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私の日常装備  2011.8.29

 ふだん、都内をウロチョロしてる時の私の荷物は、人よりいささか多めに違いない。大荷物の女、カッコ悪いかね? できれば身軽でありたいもんですよね。でもね、なんでもかんでもカバンにつっこんでるわけじゃなく、中味はけっこう厳選されているのである。

【平たいB6ポーチ】折り畳みはさみ、ペン3〜4本(筆記具不安症なので本数が必要)、ちぎれるメモ帳、+ときどき付箋ケース

【ハガキ大くらいのメッシュポーチ】マスク2つ、ウェットティッシュ、汗ふきシート、ジップロック(B5くらいのをたたんで)

【小さめポーチ】携帯電話用の電池式充電器、新品の電池4本

【化粧ポーチ】リップクリーム、口紅2本、グロス1本、ファンデーションのコンパクト、ティッシュ、小さいライター、小さく畳んだレジ袋2〜3つ、小さいジップロックに入れた常備薬とバンドエイド、太めの輪ゴム2つ、安全ピン、カイロ1個、ダイエーホークス時代の王監督が胴上げされてるトレカ←心の支え

【飴用のケース】個包装の飴が常に7〜8個。※もちろん栄養補給のため。この夏は塩分強化の飴がレギュラー。

 キーホルダーには、アーミーナイフとミニ懐中電灯とホイッスル(助けを呼ぶやつね)。

 手帳、ハンカチ(夏場は手ぬぐいが多い)、コロン、ストール1枚、ペットボトル、天気のいい日はサングラス(肌の日焼け対策は忘れがちだが、目だけは大事にしている。あと電車内で寝こける時バカ面 さらさないで済む)、超軽量折りたたみ傘(放射能雨には絶対濡れない決意で毎日所持)……それから本1冊くらい。

 おわかりのように《念のため》《まさかの時のため》に用意しているものが多い。震災後にプラスしたのはマスクくらいで、以前からこれが標準装備。ストールは真夏のどんなに暑い日でも1枚。冷房のキツいところ対策って意味もあるけど、万が一どっかで仮眠とらなきゃならなくなった場合に、1枚あると違うんだよね。

 ……と、日ごろがスクランブル対応の装備なので、1泊や2泊の旅行してもあんまり量 が変わらない。むしろ旅行の場合には、人より(女性と比較するとして)相当荷物が少ないんじゃないかな。旅行の場合にこれにプラスするのは、着替え(下着はともかく、要件にもよるがトップスは1枚あればなんとかなる。ボトムは同じの着てる。どうしても耐えられなくなったら現地調達すればいい。ユニクロは全国どこにでもある! あと、着用してく以外に吸水のよいキャミソールを1枚持ってくくらい。ホテルで洗えばすぐ乾く。これで全部A4のジップロックに入ってしまう)。メイク道具は相当少ないほうなので、ミニボトルに入れた化粧水、下地クリームとコンシーラー、アイメイク用のペンシル2本くらいを普段使いのポーチに入れれば事足りる。洗顔剤とかは宿にあるし。

 三角だたみにしたレジ袋は、よく使うバッグのポケットとか、いたるところに仕込んである。いろんなところで使うものですよ。大人の嗜み!ジップロックのは、濡れたものとかを入れなきゃならない時に役立つ。

 先日、購入を迷ったのは、小さなケースに入っちゃう折りたたみの靴。見た目バレエシューズみたいな、ゴム底のやつね。私、長距離歩けないほど高いヒールを履く用はほとんどないけど、そういう時に震災に遭ったりしたら困るではないか。やりすぎ? いやいや備えあれば憂いなし、ですってば。やっぱ買っとくかなあ……。

 

☆自信と根拠の関係を解く  2011.8.22

「根拠のない自信」という言葉がある。何の裏づけもないけど「できる」自信がある、というやつ。では、「根拠のある自信」の場合の、「根拠」とは何なのか。成績、実績、経験年数とか経験値? 「根拠のない自信」が自分の思いこみなら、「根拠のある自信」は他者からの支持や評価(数値的な成績を含む)ってことになるか。少しややこしくなりすぎた。この時点で、《自信》と呼ぶのは矛盾してるかもしれないが、「根拠のある自信」は、「他者からの評価の上に裏づけされる自信」と定義しておこう。

