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☆安野光雅に勝手に謝罪   2009.12.28

 本屋で、頭が考えるより先に手が伸びたような感じで、気づくと安野光雅の『語前語後』(朝日新聞出版)を開いていた。そして、ページの上をさらっとながめて、瞬時に思ったことが2つ。ひとつは、「わっ、私ってこの人の文章にすごく影響を受けていたんだ」。もうひとつは、「しばらく(近年の)安野光雅をナメきっていてすみませんでした!」という……。

 安野光雅は言うまでもなく絵本作家で画家で、すぐれたエッセイストでもある。私が彼の『算私語録』を読んだのは小学生のころだ。これぞショートエッセイ極まれり。短いものはほんの2〜3行で、特にオチもなく、彼が気づいたことや知ったことを書いただけ。と見えて、何かしっかりと余韻を残す……洗練された文章とはこういうことかと思わされる。『語前語後』はこの本に連なるシリーズで、253の短文が載っている。相変わらずのキレのよさ。そして短い中にしっかり情報があり 、書き手の感慨や視線を感じさせる表現がされている。すごい。ひさしぶりに彼の文章を見て、かつて自分がうすうす「こういう文章を書けるようになりたい」と憧れた(はずの) ことをひさしぶりに思い出したのだ。一編ごとの短文にタイトルがなく、「001」からナンバリングされているだけなのもカッコよく思え、小学生のころにこの形式をマネして書いたことも、今思い出した。

 常々、だらだら長く書かれたわりに内容のない文章を嫌っている私だが、もちろん短くて内容のない文章だって最悪である。どっちが醜いかって、較べようはない。いい大人が利口ぶって難解な言い回しを多用した挙げ句に意味もメリハリもない文章を書くのはみっともないが、いい大人が小学生低学年レベルの「3行日記」みたいなのを公開するのも同程度にみっともない。短いほうがスペース的に邪魔にならないだけマシなようにも思えるが、「〜しました。〜がおもしろかった。〜を食べた。〜でおいしかった」的な文章を堂々発表している人には(文章のアマチュアにしてもだ)、ホントに最低9年も国語教育を受けてきたのか疑問を感じると同時に哀れみを覚える。

 小学生高学年のころ『算私語録』を読んだのは、そのとき安野光雅の絵本に夢中になっていたからだ。絵本作家・安野光雅の代表作といえば『はじめてであうすうがくの本』シリーズ、『さかさま』『ABCの本』などなど。書店では幼児向けのコーナーにあるのだが、絵が凝りに凝っていることはもちろん、構成のすみずみまでに哲学が感じられる本ばかりだ。私がもっとも入れこんだのは『旅の絵本』シリーズ。当初は売れなかったらしいが、じわじわと大人の読者が増えていき、これによって安野の絵本は大人の世界でもブレイクする。

 ぱっと見「良質な絵本」の中に、だまし絵や遊びの要素をガンガン投入する……《しれっと過激》な安野が故郷を描いた……これは大人向けというべき画文集『津和野』を出したときは、それも《過激》な行為に思えた。しかし、その後、やわらかなタッチの大人向け画文集がシリーズ化して続々と刊行されるうちに、私は安野から離れていた。なんだか、朝日新聞御用達のカレンダー画家みたいになっちまったなあ、と思っていたのだ。

 ここが、先に書いた「ナメきっていてすみませんでした」部分。

 2008年に刊行された『語前語後』を一見すれば(もちろん購入したが)、今も安野が《しれっと過激》であり続けていることはわかる。安直に「日和ったな、安野」などと思った子どもの浅はかさをお許しくだされい! これから猛烈に自分内「安野光雅・再発見キャンペーン」をはり、読解に励むことを誓います。

 

☆ONE PIECE!                2009.12.22

 ここ2年くらい「ワンピースキャンペーン」続行中である。近年のチュニックばやり、Tシャツワンピばやりのせいもあり「ワンピース」の敷居は低くなっているが……もう少し気張ったワンピースを着てても「今日、何かあるんですか?」と言われないようにするのが目標で始めたものである。「今日、何かあるんですか?」と言われるのは、《今日はがんばってます》って雰囲気が出すぎてるせいだ。《がんばってます》感、すべてを否定したくないが、それが出すぎている状態は、着こなしていないってことにもなる。こなれるためには、着慣れることである。

 振り返ると、これまでにもいろいろなキャンペーンを張ってきた。10代のころは、どっちかというと「○○禁止キャンペーン」が多かった。ジーンズとか、黒タートルとか、革とか。これを行う意味は、「楽に似合ってしまうものを着ると、それに頼った人間になってしまう」ためだった。

 強化キャンペーンとしては、「白シャツ復興キャンペーン」。白シャツは10代のころから好きなアイテムだが、いっとき似合わなくなったような気がしたことがある。そこをもう一回見直そうという原点回帰企画。「ピンクキャンペーン」。子どものころからピンクを苦手としてきたのだが、嫌いなわけじゃなかった。そもそも一口にピンクといったって千差万別 。自分に似合うピンクを探して果敢に挑戦しようというもの。いやあ、だいぶ失敗もしましたけど着られるようになりましたわ。それから「ミニスカキャンペーン」。ホントは昔から好きなんですけどねー、気がつくと冬はパンツばっかしになり……「このままじゃ将来ミニスカはけなくなるんじゃね?」という危機感から決行。レギンス、タイツ、レッグウォーマー好きなので、これに助けられるところは大きい! 変柄タイツやレギンスは増える一方。そうそう、こないだキッズの洋服売り場に迷いこんだら、大人ものを凌ぐポップな変柄レギンスがものすごく充実していて感心した。今どきの子って、幼児でも男子でもレギンス+ブーツとか普通 に着こなしてるもんな。うらやましい限り。

