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☆被災者未満雑記 その7  2011.4.25

 さて、震災から1か月半ばかりが過ぎ、GWを前にいろいろな「まとめ」っぽい出版物が出始めました。いっそね、全部買いたいくらいですがそうも言ってられないので選びはしますが。別 に《収集する》という意味で「全部買いたい」と言ったわけではなく、複数の媒体 に目を通す重要性とは、言うまでもなく《情報を比較して読む》ことにある。週刊誌、新聞、その他の雑誌……それぞれに性格がある。たとえ同じ話題の中でも、どのポイントを抽出して「書き立てるか」。

 どの雑誌が「信用できる」というざっくりとした言い方はできない。ただ、《たまたま》目にした記事、《たまたま》耳にしたニュースを「そうなのかー」と受け取るのは、素直を通 り越して馬鹿である。多くの情報の中からひとつの正解を探すのではなく、情報をつなぎ合わせて自分の見解や姿勢を作ることを、するべきだろうと私は考える。たとえば、見るからに底が浅く安っぽく、煽るような記事を見た時に、「ばっかでーえ」と見下すのはたやすいけれど、もう一歩踏み込んでみちゃどうかってことだ。その記事は、どういう感情を呼び起こすために書かれたのか、何を読ませようと意図されているのかを考えてみる。その、切り口をよく吟味して、同じ話題を他の雑誌はどういう切り口で扱っているかをよく考えてみる。

 何を見ても「わー、たいへんねー」という《感想未満》しか口に出せない人間にはなりたくないと思う。

 

被災者未満雑記 その6  2011.4.18

 前にも書いたことがあるかもしれないが、私はたまに鴨居にぶら下がる練習をしていた。指の第一関節がぎりぎりひっかかるくらいのところに、全体重をかけてぶら下がるのは相当厳しい。なんでって? 映画なんかでピンチの時にあるじゃない、そういうシーンが。足場が崩れて、ギリギリ指をひっかけて……助けが来るまでもつかどうか、って図。まさにね、この間『大地震』っていう古い映画見てたらそんなシーンあったもんね。

 これ、なかなかにキツイのですが、身体能力が生死を分けるとしたらやっといて損はないね! 確か、吉村昭さんの名著『三陸海岸沖大津波』(だったか?)で、追ってくる津波から逃れようと必死で走って、短距離走の選手だった人だけが生き残った、みたいなエピソードを読んだ記憶がある。

 まあどの程度本気で鍛えるかはともかく、最終的には気持ちが大事と思う。ありきたりなようだけど、大事。あきらかに自分より強い相手に勝つって、そう珍しいことじゃないでしょう? 「奇跡」ってほどでもないでしょう? 火事場の馬鹿力を出せるかどうかの話だよ。

 

☆被災者未満雑記 その5  2011.4.10

 東京都23区および多摩一部区域で、「乳児は水道水の摂取を控えるように」というおふれが出されたのが3月23日。あわてて基準値を訂正したり、なんやかんやはあって、まあ結局その警告は解除されるに至ったわけですが。うちではそれ以降ずっと、飲用・食用には水道水は使ってない。もちろん、それでも外食だってしているわけなので、「断じて水道水は口にしない」というとこまで徹底しているわけではないけれど、できることはやろうという構えの落としどころがここなわけだ。

 それにしても、3月23日にはいろいろなことを考えた。私がその一報を受け取ったのはメールで、外出先だった。どの程度の緊急事態なのかよくわからないまま、スーパーに行ってみたら、水はおろかお茶の棚もすっからかんだった。紅茶も僅少なのに、なぜかアイスコーヒーはけっこうある。私はコーヒーがないと落ち着かないコーヒー不安症なので、とりあえず5本くらい買っておいた。お茶も、薬局でなんとか入手。水は500ml入りのを何本か。家に若干の買い置き、くみ置きはあるけど……情報源が少ない状態だったので、それらは生活用水に使わねばならないかもと思った。生活用水を節約するために、ウェットティッシュや除菌ジェル、ペーパータオルを購入。歯磨きの水を節約するためには、塩で磨けばいいかなと考えたりした。それから無洗米を4kgくらい。

 その日の夜は、野菜のオーブン焼きを作った。じゃがいもや玉ねぎやにんじん、さつまいも、れんこんなどをホイルで包み、オリーブ油を回しかけて蒸し焼きにする。それに甘酢あんをかけた。私はレンジを持たない派なのだが、この方法は使える。しかも、洗い物も出ない。