 このように表裏を比べてみると、なんだか《根拠がある》ほうが脆いものに見えるから不思議である。印象的な「実績・評価」だけでなく、数値として記録されるそれにしたって、ふっと忘れ去られもする、価値が変わることもある。

 「根拠のない自信」は、自分の力を信じる夢と希望でできている。少しでも《根拠》が生まれてしまったら、それは「根拠のない自信」ではなくなる。

 つまり、純度が高くないと……中途半端に《根拠》が混ざりこんでしまっては「根拠のなさ」の有効性がなくなるのだ。

 そこそこ評価されて、根拠を4割くらい持ち続けているのは辛いかもしれない。夢にも現実にも寄れないポジション。だがしかし、実際に「根拠0%→根拠100%」まで走り抜けられる人はごく少ないだろう。となると、根拠2割だったり、6割だったりする状態を直視するのも大事なことではないか。

 白黒はっきりしてるほうが気持ちよいけど、そうはいかの金玉よ。グレーゾーンを悪いものと見なすのではなく、グレーゾーンをよく生きる方法を考えるべきだろう。 

「根拠のない自信」が、本人曰く「まだ本気出してない」怠け者および勘違い野郎の合い言葉だったりすることも、往々にして、ある。だけど、それでも自信がないよりあるほうがよっぽどいいよ。少なくとも本人はそれだけでも機嫌よくあれるじゃないか。その先、生産性を求めるかどうかは、一人でご満悦である以上の幸せを欲したときに、それぞれが考えればいいのじゃないか。

 さて、「自信がない」という悩みがいかに馬鹿馬鹿しいかを言っておこう。「根拠のない《自信》」のないことに苦しむのは、もとから根拠なんてないんだから愚の骨頂。自信は思いこみ、自家製の応援、あるいはひいき目だ。「根拠のある《自信》」は絶対量 の操作が不可能なので、これに考えをめぐらすのはもっと無駄。

 

簡単な言葉に依存する、その幼さ  2011.8.15

 「勇気をもらう」とか「元気をもらう」とか。昔はこういう言い回しはなかったように思うが、いつごろから使われ始めたのだろう。若い人ばかりが使っているわけではなく、自分と同世代も……いやいや老人も使っていたりする。メディアによって広まった、使いやすい言葉なのか。

 私はこの言葉の《意味合い》について違和感を感じているのではない。自分じゃ口にしたことも書いたこともないから本当に気恥ずかしいけれど、《勇気や元気や活力をもらう》ってこと、私だってありますよ、もちろん! 気になってしまうのは、その《内容》に比べて、あまりに言葉が軽いことだ。まるでお菓子をもらうとか、おこづかいをもらうみたいにさ、もらったもらったと一言でサラッとすます。その軽い感じがイヤなんだ。いただきました、間髪入れず即、ごちそうさまでした、って言っちゃうみたいな。

 同じ類で嫌いなのが、「泣けた」「泣ける」って言い方。これも《意味合い》に文句をつけるつもりはなく、ここまで濫用されていなければカンにさわりやしないんだろう。進んで泣きたがる、泣くことのできる「ネタ」に出会いたがる姿勢、「今日も感動しております」的なアピールにしらける。感動するのはいいよ。その素晴らしさを周囲に伝えたい? それもよかろう。だけど、ならば余計にそれしきの軽い言葉でちゃっちゃと感動を《消化》してしまうのはつまらないことだ。黙って、心の中でその感動を抱き、ひとり静かに涙を流していたっていいじゃない。ネット時代の今はより「いいものを広めよう」とする姿勢がよしとされてて、それに反対を唱えるつもりはないけど、めったやたらとふれ回れば有効ってわけじゃない。

 文法的なことを云々言うのは野暮だけれど、どちらもコピー的な言葉ではあるね。

 そういやひと昔前に「感動したっ!」ってのがはやりましたっけね。シンプルな言葉で威勢がよいのがウケたみたいだけど、私は幼い表現としか思わなかったな。言えばいいってものじゃない。自分にとって大事な感情が生まれたのならば、それを、ハナから《圧縮された言葉》で簡易に処理してしまうのはもったいないことだと思う。

