ダマコラム KOZUE AOU 2007.4〜8月 2007.9〜12月 2008.1〜4月 2008.5〜8月 2008.9〜12月 →top
☆体育会系の血が騒ぐのさ 2009.4.26
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スポーツクラブ始めました。と言うと「ええー意外!」と驚かれる。私自身はあまり驚いていないが。字書いたり音楽やったり本読んだりするばっかりで暗い時間にゴソゴソ蠢いてるので健康的イメージとはほど遠かろう。しかし自分の中に、運動するしないとは別の「体育会的な心」があるのは確かである。私は娯楽としてスポーツをたしなむことはないだろう。やるなら本気にならざるを得ない。 スポーツクラブに入会した理由はホントに明解で、動物を磨くためである。ひらたく言えば野山を駆け回って息切れせず、サクを軽々飛びこえたり、サバイバルに強い動物になるためである。 私はスポーツクラブなんかダッセーと思っていた。いや、今も思っている。特にランニングマシンとかバイクの類。走るくらいどこでもできるじゃん? しかし不甲斐なくも寒さに臆病な私は、冬場に外を走れないという事実に直面した。だって走ると耳が落っこちそうに痛くなるじゃん。あれが治るのに1時間ばかりかかるのにはうんざりだ。おまけに私の耳は耳カバーを受けつけないヘニョ耳なんだ。そんな軟弱なおまえはマシンの力をお借りして室内でチミチミ走るがいいさ。ばか。 で、あの実にマヌケなランニングマシンの上をノコノコ走っているわけなのだが、敵は走っている間の退屈さである。風景が変わらないってつまらんね。備えつけのテレビを見ている人もいるが、底抜けにダサいので死んでも見たくないと思う。ウォーキングしながら雑誌を読んでる人も信じがたい。ふだんは「ながら礼賛」の私だが、頭と体がそこまで分離するのはどうかと思う。多いのは音楽を聴きながら走っている人。これが一番マトモだが、残念ながら私にはフィットしない。音楽を聴くことと走ることがどうしても合致しないのだ。そこで頭の中で歌いながら走ることにした。ただし、これも「合致する」曲を選ぶ。テンポが乗らないとうまくないしな。自分で歌えばテンポを調整できるので快適だが、そういえば音楽を聴きながら走っている人は、着地リズムに合わない曲でも違和感ないのだろうか? 私は大ありだ。雰囲気、速度、リズムすべてがしっくりくる曲が少なく、同じ曲ばかりリピートして飽きてしまう。ビリー・ジョエルの『Tell her about it』とか『侍ジャイアンツ』のオープニングとか、我々の『モノクローム・サマー・クレイジー』とか。飽きると空白が訪れる。 その空白の中、自然と頭に浮かんできたのは……「一中〜、ファイ、オー、ファイ、オー、一中〜、ファイ、オー!」。なんと中学時代、部活でランニングするときのかけ声じゃないか。しかしコレいいな。燃えるし。先輩の顔やらムカつく顧問の顔までよみがえってくる。畜生、とか思う。わかった! 私にとってランニングは「晴れやかすっきり気分で心身ともにリフレッシュ」目指してやるものではなく、闘志満々でやるべきものなのだ。「わっせ、わっせ、ドバッドバッ!」。これは『男どアホウ甲子園』ね。いい感じ。さらに……土門さんの顔を思い浮かべつつ「打倒、明訓」などと心の中でつぶやいてみると、そりゃもういくらでも走れる気分になるではないか。大発見だ。今度は握力ボール持参で行こうかしら。 |
☆わかるほどに自由になる 2009.4.20
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今年の1月、スタジオリハの最中。急に「そうか、私が弾いてるのはベースなんだな!」とわかった。ようやく何を弾いてるのかわかった気がしたのだ。別に「音楽家な気持ちになった」とかそういうことでもなく。説明しずらいのだけど、本当に言葉の通り「これはベースだ」とわかったというだけで。しかし、それを感じた瞬間ものすごく昂揚したしうれしかったのだ。 そして今日、Suicaにお金をチャージして。釣りの千円札が機械からはき出されてくるのを受け取りながら、ふと「これはお金だけれど、紙っきれだな」とわかった。役に立つものではあるけれど、ただの紙だと理解した。もちろんお金に価値は感じるし、大事だし、実際必要だ。だけど、こう思ったことで、私はお金に多くを期待しないですむようになる。 前からうすうす「そうじゃないかな」と思ってたことが確信に変わると、解き放たれたような気持ちになれてすっきりする。 |