 そういえば「炊飯器料理」ってやつもある。私は基本、炊飯器は神聖にして侵すべからず存在と思っているので、米を炊く以外のことには使いたくないほうなのだがそうも言ってられない。炊飯器に卵を入れてゆで卵を作るとか、蒸し野菜などの副菜を使う手もあったはず……などと考えるとけっこう楽しくなってくる。

 水2リットルを買うのに200円くらいかかるというのは、それまでの自分からすれば高い買い物に思えるが、缶 コーヒー1本120円、ドトールでコーヒー飲んだら160円だもの。日々、わりと無造作に買ってるそれに比べたらむしろ安いものかもなあ、と今は思ったりする。なにごとも考えようだ。

 

被災者未満雑記 その4  2011.4.4

 3.11に本棚から落下したものを元通りにしてまたあっさり落っこちてこられちゃつまらないので、(一応片づけるという体裁はとったものの)しばらく置いたままにしておいた。それを少しずつ元の位 置に戻し始めた。

 本棚の上に段ボールを積む前に、100円ショップで調達してきたコルクシートを敷き詰めた。どうだー。もう、びくともしない。以前は天井とのすき間に雑誌とか段ボールを詰めておいたのだが、これは我が家調べ75%の有効率だったので、さらに上を目指そうと! 完璧にするなら、本が飛び出さないよう、前面 に何か渡すべきだろう。でも、あまり使い勝手や見栄えが悪くならないようにしたい。考慮中。それからスキャナーの下には皮のハギレを敷いた。

 ラックを1段ずつ積み上げる式の棚は、ワイヤーでつないだ。それからチェーンを通 して鴨居につけたヒートンに固定してみた。いい感じ。クギとかヒートンとかチェーンは、家にあらかじめあったりする。

 こういうことはちびちび、楽しみながらやっていくのがいいように思われる。東京は最近余震が減ったけれど、油断するわけにはいかない。まあ、それが明日になるかもしれないにしても、数十年先のことだとしても。備えあれば憂いなし、どうせ備えるなら楽しんでやりたい。

 ……と、そんなテコ入れ作業をやりながら、私はふと思った。「まさに今ごろ、実家の父親は同じようなことをやってるのじゃないだろうか?」。私のこの防災気質は父からの遺伝であろう、と。慣習の中で学んだというよりは、あえて「遺伝」と言いたくなるような、その手の《気質》が、おそらくあると思う。

 父親は、多くの人がイメージするデフォルメ化された《理系・オタク・技術者》像 を煮詰めたような人である。20数年前に家を建て替えるとき、本気で「地下に核シェルターを作ろう」とか言っていたしな。そしてたいそうこわがりで、震度2くらいの地震でも真っ青になって部屋から飛び出してきたっけな。そういえばある夏休み、台風直撃を恐れて祖父母の住む日光に避難したこともあったな(帰ってきたら、雨どいが折れてたくらいだったけど)。

 姉のタレコミによれば、この放射能事故に際し、父は高校時代にガイガーカウンターを作ったエピソードなどを自慢げに披露したりしているそうだ。ちょうどそのころ、第五福竜丸の事件があってガイガーカウンターがトレンディだったらしい。

 あ、そんな遺伝の必然に導かれて、私もガイガーカウンターの購入、検討してなくもないです! 徹底抗戦の構え。

 

☆被災者未満雑記 その3  2011.3.29

 栃木に住む友人から、電話があった。栃木といえば東京よりも、問題のFUKUSHIMAに近い。放射能被害への対策などはしてるのか、と訊くと「大丈夫、大丈夫」と言う。こうした類のことに対する警戒の感覚は人によってずいぶん異なるので、ごり押しはしない。だけど、もうひと押しくらいはすることにしている。知識があまりなかっただけで、話をしてみると意識の変わる人もいるからだ。ただ、この相手の場合は、そのタイプではなかった。なので、その話題はそこそこにしておく。

 だからといって、私は彼に失望したりするわけでもない。そう、本当に、考え方の相違なだけ。私の防災意識および、現在も続く警戒態勢をこっけいに思う人は多いだろう。「そこまでしなくたって大丈夫でしょ?」と、いろいろな人に言われた。そうかもしれない。だけど、そうじゃないかもしれない。私のやってることに《やりすぎている》根拠がなく、みなさんに「こうすべし!」と迫る根拠がないのと同じく、「大丈夫」と言う人の言葉にも根拠はない。

