ダマコラム KOZUE AOU    2007.4〜8月 2007.9〜12月 2008.1〜4月   →top

☆晩夏                     2008.8.24

 急に涼しくなった。日の落ちるのも早くなった。夏が終わるのがさびしい。そのさびしさを存分に味わうために夕方、散歩に出かけた。5時。ちょうどいい時間帯だ。街らしいところには出かけないのがいい。商店街……ともいえないようなさびれた駅前通りから、住宅地に入っていく。花屋で、なでしこと小菊を買う。つつましやかな顔ぶれの花束をぶら下げ、廃材置き場でなんとなく木片を漁り、何も拾わずにおく。家々の庭先に生えている木や花ばかり見て、歩く。

 1時間ほどぶらぶらしているとみるみるうちに日が暮れてきて、ブッツァーティの短編ばりに不安な感じが高まる。コンビニの前のベンチに座って、思いついた曲のフレーズをメモする。やけに風がびゅうびゅう吹いて、涼いどころか寒いくらいだ。あたたかい缶コーヒーを買ってくる。帰りたくてたまらなくなる。可哀想にな。などと思う。

 家に入ったら古本のにおいがして、それは玄関先に置いてある……先日道玄坂の古書店で買った『裸の大将放浪記全集』(箱入り全4冊)から漂ってきているのだった。

 

☆私はあれが我慢ならない                   2008.8.14

 せっかく、せっかく楽しい本屋に来たのに、ポニョポニョうるさくって怒り心頭。関連本を並べてあるらしき一角から、あの曲がエンドレスで流れ続けているのである。みな、よくあれを無視できるなあ。曲は悪くないと思う。あの歌い方をかわいいと感じられない私は少数派なのだろうか。子どもに歌わせるなんざ別に珍しいことじゃないけど、どうせなら川田正子・孝子さん姉妹のように歌ったらどうなんだよ(古いな)。いや、歌い手の子どもさんを憎んだりはすまい。「このあどけない感じがいいよね」と拍手喝采する大人を、激しく敵視することにしよう。子どもの天然芸を《その子どもとなんら関係のない場所で》披露するのは気味悪くてたまらない。それに比べたら、まだこぶしをぶん回すド演歌幼女のほうが好きになれそうだ。

 本気で精神が破壊されそうなので、それが聞こえないところまで遠ざかっていったら、「精神世界」とか「宗教」の棚の前に漂着した。と、平積みになってる雑誌の、ものすごい見出しが目にとびこむ。「この夏、あの世がアツイ!」。『アーユーハッピー?』という幸福の科学出版の月刊誌であった。あの世も猛暑なのか? あの世へ行こうぜという誘いなのか? ……だったらおもしろいと思ったのだが、なんのことはない、幽霊やら霊界が登場する落語や映画の特集だった。だけど「あの世がアツイということは、地上は涼しい?」なんて、つっ走りすぎて意味不明のリード文があったり……そうとうにやりすぎだ! 内容はひどいが、ちょっとした思いつきに調子にのってしまったこのはしゃぎぶり、魚の歌の不快感を忘れさせるインパクトだけはあったよ。

 

☆アクセサリー問題                   2008.8.11

 私の数少ない行きつけの店、吉祥寺のVacantで。その日も私は、かつてVacantで買ったネックレスをしていた。チェーンに当たる部分は金の竹ビーズ。トップは黒の輪っかに白い星が乗っている。作った本人を相手に「いかにこのアクセサリーが素晴らしいか」を熱弁する……というのもなんだかおかしな構図だ。しかしその後、店主の「それは、アクセサリーとしてはダメなんですよね」というひとことに、私は驚かされる。なぜ? 

