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伝説が多すぎる  2010.12.27

 このコラムを読んでくださっている方々は先刻ご承知であろうが、私は言葉にやかましい。最近、気になるのは《伝説》という言葉の濫用だ。

 恥ずかしいので、その目的語は敢えて秘すが……私もとある過去の×××を指して「あの×××は伝説ですよね」などと言われたことがある。一応ほめ言葉で言ってくれているので、それを批判するのは心苦しくもあるけれど。しかしそれはさして昔のできごとでもなく(数年くらい前のことだった)、伝説などという大げさな言葉を持ち出すほどのものでもない。私はまだ生きてるし、伝説ってもっと「後世に語り伝えられるようなこと」をいう言葉じゃないのか? 少々意地悪な見方をすると、その人は「自分が《伝説を見た》証人」になりたがっているようにも思える。

 何年か前の話。ラジオで、ジュンスカイウォーカースというバンドの再結成ライブを告げていた。その時、キャスターが「あの、伝説のバンド……」と言っていたのに、私は驚いてしまった。いや、個人的な評価は抜きにしてもだ……客観的に《伝説の》という冠をつけるにはいささか小粒なように思ったから。そして、同時に腑に落ちた。「なるほど、現代においては20年くらい経過したら《伝説の》って言葉を使ってもいいわけだな」と。いや、むしろ当時に超のつく大物じゃないほうが《伝説》感は高まる場合もあるかもしれない。《カルト》ってやつよ! これについては、思い当たることはある。私は高校生や大学生のころ、60〜70年代くらいの日本のロックについて雑誌で読んでは、そこに書かれた《歴史的》事件にワクワクしたものだ。それこそ《伝説》の宝庫。そうした読みかじりの知識を、当時を知る大人と語るとき、彼らは「いや、そこまですごかったわけでもないけどなぁ」なんてことを言い、私の興奮に水を差すことがあったから。もちろん、全部の《伝説》を否定されたわけではない。ものによって、「時間が経過したことにより」過大に伝説化されすぎているものがある、と彼らは言っていたわけだ。

 そして、20年どころか、数年前のできごとが《伝説》と言われてしまう。あるいは、今日見てきたものを「これは《伝説》になる!」と叫ぶのは、人々が《伝説》に飢えている証拠だろうか。世界のスケールが小さくなっているようにも思える。

「それほどまでに素晴らしかったんだ」と訴えたい、素直な気持ちをおとしめたくはない。しかし、だからこそ《伝説》という言葉の安売りには苦言を呈したいのだ。たとえば今や、多くの人が「全米が泣いた!」的な言葉はすでにギャグとして捉える、冷静さをもっているではないか。《伝説》にしろ、少し前に触れた《死ぬ ほど》にしろ、大仰な言葉の濫用は、ものごとをあまりに雑に処理しすぎる行為だと思う。

 表現上の正確さや美学にこだわるというより、私が気にするのは、言葉の使い方は世界のとらえ方にも関わるという点なのである。

 

☆前を歩く   2010.12.20

 「せーの!」で足並み揃えなくちゃならない雰囲気というのが、嫌い。嫌い以上に生理的に苦手といってもいいほど、いたたまれない。「みんな、どうするの?」と、動向を見合う時間が嫌。そこで、さっさと意思表明してそこを離れてしまいがちだが。そんな時、何か意見を言うでもなく決断を他に委ねて群れ群れしている人々に、サジェスチョンを与える人を尊敬する。こういう場面 で、最初の一歩を踏み出すのは(反対される可能性もあるから)リスキーなのだ。だから、多くの人はその役をやりたがらない。私なんかは「《私は》こうするよ」と言ってしまいがちで、これはリスキーさでは中レベル。自分のことにしか言及してないから。「こうしよう」と言えるのは愛情深く、さらに勇気のある人。

 喩えのようで、そのものズバリ。人の後ばかりついていくと、一人じゃ何も決められない人になると思う。

 その最たるものは心中で、私には「いっしょに死ぬ」ということが美しい約束に思えない。

 その昔、高校生か中学生か忘れたが女子が2人で手をつないで飛び降り自殺したという事件があって、私にはこれは悪い冗談にしか思えなかった。トイレにも一人で行けないでいる人間は、こんなはめになるのかと。

 最初の一歩を踏み出す人の勇気をたたえておきながら、警告もひとつ。

 あまり先頭を歩く人を信用してついていくとね、知らぬ間に地獄の谷に落ちていることだってありますよ。

 