☆自分を使いこなすには 2009.4.13
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本屋でたまたま見かけた『音楽家のためのアレクサンダー・テクニーク入門』(ペドロ・デ・アルカンタラ/春秋社)という本を読み始めた。アレクサンダーさんという人はもともと俳優であったらしい。声の不調に瀕した際、数々の治療や発声法が役に立たなかった経験をきっかけに「自分の身体のよき使い方を自分で考える」ということに取り組み、やがて「思想家」「指導者」として名を馳せるようになったという。 帯には「音楽をする人に限らず、何かを表現しようと思うすべての人に読んでほしい」とある。まだ読了していない時点で言ってしまうのは乱暴かもしれないが、この本は「表現しようと思う」以外の人にも十分役立つもののように思える。 《自己の使い方とは、つまり、私自身のすべてを伴う反応のしかたのことである。アレクサンダーは簡潔に「人間の個性・性格とは結局のところ、自分自身をどのように使うかという、その流儀である」と言っている。自己とは、身体と心の2つに分かれているものでもないし、身体と心と魂に3分割されているものでもない。それらはすべて一緒に働いている。(中略)さて、自分が1つの全体であって分割できない存在であると納得すると、今までとは違った話しかた、違った考え方、違った練習・リハーサル・演奏のしかた、病気の違った治しかたを求めるようになる。もしあなたが1つの全体で存在するならば、1つのものとして機能するだろう。全体から切り離された各部分を試したり、変えたり、コントロールしたりしても、意味がないのだ。》(以上、引用) この本には、私がしばしば、ぼんやり考えていたことに近いことが書かれている気がする。ひとつの「悪い癖」を抑えて改善しようとするのでなく、核は「人間の行動をどのように変えるか」「心身の使い方がどれだけ技能に影響するか」。「自己全体の使い方をコーディネートするメカニズム」を知る。魅力的なことだ。私は強くりこうになりたい。 |
☆何を見ても何かを思い出す 2009.4.6
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たまにはメンバーのことでも書いてみよう。昨年末より我々に新加入した、ギターの内田芳尚くん(通称、尚ちゃん)のことでも。彼の演奏についてはまあ実際ライブを見ていただくとして…。私は尚ちゃんに会ってから、たびたび「井上靖っぽいなあ」と思っていた。まるでポピュラーじゃない例えですいません。あくまで井上靖の自伝的小説『しろばんば』に続く、『夏草冬濤』『北の海』を繰り返し読んでの、あくまで私の井上靖像なのですが。 主人公の洪作は、なんとも不思議な魅力のある少年である。小学校時代はそれなりに勉強ができたが、中学に上がるとなんとなくやる気をなくしてあっという間に成績は急降下する。明朗活発とはいえず友だちも少ない。かといって傍から思われてるほど、本人は暗くないし卑屈にはならない。へまをやらかしても「起こってしまったことはしかたない」とばかりに、やけに淡々としている。洪作はひょんなことから「外国の歌をうたったり、詩を作ったり、授業をさぼってラーメン屋に行ったりするような《不良》」の上級生とつきあうようになる。上級生たちの持つ未知の世界にひかれていく洪作なのだが…、一方なぜ選民意識を持っているその上級生たちは彼を仲間に入れたのだろう? それは狭い世界で一種インテリを気取っている彼らには新鮮な、やけに太い何かを洪作が持っていたからなのだ。『夏草冬濤』に印象的なシーンがある。浜辺でかけっこをやることになり、みな学生服の上着を脱ぐ。と、ふつうは下にシャツを着ているものなのに、洪作ったら裸なのである。みなは驚く。呆れる、ともいう。「凄えのが、俺たちの仲間に入って来やがったな」という台詞に、それが表れている。そりゃ自分なりにこだわりはあるのだろうけど、一般的な視線で見ると無頓着。ときにむちゃくちゃ素直、転じて捨て鉢でもあり? 破れかぶれな雰囲気が心配にもなり、頼もしくも感じるような。そんな雰囲気。 この日曜は夜まで我々のレコーディングをやっていた。帰りしな、半そでTシャツの上にざっとフィールドコートを羽織る尚ちゃんに、だれともなく「寒くないの?」と声をかける。暖かい日だったとはいえ、薄着だよなあ。いや、ただ「薄着」が重要キーワードというわけではなく、それは象徴的な事柄に過ぎないのだが。私は確信する。「やっぱコイツは洪作だ!」と。 |
