ダマコラム KOZUE AOU    2007.4〜8月 2007.9〜12月 2008.1〜4月 2008.5〜8月 2008.9〜12月 2009.1〜4月 2009.5〜8月 2009.9〜12月  2010.1〜4月

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☆「ある」とか「ない」とか  2012.4.18

「○○がない」と口に出して言うことの意味はなんだろう? 「〜がある」というより、「〜がない」という言葉に触れることの方が圧倒的に多い気がする。金がない、時間がない、才能がない、仕事がない、友達がいない。つまりは不満ですね。これらを持っている(と思う)人がわざわざ「ある!」と、なかなか言わないのは自慢してると思われるせいばかりじゃなく、口にする必要がないからですね。

 さきに「これらを持っている(と思う)」と、敢えて書いたのは、これが主観だからである。あると思えば不満はない。ないかもしれないけど気がつかなければ不満はない。

 ということは「ない」と口にする人は、(1)○○を持っていない(と思う)人 (2)それが事実だとして「ない」ことを意識しがちな人……ということになる。

 「ない」と言うことの良さを考えてみる。「ない」と自覚することによって奮起できる。……うーん、どうだろうか? こういう人もいるかもしれんという想像で書いていますが、正直、そう口にしてしまう言の前後の文脈から判断すると、あまりないケースのように思われる。多くの人は、「ない」ということでがっかりしているような気がする。そこで、もうひとつ考えられるのが「ない」と言うことで、その憂いに酔うことができる。これは良いんじゃないでしょうか。憂いからはいろんなものが生まれるだろう。要するに、ただがっかりして落ちこむのは面 白くないぞ。憂いは様々なことに役立つ。おおいに憂うべし!

 ただ、「ない」ってほどでもないのに「ない」を意識しすぎる取り越し苦労の人もずいぶんいるのじゃないかなぁ。まあこればっかりは「ない」と感じる基準値を比較できないので、思いこみだと指摘のしようもないんだけど。だけど、「金がない、死ぬ 」とか言ってても実際に生命の危機に瀕するほどの人はいなさそうだし、なんとかなってるでしょ? 私から見ると「金がない」と言うのはちょっとした道楽に思える。「時間がない」は言うだけムダ。

 ある時、バス停で。バスがなかなか来なくて、バス停に向かって一列に並んでる人たちは、みんないつやって来るのかやきもきして振り返り振り返りしているのを見ていて、「見てもバスが早く来るわけじゃないのになあ」と思った。こういう時に生産されるのは憂いではなくて、焦りだけ。ならば、「ない」を気にしないのがいい。理屈を理解すれば、練習で、気にならなくなります。

 もうひとつ。「ない」を意識しすぎる人は、他人と自分を比較しがちなのではないかな。人を見て「あの人程度には欲しい」と思うのではなく、自分で「これだけは欲しい」と設定した上で「ない」と言うならば、それは有機的に思える。

 ちなみに、人に同意されたらカチンとくるようなことは言うべきでないよ。(例「私、頭悪いんですよ」→「うん、そうだね」→「カチーン」みたいな) 

 まれに、ないくせに「ある」を盛る人もいてそれはそれでうっとうしいけれど、それでも「そんなことないじゃん」と言ってもらいたがってる人よりは扱いが楽かなあと思っている。

 

☆日々の練習問題  2012.4.18

 日本中どころか世界各地で大きな地震が頻発している現在、皆様備えは万全でしょうか? 大きい揺れが来たらブロック塀から離れろとか、瓦やガラスが降ってきそうなとこでは安全そうな建物に逃げこめというマニュアルは頭の中に入っていても、実際に起きた時、周辺がどんな環境かなんてわからない。そこで、私は、街なかを歩きながら「今ここで巨大地震が来たらどうするか?」という抜き打ちテストをやっている。環境は逐一違うわけで。「さあ、今来たらどうするのがベスト?」という問いに対して1秒で答えを出すのが狙い。頑丈そうなワインショップと、ボロい布団屋どっちが安全か(笑)? 「この中で安全そうなのはどこか」という練習問題をたくさん解くことで、実力は上がるはずだから。

