ダマコラム KOZUE AOU    2007.4〜8月 2007.9〜12月 2008.1〜4月 2008.5〜8月 2008.9〜12月 2009.1〜4月 2009.5〜8月 2009.9〜12月 →wareware top

☆筍週間   2010.4.26

 宅配野菜が週1回届く。先週は筍が入っていて……このように自分じゃ買わないようなものが入っているから、とり続ける意味があるといつも思う。「たけのこ一本ちょうだいな、まだ芽は出ないよ」という、遊び歌の節が浮かぶ。皮をむきながら「タケノコ生活」という言葉がよぎる。

 かなり立派な筍で、一番大きい鍋にもまるごと入らないから半分に切る。下ゆでしたのを水につけておけば1週間くらいもつという。ゆで上がったのを2つの保存容器に収まるよう、切り分ける。1日目におかか煮と、2日目に筍カレーを作ってみる。筍ごはんを炊いてみる(大量 にできたので、急遽会うことになった人におすそ分けした)。それでもまだ、半分以上あるのだ。食べても食べても減らない『おおきなおおきなおいも』(赤羽末吉)という絵本を思い出して、愉快な気持ちになる。あとは定番の若竹煮か。チンジャオロースーはちょっとなあ……しょっぱなにカレーを作ったが、せっかくの味わいを活かすには薄味の料理のほうがよかった。サラダにしてみようか。そういえば、あの筍の皮。しっかり厚みがあって、皮の外側の短い毛が柔らかく、実にいい手触りだった。あれで遊ばなかったのは惜しいことをした。

 

☆石井桃子を見ずにけっこうと言うなかれ   2010.4.18

 R嬢に誘われ、かなりムリヤリ時間を捻出して……世田谷美術館の「石井桃子展」、行ってよかったぁ! 石井桃子は『クマのプーさん』『ピーターラビット』『うさこちゃん』シリーズはじめ数々の(もう挙げていけばきりがない)児童文学・絵本の翻訳者(を超えた紹介者)であり、かの岩波少年文庫を立ち上げた編集者でもあり。そして意外と忘れられがちだが、一流の作家でもある。あ、「絵本や子どもの本が好き」だなんだ言ってて、この名前にピンと来ない人はヘソ噛んで最低3回転んどいてください。そんでウィキかなんかで調べて「主な仕事」とかに載ってる本(どうせそれだって一部だろう)を全部読むまで児童書語るべからず。

 石井桃子の小説で最も有名なのは『ノンちゃん雲に乗る』かもしれないが、晩年の『幻の朱い実』の素晴らしいことといったらない。80歳を過ぎて、あの完璧な長編小説を書き切るエネルギー! 「児童文学畑の人」とみなされがちな方なので、この作品が読売文学賞を受賞したと知ったときは、いい気な素人コメンテーター気分まるだしで「うぉー、わかってんじゃん、選考委員の人!」と快哉を唱えたものである。

 この展示で実に心打たれたのは、その生原稿、また改版に際しての赤字修正の入れっぷりである。一語一句をこだわって選び抜き、よりよい表現を練り上げる態度がにじみ出ていた。本当に常に最高のものを世に送り出し続けた人の、真剣なたたずまいをそこに見る。高いクオリティーを出す人はいつもギリギリまでやっているんだ、と実感する。がんばっているけど作れない。思いつかない。そんなものは、ただの甘えだと思い知らされて。

 

☆ゾンビと戦い抜く所存   2010.4.17

 広告代理店の打ち合わせスペースで担当者を待っていると、少し前までいっしょに仕事をしていたOさんが顔を見せてくれた。彼女とは去年の11月くらいからけっこうなボリュームの仕事をしていた。広告の仕事は、出版と違って予想外に長丁場になることがままある。一段落したかと思ったら変更・修正・追加などがバラバラと降ってきて、そのたびにOさんはすまなさそうにしていたのだが、「ようやく終わった」と報告しに来てくれたのである。

 いやぁ終わりましたか、よかった、本当にお疲れさまでした。しかし……私は言った。「でも、一応まだ安心しないでおくことにしますよ。だって、たいていのホラー映画では『これで全部敵をやっつけた』とホッとしたところで、突然まだ残ってたヤツが襲いかかってきたりするじゃないですか」。

 果たして、恐ろしいことにその数日後にやっぱり「ホントに最後の追加原稿依頼」が飛んできたのだが、予測していたおかげで精神的ダメージは少なかった。負けるもんかい。ゾンビよ、いつでもかかってきな!

