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☆いちいちいちいち考えることが必要なんだ                2009.8.31

 スポーツジムで、素人目にも「こりゃあひどい」という人をときどき見かける。ウォーキングのマシンでひたすら速くステップを踏んでいるその人は、手はしっかりと前方にあるバーを握り、頭は両腕の間に倒れるようにつっこんで……上体の体重をほとんどマシンにかけてしまっている。足の筋肉を鍛えようとしているか、数字上の「カロリー」をできるだけ多く消費することを目的としているのだろうが、あまりにも雑な姿だ。これは運動として間違っている。正確なところはわからないが、見た目に不自然で、美しくないことだけは確かだ。

 カロリーといえば、最近は多くの食品に熱量の表示が記載されている。カロリー制限のある人にとっては役立つのだろうが、それこそ「制限を必要とする人」は熱量 以外のデータを深く読む知識を持ったほうがよいと思うのだが。「カロリーを減らせば体重が減る」という単純な「言い伝え」のみに惑わされている人が多すぎるように思う。巷では、カロリーをカットしたオイルに発ガン性物質が認められたとかがニュースになっている。もともと私は、油やら牛乳から脂肪分をカットしたとかいう商品について動物的なカンから疑いを持っているので、内心それみろと思った。健康に留意したはずの商品が、健康に害を及ぼす可能性を持っていたということが何を意味するのか。いちメーカーを非難するだけではなく、そこを個人で考えることが必要なのではないか。

 自分がイメージすること、やりたいことを実現するために、人は勉強したり努力したりする。その上で大事なのは、自分の方法論を突き詰めていくことだ。アスリートの本などを読んでいると、優れた人はトレーニングに時間を割きつつも「効率のよさ」を重視していること、肉体を高めるために負荷を課しているようでも「自然さ」を大切にしていることが感じられる。そのためには選択しているものによって「何が起こっているか」を考えることが必要なのだ。「効率のよさ」とは、簡便さのことではない。欲しいものの本質をとらえた上で、それを得るための道をまっすぐに選べるひとつの技術である。

 

☆当たり前を知る         2009.8.24

 ふと、死ぬのがこわくなくなった。

 おっと、私がだれよりも生きる気満々なのは変わらない。20歳の頃から「120歳まで生きる」と断言しているようにね。断言、というより「決めている」と言ったほうが正確か。120という数字にこだわっているのでなくて、 それくらい生きなければやりたいことが全部できないだろうなという想像からざっくり考えたものである。

 こわくなくなったというのは、「自分は死にっこない」というかわいらしい思いこみでもないし、「どうせ死ぬ んでい!」と開き直っているのでもない。80歳だろうが120歳だろうが、人は死ぬ ことに変わりはない 。 それがちょっとばかし早かろうが遅かろうが、そんなに大差はない。120まで生きたらこわくなくなるってものでもない。ただ、今までの自分には……世間話でありがちな「できれば痛くない方法で、長く苦しまないで死にたいよね」みたいな気分があったってことだ。

 急に、それがどうでもよいことに思えた。だって、生きてれば痛いし苦しいこともあるに決まってるからな。そんなことをこわがってどうする。こわがることが悪とは思わない。むしろ「こわがる」ことは大事で……それが身を守ることにつながる場合もあるし……ときにその感情により心が温かくなることもあるくらいだ。しかし、「こわがる」は本当に大事なポイントだけに使い、自分の心の中だけでじっくりと対峙したい。「〜だったらどうしよう?」と言い合うのが楽しい方々もいるようで、それは趣味の領域だと思うけど大人の趣味としちゃ子どもじみてると思うね。

 とりあえず、またひとつ自由になった気がしているのである。

 

☆知ってしまった                2009.8.17

 昨年、何かの本の発売日を調べようと携帯で検索をしていたら、「注目の新刊」というページにたどり着いた。情報を求めていた本はともかくそこに挙げられているものがあまりに自分好みのセレクトなので驚いた。何度か訪れると、その度に「あ、これは買いたい!」と思う……残念ながら書店では平積みになりにくいような、しかし特に海外文学好きにとっちゃたまらん魅惑的なタイトルが紹介されている。まさにこりゃ私のための新刊情報、とばかりにときどきチェックするようになった。