 また、頭で考えるだけじゃなくて、身体をどう動かすかもイメトレしておく必要がある。たとえば私たちはいざという時に、裸で飛び出すことには慣れていないし、大事にしている楽器や買ったばかりのおでんを道に投げ捨てることにも慣れていない。この話をしたら、美容師がこんなことを言っていた。バランスの悪いところに置いていた包丁が落ちた時、反射的にサッと足を伸ばして(物が落ちた時の衝撃を少なくするために)しまい、また慌てて引っ込めたと。

 高円寺の居酒屋「石狩亭」で4人が亡くなる火災があった後、さんざんイメトレしましたね、打ち上げの席で。もし今、大火災が発生したら、私は躊躇なくベースを置き去りにして逃げ出すのだ、という設定を。平時ではそんなこと当然と思うかもしれないが、東日本大震災を例に出すまでもなく何かを取りに行こうとしたために命を落としている人はたくさんいるので……。

 駅から家に帰る道のりでも、「もしあの車が歩道に突っ込んできたら」ということを考えながら歩いている。最近スマホ見ながら歩いてる人多いけど、即刻やめるべきだね。車じゃなくとも、通 り魔に刺し殺されるとか首締められるとかバッグ盗られるとか心配したほうがいいよ! 

 その他にも、電車で隣の人が急に発狂してナイフ振り回したら?とか、いろんな問題を自作して解いてみるといい。不安に怯えて暮らすわけじゃなくてね、そういうシミュレーションをすることで不安は少なくできるってことです。

 

 

☆適切にほめてください、さあ!  2012.4.6

 私は、人にほめられることよりは、自分自身の評定を重視する。なーんてことを、以前、ひょっとしたら偉そうに書いちゃったかもしれないが。

 自分がこう考えるに到った《仕組み》が、ふとわかってしまった。厳密には「こう考えざるを得なくなった《からくり》」が。わかってしまったら、なーんだってなもんだ。

 人と話している瞬間に、気がついたことだ。

 そういえば私は、親にほぼほめられたことがないのである。あのーここは謙遜しないけど、そう出来が悪い方でもなかったですよ。どちらかというとお利口。ただ、うちの母というのは80点をとってくると怒り、90点だと「もうちょっとなのになんだ」と怒り、100点を見せると「当然」と言う人間なのだった。そして、リスクを好まないので、私が何かハードルの高いことに挑戦しようとする時は「そんなことして失敗したらどうするのか。私は知らない関係ない」と言って、応援は一切してくれず。ところがそれがうまくいくと、私を直接ほめやしない割には、電話で親戚 にあからさまに自慢などしているのだった。それが嫌でたまらなかったっけ。謎だ。ちょっと脇道にそれますが、母の性質を考察した上でその行動を分析すると、たぶん自分の想定する領域外での《成功》は、妬ましいものだったのではないかな。「女の敵は女」っていう、アレだ。だけど、それはさておき、ネタあらば他人に自慢はしたいという……。

 たぶん、ほめてもらった記憶があるのは料理くらいだなぁ。

 なかなかほめてくれない親のもとで育った人は、自分に価値がないと思ってしまうのだろう。私は幸いに親を絶対視しなかったので、自分に否定的にならずに育つことができた。理性万歳だ。その具体的な方法が、自分の評価は自分でするってことだったわけ。防衛から生まれた機能だね。これがわかった今では、人のほめ言葉を、これまでよりも素直に受け止められるような気がする。ほめられなれずに育つと、人のほめ言葉に疑念を抱いてしまうんだな。過去を振り返ってみると、子どもの頃、親以外の人からは適度にほめてもらえていた。だけど、やっぱり、親の言葉は大きいんだと思う。私のように、親を早々に絶対視しなくなった人間にとってもだ。

 あ、「自分カワイソー」なんてふうには思ってないですよ。別にかわいそうでもない。ただ、わかってさっぱりとしただけ。

 なので、相変わらず「ほめて育てる」てやつを、手放しで推奨はしない派です。適切に、ほめられるべき時にほめられるのがいい。

 

