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☆自立した甘えん坊であるために  2012.8.24

 私は甘えん坊です、と宣言すると意外に思われることがある。まあぱっと見、甘えん坊には見えないだろうなとは自分でも思う。世で甘えん坊と見なされるのは、可愛らしさ全開で、そして人に頼りがちな感じな人であろう。自分はどちらでもない。だけど、根は間違いなく甘えん坊である。

 私は、一人でできることは人に頼らずにやりたいほうだ。いろんなケースがあるので、必ずしもこれこそが《大人の最善》とは思っていない、好みの話。頼られるのは嫌いではない。だけど、自分の《人にあまり頼りたくない癖》をさっぴいても、頼りすぎのように思うのは《甘えん坊》というより依存心が強い人だととらえている。まあ、甘えん坊にしろ依存心の強い人にしろ、頼る相手とタイミングを間違えてはならないと思うのだ。

 

 私が甘えん坊を《意図的に》発動するタイミングを考えざるを得なかったのは、下の子だったせいだろう。下の子のほうが観察眼が育つとは一般 によく言われること。家庭によって条件は異なり、一概には言い切れないだろうけれど……言い換えると、上の子でなくても親から「あなたが一番」という視線を注がれて育った人は、タイミングを考える必要などなかったと思う。我が家の場合は、母親の関心は強く姉に注がれていたため、私は早くからいかにしてかわいがられるかを考えるようになった。一番の狙い目は、母親が姉を叱ったタイミングだ。姉は超のつく品行方正なよい子だったので、姉が叱られる場面 は少なかったのだが。しかし、成績至上主義の母親は、それに関してはかなりヒステリックに姉を叱った。叱った後の後ろめたさを、母が何かで埋め合わせたいと思っているのがよくわかるものだから、その機を逃さず私は母の膝に甘えにいくのだった。つまり「かわいがりたい」ニーズを察知して出向くのだ。年がら年中、闇雲に甘えん坊をやっていると、うっとうしいと思われるだけなのは承知済み。

 

 要するに、相手のかわいがりたい気持ちを満たし、かわいがることを楽しませるのが良い甘えん坊なのである。(まあ、ひと目みるや「まあかわいい」と飛びつきたくなるような愛らしい人はこんなことを考える必要はないのだろうけれど)

 

 相手選びも重要だ。ここは仁義、マナーの領域で、他人の《お母さん》に甘えすぎてはならない。領地侵犯しないってこと。それから当たり前のようだけど、仕事のことは仕事領域の人に、プライベートなことはプライベート領域の人に甘えること。見境なく依存せず、自立した大人でありつつ《甘え心》を満たすには、こうした心構えが必要なのだ、にゃー!

 

☆ささやかなお店の素朴でまずいお菓子  2012.8.24

 先日、炎天下のもと、かろやかに道に迷っていたら、一軒のどうしようもなく古くさい洋菓子屋が目に入ったので、ここで道を訊くことにした。知人の店を訪ねてみるつもりだったので、ついでにちょっとした差し入れを買うにもちょうどいいなと思ったのである。

 古くさい洋菓子店は、たいてい私の嗜好とマッチする。ギリギリ、女性誌の町歩き特集などで取り上げられない、「レトロでオシャレ」と言われないような店。あ、これ、ひねりまくった《選民意識》で言ってるんじゃないですよ。私の好みは、よく言えば素朴でささやか、悪くいえば現代では貧乏くさすぎるのだ。

 

 ショーケースの半分はケーキ。といっても4種類くらいしかないし、ケースはがら空きだ。残りの半分はクッキーで、こちらは10数種類もある。いずれの袋も手の平におさまるほどの少量 なので、いくつか買ってみようと思った。しかし、ややタイミング遅れて姿を現した店主を見て、絶句。なんというか……おじいさんというほどの年ではないその男性はずいぶんみすぼらしいというか、清潔感がない! これは珍しいケースである。こういう店というのは、たいてい古びてはいるけどそっけないほどに清潔であるはずなのだ。

 

 それでも4種類のクッキーを購入して店を出ると、この店にはもうひとつ間口があったのに気づく。反対方向から歩いてきたのと、日除けがかかっていたため見えにくかったのだがそこのショーケースにはなんといなり寿司や和菓子が並んでいる。これを他人に差し入れるのはまずいのではないかという気持ちになり、試食することにする。ふだん、人に何か差し上げる時は必ずクオリティを確かめてから……という手順を踏んだりはしてないのだが、さすがに訴えかけるものがあった。道すがら、見つけたベンチに座って缶 コーヒーとともに、「ラング」の封を切る。 「ラング」って、ラング・ド・シャのことだよね。それにしては、けっこう分厚い。自分が小学1年のとき、姉といっしょに初めて作ったクッキーを思い出すわ……などと考えながら食べる、なんだか微妙だ。まずい、とは言わない。まあ、おいしい。だけど、差し入れに持っていくボーダーラインを超えていないことは明白だ、食べてみてよかった。見た目だけでなく、その味は《小学生女子が初めて作ったクッキー》そのものなのである。同じ分量 、同じレシピで作っていても、長年のうちにおいしくできるようになっていくものだ。しかし、この人の場合はどうやら、いっさい上達することがなかったに違いない。味を守り抜くでもなく、未完成のままで進化しなかったという……けっこう珍しいケースに思えてくる。店主はひょっとして、洋菓子が好きじゃないのではないか。 ケーキがあれほど少なくクッキーの種類が多すぎるのも、クッキーは「混ぜるものを変えるだけで種類が増やせるから」ではないかと想像したりする。もしくは、売れ残ってもクッキーのほうが賞味期限が長いから?