 ひさびさに見てみると、「えっ、レックス・スタウト、9月にポケミスから出るんだ!」「おお〜、ランズデールの短編集、待ってました!」「ジャック・リッチーの『クライム・マシン』河出文庫で文庫化かあ」「ウェッジ文庫の新刊、内田魯案庵に食満南北とは激シブ!買うぜ!」、カルヴィーノにウェストレイクに、と好きな作家がズラズラ並ぶのでテンション上がるぅ! やばい、購買欲&読書欲がそそられすぎる! 発売日までは調べてなかったウッドハウスの「ジーヴス」シリーズ最新刊、パヴェーゼ全集の刊行情報も。そのほかにも、作家の名前すら知らなかったけれども紹介文を読んだだけで食指をそそられるタイトルがわんさか。このページの主が何者なのか、知らずにおこうと思っていたのだけどついに我慢できなくなって、トップページを訪れてしまった。

 その正体は、もと国書刊行会の編集者、現在はフリーの編集者であった。うーん、ちょっと納得できすぎる結末……。

 興味のある方は「本棚の中の骸骨」で検索を。

 

☆ぼくがジャンプシュート決めたらあの娘どんな顔するだろう                  2009.8.9

 あんなに楽しげにごみを集荷する人を初めて見た。

 車の後部でなんかがぐるぐる回ってごみを押しこむ式の車ではなく、紙の資源ごみを集める車。トラック後ろの四方に板で囲いを作ってあり、そこにぽんぽん紙束をほうりこんでいく。

 ごみ集め担当のその人は紙束を手に取ると、まるでバスケでジャンプシュートするように飛び上がる。紙束が弧 を描いて着地する。彼は二つ、三つとどんどん続けて放りこむ。その場のゴミがなくなると、徐行運転を始めるトラックの脇に飛びつき、次の集荷場で飛び降りて小走りでゴミのそばへ。そしてまたぴょんと飛びはねながら腕をすっと伸ばして、華麗にゴミをスローイングするのだ。

 思わず仲間に入れてほしくなるような明るさ。素敵だ。どんなシチュエーションでも輝く人は輝いている。

 

☆お知らせのお知らせ                2009.8.2

 「ライブお知らせメール」というのを、もっとマメに広範囲に出してみようと思っている。

 ただ情報だけを送るのはなんだか味気ない。一人ひとりに当てて、というのはなかなか時間的に厳しいので「一斉送信」を利用することになるが、こういうときにつける文章って難しいものだ。年賀状なんかでは自分の近況を添え書きしたりするのだけどライブの告知メールだと……どこの有名人ですかって自分ツッコミしたくなる恥ずかしさが伴う。ああ、これは他の方が書いたものを見る分には別 にNGだとは感じてないんですよ。あくまで私が自分に関して思うだけ。うまくやれればいいんですが。うまくやらにゃ。

 かつてすごく感銘を受けた告知メールは、かのルイス稲毛バンドのVo&g、下野さんのメール。「ホントに暫くお会いしていない方もいますが、今一人一人の顔を思い出しながら、アドレスを打ち込みました」という一文にはグッときてしまった。これがホントっぽく読めてグッとくるのはもちろん彼のキャラクターによるものなので、絶対そのまんまマネはできっこない! ライブでの滑らかかつGROOVYなMCの調子そのものな文章には毎度引き込まれる。最近思うことなどが書かれているのも、彼の場合は非常にスマートにこなれていて素敵。何かを発信したいという気骨が感じられて、読むほうの気分も浮き立つ。

 以前、我々の録音物にも参加していただいたピアニスト、三浦陽子さんの告知メールも大好き。たくさんのユニットをやっている方なので、それぞれのライブ、それぞれのイベントの性格がわかりやすく簡潔に書かれてるさまがいい。すごく饒舌というわけではなく、だけどやっぱり彼女のたたずまいが素直に伝わってくる語り口が好きだ。

 ……というわけでこれから「メール告知活動」を強化。始める前からすっかり手の内さらしてしまいましたが、新しい文章修行と思って取り組む所存なり。

【付記】告知メールを希望される方は「aou@msg.biglobe.ne.jp」までご一報ください。すでに私にアドレスを知られてる方のところには、希望しなくても届いてしまいますがご了承ください(笑)。

 

☆音楽                           2009.7.26

 たいして音楽を知らないし、すごい音楽ファンではないんだけど、やっぱり音楽が好きなんだ。ワクワクする音楽が好きだ。「楽しくなる」限定ではなく、とにかく心がズゴーンと動くのが好きだ。つまりはみんな、そうだよね?