 店主いわく「それはアクセサリーじゃなくて、モノなんですよ。粟生さんは、モノが好きですよね」

 この言葉で、遅まきながらいろいろなことがわかったような気がした。私は服や服飾品が好きだけれど、いわゆる「おしゃれ」な人々と違うと知ってはいたつもりだが。要するに、私が所有する美しくときに滑稽な服飾品は、たいがいが「モノ」の要素が勝っているのだ。

 たとえば私は、小さな宝石がついているようなプチネックレスはひとつも持っていない。(この際、ブランド品かどうかはさして問題じゃないが)4℃やティファニー(昔も今も多くの男性がバレンタインに駆け込みがちな、実に信頼のおける店)で売ってるみたいなネックレスは、アクセサリーらしいアクセサリーのわかりやすい例だろう。

 あらためて、小だんす引き出し一杯分を占める私の《アクセサリー》を見ると、なるほどそれは《モノ》じみている。《モノ》じみた装飾品とは? カジュアルだとかおもちゃっぽいとかガラクタ骨董趣味とか……そういう言葉で括れるものでもないように思う。おそらく「美しい」「かわいい」「きれい」「カッコいい」という感覚、それに加えてやや余計に「おもしろさ」のような性格が与えられてしまったもの。

 かつてある男性が、50万円するというダイバーズウオッチを見せてくれたときのことを思い出す。腕時計好きの世界ではもっと高いものだってざらだろうが、その価格に驚く私に彼は言った。「これは、水深50mまで大丈夫なんだ」。別にダイビングをやっているわけでもない彼にとって、それは「機能性」ではない。だけど、「潜らないから意味がない」と一蹴するのはつまらない。おそらくそれは、役に立たないけれど……つぶしのきかない装飾品と同じく……だけど珍獣を愛でるに等しい「おもしろさ」なのだ。これだから「機能性」という言葉はなかなか曲者だ。我々はときどき使いもしない機能性のために大枚をはたくことを馬鹿にするけれど、「機能性を駆使するために買う人」「いつかは役立つだろうと思って買う人」もいれば、「絶対に利用しないだろうと確信しつつ買う人」もいて、これが《モノ》好きというやつなのかもしれない。そういえば私は、下町のほうに出かけたとき、道端に捨てられている壊れた小型バイクのタイヤを拾ってきたことがある。それまでタイヤについて何かを考えたことなどなかったが、そのタイヤを見た瞬間に「このタイヤは形も大きさも幅も、何もかもちょうどよく」思えてしまったのである。何かに役立てようというつもりもなかったし、だけどそれは今もちゃんと家にあって、いつ見ても「いいタイヤだ」と思うのである。

 私も、「竹ビーズはなぜ素晴らしいか」について10分も話してまだいくらでも話せそうなVacantの店主も、天性のモノ好きなのだろう。竹ビーズが何であるかわからない。という方は、得意の検索で調べてみてください。知らなくても一向に困りませんが。

 

☆曖昧なものになりたい                     2008.8.3

 何にもならないことを目指して生きている。これを考えたのは20歳くらいのころだが、とくに「何かになること」を目指さなければ「何にもならない」でいられるかというと、そう簡単なものでもない。ぼやっとしていても、人は「何かっぽく」なってしまうのだ。私が積極的に目指す「何にもならない」は、いわば「何でもある」の裏返しで、これは途方もなく高い理想なのである。

 もちろん特定の何かを目指している人はそれでよいと思う。私にその感覚がないだけの話だ。

 しかし、「私はこれしかできない」というのは聞き捨てならない。こんなことを言ってよい人は、本来はものすごく限られると思う。「これしか」の「これ」が、もう群を抜いて光り輝いている場合だけ。たとえ天職というものがあったとしても、得意だと思うものがあったとしてもそれはひとつとは限らないのに……「私はこういう人間なのだ」と言い切ってしまうのは傲慢で、おもしろみがないなあと思ってしまうのだ。

 

☆夏読書                   2008.7.28

 読書の夏です。今週締切のブックガイド仕事のために、あっちこっちの書店をかけずり回って本集め。その間に、どんどん私物の買い物が増えてしまうのは、夏が悪いんだ。仕事に使う本を探しているときは「時間もないしとりあえず買っとけ!」モードになるし、日頃から未読本は十分すぎるほど積まれているのだが、先日『もっと、狐の書評』(山村修/ちくま文庫)を読んで、「ぜひこれをこの夏の読書に」と思う本に出会ってしまった。

『サハラの夏』(E・フロマンタン/法政大学出版局)。画家による、アルジェリア旅行記。「かたずをのむような事件などなく、耳をそばだてるような発見も書かれない。始めから終わりまで、ただ鍛えられたまなざしが異国の風土のディテールを見つめるばかり。」(『もっと、狐の書評』より引用)……たまらん。間違いなく、私が求めているだろう本だとわかる。「起承転結なし。山場なし、谷間なし。なんと退屈な一冊か。そしてその退屈さによって、なんという広さと深さをたたえた一冊であることか。」(同、引用)という一文にとどめを刺される。新宿のジュンク堂で見つけた。88年1刷。帰りの電車の中でとりかかり、数ページ読んであっけな眠りこんだ。最高。もちろん並行してたくさんの本を読むことになろうが、この本だけはひたすらゆっくり読む……というかゆっくり読まざるを得ないだろう、このような本が欲しかった!