 

☆求むロッカー情報   2010.4.4

 最近、ベースが入る大きさのロッカーが出現しておおいに助かっている。600円するやつ。500円のはぎりぎりギターは入るかもしれないが、ベースはムリな大きさだった。仕事帰りにライブハウスに出る、あるいは練習スタジオに行く人にはありがたい存在だ。仕事場に楽器を持っていけないという人は多いようだし。家で仕事するのが普通 の私の場合、ライブや練習の前には極力外出する予定を入れないようにしているのだが、やむを得ず入ってしまうこともある。そんなとき、新宿駅新南口のあのロッカーにどれだけ助けられているか! 打ち上げの席でこの話をしたら、世のベーシストたちはやはり皆、600円ロッカーの所在をチェック済みなのでした。600円って高く思えるかもしれないが、不可能を可能にする効率、節約される時間、家に帰った場合の交通 費を考えると全然高くない。

 ただし、駅のロッカーにまる一日以上楽器を入れておくというのは、よろしくない。前に、京都でライブをやって朝帰ってきたとき、その日効率よく動くためにはいったん家に帰るのをはしょるのがベストだと思い、ベースを新宿のロッカーにつっこんだ。どうせ翌日には練習があり、またベースを新宿に担いでくることになるのだし……。しかし、その日は雨が降っており、36時間後に取り出したベースはかなり湿気を吸いこんでいたのだ。

 環境的に安心なのは、スタジオのロッカーだ。予約が入っていれば、ロッカーに楽器を預けられるスタジオがある。先日のこと、取材先から即スタジオに直行しないと間に合わないことがわかっていたので、前日にスタジオにベースを預けに行く。当日、荷物をバッグに詰めてみたらけっこうなボリュームで取材の邪魔になりそうだったので、通 過駅の300円ロッカーに入れておく。この取材はフォーマルないでたちで臨まなければならなかったので、練習用の着替えも持っていたのだ。取材が終わり、荷物をロッカーから出してスタジオに赴く途中……ひとつのエラーに気づく。しまった、着替えは持ってきたけど靴は持ってこなかったよ! 私はハイヒールじゃベース弾けないし、裸足で弾くようなearthyな人間じゃないよ(いや、ファッション性の問題じゃなく、足の感覚ってのも重要なんですよ)……おっと、あるじゃん、あそこにMyシューズが! スタジオへ行く途中に私の通 うジムがあり、そこのロッカーに置き靴していたのであった。こうして3つのロッカーを駆使して、なんとか一日が成立。

 まあ駅のロッカーは埋まっていたらアウト(特に600円ロッカーは数が少ない)、スタジオのロッカーだっていつも空いてるわけじゃない。そんなときはどうするか。かつて試みたのは……。仕事先の人に正直にぶっちゃける(堂々と打ち合わせの席に置いておくのは気まずいので、クロークルームなどに置かせてもらう)。意外や相手が楽器好きだったりして「見せてくださいよ」などと和んだ空気になって救われることも何度か。さすがに初対面 の 人(取材対象とか)にはぶっちゃけるわけにいかない。カメラマンの方にお願いして車に入れさせてもらったこともある(当然、要事前相談)。あるいは、ビルの管理人に預かってもらう(これも先に連絡を入れておく)。比較的近い、知り合いの店とか事務所に置かせてもらう(図々しいお願いなので要フォロー)。前日にメンバーに預ける。これが可能なのはコマツ氏しかないのだが、預けたはものの「まさか忘れてきたらどうしよう」と心配で仕方なかった。いやいや、ちゃんと持ってきてくれましたけど(笑)。

 

缶 コーヒー閑話    2010.3.29

 缶コーヒーのターゲットというのは主にサラリーマン男性、なのだそうだ。いわれてみれば、缶 コーヒーを飲んでるのは男が多い気がする。かくいう私はけっこう缶コーヒーを買うほうだが。コンビニや自販機で買う飲み物は8割がた、缶 コーヒー。それ以外だと緑茶か紅茶。今日も、スタジオ練習の前には迷わずボスの「贅沢微糖」だった。

 新聞を読んでいたら、最近の缶コーヒーの売れ行きランキングが載っていた。ベスト5は上位 から「ボス贅沢微糖」「UCC BLACK無糖」「ワンダ金の微糖」「ファイア挽きたて微糖」「ジョージア エメラルドマウンテンブレンドブラック」だって。微糖強し。それに最近は缶 のブラックコーヒーもおいしくなったよなぁ。と、味にうるさくない私が思うくらいだから、本当においしくなったんだと思う。技術革新おそるべし、月月火水木金金とな!