 

 あの店で買い物をすることはもうないだろうと思う一方、少しおもしろい気持ちで帰る。しかしね、「ラング」は小学生女子の手作りレベルに達していたが、他のはさらに微妙だったのだ。「シトロン」は、シトロンらしき味も香りも一切しなかった。「ローズマリー」は、残念ながらまずかった(笑)。苦いところがあったのは、ベーキングパウダーがかたまっていたせいじゃないだろうか? いや、一袋が少量 なのが助かった。まずいくらいのことで食べ物を捨てるのが 嫌いなので食べきったけれど、今度は「小学生男子が、好きな女の子から初めて手作りお菓子をもらったならば」という設定を作らないと厳しかった。さて、冷蔵庫にもう一袋、「シナモン」があるのだけど、いかがなものかしら……。

 

 日ごろ、「ほっこり」アピールのやかましい小説やマンガにありがちな、揃いも揃って「小さくて温かで、でも手がこんでいて、魔法のようにお客様にぴったりのものが出てくる店(でももうかってる)」に、「そんなんで店が回るわけあるかぁ〜」と悪態ついてる私としたことが、《小さい店=健気な良い店》マジックにはまっていたとは反省反省。

 

不自然な感じでお願いします  2012.8.13

 美容院に向かう途中、歩きながら、前髪のデザインを考えついた。漠然と《形》がひらめいたのではなく……詳しく言うと「後ろとサイドと前髪の雰囲気をつなぎ、かつ自分が着たい洋服のイメージすべてとつなげる」ことを意図した上の、解決策からはじき出された回答だ。デザインには意味が必要。「おもしろい形作ろう」ありきじゃないのよ。理由と理想があって、それを具現化するってことにマジメに取り組んでいるのだ、私は。そしたら、たまたまお手本にない形になるだけなのだ。

 左半分の前髪はまっすぐにカット。ただし、途中一房だけ長く飛び出す部分を作ってほしい。凸 型に。そして、右半分はシャギーを入れてほしい。「これを、なるべく不自然な感じで、お願いします」と、美容師に告げる。美容師は「不自然に!っていうオーダーは聞いたことがないですよ!」とげらげら笑った。

 うん、自然に……っていうよね。しかし、自然にってなんだろうね? そもそもすべての人の髪型は不自然じゃないのか? 自然なのは、ひげも眉毛も毛髪もぼうぼうの人だけですよ。「自然に」 なんて、大いなる自然の前でちっぽけな人間が軽々しく口にすべきものだろうか!

 

 ……と、口から先に生まれた子なものでズラズラしゃべってしまったのですが、この美容師は非常につき合いが長いので私の狂ったトークには慣れっこで、「そうですねぇ、なるほど」なんて流しておりました、さすが(こういう話は、なんというか実戦ではなくて、素振りみたいなものだからね)。

 

 それにしても、動物の中で毛髪のカットを必要とするのは人間くらいなのか。不思議なことよ。文明をつかさどる人間として、これからも人工的にいこう(素振り)。

 

考えすぎのススメ  2012.8.13

 「考えすぎ」という言い方がある。何かに悩んでいる人や、先の先まで心配しすぎな人に「気を楽にせよ」という雰囲気で使われがち。

 しかし、悩み続けて答えが出ないのは、浅い考えのまま同じところをグルグル回っていて時間だけがかかってるせいということも考えられる。深いところまで到達できてない、そういう意味ではむしろ《考えなさすぎ》? 本来は「考えすぎだよ」ではなく、「よっしゃ、もっと考えて考えて考え抜け!」と声をかけるべきシーンもあるかもしれない。

 と、こだわるのは、私は考えることが好きだからだ。「考えすぎ」という言葉には、考えることが良くないようなニュアンスがあるから、よほどの時でなければ使うに当たらないと思う。本当は、ものごとを考えて考えすぎることなんてないと私は思っている。考えることに疲れるのは、運動不足の人がちょっと歩くと疲れるのといっしょだ。考え慣れれば、なんてことはない。見つけてしまった不安は、完全に忘れることはできない。忘れたふりをしても心の中に澱は残る。解消の糸口を見つけるには、考える以外ない。

 

 考えているつもりでも答えが出ないのは、考えを進める方法がわからないせいではないか。考えがグルグル回る人にまずお勧めするのは、問題点を文字にして書く方法で、これをやってみると「考えがまた同じところに戻った」ことが一目瞭然なので、少なくとも長時間、日数をかけて小さな円を描き続けることはなくなる。そこに書いてある《次》が見つかるまで、考え続けるのみである。

 

 また、私が心理・哲学・思想などいわゆる人文学系の本を読むのは、考え方にはどんなものがあるかを知るヒントになるからである。実用。すべての学者をありがたがるわけではないけど、《考える》専門家である人の言葉にはハッとさせられることがたくさんある。もう一度言う、これは実用! 哲学というものを知りもせず、文学かぶれの人がこねくり回す気取った屁理屈みたいに思う向きもあるようだが、哲学は基本、ものを考える助けになるものだよ。考え方を縛るルールではない。なんだかさぁ、「オレ流」なんて言葉が流行りまして……自己流肯定して自信がもてるならそれもけっこうだけど、滅多な人が使える言葉じゃない。不勉強の隠れ蓑にするのはカッコ悪いこと甚だしい。

 

 そういえば、以前まったくがんばり屋じゃない人に「私、『がんばらない』ことにしたんです」と笑顔で言われてドギモ抜かれたっけな。流行りましたね、「がんばらない」ってフレーズ……。いやだなぁ、もし、面 と向かって「私、『考えすぎない』ことにしたんです」とか言われたら、私は仲本工事ばりにスッ転ぶからね! 派手にね!

 

☆オリンピックをチラ見して  2012.8.10

 ふだんはテレビはまったく見ないけど、深夜作業の間にだれかが戦っている姿を眺めるのが好きなので、ワンセグでオリンピックをチラ見している。スポーツはおおむね好きだ。戦いが好きだから。

 以前、高校野球の甲子園大会の取材に行っていた時、私が特定のチームを応援しないのを不思議がられたことがある。「どちらかに肩入れしながら見たほうが絶対におもしろい」……とは、私と違う《ホンモノのスポーツライター》の方々の弁なので、たぶんそっちが主流なのだろう。だけど私には野球のように見慣れたスポーツでも好きなチームはありはすれ、絶対的にどっちかを応援しながら見るということはない。どんな戦い方をするかを見るかが最大の楽しみどころだから、見たいのは《いい試合》であって、必ずしもごひいきが勝つこととイコールではない。

 予備知識がなくとも、見ているうちにどちらのチームにも気になる選手が出てくるし、自分なりに見どころを発見していくのがおもしろい。だから、あまりに日本人選手を応援する姿勢が勝ちすぎた実況はやかましいと感じるし、正直スポーツ中継中はだれそれの感動秘話やら「信じましょう」とか「苦節○年」的なことばかり言ってないで、その競技の見方を伝えてほしいと思う。また、地上派放送枠には限りがあるし当然CM収入との兼ね合いもあろうが、人気スポーツ及びメダルが取れそうなものに中継が偏るのもおもしろくない。せっかくの世界的な祭ならば、《日本での》マイナー競技を知らしめるスポーツ振興の機会としてほしいところだ。