 大きい声ではっきりと言えば伝わるかといえば、そうではない。そのレベルでよくできました、と賞賛していいのは、せいぜい10歳くらいまで。

 

☆総合力で勝負せよ  2011.8.10

 「何かひとつ、好きなこと、夢中になれるものを見つけなさい」ってフレーズをよく見かける。このように語る人は、おそらくその《ひとつ》に出会い、それだけに心血を注ぎなにがしかの結果 を得た経験からものを言ってるのだろう。悪いとは思わないけれど、マジメな若者に誤解を与える言葉かもしれないなあとは思う。「《ひとつ》を見つける」ことが、まず大きなハードルになってしまいそうだからだ。若いころに、その《ひとつ》が見つかる人なんてごく少数でしょ。「これが100」って言い切れるものはないけど、「50」や「60」くらいならいろいろ持ってるという人、悲観する必要はないですよ。

 私が編集プロダクションにオマケ社員的な立場で籍を置いていた頃。先輩に、こう訊かれたことがある。「あおうさんは、フリーでもいろんな仕事してたり、いっぱいバンドやったり、ミニコミにマンガ描いたりしてるけど、どうなりたいの?」。私は最初、その質問の意味がよくわからなかった。どうって……、うーん、おもしろいからやってるんですけど。すると、先輩は優しい笑顔で「そうかぁ。どれかひとつでも、成功するといいね!」。

 かなりポカーンとしてしまったが、100%善意で言ってる先輩とこの会話を掘り下げても仕方ないことは明白だったので……それでも「ハイ!」とは返事できずニコニコ……いや、やっぱりどうしてもニコニコは無理なのでヘラヘラしておいた。

 成功って? それもいまひとつよくわからんが、どうせ激励してくれるなら「どれかひとつ」なんてケチくさいこと言わず、「全部」でもよかったんじゃないか? あ、それって世間常識的には嘘くさくて誠実じゃない激励になっちゃうのか?

 世の中では、ひとつの夢を追いかける人が圧倒的に美しいとされる。いろんなものに手を出す人間は中途半端モノ扱いらしい。でもさあ、《ひとつ》に打ちこんだら《成功》の可能性は上がるかというと、そうとは限らない。ならば、《ひとつ》主義も、《いろいろ》主義も、その面 では変わらないんじゃないか。

 向き不向きはあると思う。対象が《ひとつ》 のほうが集中力の上がる人、《いろいろ》やる中で相乗効果 を上げていく人。

 《ひとつ》主義にもリスクはあるってことは忘れちゃならない。もし、何らかの理由でその道を断たれてしまった時に、支えを失うってこと。もしかしたらそのリスク込みで美しく見えるのかもしれないな。

 そういえば、前に姉に「なぜ10代の頃にオシャレに興味を持たなかったのか?」と訊いたときの答えがおもしろかった。「《優等生》にオシャレは必要ないと思ったから」と(実際姉はかなり勉強のできる子だった)。うわあぁ、だれが決めたか「勉強できる=銀ブチメガネ=ダサい」の法則!? これについては笑える人も油断は禁物、これに似た法則に縛られてはおりませんか?

 私が大事だと思っているのは、「総合力」。 勉強ができてオシャレなら、なおいいじゃない。出所は知らないけど、ちょっと前に「美しすぎる○○」なんて言葉が流行りましたね。美人だからって取り上げられられてズルい、とか思うのは無粋。それが総合力ってものですよ。

 

テレビ無しがテレビを見る100の方法  2011.8.1

 前々回書いたように、さて、テレビがられなくなった。「そういやさほどないし、これを機にテレビとは縁を切る」という人もけっこういるようで、私なんかはまったくそれでかまわないはずなのだが、間の悪いことに8月は私が最もテレビをるはずの月なのである。

