ダマコラム    2007.4〜8月  →top

☆「夢のある子」って何なのさ?                       2007.12.31

 『〈現代家族の誕生〉幻想系家族論の死』(岩村暢子/勁草出版)を読んだらものすごくおもしろくて、同じ著者の『変わる家族 変わる食卓』(勁草出版)、『普通の家族がいちばん怖い』(新潮社)を続けて読んだ。著者はマーケティングリサーチを本業とする方。いずれも、多くの家族(主婦)から集めた詳細なアンケートをもとに分析した事柄が書かれている。どのくらい詳細かというと、ただ提出されたアンケートを読み解くだけでなく、追取材によってアンケートで書かれた〈よそゆきの答え〉と実際の言動との矛盾を突きとめるとともに、その矛盾点の傾向にまで迫っており、とても読みごたえがあったのだ。

 『普通の家族がいちばん怖い』は、クリスマスとお正月の食卓にしぼって考察されたものである。なんとも興味深かったのは、多くのお母さん(この本では確か対象を1960年代以降生まれとしていたはず)が、我が子にサンタクロースを信じこませようと必死になっているという件である。幼児の頃はいいでしょうよ。でも10代になっても……うすうす気がついてる子を懸命に説得してまで信じこませようとするのは、ムダに力入れすぎでしょ。昔、友人に「両親からのプレゼントとサンタさんからのプレゼントが両方あったせいで、10歳まで信じてた」と聞いてビックリというか半ば呆れたことがあるが、本書にはもっとすごいエピソードも。サンタさんが家族ではない証拠に、毎年「ドアチャイムが鳴って玄関を開けるとそこにプレゼントが置いてある」という小芝居をうつために近所の人まで動員している人がいるそうだ。そんな様を、著者は「子どものためというよりも、信じこんでいる子どもを見て〈親が喜ぶため〉のようだ」とも指摘する。

 で、なぜそうまでして子どもにサンタを信じさせたいかというと、親いわく「夢のある子に育てたいから」なのだそうだ。

 それでいくと、私はかなり夢のない環境で育ったといえる。いちばん印象的だったクリスマスは、5歳くらいのころ。クリスマスの日、真っ昼間に、母が私と姉を呼んでそれぞれの前に小さな包みを置き「開けてみて」と言う。私の包みからはウサギのマスコット人形が、姉のからはヒヨコのが出てくる。「どっちが好き?」と訊く、母。私「ウサギ」。姉「ヒヨコ」。母「……だと思った」。以上、クリスマスプレゼントの儀、終了。子どもながらに「だったらウソでも枕元に置いてくれよ〜!」と心の中で思いましたっけ。あ、ちなみにサンタクロースなるものは一瞬たりとも信じたことはありません。その存在を知るとほぼ同時に家にあった『なぜなに○○の本』という本で、「しつもん:サンタクロースはほんとうにいるのですか? こたえ:いません。そのむかし、セント=ニコラウスという人が……」てな説明をしっかり読んでいたからです。でも、そんな私でも、とってもロマンティックな大人に育っているけどなあ。

 私の親世代は、最後の「学力重視世代」かもしれないが、その後「ゆとり」だの「個性重視」だのといったキーワードを経て、今は「夢のある子」礼賛になっているのか。それにしても「夢のある子」って、漠然とした表現すぎて何を目指しているのかさっぱりわからない。う〜ん、「夢のある子」と「夢見がちな子」は違うのでは? かいつまんで言うとだまされやすい子? ディズニーランドの着ぐるみの中に入ってる人の存在など思いもつかず、なまはげを見ては大マジで泣きわめいちゃ周囲の大人をにんまりさせ、挙げ句の果てには恐怖の大王を信じて宗教団体に入るとか? 

 「夢のある子」。ただただ「常套句」に流されているフレーズ、という印象だけが残るのだ。

 

☆初ダウン購入                      2007.12.24

 私は寒がりである。たぶん、平均より一枚は多く着こんでる……とも言いましたが、その一方で心の底からカッコつけているのでババシャツは着たことがありません。正確に言うと「高機能性インナー」は着ていますが、断じてババシャツは着ないのです! そういえばフリース、薦められたけど着たことないなあ。一度買いそうになったのだけど、なにか相容れないものを感じてブレーキがかかったのだ。

 今までダウンジャケットが視野に入らなかったのは、「コレで自分がカッコつけられそう」なイメージがわかなかったからだろう。女性のダウンでいうと、Aラインみたいにデザインされた長めのダウンコートはかさばるからイヤ。冬でもショートパンツでヒールの高いブーツをはいてるお嬢さん方が前をばっと潔く開けて着ているようなものも、意外と合わせる服によっちゃダサくなる(つまり合わせるアイテムにお色気がないとダメなんだな)。ブルゾンぽい丈のものは、私が着るとなんだか「体育」っぽくなってしまってカッコわる! かといって尻の隠れる長さはババくせっ!