 

 先日『炎上 1974年富士・史上最大のレース事故』(中部博・文藝春秋)という本を読んだ。1974年の国内四輪レース。2人の死者を出したが、多くが語られず……タブー視されてきたといってもよい事故の全貌をあきらかにするノンフィクションである。40年近くも昔のことだ。わずかな資料を集め、丁寧に分析し、現場に居合わせたスタッフ、レーサーに取材を試みながら、しかし著者が徹底して崩さないのが「これは犯人探しではない」という姿勢だ。もちろん事故のきっかけとなった行為を掘り下げることが主旨のひとつではあるものの、それは《当時のレース事情》に起因するものだと著者は語る。なるほど、スポーツは時代によってルールや判定の仕方も変わるし、社会的な環境にも影響を受けている。そうした背景を丹念にひもといていく本書を読み進めるにつれ、ひとつのスポーツの成熟の歴史が理解でき……いわば環境自体の未熟さが悲劇を生んだことが浮かび上がってくる。ほぼ知識のない私が競技に対して興味を持てるようになる……こういうのが良著である。

 

 渾身のノンフィクション1冊分の情報量に対抗せよとは言わないが、お涙頂戴のエピソードばかりじゃなくてスポーツの奥深さ を感じさせる解説、報道記事が読みたいものだ。

 しかし、フラットに眺めていると、体操やシンクロのように技術点だけでなく芸術点が問われる競技などは、演技の進化などについて知りたい気持ちがわく。たとえば足が揃っているほうが美しい、なんてのはだれでも共感できるとしてだ。それがいかに難しいこととはいえ、水面 から突き出た両脚をガニマタにしてるとかおっぴろげてるとかって、私には美しく見えないのですけどね。 私の目が不純? いやいや、現代に生きるには奥ゆかしすぎるのかしらん。

 

《嫌い》の理由  2012.7.30

 日々を楽しく生きていくには、何が必要か。人はよく「仕事はFUCK」と言い、「好きなことだけをして暮らしていけたらいいのに」と言ったりする。うん、もっともだ。「嫌いなこと」を排除すれば、楽しくなる。この考え方は実用的なものだ。私の場合、「《好きなこと》を仕事にしよう」と思ったことはない。傍目にはそう見えるのかもしれないが、現在ライターを生業としているのはものすごく偶然で(その中に必然があったことは認めるが)、そもそもは「苦手なことはすまい」から始まった結果 、こうなっている。そして、どんなに忙しくても「仕事はFUCK」と思ったりしないのにも理由はある。それは、私がなぜ働くかっていったら、「自分で稼いで一人で暮らしたい」という望みが大きいからである。小学3年の時から、ずっと一人暮らしに憧れていたのだから。

 嫌いなこと、嫌いなもの、嫌いな人。そうした存在があるのは当然のことだと思う。嫌いなものがあることを、悪いことだと思う必要はないと思っている。自然なことだ。何により好き嫌いがさほどない人、非常にはっきりしている人……その違いはあろう。それはどっちでもかまわない。

 私が思うのは「嫌いな人をなくしてみんなと仲良くしましょう」ってことじゃない。

 ただ、嫌いなものに関して、その詳細を考えて理解することは自分の幅を広げることになると思う。徹底して核が嫌いなのか、アウトラインが嫌いなのか。それを知るだけでもつきあい方が変わるはずだ。

 ひとつ、生々しくない例を挙げてみよう。私は子どもの頃、食べ物の好き嫌いがとても激しかった。でも、それは些細なアウトラインの部分が嫌いなことが多いとだんだんわかるにつれて、なんでも食べられるようになっていった。ずっと食べられなかった納豆を克服したのは二十歳の時で、「そういえば私は豆は大好きなんだ」と思ったら食べられるようになった。苦手なのは糸をひくところだから、なるべく粘りが発生しないように食べてみたら(これが無粋だといわれますがまあ大目に見てほしい)、むしろ好きといってもよい。

 

 「嫌い」とざっくり言い放ってしまうと、それとの関係性は断たれる。細かく見ていくと、「嫌い」の中にもグレードがあるはずだ。すごく嫌い、嫌いなほう、我慢できないでもない、とか。このグレードを見極めることで、不要に何かを憎まずにすむこともある。「嫌いだけど一目置いてる」とか、そういうこともあるでしょ? 考えた結果 、何もかもが嫌いなものはそれでいい。繰り返しになるけど、嫌うことは悪ではない。嫌いなものを(その理由も含めて)はっきりわかることによって、嫌いなものに近づかないカンが養われるのは効率的だ。

 

 おもしろいのは《嫌われ者》にも定番があるところだ。女性に虫が嫌いな人は多いが、なぜ、どこが嫌われるポイントなのだろう。生命を脅かしやしないのに? 最たる嫌われ者、ゴキブリに関しては「あのヌメヌメ光っているところが嫌い」などと言われるが、私としてもなぜあれが気持ち悪いと思うのか、もっと突っこんで考えてみたい。世の中の評価に、ハナから影響されている気がしないでもない。世の中ではそうしたものだという通 例に沿って、見かけたら「ギャーーーッ!」と叫ぶように刷り込まれているのではないか? いろいろ検証を重ねた結果 、実は「あらまぁ……いやーねぇ」とつぶやくレベル(=嫌いのグレード・小)で済むこともありうる。これらをはっきりさせることによって、対し方が変わり、それは地味に生活に影響を与えるんじゃないかな。ゴキブリのことだけじゃなくってさ!