☆時間  2010.12.13

 それはいろいろに形を変えるから、時間の中を生きることがおもしろい。

「一年があっという間に過ぎ去る」というのがいやで、それに対処すべく考えた「一分一秒を長く生きる」を体得してから、この数年、本当にずいぶん時間を長く感じられるようになった。これについては前にも書いたので省くけれど、簡単に言えばその基本思想は「急ぐときほどていねいに」ってことだ。時間を流さない。

 ただし、どんどんミクロの視点を突き詰めていけばいいってわけじゃないよな、と考えている。一分を感じながらも、同時に身体のどこかで一日の単位 を感じていなければ見落とすものがあろうと思う。

 6月に「その音にはワケがある」というタイトルで、「音の形」について書いたけれど、最近はとにかく休符が気になってしょうがない。少し大仰な言い方になるけど、音を出していない時間をどう生きるか。休符の形をどう表すか。自分が作る、その休符が休符として機能する、音符が音符として識別 される、広いような狭いような自由度の中で、どれだけ意思表示をできるのか。

 なんてことを頭のすみに置きつつ、ライブをやったりしているのです。

 

 

たまには料理の話とか   2010.11.30

 ジャンクなものを受けつけないような繊細な味覚の持ち主というわけではないけれど、薄味好みである。最近、とみに調味料を使う量 が減っている。砂糖、塩、しょうゆなんかを買う間隔があきらかに広がっているもの。天ぷらとか、フライとか、何も要らないなってくらい。しょうゆの消費量 が減った。そして、「煮物=しょうゆ」 という考え方もどうかと思い始めた。

 私は有機野菜をとっているのだが、ごぼうが入ってくると、かつてはひとつ覚えのように金平ばかり作ってたけど、最近はこーゆーの。

 ごぼうは乱切り、じゃがいもも。玉ねぎはざく切り。それを鍋に入れ、ゆでて火が通 ったらかつおだしで煮る。仕上げに塩、適量。食べるときに、たっぷりコショウをふる。

 オリジナルですが、豚肉を入れて作ったときに、和風ポトフ的な感じだと思った。おいしいよ!

 

能がなくても好きなんだ  2010.11.22

 だれしも、一つや二つはどうでもいい物を集めているのではないだろうか。あ、私がしようとしているのは、ショッピングバッグとかプレゼントについてたリボンとか、いわゆる「いつか使えそうな物」……ではない物の話。所帯くさい物じゃなくて、もっと素敵な物の話。

 小学校時代、男子の間で牛乳キャップ集めが流行ったことがあった。これは男子が集めがちな物としては定番で、聞くところによると遊びの道具として有効に活用してた人もいたらしいけれど、うちの学校では「たくさん持っていること」だけが意義であった。クラスのリーダー格であったY君が自慢げにキャップでいっぱいのビニール袋を持ち歩いては見せつけていた姿は、私の脳裏にしっかりと焼きついている。いただきますの挨拶が終わり、皆が牛乳キャップを開けるや否や男子たちはクラスじゅうを駆け回り、さらによそのクラスまで遠征して収穫に励んだ時期があった。あの、丸い形というのは疑似コイン的で、たくさん持っているだけで裕福な気分が味わえたのではないか、などと思っている。

 私がなんとなく集めているのは、ボールチェーンだ。洋服のタグなどにときどきついている、長さ7、8cm程度の長さしかないやつを。何かに役立てようと思っているわけでもなく、ただボールチェーンが好きだからだ。銀が多いが、ときどき金のもある。よく見ればボールの大きさもちょっとずつ違う。それを、おしゃれキャットのプラスチックケースにためている。

 それから、スピンドルのCDRに入っている、CDRと同型の透明のプラスチック板。これも、ただ「物」として純粋に好きなんだ。いつか、ふと素にかえって、なんじゃこりゃと思って捨ててしまったりするのかもしれないけれど。でも、今のところ、ボールチェーンと透明の丸い板っきれを、私はとても愛している。

 

よーやる!   2010.11.19

 2週間にわたり更新が遅れて申し訳ありません。忙しいのは予測済みでありそういう中でもうまいこと立ち回るスケジュール管理能力はあるほうだと思っているのだけど、連続して予測不能の事態に見舞われぐっちゃぐっちゃになっておりました。