☆良い意味での《タンスのこやし》だってある  2012.3.26

 服が多すぎて困っている方、特に女性には多かろうと思う。収納のキャパシティをはるかに超えているのはどうにかしなきゃならないにしても、服の多さを後ろめたく思う必要はまったくないと思っている。彼氏とか同居人などに「また同じような服を買ってきて」と言われるケースもあるようだが、そんなの別 にいいじゃないか。それがムダだと言ってしまうなら、世の中はムダだらけさ。同じような服を買うのは、そういう服が好きだからだ。でも、それを買った本人には、違いが見分けられるのである。こういうのは服だけじゃなく、本だってCDだってある。本やCDには必ず違った内容があるという反論もありそうだが、それだって興味ない人から見たら大差ないはずだ。本やCD、フィギュアとかは時に「コレクション」という大義名分があって許されているが、服に対して人が厳しくなるのは、それがもともと《趣味のもの》ではなく、《生活実用品》 としてあるからなのだろう。しかし、そりゃいつの時代の話ですか。今や、服だってとっくに《趣味のもの》だろう。

 着ない服を持っていたっていいじゃないか!

 現代人はものをたくさん持っているので、定期的に「捨てる」ためのテクニックを説いた本がバカ売れする。そういうのに決まって書いてあるのが、「○年着なかった服は処分せよ」。《実用度》をはかる一点では良いルールなのかもしれないが、これが服というものに適用するか、私には疑問だ。

 1年着なかったけど、5年たったら着たくなる(着られるようになる)服もあるんだもの。流行の核というものがなくなり、いろんな時代の古着が通 用するようになった現代では、これは顕著。

 《流行》以外に、着こなしのハードルが高い、着ていく場面がないという問題を抱える服もある。似合うかどうか、着こなせるかどうかはさておき、「どうしてもその美しい服が欲しい」という一点で買ってしまい、いわゆる《タンスのこやし》になっている服が私にもいくつかある。だけど、その服の所在を私は忘れてはいない。そもそも自分の筋に合わない服かもしれず、この先何年経っても着られない可能性もある。誰かに譲ってしまおうかと思ったこともあるけど、やはりそれは「持っているだけで意味のある服だ」と判断して、せめて虫に食われたりしないよう気をつかって保存している。たまに、取り出して眺めたり、着てみたりする。その服は、自分にとって憧れでありひとつの指針になるものだからだ。ここで、値段は関係ない。もうボロいけど思い入れのある服?とっておけばいいじゃない。何かを喚起させてくれるものならば。

 白いスカート10着持ってようが革ジャン10着持ってようがウエスタンブーツ10足持ってようがいいじゃんってことです。服に実用品以上の楽しみを感じている人ならばね。

 

☆忙しさの仕組み  2012.3.20

 この2か月くらい史上最高に忙しかった。といってもまだそのさなかにいるけど、とりあえず「全貌が見わたせる」ところまで来たのでちょっと安心している。つい1週間くらい前までは、どのくらいの山を切り崩せているのかも見えなかったくらいなので。

 とはいえ、私は忙しいのが普通なのである。この山を越えたとて、暇になるわけではない。そこはわかっているので日々思っているのは「普通 程度の忙しさになりますように」という感じ。

 考えてみると「忙しい」というのも漠然としたもので、どんな状態を「忙しい」と感じるのかは人によって違いがあるだろう。「普通 程度の忙しさ」の時は、常に頭の中でタイムスケジュールを刻んでいる。超絶忙しいと、刻みがさらに細かくなる。まる一日、「刻まない日」を作るにはかなりの事前準備がいる。

 私が一番暇だったのは大学生の時だろう。暇といっても、やることがなかったわけではない。毎日ほとんど何かしら学校に行く以外にも、バイトだの遊びだの用事がありはしたけど、朝起きて「今日は何しようかなぁ」と考えて気の向くままに過ごせる時間はあった。そういう時間がどの程度あるかが、私の定義する「忙しさ」に関わる部分だ。

 仕事を始めてからも、20代前半にはまあまあそんな日もあったような気がする。予定を詰めこんだり勝手になだれこんできたり(もちろん自分で選択してるはずなんだけど)する傾向はどんどんエスカレートしているようだ。