 

☆ダイエットに関する、私の王道的なつまらない意見  2012.7.25

 ダイエットに勤しむ人は「○kgやせる」という目標を立てるようだが、本当は体重というのはさして重要ではない。「体重より見た目」という考え方、けっこう浸透したようで意外とそうでもないんだなあ、と思うことが多い。まあ体重はひとつの目安にはなるけれども、同じ身長・体重でも見た目はまるで違ったりするものでしょ? それは同一人物の中でも起こることで。

 私はダイエットは一度もしたことがない。というといかにも自慢のようだが、《身体のコントロール》のための食事には非常に気を配っている。それは年がら年中「やせなくっちゃ」とつぶやいている人の、おそらく何倍も。どう気をつかっているかといえば、つまらないくらいの王道です。「炭水化物、野菜、たんぱく質をまんべんなく」。ひとまず、組成が大事だと思っているからだ。

 理想の体型というのはそれぞれに違うし、時代によっても異なるものだ。でもねえ、多くの男の人が言う「女の人はちょっとくらい肉がついてたほうがかわいい」は気休めじゃないと思いますよ。私、ズバリ男性に「アオウさんはもっと太ったほうがいいと思う」って言われたことありますもん!

 さて、例の身長と体重だけの計算による「BMI値」というものを基準にすると、確かに私は「やせ」のゾーンに入る。その立場から見ても、日ごろ観察していると「やせ」にもいろいろなタイプがいると感じる。例えば私はやせてはいるが、《華奢》ではない。まず骨太である。肩幅が広い。筋肉質である。これはもう、持って生まれた体質のせいである。中学の部活以来、まともな運動なんかしていないのに筋肉が全然落ちなかったのは不思議としか言いようがない。そしてちょっと運動すると、すぐに筋肉が増えるちゃうタイプ。

 肩幅の広さと、肩から腕にかけての筋肉のせいで、ノースリーブが似合わない。どうにも勇ましく見える。だけど、これは……卵が先かニワトリが先かわからないけど、よしとすべきことなのだと思っている。可憐な女性に憧れもするけれど、私はやはり何かの一大事とあらば20〜30kgの米袋は軽々と、また怪我人病人の一人やそこらは担げる人間でありたいと考えているからだ(ちなみにふくらはぎもすごいよ)。

 つまり、私が《身体のコントロール》を考える時に、一番に考えてしまうのは機能性なのだ。あ、もちろん美しくありたいという気持ちはあります。ただ、私にとっての美とは、機能性を抜きに考えられないということで。そう、この機能性から考えても、私は心から体脂肪を増やしたいと思っているのだ。だって、冬の寒さに耐えられなさすぎるのだもん! 私のド根性をもってしても、身体が言うこときかなくなるんだもん! こう言うと多くの人は「食べてゴロゴロしてりゃあ体脂肪くらいつきますよ」って言うんだけど、そこが人間の体の神秘。うちの両親はガリガリにして高脂血症と糖尿病なんだよねー。二人が二人とも、脂質が身体の外につかないで血管の中に流れこむタイプ。その遺伝子をもれなく受け継いでいる私としては、コレステロール摂取には配慮が必要なのだ。

 

 ダイエットという言葉の意味は「健康的な体型になるための食餌療法」であり、本来は「やせる」だけでなく、やせすぎの人が適度に太ることも含まれていると読んだことがある。私はやっぱり女性に目先の体重を落とすだけのために、お米を食べないとか肉を食べないといった極端なダイエットはしてほしくない。きっと、しわ寄せが来ると思うから。

 

 そういえばこないだ、「やせてますね」と言われて、「でも、別にやせてて得することってそんなにないですよ。すき間に落ちたモノが取りやすいくらいかなー」なんて言ってたのだけど、ひとつありましたわ!

 ふと思い出したんだけど、小学校や中学校のときの通知表の先生がコメント書く欄。あれによく、「細い身体で〜をがんばっていましたね」みたいに書かれることが何度かあって。つまり、細い人は、ちょっとがんばってるだけで、よりがんばっているように見えるのではないか。実は評価が上乗せされてたのじゃないか。今もそう見えているのだったらラッキーだな。

 

☆どうにか苦境を乗り切ったーレポート  2012.7.16

 3.20に「この2か月くらい史上最高に忙しかった」って書いてたくせに、いやはやそれ以上に忙しかったこの2か月。どうなってんだ、こりゃ! 5月は劇団我々の稽古がでかかったんですけど、6月は膨大な仕事を短期間でブッ飛ばさなきゃならず。それはスタートから崖っぷちという強行スケジュール……。でも、どういうわけか、あんまりこわくなかったんですね。もともと私は神経がよく言えば太く、悪く言うと鈍いほうなのですが、それにしても自分でも「おや?」と思うくらい落ち着いていた。たぶんこれは、今年の初めにゾッとするような激務を乗り越えていたからなんだろう。

 多くの人が気づいていることで言わずもがなとは思うけど、一応書いておくと。面 倒な仕事はたいがい、始める前の「やだなー、めんどくさいなー、やりたくないなー、遊んでたいなー」という感情との戦いが一番のハードルである。やり始めて没頭しちゃえばなんてことない。だけど、その前に「まあ、お茶を飲んでからやろう」とか「風呂に入ってからやろう」とかもちゃもちゃしてるせいで時間をロスしがちで、これが後々響いてくる。

 今回の戦いに際しては、ここをきれいにカットすることを目標にした。かなり意図的に。「やだなー」と思わない、と決めたら思わない。メンタルのコントロールが勝負を決めると思った。メンタルは強い弱いじゃなくて、いかにコントロールするかである。何もかも、使いようひとつ。

 私は日ごろ、余裕ぶっこきまくりで「あとでスピード出して辻褄合わせりゃいい」と思っちゃうタイプ。しかし、今回は「あとで」もクソもない状態、ちょっとでも緩んだらスケジュール全崩壊なので、完全に時間で切ることにした。「ご飯を食べ終わったら15分休憩してすぐ仕事に戻る」とか。ただしその日によって変えていい。そこは自分の調子を見ながら。外から帰ったら、まずまっすぐPCの前に行って立ち上げるというのもルールにしていた。

 進行表を作って毎日ノルマは決めていたけど、イレギュラーな事態は起こるから遅れが出ても悲観しない。これはとっても大事だ。悲観的にならないためには、ただノルマをズリズリ後ろに押していくんじゃなくて、最善策を考えて仕切り直す。順番を入れ返るとか。周辺の人に細かく進捗状況を報告するのも良い。後ろめたさがなくなる。