 どうにかして高校野球をるにはどうすればいいか。思い浮かんだのが、スポーツジム。私はもともとのテレビ嫌いをさっぴいてもさらに、マシンなんかやりながらテレビをるのはだっさいと思っているが。でも、あそこはいいよね。朝もまあまあ早くからやってるし。第1試合から第4試合まで、走りながらたら……間違いなく死亡するな(笑)。歩いてたってしんどいわ! いっそ開き直って、止まってるマシンの上に堂々と突っ立ってるか? バイクに乗っかって15分に一回くらいペダルをこぐくらいじゃダメ? 混んできたら? 高校野球てる人の横にはりついて、画面 をじーっとのぞいてたらいやがられるだろうなー。朝一でジムに、高校野球に来る客。迷惑だな。

 ネットカフェはどうかと言われたが、私はマンガや雑誌のあるとこに行くとそっちが優先になってしまうタチなので、これたちまち却下。

 ビジネスホテルに泊まってテレビるっていうのはいいかもしれない。ぜいたく。でも、昼間にやってるもんだしね。泊まるためでなく(夜は用ナシだから)ビジネスホテルに金払うって新しい。1泊6000円で2週間泊まって84000円。テレビ買えやって話ですね。それでもテレビ購入よりビジネスホテル作戦のほうが現実的に思える私のピントは狂ってるだろうか? 

 そこで、次に浮上するのが、お金を使わないシンプルなアイディア。初心に返って、電器屋で立ち見! 大きい店に行けば何台もテレビあるし、ときおり立ち止まっててる人、いるもんね。丸一日てる人はいないかもしれないが、いたっておかしくないだろ。昭和なら、まあ普通 じゃない? 試合放送途中のチャンネル切り替え役、私がかって出ますとも!

 さらにさらに初心に返って、いっそ隣の部屋の人(顔見知り程度)に見せてもらうってのはどうだ。

 あーあ、もうめんどくさいから、甲子園に行ってじかにるればいいじゃないか。

 おっと、テレビの話じゃなくなってましたね。これはノーカウント。良い知恵のある人は、お知らせください。これからあと95個考えます。

 

☆やかましい日本の私  2011.7.25

 季節にあった読書を嗜むもので、先週は夏山遭難に関する本を読んでいた。いやあ、夏山侮るべからず! 大雨や台風などに遭遇した際、進むか戻るかの判断が、生死を分ける。遭難死を遂げた人の主な死因として、多くのページをさかれていたのが「低体温症」というやつ。寒さで体温が低下する、というものだ。もちろん個々の体質やそのときの体調によっても差は出るけれど、同じ状況下で生き残る人とそうでない人を分けるポイントは……まあだれでも想像つくと思いますが、服ですね。

 低体温症というのはなかなか「なり始め」に気がつけないそうだ。そうこうしているうちにいつのまにか、頭がぼんやりして平時なら考えつくような当たり前のことすら思いつけなくなる。たとえば自分が背負っているザックにダウンジャケットが入っているにもかかわらず、それを着ることができずに死んでしまった人もいる。また、強い風雨を避けるものがなくなり、着ようと思ってもそれどころじゃなくなったり、もがいているうちに手袋をとばされて凍傷になったり……。その恐ろしさをあらかじめ認識している人は先んじて準備ができ、最悪の事態を避けることにつながるわけなのだが。

 4人のパーティーのうち3人が亡くなった例をひいて、興味深い検証があった。著者によれば、生き残った1人は他の人に比べてきわめて装具・所持品の手入れが行き届いていたという。たとえ高価なゴアテックスなどを使っていても、手入れが悪ければ劣化する、と。 なるほどなあ。

 このくだりを読んだ私は、すぐに部屋の外に飛び出した。震災以降、たびたび我が家に泊めている避難民のレインコートが外に干したままになっており……その状態を確認するためだ。それね、私も気になってたんですよ。ただ、自分の持ち物は自分で管理するのが鉄則だから放っておいたのだが。ポツポツ穴があいているのが見てとれた。 濡れたまま吹きさらしにしておくと、1か月やそこらでこうなるわけだ。私はさっそく彼女に進言した。持ち物は大事にしなければいけない。もし、原発にさらにまずいことが起こって凶悪な放射能雨が降った時、あなたは「うぇええん、私のレインコート、穴があいてるんですぅう!」と泣くことになるのだ、と。