 キャンペーン中は、当然ながらそのアイテムをビシビシ購入することになる。こういうキャンペーンはもちろん「似合う」ことをめざすものだけど、基本精神は「挑戦」だ。着慣れないうちは気を緩めたらこっちが負けるようなものに挑戦しないと、実力は上がらない。そう、これは洋服だけじゃなくいろんなことに通 ずる話で。本日デアデビルでとっかえひっかえ試着した挙げ句に、迷いなく決めたワンピースは26日のライブで着る予定。やはり服というか「モノ」って感じの強い一品であります。ぎらぎら。

 

☆シムノン祭り   2009.12.15

 『ミステリマガジン』今年の7月号の特集は「フランス・クラシーク・ミステール考」。ステーマンとか、ピエール・ヴェリの短編が載っているのにもひかれたのだが、いちばん読みたかったのは翻訳家・長島良三のエッセイ「ジョルジュ・シムノン 小説家と愛娘の異常な愛」である。

 シムノンは「メグレ警視」シリーズの作者である。といったところでピンとくるのかこないか疑問だが…。「メグレ」の名前程度は、ドラマ作品のおかげでそこそこ知られているように思うが、それにしても日本ではさほどメジャーではないだろう。「刑事コロンボ」などとは異なり、もともと小説が原作。メグレものだけでも100冊以上書かれているから、かなり多作の部類に入ると思うのだが。私も10作くらいは読んだと思うのだけど、90年代に雑誌『EQ』で、シムノンの『私的な回想』(の抜粋と解説)を読んでからは、完全に「メグレ」よりも作家個人に興味を持つようになってしまった。

 シムノンは「オレは1万人とヤッた。うち8000人は娼婦(笑)」とか「小説ばりばり書いて疲れたらセックス。女さえいればぜんぶオッケー!」みたいなやんちゃ君だ。妻は通 算3人、子どもは4人。長島良三のエッセイは、シムノンと、たった一人の娘だったマリー・ジョーの関係性に触れたものである。シムノンが『私的な回想』を書いたのは、溺愛していたマリー・ジョーが25歳で自殺を遂げたあとのことだ。死んだ娘に語りかける文体はちょっと薄気味悪いくらいに甘ったるく、初めて読んだときはよほど幼くして死んだ娘なのかと思っていた。彼女の死の原因は、マリー・ジョーの実母がシムノンのよろしくない行状を書いた本を出版したせいだとか、もともとマリー・ジョーと母の間に問題があったなどと、シムノンは語っている。シムノンが一方的に娘を愛してたわけでもなく、娘のほうもかなりのファザコンと思われ……このあたりを客観的に書いたものを読みたいと思っていたら、この長島良三のエッセイは連載になってるというじゃないか!

 ボリュームがありすぎる『私的な回想』の邦訳版が出版されることはまずあり得ないから、その連載が単行本になってくれますように、と願いつつ雑誌もちゃんとチェックすることを誓う(読みたいものには金を払うべし)。

 今、渋谷のイメージフォーラムで『倫敦から来た男』っていう映画が上映中なのだが、これがシムノンの原作だと気づく。しかもトークイベントに長島良三さんが来るらしい。うわー行きたい。ともかくリョーゾー、がんばってぇ!(黄色い声)

 

☆このように日々興奮するネタはたくさんあるわけだ                2009.12.7

 もう忙しさ極まれりというときに限って、本の顔が見たくて見たくてたまらなくなる。買い出しに行くついでに、「20分」と心に決めてご近所の児童書古本屋に走る。今、うちから徒歩10分圏内で行ける本屋といえばほかにブックオフがあるのだが、ここは広すぎていけない。小さいけれど、行くとしっかり新入荷のものに出会える店は短く遊ぶのに重宝する。

 制限時間があるので棚から断じて目を離さず、棚に沿って平行移動しつつ。「そういえばずっと探してる本があるんですけど…」とお決まりの言葉を口にする。「子ども向けのミステリ選集で…たぶん70年代くらいの…、図書館で借りたんですけどね、『赤い花と死刑執行人』ってタイトルでウールリッチなんですが…」と言いかけたところで、美しき箱入り本を発見。「なんですか、これ!」。目を輝かせ、ここぞとばかりに解説モードに入る店主。外箱の表面 が丸くくりぬかれて、ハードカバーの表紙が一部見えるしゃれたデザイン。『真相を追え/悪魔のくれた5万ドル』…そそるタイトルだ。ブレット・ハリデイという作者は知らないが、『悪魔〜』のほうは、ロス・マクドナルド。それに福島正実訳じゃん。「ジュニア・ミステリ・ブックス」と書かれている。ぱらぱら見ていると、なんと同じシリーズに『赤い花と死刑執行人』が名を連ねているではないか。店主によれば、売り主はたまたま手元にあったそれ1冊だけを持って来たのだという。ほかの本も所持していたらしいが友だちに貸したりで、なくなってしまったのがほとんどらしい。「その人、もっとつっこんでくださいよ!」と心から訴える。私が言うまでもなく、店主ももっと探すようにと言ってあるらしいのだが。とりあえずこれを購入。信じられないくらい状態がいいので、店主も手放すのが惜しそうだ。さらに奥付のあたりを見ていると…「すいせん/作家 森田たま/慶応大学教授 奥野信太郎/読売ジャイアンツ 王貞治」だって! ぎゃっ。何も王貞治が推薦者にならなくてもいいだろうと思うが、こんなところにも勝手に運命を感じてしまう。