 さきに「やり始めれば没頭する」と書いたけれども、もちろん、1日のうちには何度も集中力が切れる。連日18時間も仕事やってりゃ、肉体的にも疲れる。そういう時は、ふと立ち上がって隣の部屋にばたーんと倒れに行き、そこで毛布もふもふしたりこぐまたんをかわいがったりネコロボで遊んだりしてから(たいてい10分くらい)、特に「やるぞー!」とか気合い入れるでもなく、おもむろに起きあがる。この起きあがる時にね、身体をごろーんごろーんと揺らして起きあがりこぼしみたいに反動つけて起きあがるのが良かった。ここまですべてを、一連の「運動」としてとらえる感じ。その間いっさい何も考えないの。「もふもふにゃんにゃん楽しいねー」だけ。

 実際、いま向かってることは自分が選んだことなのだという自覚を持つ。やらされてると思っちゃったら、やってらんない。厳しいスケジュールを憎むのは非生産的で、何も生まれない。そうだな、もし憎しみを原動力にするのなら「終わったら○○してやる!」みたいな具体的な構想が必要かも……。

 毎日のガス抜きは徒歩1分のスーパーでの買い物。基本は自炊ですからね。外食は栄養が偏るので、籠城生活にはよろしくない。カレーくらいなら下ごしらえ10分でできるでしょ。外食のほうがより時間をロスすることもある。あ、でもこれは私の感覚だな。自炊→片づけがストレスになる人は外食のがいいに決まってる。

 ごくごく最小限の「自分をご機嫌よくさせる要素」を、毎日ちょっとずつ与え続けることが大切だった。コンビニに極力近寄らなかったのは、本や雑誌の誘惑があるからだ。駅を通 過する時は、本当に息を止めるくらいの気持ちで本屋の前を通り過ぎた。棚を見たら最後、「とりあえず買っとくか」となり、「1冊くらいは読もっかなー」(以下略)となるのは目に見えてるから。そこまでご機嫌にさせちゃうと、破滅の一途ですからね。

 買い物に出て、青空を眺める時、たびたびこんなふうに思った。「空は青くて、自然は豊かである。どうして人間という生物が生まれ、こんなふうに街をつくり文明をつくったのだろう。そしてその、歴史的な最先端の時代に生きているのだわ。おもしろいな。不思議だなあ」。こう思うだけのことが、息抜きになってしまうのだ。私はやはり楽天的なのかな。

 

なぜ私は「美白」に違和感を感じるか  2012.7.10

 前々から「美白」というものに、ざわざわした気持ちを持っていた。

 本格的な夏を前に……いよいよ梅雨明けも近いという雰囲気の日差しを浴びつつ、自分がそう感じる理由を掘り下げてみようと思った。

 まず、言葉が素敵じゃない。冷静に見ると意味不明だ。造語にもよくできたものがあるけど、これはなんだかチョロい感じがしないか。

 春先から全身を日差しからカバーリングし始める人の、出で立ちが嫌いという意見はよく聞く。アームカバーがどうのこうのではなく……ひとつのアイテムでは語れるものではなく、「カバーリングしてます」という風情がダサいこときわまりない。「美」に対する意識が出発点であるならば、あれをもっとスマートかつエレガントにやる術を追究しようという気にならないのが不思議だ。

 と、ここまで考えて、あの格好に嫌悪を感じる理由を2つ見つけた。

 1)舞台裏的な姿を堂々と見せている点。それにたしなみのなさを感じる。

 2)ありがたき太陽の光を全面的に拒絶しているように見える点。

 

 何を機に美白がもてはやされるようになったのか忘れたが、いまや、美白はマニアックなゲームになっているような気がする。もちろん、美白と自分のイメージ、ファッションとの関係までを考えて理想の白い肌を追究している人もあろうけれど、なんとなく世の、広告業界の仕掛ける美白推奨に巻きこまれているだけの人も多いのではないか。つまり、健康番組を観て、納豆やココアを信仰しはじめるのと同じような。

 自分に関していうと、私はもともと黄色の強い肌。そして色素は沈着しやすい。丈夫な肌である。丈夫ゆえにまったく気を遣わず、寝る前に化粧水つけるようになったのは30歳過ぎてからだ。そして日焼け止めも塗らずに球場に行ってたもので(しかも屋外球場が好き)、気がついたらシミ・ソバカスがちゃんと沈着していた。それから、顔だけはこれ以上焼くまいと思って球場ではほおかむりをするなど一応気をつけてるのだが、ふだんは紫外線カット効果 があ謳ってあるファンデーションを(一年中同じやつ)を顔に塗っているだけだ。腕に塗るのは百発百中忘れる。忘れるのは、焼けてもかまわないと思っているからだろう。

 つまり、私はシミ・ソバカスは増やしたくない。でも、美白は目指してないんだ。もともと黄色いし!

 「過度に焼けたくないけど美白は目指していない」というゾーンが存在すること……この線引きって、ちょっとしたことだけど大事な美学のような気がする。それから、やはり私は「陽光を浴びるべし」という気持ちが強いのだとわかった。健康的で良いとかそういうことではなく、動物の感覚として。

 

  少し話はそれるのだが、私は先に書いた、ひとつのものを集中的に食べて何かの役に立たせようとする健康法・美容法はには関心がない。そういうのをチェックしてそのときどきの流行りモノを買うのが楽しみになっている人はよろしい。それは、趣味だから。だけど、方法としてはやっぱり邪道だし、そんなうまい話はない。私は食品の栄養効果 にそこそこ詳しいので、その手の話題自体は好きなほうだ。しかし、何かひとつのものを《効果 のために》食べることには否定的だし、どこか下品さを感じる。そういえば、こんなシーンが嫌いだ。女性たちが集まって鍋を囲み「豆腐に含まれるイソフラボンには女性ホルモンを活性化させる作用があるんだよ」みたいなことを言い、イソフラボンやコラーゲンの溶けた汁をすすりまくるという光景。恐ろしい。あさましい、という印象を覚える。食事がまずくなる。家庭で、母さんが「食物繊維が豊富だから、ひじきも食べなさい」などと言うとのはまったく別 物に感じるのは、なぜだろう。こんなこと言ってるから女子会には呼ばれないんですけど、まあそれはいいや。

 たぶん、食物の恵みに対しておいしいところだけ取ろうとする態度がいやなのでしょうね。端的に定義すると、食べ物は残すくせにコラーゲン汁だけはすすって帰ろうとする女性は、下品である。美白に専心する人は(全身覆うのはその人の勝手であるにしろ)太陽を嫌悪すべからず、太陽への敬いを忘れるな。陽が出てるのを間違っても「いやだなあ」と思わぬ ように。