 少し前にぼんやりと、人の嗜好はどうやってできていくのか考えていた。そこには味の好みだけでない、《そのもの》の持つ性格みたいなものも影響しているんじゃないか。たとえば私の家では子どものころ、朝のパン食のお供は紅茶だった。だけど、私は自分がいつかコーヒー党になることがわかっていたような気がする。大好きな本(もとは姉が所有してたのだが)『ぼくの旅の手帖 コーヒーのある風景』(森本哲郎)とか、コロンボ刑事がコーヒーを飲む姿などの……コーヒーが登場するシーンの持つ雰囲気に引き寄せられていたからではないか。見た目的に、紅茶カップよりもコーヒーカップが好きだとか。『大どろぼうホッツェンプロッツ』(プロイスラー)に出てくる主人公の少年たちがコーヒーを飲む場面 も好きだったし。とはいえ、もちろん「カッコ」だけでは本気で好きにはなれない。じゃ、自分がコーヒー派に転向したのはいつなんだろう。たしか、中学1年ごろにはもうインスタントコーヒーをブラックで飲む習慣があった。その前は? 記憶をたどってみると、そこに現れたのは「POKKA」の看板であるオッサンの顔だ。小学校高学年の夏にPOKKAの加糖コーヒー(ミルクなし)を飲んだとき、たぶん私は初めて「コーヒー牛乳ではない《コーヒー》」のおいしさを感じたのだと思う。今は見かけないけど、それは直径15cmくらいの大缶 で、フタのはしっこに缶切りで穴を開けて注ぐスタイルのものだった。このすり込みがあって、中学生ともなると自販機で……今も健在の、あの「顔缶 」と呼ばれるPOKKAコーヒー(これはミルクが入っているが)を買うようになる。ときにはもっと甘ったるいUCCのミルク&コーヒー(250cc缶 でコーヒー豆の絵がついているやつ)、ダイドーのブレンドコーヒーを買ったり。最近は微糖好みなくせに、POKKAの自販機が目の前にあるとつい顔缶 コーヒーを買ってしまうのは、それを見ると「今からコーヒーを飲むのだ」という気に《より》なれるからなのだろう。

 私がよく買う《微糖》は、「ボス贅沢微糖」だの「ファイア金の微糖」だの……つまりは「金色だから好き」っていうなんとも単純な結論にたどりついてしまう。「ワンダ金の微糖」を買わないのは缶 が好みじゃないからだ。デザインの問題。そして商品のネーミングというのもまた大事で。まんまと買わされていると思いつつも、ときどき「ジョージアご褒美ブレイク」を買っちゃ、心の底ではそんなにその味が好きってわけでもないことに気づいている。

 一昨日、本屋で『男は、なぜ缶コーヒーが好きなのか』という新書のタイトルを見かけた。これを書いていたら読んでみたくなってきて、私はきっとすぐに買いに行くだろう。

 

☆壊れかけのテープレコーダー   2010.3.22

 携帯電話がいよいよ寿命と感じ始めてから数か月、ようやく買い換えに行く。携帯電話に求めるポイントは少ないから、選ぶのに時間はかからない。店員に「auので、スライドのやつを教えてください」と言うと、たちまち候補は3機種に絞られた。ひとつは見た目のオシャレなデザインケータイというやつで、オシャレはいいけどボタンが使いにくそうなので却下。残りあと2つ。若干値段に差があり、店員は機能の説明を始める。しかし、私の中ですでに迷いどころはない。「大きいほう、ください」。単に「デカいほう優先」という理由でサイバーショットケータイを購入というのもなんだか変な話だが。