 と、街行く人を観察しながらダウンについて考えて条件を絞りこんでいたら、あっけなく「これぞ」というものに出会って衝動買いした。腰骨くらいの理想的な丈。開けてよし閉めてよしのシルエット。そんで今どきの常識、ダブルファスナー! とにかくあんまり軽くて暖かいので驚く。世のみなさんが薄着なわけだよ、と納得。雪でも降ればいい。雪合戦したいぞ!

 ダウンって水に濡らしちゃいけないのかな?

 

☆虚弱を自慢する人々                            2007.12.18

 私は寒がりである。暑いのはがまんしやすいが、寒いのは苦手だ。心の中では「八甲田山はこんなもんじゃないぜ」と思えども、体が硬直してだんだん動かなくなっていく。だから冬の外出は、夜になってもっと寒くなっても困らないように万全の備えで出かける。たぶん、平均より一枚は多く着こんでると思う。ベースのソフトケースには一年中、予備のストールが一枚入っている。

 先日そんな話をしていて「冷え症ですか?」と訊かれ、即座に「いえ、冷え症ではありません、ただの寒がりです」と返した瞬間、「ああ、私は冷え症と名乗る人はカッコ悪いと思っていたのだな」と気づいた。冷え症と寒がりを医学的に線引きするのは難しそうだ。だが、私は断じて「寒がり」と自称するのだ。

 「冷え症なんです」と自己申告する瞬間、その人は独特の甘えをたたえている。私はおそらくあれが嫌いなのだ。「それしきのことを」……と言ったら冷え症に苦しんでいる人には悪いが、あの「弱さを宣伝する」感じが嫌いなのだ。「私、あまり丈夫じゃないんです」という人にもときどきお目にかかるが、私は少なくとも普通に学校に通って難なく卒業できた人は十分に健康だと思っている。「私って〜〜な人なんです」というフレーズのもつイヤさについてはすでにいろいろなところで話題にのぼっているけれど、これら健康にかすってる話題での「私って〜〜な人なんです」は、つっこんじゃいけない聖域のように思わせるところが狡猾なんである。

 「冷え症」「丈夫じゃない」に次ぐ、かるく虚弱ぶりたい人の「私って〜〜な人なんです」フレーズの極めつけは、なんといっても伝家の宝刀「低血圧」ね。私も低血圧だが、「私、低血圧で……」と切り出す人には、必ず「でも、低血圧は病気じゃないんですよ」と言っておく。私は親切で言ってるつもり(笑)なのだが、こう言われて「なーんだ、そっかあ」と喜ぶ人はいなくて、多くは聞かなかったような顔をする。あ、病気じゃないってのはホント。高血圧に対しては治療の必要はあるけど、低血圧の人に血圧を上げるための指導なんてしないんだもんね。

 幼稚園のときの学芸会で、クラスでは虫たちが登場する劇をやった。私を含めて「ちょうちょ」役の女の子が数人いた。先生が「カマキリさんにつかまる役になりたい人は?」と訊いたとき、私はみなが手を挙げたのにひどく驚いた。だって、つかまっちゃう弱い子の役だよ。なんでそんなものになりたがるんだろう? こう思った私の中に、はかなげなヒロイズムを解する心は、昔も今もない。

 

☆三つ子の魂百二十まで                        2007.12.10

 友人らの幼いころの話などを聞いていると、つくづく人は結局あまり変わらないものだなと思う。もちろん、性格を自分で変えていくことはできる。興味深いのは、好きなものの傾向だ。「趣味」はどうやって育っていくのだろう。たとえば同じ家で育っているきょうだいでも、趣味は異なる。きょうだい間の場合では、互いに「差別化したい」という意識が影響するかもしれないが……。それにしても、同じものを見てもみな違うポイントにひっかかり、それが積み重なって各自の好みができていくと思うとおもしろい。