 

デアデビルまんが祭レポート  2012.6.19

 おなじみコマツのやってる不定期開催洋服屋「デアデビル」で、3日間、まんが古本市をやらせてもらいました。4月の終わりに、「デアデビスタジオ移転パーティー」特別 セールが行われた時、「ねこまん書房」として古書市をやらせてもらった後、今度は「マンガ限定」でやってみたいなと思ったのが発端です。

 「ねこまん書房」は一人でやりましたが、マンガ市はせっかくなので長年いっしょに仕事をしているマンガ戦士2名を召集することに。毎年、年末に刊行される宝島社のムック「このマンガがすごい!」のメインライターをともに創刊時から務めているライター、奈良崎コロスケと渡辺水央に協力を仰いだところ、即決。3人でオススメのマンガを持ち寄りました。

 ねこまん書房を踏襲し、マンガには全点ポップ付き。単に要らない本を処分するわけじゃないですよ、オススメのマンガを幅広く供する志のもとに各自でセレクト。しかし、フタを開けてみれば3人の予想をはるかに超える売れ行きでした。連日の追加投入、補充しても補充しても消えていく! 最終日は、私が午後いちに投入したのがどんどんなくなり……不安になった頃にコロスケ便到着! それも品薄になっていき、「夕方再入荷します」と告知したところ、渡辺氏の補充分を待ってた方々の食いつきがものすごかった(笑)。もう値段つけるのが間に合わないくらいの飛び売れっぷり。

 3日間、ほぼその場にいて、ときにはオススメトークなんかしながらお客さんの様子を見ていたのですが、改めて感じるところがありました。マンガの買い方にもいろいろあるのだと。私は仕事柄、どんどん新しいマンガを発掘していく必要があるので、日々ジャケ買いします。新刊書店はシュリンクがかかっているので中が見られないし、また、自分の好みや先入観に縛られないでできるだけ広く読もうという意識もあります。あえて、苦手そうな絵のものを買うこともあります。

 手に取るやいなや素早く買うお客さんもけっこういて、これは《作家買い》および「直感」で判断する人。これはふだんの私の感覚に近い。今回、新鮮に映ったのは、じっくりと読んで買うタイプの人です。デアデビルが座れる場だということもありますが、けっこうな量 を読み進めてから、「気に入りました」と買っていく方。この感じ、なんだかとても懐かしい気持ちになりました。自分の場合、家に置き切れない、どんどん読む必要があるということから、1回読んで処分するものも少なくないのです。どんなに面 白いマンガであっても。あ、また読みたくなって買い直すことはありますけど。そんなふうに、《消化》する感じで読んでいるので、しっかり読んで気に入って買う、という行為はなんだか羨ましいな、素敵だなと感じたのです。

 ご存知のように新刊書店では、マンガはほぼシュリンクがかかっている。最近は店頭用に「試し読みできる小冊子」を用意する出版社も増えましたが、それにしてもかなりわずかな作品です。立ち読みができるのは古本屋ということになるけど、通 路が狭いのでかなり根性がないと大人には厳しいかも。 マンガにシュリンクをかけるのは、短時間で読めてしまうマンガは一読できちゃったら買わない客対策だけど、読んで確かめたい読者を遠ざけることにもなってしまうんだよなあ。どっちのリスクが大きいかは考えようもないけれど……マンガの伝道師としてはね、おもしろいマンガの内容を知ってもらうための機会はもっと作っていきたいなと思った次第なのです。

 あ、あと旧知の方からは「あおうさんのオススメで」というリクエストも頂き、ちょっとしたソムリエ気分も楽しみました。必ずしもマンガの好みを聞いたりはしませんでした。せっかくなので、自分からは手に取らなさそうなマンガに出会ってほしいじゃない? その方の雰囲気に、似合うような……ここが面 白いとこで、まあデアデビルが服屋だってこともあり「持ってて似合う」は重要じゃないかと。そんな観点でチョイスしてみました。

 そう考えるヒントになったのは、初日のできごと。「正直、コレ反応あるんだろうか?」と微妙な気持ちで持ってきた、吉田まゆみの『ロコモーション』。ふと見たら、ボストンフレームの似合う女性が腰掛けて静かに読んでいる……その方の雰囲気、ファッションと、表紙絵がこれ以上ないほどバッチリ絵になっていたのです。結局彼女はそれを買ってくれたのですが、私の手元を離れてより良い持ち主に出会ったね、という感慨がありました。

 私の大好きな「適材適所」ってやつです。

 本にあまり過剰に思い入れしたくないけど、いろんな方が「大切に読みます」と言ってくださったのはうれしい。それでもね、要らなくなったら、手放せばいいんです。本の形をとどめている限りは、できたらゴミにしないでだれかにリレーしてほしいと思うけれど。しかし、プレミアがつくものでない限り、「古くてそんなにキレイでもない本」は古書店での買取が難しいし、地下鉄文庫もなくなってるし。……ああ、こういうのが過剰な思い入れなのかもしれないね。でも、ひょっとしたらその1冊を、探し求めてる人がいるかもしれない……ってことは覚えておいてほしいんだ。

 

☆元気よく尻尾を巻いて逃げる時の、使えるフレーズ  2012.6.5

 何か反論をされた時に、即刻「あなたの考えと私の考えは違う、それだけのことです」と返す人がいる。

 私も使わないことはないけれど、でも、議論が始まりそうになるが早いか使うものではないと思う。あまりにも、当たり前だからねぇ。一見、知的なようだが内容はない、真っ先にそれをいっちゃあおしまいよ。まさに話を重ねたけれども平行線、どうにも収拾がつかなくなった時に締めくくるには便利なんだけど。

 あまりにすばやくこれを使ってしまうのは、自分は好きなことを言うものの人の話にはまるで取り合わないという態度に見える。めったやたらに議論を推奨するつもりはないけど……私の感覚ではこれは《言い逃げ》というか。記者会見は一応するけど、いっさい質問に応じないでそそくさ退出する人ってカッコ悪いじゃない。まあ、下手に議論に乗ると炎上パターンに陥るから、火傷しないためにともかく議論は避けるべし……って人には、これひとつ教えておけばいいとも言える。