「見ていただいてありがとうございます、すぐに捨てます」と、彼女は言った。もともと100均で買ったものなんで、と言っていたが……これもちょっとひっかかる。10000円のものは大切にして100円のものを軽んじるのは間違ってると、私は思う。「100円だから、未練なく捨てる」ということを強調する意味で言ったのは理解できるけども、いや、やはりその中に《ものを軽んじる》姿勢は透けていて、それが《スキ》の根源となる。

 ところで、まだそのレインコートは外にぶら下がったままである。嗚呼、ヌルい! ヌルうございます! 次は、説教です(笑)。

 

ザ・テレビジョン  2011.7.17

 独り暮らしを始めてから、私はちゃんとしたテレビを持たずにいた。ちゃんとした……と書いたのは、今持っているのが、画面 サイズ約8cm×10cmくらいの液晶テレビだからだ。単3電池4本で、3時間駆動(あえてアダプターは買わなかった)。防水対応になっており、これはメインで使うというよりお風呂でもテレビを見たい人が購入する類の商品だったのかもしれない。

 私はテレビがなくても全然困らない。小さなテレビを持っているのは(一応これが3台目)、いざという時の大事なニュースとせいぜい高校野球を見るためだ。そう、私が日常的に見たいのは、せいぜい野球中継くらいで。野球を見るにはまるで適さないサイズだが、いや、見やすかったりすると本気で見入っちゃうじゃないか。ちゃんとしたテレビを持ってたりしたら、うっかり契約してホークスの試合が全部見れちゃうとかそんなことをやりかねないじゃないか。いくら好きな野球でも、そこまで時間を割けないもの。

 近年に限った話じゃなく、もともと私は別にテレビが好きじゃなかった。親にテレビを見る時間を決められたというわけでもなく、家族のだれよりもテレビを見なかった。歌番組もほとんど見てない(なんとか流行った歌を知ってるのは部屋でラジオを聴いてたせいだ)。ドラマなんか数えるほどしか見たことないから、中学・高校時代はまあ学校で話題についていけなかったこと。「いいとも」が流行り始めたころ、友だちが「いいかな?」「いいかな?」としつこく振ってくる意味がわからずぽかーんとしてた。ドリフを小学校中盤くらいで見なくなって以降、バラエティ番組はほとんど見てない。クイズ番組をちょっと、くらいか。

 私がテレビを好かない理由は、やかましいからだ。知りもしないでバラエティ番組の質を云々言うつもりはなく、ただ、もっと出演する人が少なかったら楽しめるかなあと思ったりする。大勢で、わあわあ言い合うのがうっとうしいのだ。

 さて、いよいよテレビ無しの生活になりそうで、ゆるやかにどうしようかなあと思ってはいる。ワンセグじゃあさすがに野球を見るのに小さすぎるし、パソコンの画面 じゃ大きすぎる。長年、小さい画面を眺めてきた慣れもあるが、見ていてうっとうしくないという点で、私にとってのベストサイズだと実感している。振り返ってみると、あの小さいテレビを故障だなんだで3台も買い換えたのは、普通 のテレビに比べけっこう高くついたな。しかし、私は、ちょうどいいものしか欲しくないのだ。絶対に。

 

女性に便所サンダルは必要なのか?  2011.7.8

 生活感を極力排する生活スタイルの人の《オシャレ》ぶりはときどき揶揄されることがあるのだが、私としてはその反対にある人もけっこう気になる。それは、生活感……というより《生活臭》を肯定しているゆえに一見わかりにくい。

 具体的に言いましょう。現代において若い女性が独り暮らしするにあたって、便所サンダルを購入することはいささか不自然なのではないだろうか。果 たして、本当に便所サンダルは必要なのか? 本来、便所サンダルが似合うような住まいで慎ましやかな暮らしを送るならば、余計な買い物はひとつでも少ないほうがよいのではないか。便所サンダルのイメージするものは、なにか。外に出る時はもちろんいっぱしにオシャレもするけども、独りのときは「意外と地に足ついた暮らし、やってんですよ」ということを(主に自分に対して)《気取る》ためのポーズではないのか。