 先日、図書館で『世界のおばけ話』(偕成社)という本を見つけた。小学1年のころ愛読していた本で、ぜひもう一度読みたいと思っていた。当時、この本の「ロカルノ城の女こじき」「道ばたのしゃれこうべ」という2編が好きで、特にコレで覚えた「しゃれこうべ」という言葉は使ってみたくてたまらなかったものだ。さて、読んでみると「ロカルノ城の女こじき」は記憶違いで、正しいタイトルは「ロカルノ城の女ゆうれい」だった。虐げられた女こじきが化けて出る、という話。文中に出てくる「女こじき」という語感が気に入って、覚え間違えたのだろう。私は幼いころから「こじき」に注目する傾向がある。同じく小学低学年ごろ読んだ『鉄腕アトム』でも頻出する「ルンペン」が気になっていたし、小学高学年で中学生たちの文芸同人誌のようなものに参加した時は太宰の『乞食学生』を絶賛したりしている。今私の本棚に『日本残酷物語』『乞食の精神史』などが並ぶのは、もとをたどると「ロカルノ城の女ゆうれい」のせいかもしれない。

 私は小学2年で初めて『ベルサイユのばら』を読んだのだが、当時一番好きだったのは、マリー・アントワネットの義父・ルイ15世が天然痘で死ぬ間際の顔のコマなのである。オスカルでもアンドレでもアントワネットでもなく……私はルイ15世のあばた顔が描かれた小さいコマを見るために、そのページをくり返しくり返し開いたものだ。ああ、自分だなあ、としみじみ思う。

 

☆処分の法則                      2007.12.3

 『DO!3』の会場フリマで小規模古本屋をやろうと、20冊くらい見繕うことにした。あまり考えてる時間もないので、PCデスク横の棚に積み上がってる100冊ほどの山からささっと選ぶことにした。ここは新しい本ばかりが積んであるゾーン。ある人が「本の処分法」として書いていたことに「読んでない本から処分しろ」というのがあった。つまり、「一回読むとその情報は頭の中に蓄積されるから、その人にとって『資料』=必要な本となってしまう。(『あれが書いてある本はどれだったかな?』という対象になるってことです)。だから、未読の本こそ処分してよい本なのだ」という理屈。なるほど! これには目からウロコが落ちたものです。全然読んでない本とちょっとだけ読んだ本、きれいな文庫ばかりを選んで持っていく。「ねこまん書房」は一冊50円、お買い上げいただいた皆さん、ありがとうございました。またやります。

 そうして20冊ばかり減ったところで、まったく視界は変わらない。まあ、最近小さい貸し倉庫を借りた友人がいうには、「段ボール20箱ほど移動したけど別に部屋が広くなった気もしない」だから当たり前か……。

 

☆Tタッチングキャッチなんとか練習U                            2007.11.26

 小学6年生まで小説家になろうと思っていた私は、本当に毎日毎日何か書いてばかりいた。どれもひどいものだが、量だけはずいぶん書いた。オリジナルのつもりで書いていたのは「こういうものが書きたい」とイメージした作品の模倣である。ミステリーみたいなもの、SFとファンタジーが混ざったようなもの、童話みたいなもの、オカマやホモやSMまで出てくるコメディのようなもの、などなど。

 さて、幼稚園生の終わりごろから書き出した「りすのコロン全集」(なぜか最初っから全集とついているところが図々しく、幼児ながらムカつくな)は、中でも一番どうでもいいお話集である。コロンという名のりすの小学生の男の子が主人公。たしか200章くらいまで書いたはずだが。とにかく自分の体験したことや見聞きしたこと、憧れていることが、そのまま反映される。つまり、私が遠足に行けばコロンも遠足に行くし、私がバレエ漫画に熱中すればコロンはバレエのコンクールに出たりするわけである。

 その中でひとつ、今でもときどき思い出す謎の章がある。はっきりした名称を思い出せないのだが、Tタッチングキャッチなんとか練習Uとかいうのをコロンとその友人たちが行う、という話だ。これは……うまく説明できないのだが、だれかが《何か》を空中に投げ上げ、それを他のだれかが受けとめずにまた空中に投げ上げたり壁にぶつけたり火であぶったり……と、数人の手を渡るうちに……《片づく》のではなく、当初の何かとは形の違う新しい物ができる。ということを狙いとするゲームのようなものである。

