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人間の特権とは   2013.12.31

「仕事納め」できないのは毎年のことだ。フリーでも、仕事する日と休日をしっかり分けてる人もいるだろうけど、私の場合そうではないので、特別 に忙しいからというより切れ目がないだけに過ぎない。やりとりをしている多くの編集者は27日の金曜をもって仕事納めだが、年末年始は原稿を見ますよ(急かしはしないまでも少しでも早く見たい気持ちをアピールされている)という人が何人かはいる状況なので、おっと、やっぱり忙しくはあるのかもしれない。

 

 というわけで、年末から、仕事始めの週にかけての締切仕事を切り分けながらスケジュールを組んでいるのだけど、やはり追われている感はぬ ぐえない。あと年内2日、あと1日あったらなあと思ってしまう。こういうことは不毛だから考えないようにしているのだが。

 

 じゃあ、年明け……1日ずつ「前」のつもりで過ごすのはどうだろう?  元旦は2日のつもり、2日は3日のつもりで。で、(本当の)3日になったら「4日だと思ってたけどまだ3日だった、よかったー!」ってなる。なるか? ならないか? とりあえず試してみよう。ずいぶん面 倒くさいことするように見えるかもしれないが、こういう一銭もかからない遊びは損になるわけもなく、複雑な頭脳を持つ人間ならではの特権だ。

 

 とりあえず3日までは日付間違えて困るような用はないからやるけど……箱根駅伝は見逃さないようにしよっと!!

 

☆利を見て義を思う     2013.12.28

 最近、考えるともなく、頭をよぎる言葉が三つある。

 ひとつめは「友愛」という言葉。私がこの言葉を知ったのは、さる小説の一場面 だ 。主人公が大学構内で募金活動をしているけど見向きもされないでいるところ、男前で人望のある先輩が現れて「きみたち、もっと友愛精神を持ってやらないか!」と呼びかける場面 である。この小説の作者である森村桂はエッセイストとして知られるが、氏の《創作》は自身の体験をベースにしたものが多く、これもそうだったんじゃないかと想像している。「友愛」という言葉は意味は通 じやすいものの、あまり使われることはない。フランス革命の三原則だったかな……自由・平等・友愛。たぶん。日本で学生運動をやってた人々はこれに影響を受けて、当時はわりに使われていた言葉だったのかもしれない。「友情」よりも、人類愛、隣人愛、博愛、に近い意味だったと思う。

 

 その小説を読んだのは小学生の時で、私は「友愛」という言葉を使ったためしもないのだけど、なぜかその先輩の台詞は(おそらく8割くらい原文に忠実なはず)ずっと心の底に残っていて、ここのところやけにそれが浮かび上がってくるのだ。

 

 あっ、昔レンタルレコードチェーンで「友&愛」というのがあったけど、ひょっとしてこの創始者は森村桂と同世代人なのかも!?

 

 ふたつめは「人道」。これも、印象的な小説の場面とともに出てくる。太宰治の、たしか新潮文庫の『グッドバイ』に収録されていた短編だったと思う。戦後の混乱状態のころ、幼い子を連れた《私》に、電車に乗り合わせた人がタダで食べ物を分けてくれようとし(お金を出しても買いたい人がまわりにわんさかいる状況で)、それを《私》が遠慮して拒み、相手が勧めるというのを何度か繰り返した挙げ句に、相手がひとこと言うのだ。「人道!」と。

 

 「友愛」と「人道」。

 

 それらが日々、やけに頭をめぐったあとに、もうひとつ浮かんできたのが「利を見て義を思う」という言葉。

 

 利益を得るにあたって、それが人としての道にかなったものか考えよ、というような意味。「義」という言葉の解釈のしかたはさまざまあると思うけれど。能力も魅力も兼ね備えているのに、義をおろそかにする人というのは残念だ。と、しみじみ思うことがあったからだ。年若い頃には、義の大切さが見えないこともあるだろう。だけど、ある程度の年齢に達した立派な大人が、自分の利だけにしがみつく姿というのはなんと貧しいものかと思う。哀れに思う。

 

 たった一人の力で生きているのじゃないのに。そんなこと、だれでもわかっている!? 

