん日々の生活を活性化する役割は担っているだろうから。私が齟齬を感じたのは、同士だと思って話していたら《やってるつもり》を楽しむ人だったという肩すかしを食らったためにほかならない。最初から同士になれないだろう人とはしない話題なので、この線引きの見極めは重要だ。

 

 しかし、《やってるつもり》問題は、いろんなところにあるような気がする。自分も《やってるつもり》になっていることが……あるだろうか。あるとすれば、それが《やってるつもり》にすぎないことを、ゲームがしらけない程度に、心の奥底では自覚しておくのが正しいのじゃないか。

 

子ども服は自由! 2012.9.18

 なんとなく洋服を見たい気分の時は、ファッション雑誌を買う。直接的に購入計画の参考にするためでなく、触発されることが目的なので、現実離れしたような服が載っているような雑誌が好きだ。『VOGUE』『ELLE』『装苑』……、欠かさず買うのは『ELLEgirl』。先月は『Vivi』を買ってみた。ギャル寄りの雑誌だが、コピー含め臆面 もなくブッ飛ばしている感じがあって勢いを感じる。

 とはいえ長年、一番安定して常に面白いと感じるのは『sesame』だ。版元が転々と変わり、今は朝日新聞出版から刊行されている子ども向けのファッション誌。子ども向け……とはいえここで扱われている服は7、8歳くらいまでなので、読者は完全に母親である。このターゲットのファッション誌もいくつかあるが、おそらく一番先鋭的なのはこれ。あまりにファッショナブルすぎて、ときどき「子どものくせに!」と腹が立つほどに。初秋ともなれば大人の流行をそのまま持ってきたようなコーディネイトもあり、さすがに幼児に「女優帽子」はないだろとツッこみたくなることもあるにしろ……柄・デザインの自由さ、ポップなコーディネイトは大人のファッション誌を凌ぐ楽しさだ。

 

 この雑誌の影響もあり、私はずいぶん昔からキッズ売り場をチェックしている。12歳くらいを対象に150cm、160cmまで作っているところもある。しかし、お高いブランドもあるから、コドモ服だからといってなめてはかかれない。「コドモ服の店で見つけちゃったー」という満足感に惑わされない、「コドモ服ならではのデザインであり、しかも自分にぴったりくる」という視点を持って臨まないと失敗するかもしれませんね。つまり、まんま大人の小型みたいな服ならば、わざわざキッズブランドで買うメリットはないので。また、サイズが入ってもシルエットが《コドモ》すぎたり、素材感がチープすぎる場合もあるので、そこは要注意。

 

 私がよく利用するのは、GAPのキッズ。大人向けのGAPでは買い物したためしがないのに、キッズでは男子モノも女子モノもすごく好きな柄に出会ってしまう。値段も安いし、すぐ値下がりするのもありがたい。高いのでそうは手を出せませんが眺めて楽しいのは、ラルフローレンやバーバリーのキッズ。最近はホントに大人ブランドから続々とキッズブランドが派生していて……アナスイなども可愛いですよ。

 

 さて、先日サンリオショップを定点観測がてらに某百貨店のキッズフロアを流した際、ちょっと良い買い物をしてしまった。買い物する気のない時に限って、見つけてしまうものだ。去年くらいから色物のダウンを買おうかなあと思ってなんとなく探しながらピンとくるものがなかったのに、ひと目で気にいるものが! パタゴニアのキッズのXLサイズ、サイズはぴたり、ちょっと余裕があるくらい。点数が多くないのはわかっているので、見つけた時勝負。「この時期に冬アウター買っちゃうのって…勇気がいる……」と店員さん相手につぶやきながら、しかし破格に安かったのもあってここは購入を決断。大人モノも載ってるカタログも見せてもらったけど、やはりこれしかない! 遊びがあるという意味で「おっ!」と思わせるのはコドモの服とインポートに限るなあ。