 こういう練習を日々やっておいたために、《何か》が飛んできた時にうまく処理できて「めでたしめでたし」という話なのだ。

 ポイントは、これに参加する全員が、同じ目的を持って結末に進んでいくのではないことである。キャッチした人は、自分の意志と瞬発的なアイディアで《何か》に加工を加える。最終的には、それぞれの狙い通りのものはできない。たとえれば、何を作るか決めないで料理をリレー形式で行うような感じだろうか。この話を書いた時、私はイメージしたような事例が書けず煮え切らない気分でいたのだけど、たぶんこのTタッチングキャッチなんとか練習Uというのは、当時も、それから今も、私がやりたいことのような気がしている。

 

☆今週の、素敵な読み間違い                            2007.11.26

 雑誌の広告ページに「狂った男をゲット」とあったので、「ふむふむ最近はニーズが多様化しているな。まあみんな自分の好みに正直にやるがいいさ、けっこうけっこう」と思いつつよく見たら、本当は「狙った男をゲット」でした。

 

☆どうでもいいことを書く技術                        2007.11.19

 雑誌を見てたら、レストランの外観写真にすごいキャプションがついてた。「まるでパリの街角のような外観」だって。

 む、むなしい……。体の中を風が吹く(by佐多稲子)。

 いや、別に書いた人がパリの街角を知ってんのかとか、そんなのはどうでもいいのさ。気になるのは、今、「パリの街角」とか言われて「まあステキ」と思う人がいるのかどうかだ。いねーだろぅ!? だってステキって思うような人はとっくにパリなんか行ってるだろうし、本物のパリの写真なんかそこらへんにあるじゃないか!

 こういう、別にさして書くこともない場所にキャプションを入れなきゃならない苦労はわかる。説明不要な写真に、なんか一文いれなきゃならないデザイン的な、バランス的な理由はわかる。そう、世の中には「どうでもいいこと」を書かなきゃいけない原稿仕事・コピー仕事って実に多い。「なんか書いてあるな」って雰囲気だけでいいんだろう、ものが。だいたいキャプションなんか見ない人もいるだろうからな、適当なこと書いておきゃいいんだろうけど…適当だったらかえって楽しむべきじゃない? 

 遊ぶのが許されない原稿ならば……とにかく読み手が萎えるよりは軽く読み流せる、読み流せて意味のないキャプションを書いてくれ! どうせ意味がないなら「外壁の青と白のコントラストが美しい」のほうが、まだ素直に「そうだね」って思えるのだが、というハナシ。

 

☆ご婦人はKENZOがお好き?                      2007.11.12

 商店街の花屋の前を通りかかった時、ものすごいインパクトの花束に目が吸い寄せられた。深い青のりんどう、赤紫の小菊。それから黄色の、かなり細長い花びらが放射状に飛び出している菊(スプレー菊とも違うなと思ったら「佐賀菊」という品種だそうだ)。それらを束ねたど真ん中に、朱に近い赤に白のまだら模様が入っているでっかいダリアが。

 「うわ、KENZOだ!」と思った。賞味期限切れかかりの花で作った、お買い得の束。その迫力に見惚れていたら、奥から50代くらいのおばさんが出てきた。最近、町にはこじゃれた花屋が増えた。どこでも、すぐにテーブルにお飾りいただける小さいブーケやTアレンジメントUを用意してある。雑貨的というべきオシャレなものが多いのだが……同系色でまとめてちょいと異素材感をプラスするとか、そういうテイストにもそろそろ見飽きた私にとって、この花束はかなりの衝撃だった。この「KENZO」ライクな花束は、センスあふれるお若い方の花屋じゃ作れまい! 