 気がついたら、えっ!? まだ11月19日? とっくに11月末くらいかと思ってました。しばらく1日2睡眠制をとっていたせいかしら……。この1日2睡眠制、読んで字の如くで、たとえば1日のうち2時間ずつ2回寝るわけです。考えて実行したわけではなく、忙しくなると自然とこうなりがちです。10数時間がんばって4時間寝るのとは違って……「がんばる時間」の中でまったく息抜きができずその中身が濃ければ濃いほど、そこを分割したほうがよいみたいです。長期戦の中で集中力をもたせるには限界があるので。

 さて一昨日の朝方ごろ。外出の出発時刻をにらみながら、原稿を書いていて。そこまでの読みでは「1時間くらいしか寝られないかなあ」と思っていたところ、書き上がってみたら2時間とれそうではありませんか。

 ここで、思いのほか時間ができたことに喜んで……「わー、じゃあ1時間遊ぼう!」と一瞬思ってしまった自分に、やや呆れもしたが。

 結局、30分くらいマンガ読んでから寝ました。精神衛生って大事だと思う。

 

考える  2010.11.12

 考えることが多い。バンドのことや仕事のこと。そうした日々考えることが必要なこと以外にも、考えることはいくらもある。趣味なのかもしれない。

「ボーッとしてること、ないんでしょう?」と言われる。ないです。でも、それを偉いと思ってるわけじゃない。「ボーッとする」も趣味だと思うから。いくらボーッとしててもいいと思う。考えるべきときに考えられる、なら。

 私が残念に思うのは、私の親がみごとに「考えることができない」ことだ。両方とも。自分が理屈っぽいことをさっぴいても……あまりに何も考えなさすぎるのだ。考えるのは「理論」だけじゃなく「感情」なくしてはできないことだ。親を相手に議論をふっかけようとは思わない。小難しい議題を持ち出してるわけでもない。ただ、血の通 った会話がしたいだけなのだが、ほんの少しだけ「自分を振り返って考える」ことが必要になると、「わからない」「なんでもいい」と片づけられてしまうのは、悲しい。

 考えなくても、生きられる。

 考えない人は、考え方がわからなくなっているので、より考えるのが面倒になっている。

 いちいち考えなくても、習慣に沿って、それなりにスムーズに生きることはできるのだがね。

 ただし「考えない」ことは、「のびのびやること」ではない。考えることで、私たちは動機に至ることができる。動機ってのは、ハートだ。

 ね、「考える」は理屈のドレイになることではないんですよ。

 

あくまでも!ユーモアの問題death!   2010.11.1

 ええと、もちろん冗談の類として使われているのはわかっているのだけど、野暮を承知で言うけれど。「死ぬ 」という言葉の濫用が、どうも昨今ひっかかる。不謹慎なんて言うつもりは毛頭ない! ただ、元の言葉が強いだけにおそらく使い減りが激しくて、それゆえに私は見るたびしらけるんじゃないかと。

「死ぬほど〜〜する」。これはまあ威勢のいい表現であり、そう気にもならないのだが《ユーモラスな》表現としては少しカビ臭い。現代的でない気がする。何かエラい仕事をおっつけられての「死ぬ 〜〜〜!」ってのも感覚としてけっこう古い気がするんですが、これもまだまだ使われているようですね。

 いちばん現代的といえるのは、自嘲的に(たとえば自分の失敗談などを披露したあとに)使う「死にたい」。しかし、(これも既にそんなに強いツッコミ表現ではなくなっているが)「死ね」に比べたらだいぶ摩耗してると思う。

 つまりは頻繁に使われすぎてインパクトが薄れているということか。「死ぬ 」にしろ「心折れる」にしろ、「え、その程度で、その表現使っちゃうの?」ってとこで使われてるから減りが早いんだろうな。

 今この手を使うなら、形容表現を加えて表現を強めなきゃ有効じゃないと思う。「最後の晩餐にトンカツ食って公衆便所で荒縄で首吊って死にたい」とか、具体的にさ。

 私がその言葉を知ったのは昭和の頃だったと記憶するが、「ヘソ噛んで転べ」というのは、なかなかに趣深い言葉ではないか。

 そういう、手応えのある言葉を求めている。いちいち。

 