☆邪魔 2009.3.30
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「マイペースで」って言葉はそろそろ自粛してほしいと常々思う。このフレーズがどうしてそんなに嫌いかと改めて考えてみると、ふむ、言葉自体には罪はないと思うのだ。つまり、自分の心の中で自分に向けてならば言っていい言葉だと思う。まるで関係ない人から答えを急かされている現役戦士なら、「おまえには関係ないかんね」という宣言も含め口に出していいと思う。のっぺりまったり暮らしてる人に「マイペースでがんばります」と言われると、萎えるのである。それ以上マイペースにしようがあるのか、と思うのである。なぜ、ただ「がんばります」ではいけないのか。がんばれないときの保険をかけているのだ。あるいは本当はがんばりたくないけれど、人からがんばってないと思われるのがいやなので「マイペース」という言葉をガイドラインにしてみせているのである。うっとうしい。そもそも「マイペースで」などという人に、戦場に入ってくる資格はないのである。「たまには本物の銃を打ってみたい」という気持ちで、戦場をウロチョロされては邪魔なのである。戦場ではマイペースもへったくれもない。自分の都合でことが運べると思ったら大間違いだ。いい按配に、本物の臨場感を楽しめる戦場なんてない。 |
☆私の中の動物 2009.3.23
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家の便器に腰掛けたときに、ふとその便座の冷たさにほっとした。考えるともなく「便座が冷たくてよかったなあ」と思ったのだ。冷たいことが快かったわけではない。ただその冷たさがあることをよしとする、動物としての私の内なる声に遭遇した、という話。 エアコンは使うくせに床暖房を嫌う気持ちは、なんとか説明がつく。エアコンはつければ温かい。止めると寒くなる。使っていることを忘れないでいられる。しかし、床暖房は、たぶん床が冷たかったことを忘れてしまうくらい快適なのだ。私は床が冷たいことを忘れたくない。 並の軟弱な都会人である私だが、ときおり発動する「これは自分に近づけるべきではない」という警戒令にしたがって生きている。それらに科学的根拠に基づくルールはないけれど「便利でもこいつの力は借りたくない」と思うのは、おそらく「これ以上自分を弱くしたくない」という必死の気持ちからか。温室育ちでもぎりぎり文明を疑う気持ちは忘れたくない。カラ手で闘う術を持った人ほど強い。そういう強さにあこがれる。 |
☆アウトプット 2009.3.16
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出したり入れたり、は大事だと改めて思う。満を持して出そうと思うとどうしても貯めこみがちになる。最近、いささか貯めすぎた感があって、どばっと放出したい衝動に駆られている。今年は大放出の年にしようと思う。満を持そうとしすぎるうちに、時は流れる、パイプは錆びる。 貯めこみがちになると、出すことに及び腰になる。やや雑になってもいい、とりあえず提出することを自分に課すことにする。「ない」と思うより早く「出す」。賭けなきゃフィーバーはやって来ない。 |
☆ミニコミの魂 2009.3.9