 同じauのものでも、メーカーが違うと性格が違う気がする。これはソニーエリクソン製か……そういえば、これまでソニーのものをほとんど買ったことがなかったようだ。電化製品に一家言あるわけではなく、性能もろもろを調べまくることもせず、そのつど「直感的に使い勝手がよさそうか」「見た目の好み」でサッと選んでいるだけなのだが、その中で自然によく買うメーカーが決まってくるから不思議。私の所持品で圧倒的に多いのはCASIOとSANYOであると、今気づいた。きっと相性がいいんだろう。そういえばかつて使ったケータイもNOKIA(懐かしい!)→CASIO(G-SHOCK)→CASIO(またG-SHOCK)→SANYOだったし。

 SANYO人生は、初めて買ってもらったラジカセ「おしゃれなテレコ」の刷り込みによって始まったのかもしれない。これは見た目も完璧に好みで、稼働していない今でも保存している。見るたびに、美しいと思う。ガムテープでむりやり補修してる部分はあるにせよ、まだ動くには動く。思い入れの強いマイ・ファーストワープロ「文豪mini」(NEC)だって、ぶっこわれて泣く泣く処分したけれど、これだけはどうも手放せないんだ。 あまりにかわいくて。

 

☆取っ手がほしい   2010.3.15

 ガードレールになんだかきれいなものが引っかかっているなと思い、近寄ってみるとそれは自転車のチェーンだった。うっかりと持って帰りそうになるくらいよいものに思えた。私は道ばたで物を拾いがちだが、たいがいボルトだのナットだの、釘だの。大きいものではタイヤなど。いずれも何かに役立てようというよりは「きれいだ」と思って拾っている。もちろんボルトならを見たらなんでも拾うわけじゃなく(戦時中じゃあるまいし)、そこは自分なりに吟味しているのだけど、「金物屋」趣味なのは自覚している。

 1月に見た現代美術展で、ドアに脚をつけてテーブルに仕立てたものに感心した。ドア自体のもともとのデザインもよい上、実際に使いこまれていて味わいがある。販売されていたけどけっこういいお値段で、そもそもかなり大きかったので持って帰るには至らなかったのだが。しかし、あれから我が家のテーブル(正確には、テーブルとちゃぶ台の中間的なもの)にハンドルをつけたくってたまらない。引き出しについているような小さなツマミ程度のでなく、しっかりと「ドアノブ」と呼べる大きさのあるいいハンドルはないものか。などとを考えながら、きょろきょろしている。いつか拾える気がするのだが。

 

トビマストビマス   2010.3.8

 バンクーバー五輪はキム・ヨナさんとまおたんの滑りくらいしか見ていないのだけど、フィギュアスケートには少し思い入れがある。ときどき、ベースを弾いていてその光景が頭をよぎることがあるから。短い時間の中に、いろんな技がある。素人目には《ふつうに滑っているように見える》中にも、多くの技巧があって、大技ばかりでなく《ふつうに滑っているように見える》ところで力量 が分かれたりする。全体の緩急や、組み立ても重要である。そんなところに、なんとなく共感を覚えるのだ。

 ひとつの曲の中で、大まかに弾くことは決まっているが、それは日によって少しずつ変わってくる。たとえばドラマーが、《いつもと同じリズム》を刻んでいたとしても、厳密にはいつもと同じわけではない。人間のせいだけでなく、環境による音のはね返りのせいでも、違って聞こえるし。そのつど、聞こえるほかの音と、自分の音の混じり具合を確かめながら、適した音を出そうとしているつもりだ。

 わりに地味なことを弾いてるときは、《ふつうに滑っているように見える》の最上級をイメージする。バンドはソロ競技じゃないので難しいフレーズを入れればすごいってわけじゃないのだけど……自分なりにいくつかのバリエーションを用意している部分がある。周囲とのアンサンブルも含め、いけそうなときは「4回転」に挑戦する。着地が危なくなり、転倒を免れてほっとすることも。「3回転」がベーシックだったとして、「2回転半」にしとくか「4回転」いくかは、本当に踏み切る直前まで決めかねるのだが。よし、跳ぶか、と決断する一瞬のこわさもまた、快感。

 

☆サイン   2010.3.1

 夜になって帰宅すると、アパートの階段の下にそれらが整然と並べられていた。開いた栗のイガの真ん中に、マツボックリを乗せたもの。その隣に、コンクリートブロックの大きめのかけら。さらに隣に、色や形の違うのを集めた20ばかりの小石。少し離れたところに、これらを指し示すように置かれた1mほどの枝。