だまってすわればぴたりとあたる  2010.10.25

 少し前の話、ロフトプラスワンで行われた《伊達男ナイト》というオールナイトイベントに出演したときのこと。だしもののひとつとして、「オーラ・ソーマ・カラーセラピー」というのがありました。女性はともかく、男性はよく知らないかもしれませんね。ざっくりした説明で勘弁いただきたいが……使われるのは、1本が上下異なる色に分かれたカラーボトル。たくさんのボトルの中から直感的に好きなボトルを選び、それによって診断してもらうというもの。占いではなく、心理学に基づく領域のものです。

 夜は長い。出張お試し版ということで値段もリーズナブルに設定されてたこともあり、試みることにした。

 さて……わざわざ先に「占いではなく」と書いたものの、占いをひっくるめて、私は本来「○○診断」的なものにあまり興味がない。しかし、《そういうもの》の全部に否定的なわけでもない。要は相手次第と思う。

 「生来の性質や志向」に関する診断の時点では、言われたことに関し「ああ、まあそういうこともありますね」くらいの気分であった。この類のことって、「言われてみればそうかも」と思える場合が多いものだから。ところが、「自分が課題としていること」について、いきなり「サバイバル」という言葉を出された瞬間、私はぎくっとした。俄然、目の前の人を信頼してしまった。「サバイバル」って……あまりこの手の診断に出てくるような言葉じゃない、かなりピンポイントなものだ。このコラムを前から読んでる方は私がいかにサバイバルにこだわって日々を暮らしているか知っていると思いますが。

 そして、この日もっとも引っかかったのは「自分の性別について、不自由さを感じているのではないか」という言葉。これを聞いた瞬間、これまであまり考えたくなかった(でも、心の奥底には確かにあった)ことを掘り返されてしまったとわかったからだ。

 人を「女性的」「男性的」と分ける言い方は好きでない。ものすごくデフォルメした形で用いることを、許さざるを得ない場合はあるけれども……ものごとはそう簡単ではないでしょう? 例えば自分の「ある部分的な、女性的(と形容されがちな)資質」が嫌いなために「男性的」資質が作られることもあるし、その逆もある。そういうものが相互に影響しあって、性質は複雑に作られていることが多いと思うから。

 しかし、誤解を恐れずに「女性的」「男性的」という言葉を使わなければ話が進まないことがある。ちょっとそれをやってみよう。

 私は「男らしい」と言われることが少なくない。そう言われるであろう理由の、第一は体型か(笑)。気がきかない。ときに、女性の好む話題(特に恋バナ)にうまく絡めない(即物的なので、結論 を求めるのでなく過程を楽しむ話にうまく乗れない)。理屈っぽい。ええかっこしいで、人に頼るのがヘタクソだ。しかし、ぬ けぬけと自分で言ってみますが、奥ゆかしいところもないではないし、次女っ子的な甘えん坊でかわいいところも(照れる……)あるはずだ。嫉妬心もある。ときには「セクシーである」と言ってくださる人もいて、それは心からうれしい。

 どういう場面だったかよく覚えてないが、中学生のとき、男子どもが「だれもおまえのこと女だとか思ってねぇよ」と言ったことがあった。正直に言ってしまえば、私はその時「男子たち」の仲間と認められていることに《特権階級女子》(※何かの受け売りで使っていますが、良くも悪くも言い得て妙な言葉だと思う)としての喜びを感じはした。そもそも、中学生の時点で私は男子にちょっかい出される的な《かわいい女の子》ではまるでなく、だとすればポジションは自ずと決まるというものだ。そうはいっても私は男じゃないし、男になりたいと思ったことは一度もない。

 と、ここで「男になりたいと思ったことは一度もない」と書きましたが……「自分の性別 について、不自由感を持っているのではないか」と言われた時に、これをやや疑ってみた。

 私は「男になりたい→男だったら〜できるのに」という言い方を、くだらないと思っているのである。ひょっとしたらそのため、かつて「男になりたい」と思った(思いそうになった)形跡はあって、しかしそれに対峙しないまま封印してしまった可能性はある。

 そして、私は「子どもを欲しいと思ったことがない」ことを、自分に対して残念に思っている。私は……おかしな言い方になるが、できれば「子どもが欲しい」と思ってみたく、そう本心から言える女性に憧れているのだ。

 私が性別に不自由さを感じているとしたら、この《「男になりたい」と思ったことが本当にないのか【それを認めるかどうかの問題】》、《子どもを欲しいと思わない自分を残念に感じる【…これを残念に感じることなく受け入れる】》の2点がポイントであろう。

