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すみやすい水に住んでいるんだな  2013.4.30

 幼稚園から小学校、中学校……と進むにつれて、人は環境を自分で選択するようになっていく。家の経済的事情もあるから、進学先が思うように選べるわけではないけど、たとえば自分と趣味の合う友人などを見つけていけるようになる。年齢が上がるにつれて、個々の趣味というのは育っていくし。かなり少数派の趣味の人で、学校では近い好みの友人が見つからないという人も、今ならネットなどで同好の士を見つけたりするのだろう。

 

 バンドなどやっていると顕著に感じる。ズバリ音楽性で結び合うところがある、または活動に対する姿勢に共感する……などで、バンド友だちは増えていく。だから、身の回りの人が何かしら誉めてくれたりすることがあるのは、ある意味当然なんだろうと思ったりする。仕事でもそうだ。もともと方向性、志向性、価値観の合う人を、お互い選びあってつき合っているのだから。

 

 そういう《仲間》がだんだん増えていくにつれ、《世界》が広くなっているような気もするが、そうとも限らないんだなぁ。ムダに遠くにアプローチする必要もないけれど、自分はすみやすい水を選んで住まっていることを忘れてはいけないとときどき思う。日々たくさんの人に会っていると、それでもそんなに多くの世界に触れてるわけじゃないってことを忘れがちになる。

 

 友人、知人の数が多いほど世界が広いわけではないんだ。《遠くの人》に出会ったときにも、自分の《お国柄》に固執せずに交流できるのが、広い世界に生きてる人なんだ。

 

 生きにくいと嘆いている人は、広い世界で修行の身なのかもしれないな。おっと、それを特に推奨も賞賛もしないけど、たぶんそうした人はスルスルッと居心地のいい場所に紛れこむ器用さを持ち合わせていないだけなのだと思う。良くも、悪くも。

 

 これまた皆に推奨はしないけど、私は「生きにくくない」現状にも、疑いを持っていたいと思っているよ……。

 

☆腐らない食べ物なんてそこらじゅうにある  2013.4.26

 ソースの元を調べてないので、ネタなのかわからないが巷では「マクドナルドのハンバーガーが、長期間放置しても一向に腐らない」という話題が盛り上がったりしている模様。「いや、ものすごい防腐剤をぶちこんでるわけではなく、サイズ・形状により水分が蒸発しているためだ(すなわち乾燥しやすい条件なら無添加のものでも腐らない)」などの意見も……証明のための実験も行われているらしい?

 

 繰り返しになるけれど、この話のソースの真偽は不明だ。ただ、「こうしたことが《話題になる》」という《事実》が教えてくれるのは、市販の食べ物に疑問を持つということのはずだ。興味を持った人は「じゃあ《その店》のものは食べない」で終わるべきではない。

 

 結局、自分の目に見えないところで加工されてるものに関しては、何が添加されているかはわからない。防腐剤や酸化防止剤にしても、人体に害の多いとされるもの、天然由来の物質を使った害の少ないとされるものがある。素人が判断するのは難しいけど。

 

 パッケージされた食品を買う場合に関していえば、とてもわかりやすい見分け方はある。食品の「原材料名」の表記を見て、表記欄の短いものを選べばいい。なんだかわからないモノの名前が長々列挙されているものより、できるだけ少ないほうを選べばいいのだ。賞味期限が1週間のちくわと、1か月のちくわを比べてみると、それがよくわかるはず。

 

 まあ、私もハンバーガーは食べますけどね。オーガニック食材だって放射性物質に冒されてるかもしれない時代ですから、清濁併せ呑みますよ。ただ、知ってること……「推測できること」でも「意識すること」でもいいや……は、多いほうがいい。

 

