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☆スクラップブックがもたらすもの  2011.12.31

 古本屋(ブックオフ的な類は除く、昔ながらの古本屋に限る)に行くと、たまに「スクラップブック」にお目にかかる。映画のチラシやチケットだったり、そんなふうに特定のジャンルに絞ったものだったり。或いは特に脈絡なく、個人がひたすら自分の興味のアンテナだけで集めた新聞の切り抜きだったり。資料的価値のあるものは少ないから、世のスクラップブックは持ち主が亡くなってしまったら店に出回ることなく捨てられてしまう運命にあるのだろう。それはそれでよいと思う。たいていのスクラップブックは、やはりその人自身のためにあるものだから。

 新聞をスクラップするのが日課、という人は今ではずいぶん減っているに違いない。義務のように黙々とスクラップする人を見て「なんのためにそんなことするの? 切って貼ったあとは見返しやしないのに」と言う人もいるだろう。正論だ。確かに見直すことは少ないかもしれないが、アレを作っている時点で、人はそれぞれに《編集》を行っているわけであり、それは自分の興味を確認するというだけでも意味はあることだと思う。

 私はスクラップが大好きだ。近年女性の間で流行りの「スクラップブッキング」というやつではない(あれの趣旨はよくわからないが、写 真とかを中心に、とにかくかわいくコラージュするものだと認識している)。ファッション誌から好きな写 真を切り抜いて貼る、というのは中学生くらいの頃からやっていた。当時は「こーいうの欲しい(買えないけど)」みたいな、実用的な感じだったか。途中から、とにかく「美しい」と思う写 真を中心に。靴だけ集めたページ、似た柄の服を集めたページなども考えながら作るようになった。切り抜く際、ブランドや値段のクレジットは残さないことがルール。そうした情報に惑わされずに「自分が好きだ」と思うものを集めたいからだ。ときどき見返して、(世の流行とは関係なく)自分の目で「古く感じる」と思ったら、はがして捨ててしまう。いつ見ても、何度見ても「美しい」と思える写 真だけが残されていく。私にとって、最良のファッションブックを編集しているわけだ。

 ファッション以外に、気に入った雑誌のレイアウトやフライヤーなどを貼る「デザイン」系のスクラップブック。お菓子のパッケージとかもけっこう貼ってある。

 「読み物記事」に関してはファイリングしていたが、たとえば数ページに渡る記事をクリアーポケットに入れる形だと出すのが面 倒でなかなか見なくなる。かさばるばかり。そこで、キモの部分だけを大胆に切り抜いてスクラップすることにした。資料性を求めているわけではなく、見た時に気持ちを喚起されればよいだけのことなので。

 これも、興味がなくなったと思ったら、ばんばんはがして捨てていく。私は、自分の「過去の興味」を保存することには、関心がない。時系列がバラバラになってもかまわない。

 時が経つにつれて、スクラップブックは完成度が増していく。常に《更新していく》ことに意味があるので《完成型》はないのだけど、「すぐに飽きてしまうもの・自分に要らないもの・忘れてもかまわないもの」をピックアップする率は低くなったと思う。

 漫然とした行為のようでいて、スクラップすることで、取捨選択が上達する。それが目的としていたわけではないのだけど、長年続けてきて実感するのはそんなこと……そしてそれは意外と役立つ技術のように思っている。

 

☆私はなぜ「歴史」が嫌いだったのか  2011.12.19

 今となっては歴史ノンフィクションなど好きで読むのだが、学生時代はまるで歴史に興味がなかった。なぜだろう、と考えてみる。答えはすぐにあきらかになった。

 教科書に紹介されている《歴史上の人物や事物》は、もうすでに《すごいもの、たいしたもの》として、在る。私が読んで判断する余地は……固有名詞や年号や定説を覚えて点数をとるレベル(小学校〜高校)の教育においては、残されていないのだ。土偶や聖徳太子や貴族文化やらをいちいちありがたがらねばならないと、決まっているのだ。《重要なこと》が決められている、そこがつまらない。それは教科書の宿命なのだが、とりわけそれを強く感じたのが歴史や美術、音楽。はいはい、私が好きの嫌いの言おうともう歴史的評価は決まっていて、その《だれかが選出した偉人や名作》を暗記するのが仕事なのですね、ということに納得できなかったわけ。それを言っちゃあ学校教育は成り立たないよって話ですが……みんなそんなの割り切って勉強してたの? だったらすごいね。あるいは私はアマノジャクだと思う? いや、私の中でこうした疑問はきわめて自然に生まれるもので、反抗心なんてない、むしろ素直ゆえです。

 前にも書いたことがあると思うが、私は幼稚園の時に「どうしてみんな太陽を赤く描くの? 赤く見えないのに」と訊いて先生に無言で立ち去られた。小学3年の時に校庭の柳をよく見て写 生するように言われ、「どこまでよく見て(現物の通りに)描けばいいんですか?」と訊いて、これまた先生にスルーされた。幼稚園はともかく、小学校の先生は屁理屈を言いやがってという気持ちが態度にダダ漏れていた。私は先生を困らせようなんて思っていなくて、限りなく純粋な気持ちから訊いたのになぁ。

 数学や化学は嫌いだったけれど、これに関しては《ただ苦手》だっただけで、歴史などに感じた気持ちは持たなかった。これらの教科はステップがはっきりしている。九九を習う時点では、少なくとも九九を征服できる。歴史の場合はマクロな概略から入るわけで、その《概略》を決定されるのが気にくわなかったと。