 日頃、性別に縛られていると思う場面は幸いにしてないけれど。しかし、私の目指す《真の自由さ》に到達するには、この小さな引っかかりに対して結論を出すことは必要なのだと思う。

 その上で「こういう女の人に《なりたいわ》」って思う、その理想像を更新していくことにする。

 

本は読めないものだから心配するな   2010.10.16

 そんなわけで、ちょっとしたスキを見ては本の処分にいそしむ日々。いやあ……いい加減くどいようですが、見れば見るほどいい本棚だ。ホントのところ、処分すべき本なんて一冊もないように思えるけどそこをがんばっております。とりあえず、世間的に評価されている、図書館や古本屋で見られる本が第一の処分対象(とか言いながら、トーマス・マンとかまだ残してるじゃないか…カミュとか残してるじゃないか。でも、モーパッサンとかゾラとか川端だってだいぶ処分したもんね!)。サブカルチャー的に評価されないタイプの俗なマンガをこの世に残すのは私の仕事。ノンフィクションもけっこう世の中から消えがちなので、慎重に……。

 そして、だれかの本で読んだことですが「読んだ本こそ残せ、未読の本こそ処分せよ」は正しいと思う。「まだ読んでないからとっておこう」は危険。長く持っているにもかかわらず読んでないというのは、さほど必要としてないってことだ。永遠に読まない可能性すらある。なので思い切って手放す。

 また、自分にとって「永遠の名著」に君臨し続ける本もあれば、一時は夢中になったけど最新チャートでは転落している本に注目。思い出にとらわれるべきではない。かつて愛読したものでも「卒業」していくタイプの本もある。また読みたいと思うことがあれば、そのとき探せばいいのだ。苦労して再会を見たとき、愛はさらに深まっているのであろう。「おお、おまえを二度と離さないよ!」と抱きしめるのであろう。

 などとごちゃごちゃ言いながら現在進行形で自分を説得しにかかっている私が今読んでいる本は、『本は読めないものだから心配するな』(菅啓次郎/左右社)。

(以下、引用)「本に「冊」という単位はない。とりあえず、これを読書の原則の第一条とする。本は物質的に完結したふりをしているが、だまされるな。ぼくらが読みうるものはテクストだけであり、テクストとは一定の流れであり、流れからは泡が現れては消え、さまざまな夾雑物が沈んでゆく。本を読んで忘れるのはあたりまえなのだ。本とはいわばテクストの流れがぶつかる岩や石か砂か樹の枝や落ち葉や草の岸辺だ。流れは方向を変え、かすかに新たな成分を得る。問題なのはそのような複数のテクスチュアルな流れの合成であるきみ自身の生が、どんな反響を発し、どこにむかうかということにつきる。読むことと書くことと生きることはひとつ。それが読書の実用論だ。そしていつか満月の夜、不眠と焦燥に苦しむきみが本を読めないこと読んでも何も残らないことを嘆くはめになったら、このことばを思いだしてくれ。本は読めないものだから心配するな。」

 これは間違いなく、今の私に必要な本。

 

じてんだいすき  2010.10.11

 仕事がら、辞書はわりとよく引くほうで。机の左手の棚上は、辞書コーナーだ。よく使うのは、「デイリーコンサイス英和・国語辞典」(三省堂)。英和と国語が半分ずつ。「広辞苑」(岩波書店)は第2版で、昭和44年一刷りのもの。今流通 してるのは7版かな…? 新しい言葉は載ってないけど、反対のメリットがあります。「新世紀ビジュアル大辞典」(学研)はフルカラーで、その名の通 り図版が充実してるので助かる。そして「現代用語の基礎知識」(自由国民社)……この辺が一番よく使うもの。英和、フランス語、古語辞典はめったに使わないけど、まれに必要になるので実家から持ってきた。一応、漢和もあります。仕事じゃ使わないけど眺めて楽しむ。

「用字用語辞典」(東京堂出版)は、出版関係者必携。原稿を書く上での、一般 的な表記に関する辞典です。つまり「片付ける」は×で、「片づける」は○とか。ただし、こうした表記の基準は出版社によってルールが異なるので絶対というわけではないけれど。朝日新聞社版とか、毎日新聞社版とかもあるけれど、私は東京堂出版育ち。「反対語辞典」(東京堂出版)、「逆引き頭引き日本語辞典」(講談社+α文庫)なども地味に役立つ。