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先日、松本亀吉さんが発行しているミニコミ『溺死ジャーナル』のイベントでライブをやらせていただいた。いやはや創刊21年とは驚かされる。大谷能生さんをゲストに迎えたトークでは、初期のものをスクリーンに映しつつページを紹介していたのだが、ページからほとばしる熱気に「ミニコミっていいなあ」とひさしぶりに思った。なんだかミニコミが作りたくなってしまった。 ときどき知人から頼まれてミニコミに文章やマンガを描くことがある。でも「!」と思わされるようなものに最近出会っていない。「!」じゃなくても読んでて楽しい、くらいでいいんだけどね。 これだけパソコンが普及してるわりには、レイアウトの程度がおそまつなのが意外だ。私が大学のとき、ワープロで打ちだした原稿を切り貼りしてたのよりも、拙い。やっぱりツールじゃなくて中身なんだなあ……と言ってしまうとまるで年寄りの人ほど程度が高いみたいな言い方になるので、これは却下。ただし昔よりは楽に作れるようになったことは間違いなく、敷居が低くなったことで玉石混淆の「石」の割合が増えたことは確かだろう。これはミニコミに限らずホームページやブログも同じ。 少し前に、イラストレーターの方から作品ファイルを預かった。その中にブログをもとに作った自作の本の紹介があったのだが、「だれも作ってくれないので自分で本にしました」というような言葉が添えてあって、本当にがっかりした。本人は、だれか編集者が目を留めて世に送り出されてもよいような作品だと本気で思っていたのだろうか。それとも、ただの「(笑)」的な冗談なのか。冗談にしては面白くないので、意図をはかりかねる。自分の作品に誇りを持つのはけっこうだが、ならばそんな自虐的なコメントは余計だ。 デザイン含め見た目はとってもキレイにできているけれど、中身が大したことないミニコミも困る。限りなく本物の雑誌っぽい分、本物の雑誌とくらべて内容が素人くさいのが目についてしまうわけだ。あと、「何か書けと言われたので、書く」みたいな書き出しがよくあるのは一体なんなんだろう? おまえはどこの文豪だ? ……などと書き散らして、自分が作るかもしれないミニコミのハードルを上げる私である。 |
☆時は金 2009.3.2
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何かと傷つきやすい人というのがいて、名指しで攻撃されたわけでなくても、自分が後ろ暗い気持ちになるようなメッセージに触れる程度で落ちこんだりする。私は常々自分が鈍だと思ってはいるが、それでもこの気持ちは理解できる。傷つく気持ちになったとして、落ちこむかどうかはその先の問題ではないか。まじめな人ほど、他人が言うこと、あるいは大きなメディアが発信している言葉に弱いものだが、それが正当とは限らない。人は人、と割り切るべきだ。もし本気で、痛いところをずばり突かれたと思うなら、それを受け取って生産的に生かせばいいんじゃないか。 という考え方の私は、あまりに前向きと思われるフシがあるけれど、前向きというよりは非生産的なことが嫌いなだけだ。どうせ悩むなら、何かの足しにしたほうがいい。自分を哀れむだけで時間が過ぎていくことの、なんともったいないことか。日々私が書いていることがだれかを傷つけているかもしれないことは重々承知だが……まあそれも何かの足しにするも、あるいは「ケッ、この小者め」と吐き捨てるも自由。 |
☆そんな女に私もなりたい 2009.2.22
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中学時代の友人、Fにひさしぶりに会った。現在小学生の娘を持つ専業主婦だが、やっぱり全身ヴィヴィアン・ウェストウッド。変わっていない。昔からおしゃれで、しかも器用。娘の小学校の入学式には、自作のピンクのボンデージパンツを着せた剛の者だ。しかし彼女がいうには「好きなものは変わらない」から、最近はさほど買い物にはしることもないのだそうだ。 中学当時、一見はとっぴな格好をしていたけれど、彼女の中には「目立ちたい」というような意識はかけらもなかったに違いない。ただ淡々と、好きなものを選んでいるだけ。外見とは裏腹に、Fはだれよりもまっとうで、私はそのまっとうさに時折ものすごくカルチャーショックを受けた。いや、カルチャーショックというより……単に自分の子どもっぽさと下品さを気づかされたということだ。 Fと100円ショップに入る。Fは、通路にだれかが落とした商品を拾っている。駅前で配られるチラシを、Fはいちいち律義に受け取る。2度目に同じビラを差し出されたときには「さっきもらいました」と、言う。喫茶店を出るときFは、「ホコリがたつからここで」と、席を立って通路に出てからウールのコートを着る。席に座ったままコートに袖を通していた私は内心あわて、自分のコートが革と化繊のコンビであったことにほっとする。 こんなことが、Fとつきあってきた中で幾度もあったと思う。 私は「いいひと」に憧れるわけではない。しかし、Fの何においてもこれ見よがしでなく、説明するのは口にすべき最低限の分だけという、きっぱりとしたところに憧れるのである。 |