 もうひとつ、『もっと、狐の書評』から猛烈に憧れる本を見つける。『大旅行記』(イブン・バットゥータ/平凡社)。著者は14世紀の旅行家。「二十一歳のときに故郷を出て聖地メッカに向かってから、バットゥータの旅は足かけ三十年に及んだ。遍歴したのはアフリカ、西アジア、南ロシア、バルカン半島、中央アジア、インド、そして中国の北京にまで至る。」(同、引用)だって。こちらは東洋文庫で全6巻。これ一冊3000円くらいするけど、ひるむもんか! こういう本は自分で買わなくっちゃね。しかし、ひと夏で読むのは無理だな。三十年かけて読むか。三十年楽しめて18000円、安いもんだ。

 

☆さあ夏休みごっこの始まりです                   2008..7.21

 今年も、恒例行事「脳内夏休み」が始まった。これは7月20日から8月31日までを「仮想夏休み」と設定し、その間にやっている仕事はすべて「夏休みのバイト」ということにするという……ただそれだけのルールで、長い夏休みを楽しむというお気に入りの妄想であります。「だから?」と言われてしまったらそれまでなのですが、少なくとも私はこの妄想を数年以上楽しみ続けています。白いご飯を、同じふりかけだけで何年でもおいしく食べられるタイプの方にお薦め。「毎日違うおかずがないとつまらない」というような、お金を使う遊びほど楽しいと思っている想像力の貧しい方には不向きです。

 しかしながら夏休みの初日、20日は校了で朝帰りというか昼帰りでした。うちに帰って2時間と45分ほど寝て、起きる。夏休みの午睡という趣です。いや私、昼寝とは無縁で子どものころだってしたことないけど、なんかコレ夏休みっぽいんじゃないかね。で、高円寺に向かう。悲鳴のライブがあったのだ。灰緑企画のこの日のライブは、もつ鍋食べ放題だったり、終始お祭りっぽい雰囲気。夏休みの始まりとしてはぴったりである。いや私、出不精一家に育ったので子どものころに夏祭り行ったことなんてほとんどないけどね。ライブ終了後はタイ料理屋行ったりなんかして、もう気分はいっぱしの夏休みマスターである。

 今日は、仕事の資料を求めに町に出た。ここは夏休み気分を盛り上げるために思いきりチャラチャラしたかっこうがしたく、どこかの現代美術画家が描いた絵を布全面にプリントしたという、ドハデなロングの巻きスカートを登板させる。そして、先日カバンドズッカで買った、りっぱな銀の鎖(DIY店で切り売りしてるような「鎖」を思い浮かべていただきたい)とカラビナ(最近はキーホルダーとしてもポピュラーですが、そもそもは登山グッズだったアレ)でできたボリューミーにもほどがある首飾りをぶら下げる(コレ、見た目よりは軽いと思っていたのだが、今キッチンスケールで量ってみたら300gほどありました)。

 そして夏休みといえば読書ですよ! 仕事……もといバイトで読まなきゃならない本がけっこうあるのだが、今夜のところは『忌館』(三津田信三/講談社文庫)を読んで震えあがるとするか。

 

☆小さき冒険野郎ども                     2008.7.13

 アパートの階段に、かたつむりがくっついているのを発見した。

 コンクリの階段を、わざわざ3階まで。何がおもしろくて上ってくるのだろう? 食べるものもないが、腹は減ってないのだろうか? 避難させようかと思ったがよく見ると、かたつむりは今や下に向かって進んでいる。自力で降りる気満々のようなので、様子を見ることにする。

 約20時間後に見ると、かたつむりは5段下にいた。いくらかたつむりの足にしても遅すぎるような。かたつむりは実際、本気を出したらどのくらいのスピードを出せるものなんだろう?