 一番新しいのは「13か国語でわかるネーミング辞典」(学研)。英、仏、独、伊、スペイン、ポルトガル、オランダ、ラテン、ギリシャ、ロシア、中、 韓、アラビア。キャッチコピー作ったりする時の参考用に買ったもの。世の中、テーマパークとか観光施設とかの名前って、よくわからないカタカナ語でできているじゃないですか。たとえば『意味的には「○○広場」にしたいけど、「広場」そのまんまじゃやだからなんかカッコイイ言葉ねーか?」って時に、こういう辞書をめくってイーカンジの外国語を探したりするわけですわね。

 と、ここまでは仕事の範疇だけど、ほかにも「読み物」として楽しむ事典/辞典をけっこう所持している。「大阪ことば事典」(講談社学芸文庫)、「罵詈雑言辞典」(東京堂出版)。「婦人家庭百科辞典」(ちくま文庫)は、昭和12年に刊行された家庭用百科 辞典の復刻版で、戦前日本の生活・風俗を読む辞典といったところ。

 もっとも読み物っぽいのは「〈さようなら〉の事典」(大修館書店)。文学者の箴言、文学・映画の中の「別 れ」の名ぜりふをピックアップして解説を加えたもの。

 ほかにもミステリや映画、音楽ジャンルで「事典」とついてる本が何冊かあるけど、この辺りは割愛。

 事典は、読むのは楽しいが作るのは地獄である。私も過去に事典作りに携わったことが何回かあるが、小学生向けの情報量 の少ないものであっても、その制作〜校正作業はものすごく大変であった。間違いなく今までに一番辛かった仕事といえるのは、大人向けのことわざ事典だ。 企画立ち上がりから発売まで半年ほどしかなく、途中でアシスタントが入院リタイアしてしまったのに人員が補充されず! 追いこみの2か月間は、どんなすき間時間もその校正紙をにらんでいたのを思い出す。電車の中はもちろん、ライブのリハと本番の間とか……。毎日何度もにらんでいた、1週間ごとのスケジュール管理表は今でも脳裏に焼きついているもの!

 過酷な状況の時、当時を思い出すと「あれに比べたらまだマシだ」と思えるから、まあトラウマってほどじゃないですけどね!

 そして、もともと大好物なので、そんなことでことわざ事典を嫌いになったりはしてませんよ。

 

756冊の生け贄   2010.10.5

 この7月、福岡ヤフードーム内に「王貞治ベースボールミュージアム」ができたのである。近い将来、なんとしても行きたいものであるが、なかなか完全オフ日の確保できない身……。せめてもと、私のくせにサイトをしげしげ眺めたりしていたら。「王貞治グッズ」というコーナーがあるではないか。そこで、大変なブツに出会ってしまった……!

 「王貞治756号リアルフィギュア」。世界記録となった756号を打った際のフォームを再現したフィギュア、である。昔からこういうのないのかなーと思ってたんだよ! 商品説明を見ると、20×20、高さ40cmのガラスケース入り。89体限定(※89は「野球」にひっかけた、王監督が最後につけてた背番号)、シリアルナンバー入り。

 すぐにでもポチッとやりそうになる気持ちを、冷静に抑える。私は王貞治氏を心から尊敬している。だからして、王様に関する本やグッズなどはそこそこ持っている。しかし、私は王貞治コレクターというわけではない。コレクターを目指すつもりもない。どんな分野に限らず、本気のコレクターの執念と情熱と根気には一目置くけれど、自分はコレクターにはならない。物をよい状態で管理することに懸命になれないから。私は、私が日々、そのものを把握できて個人的に愛する分だけ持てればいい。

 サイトでは、残り数がいくつかはわからない。私なんかが買うことで、ホンモノのコレクターの人に行き渡らなくなったら困るではないか。私はそれを(欲しいけれど)持たなくったっていい。それを手に入れた上位 89名の王貞治マニアの存在を、心の中で思い、祝うだけで十分だぜ……。

 と、本気で思っていたのだが。ややお値段が高いこともあって、なかなか売り切れない。サイトをチェックし始めて2か月ほど経って。私は、ついに購入を決めたのである。

 そして現在、王貞治フィギュアは家にある。しかし、いまだ巨大な段ボールに入ったままだ。当然、早く空けてみたくてたまらないのだが、自分に課した課題をクリアーするまで空けないという誓いを立てたためだ。

 このフィギュアは私にとって、単なる「飾り物」以上のものとなるはずなのである。「こんなの買っちゃったよー」と見せびらかすものではもちろんなく、「カッコイイ!」と見ほれるだけのものであってはならない。私の生活に、強烈なカツを入れる存在となるべきなのである。しからば、それ相応の置き場所を用意しなければいけないと考えた。

 ありがたきフィギュアを、このゴミゴミした部屋に置けるかい! ちょっとした神殿ばりの置き場所を設けねば……いやいや、ただ「お金を出して買いました」って態度すら軽いんじゃないのか? このフィギュアを手に入れる、その行為に対し、何か大事なものを手放すことが必要だ!