 私はこれをしばし眺めていた。いいバランスだ。この、整然とした並べ方が、少し不穏で怪しい雰囲気を醸し出しているのがいい。だれかが(十中八九、子どもが)何かの意図を持って並べたものであろう。あまりにいい出来なので、写 真に収めようと思う。よいトリミングを探して何度か撮り直しているところを、ちょうど自転車で帰ってきた中学生男子に目撃された。これじゃ、私のほうが怪しいわ。

 翌日の昼間、そこに赤いプラスチックの破片が追加されていた。全体的に、ややはじに移動しているような気がする。階段の下で通 行にじゃまだから、だれかが寄せたのだろう。

 その夜には、ついにそれらは蹴散らかされてあった。これでいい。いや、もっと早くこうなるべきだったのだとも思う。見つけた時点で写 真など撮っていないで、自分がやるべきだったとも。あれはきっと、保存されるためにつくられたものではなかったのだから。

 

本日の収穫   2010.2.22

 今日、1月21日。UFOクラブでライブをするにあたり、私にはライブを行う以外の重要ミッションがあった。それは、UFOクラブのスタッフのとある男性に名前を聞く、ということである。

 その人は、私がUFOに行くようになったかなり初期のころからいて……たぶん8〜9年は経っているものと思う。そんなに頻繁に行っているわけじゃないが、たぶん相手も私のことをバンド名はともかく「出演者の人だな」程度にはうっすら認識してくれているのではないか。しかし、そういえばちゃんと話したことはない。寡黙な感じだが、雰囲気のある人だと思っていた。なんだか急に彼と話してみたくなった。気になることはすぐ解決するにかぎる。ちなみに私は、彼のことを心の中で「次元さん」と呼んでいた。常に真っ黒な服を着ていて、帽子を深めにかぶり、あごひげをたくわえているから。UFOに何度かいったことある人なら、わかるでしょ? 

 何年もお世話になっている人に、今さらながら名前を聞くというのはなんだかマヌケていて緊張するものだ。なかなかチャンスがなく、もじもじしまくった挙げ句、終演後カウンターにいた彼にようやく話しかける。これも今さらで相当はずかしいが、先に「我々と悲鳴でいつもお世話になっております、アオウと申します」と名乗る。気さくな方で、よかった〜。「次元みたい」ってよく言われるらしいです。やっぱりね! お名前を教えていただくとともに、通 り名も教えていただく。ふふ、これからはフレンドリーにその名で呼ばせていただくことにします。え、もちろんここには書きませんよ。ザ・トランプ、ザ・ピノキオズなどなどバンドも複数やっていて、 UFOにもよく出ていらっしゃるそうだ。こうなったら、次はライブを観に行かなくっちゃな。

 

☆口に出したくもない日本語と、言ってみたくなる日本語と   2010.2.15

 古い言葉を礼賛するつもりはなく、新しい言葉に過敏になってるわけでもない。ただ、古かろうが新しかろうが、できるだけ好きな言葉を選んで使いたいと思っている、そのこだわりは強いかもしれない。だから、ときおり「完全に流通 しているけど、どうしても気恥ずかしくなってしまう言葉」に出会うと困惑する。

 市報を読んでいたら、興味深い記事があった。かつて市内にあった名画座を復活させる動きがあるという。それについて意見を述べたいとか、手伝いたい人を募っている。名画座復活自体はたいへん素晴らしいことなので、なんかくちばしをつっこんでもいいかな、と思った。しかし。その記事の「サポーター募集」という見出しに、一瞬で萎えたのである。ダメなんです、私、「サポーター」は。どうにもなじめない。この言葉、英語圏で通 じるのか知りませんが、日本で使われるようになったのはJリーグが発足してからだろう。サポーターっていうと、どうしても異臭を放つアレを想像してしまうんだ。またサッカーで使われる「サポーターは12人目の選手です」という常套句にも納得いかないため、この「サポーター」という言葉は、どうにも私にとってイメージが悪い。まあ、ナントカ委員、と名前をつけてしまうといかにも重たそうで敷居が高い、できるだけ気軽に参加できそうな言葉で、という趣旨もあって「サポーター」という言葉が選択されたのだろうけれど。

