ダマコラム KOZUE AOU    2007.4〜8月 2007.9〜12月 2008.1〜4月 2008.5〜8月 2008.9〜12月 2009.1〜4月 2009.5〜8月 2009.9〜12月  2010.1〜4月

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☆My First 女の捨てぜりふ  2010.8.31

 この言葉を初めて知ったのはあの本だった、というのを割に覚えているほうである。特別 な言葉でもなく、すごく美しい言い回しというわけでもないけれど、その周辺の表現や状況が相まってこびりつくように心に残るものがある。

 そのひとつが、「ばか……ばか……」。独創的でもないし、これだけじゃ何のことやらと思われるでしょうが、これは私の中ではティンカー・ベルのセリフとしてインプットされているものである。『ピーター・パン』の冒頭部、ピーター・パンがウェンディにデレデレして調子こいてるのに腹を立てたティンカー・ベルが、窓から飛び出していく時の言葉である。しかし、ピーター・パンは「拗ねてるだけさ」と慣れたふうで、慌てて後を追ったりしない。かわいそうなティンカー・ベル。かわいい……。

 子ども向けに編集された『ピーター・パン』は数限りなくある。子ども向けの本は意訳されがちだから、他の本ではどうなっていたのかはわからない。確か新潮文庫とか、古くは岩波でも大人向けのものが出ているはずだが、あのシーンがどうなっているのか確かめてみたくなった。

 

処暑に   2010.8.23

 さて、今年も私の脳内仮想夏休みが終わりに近づきつつある。うちのアパートの真裏は木々生い茂る公園であり、死の舞踏を繰り広げるセミがドアをガンガン叩く音が毎晩やかましい。大家は、毎日セミの死骸掃除に忙しい。

 多少「夏休み」気分を演出するため、ジャック・ロジェの映画を観に行ってみる。その映画のタイトルあらすじをここに書くことはしない。偶然に人と人が出会い、街から街へ。気ままに転がっていくような映画。そもそも主人公がだれかということすら、はっきりしない。たぶん、それは重要でない。過ぎゆく時間と情景が、重要な映画だ。そして、私が観たかったのはまさにそういうものだ。

 仮想夏休み内の、さらなる仮想夏休みといった感じ。

 あと1週間くらい、夏に必死でしがみついてみようと思う。それから、うんとさびしがりながら秋の準備を始める。

 

☆準・東京人  2010.8.16

 お盆の東京を満喫している。東京都下のうちのあたりはこの時期本当に人が少ないのが顕著で、今週の平日の昼間は商店街がゴーストタウンみたいに思えた。帰省する方々はおそらくまるで不十分な休みを使ってのUターン、本当にご苦労である。と、思うとき、複雑な感情が去来する。

 私の実家は、西東京市である。今住んでいるところから、1時間もかからずに帰ることができる。しかし、私が実家に足を向けるのはお正月だけだ。単に不義理なだけ……ということで話は簡単に済んでしまうのだが、近すぎて帰りたくないという気持ち、わかってもらえるだろうか? 車窓から流れる景色を眺め、生活の場である東京を離れ生まれ育った土地への想いを馳せ…なんて気持ちを味わうには片道2時間は必要なのではないか?

 私は、西東京っ子である。東京の、23区外で生まれ育ち、いまだ23区内に住んだことはない。実家を出たのは大学を出た翌年だが、特に勤め先に通 うのに不便だったからというような理由はなく、ただひとり暮らしをしたいから出たまで。ハナから23区内に住むつもりはなかったくらい、多摩が好きなのである。親は、両方とも東京の出身ではない。そういう自分は、純粋な東京人ではなく「準・東京人」くらいだと思っている。

 T準Uだろうがなんだろうが……生まれたときから東京の人である私が、どうしても経験しえないもののことを、ときどき思う。それは「東京に出てくる」という経験だ。進学とか就職とか、あるいはほかのさまざまな目的、または「なんとなく東京で暮らしてみたい」という気持ちから、T東京に出るUとはどんな気持ちなんだろう。だれもがドラマティックな気持ちで来るのでもないだろう。だけど、これは東京からほかの街に行くのとは、どうしても別 種のものなんだろうと思う。

 東京ではない街に生まれ育つ自分が「東京に行こう」と思うところや、「行こうと思ったけど、やっぱりやめよう」と思うさまを想像してみたりしているが、なかなかうまくいかない。

 

バランス   2010.8.9

 明日のことなど知るもんか!