 と、些細なことに喜んでいると、これまた話をあっちこっちに広げる達人の店主が「王貞治っていえばねー、私、昔なにかの本で王さんが『5つの銅貨』っていう映画を好きだって読んで…それがすばらしい映画で…」としゃべり始める。『5つの銅貨』? それって、ずいぶん前にKさんがふと私にDVDのコピーをくれなかったっけ? 

 と、こんなところにも勝手に運命を感じながら20分はあっという間に立ち、私は美しい本を携えて、この大ヤマを超えたら放置してあった(Kさんホントにすみません)『5つの銅貨』を即刻見るのだ、と心に決めつつ帰路を急ぐのだった。私の背中は怪気炎に燃えていたはずだ。

 

チープな店でこその、真剣勝負   2009.11.29

 最近の服の安さったら、恐ろしいものがある。品質なんかほぼどうでもよく、少しでも多く「イマっぽい」服が欲しい10代のころ、こんな環境だったら幸せだったろうなと思う。私は今でも、10代のころに自分で買った服を一つひとつ思い出すことができる。時間だけはたっぷりあったから、ファッション雑誌なんかはすみずみまで、メーカー名(ブランドというよりメーカーだ)を覚えるまで読み、気に入った写 真をスクラップし、そのシーズンに欲しい服をリストアップする。全部はとても買えないからものすごくしぼりこむ。中学生のころは、原宿や渋谷に行ったりするのはかなりまれで、日ごろの拠点は地元の西友とかイトーヨーカドーである。店にある、ありとあらゆる服を見まくった挙げ句にようやく買う、というのはとても楽しいことだ。今は買い物に慣れているから一瞬で決めることができるけれども、ああやって「すべての可能性を吟味する」時間を振り返ることは、私にとってノスタルジックではなく「初心を思い出すこと」である。

 というわけで、ときどき10代の熱気でごった返す激安の店に足を踏み入れてみる。安い服……といっても、シンプルで着回せそうな服を安く売る店にはまるで興味がわかない。その「おトク感」はロマンとかけ離れているからだ。見るからに「これが流行です!」みたいな服を売ってる店がいい。ぺらぺらの服でも、デザインさえ……それが洗練されてなかろうとパチモンくさかろうとある種の強引なエネルギーに満ちていれば、あとは10代の想像力でなんとかなるものである。数点の服を抱えた中学生くらいの女の子が、お母さんに「どれにするの? 買ってあげるから早く決めなさい」と急かされているのを見て、うっとりくる。その子の心のうちを考える。お母さんはすっかりこの店の熱気にやられて、1着2着どころか、どーんと買ってあげる気になっている。だからといって、ここで今キープしているものを全部買ってもらったりすると、この冬はもう買ってもらえなくなってしまうかもしれない。心の中では、きっとこういう悩ましいせめぎあいが行われているに違いない。そのお母さんをよく見ると、娘と大差ない服装をしている。うわ、これは正直キビしい。お母さんがこうしたチープな服に理解があるのは娘としてはありがたいと思うが、いち女性として見たときにはいただけない。若ぶるのがイタいという意味ではなくて、チープな服でどこまで輝けるかという問題だ。

 私が買ったのは、超赤札コーナーで掘り出した105円のニットキャミソールだ。1000円のワンピース、2000円のブルゾン、1500円のスカート、500円のロングスリーブTシャツはアウトだと思ったが、これはセーフだと判定する。ちなみに色違いの2点買いで、210円。子どもな大人買いをする私に、レジの女性はとても感じよく「明日からまたセールをやりますので、いらしてくださいね」と声をかけてくれるのだった。

 

☆瑣末なことを解読する。例題                2009.11.23

 それは、出かけようとしたとき、確かに目の端に入っていた。私の部屋と、隣の部屋の、ちょうど通 路のまん中くらいに落ちていたチラシ。急いでいたので、まあそのままにして出かけたのだが。