 たかが言葉。しかし、私は自分が何かの「サポーター」になると考えただけでも恥ずかしい。

 先日、財布を手に「金子(きんす)が……」と口にした自分に驚いた。どっから出てきたんだ、この言葉。いくらなんでも現代で「金子」とか言ってる人がいるだろうか。少なくとも私は遭遇したことはない。『金色夜叉』とかには出てきそうだけど。調べてみると、1969年発行の『広辞苑第2版』には載っていた。意外や1993年発行の『デイリーコンサイス英和・国語辞典』にもちゃんと載ってて、しかしこちらには「お金」のあとに「*古風な言い方」というただし書きがある。同じ意味で「銀子」ともいうらしい、これは初めて知った。「今、お金がなくって」というより「今、金子の持ち合わせがなくって」というほうが、ちょっとマイルドで趣があると思うんだが。

 

ああ年賀状…   2010.2.8

 手紙を書くのが好きなので、年賀状も好き。義務というつもりではなく、毎年書くのを楽しんでおります。純粋に自分が書くのが好きなだけなので、返事は来なくてもかまわないんです……ということを以前にも書きましたが、それでもやっぱりもらうのはうれしい。「これまで10年くらい一方的に出し続けていたけれど、一度ももらったことのなかった人からの年賀状」が今年は2件あって。来年からまた来なくなっても、別 にがっかりしたりはしないけど。しかし、やっぱりそれはとてもうれしかったのです。

 ところが、今年は私始まって以来の不祥事が起こっております。正月に書くと決めているので、私の年賀状が相手に届くのは推定1月の4〜7日あたり。毎年決して早くはないのですが、今年は正月休みが短かったせいで、年賀状が予定数の6割くらいしか書けていないのです! 住所録の「あ行」から書くのですけど、「た行」の途中あたりで止まったまま(笑)……。

 これでもまだ書くつもりはあるのですが、さすがに2月以降にしれっと出すのもナンなので、せめて何かしらの特別 バージョンを施した形で送ろうと思っているところ。「今年は来ないなあ」と心当たりのある方、気長になんとなーく待っていてください。

 

☆なくし物   2010.2.1

 あまり物をなくさないほうなので、なくした物のことはよく覚えている。外で落としたのならあきらめはつくのだけど、家の中で物をなくすというのは釈然としない。しかも、所有物の少ない幼児のときに! 小学校にあがるより前になくした2つの物を、今でもふと思い出す。

 ひとつはパンダのブローチだ。ブローチというのかバッジというのがふさわしいのか……全長4cmくらい、金属製で1mmほどの厚さがある、わりにしっかりしたものだった。毎晩ぬ いぐるみの「ぱんだくんくん」(これでひとつの名前)とともに布団に入り、お絵かき帳にもぎっしりパンダの絵を描きまくっていたパンダ狂時代の私にとって、それはかなり上位 の宝物。にもかかわらず、なぜあんな行動をとってしまったのだろう? 私は石油ストーブの側に一人で座っていた。ブローチを、じゅうたんと石油ストーブの間のわずかなすきまにすべりこませる。その大切な物を、少しの間隠しておきたいという気持ちがあった。妙に薄暗い気持ちで。ブローチを見ずに、それを後ろ手で行うことにこだわっていた。犬が骨を隠すようなものだったのか……春になってストーブをしまうころに再会するつもりだったのだ。ところが、そのときになってみたら、ブローチは忽然と消えてきたのである。とても悲しかった一方で、私には納得するところがあった。 『鉛の兵隊』のように、ストーブの熱で溶けてしまったのだろうと思いこんだのである。ストーブの中に放りこんだのではないんだから、溶けたとしても何らかの形跡は残っているだろうと思うほど知恵はなかった。真相は掃除機に吸いこまれたのじゃないかと思うが、そう考えるより『鉛の兵隊』の持つせつなさを共有してうっとりできるほうがいい。

 もうひとつは、厚紙に色を塗って作った鳥。オウムとインコの中間のようなデザインで、顔の下に三角の突起を作ってある。頂点を手に乗せると、鳥が手にとまっているようになる。どこかでこういうオモチャを見て、マネして作ったのだと思う。顔から胸のあたりはピンク色、その下は緑色。まつげバッチリ。その鳥を、あたかも本物のペットのように手に乗せて歩いていたのだが、これがある日なくなって家じゅうを探し回ったものである。もう少し幼かったら、「本物の鳥になって飛んでいってしまったのだ」なんて思いこめたのだろうか。その後2代目を作ろうと試みたが、最初にうまくバランスがとれるように作れたのはかなりの奇跡だったらしい。どうしてもちゃんと手にとまるように作れないから、あきらめてしまった。しかし、今も私の頭の中から、その鳥の残像は消えていない。そろそろ2代目作りに本気出して取り組もうかと、最近になって思っている。