 こんなしごく当たり前のことをぼんやり思うとき、頭によみがえってくることがある。

 ヒネた幼稚園児だった私は、園に行ってもおもしろいことがなくてめちゃくちゃ倦怠していたが、歌を次々に習うのだけは唯一楽しかった。家に帰るとたくさん歌っていた。それが小学校に入ってしばらくして、母に「最近、歌わないね」と言われたとき、私は漠然と「今の自分はそうとうまずい」と思った。無理にでも歌わなくちゃいけない、くらいに思った。そのとき感じた黒い恐怖のようなものは、忘れられない。

 小学5年のとき、部屋で小説みたいなものをノートに書き散らしつつ、ラジオを聴くのが日課だった。洋楽ポップスの番組で流れたその曲は「!」ってほど劇的ではなく、「ふーん、なんかいいな」程度の曲だったけど、とっさにタイトルとアーティスト名をメモしたい気持ちが働いた。全部聞き取れなかったが何か手がかりを残したくて、不完全なメモの横に「世界は美しい、という感じの曲」と書いた。ノートを見返すたびに、音楽からこんなことを感じたりするんだな、と思った。

 小学校を卒業するころ、所属していた児童合唱団の退団を自分で決めた。N先生がサイン帳に書いてくれた言葉は、「いつもくちびるに歌を」。凡庸だが、心に刺さった。N先生は(当然)本当に歌が好きで、それでやめていく私にもこんな言葉を書くのだ。この言葉を見て、一瞬決意が揺らぎそうになる自分もやっぱり音楽が好きなんじゃないか。今、他のことに時間を割くために音楽を捨てるのだが……「これで自分の音楽が終わるわけじゃない」と……その時点で何の展望も熱意もないわりにはやけに重々しく思ったことを覚えている。

 高校2年のとき、声楽のレッスンを始めた。いい成績をもらってはいたけど、「ぜひ声楽学科に進むべきだ」とだれかが勧めてくれるほどうまいわけでもなく。声楽学科を目指せるレベルかどうか、いや、それを質問して笑われないレベルかすら怪しくてもじもじしていたある日、レッスンの終わりに先生が言った。「あなたは、歌が好きなのね」。その言葉が私には、ものすごくうれしかった。よく考えれば実に微妙な言い方で、ひとつもほめられちゃいない。つい、うれしがりついでに勢いで「声楽学科を受けられるでしょうか?」と聞いてみたら、果 たして芳しい返事ではなかった。でも、ここで私の「いっちょやってみるか」という気持ちは決まったのだと思う。

「こんなライブを見て、こんな曲を聴いて衝撃を受けた」という具体的な体験よりも、ある意味自分にとっては大きい音楽にまつわる根元的な衝撃エピソード、4題。それが「最近、歌わないね」「世界は美しい、という感じの曲」「いつもくちびるに歌を」「あなたは、歌が好きなのね」。

 思ったよりも音楽が好きで、心を動かす音楽を作りたくてやっています。

 

☆マジと読まずに本気と読む                           2009.7.26

 アパートの前の駐車スペースで、小学校低学年くらいの男の子が2人、サッカーボールを蹴り合っている。PK合戦かと思いきや、彼らに「仮想ゴール」は存在してないようだ。一人が思いっきり蹴る。それが壁にぶつかろうと、相手の体に当たって止まろうと、大きくはずれて車道に飛び出していこうと……コントロールはどうでもいいらしい。ボールを待つ側が言う言葉は、いつも同じ。「それで、本気?」。そう、2人はいかに強い球を蹴るかだけを競い合っているのだ。「おまえ、それで本気?」。こう言った子が、渾身の力をこめて蹴る。ボールは郵便受けにぶつかってはね返る。相手はそれを拾いに走り「おまえこそ、これで本気?」と怒鳴りながら足元にボールを置く。この繰り返しが延々と続く。

 いいもの見せてもらった。だいたいのことは、こんなふうにすればいいんじゃないの?