 本当に便所サンダルは必要なのか。台所のシンクに三角ゴミ入れは必要なのか。清潔感をキープできないトイレカバーは何のために装着されているのか。

 便所サンダルは象徴的な存在だ。便所サンダルを生活の一部として我がものにしたいと思うならばだ、流行の靴をはきこなすのと同じくらいの気合いでかからねば、なるまい。ことに女性……欲張りで《哀感》という要素を持たない……女性に関しては。

 部屋着と外出着の落差を求める意味はどこにあるのか。リラックスするための部屋着が、必要以上に《小汚く/所帯臭くある》意味はあるのか。意味があるとしたら、それに自分は何を求めているのか。部屋着と外出着を考えることは、本来同じくらいの比重をもって然るべきであり、それは相互に関係しあい、その人を形作るのだと、私は思う。

 

 

いつまでも後輩じゃいられない  2011.6.29

 未知のもの、優れたもの、感心すべきものに日々出会うことは美徳であり。

 そんなとき、「本当に勉強になる!」……などと、《つい》《心から》言ってしまうものだけど。

 ときどき思うのだ。「勉強になる」!? 優等生っぽいこと言っちゃってさ……(そりゃ本当に勉強になってもいるわけなんだけど)。でも、こう言ったところで、必ず糧にできるとも限らないものでね。

 そんなにもいろいろ学んで吸収できる人間だったら、とっくにもっと優れているさ!

 安易に「勉強になる」などと口走るのは、そう思った10回のうちの1回くらいでちょうどよかろう。

 大人になったら、いつまでもものわかりのよい後輩みたいな顔をしてたらだめなのだ。

 

バーコード。いわゆる「1:9分け」を攻めの姿勢として評価する  2011.6.18

 先月だったか、すごく風の強い日に。50代くらいの背広姿の男性が、バーコードヘアを片手で押さえながら歩いているのに行き交った。その映像が定期的に、繰り返し頭に浮かんでならない。だけども、最初に見た時はともかく……脳内でリピートする時には「滑稽な姿」とは感じていなかった。彼は、一生懸命だった。髪型を守るのに必死であった。ああ、こう書くと単に「おもしろがってる」と思われそうだが、そうじゃないんだ!

 私は気づいた。このがんばりって、足の痛さを我慢してハイヒール履いてる女性、少々苦しいのに耐えておしゃれを貫いてる人のそれと、同じではないのか!?

 私は、不自然なおしゃれが好きである。「不自然=派手」ってわけでもないが、「どうよ!」と気持ちが歌舞いてるファッションが好き。地味でも流行遅れでも私はこれが好き、というのがはっきりしてる人が好き。《ファッション》を楽しむ上で多少の無理はあって然るべきと思う。

 1:9分けの男性についての世間の評価はどうであろうか。「潔くない」「どうせなら坊主にしちゃえばいいのに」……おおむねこんな意見が主流なのではないだろうか。だが、そこに私は今、「否!」と言いたい。まるで機能的ではないし風で崩れるという多大なリスクを負いながら、あのヘアスタイルを全うしようという態度は、大変に前向きなおしゃれ心ではないのか!? 

 という話を美容師にして、「美容師の業界紙で1:9分けの特集をしてみたらどうか」と提案してみた。高齢化社会においてニーズも高まるのでは? なんて話し出すと、もう止まらない。バーコードにカラーリングしたらどうか。筋ごとに別 のカラーにしたりするの。グラデになってたりして(これは、髪がより傷むという点からよくないと言われた)。ならば! 髪のある人があえてバーコードを選択するってのはどうなんですか? 女性のバーコードはどうなんですか? 私、やってみましょうか? ……美容師はただただ爆笑している。

 バーコードは創作的なスタイルではなく、あったものがだんだんなくなっていっても、それを直視しないで「さもあるかのように振る舞っている」「まださほどないわけではないと思っている」後ろ向きな選択ではないかとの指摘もあろう。だけど、私が認めずにいられないのは、その形状をキープするのに努力が必要だという一点……それだけで十分だ。大まじめに、私はバーコードの未来を考える。