 そこで756冊の本を手放すことに決めた。あ、まあちょうど本を整理しようと思ってたところだしね。ほんとにね、家には素晴らしい本しかないのですよ。しかし、そこを厳しく厳しく見極めて本を処分中。756冊の生け贄を差し出すまでは、フィギュアに対面 しないと決めたのさ。今、200冊くらい? いやー、今年中にはなんとかしたいものである。

 

ギンギン太郎はどこへ消えた?  2010.9.27

 ホームページを作り始めてけっこうな時間が経っているのだが、デジタル的にはまるで進化してない我がサイト。そうこうするうちに、周囲はものすごく高度なサイトになってたりして……でも、今度はサイトを携帯電話から見る人も多くなってる昨今、重いデータのないおらが島は見やすくてけっこうと言われることもあったり。

 いやあ。そして、減りましたねBBS。かつては皆、あんなにteacup大好きだったはずなのに、どうしたの? 私は最近、前にも増してBBSが大好きになりつつあるので、これからも閉めるつもりはないしライブ告知なども大歓迎の構えです。

 世のBBSが減るのに伴って、スパム書きこみもすっかり見なくなりました。

 あれは私だけに見えた幻ではないと思うのですが……たしか1か月くらい前に、我々BBSにひさびさにその手の書きこみがあったのですよ。以前は、見つけると即刻消していたのですが、ひさしぶりだと思うと気分も変わる。憎い相手もたまに会うと「やあ、元気だった?」と声をかけたくなったりするような。内容はありがちなヤツですが、投稿者の名前が「ギンギン太郎」という、これまたベタでどこかカワイイ名前だったせいもあり、しばらく残しておくかと放置しておいたのに。ギンギン太郎の書きこみは、なぜか忽然と消えてしまったのです。これまで勝手に消えることなんてなかったのになぁ。と、一抹の寂しさを覚える。

 どこへ行ったのギンギン太郎?

 今ならレスもつけてしまいそう。

 

刺すっていうのは…   2010.9.20

 音楽、それからさまざまな表現だったり人の言葉や振る舞いに強く心を動かされたとき、「胸を刺されるように」感じることがある。いいな、すごい、楽しいな、うわなんだこれ。…と思うことは多いけれど、「胸を刺す」にいたるものはその中でも最上級。ほかにも「頭を殴られるような衝撃」などの言い方があるけれども、大げさでなく、本当にこういう感覚を得ることってある。しかし、実際に肉体に触れずにそうした感覚を与えるのはものすごいことである。

 肉体の話。マンガや映画なんかじゃわりと簡単そうに見えるけど、実際に人を(刃物で)刺すというのはたいへんな力を要すると聞く。秋葉原の事件のあとだったか、「次々に連続して人を刺した犯人の憎悪は並大抵のものではなかったに違いない」…みたいな論評を聞いて、試したくなった。人を刺すとはどんなことなのか。

 私はひとり、台所で包丁を取り出し両手で握った。自分を何かの憎悪に取りつかれた人間と仮定して…そこに人がいると想像して包丁をグッと突き出してみる。そもそも刃先を人に向けることなんてないから、(実際に人はいないものの)それだってやってみるとかなり緊張感を伴う。なるべく、人の……本来は硬いだろう身体を、その抵抗を想像しながら包丁を突き立て、押しこむ(イメージ)。ドスッ。ググッ…と。

 本気でやったらけっこう疲れた。

「胸を刺す」表現をしている人って、このくらいのエネルギーを放出しているのだろうな。人に何かを見せる・晒すことに相当の覚悟を持って。人の心に訴える。なんて、簡単に言えることじゃない。それを知って、やらねばならぬ 。

 