 …などと高笑いしながら、打ち上げに向かっちゃう。

 だって、明日も生きている保証なんかないもの!

 と、本気で思っているのだけど。一方でギリギリの《自粛》機能は働かせている。泣く泣く打ち上げに参加しないで帰る日もあるし、途中で切り上げる理性だってある。そもそも私は「120歳まで生きる」と公言している。

 これらは矛盾しているようで、互いに必要としあっている。

 「明日のことなど知るもんか!」と言うことで、「明日なんとかなる」スレスレの境界線を見極めている。

 「明日は生きていないかも」と疑いながら生きることが、「120歳まで生きよう」という望みと意思を、具体的で切実なものにする。

 つまり、《明日はない》は、《明日も生きよう》の言い換えである。

 私が、遭難など過酷な体験を描いた文学や映画を好むのは、これをまざまざと感じさせてくれるからだ。

 疑うことと信じることのバランスが必要なんだ。

 

☆幸せであるべしと  2010.8.3

 ときどき、悩み相談的なものを持ちこまれることがある。何人かレギュラーがいるが、その人の言葉から根っこにあるものをあきらかにしていくと、「○○になりたい(あるいは「したい」)が、なれない(できない)」という内容だったりする。問題は、シンプルなんだ。

「なる」に向かって、具体的にできることを、その人なりの方針にしたがってやっていくほかはない。悩み相談をしないタイプの多くの人はそれをやっていて、多くは人に相談なんかしている暇はないんだと思う。それなりの方針というのは、つまり「何がなんでもそれとしてT成り立つUために、どんな手段も厭わない」とか「いや、成り立たなくても自分の美学だけはだれにも抵触させたくない」とか…まあこれらもゼロか百かではなくて、間にいろんな目盛りがあるのだけど。

 困るのは「やりたいのに、できない」方。一応話を聞いてる以上はお役に立ちたいので、「できない」理由をまじめ掘り下げていくと、相手はおもむろにこう言ったりする。「いやぁ、いろいろ難しいですよね」。…すべての思考をチャラにする魔の言葉。これを聞くとがっかりする。話は止まってしまう。

「やりたいのに、できない」人の多くは、「実はやる気が起きない」だったりする。私は、疑ってかかる。「やる気が起きない、じゃなくて、別 に本当はそんなにやりたいと思っていないのでは?」。それなのに、やる気の起きない自分に凹んでいるのって、とても無駄 すぎやしないか。

 ここには、かの「何かやってる・目指してないといけない」神話が影響していると思う。(ああ、その「何か」ってなんなんだ)。T目指し中U の人が、「これをやめたら、自分は普通の人になってしまう」と言うのも聞いたことがある。普通 の人…って!? うっかりすると「これをやめたら」も何も、まだ何もしてなかったりするので、言い換えると即ち「目指すのをやめたら」のことがある。「目指している」人は「普通 の人」ではないのか。(ここでは、敢えて「みんな普通の人です」って言い方はすまい。)謎だ。「表向き目指しているはずなのに(本当はやりたくなく)何もしていないことに苦しめられている」という、奇妙な構図。不毛。

「有名になりたい」「多くの人に尊敬されたい」といった願い、何かにステイタスを求めるそれぞれの価値観を私は否定しないが、自分の望まないものに縛られることは不幸だと思う。偉くなろうと努力しろとか向上すべし…とは思わない。唯一、人間の義務は「幸せになろうとすること」だと私は思っている。

 

ベースボールは見れど飽かぬ かも    2010.7.26

 東京都地区予選が開幕した約3週間前から、ずっとそわそわしていた。そう、高校野球です! 毎日のようにスケジュール帳をにらみながら「この日の…この時間なら?」と、「野球!」と書いた付箋をじりじり移動し続けて。ようやく神宮球場で行われた西東京大会決勝戦にはせ参じてきた。ギリギリです。周辺の人にはよく言っているのですが、ちょっとくらいは高校野球に興味があって、でも甲子園にはわざわざ行かないよな…という向きにおすすめなのだ、地区予選は。ことに決勝というのは「これに勝ったら甲子園」ですから、正直、甲子園の1〜2回戦あたりよりもよっぽど緊張感と盛り上がりがすごいので。