 

大きいことはいいことだ   2010.1.25

 今の携帯電話は3年以上使っていて……はたから見たらかなり旧式らしく、よく「大きいですね」と言われる。ときどきキーの反応が鈍く、そろそろ買い換えようと思っているのになかなか踏み切れないのは、最近の携帯がどんどん小さくなっているせいでもある。前に買い換えた時も、できるだけ大きいのを選んだっていうのに。これ以上小さくなると、自分が持ってるのが電話であることが認識できなくなりそうでいやなのである。小さすぎると、電話かけるとき「何やってんだか」って気持ちになりそうで。もし、黒電話の受話器そのまんまの大きさ・形の携帯電話があるならそれを買いたいくらいだ。そんなわけで、もちろんiPod的なプレーヤーも持っていない。外出時に音楽を聴くのは、いまだにCDウォークマンだ(これは買い換えたばっかり)。

 どうも大きいものにひかれる。去年だったか、洋服屋の店頭で茶色いフワフワしたかたまりを見つけた。女の子がよく、バッグやベルトループからまんまるだったり、アライグマのしっぽみたいなフェイクファーをぶら下げているのを見かけるけれど……これは普通 の大きさじゃない。幅20cm、長さは40cm近くあるという代物だ。このデカさだからポーチにでもなっているかと思うが、そうではない。金具がついているから「どこかにぶら下げて使う」ことを推奨しているようだが……不透明な気持ちのまま、しかしその「モノ」の魅力に負けて購入した。先日、ライブでぶら下げてみたのだが、ステージ上ではわりとじゃまにならなかったので、これからしばらくライブ用にしてみようか。ちょっと化けそこなった狸じみて見えるかもしれないが。ちなみに私は服でもアクセサリーでも、本番着を家から着用していく派なのだが、さすがにこれはじゃますぎてぶら下げていけなかった。自分はともかく、車内で迷惑になる程度の大きさなので。

 先日、デカいガーベラの造花を買った。売れ残った挙げ句、タダのような値段になっていて。たくさんあったらよかったのだが、1本しかなかったのが残念。スピーカーの後ろから生えているみたいに、置いてみる。大きすぎるものはそれだけで滑稽なのがいい。

 

☆キムラくんへ愛をこめて   2010.1.18

 井の頭公園駅から、男子高校生が5人乗ってきた。私の右隣に2人が座り、その前に3人が立つ。

「あー、オシャレとか、まじメンドーになってきた」という、だれかの第一声に、私は耳をそばだたせる。視線を上げて観察すると……制服姿の5人は全然オシャレじゃないというほどではなく(少なくともみな、髪の毛にスタイリングワックス的なものは使っているレベル)、しかしオシャレと言い切れるほどでもなく。話を聞いていると、この週末に学校の行事か何かで、どこかに泊まりにいくらしい。この制服、男子校だったと思うが? やっぱり男子同士でもオシャレとか気にするんですね。

「行きと帰りだけ、ちょっとなんとかすればいんじゃね?」「ルコックのダウンか…」(移動は私服ってことか)「ジーパン?」(へえ、まだジーパンって言葉生きてるのか)「オレ、ジーパン1本も持ってねーもん」(ちょっと驚きだ)「部屋の中では、上下スウェットとか」(出た、上下スウェット!)「大部屋でしょ。暑そうだし、Tシャツと短パンでよくね?」(もはやオシャレとはほど遠い話になってきたよ)「あーやべー、用意すんのめんどくせ。つーか、もうあさってじゃん」しばし、沈黙。

「こういうとき……キムラの万能ボーダー、いいよな」みな一様に、にやぁとする。「キムラのボーダーシャツね! 寝るときも制服の下も、ふだんも全部同じボーダー着たまんま(笑)」「あいつ3日くらいずっと着てっからな」やばい、話がものすごく好みの方向に転がってきた。「それにあいつ、めったに風呂にはいんないんだよ」「そーそー。オレ、前あいつととなりのふとんだったんだけど、ちょーくせくてよー」もう、私は笑いをこらえるのに必死。苦しい。一生懸命、何かマジメなことを考え、どうにか吉祥寺まで乗り切った。あとひと駅あったら、我慢しきれず爆笑してたかも。ああ、しかし、たぶん私はそんなキムラくんのことが、嫌いじゃないと思った。