 しかし、私は震災が起こった日から今までの間に、すでに「大丈夫」と報じられていたことが「大丈夫じゃない」に翻った瞬間を、目の当たりにしている。これは事実。それによって、私は自分の判断を信じる。だから、私は一般 に開示された情報を疑ってみ、日常生活を行いつつも、自分のできる限りの対策は講じようと思うまでである。

 かつて、実家で親と地震の話をしていた時のことを思い出した。母親は「大地震が来たらしょうがない」と言う。「まあ、ドーンと来て、いっぺんに全部終わっちゃうからそれでいい、しょうがない」と、雑なことをぬ かすので呆れたものである。いやいや、一発で、何もわからず、恐怖も苦痛も感じる間もなく死んでしまうなんてことはめったにないのに。「別 に、死んでもいい」という人は、それでかまわない。しかし、こういう「覚悟」でもなんでもない、《雑なあきらめ方》はどうかと思うよ。

 こわがりの方へ。いたずらに脅かすつもりは、ないんだ。特に一人でいる方、今も本当にこわがっているの方の、不安や恐怖をあおりたくはない。ただね、やみくもにこわがるのではなく、適切にこわがる方法があるのだ、とだけ伝えたい。

 

 

被災者未満雑記 その2  2011.3.19

 そうやって、少し時間をやり過ごしてから、家に帰ってまじまじと部屋を見た。台所は作りつけの収納扉が開いて、コーヒーびんが落下していたくらい(この後すぐ、取っ手をしっかりした綿テープで結ぶようにした)。食器棚は持ってなく、食器はカゴなどにぎっしり詰めてシンク下に収納しているのだが、これが割れるどころかすべて微動だにしていないのには感心した。我ながらスゲー! エクセレント! 音楽室は重ねてたCDが散乱したくらい。

 仕事部屋は、畳が見えないくらい本が雪崩れていた。もともと本が相当危ういバランスで積み重ねてあったのだから、仕方ない。高いところから落下したものは何か。その共通 点は何か。何がどの程度の距離を「飛んだ」のか。もしこの部屋で歩けない震動に見舞われたら、どの程度危険だったのかを冷静に検証するため、しばらく片づけずに放置しておいた。この部屋にはスチール本棚が5本あり、天井までの間には本を(一応本棚状態に)詰めた段ボールがぎっしり詰まっている。その数16個。落下したのは4つ。まあまあの成績か。

 シンプルなことながら、「摩擦」の力には感心した。机に置いてあったノートPCは見事に裏返って落下、パソコンラックのスキャナーもすべり落ちる寸前。だけど台座下に何やら貼ってあるディスプレイはびくともしていなかったから。本棚上の段ボールも、コルクシートを敷いてあるところは少しも動いてなかった。

 地震の翌日にちびちび本を片づけ始め(落ちたものは元の位置には戻さずに)、ついでにそうじをした。地震の前より、確実に部屋はきれいである。

 

☆被災者未満雑記 その1  2011.3.18

 当コラムのレギュラー読者の方は、私が日頃からサバイばる気満々であることはご存知であろう。小学生くらいから戦争・災害・犯罪・事故・病気・貧困などさまざまな「窮地」を扱った本を好んで読んでいた。そうした本を読む中で感じとったのは、生命を脅かす理不尽な現象はいつでも我が身に降りかかる可能性があるということ。避けようのないこともあるけれど、その中でできる限りの最善策をとるにはどうすればいいか考える必要があり、それには知識を増やすこと、意識的・物質的な準備を怠らない必要があると学んだ。

 初めて「非常持ち出し袋を作ろう」と決意したのは、阪神淡路大震災の起こった日だった。その日、仕事帰りに一人で六本木にイベントを見に行き、帰りに塩を1kg買ったことを覚えている。非常持ち出し袋というのは一式がパッケージされた市販品が販売されているけれど、私は自分の選択眼でオリジナルのものを作ろうと思った。定期的に中を見て入れかえているが、通 常入っているのはこんなもの。○塩(生命維持に必要と考えて)○軍手(すべりどめのついた丈夫なもの)○懐中電灯と予備電池○使い捨てカイロ20個○断熱シート○ティッシュ○携帯ラジオ○カロリーメイト○ウィンドブレーカー○救急セット ○水20リットルの入る折り畳みタンク  それから玄関先にはヘルメットが2個。そのほか懐中電灯、非常灯も各部屋にある。