 よく「数学なんて勉強したって何の役に立つの?」って言い回しがあるけど、私はそれは採用しない。ほかの何が役に立つとも思っていないから。学校で習って役に立つことももちろんあるが、それはピンポイントで言えるものではないはず。強いていえば「基礎的教養(書くだけでなんか笑っちゃうが)」、考え方や勉強のしかたを学ぶってことになるのだろうな。

 学生時代、定期試験の時におもしろいなぁと思ったこと。先生が「範囲は○ページから○ページまで」とか言うじゃない。そうすると、みんな必死に教科書に印をつけるわけ。勉強熱心な子は当たり前だけど、10点とか20点とってるような子も、一応やるのね。私は途中で気がついた。こうやって線引いたりするけど、範囲まできちんと勉強したためしがないんだから別 にメモしなくってもいいじゃないか。印をつける行為がめんどくさかったわけじゃない。「勉強しないもんねー」って風にカッコつけたかったわけでもない。ただ、必死に勉強しない自分と、必死に印をつける行為の隔たりがなんだか滑稽というか矛盾してるなと思ったのだ。

 私にとっては、こういう小さな違和感をなくして暮らすことこそが、大事。

 

坊主レポート  2011.12.11

 坊主にして1か月たった。坊主というと皆さんマルコメ君やら球児を想像するかもしれないが……まあそれほどの坊主ではないにしろ一応「坊主」の範疇に入る程度の準坊主。そもそもこの《企画》にあたり、何事にもド本気な私は坊主攻略のために「坊主スタイル」なるヘアカタログを買ってきた。なるほど現代の「坊主」はずいぶん幅が広い。私が「坊主だな」と感じるのは、その本に載っていたうちのせいぜい1割くらいで、ツーブロックもどきとかソフトモヒカンぽいのが大方を占めていた。私の頭はこの中でもオトコらしい坊主の部類に、十分属するといえるだろう。

 あ、この際だから言っておこう。ときどき「思いっきり坊主にしちゃいなよ」(←事前)、「あー、坊主ってほどじゃないじゃん」(←事後)などと軽々しく言う方がいらっしゃいますが、こちとらネタとかバツゲームでやってんじゃないんだからね! 人の頭だからって適当なことを言わんでほしいものだ。凡庸なスタイルに安住している人には一生わかるまいが、けっこう勇気のいる行動なんだよ。

 なぜ坊主にしたのか。ひとことでいうと「一度やらずには気がすまなかったから」だ。ネタじゃないと書いたものの、最初のきっかけは《オシャレ》ではない。10年以上前に「いつかやってみたいなあ」と思いついて、この夏ふと「今だ」という気がしたのだ。冬まで待ったのには理由がある。正直、坊主をこなせるか、勝算はまるでなかった。仕事に差し支える、かもしれない。失敗したらウィッグでしのごうと考えた。夏にウィッグって地獄ではないか。

 また、もうひとつコトを起こす原動力になったのは、その前の髪型が《似合い過ぎる》域まで来てしまったことだ。いろいろな人に「その髪型似合いますね」と、言われ過ぎるようになった。口に出してほめるってことはよほど似合うということでしょ。そこまで来てしまったなら、一刻も早くぶっ壊さねばならないという思いに駆られた。へそ曲がりとかアマノジャクってことじゃない。「行き止まり」まで来てしまったらこれ以上の向上はない、って意味。

 ウィッグを手に入れ(これも美容師にカットしてもらうことにして)、さてすぐにでも美容院に予約を入れようという頃。どんな坊主にしようかだいたいイメージはできたものの、なんとなく決め手を欠いていた。そんなある日、風呂に浸かっている時、頭にひらめいたのが「国立代々木競技場体育館の屋根」だ。「参考になるのはこれだ!」と思った。ここで手応えをつかんだと言ってもいい。

 何か月か前から話をしてあったので、当日、美容師も楽しみにして待っていてくれた。私は用意してきたスクラップブックを開きながら説明する。雑誌から切り抜いた、好ましい坊主、部分的に参考にしてほしい写 真を貼ってある。そして最後の見開きに貼ったのが、第二体育館の屋根の写真と、オフィシャルサイトから引用したその建築・デザインの主旨の文面 である。「この形にカットしてほしい、というわけじゃないんです。ですが、これがイメージです」。つきあいが長く、これまで私の提示するいろいろな難題、適当なアイディアを形にしてきてくれた彼ならこれでわかってくれる、と思った。周囲で、この打ち合わせの様子をのぞきこんでいた数人のスタッフさんの頭の上にはそろって「?」が飛んでいるけれど。

 本当にそこは尊敬するしかないけれど、彼はしっかりと私のイメージするところをくみ取ってくれた。どこが代々木競技場かって……お会いしたときには説明するけど。写 真なんかアップしませんよ!