☆キラッ! 2009.2.16
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ライブによく来て下さるK女史に「『キラッ!』(という曲)になると、あおうさんが今日はどんなアクセサリーをしてるか確認したくなるんです」と言われた。なるほどこういう方もいるから、その日のアクセサリー選びに手が抜けないではないか! ライブのときはほぼ首まわりのアクセサリーしか選択肢がなくなる。指輪はじゃま。ブレスレットはもっとじゃま。イヤリングはすっとんでいく率高く、気が散るのであんまりしない。 去年、ミラーボールがトップについたペンダントを買った。直径3cmくらいの、なかなかそれらしいものが革ひもにぶら下がっている。実はリップグロスのケースにもなっている、パーティー向きなアクセサリー。ライブでするのにちょうどいいじゃないの、と思って買ったのだ。しかし、いざ着けてみると。けっこう重さがあるゆえに、歩くとみぞおちをドスドスとヒットするのである。しばらく歩いてくるとてきめんにきいてくる。こりゃライブで着けるなんて絶対無理。革ひも短くするとバランスがカッコ悪くなるし……。というわけで引き出しで眠ったままのミラーボールペンダント。今思いついたのだが、ミラーボールの衝撃を緩和するプロテクター的ペンダントを考案して、それとセットですればいいかもしれない!? |
☆出かける 2009.2.9
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基本的にずっと家にいても退屈しないし、外に出かける仕事を断ることだって可能だ。だけど、外に出ないとなんだか風通しが悪くなる気がするから、なるべく用事をつくって出かけていく。自分が極端な出不精になるのは容易だとわかっているから、先手を打つわけだ。 私の親はかつて「外に出て行っても疲れるだけ」「危ないだけ」「ばい菌にさらされるだけ」と唱え続けていた。自分がそれに疑念を持てたことは幸いだったと思う。そうしたリスクはあるかもしれない。けれど、家にずっといれば完璧に安全なのか、そしてそれは健全なのか。 やっぱり外に出かけていくべきだ。頻度の問題じゃない。出かけることを恐がらない気持ちの準備だけはいつもしておくべきだ。地元ばかりじゃなくって、たまには違う街に行くといいよ。しょっちゅう出かけなくっても、思いついたときにすぐ立てるようにしておかないと、弱るばかりだ。思いつきを、億劫だというだけで簡単に捨てないがいいよ。 |
☆どうしてそんなに古本ハンティング 2009.2.1
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その日、私は取材で新所沢にいた。多摩っ子の私は、西武線に親しんで育ったため埼玉一部地域はマイエリアな気分でいるのだが、それにしても初めて上陸する駅である。その取材が決まったとき、当然私の頭に浮かぶのは「よーし、新所沢の古本屋を漁ろう」である。取材の資料に目を通すより先に、新所沢の古本屋について調べる私。取材は夕方ごろ終わるしな、時間はたっぷりあるぜと思っていたのだが。 当日になってみると時局は予想外の悪化を見ており、そう遊び呆けている時間はないという現実が立ちはだかった。冷静に考えて「遊べる時間は1時間半だな」と見積もる。そこで、さらに冷静な目で自分という人間を見つめてみる。この、新所沢という……微妙に家から遠い地域がやばい。家に帰るのに約1時間要する。私はこのくらいの遠さがあると、糸の切れた凧状態になるだろう。1時間半遊んでるうちに「もうどーでもいいやぁー」とヤケクソになるに違いない。破綻必至。せめて、もう少し「糸の短い」場所まで移動しないと危険ではないか。 考えた結果、中間策をとって国分寺駅の古本屋を流すことにする。あ、ちなみに一応仕事がらみでも古本屋に寄る用事はあるんだかんね……と、自分に言い訳しつつ。頭を整理するためとはいえ、あろうことか途中まで一緒だった仕事先の人に、このまんまのことをズラズラしゃべりつつ。