 英語で話しかけられた時の「I can't speak English!」並みの、伝家の宝刀かもしれない。

 

そのものの輝きを理解する態度  2012.6.1

 私の母は何によらず品質重視な傾向が強く、子どもにも決して「ペラい」服は与えない方針であった。そもそもワードローブの中に「Tシャツ」という概念がなかった。買い与えられるトップスは、襟のあるものが基本。上質のコットン、化繊が入っていてもしっかりした素材だった。麻混とかは、それと知らなくても……柄はともかくその素材感に《子どもの日常的なカジュアル》とかけ離れたものを感じ、やや気恥ずかしかったものだ。

 そういう環境で育った私は、いつしか「ペラい」服を欲しいと思うようになった。つまり、品質の良いものをそれなりに認めはしても、その場に合うかどうかということを考えると……子どもの遠足に高級菓子は似合わないのと同じで。

 中学の時、道ばたのお店で500円で買ったTシャツは、私が憧れ続けた理想のペラさだった。黒で、FEN局のナンバーとかがプリントされていたやつ。案の定、何度か洗濯すると色がだんだん落ちていったけど、それも含めて良い、と満足した。そのTシャツが、高品質の素材だったら、それはまったく別 物になるわけである。それから、3点セットで2980円だった白いシャツとペラペラベストとペラペラネクタイも。それらはペラペラの素材が発信する軽さ、ちょろさがあってこそ魅力を放つものだ。

 だけど、私が以降ペラペラ道一直線に走ったかというとそうでもない。母の買ってくれた服の中に、高品質ゆえの美を認めたり、高品質ゆえの野暮ったさを感じとったりしていたから、素材と発色、デザインなどの関連について考えることができたのは幸運だったと思っている。たとえば色違いの商品でも、色によって素材の悪さが目立ちすぎるのと、そうでもないものがあるとか。こういう選択眼は、数を見るほど鍛えられる。服を見る時、一点一点触りながら見ることで、データは自分の中に蓄積されていく。だんだん、触らなくてもその感触が予想できるようになってくる。

 年齢が上がっても、ペラい服を楽しむには技術がいる。子どもがいきなりスーツを着ても借り物みたいになっちゃうように、やっぱり年(あるいは経験値)によって似合いやすい服というものがある。服以外でいうと、私は安っぽいビニール素材のバッグやポーチが大好きだが、あれだって大人が違和感なくそのモノ自体がイキイキとして見えるように使いこなすには慎重さが必要だ。

 要はいかに素材が活かされているか。300円の牛丼には、やっすい肉なりのうまさがあるということ。

 

☆我がお粗末な演劇歴  2012.5.26

 さて、このたび我々はついに楽器をうち捨て「劇団我々」として舞台に立つこととなりました。単に「新しいことやってみたい」という思いつきから発生したわけですが、どのくらいできるかなんてまるで計算できない状態からのスタートでした。いやまあ、ヤルとなったら四の五の言わずにヤルのみですよ。

 しかし、これがやってみるとけっこう面白い。うん、実際「新しいことは面 白い」というとこから始めたのであって……演劇をけっこう観た時期はあっても、やりたいと思ったことはなかったですね。しかし「芝居」とひとことで言ってもいろんなジャンル、いろんな世界観があり、観るにもやるにも好きずきはあるわけで。そして、考えてみると幼児の頃から、また義務教育の中で「劇」をやる機会というのはけっこうあった。

 子どもが、とりわけ女の子が一度は通る「芝居」といえば、ままごとだ。私はアレがだいっきらいだった。誘われても逃げまくり、それでもときどき巻きこまれてやるはめになったけれど、お母さん役の子がしずしずと差し出す砂を固めたプリン型のものを一応は食べるふりをしながらも内心「砂じゃん」と毒づいていた。そういう自分を、私はお芝居することが恥ずかしいのだと思っていたのだけど、考えてみるとそうではなかった。私はおままごとの舞台設定が嫌いだったのだ。家庭ごっこがつまらなかったというわけだ。設定を自由に作れるお人形遊びは大好きだったから。

 また、幼稚園の時にやらされた劇も、私をしらけさせるものだった。劇はいろんな虫たちが登場するもので、女の子はチョウチョやテントウムシの、男の子たちはカブトムシやカマキリやらのお面 を作った。話の中で、チョウチョの一匹がカマキリにつかまってしまうのだが、先生がその役を募った時に、私以外のチョウチョ全員が挙手したことに私はとても驚いた。「だってつかまっちゃう、弱い役なんだよ?なんでそんなのになりたがるの???」。単純に考えて目立つ役なのでそんなに深く考えることもないのだが、こうしたヒロイズムが理解できない私はなんだか一気に冷めたことを覚えている。

  次に劇をやったのは、小学3年の学芸会の時だ。だれもが知ってる「ハメルンの笛吹き」。私は「村の女2」で、セリフは2つ。「あらまあ」。「私は、台所でパンを切っていたんです。そうしたらネズミが出てきて、パンだけじゃなくナイフまでボロボロにかじってしまったんですよ」。以上。母親のスカートやスカーフを借りたりして、村のおばさんらしく見えるよう工夫するのは楽しかった。主婦の役だが、これはままごととは世界観が違うので、イヤじゃなかったのだ。それと、笛吹きが舞台ではなく、ギャラリーから登場する演出、そこにピンスポットを当てたりするのがかっこいいと思っていた。

 その後は学芸会のたびに、「合奏チーム」と「劇チーム」に分かれるようになり、当然のように合奏を選んでいたので、次なる舞台は6年の「クラスのお楽しみ会」まで飛ぶ。

 1回目は銀行が強盗団の襲撃にあうやつで、これは単に男子たちがモデルガンを振り回したいがためのドラマだった。銃撃戦のシーンがやけに長すぎて結末があるようなないような……だったが、まあ、つまり、「これを見せたい」という初期衝動から始まるっていう意味では、コピバン始めるのに似ている気がする。ちなみに私は銀行の支配人の役だった。役名は「ずるむけ赤ちんこ」(元ネタあり)。カウンターに置く名札を作った記憶があります(笑)。

 次にやったのが「禁じられた遊び」というタイトルで……私が脚本ぽいものを書いたはずなんだけど、これもたいしたストーリーはなくて。しかし「これを見せたい」のキモが何だったかというと、男子は全員女装、女子は全員男装。ストーリーはともかく、ただ楽しかったね、これは! 男子たちにはパンチラしながらのラインダンスをやってもらったけど、みんな嬉々としてやってたしなぁ。