 そりゃもうバリバリのKENZOやHANAE MORI育ち、「花柄好き」にかけちゃ一日の長であろう世代に敬服しつつ、735円の花束を買って帰ったのであった。

 

☆今週の、素敵な読み間違い                            2007.11.5

 平積みになっていた須藤元気氏の本。『風俗のあの人と結婚する方法』。なるほど、うっかり風俗の女性に本気になっちゃった場合に、どうやってホントの恋人にするかというハウツー本なのね。ニーズ高そう、と思ったが。

 よくよく見ると『風の谷のあの人と結婚する方法』というのが正しいタイトルで、なかみは至って清潔そうな感じでした。目が「にんべん」をフライングしたもよう。

 

☆私の夜回り先生                        2007.10.29

 液晶テレビしか持たないので、当然ビデオは見られない。パソコンでDVDは見られるものの、増やさないようにしてるので数枚しか持ってない。そもそも映画は映画館で観るのが《本当に》好きなので、DVDを借りてくることも滅多にない。おっと私は映画ツウじゃないし映画ツウを気取ってるわけでもない。家で鑑賞するのが好きでないのは、自分が映画を途中で止めることができる立場になるのがおもしろくないためだ。

 などと、またたいしたことないことを大上段に言ってしまうのですが、まあDVDを買わないようにしてるのは単純にかさばるものをこれ以上増やしたくないから。という私が、よもやデアゴスティーニに手を出すことになろうとは。

 そうです。『隔週刊 刑事コロンボDVDコレクション』であります。本屋で1号を手に取る。慣例で1号は特別定価。790円とお安い。2号目からは1500円となる。全45号。けっこうな値段になるな。ブックはショボい。かなり昔の映画パンフレットに負ける。これから毎号語るネタがあるのか心配になってくる。おそらく巻を追うごとにさらにショボくなっていくんじゃないか。私は、しげしげと見てから棚に返した。

 しかし、やっぱり気になるのである。ああ、今後コロンボの全巻が手に入るチャンスなんてそうはないんじゃないか。私は次の日、取材から帰る電車の中で、広告代理店のN氏にその話をしてみた。N氏は言った。「それは買っていいですよ」と。

 ふっきれた。物を買うのに悩んだりしない私が、今度ばかりは躊躇していたのだけれど……背中を押してもらうっていいもんですな。こう言ってもらうが早いか早速買って帰る。2号以下は定期購読でいきます。後戻りできぬよう!

 かように「いいんだよ」という言葉の持つ推進力というのはすごいものである。夜回り先生のありがたさを、疑似体験した気になった。

【付記】まさかとは思いますが「夜回り先生」を知らない方は、すぐに本屋に行って「夜回り先生ください」と言ってみましょう。たぶん水谷修(=夜回り先生)の書いた本か、土田世紀がマンガ化してるものか、どっちか出してくれるでしょう。「いいんだよ」という全肯定のキラー・ワードで日本中の迷える子羊の心とろかすキングオブ教師。ちなみに私は当初、新手の「学校の怪談」みたいなものかと勘違いしてました。

 

☆文庫をおまえのポケットに! 文庫をおまえのポケットに!                      2007.10.21

 私はコレクターではないので、本を買う時に初版かどうかを気にしたことはない。値段は安いほうがいい。大きい本はきらいじゃないが、収納スペースを考えるとかさばらない文庫はありがたい。今はまたちょっとした文庫ブームに入っているようで、どんどん新しい文庫レーベルが立ち上がっている。長く絶版になってて入手しにくい本…古本屋で高値がついてたような本があっさり文庫で復活して、喜んだりがっかりしたり。しかし、ノンフィクションには文庫化の際、「増補改訂版」とか「完全版」になってるのが多くて悩ましいぜ。

 近年、楽しみにしてるのが創元推理文庫&SF文庫の復刊フェアだ。今年は、長いこと読みたいと思ってた『六死人』(S=A・ステーマン)が復刊! 復刊ラインナップを見ると、『フレンチ警部の多忙な休暇』(クロフツ)、『暗号ミステリ傑作選』もいいな…と思うが、ここで踏みとどまらねば。「復刊」と言われるとつい狂喜して暴走してしまいそうになる自分に、待った。このリストの中でも古本屋で300円くらいで買えたものもあるもんな。新刊だと倍はしてしまう。去年、河出文庫でマンゾーニの『いいなづけ』(上中下巻)が出た時喜んでまとめ買いしてしまったが、1冊1000円。これはフライングギリギリか…。

 最近の河出文庫はすごい。河出には何年かおきに「すごい」と思わされるてるような。『幻の下宿人』(ローラン・トポール)、『黒いユーモア選集』(ブルトン)は即買ったけど、こういうの、そんなに売れるもんかしら。セリーヌやユイスマンスも文庫化してみせる河出文庫ですけれど。個人的にはあの背表紙の黄色がちょっとひっかかる。あれがもう少し中公文庫的に無味無臭な感じなら、もっとザクザク買ってるのに。

 結局一番目にふれる「背表紙」は大事。私が好きな背表紙ナンバーワンである昭和50年代くらいの角川文庫で、先日掘り出し物を発見。先に挙げたステーマンの『マネキン人形殺害事件』だぁーっ! ちなみにこの作品、抄訳が雑誌に紹介されたことはあったらしいが、これが本邦初完訳。400円で購入。昭和51年刊行当時の値段は300円。これは合格じゃない?