 

「(周囲の人々に)生かされている」というフレーズはいつからかわりによく使われるようになって、だいぶ軽くなった印象を受ける。「生かされている」ってわかっているつもりでも、何に生かされているか、本当に理解しているだろうか。周囲の、親切にしてくれ味方になってくれる、せいぜい数えられる数の《現時点で感謝しやすい》人たちだけに「生かされている」のではないはずだ。

 

「利を見て義を思う」は、いま私にとって、「南無阿弥陀仏」みたいな言葉である。オバケを見たらそうするように、唱える。

 

古本マンガ市     2013.12.16

 コマツのやってる不定期開催のお洋服屋さん「デアデビル」で、先日からマンガ古本市をやらせてもらってます。『このマンガがすごい!』(宝島社)などで長年、チーム仕事をやってるライターの2人といっしょに、これをやるのはもう何回目か。

 日ごろマンガ家さんとのおつきあいもあるので、彼らの仕事がいかに大変なものかはある程度わかっているつもり。だから本当は古本を売るのはしのびないのだけど、あくまで布教活動として、「おもしろいマンガを皆さんに紹介する」という志。実際、「ここで出会って、その作品(またはその作家さんのマンガ)を買うようになった」と言ってくださる方が多くて……そう、そのためにやってるんだよ!という手応えを感じます。

 いま旬のマンガから、けっこう古めのマンガも並べておくといろいろな反応がある。マンガ大好き、という人もいれば、しばらく全然マンガ読んでないという人も。それぞれと、マンガ談義したり、また好みや手がかりをちょこっと聞いておすすめしたりする時間の楽しいこと……!

 

 そして、これは座ってくつろげるという場の特殊性のためなのだけど、お客さんがマンガに読みふけっている姿を見られるというのがなんともうれしい。真剣に読んでる人、声を出して笑っている人、「ちょっとこれ!」と周りの人にページを見せる人。

 私などは仕事柄というかどうしても読み急いでしまうところがあって、じっくり読んでいる人を見ると「本当はこういうふうに味わって読むものなんだよなあ」と反省したりする。全部読み切って、それで買っていく人を見るとそう思う(あっ、別 に読み切って買わないで帰っても全然構わないんですよ!)。

 きょうはある男性に「どんなマンガが好きですか?」と訊いたところ、「恋愛マンガが読みたい」と返ってきて、ちょっとびっくりしてしまった。で、びっくりしている自分にびっくりしてしまった。ふだん、男も少女マンガもっと読んだっていいじゃん、と言ったりしてるくせにさ……びっくりするんだ、私。なーんだ、まだ私、根っこじゃ先入観にとらわれているんじゃないか、とまた反省。そして彼は、いろいろ吟味して本当に現代のド真ん中の少女マンガを中心に買っていかれたので、天晴れと感じたのだ。

 

 読みたいものがあるって、いい。読みたいものがぼんやりとしてる人のお手伝いするのが、楽しい。

 

 古本マンガ市。デアデビル(高円寺素人の乱12号店)で、16日(月)はお休みして、12月17〜19日までやっています。13〜22時。

 

☆小さい話ですけれど     2013.12.16

 本は別に役に立たなくていいと、基本的には思っている。読んでいるそのとき楽しければいいだけであって。

 

 だけど、ときどき、うっすらと役に立っているなあと感じることがある。

 

 とても急いでいて、だけど気持ちはカリカリしてるわけではなく、絶好調でびゅんびゅん歩いているときに。「私の靴は七里靴」などと思っていることに気づく。ご機嫌に拍車がかかる。子どものときに、「この靴をはくと一歩で七里を進める」という物語を読んだおかげである。

 

 きょう、豚汁定食を頼んだら、それがメインだけあってものすごくでかい器になみなみとした豚汁が注がれていた。飲んでも飲んでもなかなか減らない。そんなとき、「海の水をもひと口で飲める」などと思い浮かべる。ぐいぐいいける。あ、これは「シナの五人兄弟」かな。ほかの昔話でもこれに近い設定読んだことあるけれども。

 

 知識や情報じゃなくてこういうことにね……助けられるというと大げさだけど、気持ちを楽しくさせられるのだ。

 

 