 翌日は観察を忘れて、翌々日に探したが、もういなかった。無事に降りられたのか、カラスの餌食になったのかはわからない。

 常々ミミズについて疑問に思っていたことがある。真夏のカンカン照りの日、過ごしやすい日陰からものすごい熱さになってるアスファルトの道にわざわざ出てきて、かなりの距離の道路を横断しようとするミミズ。途中でひからびてしまうんじゃないの? なんでそんな命知らずの行為をするのか、と。まあ、ミミズにはきっと安全な向こう岸までどのくらいの距離があるかわかっていないのだ。ミミズが馬鹿だから……というか、まあ人間に例えればマルコ・ポーロかバスコ・ダ・ガマかというような冒険心に富んだ性格なんだろう。すわ干からび死、というときに大雨が降ったりする幸運に見まわれるかもしれないし。そもそも人間の船旅だって、目的地に着くとは限らないのだ。勇気あるミミズどもが、黄金の国ジパングを見つけられるといいね。

 

☆恐怖                   2008.7.6

 ゴキブリやハエやダニはともかく、それ以外の虫とはわりに仲よくしている私が、この世で一番おそれている虫は羽アリである。アリはこわくない。とにかく羽のついたやつには恐怖する。先日羽アリが床の上を歩いているのを見かけ、そいつをつかまえて外に出そうとしていたら電話がかかってきた。泡食っていたので、相手の要求にひたすらハイハイ言ってしまった。いやはや。

 小学生のときのこと。夕立が上がったあと、家のあちこちの窓を開けているとさわやかに涼しげな風が通り、美しい夏の夕空が広がっていた。部屋の中に飛んでくる羽アリを、1匹つかまえる。つかまえたばかりなのにまた1匹、さらに何匹か……。なんだかおかしいなと思ったとき、私は網戸一面にびっしりとくっついている羽アリを見たのである。羽アリの習性はよく知らないが、群れで行動していたのが夕立で一斉避難してきたのか? すぐに窓を閉めたものの、それから先は素手じゃ対応できず掃除機を振り回してのひと仕事になった。ちょうどあのころ「swarm」という映画が公開されていたのではなかったっけ。

 ミミズだってオケラだってアリンコだって生きているんだが、数がそんなに多いと友だちにはなれないなあ。

 

☆貨幣社会に生きているんだもん♪                   2008.6.29

 今まで知らなかったけれど、6月は「環境月間」なんだそうだ。このキーワードに気づくところとなったのは、ここのところ仕事で環境問題についてにわか勉強しているせいか、お上が環境問題の意識向上に躍起になっているせいか。

 先日、地元のタウン誌を読んでいると、商店街で行われるキャンペーンが紹介されていた。どこそこで買い物をするとエコバッグがもらえるという。デザインが6種類ほどあり、「全種類集めよう」などとあおっている。私は心の中でつぶやく。エコバッグが多すぎる……! つまるところエコロジーのキモは、シンプルにいやあ「節約」だろう? エコバッグってただの買い物袋じゃん? みんな持ってるそんなもの、今さらまき散らすなんてムダがあるだろうか。わざわざ商品化する意味のあるバッグも、あるにはある。コンパクトにたためて耐久性があり汚れにくいとか。その手の「出始め」のエコバッグは「こんなバッグがなぜ?」と思うほど高かったりした。でも、それはそれでいいのである。そこで人は、これは本当に買う価値があるものなのかどうかを見定めるのだから。タダのもの、安いものは、人を雑にさせる。

 「資源が枯渇するから」という理由でガソリンを節約はしようとは思わなかったけれども、ガソリンの値段が高騰するやアイドリングストップにいそしむ人々を、責めやしない。たぶん自分が車を運転してたとしても、私もそっち側の人間だろう。しかし、自分だったら安直に被害者ぶったりはしない。不当に搾取されてると怒りを覚えるなら自分で戦え。戦う力がないなら戦えそうな人を応援しろ。それも面倒なら文句は言わないがよい。「社会が悪い」という人は、自分も社会の一員であることを知らない。

 