 だけど、厳密にいうと、自分で「暇」という言葉を使ったことはない。たとえば、小・中、高校生の時なんかは当然もっと時間があった。どこにも出かけず本を読んだり音楽を聴いたり、文章を書いたり。私が家でやってたのはそんなところだが、「暇だなあ」と思ってそれをしたことがないから。思うより早く、何かやっている。はたから見れば、暇つぶしのようなことだとしても。

 中学の時、辞書を読んでいて「隙」という字も「ひま」と読めることを知って、なんとなくこれを好んでいた。意味は同じなんだけど、常用はされていないのかな。「暇」の代わりに使われるなら「閑」のほうが多いか。自分にとっての「隙(ひま)」には、退屈とか時間を持てあますニュアンスはないのである。

 さっき台所に立って、さてこの山が片づいたらあれをやってこれをやって…と考えていた。やっぱりまるで忙しいのである。結局、私は常に膨大な「やらなきゃならないこと」と「やりたいこと」を抱えっぱなしなのだ。毎日ギリギリまでやって、時間に余裕が見えそうになると、すぐに新しい「やること」がそこに自動的に供給されていく、みたいな。なるほど、忙しいわけがわかった。

 そして私は、「忙しい」という言葉にマイナスイメージもプラスイメージも持っていない。「忙しいという字は心を亡くすと書くんだよ」に「ふ〜む」と同感もしないし、忙しいことが美徳とも思わない。たぶん、私が長年の間に忙しさと同化してしまったからではないだろうか。

 

☆偏屈者の功名心  2012.3.12

 昨今は一般の「芸能人」の中でも「芸能の人」という言葉がそぐわない人もいるし、かといって「有識者」(これも定義はかなりあいまいだが)でもないし…という場合、「有名人」という言葉を選ばざるを得なくなる。「有名人」は実に幅広い。犯罪者も、宝くじででっかく当てた人も、あるいは有名人のプライベートを暴露しちゃった人も有名人になり得る。有名人のお側にいるゆえ、有名人。うーん、ややこしい。

 私は「有名になる」ということに興味がない。音楽をやったりライターをやったりしている身としては、ひょっとすると「野心がない」と思われかねないが、それとこれとはきっぱり別 物だと思っている。

 私の場合、音楽、そして文章の仕事は、他者に向けてやっていることだ。すなわち他人から評価を得たいと思ってやっている。表現活動を100%自分のためにやり、そしてそれで評価を得ている方もいるだろうが……私は《100%自分のため》を選択していない。自分にそのやり方で、評価される能力があるかどうかはさておいて。というわけで整理すると、私は有名にはならないで評価されたがっているということになる。有名税を嫌う、単に腹がくくれないだけの人間か? そういうことでもないと思う。わかった。「有名」が嫌いなのは、「世間」が嫌いなためだ。ああ、私はなんて偏屈だ。

(ちなみに、「有名無実といっしょにされたくないわ」という気持ちでは、ない)

 言い換えよう、有名になりたくないが「名を成したい」気持ちはある。10年たったら忘れられてしまうようなものはつまらないな、できれば死後100年くらいは持つ何かを残したい。さあて、ずいぶん大きく出てしまいましたよ。でも、これがおそらく正確なところ。

 これを、さらに詳しく言えば。せっかくの大風呂敷を小さくたたんじゃうみたいだけど、《名》が残るってことじゃなくて、100年くらいは、だれかの心の中にとどめておかれる《もの》を作りたいなという気持ち。ん。やっぱり大きく出てるのかな?

 

☆昔とった杵柄!  2012.3.12

 小学生のころ児童合唱団に入っていたのだが、そこの発声練習で非常に心に残っているものがある。一般 的な発声練習と違って、それは「音程」をともなわない。《美しい響き》をとらえるための、発声練習だ。

 「マァ、きれい」って、言う、それだけなんだけど。芝居ぽく…というと演劇の人に怒られるかもしれないのでもう少し慎重に表現すると、子どもが精一杯気取ってお嬢様ごっこをするような感じかな? 「マァ」を高めの声で、パシッと響かせるように…《言う》と《歌う》の間みたいに。高い声を出す練習ではないので、あくまで出しやすいそれぞれの音域で。頭の斜め上あたりに持っていった手を、「マァ」のところで、外に開くような手振りをつけることもあったと思う。

 台所に立った時など、ときどきやってみることがある。「マァ、きれい」。

 これだけでウットリした気持ちになるものなんですよ!