 

☆考えるウォークマン                2009.7.19

 よく「前向き」とか「ポジティブ」と言われるのですが、自分としてはあまりこの言葉にピンとこない。けなされてるわけじゃないから、受け取りはするけれど。意識しているのは、自分をできるだけ機嫌よくさせておくことだ。

 気持ちが暗くなることがあまりない。外に出て暑いとか、雨がじとじと降ってるとか、それだけのことで暗くなったりする人もあるらしい。そんな時、ただ「いやだなあ」と思っているだけだとつらいんだろう。でも、自分の力で解決できないことは考えないのがいい。考え方によってどうにかなるとしたら。

「前向き」の例。「たまには雨が降らないと作物だって育たない」とか「かたつむりさんやかえるさんやみみずさんは喜んでいるよ」みたいな考え方がある。私の場合は、「雨だとなぜいやなのか→濡れるのが不快→でも実際は濡れたってそう実害はない→じゃあいいじゃん」となる。次に、暑いのはけっこう好きなので寒さを例にとると。私のここ一番の考え方は「八甲田山はこんなもんじゃなーい!」でキマリ。

 悩むのが悪いとは思わない。よく悩む人の半分くらいは、悩むのが好きか、あるいは悩んでいる自分が好きなのではないだろうか。おおいに楽しめばいい。ただ「悩むのが好き」と言語化するとカッコ悪いし自分でもしらけるので、自分の心の奥底でだけ本当は好きなのだと認識しておいて、表面 上では心ゆくまで楽しめばいいのである。私ならそうする。本当に「悩んでいる状態がつらい」人は、「悩む」という出口のないゲームをやめて、答え探しに本気で取り組むために「考えれば」いい。考えるのが面 倒くさい人が、悩んだままでいる例も多いのではないか。

 私は質問と答えを考えるのが好きだ。しかし先日、前を歩く人が連れている小型犬の尻を眺めながらふと「もし私があの犬の尻だったなら?」と考えている自分に気づき、いったい何を考えてばっかいるんだろうねえと思ったり。

 

☆新聞作り                 2009.7.13

 我々ライブにいらしたことのある方にはおなじみの、ライブごとに発行している「我々新聞」。体裁は創刊時からほぼ変わってなくて、B4二つ折り。左ページはライブのお知らせその他のニュース、それから私が「ねこまん」(※まんがのようなもの)を書いてたり、それでも紙面 が余ってるときはどうでもいいこと書きなぐったり。右ページは、その日のお題 に対しメンバーがそれぞれ短い作文を書く。「書くことが見つからない」と固まってる人も何回か書くうちにすぐ慣れて、どんなお題にもほどよくテキトーに対処する術を覚えていくのがおもしろい。

 やめるタイミングがなく惰性で続いた新聞だが、100号記念号を出し200号記念号を出し……とやってるうちに前より作るのが楽しくなってきた。私としては内心「欲しくなかろうと問答無用で配達されるのじゃ」と、恐怖新聞の配達人のような心持ちで配っているのだけど、「いつも楽しみにしてます」なんて言ってもらえることもあって今さらながら「そうかー、読んでもらえてるんだな」と驚いたりしている。昨日のライブではお客さんに「書籍化しないんですか?」と訊かれた。まさか本気で欲しがる人もいないだろうと思うのですが、彼女いわく「700円までなら買います」。おお、その希望価格はなんだか間違ってない気がする! コピー本じゃ赤字になるけどオフセットなら……いや、大量 に作って在庫かかえたくないし。と、つい真に受けてしまうマジメな自分に気がついた次第。

 我々新聞は、全部手書き主義。長年やってるうちに、確実に袋文字を書くのは上達しましたが、「ロゴ」力や「飾りケイ」力をもっと磨きたいところです。

 