 日大鶴ヶ丘VS早稲田実業。私はあまり、どちらかの学校に肩入れするほうでないので(野球すべてのファンなのです)、1塁側とか3塁側とか選ぶことはまずない。入場券を買う際に、すいてるほうに並ぶ。案の定、早実のほうが混んでいたので、ニッツル側に。あ、応援を聞いてたら「鶴校」と呼ばれてましたが、西東京育ちの私の地域ではこう呼ばれていたため …私の中では「 日大鶴ヶ丘」は「ニッツル」なんだ。

 でも、内野席で見るならあえて好きなチームの反対側に座るという手もアリといえばアリ。なぜなら反対側からは応援の様子やベンチの表情がよく見えるからだ。でも、ニッツル客のどまん中で早実のヒットに手をたたくわけにはいかないので、そこは要注意。早実の応援はさすが(あれ、大学の応援団とかも助っ人が来てるんだっけ?)、伝統的な応援団の舞が見られて私は満足だった。

 「どちらかのチームに肩入れしたほうがおもしろいんじゃないの?」という意見も聞く。そのほうが楽しめる…という人も否定はしない。たぶん私は少数派に属するのだと思う。必ずどちらかが勝って、どちらかが負ける。結果 を見届けに 来ているのではあるけれど、私の場合その過程を見に来ているという意識のほうが強いのだ。

 「勝負のあや」という言葉があるが、今日のゲームでもいくつ勝負を分けた場面 を目の当たりにした。満塁のときにデッドボールで…一時はニッツルが先制したかと思ったけれど、実際は「よけることが可能なのに当たった」という審判の判定で点が取れなかった場面 。決定的なピンチをしのいだあとの回、1番 からという好打順で攻められなかった場面 。変わったばかりのレフトにヒットが飛んで、ボールの処理にもたつくという不運(というか、ねらって招いたと考えてよいかもしれませんが…何しろこの「変わりしな」のミスが3度もあったのだから)。

 選手同士が声をかけ合うところ、ブルペンでキャッチボールをする控えの選手、伝令に向かう選手。一人ひとりの動作をじっくり見ながら、性格を想像しながら見る。一球一球の配球を予測しながら、見る。監督の動き、応援団の動き。周囲の観客のおしゃべり。見どころ、聴きどころはありすぎるくらいあって、退屈することなんてない。

 試合の始まるときにはこれ。「九つの人九つの場をしめてベースボールの始まらんとす」

 満塁のときにはこれ「今やかの三つのベースに人満ちてそぞろに胸の打ち騒ぐかな」

 試合の終わったときには「久方のアメリカ人のはじめにしベースボールは見れど飽かぬ かも」

 正岡子規の、数ある野球短歌の中から特に好きなこれらを思い出している。

 

☆夏なのです  2010.7.22

 今年は冷夏らしいと言われていたような気がするが、立派に猛暑が訪れている。しょっちゅう外を歩く仕事をしてるわけじゃないから言えることだけれど…暑さは不思議に私の気持ちを盛り上げる。夏らしいイベント感に浮かれているわけでもない。子どものころから花火大会とかお祭りとか海だのキャンプだの行かないほうだし。あ、まるで行きたい気持ちがないわけじゃないのだ(というか、今日はこんなに忙しくなければ茅ヶ崎に行ってるはずだった…)。行かなくても、夏を味わうことはできるというだけの話。

 ただただ、太陽が照っている。私の暮らす地味な町は、光と熱の下、沈黙している。家々の庭の植物、道ばたの雑草たちは、狂おしく盛っている。私はそんな植物の姿に何か共感を覚える。ただ、育つだけ育って、汗をだくだく流しながら黙っていたいような気持ちでいる。沈黙は退屈ではない。

 夏も盛りに見えて、しかし暦の上ではとうに夏至を過ぎ、実は…日一日と昼が短くなっている。

 そこに生えているえのころ草にとって、そこを歩いているカメムシにとって。この夏の一日はどういう日として存在するのだろうか? 