日々の習慣     2013.10.18

 ストレッチは寝る前にやるといいですよ、などと言われるが、ほとんど気絶寝が基本なので考えられない。ちょっと余裕があるときは「さ〜あブラックアウトするまで本を読むぞ〜」となっているので、ストレッチなどもどかしい。そう、パソコンを使う時間が長い人に対して、モノの本では「1時間に一回はストレッチをしましょう」なんて掻いてあったりするけど、あれも非現実的ですよね。そこで、私はトイレに立ったときにストレッチをするというルールを作った。こういうルールはめんどくさそうだが、人は何か決めるとすぐに慣れるものだ。わざわざ「ストレッチしなきゃ」と考えなくてもやるようになった。

 

 そこで、もう一つ。視力低下防止の狙いから、目の体操をする時間を決めようと思ったのだ。ストレッチと同時にやるのは可能か? いや、ストレッチを行うときはその身体の部位 を意識しないと効果が下がるので、却下。しかし、目を使ってない時間を探すのが難しい。考えた挙げ句、慣れた近所の道を歩いているときにやればいいんじゃないかと思ったが、人に話したら「薄気味悪いからやめなさい」と言われたので、これも却下。

 

 あと、目が特に重要な役割をしていないといったら……入浴か。風呂の中では本を読んでる。身体を洗うときはさすがに無理。しかし……、髪を洗うときなら問題ないじゃないか! というわけで、私は髪を洗いながら眼球を上下左右に動かしたりグルグルしたりしている。慣れると、なんてことないよ。

 

☆鼻くそについて真剣に考えた     2013.10.15

 最近、いたって真面目に鼻くそについて考えている。きっかけは、「電車の中で鼻くそをほじっている人がいる」「美人が鼻くそをほじっていた」「食べてた!」(笑)などの目撃談の多さである。人はなぜ、他人が鼻くそをほじっている姿にショック(嫌悪)を覚えるのか。

 そこでまず考えたのは、目くその場合はどうか、ということだ。私は人前で、つい目をほじってしまうことがある。そういうシーンを見かけることもある。それはなんとなく許されているような気がする。

 耳くそはどうか。耳くその場合は、目くそや鼻くそとは違い、乾燥タイプか湿り気タイプかということで事情が異なりそうだ。しかし、耳に髪の毛が入ったとかで、耳の穴をちょこちょこっと掻いたとして、イコール耳をほじっているとは見なされないという安全弁はある。これは目の場合も同じか。鼻の場合は、例えば鼻の中がかゆかったとしても、鼻の穴に指を突っこんだ時点でクロ、となる。鼻毛を抜くフォームはまた別 物。

 

 ということをごちゃごちゃ言っていたら、H嬢から「目に指を突っこむのがセーフに思えるのは、あらかじめその《穴》が他人にも見えているからではないか」という貴重なご意見を頂いた。なるほど! つまり目は《開かれた》場所であるのに対し、鼻や耳の穴は《秘所》ゆえにはしたない、汚いという感情をわかせるのか。

 

 鼻に比べると、耳は《半開き》である。髪で耳が隠されていなければ、耳孔の形、また角度によってはけっこう中が見えてしまうこともある。

 

 また、この3つを比較してみたときに、唯一「人に掻いてもらう」ことが成立しているのが耳である。耳掻き屋なんかもあったりするので、目の穴、鼻の穴よりも社会的にはプライベートゾーン度は低いといえる。

 

 では、成分について考えてみよう。目と鼻はどちらも粘膜保護のために水分が必要な器官。目と鼻はつながっているから、目くそも鼻くそも同じようなものではないか。あ、過去に児童モノでこういう原稿書いた気がする! 一応調べてみると、「目やには、角膜などから分泌された粘液に、老廃物やゴミが混ざったもの。それが涙とともに鼻腔に流れ、さらに鼻の粘液や外から吸いこんだホコリなどが混ざって鼻くそになる」とあった。なるほど、元はいっしょということで…「目くそ鼻くそを笑う」とは科学的見地に基づいたことわざでもあるのだなあ、と感心する。

 

 成分はほぼいっしょであるにも関わらず、《開かれているか・いないか》で大きく印象が異なるといえるだろうか。

 