 さて、一応ウィッグも用意はしたけれど、これは《過激》な頭ではないように思えた。《一般 的な女性の髪型》からは逸脱しているかもしれないけれど。

 そこで私の「普通って何だよ!?」機能が発動する。とてもこざっぱりしているから、男ならば、むしろ社会人としてよい評価をいただけそうである。じゃあ問題ないんじゃないのか。仕事の場での女性のパンツスーツだって今じゃ《普通 》だし。いや、職種によっては厳格にNOの世界もあると聞くけどね、うへぇ……。

 思えば、今や茶髪だってすごく《普通》になったけれど、20年くらい前は相当珍しかった。いつから社会は茶髪に寛容になったのだろう(でもまあ、いまだに就職活動する学生は髪を黒くしたりするのだが)。ま、こういうのはだれかが始めて、じょじょに広がっていくわけだ。つまり私が先駆者になればいいだけのこと。美容院の方々いわく、海外ではけっこう坊主の女性もいるらしい。日本人女性って世界的にもオシャレとか言われてるわりには保守的なんだな。

 ……と、まあごちゃごちゃ考えてたのだが、「まあ、粟生さんだからしょうがないか」って、大目に見てくれ、私のことだけは!  と結ぶことにした。ほかの人のことは知らん! というか女の坊主が20年後に《普通 》になってなくてもいいよ! 私は私の道を行くだけ。

 

☆夜道を、ケータイを見ながら歩く人よ  2011.12.9

 本当に電車の中で本を読んでいる人が少なくなった。たまに見かけると、それだけでその見知らぬ 人に親しみを覚えてしまうくらいに。「サラリーマンが漫画雑誌ばかり読んでて嘆かわしい」なんて言われたのはいつのことだっただろう? まあ、スマホなるものとか魔法の板っぽいアレで電子書籍を読んでる人もいるらしいけど。でも、私が電車の中で他人のケータイ画面 をのぞき見る限りは、多くの人がメールやらツイッターやらゲームやらで…。

 本・雑誌・新聞など紙媒体の衰退、 ネット環境の発展についてはいろいろな意見がある。たとえば皆がパソコンを使うようになって漢字が書けなくなるとか、なんでもググるからアホになるという指摘も、もういささか古くさいと言わざるを得ないだろう。実際に、「紙に書く」必要性が減っているのは確かで、社会人はおろか学生にしたってどちらかといえば「パソコンで書く」技術が求められる。変換でちゃんとした表記を選択できればそれですむのかもしれない。コピぺなどに関するネットリテラシーはしっかり教育されなければならないにしても、だ。基本ソフトの使い方はもちろん、礼儀正しいメール文の書き方、検索の方法、資料の探し方等々はいまや大学の必須科目にもなっている。

 私は《なんでもすぐにググる》には否定的だが、それでも「検索」の便利さを否定するつもりはない。それまで調べなかった人が、たやすさから調べるようになったというステップもあるはず。たとえば年賀はがきが売れなくなったのだって、メールの発達とは関係ないはずだ。むしろ、メールによって年賀の挨拶をする習慣は復活したといってもいえるのかもしれないし。

 やや極端だけど「そもそも人間が文字を使うようになってからは記憶力は衰えている、以前は口伝で伝えられた膨大な情報量 のものを暗記する必要がなくなったから」なんて論もありますね。ゆえに進化もあれば退化するものもあって当然、という論。

 だけど、私が不満に思うのは、言葉が平易に簡単になっていくことだ。パッと見てわかる文章ばかり。咀嚼の必要がない。わかりやすい、といえば聞こえはいいけれど、幼稚な文章。現代の作家で好きになれる人が少ないのはその辺りが原因だ。筋書きと、会話ばっかり読まされている感じ。不思議なもので、最近はマンガの方に《文学がかつて持っていた香り高さ》《行間を読み解く喜び》を感じさせる作品が多いように思う。

 漢字が書けなくても、正しく読めて打てればいいとして。覚えなくても、目的のものをさっと調べられる技術があればいいとして。しかし、《考える》能力が退化したとして、それに対応する「進化」は何なのか。

 本だろうが友だちの日記だろうが2ちゃんだろうが、まあ好きなものを読めばいいさ。ただ、物思う時間は必要だ。夜道を、ケータイを見ながら歩く人よ。あなたはそんなにも自分ひとりを持てあましているのか。何かを見るだけで、何かを得ているつもりになっていては、あなたの時間は流れていくだけだ。沈黙の中で、自分の感受性を使ってものを思ってみる時間を、なくしてほしくない。何も《考えない》どころか、何も《思わない》人間は、馬鹿以下だ。《思わない》なんてことがあるかって? 私はすでにそういう人に遭遇したことがありますよ。恐ろしいことに。

 

久しぶりの【被災者未満雑記】その8  2011.11.30

 4.25更新以来の「被災者未満雑記」です。

 さて、3.11からもうすぐ9か月。原発事故がなんら収束していないのは周知の事実であり……日々報道される食品汚染、各地の空間放射線量 、汚染瓦礫全国拡散問題、そしてこれは大々的に報じられることはないものの口コミでささやかれる人体への被曝の影響。むしろ「いよいよコトは始まったか」という感さえある今日このごろだ。私たちはよく悲惨な事件事故を語るとき「忘れてはならない」という言葉を使うけれど、それはどういうことなのか。少なくともこの事態は現在進行形であり、折にふれて顧みるどころで済まされるものではない。「人は楽観的な思考に逃げがちだ」と、よく言われる。そりゃあ、面 倒なことは考えたくないのが人情さ。で、自分が緩んでしまわないために、私は3.11から欠かさず「被災者日記」を書いている。後から3.11から自分の行動 がどう変わったかを客観的に見直すためでもあり、また日々拾った地震・原発事故関連のニュースを記録する意味、情報を蓄積して自分なりに考察する意味もある。忘れないというのは、いつも覚えていようとすること、即ちいつも考えていることだ。