同行の方もその手の好き者だったので、電車の中ではもっぱら古本屋ばなしを。彼が長らく探しているという本について語るのに、絶対にいつかは見つかります、私も何年も探していた本とこんなミラクルな出会いを……などと言ってるうちに国分寺に到着。 いやあ、この日国分寺に降りることになったのは、神のお導きだったのである。なんと、その古本屋に何年も探してた『ピクウィック・クラブ』(ディケンズ/ちくま文庫)があるじゃないかぁ! しかも上下巻で700円という信じられない低価格。ん、これ、3冊組みじゃなかったっけか。調べてもらうと、やっぱり(中)が抜けている。店の人が、あとから倉庫を捜索して連絡をくれることになったのだが。 さて、店の人の報告によると、店には中巻がなかったそうなのである。しかし、彼女は親切にもアマゾンで中巻が1600円で出ていると教えてくれた。1600+700=2300円。すなわちほぼ当時の正価に等しい、ならば購入決定。と、さっそくアマゾンを訪れてみると驚いたことにここでは上巻は500円、下巻は7500円もしてるから店の人はどう思ったやら(ちなみに私も3冊で1万近くも出すつもりはない)。私が買わない場合は、「不ぞろいのセットゆえ」店頭から引っこめると言ってましたがねぇ。 |
☆切手をなめよ、郵便箱を開けよ! 2009.1.26
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私はいまどきメールのアドレスより「住所」重視派、手紙を好む。定期的に文通している相手は3人。香港のH嬢、四日市のY嬢は、引っ越しがきっかけで。そして83歳のY婦人は実家のお隣さんで、私が第二の母と慕う方。「文通しましょう!」と言い出すのは私のほうで、ありがたいことに相手もそれを楽しんでいてくれる様子なのだが(というか、それが予想できない方にはさすがに声をかけない)、このたび、ひさびさに指名したい新人が現れた。細かい経緯は省くとして、小学2年生男子の彼は、私の母の友人の孫である。私が、自分の作った本を直接送ることになり……となると当然、手紙をつけますよね。うーん、きっとこの子のお母さんもバアさんも読むんだろうな、などとと思いつつ手紙を書くと、即刻返事が返ってきた。親に早くお礼状を書け、と急かされたのかもしれないが、その内容はふつうに友だちになれそうな気がするものだったのである。便せんの2枚目に、いきなり「世界でいちばん長い市の名前」とあって、聞いたこともない固有名詞が何行にも渡って書かれているのも気に入った。よし、この子を文通相手にしよう。次からは封書のみ、親ぬき祖母ぬきでやるもんね、とやる気満々になったのである。小学2年男子に「文通しようぜ!」といきなり宣言してもピンと来ないだろうから、相手がドン引きしない程度のペースでゆるゆると、されど着実におっぱじめる所存である。 先日、友人が「もらった年賀状の数はあなたを支える人の数です」とかいう郵便局のCMのコピーに本気で落ちこんだ、と言っていた。どうにも共感できないコピーだし、まあそれを真に受けるほうも真に受けるほうだ(彼はもらった年賀状が、私が出したのを含め2枚だったそうで)。なんとくだらない。私は猛烈に年賀状を書くほうだが、それが別に相手にとって「何か」であると期待もしない。「もらって悪い気はしない」という言い方もされるが、これに関しても懐疑的だ。ひょっとしたら、もらうのがうっとうしく、「どうせ返事出さないのになんで毎年送ってくるかなあ」と思っている人がいないとは言い切れないからだ。だから、ここは「出すのは自分の勝手」と割り切って書いているのだが。そもそも、もらったものに返事を書く義務もないと思うわけよ。嫌々書く必要もないわけよ、年賀状なんてね。好意的に書いても年賀状、お義理で書いても年賀状、嫌々書いても年賀状。その程度のものが、「支える人の数」なんてちゃんちゃらおかしいわい! 年賀状のみならず、定期的に文通している相手のみならず、ふと何か書いて送ってみたりすることもある。しかし今や、「郵便箱を見る習慣がないもので、気がつくのが遅れました」っていう人がけっこういるのね。私に住所を知られている人は油断すべからず、爆撃されたい人は積極的に私に住所を教えるべし。そして、同じ50円なり80円なり払うなら、郵便局さ行って美しい切手を入手することを推奨する。最近、古切手をきれいにはがして紙トランクにコラージュしているのだが、これがなかなかいい出来でね。 |