☆ながらの4乗が生んだ誤解について                      2008.6.22

 明け方、テレビのニュースをつけることがある。といっても、じっと見ているわけではない。寝る前、私はたいてい朝ごはんとする何かを鍋にかけている。「これができたら寝るか」と思っている……そのわずかなすきま時間にテレビをつけ、ニュースを聞きつつたまに画面をちらっと見つつ、もちろん本を読んでいるのである。その日読んでいたのはW氏から借りている『ルーシー事件 闇を食う人びと』(松垣 透/彩流社)。

 テレビに目をやる。サッカーの試合の映像。画面下に流れるテロップは「皇太子、サンパウロに到着」。私は瞬時に「どこかの国の皇太子はサッカー代表に選ばれるほどの選手で、サンパウロで試合が行われたのだな」と思った。王子が代表選手なんてすごいな。応援にもさぞ熱が入るんだろう。……とここで、ようやくアナウンサーの言葉が耳に入り、画面と下のテロップはまったく関係ないニュースであることに気づく。

 なーんだ。再び本に目を落とす。鍋の中の、玉ねぎと大根としいたけの様子を見る。エンドウ豆を投入する。それからまた画面を見ると。

 フィリピンで、男子学生が全裸になってやる祭りが行われたというニュース映像。その下をテロップが流れる。「魚肉ソーセージ値上げに抗議」。私は、モザイクだらけの画面を見ながら、またもすばやく2つのニュースを合体させてしまっていた。「なるほど、魚肉ソーセージの値上げに抗議するために全裸でデモをやっているわけだな。なかなかシャレがきいているじゃない(いやらしい笑い)」。直後に、「フィリピンで行われる伝統行事」という言葉が耳に入り、私はまた勝手に考えすぎたことを悟るのだった。

 料理しながら本読みながら、メインのニュース流しながら別のニュース流す番組を見ようとするとこういうことになる。

 

☆しゃべりゃあいいってもんじゃないだろ                       2008.6.15

 洋服屋で、店員に話しかけられるのはきらいではない。ただし、話したい時もあれば、話したくない時もある。これは気分的な問題ではなく、言い換えれば前者は「話す必要がある時」(商品について訊きたいことがある、及び店員さんが魅力的で思わずともに服を語りたくなったりする場合)、後者は「話す必要がない時」(アドバイスやプッシュを必要としない)である。このあたりをかぎ分けることができない店員さんというのは困りものだ。そういうふうに声をかけるよう指導されてるのかもしれないが、もうとっくに広げて見てるのに「よかったら広げてみてくださいね」と言われると、じゃまだなあと思う。あるいは、15秒に一度の割合で(その場で腕時計を凝視して計っていたのだが、そのうつろな視線の店員さんには気づいてもらえなかった)「見てってくださいねー」と生気のない声で誰にともなく言い続けるとか。どちらかというとシックな店であるのに、初めてフリマを出店した素人商人のごときかけ声は…一体何のつもりであろう。2回以上「よかったら試着してみてください」と言われると、親切のつもりだろうが、せっつかれてるようでうっとうしい。したけりゃこっちから言うわい。もっとも、世の中には自分から「試着させてください」と言いづらいという奥ゆかしい人もいるのかもしれないが、そこらへんこそ客の目のギラつき具合を見て判断してほしいものなんである。

 店員さんがかけてくる言葉のポピュラーなもので、「それは今日入荷したばかりなんですよ」とか「色違いもありますよ」とかは、まあ実用的な情報が含まれた類だろう。

 しかし、平日の昼間によく言われる「今日はお休みですか?」ってのは返事に困る。行きずりの相手に急にこんなこと訊かれても。服と関係ないし。これを言われると、私はなんとも言えない気持ちになる。心の声1:(いや、本来仕事すべき時間帯のような気もするけどサボってぶらぶらしてんですが。ほっとけ!)2:(つーか自由業だからいつが休みでいつが仕事とか決まってないんだわ)。だいたい、この質問に「はい」と答えたからって話が広がるわけでもなさそうだが。一度、わざと「いいえ」とだけ言い切ってみたら、店員さんは無言であった。それみろ。接客トークするつもりならば、先を考えてから話しかけてほしい。とはいえ、そう訊かれるってことは、仕事をしてる人のように見えてるということか? 第3の回答「専業主婦なんです」っていうのもアリだなあ。あるいは「今さっき首になったんです」と、いきなり重く攻めるとか? こういうことを想像しだすととまらなくなる。変化球の返答をも上手に切り返せる店員さんだったら、私、ファンになってきっと店に通ってしまいますわ!