 食に関しての、現実的な話。夏くらいまで、水は国産のペットボトルを買っていたが、各地でホットスポットが見つかり始めてからはボルヴィックに変えた。我が家はこれとスーパーで汲んでくるRO水との併用だ。さらに浄水器の購入を検討中。供給を3種類にしたいためだ。どうしたって「これが絶対」と言い切れるものはない。信頼していても、後から「実は……」と覆される例がままあることをあらかじめ想定すべき。となれば、最善策はリスクを分散させることだ。ひとつの物に頼っていると、もしそれがよろしくなかったとわかった時に多大なダメージを受けることになる。

 米は、新米が出る前にまとめ買いした。それを長期保存可能な脱酸素剤入りの袋に詰めて保管。貴重な白米を水増しするため、発芽玄米(これも昨年産)とか雑穀の類を入れる。ちなみに通 販などで西日本の米を購入することもできるが、ちょっと高くはつくみたいね。今、気にしているのはせんべいとか餅など、米の加工食品だ。これはメーカーに加工時期を問い合わせる必要があるだろう。

 本当にとらなくなったのが乳製品だ。まあ私はもともと牛乳は飲まないのだが、ヨーグルトはいっさい買わなくなった。放射性物質は乳清にたまるらしいのでチーズやバターはあまり心配ないというが、チーズは外国産を買っている。特定の食品をとらない食生活も、疑問である。特にデトックス効果 を考えたときにカルシウムやカリウム、食物繊維などは必須であり……そもそも私はあまりサプリを信頼していない。カルシウム対策として重要な魚類の確保は缶 詰と、粉末状のいりこだし(これも長期保存対応)。海藻類もまあまあ買い置きしてある。ちょっと前まではノルウェーやチリ産の鮮魚も買っていたけど、最近の海洋汚染の報を聞くに、これから大型魚は避けたほうがいいかもしれない。牛肉はニュージーランド産が多いかな。

 野菜は、あまり海外産は買いたくない派。これは3.11前からその方針だ。防腐剤とか防カビ剤などに懐疑的であるため。皮をむくアボカドなんかはよしと思うけれど。まあ、なんとか西日本の野菜を買い集めてやっている。果 物は今年は輸入品のパイナップルとキウイばっかり食べてた気がする。これからの季節は西のみかん中心ですかね。本当はりんご派で、毎年今ごろは1日1個が常だったんだけれど。

 油はもうイタリア産オリーブ油、一本やりだ。 これまでメインで使っていたシソ油・えごま油などはよく調べてみないと手が出ない。放射性物質は種実にたまるというし……保留。勉強が追いついてないです。ちなみに最近「安全な食品」についてまとめたサイトなどが増えたけれど、なかには海外産だけを羅列したものもあって、それはさすがに単純すぎる気がしている。あ、今気になってるのが塩。これも調べなくっちゃなぁ……。

 

 ……と、いろいろ書き連ねたけど、私だってもちろん外食はする。そういう時には気にしないで何でも食べている。日ごろ、自炊のレベルで気をつかうのは、それでも「トータルから見てリスクを減らす」ためだ。

 「完璧に徹底できないなら、気をつけたって結局意味がない」という人もいる。何によらず、0か100か白黒ほうが気持ちが割り切れるだろう。ちょびっと気をつけることに神経つかうなら、いっそのびのび暮らしたいと思う気持ちは理解できる、だけど、それはあくまで《気分》の問題だ。本当は、やるとやらないじゃ、0と20だって違う。100でなければ意味がないとするのは、非科学的だ。

 そうだな、私はどれくらいやれているだろうか? 60くらい? だけど選択の中にも穴はあるはずで、実際のとこは50くらい?

 私の方針は、最終的には「さまざまな食材をまんべんなく食べるためにどうするか」。安全性も気になるが、栄養バランスが崩れては身体の免疫力を保てない。そして、気にすべきは放射性物質だけではないはず。自分なりの方針、選択眼を作っていくことが重要なんだ。

 

☆続・憧れの言葉に追いつく  2011.11.14

 幼いころにさかのぼるほど、超インドア派であった。小学校入学前の時点ですでに本ばかり読んでいる子で、家にある子ども向けの本という本は飽きるほど読んでしまった。それで、親の本棚で、なんとなく読めそうなものを物色する。まっさきに手を伸ばしたのが岩波文庫の「グリム童話」や「アンデルセン童話」だったのは至極当たり前、という感じだが。ただしこれはバリバリ旧漢字満載、旧かなづかいの本であった。ルビはふってあっただろう。記憶にあるのは、「心の臓」「肝の臓」などという言葉が気に入ったこと。「背嚢」はどうしてもイメージがつかめなかった。前後の文脈から何かを入れるものだとはわかったけれど、自分の語彙でそれに近いのは「袋・かばん・バッグ・つつみ」くらいで、字面 からそれに近いものを読み取ることはできなかったのだ。だけど、「カッコいい」もののような気はした。それからも、大人の本にガツガツ手を伸ばして……読んでも読んでも理解できないものが多かったけど。全体のストーリーはつかめなくても、ほんの3行とか、少しのブロックでも解読できればそれはそれで楽しいと思えた。そして、いろいろと好きな言葉を貯めていた。

 小学校に入って一番衝撃だったのは図書室の存在だ。それまで私は大きい図書館に行ったことがなかった。近所にあったのは、完全に幼児かいいところ小学校低学年くらい向けの本しかない、児童文庫だったから。