 帰ってくると、そのチラシが私の部屋のドアの前に立てかけてあった。風で飛ばされたとかではなく、あきらかに人の手によって立ててある。これを見たとき、カチンと来た。なぜか。さて、考えてみよう。隣人は、そのチラシを見て「これは自分は一度見たから、隣の人が郵便物を持って上がる際に落としたものだ」と思っただろう。実際は、どうだったかわからない。私は不要なチラシはすぐ処分してしまうので、そのどうでもいいチラシを一度見たかは覚えていない。ひょっとしたら、よそから飛んできたものかもしれない。隣人は、それを「拾ってくれた」という意味では、親切なのだろう。しかし、私はこの、「どうでもいい(に決まっている)チラシをわざわざ拾ってきちんと部屋の前に置いてくださる」厳密さが嫌いだ。落ちているただのチラシにわざわざ手を伸ばすなら、私だったら勝手に捨てる。ここに提示された親切さのように見えるものは、ゴミでさえ人様のものとして尊重しすぎる慇懃さである。そして一見親切めいた行動の裏には、(たった一枚のチラシでさえ)「あなたのゴミはあなたが処分してください」という教育的指導目線の皮をかぶった小者さが透けて見えるのである。

 と、結論づけてすっきりした私である。考え終わるっていいことだ。

 

☆分倍河原よありがとう   2009.11.20

 言いたかないがアホがきわまったみたいに忙しかった(まだ、ホントは現在進行形)。毎日、今日絶対にこなさなくてはならないノルマを考えて、所用時間を見積もって。取材に出かけて帰宅してから、翌朝また出かけるまでに14時間だってのに、見積もり時間がそれをかなり超えてることもあるから笑える。いっそ笑うしかないので笑うことにするが、笑ってばかりもいられない。そもそも飯を食ったり(風呂に入るはだいぶ下位 )、少しは寝ないともたないじゃないか。一日二日の徹夜で乗り越えられない長期戦では、長く全力で闘える体力が必至なので時間配分には気をつかうところだ。ともかく電車の中でもできる仕事をやって、地道に時間を稼いでつじつま合わせる。それと、キモはやっぱり自分を機嫌よくさせておくこと。自分をスピードに乗せるには、それが重要だ。

 日野で、わりと早く取材が終わったので、2、3日か前から時間を見つけて行かなくちゃと思っていた調布図書館に向かうことにする。図書館で借りるべき本は、すでに検索済みだい! ふと気になって携帯で調べると……おっと、昨日、一昨日は休館日だったのか。セーフ。行こうと思ったときに行けないと出鼻をくじかれる気になるから、こんなことも追い風に感じる。調布に行ったら必ず立ち寄る古本屋が定休日なのも、今は好都合ということにしておこう。逃避するにもほどがあるからな。さて、立川で南武線に乗り換え、分倍河原でさらに京王線に乗り換えるのだが。

 ヤバい! なんと分倍河原の乗り換え口からは……駅前の……私好みのささやかな商店街が丸見えではないか。

 次の急行まで13分。13分じゃさすがに無理か。その次の急行まで33分間、分倍河原で過ごすことを瞬時に決定じゃー!

 幸か不幸かその商店街は短くて、古いおもちゃ屋以外にはさほど食指をそそられる店はなかった。別 の通りをチェックするのはやめて、見るからにいい感じの「スナック喫茶 つくし野」でコーヒーを飲みつつ仕事すっか。そこは10人も入ればいっぱいの小さな店。おしぼりを持ってきたおばさんが、常連客なのか働いてる人なのか、よくわからん。時計に目をやりながら、あと8分くらいで出なきゃいかんなあと思っていたとき。店主が、「これ、どうぞ」と、コーヒーカップを差し出してくれた。「ブルーマウンテンです、おいしいですよ」だって! 店主はほかの客にも同じように配り、そして自分のカップに注いでおいしそうに飲むのであった。自分の店でコーヒーを入れて、自分で飲む人っていいなあ! ホントにコーヒーが好きなんだなあ。と、感動する。できるだけ焦って飲んでるように見せないように、カップ3分の1ほどのそれを飲み干す。お金を払うと、店主がさらに個包装されたクッキーを手渡してくれるのであった。なんて素敵な店だ。心洗われた! 駅に向かって猛然と歩きつつクッキー喰らいつつ、脳が潤ってるあの快感を感じつつ、分倍河原で途中下車した自分を褒めたたえるのだった。

 

☆11月                2009.11.10

 11月! 11月が好きだ。と、11月のある日に激しく思った。

 幸せな人間なので、冷静に振り返ってみると毎月「○月が好きだ!」と思っているフシがあるが、やっぱり11月はかなり好きなような気がする。

 その日はわりに寒かった。11月になったらやっと晩秋らしくなった。電車に乗ったら少し樟脳のにおいがして、コートをあわてて引っ張り出した人がいるんだなとわかった。いまどきはにおいのしない防虫剤が多いが、私はあのにおいが少し好きだ。

 取材仕事が思ったより少し早く終わる。午後五時くらいかと思ったら、四時すぎだった。日が落ちるのが早くなっていたことに、驚く。少し動揺すらする。日野駅までの道、住宅街の中を歩く。プラスチックのバケツというよりたらいみたいな形のをプランター代わりに、おそらく花ではなく野菜の苗かなんかを植えたやつが、家の周りをぐるりと囲っている。うすい青、青、濃い緑、うすい黄色、白。いったいいくつあるんだ。数をかぞえるかわりに、目で追いながら「ド・レ・ミ・ファ・ソ・ラ・シ・ド・レ・ミ・ファ・ソ……」と、頭の中で鍵盤をたたきながら通 りすぎた。