 

人間は変わることができるものである  2011.6.9

 先日、正月ぶりに母と食事をした。近年、遊び歩く楽しみを覚えた母は、わりに頻繁にフットワーク軽く故郷の伊豆に出かけて昔なじみと遊んだりしている模様で……その中のエピソード。70歳にもなろうというのに、大人げないいいじめっ子男子というのはいるもので、母はそいつに、孫がないことを揶揄されたという(我が家は二人姉妹だが、未婚率100%)。

 「あんたなんかより、孫が○人もいる○○さんのほうがずっと幸せだよな」みたいなことを言われたらしい。うーん。正直、私はなりゆきというよりけっこう意志的に自分の現状を選択しているつもりではあるが……それゆえにこの類の話を持ち出されると、さすがに少々「悪いな」という気持ちになったりもするんだ。

 それに、母は「人の幸せはそれぞれ違うんだから、そんな比較のしかたは意味がない」というようなことを返したという。いや、驚いたね! うちの母って、(負けず嫌いだから)その場は意地で《負けは認めない》発言をするかもしれないが、《人から見下されたこと》にぎゃんぎゃん怒りそうなタイプだったのだ。ちょっと前までは。それに、本心からそう思っていなければ、そんなまっとうな返しができるほど弁が立つ人でもない。

 ということは、そんなふうに思えるようになったってことなんだね。久しぶりに母をほめましたよ、私は。

 いやー、長年の教育の成果があったってことだなあ。実家にいる間、出てからも会うたびに、けっこう厳しいことばかり言い続けて、ときどき「わかんない人にまっとうなことを言っても、それはただ波紋を起こすだけなのじゃないか。それより、いろいろ見ないふりをしてやり過ごしたほうが、互いに楽なのかもな」と思ったこともあったけれど。人は変わることができるものですね。

 と、あらためて自分にも言い聞かせる。

 

あの針金  2011.5.31

 ひさしぶりにアイロンをひっぱり出したら、コードにねじった青い針金がぶら下がっていた。最近はあまり見ることのなくなった、パンの袋を止める針金。アイロンを買った当時、コードをしばるやつをすぐになくして、さっそく《かねてよりためてあった》針金を採用したのだろう。とはいえ、そもそもコードは束ねられておらず、束ねようとした気分だけを残してそこにぶら下がっていただけであるが。

 子どものころ、まさにあの針金をためていたものだった。白や黄色は「普通 」 。ほかの色は樹脂っぽいのに、金色はアルミっぽくてぺらぺらしてるので、きれいだけどちょっと落ちる。赤や茶色、青は珍しい!全部をねじり合わせてかたまりにしたのを、勉強机の引き出しにしまっていた。それを使う機会は別 になくて……でも、よく考えると当時は何かに利用するつもりでとっておいたわけではないのだろう。

 アイロンコードにつけてあった針金は、だいたい、もとより長さが不十分だ。だけど、「何かに使いたいと思った」気持ちの名残を、そこにとどめておく。

 そういえば、先日針金の親玉を拾ってしまった。正確にいえばそっちはオマケで。クリーニング屋の前の「ご自由にお持ちください」と書かれた箱を素通 りできずに段ボールを漁ると、電飾が出てきた。緑と白の2種類あって、いずれも数メートル以上。喜んで持って帰ると、電飾をゆわえつけるためのグリーンの針金束も入っていた。これがまた美しくてね…。

 女性にありがちな、「使えそうなものはなんでもとっておく」貧乏臭さが、私は嫌いだ。端から見れば大差なかろうが、私としてはこれでもとっておくものは吟味しており……それは《たとえ使わなくても見るだけで美しいと思える》針金だったり太いゴムだったりするわけだ。

 

神戸ざっくりレポート  2011.5.24

 友人の結婚パーティに参加するため、神戸に行ってきた。かろうじて一泊はしたのだが……。夕方始まりのパーティだったので、10時すぎにずたぼろノーメイクで出かけ、15時に三宮のホテルにチェックインし華麗に変身して乗り込む算段。道中およびホテルの夜は読書を楽しむつもりが、出かける直前に単行本一冊分の校正紙が受け取れてしまい(受け取れない可能性70%と踏んでたのに!)、仕事持参になっちまったがね。まあ持ってって取りかからないと、締め切り的に厳しくはあったけど。