【付記】タイトルはラップ風に読んでください。

 

☆こん棒を求めて                             2007.10.14

 子どもの頃、本の中に登場する未知なる《物》に憧れ、いつか自分もそれを持ちたいと思う……そんな体験はだれにもあるだろう。よく私が思い出すのは『点子ちゃんとアントン』(ケストナー)の、クライマックスの一場面だ。メイドのベルタが(※今どき想像しがちな秋葉原的なメイドではなく、よく肥えたおばさんである)、家に入ってきた強盗の脳天に一発くらわす。手にしているのは「こん棒」とある。

 こん棒! 私はそれに強くひかれた。こん棒。ときどき耳にする言葉だが、どこの家にもあるもんじゃない。本作の設定では、点子ちゃんが「体操で使っているもの」ということになっている。体操競技用の「こん棒」か。挿し絵では、バット並みの長さに描かれてるけれど。辞書で「棍棒」をひくと、「体操用」の定義が出てくるのは2番目。1番目に出てくるのは……くわしい説明だと「太くて長い木の棒」、短いのだと「棒」と一言ですませている。

 とにかく私は『点子ちゃんとアントン』を読んで、猛烈にこん棒に憧れたのだ。一家に1本こん棒を! こん棒を使いこなす人こそ、真の大人である、と。

 残念ながら、まだ私はこん棒を手にいれていない。金属バットは持っているが、ここはやっぱり木がいいよ。こん棒にまあ近いのは、大きいまな板か……と、私は日々暴漢にまな板をたたきつけるイメージングを欠かさない。しょっちゅうサバイバルな状況のイメトレばかりしているんだが、これは大事なことだと思う。暴力から遠ざかっている私が、やるべき時にきちんと暴力をふるえるかどうか? ふだん「まな板」として機能している板を、いざという時躊躇なく人の脳天に振り下ろせる人間に、私はなりたい。

【付記】私がこん棒という言葉に初めて出会ったのは『点子ちゃん』よりさらに前、小学低学年のころ愛読した『ウサギどんキツネどん』だったかもしれない。たしか、農場の人が畑を荒らす動物をこん棒で追い立てていたのじゃなかったか。これも「棒」と訳されるのと、「こん棒」と訳されるのとではまるで印象が違ってくるのでは。こん棒のが俄然本気っぽいと思う。

【付記2】こん棒についで、私が大人の持ち物だと思うのはシャベル(スコップではなく大きいやつ)と頑丈なロープである。ロープ結びをマスターするのは大人のたしなみではないかな。 

 

☆原稿を書く、小説                        2007.10.8

 川端康成は国内作家ベストテンに入る好きな作家なので「川端康成文学賞受賞」という冠がついてる本に、つい手を伸ばしてしまう。小池昌代は一度、読むのを挫折したことがあるのだが、そういうわけで『タタド』(新潮社)に挑戦した。三編収録。タイトル作はあまり好みでなかったが、『45文字』という作品がおもしろかった。無職状態の主人公が、一人で編集プロダクションをやってる友人にばったり出会い、山積みの仕事を手伝わされる。美術全集の編集で、主人公は絵画の下に「45文字max」という条件でキャプションを書く仕事をやらされるのである。作者や作品についての専門的な情報は、別の本文に専門家が書いている。キャプションには、見る人の想像力をちょっと刺激するようなことを書かねばならないのである……限られた文字数で。

 手前味噌な言い方になって申し訳ないが、この作品はおそらくライターの人が読んだらより楽しめるんじゃないだろうか。おっと、苦しいと思う人もいるかもしれませんね。だけど。雑誌の編集部かなんかを舞台にしたちゃっちいお仕事青春小説よりは、こっちのほうがずっとおもしろいと思うが。最近エンターテインメント分野では多いですね、《お仕事》現場を舞台にした、仕事の内幕を描きつつ青春群像コメディみたいな小説。