☆記憶の容量                2009.7.5

 知ってるはずの人の名前が思い出せない。何度か会ってる人に、また自己紹介してしまった。曲のコードや構成が覚えられない。一度覚えたはずのことを忘れてしまった。よくあることだ。よくあるけれど、ふと「覚えておきたいと思うことくらい、覚えておけないものか?」と考える。全部記憶する必要はない。だけど、その気になればまだ入るはずだと思う。今では別 に役に立たない記憶がいっぱい残っているもの。たとえば小学校1年生の、同じクラスだった人の名前を出席簿順に思い出してみる。青木くん板谷くん尾崎くん神原くん北村くん木下くん沢田くん塩原くん田口くん萩原くん馬場くん匹田くん本多くん森谷くん矢津くん石田さん加藤さん梶田さん栗田さん黒木さん佐藤さん富沢さん長井さん橋本さん深沢さん布施さん松倉さん松村さん三上さん横地さん。30人、4分の3。意外と覚えているものだ。教室の風景、遠足の集合写 真などを頭に浮かべながら、思い出してみた。小学6年、中学3年でも試してみるが、思い出せたのはほぼ同じ割合だった。古いほど覚えてないというわけでもないようだ。人の顔と名前を、どのくらい覚えられるものだろう。1000人は軽すぎるな。5000人覚えられるなら1万人だっていけるのでは? ここで試したのは身近な人だけれど、俳優やミュージシャンなら相当多くインプットされている、という人もいるはず。〈身近な人〉も、単に名前と顔を暗記しているのではなくて、その性格や印象的なできごととあいまって記憶されている、という意味では〈著名人〉の記憶のしかたと変わらないと思うのだけど。

 私的なできごとの話をしていて「それは1998年で」と年号がすらっと出てくる人がいて、人の年齢などもよく覚えている。私はこういうのは苦手だが、なぜか誕生日を覚えるのは得意だ。つい先日の打ち上げの場で、新たに3人の誕生日を覚えた。ほら、思い出せる。その時の状況を振り返ってみて、今初めて私は「5.11」とか「8.3」とか「12.19」という文字そのものを頭に浮かべていたことに気づく。その人の顔と、「画像」にした数字を焼きつけているわけだ。

 学生時代、私のテスト前のやっつけ勉強法は、教科書をにらむというものだった。読むというより、スキャンする感じ。理解はしてないし、するつもりもなし。テスト中に「あーこれ、確かあの辺に書いてあったな」と脳内の教科書のページをめくる。「ここだ」と思ったところをクローズアップする。読みとれれば万々歳。どんなにクローズアップしても画像がぼやけるばかりで、読みとれないときは的確にスキャンされてなかったってことで諦める。

 記憶装置の仕組みはわからないが、その可能性は相当なものだと思う。簡単に「容量 いっぱい」なんて言ってなるものか。自分が記憶しやすい形式を研究して、もっとコントロールできるように工夫してみたいものだ。

 

☆ブレスレットのシーズン到来                 2009.6.29

 通販番組でおなじみ「○通りの着方があるドレス」みたいなものに、やっぱりひかれがちである。くだんのドレスはそこまで使いこなせる自信がないので手を出さなかったが、ここ何年か流行っている「上下さかさまにして着られるカーディガン」は実際かなり役立つ。

 先日購入したのが、ブレスレットになるベルト。長めのベルト(1本)+短めのベルト(2本)が連結しているもので、その長さで1本のベルトとして使える。幅15mm くらいの細いものだ。ベルト部分をはずすと、3本に分解できる(3本の色は異なっている)。すると、短めの2本は、ちょうど腕を1周するとちょうどいい長さのブレスレットになる。長めのは、腕を2周半くらいできるブレスレットになる。こういうの大好き。

 腕を露出する季節になったので、ここぞとばかりにブレスレットをつける。いちばんよくつけているのがこれまたおニューの、でかくて太いシルバーの輪っかが目立つ、皮ベルトを3周ばかりも手首に巻きつけて装着するやつ。重いかなと思ったが、ライブのとき着けてても意外と気にならなかったのがうれしい! ライブ映え……という意味では、右腕に着けられるのが欲しいところ。私の場合、曲によっては手首の骨から数cm上あたりまではベースのボディにガンガン打ちつけてしまうので、それより上でとどまってくれるものがあったらなあ。どうですかね、VacantのHさん、そんなの作ってくれませんか?

 

☆ケータイのかなしみ                2009.6.22

 電車の中で、一列のシートに腰掛けている7人が全員ケータイを見ていた。なんともマヌケな光景だった。別 にメールやネットがどうだこうだと語るつもりはないが、とにかくそれがひたすらマヌケな姿であることだけは身にしみた。よほどのことがない限り、電車の中でケータイを見るのはやめようと、改めて心に誓う。電車の中でケータイをあれこれするのが恥ずかしいので、なるべくかばんの中でそれを隠してすみやかに行うようにしているのだが。恥を知る私。もちろんただの主観だが、ちなみにケータイを見るのは立ってるより座ってるほうがよりマヌケじみて見えることも付け加えておこう。さらにいうと私は、小さいゲーム機で遊んでる人のほうが、ケータイの人より好きだ。「遊んでる」それ以外のなにものでもなさを堂々と丸出しにしているところに好感が持てる。当然、ゲーム機で勉強するとか脳を鍛えてるとかいうのは軽んじる。「遊びながら勉強」というのが嫌いだ。おっと、私はそもそも「ながら」好きですけどね。私が好きな「遊びながら勉強」とは、缶 けりしながら単語帳をめくるみたいなやつだ。