 モットーとするのは非常持ち出し袋にホコリをかぶせないこと、日常生活に密着させたものとして「日々使う」ことだ。カイロだって、使用期限をかなり過ぎると機能が低下してしまう。なので、ふだんから持ち出し袋を「カイロの収納場」として使い、切らさないように補充していくという考え。食べ物に関してもそうで、特別 なカンパンなどは買っていない。クラッカーやたくさんの缶詰は、日常的な食品としてすぐに出せるところにある。今、買い占めが問題になっているけれど、我が家の食料備蓄は日頃からかなり万端である。もちろん水、カセットボンベ、電池の買い置きもある。

 11日の地震発生時、私はちょうど取材に出かけようとしているところだった。玄関に立ったところで大きな揺れ。ポケットに携帯電話とキーホルダー(ホイッスルと小型のアーミーナイフをぶら下げている)が入っているのを確かめながらすぐにトイレに逃げこんだ(先日のニュージーランド地震で、ガレキの下から電話をかけた人のエピソードを思い出していた)。「トイレが安全」というのは、まあ骨組みのしっかりした家でのことだとはわかっていたが、とりあえず落下物が少ない所に、という判断での行動だ。本棚ぎっしりの仕事部屋が一番危険。もうひとつの部屋は落下物はないと思ったが、楽器以外にも機材がいっぱいだ。でかい地震では「ディスプレイが平行に飛ぶ」と聞いたことがあったので、ここも避けるべきと思った。トイレのドアはもちろん開け放す。

 東京は震度5。トイレの中で私は、「これまで自分が経験した中で最大だな」と思っていた。震度6くらいだと立てないと見聞きしたことがある。立っていられないほどではないから、震度5くらいかと予測した。つっぱり棚(トイレットペーパーを積んでいる)が落ちないのに感心した。

 揺れがおさまり、ろうかに出てみると仕事部屋は本に埋もれていた。それなりに落下物もあったが幸い割れ物などはない。15分くらいは経過していただろうか。我に返って時計を見ると、取材に……ふつうの交通 事情ならギリギリ間に合う時間である。あれだけの揺れだったので電車は止まっているだろうと思ったが、これ以上の揺れが来て家がつぶれないとも限らない。とりあえず外に出ることにした。用意していたバッグの中味を、ひとまわり大きいバッグに移し、軍手、カイロ、ラジオ、頭を守るために分厚いショール、タオル、なんとなく折り畳み傘、飴1袋、水、電池10本のブロック(携帯電話の充電器用)をつっこんで出かけた。歩きながら、地面 がぐにゃぐにゃしてるように感じるのは自分の足がすくんでいるせいかと思ったが、途中で「揺れ」だと気づく。最寄りの駅に着くと、案の定電車は止まり、まるで動く気配はない。車はこのあたりじゃ拾えない。動かない電車のシートに座ってネットで情報を見ているうちに、ようやくことの重大さがわかってきた。編集者に連絡はとれず、取材はどうなってるのか気にはなったが交通 手段がないのでどうしようもない。とはいえ、すぐ一人で家に帰るのも不安だったので、電車を(一応は)待ちながらそこに1時間くらいいた。

 

☆丸腰の恐怖  2011.3.8

 ジムでシャワーを浴びることに抵抗がある。漫画喫茶に宿泊するときも同様。銭湯とか、まっとうな「浴場」で風呂に入るのはかまわないのだけど、私は「入浴」を第一義としない場所で裸になることを恐れているのである。たとえば漫画喫茶なんて、もちろん何枚かの扉にさえぎられているとはいっても、そう遠くない場所に普通 に着衣の人々がひしめいているわけでしょ。そんなところで無防備に裸になって、いきなり襲撃されたら(性的な意味ではないです)本当の丸腰でどう戦うというのだ!?  本来私は長風呂だが、ホテルでは短時間で入浴を済ませるのもなんとなく警戒心が働いているせいかもしれない。

 だいぶ昔の話。ビル火災があり、その当時は着物の下に下着をつけていない女性が多かったため、飛び降りるのをためらってるうちに焼死した人があった……というのは有名なエピソード。異論もあり、真義のほどは定かでないけれど、ありそうな話だ。

 必要なのは、全裸でも戦える心構えである。今、羞恥心にうち勝たなければ死ぬ 、という状況を想定した本気のイメトレ。それから、全裸慣れかなあ。家で全裸で過ごす練習とかね。かえって、なくてもいいはずの弊害を呼びそうな気もするが。

 