 

☆行列のできる外科医になればよかった                    2008.6.8

 ライブで最後の最後に……右手を振り下ろしざま1弦を殴って音を出すつもりが。薬指の第2関節当たりでヒットするというのは予測通りだったのだが、当たったところがブリッジのボルトだった。終わってから血をべろべろなめてて、なかなか血が止まらないなあと思ってよく見たら、ボルトの頭の形に、みごと十文字に穴が開いてたのでおもしろがった。

 治癒力には自信を持ってるのでそのまま放置しておいたら、だんだんふくれ上がってきた。最初は打撲のせいだろうと思っていたが(だいたい楽観的に考えるのは幸か不幸か)、なんか熱もっていや〜な色になっている。でも、大人なので「うふふ。これはまさに今、細胞が戦っている状態にほかならぬのだな」と、適当な知識で悦に入ったりする。不思議ちゃんなら「がんばれ、私の血小板!」と応援にいそしむであろう。これが小学生とかだったら、破傷風の恐怖とかに怯えて眠れぬ夜を過ごしたりするのだろう、それもまたよし。

 化膿って懐かしい感じだ。化膿がじゃましてかさぶたになりきれてないところを、おもむろに爪でめくる。で、災害用リュックの中から出してきたピンセットで、変な色の物体を根こそぎほじくり出す。シリツ終了。そういえば子どものころも、こういうのやったな。確かコンパスの針で(家庭科習うより前でmy縫い針持ってなかったんですね)。化膿してしまった傷というのは細菌が原因じゃなかったような、それ以後は消毒薬は効き目なかったような、ともかく異物を除去すれば問題なかったような……という記憶があったので、ほうっておく。みるみる治った。

 ほじくりたいけど勇気のない方、私やってあげますわよ。

 

☆サバイバルのたしなみ                      2008.6.1

「BABBI」というイタリアのチョコレート屋の思うツボにはまり、2年連続でまんまと「バレンタイン仕様特別ポーチ入りのチョコ」を買わされてしまった。完敗です。このポーチ、どこから見ても男性向きじゃない気がするが、世の女性は「食べ終わったらポーチはちょーだいね」なんてやってんだろうか? いや、バレンタイン時期に女性が…贈る相手のいるいないに関わらず…自分用にチョコ(以外のものでも)を買うなんてのは、いまや当たり前のことだったね…。

 去年入手した「エナメル風」のビニールポーチは、いずれもハート形。黒い大きいのは化粧ポーチとして使える大きさだが、手のひらにおさまるくらいの小さい赤いやつはどうしよう? その小ささが好きで買ったのだが。

 しばらく使いみちに迷って放置しておいたが、今では飴入れとしての立場をすっかり確立している。そういえば昔、板ガムケースなんてありましたっけね。世に多いフリスク狂の方向けには、最近じゃえらく高級そうな革製のケースが売っていたりする。

 飴は重要である。どこからでも襲ってくる…緊急を要する空腹に対応するためとか、眠気覚ましとか。常時、家にある袋入りの飴の中から3〜4種類を見繕って入れる。10個以上はかるく入るので心強い。まず、コーヒーキャンディとかバタースカッチ、純露とか黒飴などの「糖分重視」系を半分くらい。これら香料が少ないので、取材中とか会議中とか周囲をはばかる時でもバレにくいのがよろしい。それから、フルーツ味やのど飴系。カルディで買ったベルギー産のフルーツキャンディは、包み紙はオレンジやラズベリーなどいろいろな果物の絵が描いてあるくせに味は一種類で、しかし何の果物味とも特定しがたいその味が絶妙によかったりして気に入っている。