疑い  2010.9.13

 仕事現場で受験生の群れを目撃し、自分の受験生時代を思い出してみようとする。考えてみると、少しでも「受験生」ぽかったのは中学3年の時しかなかった。音大受験時は……声楽学科志望の人間としちゃ普通 の受験生以上に風邪をひいてはならず、年明け(いわゆる追い込み時)にはいつもよりはるかに早く寝るのが最大限の《がんばり》なのであった。模試とか予備校で正月特訓したりする受験生の姿がテレビで流れると、「わーホンモノの受験生だー」と感心してたものだ。

 中3の時も、実際はそんなに受験生らしくなかった。「いやー勉強しないのになぜか受かっちゃってねー」と言うのはいやらしいので、やってないぶりっ子するつもりはないのですが。第一志望はさして難しくない学校だったし、単願だったし。あとから聞くと自分の成績からするとそんなに余裕ぶっこけるわけじゃなかったらしいが、自分は受かる気満々。運がよかった。第二志望の公立用の勉強(理科と社会が加わる)をまるでやってなかったので、もし第一志望をすべったら第二志望も必ず落ちてたはず、と、そこは自信を持って言える。この「まるでやってなかった」に関してはザックリした喩えではなく、本当にゼロの状態。一応、各教科の問題集を買ってはあったのに1ページもやらなかったもの。

 ただ、その時をふり返ると、確実に家族から「受験生扱い」されてはいた。「受験生なんだからちょろちょろ遊びに行くな」というだけでなく……とりあえず部屋にこもっておけば「勉強してる(はずだ)から邪魔すまい」という空気があった。勉強以外のことはするな、勉強さえしてればなんでもいい、と思われている……。

 つまり、家にいる限りは《情状酌量》されている。その生ぬるい空気。あんなにコソコソ遊んでいたことはない、本当におかしな時期だった。あれは、いつもは堂々と勉強しない私が、人生で最も「勉強しているフリ」に励んでいた時期なのである。おかしなことだ。

 「勉強しているフリ」は親の手前していたことだけど、ひょっとしたら少しは自分でもそのせいで勉強しているような気になっていたかもしれない、と考えてみる。あり得る。だとすれば。今でももしかして、ときに「何かしているフリ」をしてはいないだろうか。「自分のことは、自分が一番よく知っている」とは思えない。ああ、これが正しいこともあるけども、しかし人は自分をもだまくらかすことができるのを知っているから。疑ってみる。

 

ブーツを履いて三食を   2010.9.6

 秋冬ものが本格的に並ぶのはまだまだこれからだってのに、この7〜8月でブーツを4足も購入してしまった。ピンクのメッシュのやつ。白のウエスタン風ショートブーツ。紺のスウェード。フリンジめっちゃついてる黒のウェスタン。はあ…。なぜこうなるかというと、世の中の物価が安すぎるからだ! プロパーで買ったのは一足だけで、後は目を疑う激安品。ちなみに先日、仕事で上野に行った際に見るともなく靴屋の軒先を見たらば(いやでも目に入る問屋街だから仕方ない)、これまた私好みなブーツが980円で売ってたりして本当に困った(私好みなモノ=売れ残りがちって法則もあるが)。さすがに買わなかったけど…ほんっとに置き場所ないもの!

 買い物は出会いがしら。私の場合、まず「〜を買いに行く」ってことがない。服を見るのは好きだから、一日ウインドーショッピング的なことをしても飽きないとは思うけれどそんな時間はないし。なので私の買い物はA地点からB地点に行く際、せめて目の保養にファッションビルの1階を通 り抜けよう…というときに生じやすいのだった。

 そしてブーツに財布のヒモが緩くなる理由は、戦闘靴の意味合いが強いってこともある。私、ライブの時はほぼブーツです。スニーカーが不得手な私としては、これが一番機動力のある靴なんだもの。

 しかし、昨今は春夏向き素材のブーツがあったり、季節感のしばりというのがなくなってきてありがたい。これって、ホントにこの10年くらいで大きく変わったと思う。5月ごろに短いバイカーブーツを履いていたら、母に「春なのにそんな靴履いておかしい…」と言われたのは、確か10年くらい前のことと記憶している。

 スニーカーが苦手なのは不幸中の幸い。これでスニーカーまで買っていたらえらいことになる。あ、これでもサンダルやハイヒールもけっこう持ってるんです。ライブでは足場がグラグラする靴は履けないので見たことない人、多いと思いますが。靴は女の甲斐性なんでぃ!