☆一服の清涼剤的な存在として  2011.2.28

 小・中学生くらいの頃、学級委員に選ばれることが多くて、そのたびにみんなどうして私みたいなのを選ぶかなあと思っていたものだ。みんなまだ子どもだったからね、人を見る目がないのも仕方ないんだけど。私には、リーダー的な素質はない。なぜ選ばれるかというと、勉強ができて(小学生くらいは特にこういうのが重んじられる)、同級生より少し落ち着いて見えたためだろう。あと、自分の考えというのはあって、頑固で、良くも悪くも有無を言わさない雰囲気があるのが、それっぽく思われてしまったせいだと思う。

 私が「これぞ学級委員的な人である」と思っていたのが、小学4年の時同じクラスになったBさんだった。彼女はスポーツは得意だけれど……あ、いや、思い出してみるとそんなに突出していたわけじゃなかった。常に圧倒的なやる気にみなぎっていたからそういう印象を残したのかな。勉強もそれほどじゃないけど、授業中積極的に手を挙げる人で。休み時間になると、「ドッジボールやろうよ」と周囲に声をかける役。いつも元気よく声はでかく。クラスのどんな子にも、男女問わず親しく話しかける。授業中にゲロを吐く子あれば真っ先に席を立ってそうじを手伝い、「きたねー」などと言う輩には「具合が悪いんだから仕方ないでしょ」と正義の言葉をまっすぐに。正義。何もかも正しく明るい人で、しかもそれが胡散臭く見えない。まぶしい人だった。私は当時、40人弱のクラスメートを「男女それぞれ1軍2軍に分け、打順をつける」という遊びを密かにやっていたのだが、Bさんは間違いなく1軍の4番以外ありえないのだった。(ちなみに自分の位 置づけは2軍の6番である)。

 Bさんの一番の得意といえば歌なのであった! 彼女は児童合唱団に属していて、年少の団員の中でエース級の存在らしかった。彼女に影響されて同じ合唱団に入った子がクラスに2人いて……彼女たち3人はときどき学校のみんなが知らない歌を教室のすみっこで歌っていた。 

 ある日、音楽の時間に歌のテストがあり、授業の終わりに成績上位者の点数が発表された。Bさんは100点満点(ちなみにこういう時にうれしそうにする様も嫌みがない)。合唱団仲間のKさんが2番目。そして、3番目に名前を呼ばれたのが私だった。私はもう一人の合唱団仲間である女子から、猛烈な憎悪の視線を送られた。この女子はBさんのイチの取り巻きなんだが、Bさんの目の届かないところでは人をネチネチ攻撃する、少女漫画の悪役を絵に描いたようなタイプ。面 倒くさいやつの恨みを買ってしまったと思った。

 その日の帰り、昇降口のところでBさんが声をかけてきた。粟生さんは歌がうまいから、私たちの行ってる合唱団に入ったら絶対いいと思うよ。と、熱心に誘うのである。

 このときは気が向かなかったので適当に言い訳して断ってしまったのだが、誘われたことはとてもうれしかった。というのと、こうやって、人を誘うことのできるBさんはすごいな、と思ったことは覚えている。ネチネチ系女子に、一日中ガンを飛ばされまくったせいばかりでもなく、素直に。

 「このときは」と書いたのは、実際は約1年後にその合唱団に入ってしまったためだ。今度は音楽教師の(学校の先生でもあり、児童合唱団の指導者の一人でもあった)「月謝無料の特待生扱いで」という誘い文句で、ころっと気が向いてしまって……。

 で、そのときもBさんは「粟生さんが入ってうれしい」なんて、爽やかに言っちゃうのであった。しかし、私はそういう彼女を尊敬しはするけれども、その爽やかさや健康さが偽善的なものでないと認識はするけれども、それ以上「親しくなれる」とも「なりたい」とも思わないのだった。水が違う。自分を卑下するわけではなくて……持って生まれた《質》が違いすぎる。近寄ってもけんかはしないだろうけれど、ある一定以上は愛し合えない気がしていた。好きだけれど、遠くで見ていたほうがいい相手もいる。

 なので、こうした回顧的な文章にありがちな「今、Bさんはどこで何をしているだろうか」という一文では締めくくらない。正直いって、特に興味がわかないからだ。時折Bさんの顔を思い出し、すがすがしい気持ちになるだけで私にとっては十分なので。

 

☆カウンター機能あります  2011.2.21

 同じことをやり続けていれば、何かしらの能力が身につくものである。つぶしがきくか、きかないかはともかく。自分にとっては当たり前なだけに、評価していない特殊能力を、だれもがひとつふたつ持っているのではないか。