 

☆寄り添うから良いとは限らない  2012.2.29

  前にも家族について書いたことがあったかもしれないが、うちの家族は相当ヘンである。あ、だれしもが自分の家族にはこういう思いを抱えているものだとは思うので、そのヘンさをかいつまんで言うと、あまりにも家族愛のない家族なのである。ああ、これもありきたりな表現でしたかね。家族はウザいよね。それは了解している。だけど、《ウザい》を形成する段階にも到達していないのが我が実家だと思う。ヘンというよりは、ブキミという方が近いかな。

 父、母、姉に共通するのは閉鎖的で社会性がなく非活発でイレギュラーなことを嫌うところだ。私は幼い頃から「外の世界で活発に立ち回っても疲れるだけだし世の中は不潔なので(比喩ではなくそのまんまの意味)、家でおとなしくしているのがよろしい」と教えられ、しかし家の中はまったくもって楽しくないという不思議な環境に暮らしていた。家族の中で私は、そのことに疑問を持った唯一の人間である。外が恐ろしいのなら、なぜ家の中はもっと温かくないのだろうと。ひとことで言うと、まっとうにケンカもできないくらい、コミュニケーションのできない人が集まっているのが我が実家。楽しさを共有できず、かといって不満も口にしない。いや、できない空気が流れている。「仲が悪い」にも届かない。だれも、お互いに関わろうとしないのだ。あるのは、お互いが脱け出さないように見張りあってる感じ。あ、この「見張り合う」という言葉は非常にピンとくるな。

 で、私は小学3年の頃から自活を夢見て、大学卒業と同時に脱出をはかった。育ててもらったご恩はもちろん感じているけど、正直実家に帰るのはあまり気が進まない。しかし、この正月、実家に帰ってちょっとわかったことがあった。

 この三人が、ばらばらに暮らしてたなら、もっとつきあいやすくなるかもしれない(補足すると、姉とは二人で会うことがあるので厳密には「この二人」か)。つまり、三人集まっている状態の負の化学変化がハンパないのである。「1+1=3」という表現があるけど、実家の現状は「1+1+1=0.1」みたいな!  実家がなくなって、三人がそれぞれアパートでひとり暮らしすると想像する。それだけで、今よりぐっと明るい絵が思い浮かぶのよ。三人とも、すごく楽しくなると思う。うん、私は個々の人間が嫌いなのではない、「実家」が嫌いなんだ、それだけ。

 年に一度、実家に行くと「気の滞り」をひしひし感じる。普段そういうのに敏感ではないけど、実家に帰ると「あ、これが滞りってやつか」とわかる。

 強い感情があったら離婚もできると思うけど、お互い興味をもってない夫婦なので、それはたぶん無理なんだろう。でも、ばらばらに暮らして、で、正月だけ集まるとかしたら、けっこういい雰囲気になるんじゃないか。すっごいいいこと考えちゃったー! 来年あたり、進言してみようかしらん。きっと、みんな楽しくなると思うんだけどなぁ。でも、みんな変化が嫌いだからなぁ。私が真剣にみなさんの幸せを考えて言ってるなんて思われないだろうなぁ。よくバンドかなんかでも言うじゃない、「前向きな解散」ってヤツよ!

 

 

あらかじめ消化されすぎている言葉について  2012.2.21

 「元気をもらった」「勇気をもらった」という表現が、苦手でならない。いや、それこそライブの後などによく飛び交っていて、自分もズバリこの言葉を頂くことがある。もちろん、そうした感想はうれしいのだが……なんだかこの言い回しが恥ずかしいのだ。

 何も若い者ばかりが使ってるわけではなく……雑誌などの投稿欄で年輩の人も盛んに使ってる。そういえば80代の女性に面 と向かって言われたこともある。文筆を生業としてる人も使う。これが蔓延し始めたのはいつごろからか定かではないが、客観的に見ればすごく使いやすい表現だなあとは思うのだ。「〜だったから、元気に【なった/なれた】」「〜で、勇気が【出た】」という言い方はなんだか物々しい感じがする。同様に「パワーをもらった」という言い方もあるが、カジュアルかつストレート。でも、私には簡易ゆえに「感動を(くれて)ありがとう」の同類に思える。そもそもは物々しいことを、サラッと瞬時に言えてしまう、そのことが気恥ずかしいのだ。