 そんなことを考えるともなく考える。ものすごく、動物というか一個の生命体に意識が返ってしまう夏の暑さ、それが好ましい。

 

☆ベーシスト・アオウコズエへの非常によくある質問   2010.7.12

 「なんで、そんなにベースの位置が低いんですか?」

 「低くしよう」と意識したことはなく、気がついたらこうなっていました。一番最初に人前でベースを弾いた、高校の文化祭ライブの写 真ではピック弾きだったせいか別に低くない。それが、大学1年のときのライブ写 真で少し低くなっているのは、指弾きに変えたせいか。ただ、そのころはわざわざ人が言うほど低くはないですね、常識範囲の低さ。その後、どんどん低くなっていったみたいですね。自分で「低さ」を認識したのは、一番長くなるよう調節しても「短すぎる」ストラップがあるとわかった時。ストラップを買う時には、しっかり長さをチェックするようになりました。なぜ、そんなに低くなったのか。まじめに考えてみると、どうやら答えが見つかりました。《強く弾く》および《速く弾く》というのを続けてると、腕(ひじ下)が疲れてくるのですが…この「疲れて動かなくなる」のを解消するために、ある時から「肩から二の腕の力を使って弾く」ようにしたんです。いやー、これが大成功。嘘のように疲れなくなったもの。肩を使って弾くには、ひじが伸びてたほうがいいわけで。ひじが伸びた状態にすると、当然ベースは低くなる。というわけですね。それと、たぶん私の手が無意味に長いせいで、目立って低いという状態になっているのではないでしょうか。

 しかし、身長の伸びは高校生くらいで止まったけれど、腕はそれ以降も確実に伸びた気がします。これ、ベースのせいもあるように思うのですが。私のベースはネックが異様に重いしなぁ。ベースのせいで腕が伸びたのか、腕が伸びたからベースの位 置が低いのか…まあどうでもいい話だけれど。

 

☆明日はもっと遠くに行こう  2010.7.5

 待ち時間の使い方。本を読んだり人としゃべったりできなければ、脳内で遊ぶ。考えごとをしたり、空想したり。それに集中できない状況だったら、スロースクワットとかストレッチをやる。人目につく場所ならば、呼吸ストレッチをやる。意気を吸う、止める、吐くを「1:1:2」くらいの割合の秒数でやるとよいと、教わった。退屈、無益な時間は嫌い。「無駄 は美徳」という考え方もあるが、あれは《積極的に》一見無駄にも思えるものをも選ぶ《余裕や豊かさ》をよしとする…という意味であって、本当の無駄 とは違う。

 

☆嵐の中の人へ   2010.6.27

 やらなきゃならないことが多種多様、締め切りがたくさんあって、しかも状況がこみいってるとき。一件一件片づけていければいいけど、そうもいかず、いろんな「保留状態」をちょっとずつ平行させて進めていかなきゃいけないとき。ひとつの作業をちょっと放置すると、締め切りに間に合わない事態になるようなとき…目の前に書きだした無数の用件リストを見ると恐ろしくなる。こういうとき、「どれも、踏み外さない」と心に誓う。最初から「ミスはつきもの」と思ったら負けだよ。それで気が楽になる効果 もあるかもしれないけど、最初はノーミスを目指さないと。言霊の力って、ある。万が一ミスが生じてしまったら、そのとき初めて「こういうこともある」と思えばいい。

 コツはある。急がないこと。「急ごう」と思うとあせる。急いでやっても、あせってやっても大してスピードは変わらない。あせるとミスをしがちになる。自分をののしることになるのでよくない。

 それから面倒くさそうなこと、人に連絡が必要なことから手をつけること。気が楽になる。

 少しずつ物事が進んできたら、「うまく回ってる」という気持ちになれる。これで、ずいぶん気分が上がる。

 それでもめっちゃカオスになったら、カオスを楽しむことだ。集中力で、火事場の馬鹿力を出す。激流の中踏ん張って、次々飛んでくるボールを打ち返す、みたいなイメージ映像。あ、これは各自お好みのイメージ映像をご用意ください。油断したら死ぬ 、みたいなのがいいです。燃えてきた?