 一方の耳くそは、《耳あか》という言葉からも察しがつくように、即ち皮膚がはがれたもの+耳の中の汗腺から出る分泌物、さらに外界のホコリが混ざったもの。身体のあかと同じですね。耳は掻きすぎると傷つける恐れがあるので要注意……とはよく言われることだが、耳くそにはほかにも「取りすぎないほうがよい」理由があるって知ってた? 虫とか異物が奥に入りこまないようにする役割、さらに乾性耳くそには殺菌作用があるんだって。

 

 ええと、特に結論はないけれど、やっぱり鼻くそはなんだか不遇な気がするね。

 ちなみに私の本棚には『鼻ほじり論序説』(ローランド・フリケット著/バジリコ株式会社)という本がある。もちろんふざけきった内容なのだが…きっとこの著者もあるとき、私と同じように「なぜ、鼻ほじりはここまで忌み嫌われるのか?」を真剣に考えたことのある人なのだろう。

 

 本書に掲載されている「鼻ほじりのマーチ」を引用して、締めさせていただく。

 

 (イントロ)もしも手持ちぶさたなら/いいことがある/さあ、みんなで行こう/それは顔の真ん中

 (1番)さあ、みんなの前で鼻をほじろう/自分にごほうびをあげようじゃないか/吸い込んじゃだめ、さあ、ほじり出して/胸を張って堂々と/どうして隠れてほじるのかな?/チャンスは一度きり/ほじりたいんだろ?さあ、しっかり噛んで!/君にもきっとできる

 街角でも、椅子に座っても/テレビを観てても、おかまいなし/車の中や停留所/どうしてみんな大騒ぎするの?

 季節など関係なし/一年中オーケーさ/いつでもどこでも、ほじればいい/気道だけは確保して/いったん覚えてしまったら/もう二度とやめられない/我慢できない、もう夢中なのさ/熊手のような5本の指

 (2番)さあ、みんなの前で鼻をほじろう/自分でやってみようじゃないか/ほじって、舐めて、丸めて、弾いて/輪ゴムみたいに伸ばしてもいい/やさしくこう言う人もいる/鼻ほじりはいけないよ/鼻の穴の、ねえ、本当の役目は臭いを嗅ぐことなんだって

 鼻をほじって、なにが悪いの/どうしてみんな同じなの/足の爪をほじるだけ/マジパンだって、ヌガーだって/鼻くそのエクレアほど/美味しくはない

 鼻をせっせとほじるのに/ハンカチなんて必要ない/指を使って、そうすれば/幸福感に包まれる/さあ、みんなの前で鼻をほじろう/探して、剥がして、引っ張って/ほじくり出すとその瞬間/手に入れられる瑠璃の玉

 

 

☆男の子はみんなカッコいい     2013.10.06

「女の子はみんなかわいい(または、かわいくなれる)」という言い回しはよく聞くけれど、ならばどうして「男の子はみんなカッコいい」と言われないのか、常々不思議に思っている。ちなみに「女の子はみんなかわいい」とは、男も女も言い得る。しかし、男のほうには同性で誉め合う文化というのはあまりない(あったとしても女ほどにはないだろう?)らしいから、これを言ってやるのは女の仕事のはずなんですよ。

 公平に…ってことじゃないよ。私は「男の子はみんなカッコいい」と思っているよ。媚びじゃないよ。

「女の子はみんなかわいい」が容認される一方で「男の子はみんなカッコいい」には厳しい視線が注がれるなら、やっぱり世間は女には甘いんだよなあ。

 

 男の子はみんなカッコいいよ!

 

 せめて私だけでも声を大にして言っておきます。

 

☆美のこだわり     2013.9.13

 自分は美容にあまり興味がなかったんだな、と気づいたんです。いや、自分ではまあそこそこに興味を持っているつもりでした。しかし、顔を洗ったら化粧水をつけるというのが習慣化したのが30過ぎだし、眉を整えるということをやったのももっと遅い! 数年前にはアイライナーすら持ってなかった。

 