 学校の図書室で出会った本で、最初にうっとりきたことは忘れられない。ここで私は何百という本を読んだわけだが、その中の通 算ヒトケタ番台の本。タイトルは忘れてしまったけれど、児童文学者で作文教育の専門家である国分一太郎の随筆(エッセイという言葉がそぐわない)だったのは確かだ。「わたしが子どもだった時分に……」というような書き出し。この「時分に」に、心を射抜かれた! 小学1年でも意味がわかるじゃない。だけど「時に」とも「頃に」ともまるで違うこのおもむきは一体なんなのか。いつか使ってみたいと思いながら結局使えないままだが、この表現、すっかりお目にかからなくなりましたね。まあ私が読んだその本も、その時点ですでに装丁からしていかにも古くさく、だれも借りやしないのだったが。そうして、人に手を触れられないまま廃棄処分されていく本、その中に処された言葉のことを思うと、少し悲しくなる。

 「小公女」で覚えた「肩をそびやかす」というのもお気に入りだった。主人公・セーラをいじめる、学園の姫的存在・ラヴィニアの取り巻きの学友たちが、ラヴィニアに調子を合わせる場面 で使われていた。近年、児童書の仕事をしていてこれを原稿にもぐりこませるのに成功したのだが、やっぱりというか「表現が難しいので変えてほしい」と言われてしまってガッカリ。こういうの、ニュアンスでわかるはずだけどね。言葉ってそうやって覚えていくものなんだけどなあ……。

 文章が「読みやすい」にこしたことはないけれど、それは「文章を平易にする」こととは違うはずだ。その言葉から何を感じるかは人によって違うだろうけれど、でも私は「時分」のような滋味あふれる言葉を大切にしたい。古い言葉を唐突にねじこむとまわりから浮いてしまいがちだし、「あー、レトロ趣味の人ね」みたいに見えちゃったら超絶カッコ悪い! それをこなす基礎体力が必要だ。練習、練習。

 私は、父親から譲ってもらったオメガの古い腕時計を大学時代からずっと愛用している。紳士物なので、ひとつ女性らしいデザインの……ワンピースなどにも似合うちゃんとした時計を買おうと思っていたある時、いいなと思えたのがこれまたアンティークだった。つけてみると、店員さんが「やっぱり普段からアンティークをつけているから腕になじみますね」と言う。え、そんなもの? たとえば和服なんかは着慣れているかどうかで差がつくと思うけど、腕時計みたいな小さいものでも? 

 意外に思ったけれど、たぶん、そういうことなのだ。

 

 

今日より若い日は来ない  2011.11.6

 まだ若い人が「もう年ですからー」などと言ったりすることの意味が、本当にわからない。イヤミではなく、本当にわからない。否定してほしいのか? 本当にそう思っているのか。だったらやめとけ。5年前、1年前、1か月前、1日前より年をとっているのは当たり前であり、「年だ」と思ってしまったら、これから先の人生はずっと年寄りとして過ごさなければならないことになる。あるいは「(笑)」って感じなのか。労ってほしいのか?やっぱりよくわからない。今日も、どう見たって私より若い男性が「もうおじさんですから」って言うのに「そんなこと言うなよー!」「言っちゃダメだってば!」「頼むから言わないでください」と、最後はなぜか懇願に(笑)。

 私は若い日にもどりたいと思ったことは、断っっっじて一度もない。だれもが年をとるほど良くなるとは言えないけど、「これから良くなろう」と思うことができる分「未来」のほうが美しいに決まってるから。

 特に女性の場合「若さ」がもてはやされることもある。だけど、それは若くてかんわいい子の話であって……詳しく言うと「若さがきらめきとなるタイプの女性」に限ってのことである。自分をふり返ってみれば、年上の人に「若いっていいねー」なんて言われてちやほやされた経験ないもの! 

 私にとって、若さは「幼さ」であった。小学生の時から早く大人になりたくてたまらず。中高生の頃も精一杯大人みたいにあろうとしてたけれど、扶養されている自分はどうにも子どもなのは事実で時々がっかりした。中学生くらいの頃から年上に見られていたし、なんと大学生の時は10も上に見られたこともあるけど、その時私は憤慨したりはせず、むしろうれしかった。

 「若いですね」と言われたとき、相手はほめ言葉で言ってくれてると思うからいちいち引っかかるほど子どもじゃありませんよ。ただ厳密にいうと「若々しい」のほうがうれしいかな。 成虫になった今では、できるだけ一見してよく把握できないもの(=即ちナニであっても良さそうなもの)でありたいと思うくらいですよ。これは年齢とか性別 とか、もう関係ない話。

 そういえばコマツが昔、我々を組む前に一年だけ存在したバンドで (そのバンドでコマツと知り合ったのですが)、「今日より若い日は来ない」って歌っていたな。その歌詞が好きだった。

 

☆憧れの言葉に追いつく  2011.10.24

 子どもの頃から出会ってきた言葉の中で「これ、カッコイイ!」と思っているけどなかなか使う機会のないものがある。

 たとえば「共通概念としてさぁ」なんて口にするのはたやすいものだ。この手のは、中学生くらいでなんかの本で覚えて……さらっと使えちゃったりする。そもそも、これがカッコいいと思ってたことさえはずかしい。