☆旬をたのしむ 2009.1.19
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夏に終戦・原爆ものを読みあさる私としては、冬も季節感あふれるノンフィクションを読みたいもの。今年は1月頭に「昭和天皇」ものおよび「昭和が終わった日」関連書を強化読みしようと計画してたのに、すっかり失念していた! そこで……、今、集中して読もうと思っているのが、今さらながらに「二・二六」もの! 二・二六ものは本屋に行くと、驚くほどの量があったりするので、手ごわそうだが。……これぞ雪の降る夜に読みたい本ナンバーワンではありませんか! 雪山ものも捨てがたい。最近薦められた、夢枕獏の『神々の山嶺』という本も相当おもしろそうで……。 とりあえず二・二六ものを集めつつ、確定申告を締切前にさっそうと済ませたりなんかして、東京に大雪を降らそうかしら。 |
☆ありがたき読書の師 2009.1.12
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買っては売りを繰り返すうちに、年々自分が残すべき本の核がわかっていく。児童書の中では、なにやら「子ども向きにもかかわらずテーマが重くて内容が苛酷なもの」がかたまり始めた。 近所に、児童書専門の古本屋があるのだが、ここはありがたいことに「心が癒される絵本」だの「おしゃれな絵本でくつろぐひととき」的なものを目指してる店ではない。店主は、表面だけかわいらしく取り繕ったような作品にめちゃくちゃ厳しい、本気の絵本・児童書マニア。最近その店で求めたのは『アーノルドのはげしい夏』(ジョン・ロウ・タウンゼンド※児童文学史に残る名作であることは間違いないが、内容に救いがなくて賛否が分かれる)だの『われらの村がしずむ』(アン=R・ファンデル・ルフ※題からわかる通りのダムもの)だの。『ルイソの航海』(ホセマリア=サンチェスシルバ ルイス=ディエゴ)などを手に取る私を見て、店主は「またそんな本を……」と苦笑しながらも、『波紋』(リンザー)とか『ぼくと原始人ステッグ』(クライブ・キング)を「これは粟生さんに向いてる」と勧めてくれたりと、行くたびに教わることが多いのだ。勧められた本は、百発百中はずれなし。実に頼もしい。 行くたびに、彼女が聞いたこともないような作家の本をわざわざ取り出してきて見せてくれるのは、純粋に本への愛情からにほかならない。「ずっといつか入荷できると信じていた」と店主が言うその美しい絵本に私も魅了され……けっこうな値段がはるものの、「買って帰りたい!」という気持ちが盛り上がっていた。しかし、店主はやんわりと言うのだった。「まあ、ちょっと迷ってくださいよ」と。そうだ。果たして私が、この本を独り占めするに値するかどうか? だれがいつそれを手に入れるかはともかく、この本はもうしばらく棚にあって、多くの人に鑑賞されるべき本ではないか。こんなひとことのあるところが、私がこの店を信頼する理由でもある。 |
☆年始のツッコミ初め 2009.1.5
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よくないニュースが吹き荒れる中、何を聞いても必ず「大変だなあ」と、締めくくる人。同じ言葉が繰り返されるのがどうにも聞き捨てならなかった。まるで何かがわかっているかのようでもあり、同情しているようでもあり、見下しているようでもあり感心しているようでもあり、でもそのどれでもなく……ただ、結局は傍から見ているだけの言葉。しかもそれは感想のようであって感想ですらないのである。何が大変なのか言うべきことを持っていないのに、なぜそう言わずにおれないのだろうか? これは「わかった」ということを伝えようとするフォームなのだろうか。 単なる口癖といえば、それまで。しかし、こうした「何か自分が感想を持つ前に、何か自分が考える前に《結末をつける》」というフォームは、人を思考停止に慣れさせるものである。たとえば「しょうがない」という口癖はマイナス思考を助長させるといわれるけれど、こういうしたり顔の口癖というのは人を退化させるものではないか、と。口うるさい私としては、やっぱりひとこと言わずにおれないのであった。 |