  我々の古い曲で「お金」というのがある。「たいへんだ たいへんだ 楽しいな 楽しいな」という歌詞を、私はときどき口ずさんでいる。

 

☆温泉から遠く離れて  2010.6.20

 温泉に行ったことがない、と言ったらずいぶん驚かれた。しかし驚いたのはお互いさまで、私は温泉に行ったことがないことをそれほど驚かれたことに驚き、またその場にいた人がみんな温泉に行ったことがあることにも驚いた。

 温泉なんて老人が行くもんじゃないの? という認識が誤りであることはさすがに知ってる。知ってはいるけど、私の中の常識はどっちかというと「温泉なんて老人が行くもんじゃないの?」寄りなのである。

 忌み嫌ってるわけでもない。ただ機会がなかったということ。

 機会がなかったということは=答(1)積極的に行きたいと思ったことがない。答(2)温泉に誘われるような人間でない。ということか。

 人はどういう気分で、どういう文脈で温泉に行きたいと思うのかなぁ。あほみたいなことを言ってると思われるかもしれないが、私には本当にわからない。「〜したいね」「〜しようよ!」と言い合う会話があったとして。「温泉行きたいね」よりも「ドッジボールしたいね」のほうが格段に乗り気になれる。温泉は、まだ私の身の丈にそぐわないのだろう。

 遠くの町にいて、2時間あったとして。そこに温泉と古本屋があったら、間違いなく古本屋に行くな、私は。

 

恋とはそんなものかしら   2010.6.13

【シーン其の一】打ち上げ中に、かばんの中をゴソゴソやっていたら携帯電話が鳴り出した。うっかりどこかを押してしまって防犯アラームが作動してしまったらしい。「暗証番号を入れてください」と画面 にあるが、えいくそ、そんなもん忘れちまったわ! あれだったかこれだったか…と押してみるが正しい番号が押せてないらしい。やかましい! 電源も切れない!

 あきらめた! 携帯電話をストールにくるんでかばんに押しこんだ。けっこう静かになった。セミの声…に聞こえなくもない。「すっかり夏らしくなったねえ」とか言ってみる。周囲の人、苦笑。ムリか…。

 再びひっぱり出したら、隣の席のY氏いわく「電池を抜けばいいんですよ」。私、非常に無知蒙昧な女の子らしく 「電池ってどこにあるんだよう〜」。Y氏、携帯電話を裏返し、サクッとフタを開けてバッテリーを抜く。わー静かになった! わき起こる拍手(酔っぱらってるせいなのか、だれ一人それまでそんな建設的な解決策を言った人はいなかったのだ)。Yくんって素敵。こんなとき、人は恋に落ちるものなのかしらん…。

【シーン其の二】大人数の打ち上げだと、すぐ食べ物が不足がちになる。常に飢えているのは大体食い意地のはっている女連中だ(もちろん私を筆頭に)。御茶漬け頼んだのに、なかなか来ねーな。皆の目がなんとなく泳いでいる。そんな折りだ、I氏が生キャベツwithみその皿を、こちらに「どうぞ」と回してくれた(ちなみに私たちの前にもキャベツ皿はあったハズだがもうとっくに食いつくされていた)。私の前にいたN嬢がまっさきにキャベツに食いつく。「ありがとうございます!」と言いながら、次々にキャベツに群がる女ども(笑)。Iくんって素敵。こんなとき、人は恋に落ちるものなのかしらん…。

 と、かように少女漫画ばりの胸きゅんシーンは、意外と日常の中にあったりするということが検証された打ち上げでした。携帯王子やキャベツ王子が一夜にしてデビューするわけです。

 ちなみに私は離脱まぎわに、松井繁彦(大)をお膝に乗せてみたりしたのですが、その母なる大地極まれりといったパール・バック風の姿にだれかきゅーんとしてくれたかしらん…。

 

☆その音にはワケがある  2010.6.7

 音の「形」というものがずいぶん感じられるようになってきた気がする。音が出るとき、切れるときのアウトライン、音そのものの形。同じ1拍の音符や、そして休符の時間の中にも…《気温》のようなものによって《ふくらみ》が生じること。

 当たり前のことだけど、よい演奏にはワケがあるってもんだ。すべての「一音」にはワケがある。その「ワケ」も、相当にいろんな要素で成り立っているのだけど。魅力的な音を出せる人は、いちいち言語化したり考えたりしなくともそのたくさんの要素を掌握しているに違いない。私はそうしたセンスを持ち合わせてないが、しかし要素について考えることやイメージを明確化することはできる。そして、それを楽しむことができるのはうれしいと思う。センスもないのにどんくさい「自分のフィーリング」を押し通 したって、何にもならない。フィーリングを否定はしないが、それだって育てるものだろう? 