 校正者が主人公の小説なんてないのだろうか? 知ってる方はご一報ください。

 

☆彼岸花                              2007.10.1

 キンモクセイの香りには敏感になっていて、あやつらが花をポトポト落として存在を強く主張しはじめるより早く、「咲き始めた」ことに気がつくことができる。

 しかし、彼岸花には負ける。

 ふと川べりを見たら、彼岸花は群れをなしてすっくと立っている。ずっと前からこうしてましたというような顔をしていて、ああいうものには強いなあと思わされる。

 

☆やっぱり児童書侮ることなかれ!                             2007.9.23

 今月頭にもイレギュラーのブックガイド仕事があったので、いつもに増して本が積み上がっていたのだが……今度は児童向けのブックガイド仕事が舞いこむ。頭の中でざっくりリストアップしつつ、喜んで書店へ向かう。想定する読者年齢にレベルかあってるかどうか、実物を見てグレードを確かめないといけない。

 児童書の充実してる店にくるのはひさしぶりなので心が騒ぐ。そうだ、リンドグレーンの『サクランボたちの幸せの丘』ってのが徳間書店から出てたはずだから買っとかなくちゃ。リンドグレーンといえばかつてはイコール岩波書店だったんだが、ここのところ徳間から初期作品を中心にいろいろ出ること。それにしても徳間の「BFT」(Books for Teenagers)というレーベルは本当にラインナップがいいので感心してしまう。

 くまなく見てるうちに、びっくりする本を見つける。『マチルダばあやといたずらきょうだい』(あすなろ書房)。いかにも児童書という平凡なタイトルだが、作者がクリスチアナ・ブランドって、あのミステリ作家のクリスチアナ・ブランド? 『緑は危険』とかの? プロフィールを見てみたら、まさに同一人物でした。ふぎゃっ。児童書も書いてたとは知らなかった。買い。クリスチアナ・ブランドといえば、ミステリのオールタイムベストテンなんかやると上位に入ってくる作家。日本では人気が高いというし、余計なお世話だが翻訳ミステリのコーナーにも置いてみちゃったらコレクション趣味の強いミステリ好きがうっかり買いそうじゃない? 

 そのあとさらなる驚きが。『ユーリーとソーニャ ロシア革命の嵐の中で』(福音館書店)。ぬおっ、アンリ・トロワイヤの自伝的作品、ですって! 10代の少年少女を主人公とした作品だし福音館書店だし、ここの棚にあるのは当然なんだけど、でも、これまた余計なお世話のようだが翻訳文芸のコーナーにも置いてみちゃったりすべきものじゃないの? なにしろゴンクール賞作家、食らいつく文芸好きはいそうな気がするが。

 最近は、海外の児童文学作品が児童書や YAレーベルではなく一般書で出ることもよくある。アメリカの有名な児童文学賞であるニューベリー賞受賞作だと、ルイス・サッカーの『穴』とか、ケヴィン・ヘンクスの『オリーブの海』とか。リチャード・ペックの『シカゴより好きな町』なんてよくぞ一般書で出したよなあ。判断が難しいところだが、児童書扱いだったらそこまで売れたかどうか。まあ国内作家でも、江國香織もあさのあつこも佐藤多佳子も、森絵都だって児童書出身ですわよ。真の本好きならば、カバーに惑わされることなかれ! くまなくチェックを怠ることなかれ、です。

 

☆お母さんのいうことはきかない                         2007.9.17

 前に「スパッツ」が流行ったときには、ここまで浸透しなかったと思う。今はなぜかスパッツでなく、「レギンス」と呼ばれるそれは。スカートやワンピースの下にステテコみたいなのをのぞかせている姿は、最初のうちこそお母さんに文句を言われそうだが、見慣れてくるとだれも不思議に思わなくなる。先日、近所で見かけたじいさんはこんな出で立ちだった。えりのある白のシャツ、かなり色あせた感じのベージュの半ズボン、そしてその下から七分丈の白いステテコをのぞかせている……。全身のバランスが最高に素晴らしかった。私は心の中で、じいさんを讃えた。それなんですよ、あなたが自然に体得しているナイスな着こなしこそ、現代の女性がファッション誌を見ちゃこぞって研究している黄金バランスなのであります、あなたこそ真のおしゃれマスターである、と。