 ずっと憧れていて今でもカッコイイと思える……賞味期限の長い言葉が「挿話」と「歌詞大意」である。「挿話」は小学生の頃に読んだ、確かクリスティの「ABC殺人事件」に出てきたはずだ。ジュブナイル版じゃなくて、大人向けの文庫。本筋の進む中、急に別 の場面で謎の登場人物の行動が挿入される、という手法……。使ってみたくて、学級新聞に連載してた推理小説「真っ黒な瞳」(こっぱずかしい!)の中で、唐突に使ってみた(ちなみに新聞のレイアウトはB4タテ。ホンモノの新聞を意識して下段4分の1を連載小説スペースにあていた)。ひとり悦に入っておりましたけど。

「歌詞大意」は、これまた小学生のとき。所属してた児童合唱団で、ラテン語の歌曲がレパートリーにあったのですが。古い言語だからか、「対訳」ではなく「歌詞大意」となってたんですね。歌詞大意。うーん、どこにグッときてるのか自分でもよく分析できないのですが、やっぱり書いてみると心が騒ぎます。

 そうそう、中学のときに井上靖の自伝的小説「夏草冬濤」を読んで、「放埒」って言葉にもきゅーんと来たのを覚えてます。これは使ったことあるような気がするけど、正直、自分の言葉になっていたかは自信がない。不思議なもので、背伸びして使ってる言葉って浮いてしまうんだよね。頼まれて、素人の小説原稿を読んでたとき、「ねめつけていた」って言葉がどうにも浮いて見えて仕方なかったことがある。周りの言葉の選びや文体からそれだけが浮いてて、「あ、この言葉、使ってみたかったのね?」って思えちゃう。

 ずいぶん前にATMで通帳+現金37万円の忘れ物を見つけたことがある。後で、持ち主からお礼状と文具カードが届いたのだけど、そのお礼状に「ご笑納ください」って書いてあるのに「わー、これ素敵!」と思った。初めて見る言葉だったので、すぐに辞書をひいた。これもね、いつか使ってみたいと思うのだけど、あきらかに書き言葉なのでシチュエーションを選ぶ。そして、まだまだ「ご笑納ください」というフレーズがしっくりくるような大人にはなれていない気がする。もっと成長しなければ。

 

アナログ趣味というわけでなく  2011.10.17

 シャンプーボトルの、ポンプヘッドを何度か押してもシャンプーが出てこない。壊れているようだ。詰め替えたばかりで、中味はまだたっぷり入っている。ノズルを外して、ボトルを逆さまにしてシャンプーを手に取る。……《このこと》が、「面 倒くさい」と一瞬思ってしまったことに、驚き、ぞっとした。

 扱いが簡便であり、また人間工学的にストレスがかかりにくい道具は有益だ。たとえば身体に障害のある人などにとっては、ことさらに。

 しかし、そうでない人々にとってはどうかな、と思う。ポンプを押してシャンプーを出すのは1秒。キャップを外してボトルをひっくり返し、手に適量 が出てくるよう注意しながらシャンプーを出し、またキャップを閉めるのに7〜8秒。その瞬間にはずいぶんかかる時間に差が あるように感じる。だけど、入浴時間のトータルから見れば気にするのもばからしいことで……それしきを「面 倒くさい」と思うのはどうかしている。

 私は「面倒くさい」と思ってしまったわけだけど、瞬時に「ぞっとした」自分は救いようがある。

 私はハンドソープとかボディソープを避けてきた。それは、手で固形せっけんを泡立てることをまどろっこしいと思うようになりたくないという考えからである。そこは意識的に、かなり前から気にしてきた。今はいきなり泡が出るハンドソープもあるけれど……よく泡立っていることと洗浄力は関連があるらしく、なにも面 倒くさくないことだけがメリットの商品じゃないんだけど……これは自分の中ではカッコ悪い。

 私は元来、効率主義だ。一分一秒を惜しむ気持ちも強い。だけど、手を動かすことを避けるのは退化につながるのじゃないかと思っているのだ。どっかり座ってしまって、サッと立てない人間になりたくない。

 そのためには、「面倒くさいと思わない」フォームを身につけることが重要だ。「面 倒くさい」と思った時に、「なんでそんなことが面倒くさいもんか!」と、かたっぱしからつぶしていけばいい。

 もちろん私は日々、便利すぎる数々の物の恩恵に授かって生きている。要点は《物の否定》ではない。《アナログ礼賛》でもない。あくまで《私》が、「面 倒くさい」と思う不快をなくすための思考。

 道具が少なくてもいろいろなことができる人間を尊敬する。一方「道具がないからできない」とふんぞりかえるくらいなら、道具を手に入れたほうがいいとも思うけれど。

 いろいろと書き連ねたが、つまりは、ガスもマッチもないところで、颯爽と火をおこせるような人に憧れているのである。本気で。

 

☆自分とは住み心地のよいもの、だから  2011.10.13

 下手って恐ろしい。しごく当たり前だが、最近痛感したことがあったので、あえて書く。もちろん自分のバンドはアマチュアのレベルであり、周囲のバンドもバカウマばっかとは言い難い。しかし、まあ結局のとこ下手でも上手でも「カッコよきゃいい」わけで。よく見りゃ下手でも、そんなこと感じさせない人も多いわけで。ただ、私が呆れたそのライブは、そこにいるのがいたたまれないくらいの代物だったのである。

 では、下手が許される場面とはどんなものだろう?