 私、この2回とも男役じゃん。このころ児童合唱団のオペレッタでも男役ばっかりだったし。となると……劇団我々第1回研修生公演にいたる道程はこのころから続いていたのか!? なーんて、ね。

 

なんとなーく叫ぶことの愚かさ    2012.5.26

 募金や署名を求める人の声に、ときどき思うことがある。その内容はともかくとして、その前をただ行きすぎる《協力しない》人を気まずい気持ちにさせる調子の発声は、逆効果 だなあと。

 いかにも嘆願調というか懇願というか。自分が正義であることを信じて疑わない声の調子は、それを無視して(無視する側にだっていろいろ事情がある)通 りすぎる人を非難するかのように聞こえる場合がある。

 人の足を止めたいと思うなら、なにしろ相手は見ず知らずの人……情に訴えるのではなく、上手にいざなってほしい、上手にオルグしてほしい。それには言葉だけでなく、声の調子も重要だと思うのだ。

 とりあえず大きい声を出せと指導されているのだろうけれど、大声で力の限りに「お願いしまあーっす!」と何度叫ばれても説得力がないものはない。

 他の場合にも言えることだけど、大きい声を出せばやる気が見えるってことにはならない。それは《思い切りやったような気になれる》自分だけの満足ってことも。ヤケクソにしか見えない……人を悪い意味でびっくりさせるだけのこともね。

 

子どもらしさって何なんだ!  2012.5.9

 「忘れてしまった子どもの心」云々というフレーズがあるが、あれはなんなのだろうと常々思っていた。成長するにつれて考え方などは変わるにしろ、同一人物なのにそんなに感じ方が変わるものなのだろうか……という、これは純粋なる疑問である。

 これを考えるにあたり、まずどんな時に先に挙げたフレーズが使われるのかを考えてみる。どうも、子どもは小さな花や虫や微妙な自然の変化を見つけ、ちょっとしたことにはしゃぎ、喜び、興奮したりするもので、そういうのを目にした時に大人は「ああ、自分も昔はああだった」とか思って「素朴な子どもの心」にグッときたりするようなのだ。つまり、些細なできごとに敏感(大人は慣れきってしまって鈍感)……まあこんな感じ?

 子どもが《敏感》であるとするなら、それは世界が狭いためでもある。多くのことに慣れていけば、新鮮さは薄れる。だけども、とりわけ気に入りのものに関しては大人になっても敏感でいられるのではないか。

 そうでないものに対しては、ある程度忘れていかないとやってられない。日がな一日、アリの行列を飽かず眺めている大人がたまにいてもかまわないけど……いや、そりゃやっぱり単なる変人である。

 どうも世の中では「子どもらしさ」が美化されすぎている。子どもらしさの本質は、そんなに美しいことばかりじゃない。

 たとえば、大人が「うんこうんこ、ちんちんちーん!」と叫びながら走り回っていても、だれも「ああ、私はいつからああした無邪気さを忘れてしまったのだろう」と目を細めたりしないし。

 これはすごく印象的なために以前にも書いたことだが。私が幼稚園児であった頃、先生に「どうして太陽は赤く見えないのにみんな赤く描くのか」と。また小学生の時、木を写 生するのに「よく見て描きなさいというけれど、本当にどこまで実物通りに描けばいいんですか?」と聞くと、どちらのケースでも先生はさーっと無言でどっか行ってしまった。屁理屈をこねる子どもだと思ったのだろう。しかし、私としてはこれは今でも疑問だし、ひねくれた気持ちなど一滴もなかったのだが。子どものちょっとおかしな言い間違い、こまっしゃくれた言動を時に「(子どもらしくて)かわいい」と褒めたたえたりするのは、その人にとって都合の良いフィルターを《たまたま通 った場合》のことでしかない。

 「子どもらしさ」というものを礼賛するのがどうも薄気味悪い。子どもは、大人とは視界が違う。忘れてしまうことはそれでよい。大人になったら必要ないだけだ。純粋な人は大人になっても純粋だ。すこし馬鹿ともいう。子どもはすべて無邪気ではない。人は生まれた頃はまっさらで、大人になるにつれて汚れていく、という言い回しも嫌いだ。幼虫と成虫は機能が違うから、行うことにも違いが出るだけだ。人の本質はそう変わるものじゃない。

 

☆動物の本懐  2012.5.1

 私はパソコンが嫌いだ。パソコンを持たずに現代社会と拮抗できるほどの特別 な力を持っていないから、使っているだけだ。もちろん、パソコンでしかなしえない面 白いことに出会ってわくわくすることもたくさんある。便利さの恩恵にもあずかっている。その上で、だけどもやっぱり嫌いだと思う。その自覚だけはいつもはっきりさせていたいと思う。嫌いだけど必要にかられてつき合うという、ドライな関係を維持することを。巧みな使い手にはなれないかもしれないが、パソコンなどには振り回されないことを。

 ……ということを考えていたせいではなく、最近ふと「乗り換え検索を使うのをやめよう」と思った。仕事柄、初めての場所に行くことも多いが、かつてはそんなものに頼らなくたってどこにでも間違いなく行けていたのだから。あと、私がけっこう多く使っているのが天気予報だ。これも、かつては出かける前に、電話の天気予報案内を聞いていただけだった(テレビを見ないため偶然目にする機会がないので)。

 便利なものを使うことを否定するわけではない。「もし、これらが使えなくなったら?」の場合に備えるほど、大きいことがらでもない。私がこの2点に違和感を感じたということが、自分にとって重要なのだ。とても些細なことだが、ここに引っかかりを覚えたのは、《情報に》ではなく、それしきのことを検索する《行動に》組み敷かれていると感じているということだろう。

 おそらく、それは自分の動物的な本能に訴えるものだ。便利さを享受しつつも、科学的な線引きはできない自分の動物的センサーが「いやだ」と反応するものは尊重したい。

 それが、健康に生きるコツのように思う。おっと、そもそも「動物的センサー」の感度を鈍らせないことも必要ですね。危険や不審を抱いたら、周囲の空気を読まずにわんわん吠えかかったりしてる? 私はしてますよ!