 竹やぶ! まっすぐそこに入っていきたくなるような、竹やぶがある。そこに入ったらもう二度と出てきたくなくなる気がする。安心感のある竹やぶ。かつては、住宅街の竹やぶは変質者の独壇場だと思っていたが、最近の変質者は竹やぶなんかに行かないような気がする。あの竹やぶに潜んで外を見たらどんな感じだろうか。

 次の用事まで時間に余裕があったので、行きに目をつけておいた喫茶店で、原稿を書くことにする。「トムの家」という店だ。迷わず入ると、思った通 り、いい。自家焙煎なのにコーヒー420円は安いんじゃないか。小腹が減っていたのでシナモントーストを頼むと、それがまた比類ない美しさだった。バターを塗ったトーストの上にかかっているシナモンの量 が、一見してちょうどいい。トーストはたて半分に3つに切ってあり、その1片のまん中に、ちぎりやすいよう切れこみが入れてある。つごう6分割されているわけだが、その一つひとつのブロックに、ホイップクリームが控えめに絞り出してある。カウンターの頭上にぶら下がっている、四角いランプのような形の照明が、5つあるうち1つだけデザインが違うのをじっと見ていた。実に11月らしい日。

 

☆ラリー2   2009.11.3

 忙しいとき、自力で調べるとっかかりがつかめないとき、考えに煮詰まったときは、サクッと人に訊いてみる。あー、今週だけでもずいぶんいろんな人に助けてもらったものだ。「検索」一発で解決できない調べものなんかは、自分より知識をもってる人に訊くに限るのだ。

 気をつけているのは訊きっぱなしではなく、あとから何らかのリターンを返すことだ。別 に形式的な「お礼」にこだわるわけじゃない。もちろんその「もらった答え」の大きさによっては、ある程度「お礼」を返す必要もあるが。それよりも私だったら話を振られたからには、ちょこっとでも結果 や経過を報告されたい。何か投げ合った充実感が得られるからだ。自分の「答え」がまるで役に立たなかった場合もあるだろうけれど。それでも、ひとつ……とまではいかなくても半個くらいはりこうになれそうだから。

 ときどき困惑するのは、定期的に同じ問いをもってくる人の存在だ。この場合に生じるジレンマのもとは、「私の答えは役に立っていないのではないか?」ではなくて、「進展しないかったるさ」だ。 来たものを、自分なりに打ち返す。それについてのリターンはない。しかし、また同じものが飛んでくる。紆余曲折はあっていいけど、まったく動かないのは退屈で不毛だ。ひとごとながら残念な気持ちになる。小気味よいラリーはできなくても、せめて別 の球を打ってきてほしい。わからないことはむやみに人に訊けばいいってものでもない。どんなにせっぱ詰まっていても、自分で考え抜くべき種類のことというのは、確実にあるので……。そもそも、他人の言うことに興味がもてない、および受け入れるつもりもないのにそれに気づいていない人は論外。そういう方はどっしりと孤高の存在でいるのが、お互いのためだと思うが。

 

☆ラリー                2009.10.26

 小学生のとき、国分寺市立恋ヶ窪図書館で何度も借りた『マイ・クックブック』(ベティ・クロッカー/朝日イブニングニュース社) がどうしても見たくて、以前、多摩図書館に出かけていった。この本は私にとって、ただの思い出深い本ではない。イラスト、写 真の色調やスタイリング、本のデザイン、どれをとっても実にていねいで考えられている。T子ども向けの料理の本 Uなのだが、単なる説明文ではなく、読み物として心に落ちる文章がすばらしい。一冊の本というだけでなく……その本の持つ態度に触れたくて、見にいったのだ。

 古本は見つからず、どこの図書館からも消えている。今や、国会図書館の児童書部門を集めた多摩図書館でしか見る術がない。そこでも館内閲覧のみと決まっているのだが、ふと思いついて地元図書館の本館経由でのリクエストシステムを使ったら、あっさりと貸し出しがあっさりと認められたではないか。  

 さあ、持ち出せるとなったら、その期間を有意義に使うべし。みっちり複写 をとることはもちろんだが、生粋の本好き・児童書好きにはぜひとも現物を見てもらいたい。相手が見たかろうが見たくなかろうが、私が見せたいのだ!

 本トモのR嬢を誘ったらちょうどその日に彼女が休みをとっていたので、即日・本見せミーティング。1ページ1ページていねいに目を通 し、喜んでもらえたので押し売った側の私としてもうれしい。

 また後日。いきつけの児童書専門古本屋の店主に見せに行く。彼女もこの本は未見だったらしく、しっかりメモっていた。ほくそ笑む私。しかし、相手はさすが専門家である。同時代の、デザインや色使いの雰囲気が近い洋書を次々に棚から出して、プチ講義スタート。毎度のことながら、この店では学ぶことが多い。結果 、私もメモをとりまくる。  

 さらに数日後。R嬢が、同じ著者の『マイ・パーティーブック』というのが古本サイトに出ていると通 報してくれた。なにぃ!? さっそく見ると、拍子抜けするような安さだったので即購入。ありがてえぇ!  ギブ&テイクを期待して行動しているわけではないのだけど、見せるべき人に見せると即座に(というか負けじと?)リターンが返ってくるのが心地よい。ものを回すことによって、場は活性化する。さあ回せ! なにか飛んできたら金か体か頭で打ち返すべし。