  ケータイはどうしてこんなにかっこ悪いんだろう。何をしているかわからない、煙に巻いてる感じがかっこ悪いのかもしれない。これについてはもっと考える必要がある。

 

☆晴れの日に傘を買ったことがある人とない人の間には大きな断層がある                 2009.6.16

 知らないうちに梅雨入りしていた。ベースのソフトケースのポケットには一年中折り畳み傘を1本入れておく用意のよい私だが、現在我が家は傘不足である。傘なんて、そんなに持っていなくていい。しかし、今年の初めにどこかに青の長傘を忘れてきてから、うちには地味傘がなくなってしまった。今使っている唯一の長傘は、この下の背景色のようなピンク。てっぺんの形が変わっている。ちょうど「{」のマークを90度時計回りに回したみたいなフォルムが気に入って買った。素敵なのだがやっぱりややヘンテコデザインのおかげで超赤札で購入。道々すれ違う人が注視するかわいさが自慢だが、この傘だとはばかられる場面 もあるよなあ。ビニ傘じゃなくて、そんなに高くなくて、だけど愛情を注げる地味傘を1本……と思っているのだが。洋服なんかさし迫った必要がなくても買えるのに、傘はなかなか買うタイミングが訪れない。

 柄は金属じゃないのがいい(冬は冷たくなるから)。前に持ってたのは柄が合皮で、これは水滴が気にならなくてよかった。傘布が薄手でまとめやすいこと。止め具はスナップでもマジックテープでもなんでもいいけど。

 そういえば前に渋谷で見た傘は、屋根部分が非対称なのがウリだった。広げるとてっぺんのカーブが「へ」の字になる。持ってみたがこれがホントに雨をよけやすいのかよくわからなかったし値段もそこそこ高かったので見送ったけど。スペイン製だったかイタリア製だったか……。「傘に変わる画期的な何か」は登場しそうもないが、特徴的な機能性のある傘はもっと出てきてもいいように思う。

 

☆すきまに暮らす                2009.6.8

 本を読むのは、何かのすきまの時間である。1冊2冊一気読みするときでも、使っているのはすきま時間であり、「さあ、腰を据えて読むぞ」みたいな態勢を整えて読むことはない。ごはんを食べながら、洗濯しながら、料理しながら、風呂に入りながら読む私が、家の中で唯一使ってないのがトイレである。けっこうトイレで読書する人は多いと聞くが、私はさっさと用をすませるほうなのでそれを試したことはない。しかし、今さらながら用を足すの足さないのはともかく、トイレという小さな個室は読書に向いていそうだと気づいた。よけいなものは何もないから集中して読めそうだし。そういえば、浴室を本置き場にしているという人の話もきく。風呂は銭湯通 いと割り切ってしまうのだそうだ。風呂桶にクッションを置いたりすると、これまた意外といい読書場になるのかもしれない。

 私が愛しているのは適度な狭さだ。最近気になるのが、お子さま向けのドーム型のテントである。野外向けではなく、おそらくフローリングの、広いリビングがある家で遊ぶことを想定して作られたもの。絵本に描かれるような小さなおうちの形をしていたりする。(別 にそんなもの導入しなくたって十分狭い部屋なのだが)さらに狭苦しい密室空間を作りもぐりこんだら、快適じゃないかと思う。私は遮断されたがっている。

 さほどお高いものではないが、畳の我が家には合わないなあと購入を踏みとどまること数回。いっそ段ボールでこういうのを作ってみようかしら。折りたためるホームレス風読書室。

 