 私が照れ照れしているのは、この言い回しを使うスタンスに対してだ。よいものを見たり聴いたりした時、元気が出たり勇気がわくのは自然。正確にいうと、私は《言い回し》つまり言葉そのものに違和感を感じているのではない(だから、耳にした時目にした時に「ケッ!」と思うのではなく、ただもじもじした気分になるくらい)。この言い回しの浸透が可能にした、わき上がる気持ちを「元気」「勇気」といった単語に一瞬で集約できてしまう処理速度に対して、なのだ。

 ホント、考えるほどに表現としては実に「使いやすい、まとまりやすい」言葉だ。きっといまどきは、小学生や中学生の作文のシメなんかにもフル活用されているのだろうな……。

 

☆私の愛した靴たち  2012.2.5

  あまり思い出を振り返らないほうだ。今が楽しいし未来に期待をしているので、いまだに「あのころはよかったな」なんて思ったことは一度もない。うう、なんだか書いてみただけでむず痒い…。でも、ときどき過去の楽しい場面 を反芻する、その心地よさを否定はしない。

 先日、半端な待ち時間があって、だけど仕事の場でちょっと読書をするのもはばかられた時。手元にあるのはノートとペンだけ。そこで、思いついた遊び。自分がかつて所持していた靴を、思い出せるだけ描くというのをやってみた。一番古い記憶は、オレンジとピンクの花模様のビニールコーティングされたスリッポン型の運動靴。姉のお下がりだった。底に「ミ〜ナ」とメーカー名、15.0cmと記されていたのを覚えている。就学前のはあまり思い出せない。よそゆきの、黒のエナメルのTストラップシューズ。これもよそゆきのローファー。当時、そのデザインの良さはまるで理解できず、おじさんのはく靴のように思えて見るたびに車酔いのような気持ちになった。

 小学校時代の靴は、スリッポン型の運動靴がほとんどだった。母の趣味で、決まって茶色や紺一色だったそれらをスケッチしながら、同級生がはいてたスヌーピーが包みをくくりつけた棒を肩にしょった絵のついた赤のスニーカーを羨ましく思っていたことを思い出す。初めてひもで結ぶスニーカーをはいたのは小学校高学年。白で、わずかに水色のトリミングが入り、水色で何か小さく筆記体でステッチが入っていた。ああ、小学校時代の唯一のお気に入りはインディゴブルーの、コルク底のサンダルだ。そのストラップの太さ、

 中学生になって、ようやく自分で靴選びに口を出せるようになる。ここからはかなり記憶が鮮明だ。ブルーのランニングシューズ。紺のpuma、薄いグレーのNike 。地味色ばっかなのは部活の規律が厳しかったせいだ。帰宅部や文化部の子が、カラフルなデッキシューズをはいてるのがうらやましかった。そういえば地味色であってもコンバースのハイカットは禁じられていた。オシャレだから?  部活をやめてからはここぞとばかりにデッキシューズや、細いボーダーのマリンぽいデザインのひも靴をはいていた。後者は、今思うとあんまり制服には合ってない。まあ当時は、休日用も通 学用もなにもなかったからしょうがないけど。

 高校入学前の春休みに買ったのは、合皮というよりもろビニールな白のパンチングレザー(風!)。白いバッグに合わせて……私服の高校だったので、とりあえず春夏のエース格として気合い入れて探したものである。1年の秋に、記念すべき、my firstパンプス。といっても通学時にはくのでもちろんヒールのないフラットシューズだけど、パンプスと呼んでも差し支えない感じ。それからリーガル黄金期到来、いよいよホンモノの革靴……ローファー、サドルシューズ、黒のひも靴は以降同じものをずいぶんリピート買い、せっせと靴磨きに励む毎日。

 大学時代に思い出深いのは、初の二足買い。久しぶりに母と買い物に行った時、トゥシューズのようにリボンを編み上げる靴と、赤のエナメルパンプスとで迷っていたら、母が両方買ってくれるというのでドギモを抜かれたっけ。