 たとえば長年原稿を書いていて身につくのは、文章力だけではない。文章力なんて不確かなもので判定が難しいし、そもそも身についているか怪しいものだが……私の場合、それより確実に「身についた」と言い切れるのは「文字カウンター機能」である。

 当然ながら、原稿依頼には字数指定がつきまとう。むしろ、字数指定ありき、というほうが正しい。お題があって、それを2000字で書くのか、1000字で書くのか、300字で書くのかによって書き方を変えねばならない。そして、それは何字でも可能である。いや、可能にせねばならないのがライターの仕事なのだ。

 指定の字数を念頭に置き、頭の中でだいたいの構成と配分を考えながら書き始める。いったん最後まで書き終えたところで、字数調整と内容見直しをするのだが、数えてみるとほぼ、ぴったりであることが多い。あるいは書いている途中で「これは300字くらい削らなきゃいけないだろうから、最後に原稿のバランスをみて調整しよう」とわかる。

 単行本のリライトの仕事をしたことがある。もうページ組みもされている状態で、「翻訳者の文章があまりよくないのでそれを修正しつつ、また予定ページ数をオーバーしてるので30ページ削ってほしい」というオーダーだった。一筋縄ではいかない。文章表現を練り直しながら、超訳的にばっさばっさとカットして……自分としては長さの帳尻を合わせるには3回くらいの見直しが必要と踏んでいたのだが、なんと一発でぴったり30ページ削れてた! 1000字や2000字の原稿なら、パソコン上でなんとなく目視できる範囲だが、こうなると自分のどこかにカウンターがついてるとしか思えない。

 

 しかしこれ、肉屋さんが「合い挽き200gください」って言われてドンピシャ乗っける……とかと近い世界ですよね。そっちのほうが絵的には華があるのが、なんとなく悔しいが。あとはねえ……パッと見て書体やポイント数や字間行間当てるなんて、編集者やらデザイナーやらみんなできるからなぁ。音楽の領域でいえば……絶対音感なんかありふれてるし、BPM当て能力でも磨くか(わりと当たるのだ)。やっぱ地味か。そしてこれもカウンターっぽい。

 

自分が何をやってんのか、知りたいと思うこと  2011.2.13

 当たり前の答えなら、当分「答えなし」のままでいい問いがある。

 ここ一週間くらい、ふと胸に浮かんでいたのは「演奏者同士なぜ、リズムを合わせるのだろう。なぜキメを合わせるのだろう」という問い。

(もちろん、「自由でいいじゃん」という気持ちから生まれた問いではない。念のため)

(「合わせる」ことを否定するつもりは微塵もなく。)

(いわゆる「リズムの《訛り》」に関する話でもなく。)

 おそらくは……あまりに「せーので合わせる」ことが日常的な常識になりすぎていること、反射的になりすぎることへの疑いから生まれた、問い。

 わかりきった答えなら、すぐに出せる。

 だけど、こんな《愚問》と一笑に付されるような問いが浮かんだという、そのことを、しばらくためつすがめつしてみたい。

 カウントが鳴ったら、ぎりぎりのためらいを持ったのちに、確信的に音を出してみたい。

 これが、仮に音楽についての話と……するならば、だ!

 

2011年最初の《時間》の話  2011.2.10

 時間がなさすぎて追いまくられている時ほど、関係ないことをしたくなるものである。というか端的にさぼりたく、遊びたい。ちょっとだけ、と思って遊ぼうとすると……これがみなさんもよくご存知であろう《逃避》であって、気がついた時には暴走しちゃっていかねない。こういうのを防止するために、忙しい時は息抜きにもルールを設けている。本やマンガを読むのは「食事しながら、あるいは台所で立ち読みのみ可(コーヒーを入れる湯をわかしてる間限定)」「PCでダウンロードとか印刷を待っているは可」とか。意外にけっこうな量 が読めちゃったりする。

 私は読むのが早いようだ。「速読とか習ったんですか?」と聞かれるが、ない。ただ、相当小さい頃から読んでばっかりいるうちに、早く読むコツを覚えたのだろう。最近は電車の中で本を読む人も少なくなったけど、のぞき読みをするとイライラしてしょうがない。マンガ雑誌はもちろん、文庫なんかも「早くページめくってくれい〜」とじりじりしてしまうのだ。

 今考えてみると、普通に読む時と、「すごく急いで読む時(でも全部に目を通 す)」「かなり斜め読み」「普通の単行本をざーっとめくって、どこに何が書いてあるかざっくり把握」の4段階くらいを使い分けているようだ。スピードが上がるほど、一度に目でとらえる面 積が増えていく。自分としては、ページを「手」でさわってとらえていくような感覚がある。