 

☆水が違う   2010.1.11

 『勝間さん、努力で幸せになれますか』(朝日新聞出版)という、香山リカと勝間和代の対談本を読んでみた。世間ではともかく、ここを見ている方で勝間和代事情に詳しい方はそういないと思うので、一応この本が出るに至った聞きかじりの情報を披露。発端は香山リカが『しがみつかない生き方』という自著の中で、(ふつうの幸せを手に入れるには)「〈勝間和代〉を目指さない」と書いたこと。これに反論する形で、勝間和代は『やればできる』という本を出したという……。

 いやあ、みごとに平行線な対談本だった。精神科医である香山のもとには、〈勝間和代〉的な「成功者像」に近づこうとして(あるいは近づけないことに罪悪感を感じて)病んでしまう患者が多く訪れるという。もともと、香山の著書はそういう人を読者に想定して書かれたわけだから、わざわざ反論本を出さなくてもよいようなものだが、と、まず思う。

 結局、二人の話はどこまでもすれ違う。「向上心を持ち、努力を重ねるほど毎日は楽しくなる。だから多くの人にその喜びを知ってほしい。そういう人が増えると社会はよくなる」という勝間に、香山が「じゃあ向上したいと感じない人はどうすべきなのか?いてはだめなのか?」と問うても、話がどうもそれてしまう。両者ケンカごしではなく、「相手をねじふせよう」という態度ではない。勝間はおそらく本当にそうした人間に会ったことがないのではないか……。勝間は徹底して「感謝されること、評価されること、自分自身で成長を感じられるから」努力することはすばらしい、の一点張りだ。この本で一番おもしろかったのは、香山が大好きだというヘンリー・ダーガーなどの名を挙げて、「膨大な絵と物語をかき続けたけれど、生きているうちはだれにも評価されなかった。だれのためにもならないというのはそんなにいけないことか」と訊いたのに、勝間が「それは趣味の範囲でやればいいですよね」と返すところだ! こりゃもう、水が違うとしかいいようがない。

 勝間の本を読んで開眼し、努力努力の毎日を楽しんでいる人はそれで正解。〈勝間和代〉に限らず世の「成功者」やら「これが標準・普通 」アイコンを気にするあまり自分が望まないものを目指そうとしてしまって齟齬に苦しむ人は不正解。そんな人は、香山の本で安心するが正解。……というだけの話と思った。ま、本当はこれ、ぱっくりどちらかに分かれるわけじゃなくて、多くの人はミクスチャーだと思うんだけどね。

 しかし、勝間の『やればできる』という本のタイトルは私にはちょっとひっかかる。中学生くらいのころ、できの悪いテストを持って帰ると母が目をつり上げて「やればできる!」と盛んに繰り返してたことを思い出して、や〜な気分になるからだ。「そうかもしれないが、それ以前にやりたくない場合はどうすりゃいいんだよ」と思っていたものだ。まあ、うちの母が勝間和代だったら、逆に説得力があったのかもしれないけどなぁ。やりたくない人はこういう本を眼中に入れなければいい、それだけ。

 

☆ギアチェンジの技術   2010.1.5

 ときおり、ふと思い出すのはだれに聞いたのだったか「急いで書いてもゆっくり書いても、書ける文字数はそれほど変わらないんですよ」という言葉。試してみて、納得した。

 急いだだけの効果があるべき場合は急ぐべきだし、たいして変わらないなら「ていねい」を選んだほうがいい。急ぎ方にもテクニックがあるものだ。

 時間の使い方についていろいろ考えることが多く、自分なりに「1分の密度を濃くする方法」「ロスをなくす方法」などを会得したと思っているが、これからさらに強化すべきは「ケース・バイ・ケース」の方法選びかと思う。それをいちいち考えるのでなく、本能的にするっと「適したモード」で走行できるようなのが理想。そういう緩急を美しくものにすると、上手に走っている快感が得られて、より楽しくなるのではないか。