 

☆1m=100cm=1000mm   2009.10.19

 昔から、短く眠るほうである。必要な睡眠時間は体質によるのだろうが……その体質だって、長年の習慣で作られることもあると思う。もともと起きられるだけ起きていたい私は、いつのまにか短い睡眠時間で足りるようになっていた。すでに中学生のころには2時や3時まで起きていて、それで7時に起きていたわけだし。

 ものの本では睡眠時間について、1単位を3時間で語ることが多い。私の1単位 は、2時間であるようだ。たとえば、電車の中で眠りこけそうになっていて「もう、今日という今日は家に帰ったら即寝るのだ!」という日がある。ところが、家に帰り着くと案の定「すぐに寝るのはもったいないなあ」という気になる。そこで本を開いたりするものの、ものすごい睡魔にやられていつのまにか倒れ寝る。というような場合。ハッと起きると2時間が経過している。これでなんだかさっぱりして、サッと起きてまた何かを始められる態勢になっていたりする。

 ある時期、私は1日に2回、2時間ずつの睡眠をとるサイクルになっていた。11時〜13時と、23時〜午前1時。そう決めていたわけではないのだが、時計の針が11になると猛烈に眠くなり、1になるころ自然と起きるのだった。かなり正確に。

 あとから考えてみると、この生活スタイルでは1週間を14日持っていたとも言える。たしか2〜3か月のことだったと思うが、これが1年続いたら、1年を730日持てることになる! たとえば「48時間を1日として、1日を長く生きるけれども1年は182日」とするのと比べてみたら、どんなことになるだろうか。「1日がもっと長かったらいいのに」というのはよくある発想だが、「1年がもっと日数があったらいいのに」は聞いたことがない。どちらにしろもとの時間はのばせないわけだが、「小さく割って増やす」は、ちょっとした盲点ではないか。応用の余地があるように思う。

 

☆貧乏性といわば言え                2009.10.12

 手があいているときは本を読むし、手がふさがっているときには考えごとをする。しかし、「手が行っている作業」にそぐわない考えごとは、両方にいい影響を及ぼさない。「あれ、今、何を考えようとしてたんだっけ?」という疑問が浮かぶのは混乱をきたしている証拠で、そんなときは頭を自然にまかせたほうがいいのだと感じる。

 最近「ほんの少しの空白」に行うことを、2つ見つけた。ひとつは口笛の練習だ。風呂で体を洗っているときって、どういうわけか考え事ができない。以外に頭を使っているのだろうか。退屈だ。そこでなんとなく吹けない口笛を試みたら、音が鳴ったのだ。なんとなくコツをつかんだ気がして、しばらくヒューヒューピューピューやっていた。これから定番にしよう。やがて蛇が大挙してやって来そうだが。

 もうひとつは、左手の中指と薬指の間を開く練習である。人を待ってるときとか、本を開くほどの時間がないときとか。今まで気づかなかったのもどうかしてるが、ほかの指間に比べて、私はここがものすごく開かないのである。右手を軽く握り、指間に押しこんで広げる。開く人はそれこそゲンコツが入るらしいが、私は指2本分、ならして3本分がやっとである。でも、スタジオの前にこれをちょっとやるだけで効果 があるような気がする。いいじゃない!

 余分なエネルギーを使わずに、結果を得る。こういう瑣末なことが楽しいって、精神衛生上すごくよろしいのだ。

 

☆ピンクと黄色         2009.10.5

 先日、とある雑貨店の店先で、閉店準備をしているHさんを待っている間。表に積んであるチープなプラスチックのトレイを眺めていた。色数はたくさんある。チープな素材ならではのいい感じの発色で、ただ物色しているつもりが気がついたら好きな色が隣合うように並べ替えるのに熱中していた。やっぱり、ピンクと黄色を並べている。

 ピンクと黄色、の取り合わせが好きだ。子どものころ、盲目的に黄色が好きで(おかしな表現だ)、一方ピンクは好きじゃなかったが、この組み合わせが好きだった。プラスチックの花の形のおはじきのピンクと黄色だけを選び出して並べるだけ、という遊びをよくしていた。

 ところが。子ども用の『赤毛のアン』を読んで、私は驚いたものだ。詳しくは忘れてしまったが、アンがマリラおばさんに、麦わら帽子の縁に野で摘んだ花を飾りつけたのをとがめられるくだり。マリラいわくそんなことをするのはみっともなく、「しかもピンクと黄色の花」という組み合わせがよりまずいという。

 あとから考えてみると、それはアンの赤い髪に似合わないという意味だったようだが、それ以後どうもピンクと黄色を並べては検証する癖が抜けない。

 先日、カランコエの鉢植えを2つ買った。12色の色鉛筆の「ピンク」と「黄色」。どこから見ても完璧に美しい。

 

☆ギフトショップよ永遠なれ                2009.28

 吉祥寺の駅ビルが改築するらしく、どの店もバーゲンをやっている。たまに行われる「リニューアル」より本気なヤツで、これを機に撤退する店もあるようだ。そういえば、あの店はどうなるのだろう? 名前も知らない、2階のはじっこの方に昔からある店に行ってみる。