 そういえば仕事の打ち合わせに行って、資料を目の前に出されて……私はとっくに読んでしまってるのに相手がいつまでも話しを始めないので、「読みました」と宣言するのも変なので、なんとなく「はい」とか言って 相手をうながすことが多々ある。ああいう時、先方は「この人ホントに読んでんのかな」と思っているのかもしれない。

 つまりは生来のせっかちさから身についた能力かもしれませんね。ちなみにPCや携帯画面 のスクロールもめちゃくちゃ早いみたいです。

 

食べ物はだいたいおいしい  2011.2.2

 私はなんでもおいしいと思うほうで、何か食べて「いまいち」と思った試しがない。最たる理由は、私が粗な食べ物を好むせいだろう。ここでいう《粗》とは、オーガニック食品賛美的なあれではなくて。文字通 り、ふだん粗末な食べ物ばかり食べている。しかも、同じ物ばかり飽きずに食べる。私が外食をする時に望むハードルはとても低い。うどんにちくわ天をのせたやつ、250円の牛丼、店で一番安いカレー、マクドナルドの薄っぺらいハンバーガー。こうしたものが、「まあまあ」ではなく、心から毎回本当においしく感じられる。そのたびに、幸せだと思う。

 そもそも、なんであれ……それがバイトの人がマニュアル通りに温めただけの「そこに料理と呼べる過程のないもの」にしたって……外で、たやすく飢えを満たす食べ物にありつけるということのありがたさを、まず感じているのかもしれない。

 食べ物を批評するというのは、ほかの……本とか音楽とかモノとかを批評するのとは違った、おそれおおい行為に思える。もちろん、理解はできるのだ。食べ歩きを趣味と公言する人、また日々の食事をなんとなく《趣味的な楽しみ》としてとらえる態度も。パンだのラーメンだの喫茶店やレストランを評価したり点数をつけたりする遊びというものを。頭では受け入れられるが、私自身がそうした時代に突入していないだけの話だ。

 さる人が「うちの父にとっては、いまだにかりんとうが最上級のお菓子なんです」「甘いだけでうれしいみたいです」と、言っていた。私も、この時代の住人だ。それで、こうした感覚を、私は貧しいとは思わない。人から見たらどうかはともかく。

 私が恐ろしいと感じるのは、《漠然と》おいしいもの(もしくは、楽しいものと言い換えることもできる)を求める気持ちだ。貪欲なことそのものは悪くない。悪いのは「漠然」のほう。「今よりも、もっと」の先を具体的に言い切れればよいけれど。

 現状に退屈していて、だけど「もっと」の先を明確に定められない時、人は倦怠するのだろう。

 

ただの、耳に甘い言葉になり果 てる詩の残骸  2011.1.24

 私は、金子みすずという詩人を、特に好きでも嫌いでもない。ただ、彼女の「わたしと小鳥とすずと」という詩の中の「みんなちがって、みんないい」という一節だけが一人歩きした状態、そのことを苦々しく思っている。詩の中の、最後のたった一行が取り出され、なんとなく《やさしい言葉》としてのみ受け取られることに、嫌悪感を覚えるのだ。

 一人で心にしたためておく分にはよいけれど。

 気にくわないのは、標語かなんかのように《一般論》として共有しようとする態度で、このフレーズが取り扱われるケースだ。

 この一節のみで、ひとつのコピーとして成立しうることは否定しない。しかし、やはり「その詩」は、その一節で《要約》はされない。

 すべての詩や、文章に対してこう考えるわけではない。この詩に限っていえば、この一部分を取り出すとずいぶんと緩くざっくりしてしまって、もとの詩が訴える繊細さは影も形もなくなる。見るに、堪えない。

 

運がいいとか悪いとか人はときどき口にするけど  2011.1.18

 運。ときどき、会話の中に出てくる言葉。ふと振り返ってみると、私は自分で「運が悪い」とか「ついてない」と思ったことがないようだ。というと、なんでもうまくいってばかりか、よほどの楽天家か、もともと実力以上の望みを持たない人間のどれかってことになりそうだが。

 まあ、あとの2つは該当してるんじゃないかと思うけど、さすがに「なんでもうまくいってばかり」ってことはない。きっと、私が遭遇した「うまくいかない」できごとは、不運ではなく「自分のせい」だと割り切れるタイプのものだったのだろう。