 ただ、その曲をつつがなく演奏するために弾いているわけじゃないんだ。いかに一曲全体を見ながら、一音一音を生きることができるか。一音と一音の間を生きることができるのか。

 生きているから歌うんだ。その反対はない。

 

☆洋装に挑む構え   2010.5.31

 その日は家に帰ると寝てしまいそうだったので喫茶店をはしごしながら仕事していたのだけど、だんだん煮詰まってきたのでついにはペンとノートを手にしながら街を歩き始めた。歩くと脳に刺激が伝わっていい、というのはホントだと思う。道ばたで立ち止まって書いたり、デパートの踊り場で書いたり。

 買い物するつもりで歩いてるわけじゃないので店に寄るのは御法度だけど、前を通 るとどうしても入らずにいられない店がある。立ち止まって、ウインドーの向こうに、見たことのない服がかかっているのを認めると我慢できずついふらふら入ってしまった。2、3か月ぶりか。

 なんと説明したらいいんだろう。ちょっと現実離れした、手間のかかった服が多い店。上質な素材。ケミカルな雰囲気はなし。しかしつまらん「ナチュラル派」みたいなものとは極北の世界。寡黙そうに見えて、秘めたる内面 は豊か。一見トラディショナルなようで、かなりの曲者。ここの服を見ていると「くみしがたし」と思う。 どの一着にも、意味や性格を感じる。

 少し前から考えていたことがあって。日本人にゃあ、もとはといえば不自然な「洋装」でわざわざ暮らしているならば。もっと、洋装の深みにはまってみちゃあどうなんだ、と。そんなことを思ったのは、以前この店に来たときに見た、19世紀末ヨーロッパの小説の挿絵にでも出てきそうな服(それは非売品だった)がずっと目の奥に焼きついていたからだ。「ああいう服を着てみたい」と思ったのはコスプレ的なロマンティック趣味ではなく……現代のものとそう離れてはいない「洋服」であるけれど、ものすごく着る《姿勢》に気をつかわなくてはならないような(といっても「よそ行き服」のそれではない)……そんな服に挑んでみたくなったのだ。

 顔なじみとなっている店員さんに、このような話をしたら「ぜひこれを着てみてください」と一着のジャケットを勧めてくれた。こげ茶に近いカーキ色。張りのある堅めの生地。身ごろも袖もかなり細く作られている。斜めに走るボタンの数、17個。ああ、この面 倒くささがたまらない(つまり私が求めていたのはこれだ)。肩袖の、本来縫い合わされているところには、わざとすき間が作ってある(肩のつけ根から、中に着ている服の色がちらりと見える仕掛けだ)。「情報量 が多い服ですね」と私は言った。この服ひとつで物語ができるくらいだ。袖を通 すまでに、服を前にずいぶんいろいろなことをしゃべった。

 店員さんはとても似合うと言ってくださった。私がそれを着た写真をサイトに載せさせてほしいとまで言ってくれたので、あながちお世辞でもないだろう。だが、難しい服だ。とてもすぐに着こなせそうもない。けれど、楽しみというよりは、ひとつの勉強をするようなつもりで着るつもりだ。そもそも、そんな気にさせる服にそう出会えるだろうか。出会ってしまったが百年目というわけ。

 

☆D   2010.5.24

 数センチ大の「D」の文字のペンダントを、よくぶら下げている。クリアレッドのプラスチック板がベースで、その上にやはり赤の細かいラインストーン風のビーズが敷き詰めてあり、キラキラ光る。

 これを店頭で見たとき、一瞬で欲しい、と思ったのだが。考えてみると自分のイニシャルにない文字のアクセサリーを買うというのは初めてだった。不思議なことだ。アクセサリーは別 に名札じゃないのだから、どの文字を選んだってよかろうに。小学4年ごろに買った、スヌーピーが「A」の文字に登っているブローチは今でもときどきすることがある。「A」も「K」 も好きな形の文字なので疑問を覚えたこともなかったけれど、単純に見た目で好きなものを選べばいいんだよなぁ。まあP、X、Q、Zのように、いかにもイニシャルと関係なさそうな文字ほど取り入れるのにハードルは低くて(Dだって日本じゃこの類だ)、TとかH、M、Sなんかのほうが挑戦しにくいかもしれない(そしてこれらの文字は「売り切れ度」も高い)。