 スパッツどころか、スカートの下にパンツをはくなんてのも今や普通であるが……私は、幼いころの母との会話を思い出さずにいられない。幼稚園のころ。私がスケッチブックに描いてた女の子のファッションを見ての、母の感想は「スカートの下にズボンをはいてるなんて、変」であった。う〜ん、幼児の絵に対してあまりに大人げなく常識的すぎる言葉では(笑)! 女の子どもの多くは洋服を描くのが好きで、しかもちょっとしたデザイナー気取りで、なるべく《個性的なデザイン》の服を描きたいと願っている。当時だって、チュニックの下にパンツ(ベルボトムとか)をはくスタイルはあったわけだから、私はそれを真似たのだろうが。

 私は母に、「いいんだもん」と返した。「変」と言われたことに落ちこんだりしなくてよかったと思う。口にはしなかったけれど、内心では「そんなことを決めつけるお母さんのが変」と強く思っていて、だからこそこの会話はとても印象に残っているのである。

 

☆鼻をほじる                              2007.9.10

 ここに『鼻ほじり論序説』(ローランド・フリケット/basilico)という本がある。仕事用の本を漁りに池袋のジュンク堂に行って、見つけたのである。こういう本と出会えるのは、やっぱ本屋の店頭ならではだよ。

 内容は、鼻ほじりの歴史やその方法(アップ・アンド・アンダー、旋回抜き差し、リドル・ツイスト、コルシカ突きなどなど、いろんなほじり方が)、鼻ほじりに関するQ&Aとか鼻ほじりのテーマ曲とか。帯には「セックスより愉しく、しかもリスクなし!」「人類史上最古、最高の快楽『鼻ほじり』」などと書かれている。世の中には「えっ?」と思っちゃうようなバカげた本がたくさんあり……私はそういうふざけた本ばかりをいちいち集める趣味というわけでもない。ええ、つまりは素直に鼻ほじりに関心が高いのである。

 本書の中には「女性の多くは、鼻をほじっていることを認めない」というような一文がある。

 えっ、そう? みんな、ほじってるよね? 私はもちろん、毎日ほじってますよ。うまくとれると、気持ちよいじゃない。さっぱり度としては、鼻をかむの比じゃない……というか、鼻をかむのとはまったく別ジャンルのものだよね。

 「鼻くそを弾けば、鼻ほじりはもっと愉しくなる!」とも書いてある。そうだろうな。残念ながら、何年も鼻くそを弾いたことはない。最後に弾いたのは、さすがに子どものころだろうな。しかし、俄然弾きたくなってきた。これは、別のものじゃ代用がきかないと思う。たとえば消しゴムのカスを弾いてみたって、別におもしろくないだろう。自分でほじくって(ピッキング)ほどよく丸めた(ローリング)鼻くそを弾く(フリッキング)から愉しいんだ。ふむ。道路にツバを吐く人は好かないが、鼻くそを弾く人はなんだかユーモラスに見えそうだ。

 フリックを嫌う相手には、目の前でにっこり笑って食ってやれ、とも書いてある。おお、なんと過激な本なのかしら!!! ええと私が最後に鼻くそを……(後略)。

 

☆きれいなもの                             2007.9.2

 たまにのぞく器屋さんの前を通りかかったらセールをやっていた。閉店セール! 残念だ。小さいお店だけど、リーズナブルなものからセット5万円くらいの漆器まで、素敵なものを集めていて好きなお店だったのに。すでに多くの品が売れてしまったらしく、棚はすいている。50円、100円で売られている、在庫の奥から発掘されたとおぼしき古そうなものに目がいく。

 いいものを見つけた。白いビニール袋の中に、プラスチックのスプーンがいっぱい。透明なピンクと、透明な緑。店主いわく、お祭りの時などに使う、かき氷の使い捨て用スプーンなんだそうである。迷わず買った。こんなにたくさんあってどうするんだ、という声が自分の中から聞こえもするが、いや、「たくさんあるから」欲しいのだと思う。5本や10本だったら買わなかっただろう。ひと袋で100円。

 家に帰ってほこりっぽいそれを洗い、数えてみたら76本あった。美しい。ふきんの上に山になっているだけで美しい。役に立ちはしないけど、きれいなもの、おもしろいもの、琴線に触れるもの……ちびちびとそういうものを積み重ねていくとどんどん居心地がよくなって、いつも機嫌よく退屈せずに暮らせるのだと思う。