 キリがないのでこの辺でやめておくが……これが逐一思い出せて思い出せてしょうがない。そして、自分で選ぶようになった中学生以降の靴たちは、その靴を思い出すごとに買った時の喜びがよみがえるのである。「この一足で、きっとこんなふうになれる」と、いろいろな想像をふくらませながら買ったことが。もちろん似合わなかったとかはき心地が悪かったとか、買い物として失敗だった物もあるけど、気に入って買った時の気持ちは同じだ。

 文房具や……洋服はもっと膨大になるので大変かもしれないが、けっこうできそうな気がする。行為としては無意味だが、自分の好みを改めてわかったり、何より物を通 して「初心」みたいなものを思い出させてくれる気がする。精神衛生上、すがすがしくなれる遊びである。

 

変質する《快》  2012.1.23

 人の《快》には、大きく分けると「昂揚や刺激を求める」タイプと、「安定や落ち着きを求める」タイプがある。100かゼロかということはないにしても、おおむねどちらかに分類できるだろう。自分の場合あきらかに前者の要素が勝っていて、そんなことを今さら考えたりはしない。それを考える必要があるのは、《幸せ》とかあるいは何か人生に関わるようなことを話しているときに。自分の価値観で話すと齟齬が生まれるから相手を見る必要がある、そんなときだ。

「100かゼロかということはない」と書いたけれども、それにしても、やはり《おおむねどちらかを》選択しなければならないのだと思う。私にしたって、ごくごくまれにだけど、「落ち着いた日々とはどんな感じかしら」と思い浮かべて、ちょいとそれに《憧れてみたいような》気持ちになることがある。ああ、これは、ものすごく厳密な言い回しだ。だけどそれはやっぱり欲深いことだと知っているから、私は真に《憧れ》たりせず、《憧れてみたいような》気持ちでとどめることができるのだ。私は昂揚や刺激を求め、さらにもっと詳しくいえば逆境ほど燃えるたちで、進んでカオスにしてしまう人間だが……あくまで念のために言っておくけれど、「安定や落ち着き」重視派を見下したりはしていませんよ。単純にこれは「性癖」にほかならない。羨むとか羨まないという話ではないのだ。どちらのタイプも、それが自分の《快》であるからそうなっているはずで、私にとって現状は最良であり必然の選択、というだけのこと。もし「見下されている」と感じる場合、それは、どこかで自分の《快》を見誤っているのではないか。さらに蛇足なようだけど、「昂揚・刺激派」=無頼な生活、「安定・落ち着き」派=正社員←という分類じゃありませんのでご注意あれ。

 さて、思いのほか前置きが長くなってしまったのだが、今回書こうと思ったのは《変化》ということについてだった。昨年「坊主レポート」に書いたように、11月に髪をばっさり切ってから。年明け、ひさびさに会った人に「なんか性格まで変わったみたいですね」と言われた。なるほど、と思った。もちろん急に人が変わるわけではないけれど、急激な外的変化(長いつきあいの人にも挨拶してから2分くらい「誰だかわかりませんでした」言われるくらいには)は、内面 にも影響を及ぼすのだろう!

 あまりネタばらしをしたくなかったのだけど、髪を切ってから気をつけたことがある。「勇猛そうに見えすぎないようにしよう」「怖そう、ハードそうに見えないようにしよう」ということ。私はもともとにそういうとこがあり、ショートなんかにしたらばそうした面 が際だってしまうに違いないと思ったからだ。なので、以後、服でいえば必ず柔らかい要素を加えるようにしている。で、ひょっとしたら振る舞いの上でも「怖くない、やさしい人に見えるようにしよう」というふうに調整しているのかもしれない。