☆おそろい物語                 2009.6.3

 電車で、女子大生が二人座席に並んでいる。片方が失恋した話をして、片方が慰めている。失恋したほうは服も靴もバッグも黒で、慰めているほうは服も靴もバッグも白だ。なんだかちょっとした芝居を見ているようだ。二人のケータイには、おそろいのストラップがぶら下がっている。サテンのリボンにレースをあしらい、クリスタル様にカットしたでかいプラスチック玉 がついている、いかにも女の子らしいものだ。失恋したほうのはラベンダー色が基調、慰めているほうのはピンク。私は、彼女たちがお店で、ストラップを選んでいるときの様子を想像して遊ぶ。

 おそろい、というと思い出すことがある。小学生のとき、私は隣の家のEちゃんといっしょに登下校していて、よくいっしょに遊んでいたけれど、うすうす互いに「お隣同士だから仲良くしている」とわかっていた。子ども時代、多くの「仲良し」はたいがいそんな理由でできているものだけど。それでも私と彼女はたぶんお隣同士でなければ接触しないくらい、ほんとうに何もかも趣味が違った。5年生くらいのころ、女の子の間で筆箱をおそろいにするのがはやった。「仲良し」であることを示すための行為として。Eちゃんが私を、筆箱を買いに行こうと誘う。私は内心、今使ってる筆箱が壊れていないので不必要だと思いはしたが、それでもやっぱりだれかとおそろいの筆箱を持ってみたかったりしたので、誘いに乗った。国分寺の文房具屋、ファンシーショップ、西友の文具売り場などをひと通 り回る。Eちゃんが気に入るものが、私には気に入らないし、私の気に入るものが彼女には気に入らない。私はキャラクターがでかでかとついたものがイヤで、Eちゃんは私の提案するものは地味すぎるという。なんとか落としどころを合わせて二人が買ったのは、スモーキーピンクの地、小さい布タグにロゴと小さなキャラクターがついている地味な布ペンケースだった。

 半年ほどたって、私はEちゃんがYさんとおそろいのペンケースを持っているのに気づいた。少し悲しくはあったが、そんなに悲しくはなかった。いろいろな意味でもっともだと思った。私はしばらく一人で地味布ペンケースを使い続けたが、やがて運命の相手に出会い、クリーム色のスヌーピーのおそろい缶 ペンケースを購入する仲になるのだった。私はうれしかった、とても。

 なんでもないようなことが幸せだったと、思う!?

 

☆街で見かけたいい男                2009.5.25

 意識しているわけじゃないが、日々何かから何かを読み漁りたい貧乏性の私は、いつでもどこでも目を光らせている。先日、近所で……さっそうと自転車で走ってきて、ローソンの前につけた彼に目を奪われた。「停車」「降車」がすばやく一体となった美しいフィニッシュ。降車しながら蹴りおろしたサイドのスタンドが「停車」とともに車体を支え、自転車は絶妙な斜め傾き角度を保って、降りたあとにぐらついたりしない。その一連の所作に色気を感じる。そして、彼のハーフパンツから出た両すねは、かわいた土で真っ茶なのである。よく見ると、全身土をかぶったように薄汚れている。ますますよい。推定、10歳くらいか……。最近、土で汚れた子というのにはなかなかお目にかからないものである。

 彼の人となりを知るため、私もローソンに入る。ストーキングともいう。お目当ての「からあげ君プレーン」がなかったため、彼は「チーズ味」を購入した。そこで、ローソンに彼の友人が4人入ってきた。彼は「おっせーよ!」と言う。状況がわかって、私はますます惚れる。今まで同じ場所で遊んでいた仲間がいたのに、彼は「早く走りたいがために」友だちをぶっちぎってきたのだ。いかす。いや、彼の中では「からあげ君が食べたいから」という理由づけになっているだろうが、彼の奥底に無意味に「早く走りたい」気持ちが燃えたぎっていることを、私はすでに知っている。友人がグラブを手にしていたから彼らが野球をしていたのだとわかり、私は内心ますます喜ぶ。

 あなたの知らないところで、あなたに恋をした人がいるわけです。

 

☆図々しいのか奥ゆかしいのか…                 2009.5.18

 とある店でアクセサリーなど見ていたら、店主が何やらモゴモゴ言っている。「ケイト……」とかなんとか。そもそも話しかけているつもりかもわからないくらいのはっきりしない声だ。客は私一人。ひとりごとでもないようだが。「え?」と、問うニュアンスで。彼女はひとこと、外国人の名前を口にする。ケイト・なんとかと。それが、何??? 「なんでしょうか?」と聞く。彼女は、私がぶら下げてるペンダントを指して「それ、ケイト・***(ホントにわからんのだ)のですよね、お好きなんですか?」と言う。そもそも私が自分のしてるアクセサリーのデザイナーも知らないということは、相手にとって予想外だったかもしれない。だけど、最初っからそのくらいの《文章》をしゃべってくれれば話は早い……というか、それが当然だと思うが。自分からコミュニケーションをとろうとするのに、《単語》で振るなよなあ。