 その店のスペースはたぶん3畳分くらいしかない。今では使われない言葉だが「ギフトショップ」とでも呼べばいいのだろうか。イルカの形のコルクボード。ベルトがフェイクファーの腕時計。置き時計、掛け時計。幾何学模様を配した、ものすごく80年代然としたデザインのものもある。ガラスケースの中には、よくできたミニチュアのドラムセットやクラシックカー、ハーレーの置物(これらはかなりいいお値段がする)。陶器の置物も多い。動物の、それからお城。ミニチュアのルーレット台。トランプにオルゴール! カフスとタイピンのセット。箱入りの、1本だけのスプーン。高級ブランドの小さな紙袋を売っているのも「ギフトショップ」らしい。わりに新しい商品と思えるのは折り畳みのエコバッグやストラップか…。

 じっくりと見た結果買いたいものはなかったけれど、なぜか見ていたい気持ちにさせられる店だ。それには郷愁以上の何かがあると思った。ここにあるもののほとんどは古くさいのだけども、置く場所によってはまた違った表情を見せるはずなのである。たとえばごった煮状態の古着屋では服に手を伸ばさないのに、こぎれいなセレクトショップでは古着に抵抗を示さなかったりする人がいるじゃないか。ここは間違いなく、いい店だ。ごちゃごちゃのようでも、店主の趣味がある。ホントのところ、趣味に「いい・悪い」はなく、趣味は「ある・なし」で語るものだと思う。趣味がない人って、いるんですよ。一見おしゃれに見えても、趣味がない人っている。たぶん当人はあまり自覚していないと思うけれど、世に行き渡ってからTそれUを買う人は、趣味のない人である。

 閉店まであと数日。かの店の売れ行きが心配になって、ときおり様子をうかがいに行くのだが順調に在庫は減っているようだ。願わくば、だれかあの陶器のでっかいメリーゴーランドを買ってくれますように。5万なにがしかが、半額になっていると思ったけれど…。

【付記】最初に書いたとき、定価5万、とかんちがいしていたのですが、確かめに行ったら本当は25万円でした。閉店1日前に行ったら90%オフ(つまり2万5千円)になっていました。本当は音楽が流れライトが光ってぐるぐる回る仕様らしいが、故障していてライトが光るだけのようでした。残念ながら最終日に行けなかったので、あれが売れたかどうかはわからずじまいです。

 

☆やっぱり虫がすき         2009.9.21

 久しぶりに押し入れの大整理を決行中。奥のほうにしまいこまれていた「おもちゃ」と書かれた小箱をひっぱり出す。開けてみると……駄 菓子屋で売ってるようなチープな塩ビ製のおもちゃばっかり入っていた。大半はビロビロしたわけのわかんない架空の化け物で、あとはクモ、ヘビ、トカゲ、カエル、虫。カエルもでかくてリアルなやつ(道ばたに置いといたら本物と見間違いそうだ)、赤くてかわいいやつなどいろいろ。上下させると羽がぴらぴらするコウモリ、それから健気に小さなヘビをくわえているコウモリ。バネがついてて飛ばせるバッタみたいなのもある。くねくねしながら歩く毛虫のおもちゃも。ふだん愛玩している人形はくまちゃんとかなので自分は少女趣味だと思っていたのだが、実はけっこう虫だの爬虫類好きなことに今さらながら気づく。

 と、あらためて周囲を見渡すと。トイレにはモスラが飛び、玄関扉にはアリの人形がぶら下がり、上を見上げりゃカタツムリのじょうろ。野菜洗い用のミニたわしの上には足の毛まで作りこまれた立派なクモが鎮座し、台所のワイヤーのつり棚には色ちがいのヤモリが2匹しっぽを引っかけてぶら下がっている。やはり台所に置かれたかごの中には、いただきもののチョコレートやティーバッグにまぎれて芋虫のマスコットが4匹(複数いると、ひしめきあっている感じがしてなおかわいい)。冷蔵庫にはチョウのマグネットが2つ。

 10歳くらいのころ。サンリオが発行している「いちご新聞」の「オリジナルキャラクターコンテスト」に応募したことを思い出す。なにしろ日ごろからマイキャラクター作りに熱心で、自らキャラクターカードまで作っていた私にとっては「待ってました」、てなもの。自信作を選りすぐって応募したものの、まったくかすりもせずだったのだが……。今、冷静にそれを思い出してみると、そのキャラクターは「ヘビ」と「タマゴ」と「宇宙人」なのであった。ああ、まるでサンリオ的でない! 特に気に入っていた「ヘビ」はまんまる頭におリボンがかなりかわいらしいと思っていたのだが、あとで友だちに見せたら「蛇腹が気持ち悪い」と言われたっけな。

 ちなみに私が思う「かわいい」のポイントとなるのは、哀れさである。足りなさそうで、できることが少なく、しゃべれなさそうなのが好きだ。利発で活発そうな、つまりミッキーマウスのようなキャラクターにはひかれない。スヌーピーは唯一の例外かもしれないが、あれに関してはコミックスに漂う「静」のイメージでとらえているのかもしれない。