 いよいよ関東にもでっかい地震がやってくる、という話題の尽きない昨今。できれば電車に乗ってるときに遭遇したくないなあ、と思いながら、車中の私は小さなハート形ポーチを見ながら「いざという時はこれが命綱になるかもしれないな」と思った。車内はわりあいすいていた。これが命綱ならば、小さく砕いて大切になめるだろう、と、小さなかけらを周りの人に分けてあげる場面を想像する。飴1粒のカロリーは10kcalそこそこだ。だけど、10分の1粒…数字の上ではたった1kcalの甘みでも、何もない時にはどんなにありがたいだろうと考える。外出時にはポーチを常にいっぱいにしていくことを忘れない私である。

 

 

☆3階のモスキート                       2008.5.26

 人形とかぬいぐるみの類を買うのはかなり控えている。数が増えるとどうしても愛が行き渡らなくなるからなのだが、先日ひさびさに迷わず即買いを迫られるヤツに出会った。

 頭部と胸部と腹部。虫だ…。黄色い靴をはいた長い足が6本ぶら下がっている。真っ黒い顔から細く飛び出ている口。蚊のぬいぐるみ! しかも、頭には長いバネがついている。ぶらぶらして遊べる。今、うちの玄関ドアの内側には、赤くて毛むくじゃらのなんだかわかんないもんに目鼻がついた不可思議なバネつき人形がぶら下がっているので「あいつと並べてやろう」とすぐに思った。ちなみにこの赤いやつは、私が小学生の時にもらったもので、もともとは笑い袋だった。バネを引っぱって揺らすとギャハギャハとゲタゲタが混ざったような不思議な笑い声がしたものだ。残念ながら中身は壊れてしまったので、今そいつの腹の中は空っぽである。どこかで笑い袋を仕入れてきて、入れてやろうと思っているのだが。

 うちに帰ってきて、蚊の入った箱を開けてみたら、英語の説明書が入っていた。電池の詰め替えの説明書きである。ということは…。店ではまったく気がつかなかったのだが、蚊の腹部には音の出るものが仕込まれていたのである。さて、腹を押すと。

 ぶーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーん。

 まるで抑揚がない工夫もないどうでもいい音だが、それがやけにかわいかった。

 

☆私の厳選絵本(1)                      2008.5.19

 ただでさえ本の量を減らそうと四苦八苦しているから、かさばる絵本には相当厳しくしないとやってられない。たぶん、絶対に手ばなさないと断言できるのは…『おおきなきがほしい』。ゴールデンコンビ、佐藤さとると村上勉(絵)によるロングセラー。「とても大きな木があったら…」という主人公の少年の妄想のみで展開するお話なんですが、木のうろとか、木の上にある部屋で過ごす四季とか、細部まで描きこまれていて、何度読んでもワクワクする「男のロマン本」です。最近人気のツリーハウスの本と並べたら売れるかも!? 幼児も読める絵本にして、『男の隠れ家』系(笑)。

 そして、やっぱり心打たれる『おやすみなさい フランシス』(ラッセル・ホーバン=文、ガース・ウィリアムズ=絵)。あなぐまの女の子、フランシスがベッドに入れられたもののおかしな想像のせいで眠れなくなり、そのたびにお父さんお母さんのところにいっちゃ「部屋にとらがいる」だの「大男がいる」だの訴える。きっと「子どものころ、こういうことがあったなあ」と共感する人が多いと思われるのですが。こう思わせるのは、絵本作家の技術だなあと感心するのです。ただ、自分の子どものころの記憶を掘り出して書いても、そうそうおもしろいものはできない。例を挙げると、よくお母さん雑誌に投稿されるような「うちの子のかわいいエピソード」みたいなのって、まあごくごく短いノンフィクションだから楽しめるのであって、たとえばそれをそのままフィクションにしたって人の心をつかめやしないのである。エッセイコミック(ノンフィクション)にしても、描き手による「ツッコミ」および「解説」目線が存在するから、ある程度事実を並べる形式でも成り立つ。もちろん玉と石があって…描き手の観察眼の角度が甘い(自分、および自分の周囲の人間をハナから「ありのままでおもしろい」と信じこんでいる場合)と、かなりいただけない。

『おやすみなさい〜』以外に「フランシス」シリーズはほかに4冊あるが(この4冊は、絵をラッセルの奥さんのリリアン・ホーバンが描いてるのだが、けっこうガース・ウィリアムズのタッチを意識してるので幸いほとんど違和感はない)…どれも名作。フランシスはよく、現実にも多くの子どもがやるように思いつくままにでたらめな歌をうたうのだが、この詞の出来にも毎度感心させられるのだ。