 感情を前面に出すタイプの場合。感情があふれるあまりの揺れやミス。一生懸命さ、フレッシュさがにじみ出ていて、憎めないキャラの場合。

 思い出してみると、私が見たその悪しき例は、本人が自分の下手さを自覚しきってなかったように思える。場数はそれなりに踏んでいる人。どうも「自分の《下手》に慣れきっている」のである。一生懸命やってなかったわけじゃないだろう。だけど、たぶんそれも慣れた程度の《一生懸命さ》だったように、私には思えた。

 自戒の念をこめて言う。下手な自分に慣れちゃだめだ。「いつもまあこんなもんですよ」なんて開き直っちゃだめだ。一生懸命やってるような《気がして》いないか、自分を疑うことを忘れるな。

 

《自分らしさ》からの逃走  2011.10.3

  しじゅう、《自分らしさ》から離れたいと思っている。一応なんらかのものを《作り上げたい》という気持ちはあるのだが、それと並行して《自分らしさ》を嫌悪する気持ちがある。これは、ときどき世に聞く「構築と破壊の繰り返し」みたいなカッコいいものではなくて……できれば《自分らしさ》なんていうものと関係なしに、ものを作り上げることができたらいいと思うのだ。

 そもそも、普通にやってればたいていのものは《自分らしく》なってしまうに決まってる。自分らしくならないようにするほうがよほど難しい。その中で、人に望まれる、グレードをもった《自分らしさ》であるかどうかは、また別 の問題として。たとえば、多くの人に愛される「○○節」を持ってるアーティストならば、似たような曲を出したところで「待ってました、らしい曲!」と歓迎される。そうでない場合は、言わずもがな。

 この言葉は、周囲の目を気にしすぎるとか他人と自分を比べすぎて固まってる人に向けて「自分らしくやればいいんですよ」って具合に、やさしい物言いとして使われることが多いだろう。とりわけ「ナンバーワンよりオンリーワン」という微妙な標語が蔓延する近年、《自分らしさ》=「それだけで素晴らしいこと」みたいに持ち上げる傾向を感じるのだが、素晴らしいというより「とりあえず、当然のこと」って段階の話じゃないかなぁ。

 先にいった、グレードのある《自分らしさ》とて、そこに進化を伴わなければ「マンネリ」と言われる。マンネリが芸になるのは、これまた限られたごくごく一部の人。

 自分のような凡人は(自虐ではなく客観的にいっております)、意図的に更新する努力を怠ってはならない。ある部分に《自分らしさ》が見えてしまって、それがちょっとばかし評価されるようにでもなったあたりで、冒険しないといけないと思う。そういう考え方に慣れてしまって、いまではだんだん「慣れた」と思うとムズムズして居心地が悪く感じるようになってしまった。いま、具体的に3つくらいムズムズきてることがあります。早急に、手を打たねばならない。打っちゃいますよー。

 

ラーメン男とかパン女とか  2011.9.27

 最近多いラーメン好きも「B級グルメ」ってやつに入るのだろうか。思うに「B級」とか言ったところで、それは「グルメ」にかわりがなく、グルメとはほど遠い私はそれを遠巻きに見ている。

 私は基本、自炊生活だ。おっと、フリーだからできることでしょ、なんて言ってもらっちゃ困る。料理ってそんなに時間のかかることじゃない。たとえば子どもを持つ人……ある程度の品数と量 、栄養バランスをかなり気にしなければならない人は別だけれど。一人や二人分の食事を作るのに、そう時間がかかるわけがない。できないのは、ただやり慣れてなかったり面 倒くさがりなせいだ。「一人分を作るのは、手間を考えるとかえって不経済」みたいな言い方をする人もいるけど、そりゃ屁理屈、言い訳にすぎないと断言しよう。

 友だちと外で食事をするのは楽しいけど、一人の時は極力しない。行くとしたら富士そばくらいか。あとはファストフードで急場しのぎに小腹を満たし、帰宅してからまともなものを食べ直す。

 さて、そういう私にとってよくわからないのがラーメンだ。私の感覚では、ラーメンに600円以上払うのはかなり抵抗がある。ラーメンは500円くらいでおさめたい(替え玉 無料のところで2玉も食べればなお満足だ)。……などと思うのは、たぶん私の満足する「おいしさ」のハードルが低いからで、《B級》グルメの方々は、もっと深淵な味の世界を楽しんでいるのであろう。ラーメンに800円とか!? それがケーキセットのようなものかなと思うと、なんとなく理解できるような。食事じゃなくて「趣味の一環」と思えば、理解しやすい。

 食べ物のほとんどをコンビニで買っている人や、しょっちゅう牛丼やラーメンを食べている人のことを、私はブルジョワだと思っている。「今日の昼飯は280円の牛丼しか食べられない」なんて貧乏を憂えている「風」の人もいるけど、いやいやそんなの本物の貧乏じゃありませんからね。きょうび産地を気にして1個50円もするド高めの卵を買ったりすることもある私だが、コンビニで60円とかするゆで卵を買ってる人に「お金持ち〜」と言われたくはない。居酒屋で、ザクッと切ったきりのキャベツにいくら払ってるかを考えたら、1個500円のキャベツだって高くない。

 おっと、外食批判をするつもりはないのだ。ちょっとお高めの店だろうが、ファミレスだろうが牛丼屋だろうが、外食は「ハレ」だからね。だから外食の反対語は自炊(「内食」って言葉はどうも好きになれない)ではない、と私は思う。四の五の言わずにハレを楽しめばいいのよ。外食主体の人は、金と「ハレの感覚」を浪費している。