今日の《節約》雑感  2013.4.12

 頭の隅にうっすら「節約」という言葉がある。心がけてるようでいて、どのくらい効果 的にできているのかは定かじゃない。よく言われることだが「○%オフ」に敏感に賢い買い物してるつもりでも、実は余計なもの買わされていることも多々あるだろうしね。また、日々「時間(および便利)を金で」買わざるを得ない場面 もあるから……いや、たぶんこう言っている時点で本気の節約家にはかなわないんだろうけども。

 

 近年、節約家の腕の見せどころになったのはポイントカードだろう。しかし、とあるテレビ番組によればポイントは貯められたうちの半分ほどしか使われていないのだそうだ。期限によって失効してしまうものもあるしね……。この場合、ポイントを使わなかったからといって消費者は損はしていないのだけど、失効すると損した気持ちになるのが不思議だ。ポイントが貯まるという理由でその店で買わせることに成功した店側の勝ち、とはいえるけど。私にとって一番ポイントを稼げる店といえば本屋。最近は、ほとんどの書店がポイントカードを導入しているけど、私はあえてポイントカードのない個人書店で買い物することもある。その店になくなってほしくないからだ。私もポイントは貯めたいが、この辺のバランスには微妙に気を遣うところ。

 

 そして、100円ショップの進化は、子ども時代にそれがなかった私から見るとかなりの事件だ。説明の必要もないだろうけど、いまや生活用品のすべてが揃ってしまうもの。だけど、その中には安かろう悪かろうの商品もあるわけで、このあたりは買い手のレベルが試されるところだと思う。私が100均でよく買うものはジップロック状の整理袋とクリアファイル、ノートかなあ。筆記具は文具メーカーのもの以外は使い心地が悪いことがあるし、付箋もノリが甘かったり逆にノリが残っちゃったりするものがある。はさみも、やっぱり切れ味はそれなり。

 

 スーパーのレジ待ち中に、奥様雑誌の節約特集をぱらっと立ち読みしてみたが、食品についていえば家族の人数が多いほど節約のやりがいはあるのだろう。独り暮らしの自分に応用できるネタは少なかった。たとえば食べ盛りの子どもが複数いる家では、パン1斤が100円を切るときにまとめ買いするなどは達成感があると思う。これ、やりがいあるだろうなぁ! 独り暮らしの場合、収納にも限りがあるので極端なまとめ買いはかえって死蔵品を生んでしまうことにもなるから危険なんだけど。 奥様雑誌といえば、10年以上前に見た「すごい節約主婦」の紹介で記憶に残っているものがある。そこんちは一家10人くらいの大家族。巻頭を飾っていたのは、近所の八百屋で捨てられているキャベツの外側の葉を拾ってくる写 真だった。そして、衝撃的だったのは、ティッシュペーパーも一回では捨てずに乾かして使うというもの……これはさすがに衛生的な心配をせざるを得ませんが。

 

 あ、私は死蔵品を出さない、ものを最後まで使い切ることにかけては自信があり、これは地味ながら長い目で見たら節約になっているのかもしれない。いや、冷静に考えたら至極当たり前に過ぎないことなんだけど。これが節約に思えちゃうあたり、現代人の奢りを感じずにいられないわ! 食品のストックを買ったら必ず、賞味期限の早いものを手前に入れ換えるようにしてるしね。ペンは換え芯を買って最後の一滴まで使うしね。しかし、ボールペンなんかしょっちゅうタダでもらっちゃったり雑誌の付録についてきちゃったりで、今持っているペンを死ぬ までに全部使い切ることがあるんだろうか……と日々思っているのです。

 

 

自転車の練習  2013.3.29

 路地で、お父さんが子どもに自転車の特訓をやってるのを見て、そういえば自分も小学1年の春休みに「補助なし」に乗る練習をしたっけなあと思い出した。あれは「お父さん」の仕事という家が多いのかな。

 

 最初は父が、自転車の後ろを支えながら走っていて、そのうちに放す。少し進むと自転車は不安定になって倒れそうになるので、私は片足をついて防ぐ。

 