 何をするにつけ、人は自分の価値観とかけ離れたことはできないんだなあという思いがあります。たとえば私はマニキュアは10代の頃からけっこう好きで、今もそれなりに持っていたりはするのですが、今年になってからマニキュアを使ったのは数えるほど。それは、近年の進化したマニキュアをもってしても…… 完全に乾くにはそれなりの時間を要し、その間私は手を使わないでじっと待っていることができないからなのです。 マニキュアが好きなつもりでいても、結局は優先順位が低いというわけ。またメイクにかける時間や、コスメショップに行く時間は優先順位 が低いのです。

 

 また、お化粧に一生懸命になれないのには、ノーメイクの時とあまりに差が開くのはいやだという理由があります。「ハレの場とオフの場は違っていいじゃない」と思うし、頭ではそっちを採用したいのですが、自分の奥底の何かがそこに待ったをかけるのです。つけまつげくらいしてみたいと思ってずいぶん前に買ってあるのですが、原形よりあまりに美しくなってしまったらどうしようと思うとできない(笑)。んなわきゃない? 

 

 しかし、そんな程度の私にも美に対するこだわりはあります。あくまで人に推奨するでもない私だけの方針として……大事なのは、重い荷物を持ち運べる力、突如出現する(しないとはだれが言い切れるだろうか!)殺人鬼に追いかけられたときに逃げ切れる脚力、それからごきげんなときに飛び跳ねられることです。ん? 美のイメージと違うと思った方もいるかもしれませんが、これが私の価値観です。ちなみに《若々しさ》は素晴らしいと思うものの、アンチ・エイジングに必死になるのはカッコ悪いし不自然だと思っています。

 

  さて、そうした自分の《美》を考えるときに、私が第一義に置くのは、筋力を鍛えることではなくて、肉体の細胞に気を遣うことになります。すなわち食事、というと突然おもしろみが欠ける感じになりますが、細胞美と腸の美に思いをめぐらせていますよ、いつも。

 自分が憧れるのは動物としての美なのでしょう。野生動物ではないけれど、人間はやっぱり動物です。肉体の機能が働いてこその美。そして、機能・容貌が衰えていくのも自然の摂理と認めること、もうひとつ人間ならではの持ち物である精神と思考が美の軸を支えるということ……。

 

 ああ、なんとなく書いててわかったのですが、私の《常にサバイバルを想定した生活》という感覚が、すべてのことに深く関わっているのです。この道具がなかったら保てない美は、美ではないと、きっと心のどこかで思っているんでしょうね。

 

☆「人の目を気にする」とは     2013.9.13

 人の目を気にしないと、ストレスなく生きられる。ものは言いようすぎるので、「人の目を気にしない=傍若無人」とか「人の目を気にしない=KY」とか、そうした諸説についての細かいさじ加減問題はすっとばすことにします。

 

 私が人の目を気にしないで行動を選択するのは生まれもっての性質もあるのだろうけど、しかしここには「人の目を気にしない」で人とうまくやっていけるテクニックも存在するのだと思う。「なぜそうするのか?」と言われたときに、その理由を話して相手に納得してもらう説明能力がなければ。それができないと、傍若無人で片づけられてしまうのだろう。

 

 また、そもそも自分の判断を持てないと、人の目を気にせざるをえないともいえるだろう。「周りの人がどうするか、なんて言うか様子をうかがってからでないと行動も発言もできない=空気読める」じゃないからね。このあたりが曖昧になっている気がするから、「空気読む」という言葉をあまり使いたくないのです。

 

 正しいかどうかじゃないんですよ。どうしたいか、どう思っているか。人と違っていることを恐れる人は、知らず知らず多数派が偉いという偏りを持ってしまっているのではないでしょうか。まあ、自分と違う考えを表されただけで「自分を否定されている」と勘違いして《攻撃に出る》人がいるために、人と違うことを恐れる人が生まれるのかもしれないですが。

 

 もしかして周囲から「浮いてる」としたとして……おおむね自分で意識しているほどには浮いていないものですが……その「浮いてる」ことになにか不都合があるのかも、疑問です。「私だけが異分子だ」と思うことは自分を特権階級に置くとともに、自分を除く集団を硬直した視線でしかとらえられなくなることではないでしょうか。もし本当に「浮いて」いたとき、だけど、その場にいる人と交わりたいと望むのかはっきりさせる必要はあります。自分の寂しさを埋めることとごっちゃにしてはならない課題だと思うのです。