 

☆ボソボソしたおやつを前に姿勢をただすのである                      2008.5.11

 100円均一の店で、「アップルパイ風味のビスケット」という袋菓子を見つける。私の愛する日清シスコの作品であった。棚には100均の常連、シスコの代表作「バターココナツ」勢(最近、黒糖味やカフェオレ味などバリエーションが豊富なのだ)が仲よく並ぶ。これまた好物の……なんていったっけ、小判型のビスケットは残念ながらなかったが。

 ふだん食べるなら、こういう地味なおやつが最高である。少しならよいのだけど、お歳暮とかいただきもので、まれに大量のぜいたくなお菓子をもらったりすると落ち着かなくなり、練習に持っていったりおすそ分けしてあわてて家からなくそうとする。バターや卵をふんだんに使ったお菓子は、たまに食べるからおいしいのでは、と本気で思う。もちろん日頃我慢しているわけでなく、ボソボソしたお菓子が心底好きなのだが。値段の問題でもない。たとえ100円のものでもシュークリームを毎日食べるのは、晴れがましすぎるのではないか。と書いて、少し前まで毎日、朝ごはんの一部としてチョココロネを買っていた自分を思う。実際、あれについてはやや反省しているのだ。歴代ハマったキムラヤの粒あんぱんにしても、チョコあんぱんにしても。菓子パンを毎日食べるなんて、よくない。これは健康とか金銭上の問題でなく、ぴたっとくる言葉がなかなか思い浮かばないが、しいていえば「うわついてる」。「ささやかな愉しみ」と変換してしまいがちな、そのハンパなぜいたく加減が……「毎日」ってとこがキモなのだが……はずかしい。つまりは、雑なんだ。ありがたみにおいて。

 貧乏はカッコ悪くないが、貧乏くさいのはカッコ悪い。1「貧乏ではなく、貧乏くさくない」、2「貧乏ではないが、貧乏くさい」、3「貧乏だが、貧乏くさくない」、4「貧乏で、貧乏くさい」。一番まずいのは、4よりも2ではないだろうか。

 

☆理想的な一篇                       2008.5.5

 本の処分続行中。かさばる雑誌のバックナンバーを粛正する。山ほどある、古くも新しくもないミステリマガジンはざっと読んで捨てることに。どれもこれも「1回読んで」なんてやっちゃいられないのだが、雑誌はあとあと出会う機会も少ないからね。

 しかし、読んでみるものだ。90年代のランズデール特集号を風呂で読んでいて、素晴らしい短篇に出会った。

 舞台はアメリカの田舎町。青年Aと2つ年下のB、Cは暇でぶらぶらしている。3人そろって冴えない男だが、一応経験値が高いように振る舞っているAが、2人に「女を買うのに連れてってやってもいい」と持ちかける。B、Cは喜んで金を持ってやって来る。ところが目指す場所に行ってみるものの、ガセネタをつかまされていたらしく3人は門前払いをくらう。……ここまでのユルさと、この後の異常なスピード感のギャップがキモ。そのスピード感に敬意を表し思いきりはしょって書くと……たばこを吸おうとしたAの髪の毛に火がつき、消火しようとあせった仲間が密造酒をぶっかけてなおさら燃え上がり、駆け出したAはトラックにはねられポーンとすっとんで川に落ち、ちょうどすいすい泳いできたワニにくわえられ、仲間は丸太でワニをやっつけるつもりがAもろともたたきのめしてしまい、どう見ても死んじゃってるから持って帰らなくてはと思うのだが、しっかりワニが噛んでてはずれないので、しかたなくワニにはさまったままのAをひきずって歩き、家族に説明するのが面倒くさいのでA家の前に放置して帰る。と、こんな話。

 「ああ、私はこういう話が読みたかったんだなあ」と、心から読書の喜びを感じたのであった。このページは破って、オリジナル製本してあげることにする。ホラーアンソロジー用に書き下ろされた作品らしいが、そもそもホラーじゃないし! 単行本に入りそうもない、この、雑でロマンティックな一篇に出会えた偶然に感謝。