 これと似たようなことに最近2、3度遭遇した。自分はこれこれをやっている。あおうさんは、これこれをやっていますよね。……というところまで、相手は話を進める。とにかく話を終わらせず、私に何か言わそうとしてはいる。雰囲気的に「○○に紹介してほしい」「○○に誘ってほしい」という内容が続くのだろうとわかる。だが、相手はそれを言わない。業を煮やして、こっちから言うことになる。だけど私はめちゃくちゃ正直者なので自分が積極的に食いついてないならば、「〜〜に紹介しましょうか?」とは言ってあげない。「〜〜に紹介してほしいということですか?」と言う。相手はそうだ、と言う。ならね、そこは自分で言いましょうよ、言っていいんですよ。はなからそういう気持ちがあって、私に電話してきたのなら。と、ここまで言う。相手にはうざいと思われるかもしれないが、決して私は怒って言ってるのではない。教育的措置です。私にだけじゃなくて、そんな話し方してたら損するよ、と言っておきたいのだ。図々しいんだか奥ゆかしいんだかわからないのは困る。

 《その先》を言わせようとしているか、そんなつもりはないかはよくわかるし、だれに関しても、均一にこういう態度をとるわけじゃない。そこは当然、差が生じる。相手がどんなに言葉すくなでもこっちが食いつきたくなるアピールがあれば、話は別 。世の常です。

 いい大人なんだから、「おしっこ」ひとことでだれかが振り向いてくれると思っちゃいけない。私は聞くよ、「おしっこが、どうかしましたか?」と。

 ちなみに「態度で示すな口で言え」とは、コマツ氏の名言である。

 

 

☆てんさいはわすれたころにやってくる                 2009.5.11

 うかうかとTシャツを衝動買いする季節になりました。Tシャツは「ライブで着るのにいいんじゃん?」という言い訳が立ちやすいためにサクサク買いがちなのです。

 「ローカル・セレブリティ」のTシャツはデザインもさることながら伸縮性のあるコットンで着心地よし、肌ざわりよしで気に入った! で、胸に書かれた「She's a Genius」というロゴを、ライブの場で堂々見せびらかしたりするのでした。

 “genius”。思えば中学1年生のとき、課題の英作文でマブダチのKさんが私のことを英作文に書き(もちろん題は“My friend”だ)、“She is a genius.”という一文でしめくくったのが、この単語との出会いでした。くるしゅうない。

「どうよ、お似合いだろ!」とアピールする私に失笑した向きもあるかと思いますが、自分が天才と思ってるわけではないのでした。だったらいいなとは思うけど、残念ながら。

 でも、負け惜しみではなくって、もし人に呼んでもらえるならば「天才」よりも、「軍神」と呼ばれたい。なーんて思ったりしていますの。

 

☆ただ、力余っているのかも                  2009.5.3

 「ながら」が得意な私だが、ときどき小事故を起こす。先日はジーンズをはきながら歩こうとしてすっころんだ。マンガみたいだった。これでケガでもしたら大恥だ。

「ながら」でなくとも、妙に信号が混線して動作に不具合をきたすことがある。刻んだ野菜がいっぱい入っている鍋を持ち上げてガス台に乗せるつもりが、持ち上げたはずみがでかすぎて、大根とにんじんと玉ねぎを刻んだのが宙に舞った。その瞬間はとても美しかった。なかなかこんな光景を見る機会はないだろう。

 やっぱり台所で。フライパンを流しに移動させるとき、(これは中に水を張っておいたのをすっかり忘れて)威勢よく振り上げすぎて、ほとんど真夏の水まきばりの勢いで床に水を放ってしまった。大胆に。

 こういうことが起きたとき、大事なのはすぐさま「スゲー!」と言ってしまうことである。スゲーと思うと、後の片づけもあんまり情けない気持ちにならなくてすむ。ホントだよ。