 そこまでは正直、意図していなかったのだが。さらに、うっすら「こういうスタイル、変えようかな」と思ってたことが、勝手に変わり始めた。それから「そのうちやろうかな」と思ってたことがグイグイ動き始めた。偶然かもしれないが、何か、《自分の外見の形》を変えたことと符合しているような気がしてならない。もちろん「変えたい」という欲求が起点にはなっているとは思うけど、すごく外的な促進力を感じるんですよ。こっちに手を伸ばしがちだったのに、違うほうにいっちゃう、みたいな。心理的にいうと、こだわらないようにしてても自分を縛っていたルールが解けた、という程度のことかもしれないですが。でも、物理も絡んでると思うのはオカルトっぽいだろうか? 形状が変わると、空気抵抗も変わるだし……。

 というわけで、現在なんだかよくわからない変質の中にいて、たまらなくそれが《快》であるという話。引っ越すとか模様替えとかは、私の場合気分転換くらいにしかならないと思う。やっぱ、自分自身がね、いろんな原子や分子と触れ合って何かが起こっているという実感がね……う、やっぱオカルトじみてますか!?

 

☆短足考  2012.1.11

 ふと「短足」という言葉を聞かなくなったなぁ、と思った。私が小学生くらいの時には、悪口といえば「ブス」「ゲス」「デブ」「チビ」「短足」あたりがド定番で、大人になっても使用頻度が高いのは「ブス」と「デブ」。今も子どもたちは「短足」を使っているのだろうか。それにしては、あまりにも耳に入ってこないな。

 「短足」を罵るのは、「長足」や「高身長」がよしとされるためである。私は「背が高い(ほど)=カッコイイ」「つきあうなら自分より背が高い男性(あるいは身長何センチ以上がいい)」といった価値観を持ったことがないのだが……古い少女マンガなどを見ていると、70年代頃には確実に今より「長足」がもてはやされていたことが如実にわかる。露骨に「足が長くてステキー!」みたいなセリフも出てくるもの。

 というか、現代の子はすでに「短足」が少なくなっているのではないかと思い、珍しく文科省のデータなどを調べてみると。身長は親世代に比べて高くなっているものの、座高もそれに伴ってちゃんと伸びており、平均値から見た限りでは別 に長足が増えているわけではないことがわかった。

 つまりは「カッコよさ」の価値観が多様化した結果、「長足」の価値は下がり、「短足」は単独では悪口として成立しなくなったと考えてよさそうだ。

 現代で重視されるのは《全体のバランス》。ズバリ、言っちゃいましょう。「低身長でもカッコイイ」の旗手は藤井フミヤだったのではないかな。

 ふり返ってみると、彼より前にあれほど低身長で人気を誇ったアイドルがいただろうか? チェッカーズがアイドルでありつつ「バンドマン(アーティスト)」としての雰囲気を存分に漂わせていたことも、身長くらいで評価を決定するのはバカバカしいと女の子たちに思わせた理由だろう。あの独特の髪型もファッションも、むしろその身長だからこそ似合う、とさえ思わせる。

 それから90年代の腰ばきブームも忘れちゃならない。もちろん「あれはガイジンがやるからカッコイイのであって、短足の日本人がもっと短足を強調するのはいかがなものか」という指摘もあったけれど……それはさておき《バランスの取り方》として、あのルーズなスタイルは受け入れられたといっていいだろう。

 ついでにJリーグ流行りなんかも影響しているのだろうか? 昔は「サッカーをやると足が短くなる」などと言われたものだが……足に筋肉ががっちりつくために短く見えるのは確かだが、サッカー選手の足が本当に短いのかどうかはわかりません。好みはともかく、野球選手よりもサッカー選手のほうがファッションに意識的な人が多いようには思える。

 野球といえば、トップスを《イン》し、ジャストウェストに近い高さでベルトをしめるというスタイルが頑なに守られているということが興味深い。スポーツのユニフォームについては伝統的な側面 からいろいろ取りざたされているが、見た目のカッコよさも人気に影響するという点から、近年はかなり緩やかになっている。あの野球ユニフォームのスタイルは、そもそも《スポーツ》という枠組みを取り払って考えるにしても、きょうび稀な存在だ。

 野球のユニフォームがダサいと言われるのは、シルエットのもっさり感だ。最近はソックスにパンツの裾を入れずに外にかぶせるスタイルが流行っているようだけど、 あれはどうなのかなあ。カッコいいと思うかどうかは好みかもしれないけど、丈がやや長くて、見ているとすっころばないか心配になる選手もいるんだけどね。