 前に、このコラム(の前身だっけ?)で、コードの中で「D」が一番好きだと書いたことがある。これを悲鳴のガンディくんが覚えていて、「だから『D』なんだよね?」と言われたので、なるほどそういうことにしておこうと思った。

 以降「なんで『D』なんですか?」と訊かれると、そのように答えるようにしている。ところが先日、話がうまくかみ合わないことがあった。私は至極当然という顔で「D、すなわちレ・ファ♯・ラのコードが好きだから」と説明していたつもりなのだが、相手は「音楽におけるD=ドレミの『ド』」と思っていたためだ。うう、ややこしい。まあ「Do」でも間違いじゃない。ドは大好きだ! 長年のうちに自分でもどれが本当の動機だったのか、どれがあとづけだったのかわからなくなってしまうことは、何事にもある。

 ある日のライブで。よく来てくださるお客さんなのだが、あまりたくさん話したことはない。彼女が終演後にちょっと恥ずかしそうに近づいてきて、「これ」、とペンダントを示し「すごく素敵ですね」と言ってくれたのがうれしくて、ますますライブ出動率が高くなったのはほんとうの話。

 

☆須山岳彦氏のこと   2010.5.16

 BBSで報告させていただきましたが、5月5日、我々のオリジナルドラマーである須山岳彦が死去しました。説明しておきますと、須山さんは我々結成時のメンバーで、その後何年かおきに脱退したり復帰したりを繰り返しましたが……正確には数えていませんがなんだかんだでのべ10年くらい我々やってました。この1年ほどは我々にもたまに不定期参加、メインの活動は「奥様とお尻愛」でした。考えてみるとガン闘病中でありながら死の1か月前までライブをやっていた(6月にもしっかり予定は入っていた)って、けっこうすごいことなのでは。

 我々初期の、よく思い出すシーンがひとつ。あるとき、須山さんは呆れたように言ったものだ。「あんたたち、なんでそんなにバンドばっかやってんの?」。それに、当時の(オリジナルメンバー)ギタリストHorry答えていわく。「だって、ほかにすることないんだもん」。

 しかし、んなこと言ってたわりには須山さんこそバンドばっかやってたよなあ。おそらく参加したバンド、ユニットは50じゃきかないだろう。バスドラが踏めないくらい、杖つかなきゃ歩けないくらい腰が悪くなってても、声帯とっちゃってもライブ活動やってるって……どんなド根性なバンド野郎ですか(笑)! 

「ほかにすることないんだもん」も、おそらく婉曲表現だとは思うけれど。

 私は「バンドばっか」やろうと思ってやってるわけではなく、むしろ日々、やめたくなったらすぐやめたいと思っている。だって時間もエネルギーも、ものすごく使うんだもん。なのにやってるのは、やりたいと思うことが尽きないからなのだ。やってる限りは容赦なくやりますよ。

 

☆五月はものみなあらたに   2010.5.3

 月ですよ! 私のいちばん好きな月ですよ! なんて何か月か前にも書いたような気がするけど、まあ相手が「月」だからいくら八方美人になったってかまわないだろ。ようやく暖かくなってきて(地球温暖化はどこいったんだYO! 去年、温暖化について云々解説した本作っちまったけどどうしてくれるんだYO!)……どうにも浮かれるったらしょうがない。私にとっての「五月病」は浮かれ病だ。年末年始に水をやり忘れて再起不能かに見えた枯れっぷりだった鉢植えも、がぜん調子こいて芽吹いてきた。いちいちご機嫌にならざるをえない要素がそろっている。押さえておかないと飛んでいきそうだ。いやまあ連休中にもあれやこれや業務がびっしりで、おもしは十分なのだけど。だけど、電話がかかってきて「ちょっと出てこない?」なんて言われると、軽々しくタガがはずれてしまう。ちょっと押したら福島あたりまで走ってしまいそうだ。五月! 愉快! たまにはコーヒーミルで豆を挽くとしよう。どんな音楽が、聞こえるだろうか?