 ラーメンとカレーばっか食べてる男、パンとお菓子ばっか食べてる女はコドモだと思う。好きなものだけを食べて生きてて幸せかもしれないが……大人になって得た自由ってそんなものなのか? ずいぶんとお金はかけてる割に貧しいね、と思わざるを得ないのが正直なところ。

 

☆肉体改造は一夜にしてならず  2011.9.13

  巨乳は眺めてる分には楽しいけれど、そうなりたいと思ったことはないし、むしろ世話が大変だろうと思う。また長くつきあううちに貧乳だから似合う服の良さも心得ているつもりだ。しかし、そうだな、胸がもう数cmあったらあんな服もサマになろうなあ、と思うことはある。もっと大まじめに貧乳を苦にしている人の中には、いろんな科学的な方法を試みている方もあろう。あまたあるダイエット用品も然りでどのくらい効果 があるものかは知らないけれど、胸を大きくする機械とかマッサージクリームとかも売っているわけだし、もっと確実な手段では手術を施す人もいる。ただ、こういったものは、私の美学には合わない。なんて偉そうな言い方をしてしまったけれど、私は手っ取り早そうなものに疑いを持つ癖がある。もともとの体質+それまでの生活の仕方や環境の中で作られていった肉体にはそれなりの意味もあると思うためで、それを簡単に否定してしまうことに抵抗があるのだ。

 また、胸に限らず、腹の脂肪を減らすとか美顔マッサージ器といった「機械」が嫌いなんだ。それを使っている状態がどうにもマヌケにしか思えないためだ。人前でやるものじゃないからどうでもいいっちゃいいのだが……いや、人は一人の時が大事なんですよ。ねえ、一人で暮らしてるからっていって、せんべい食べる時にゴミ箱の上で食べちゃダメですよ、お嬢さん方! 

 で、手っ取り早いのが嫌いな私は、遠大な計画に走る。

 まず、胸筋を鍛えようと考えた。上が育つ見込みがないなら、土台を育てて底上げしようという理屈は間違ってないはずだが……これは第一次失敗中です。腕を使うトレーニングになるので、恐ろしいほど三角筋ばっかり育ってしまった(私は元来、筋肉が非常につきやすい)。大胸筋全体を鍛えるようシフトチェンジ中ですが、これ以上三角筋がついたら困るなあ。もともとノースリーブがかわいく着られない腕なので、慎重にやらねばいかん。

 そして、もうひとつ。胸がないないという人は脇に流れてる脂肪をかき集めよ、というのはよく言われるところ。それを手で寄せ集めてブラジャーに詰めこんでるうちに、脂肪が胸に移動してくるという説である。

 自慢じゃないが、私は脇に全然脂肪が余ってない。じゃあ、寄せ集められそうな部位 はないのか? いや、太股と尻にはあるじゃないか。つまり太股の脂肪を尻に 持ってきて、それをまた上のほうに持っていけば、いずれそれを胸に移動させられるのではないか。

 そんな馬鹿な、とは私は思わない。日本中であと3人くらいは、これに取り組んでいる人がいるのじゃないかしら。まあ見ておれ。4年くらいやったら、効果 が出てくるんじゃないかと思う!

 

☆公開される日記  2011.9.6

 いまほど「公開される日記」が多い時代もなかろうなと思う。

 おっと、もちろん、はじめから人に読まれることを意識して書かれたものが「ホントの日記じゃない!」というつもりはない。本になっているような、作家や著名人の日記だって、実は後に発表されるだろうことをわかって書いているものがあるし。まあ、「公開される日記」は書き手が有名であろうとなかろうとおもしろければいい。おもしろければ知人以外にも読者が増えて、図抜けたやつは出版されたりもするわけだ。

 以前に、素人の「何食べた、おしかった。どこ行った、おもしろかった」的なブログほどつまらないものはない、と書いたことがある。それが友人のものであってもまるで惹かれない、と。うっかりすると、書くことで食っている作家のエッセイでも、これと大差ないのが堂々雑誌に載ったりしていて萎えることもある。どこか一箇所くらいハッとさせる、読み手をおもしろがらせる……「当たり前じゃないこと」を書いてほしいものだ。一応プロである作家は、「当たり前のこと」でもどうにかこねくり回して紙幅を埋め、さもおもしろいことを言ってるように見せるくらいの技術を持ってるが(いや、私のハードルは高いよ!)。一方、記録に徹するならば、徹底したボリューム感と執拗さが要る。蓄積した時に、「おお!」と思わせる迫力を持つことがある。

 赤裸々に心情を吐露する日記がおもしろい、とは言わない。しかし、たぶん、おもしろくない日記を公開している人は、「赤裸々に吐露する」場を持っていないのだ。

 もし、自分だけしか読むことのない日記をつけた上で、「公開用の日記」を書くならば、それはずいぶんと違ったものになるだろう。あるいは「自分しか読むことのない日記」をつけるのと同じような、一人で考える場を持てるならば。だけど、それは「公開用」のスタンスに慣れた人には難しいだろう。自分の考えていることがわかりますか? 何も考えてないと思っている人は、自分がうっすら考えていることに気づいていないだけだ。表面 の土だけを、さらさらと撫でているのだ。力を入れて、スコップをざくっと入れる作業をしていないと、土はどんどんかたくなっていく。