 翌日は三宮〜元町あたりを2、3時間ぶらぶらする時間があった。朝食は、前の日に目をつけておいた三宮図書館の階上にある喫茶店で。モーニングセットは私の大好物である。図書館の上が喫茶店って、いいじゃない! 私がもしここの住人であったなら、しょっちゅうこの喫茶店で本を読むのだろうな。雨が小やみになるまで、悲鳴の林くんから借りてる『青雲はるかに』(宮城谷昌光)を読み……つい、根を下ろしてしまいそうになる。図書館は臨時休館日だったのが残念! 旅先で図書館見るのっていいじゃない。本を読みはできるけど借りることは許されぬ 行きずりの関係。ロマンティックだろ!?

 これはどこに行ってもそうなのだが、私は「ご当地の名物」を食べるのに一生懸命になるほうではない。なんと無味乾燥な、と思われるかもしれないが、よほどちゃーんとチェックして、「うまい名物」を食べるのでもなければ、それは全国どこでも食べられるレベルのものだろうと思うから。「○○で、××を食べました」っていう記念は別 にいらない。さらに、その「うまい名物」を食べるとして……これは東京にいてもそうだけれど……「あらかじめすごいグルメの人とか、あるいはその情報を得た多くの人々が『うまい!』と太鼓判を押してるもの」って、そう興味がわかないのだ。だって、おいしいのが当たり前なわけでしょ? へそ曲がりかもしれんが、私はどこまでもジャケ買いが好きなの!

 元町の中華街を歩き、「あ、そうだ、老祥記の豚マンくらい食べてこうかな」と思ったが、日曜なのでやっぱり行列。「10分くらいで入れますよ」と言われたが、私は10分も列に並べないタチなので即刻撤退。

 旧知の古本屋を3軒ほどのぞいた。これが、私にとっての一番の「ご当地土産」だったりする。古本こそ、全国どこで買おうが意味ないと思われる方もいるかもしれないが、そんなことはない。東京では出てこない本に出会えるし、値付けも違うもの。ささやかに収穫あり。

  梅田にも寄りたかったがタイムアウト! この夏は甲子園に行きたいし少し休みとりたいなぁ。なーんて、たまには私も人間らしいことを、思いはするのさ!

 

無秩序殺法  2011.5.2

 日々「いかに効率よくものごとを運ぶか」を考えているものの、ベースはまあそこらのビジネス本にたいがいは書いてあるような「ものごとに優先順位 をつける」だったりして。効率、効率と言いながら、いまだに打破できない課題は、実にたわいのない……「始めるのが面 倒くさい」という感情である。あの時間を、もっと短縮できたなら、もっとムダがなくせるのに! ん? 「人生にムダな時間はない」的な屁理屈はいらんですよ。その常套句に異論を唱える気はないけど、ムダとわかってするムダはムダ以外の何者でもないのですからね。

 というわけで、今日は「思いついたことを即やる」をテーマにしてみた。「あ」と思ったら、1秒たりとも迷わずにやることがルール。今やってることが途中でもおかまいなし。さあ、「思いついたことを即やる」ってフツーに几帳面 な行動 ぽいけれど、いやいや裏腹に、こりゃあけっこう無秩序なことになります。そこを敢えてやってみる。毎日、小さなことで、やるべきと気づいてるけど優先順位 が低いために後回しになってることがある。それがたまっていくことは、小さなストレスがたまることになるのではないか。

 結果、部屋は前よりとっちらかったような気がしないでもないが、意外と「やった」感はある。しばらく、この方法を試してみようかな。とにかく「あ、あの靴磨かなくちゃな」と、思ったら、即やる。普通 だったら何足かまとめて磨いたりするところなのだが、 あえて同じジャンルのことをまとめてやろうとしない。気づいたことだけ、気づいた順に、瞬発力重視で。

 一見雑だが、何か、新しいやり方が生まれそうな気がする。