 ここのところは、私にしては少し物言いを慎重にしてみる。世の中には、自分の力とは関係のない「不運」ってものがあると思うから。おそらく、私が体験していないだけで。だから、歯切れが悪くなってしまうけれど、「運のせいにするのは甘えにほかならぬ 」なんて言い切りはしないでおく。

 ただし、その《よからぬ結果》を、しげしげと眺めて「不運」のせいかなのか、「自分のせいなのか」検証する態度は必要だ。「不運」のせいにしてしまったために、かえって暗い気持ちになる場合もあるのではないか。自分に「不運な人間だ」という烙印を押している人を、私は知っているのだが……。

 「運」という言葉、どうも私にはなじめないので、「縁」と言い換えてみよう。自分のせいにしてしまうにはかわいそうすぎる結果 ならば、「ご縁がなかった」と思えば少しは楽になるのではないか。

 昔、とある人に「あなたは、黙っててもいい条件の話があちこちから来て、いいね」みたいなことを言われたことがある。はは、そうだね、恵まれているんだろうね。と思う気持ちもあったけれども、「ええ!? 私だってなぁ、へらへらしてるように見えるかもしれないけど、日頃いろいろがんばっちゃあいるんだけど!?」と思いはした(笑)。相手がかなり行き詰まった様子なので、言わなかったけど、さ。

 まあ、「運がいいね」は必ずしもほめ言葉にはならない。ってことで。

 

貧乏くさい態度とは  2011.1.12

 貧乏はカッコ悪くないが、貧乏くさいのはカッコ悪い。1「貧乏ではなく、貧乏くさくない」、2「貧乏ではないが、貧乏くさい」、3「貧乏だが、貧乏くさくない」、4「貧乏で、貧乏くさい」。一番まずいのは、4よりも2ではないだろうか。

 ……上記は、2008年の5月に当コラムに書いたものの引用である。いきなり引用ですみませんが、この時は「分を知って生きることのよさ」みたいなことを表すためにこのようなことをシメに書いたのであった。今回は、これをイントロに置きつつ、貧乏くさい態度について書いてみたいと思う。

 最近常々、手間を惜しむ人は貧乏くさくていかんと思うのだ。ハードルの高いことなら仕方ないけれど、私が問題にするのは頭をつかわなくてもすっと一歩踏み出せばできるようなことを面 倒くさそうにやる。手を動かすことを、億劫がる。そういう態度。

 同じ立場の人が何人かいたとして、その中で自分が余分に動くのを損だと思うような人。それは《不公平》だと……妙なところで《公平》にこだわる人は、貧乏くさい。たとえば。何かやるべきことに気がついたとして……ならば自分が筆頭に立って始めればいいものを、他の人が動くまでは動かない人。《みんないっしょに》やることが「公平」だと信じている人。人より多く働くのは、損だと思っているんだろう。公平ってことを、まったくはき違えていると思う。

 貧乏くさい態度の人は、つまりは人に与えることを知らない。与えることを知らない人は、もらうものも少ない。「ください」という意思を表明しても、その時どんなに大きい声で真剣に言ってみても、だめだ。《直接的にその相手に》ではなくても、何かを人に与えることができる人間だと見こまれなければ、リターンはない。「自分だって努力している。同じくらいの能力はあるはずなのに、なぜあいつはいい目を見ているのか」と嘆く前に、もっと謙虚であるべきだと思う。自分に何が足りないのか。どこが足りなく(=貧乏)、どこが貧乏くさいのか。足りているけど(=貧乏ではない)、どう貧乏くさいために認められないのか。人に与えるって、それは、いい子ぶりや偽善的な態度のことではない。先にあげた、「人より多く働く」という例は、「周囲のみなさんのために力を尽くしましょう、そうすれば人に愛されるでありましょう」という話ではない。労を惜しむ態度の貧乏くささは、自分のスケールを小さくする一方という意味だ。みなさんのためというより《自分のため》でもあるはずのことを、行う機会を捨てているのだから。

 まあ、かくいう私にも面倒くさがりなところがある……すべてにおいて、とは思わないが。だけど、幸い考えることによって、こうした貧乏くさい態度が自分に悪い影響を与えることを、よく知り得てはいる。性格は治らない、なんて嘘だよ。そもそも面 倒くさがりを「性格」なんていうのは大げさで、こういうのは、習性という。ただの身についたフォーム。意識的にその必要性を考えることができたなら、フォームは修正していくことができるものなのだ。