 虫たちは、そういう意味で私にとって「かわいい」の要件をかなり満たしがちだ。部屋に入りこんだ蛾をつまみ上げるとき(どういうわけか、蛾は無抵抗だ)、私は必ず「ばかだなあ」と、声に出して言っている。おおかたは「こんなところに入ってきて、ばかだなあ」という意味のつもりだが、「おまえは小さくて頭も悪いんだなあ」という気持ちが含まれていると思う。私は蛾に対してずいぶんおねえさんぶっていて、しかしこう言うとやさしい気持ちになる。それから、外に出してやるのだ。

 

☆演奏家の美しき大股歩き                2009.14

 先日、ピアノのリサイタルを聴きにいった。私はこれでも一応クラシックを学んだ身であるのだが(ときどき自分でもそのことを忘れそうになる)、クラシック音楽を生で聴いた経験はとても少ない。今回はピアニストが、親しい友人であるR嬢の姉君であったために誘われたわけなのだが、お義理で出かけたわけではない。ピアノ演奏の善し悪しはまるでわからないが、以前に聴きにいったたとき、純粋に楽しかったからである。選曲が好みにあったのかもしれない。しかし、いまだにクラシックのコンサートでは「寝っこけたらどうしよう」と心配する私がまるで退屈しなかったのだから、本当に気に入ったのは間違いないのだ。

 最初の曲は、「きらきら星変奏曲」。だれもが知っている「きらきら星」。あの曲をアレンジしたさまざまなバージョンのメドレーのような曲。軽快だったり、ドライビングだったり。ロックのミュージシャンにもアクションの癖があるように、クラシックのピアニストにもそれがある。彼女が、ふと高音のキーから高く腕を振り上げる動作が好きだなあ、と思う。次に、ドビュッシー。ドビュッシーにはうんざりする思い出がある。大学2年のとき、副科ピアノでベルガマスク組曲をやらされたのだが、まあうまくならないこと。年度末の試験に向けて、ほぼ丸一年同じ曲を練習していたのに、全然こなれなかった。それは技術的な問題だけでなく、私の「曲の読み方」に問題があり、それをわかっていても私が退かなかったせいも大きいのだけど。しかし、彼女の演奏を聴いていたら、なぜか「こういうことだったのか」と少しわかった気がした。話は横道にそれるが、途中で「演奏者を見ないで聴いてみたらどうだろう」と思いついてしまった。前の座席の「ほやほやとした白髪に包まれたかわいらしいtop of 禿頭を見ながらドビュッシーを聴く」というのを試してみたくなり、やってみたら、そのくだらなさに笑いがこみあげてきて苦しむはめになる。咳ひとつできないクラシックの演奏会では余計なことをやっちゃダメだ。

 最後に演奏されたのは、ヨハン・シュトラウスの「雷鳴と稲妻」。運動会なんかでもかかりがちなポルカ。私は常々シュトラウスの威勢のいいポルカは、ほとんどパンクだと思っている。曲によっちゃ、モッシュやダイブの嵐になってもおかしくないようなのがあるもの。しかもここで演奏されたものは、編曲家の手により斬新なアレンジが施されたバージョンなので、さらにパンク度は強かった。ぐいぐい頭を振ったり身体を動かしそうになるのを、必死に押し殺していた。ああ、こういうところがクラシックの制約で……。

 そのピアニストが場内に姿を現し、ピアノに向かって歩いていくとき。あるいは拍手の中を去っていくときの歩き方が好きだ、と今回再認識した。彼女は小柄でかわいらしく、ちゃんとクラシックの演奏家的にドレスを着こなしている。しかし、その歩き方はクラシック界においてはカッコよすぎだ。健康な子どものように前後に手を振り「勇ましく」と言っていいほどスタ、スタ、と歩く。ヒールのある靴をはいているわけだから「カツ、カツ」と書いておきたいところだが、頭に浮かぶイメージは「スタ、スタ」でもマイルドすぎるくらいで、ホントは「ザッ、ザッ」って感じ。一番近いのは、テニスプレイヤーが1ゲームを取って、自分のベンチに引き上げていくときの歩き方だ。「このゲームを取った」という喜びを秘め、だけどまだ試合は続行中であるという緊張感と攻めの気持ちを持った歩き方。なんて美しい。

 

☆何をしても何かの役に立つ         2009.9.7

 秋口、キンモクセイの花が落ち、その香りが漂い始めるより早く、キンモクセイの存在に気づくこと。というのが、以前に意識していた「とある練習」で、これはすっかりマスターした。近年では、ヤマゴボウが紫色に色づくよりも前に、気がつけるようになった。キンモクセイはともかくヤマゴボウなんて見かけない……という人はただ鈍感なだけです。けっこうどこにでも自生してます。

 今やっているのは、ミンミンゼミの声が「みーんみーん」というふうに聞こえないようにする練習だ。子どものころから本やマンガで刷り込まれてしまってるせいか、私にはあれがどうしても「みーんみーん」と聞こえてしまう。意識すると、その「文字」から離れて聞くことができる。来年はこれをマスターできるだろうか。どういうわけか、鈴虫の声を「りーんりーん」と聞かないことのほうが簡単だ。