 それを繰り返しているうちに、父は言ったものだ。転びながらうまくなるのだというようなことを。姉に教えたときも最初のうちはばんばん転んで、そのうちに乗れるようになったのだと。しかし、私はどうしても、危なくなるとやっぱり足をついた。父は日ごろから声を荒げたり、ものを強く主張するほうではないけど、やけに「転ぶこと」をすすめられた印象が残っている。

 

 そして、私は一度も転ばなかったけど、自転車に乗れるようになった。

 

 別段、反抗するようなつもりもなかったのだけど、ただ私は転んでケガをしたくなかったのだ。それは自然なことのような気がする。日常、転んだりすれば(特に神経質な母親は)ばい菌が入るとか不注意だと言うし……いや、そのとき母親の顔を思い浮かべるまでもなく、ただ私は痛い思いをしたくなかっただけ。

 

 転んでもいいけど、転ばなくたってすむならそのほうがいいと思うけどなあ。

 

 

☆これが青春だ  2013.3.25

 スーパーでは、中学生くらいの男子はなかなか異彩を放つ。夜の8時を過ぎていたから塾の帰りだろうか。制服姿の2人はパンの棚の前で、値下げ札の貼られたものを探しているのだが、あまり収穫はなさそうだ。50%オフになっているランチパックを手に取って戻し、それから次にジャムパンを手を伸ばし「これでいいか…」と、あまり満足したふうでない顔で去っていった。ほとんどコンビニでしか買い物しないだろう男の子たちが、ある日何かのきっかけでスーパーにやって来て、その日はきっと半額のパンが豊作で、「これからここで買い物しようぜ」ということになる。彼らは「だってコンビニなら100円するのが50円だぜ」と当然のことをうれしそうに口にしながらそれを歩き食いする。だけど、男子が半額のパンを求めてスーパーに通 うなどはあまりカッコいい感じじゃないから、お互い口には出さないまでもこのことを同級生に話すことはせず……つまり二人の秘密の楽しみなのだ。しかし、本職の主婦や、日々のやりくりという意味ではもっと本気で挑んでくる社会人の狩人にかなうわけはなく、このように肩すかしをくらう日も少なくないと気づく。そしてだんだん当初感じたような楽しさは得られなくなってしまい、スーパーから足も遠のくのだ。……という想像を一瞬のうちにしたのだけど、こういうのも、また青春の1ページだと思うんだなぁ。

 

☆「想像させる」ことができる人は優れものである  2013.3.19

 片岡義男の『紙のプールで泳ぐ』というエッセイ集を読んでいた。1984〜85年に『POPEYE』で連載されたエッセイを集めたものだそう。一編、約3000文字。アメリカの写 真集を切り口にしたものが多いのだが……ちょっとずつ読み進めて、終盤あたりで気がついた。その写 真集の表紙さえ掲載されていないのに、読んでいてまったく物足りなさを感じていないことに。これができるのは、文章力はもちろんのこと、片岡義男がその写 真集を確かに自分の視点で読み取っているからこその業なのだろうな。本当に尊敬する。

 

 何かを語るときに、そのものの《絵》を見せるのは手っとり早い。一瞬で画面 は華やぐけれど。たとえばブログや何かにおいしそうなご飯の絵をポンと載せて「おいしそう」とだけ書くことを、私は味気ないと思ってしまうんだ。たとえば、フルコースの料理でもファストフードのでもそれは同じで。もちろんそういう写 真を見たら、私も「おいしそう」と感じる。しかし、実際それを前にしている人しか得ていない情報があるわけで、その感想を何かもっと具体的に……少ない言葉でもいいんだけど、見る人の想像力をかき立てる何かを提示してくれたらな、と思う。それがコミュニケーションであって。コミュニケーションなど求めていないとは言わせないぜ。

 

 片岡義男がいっさい《絵》を載せずに、読者のほとんどが見たこともないようなアメリカの風景や、アメリカの人々の服装を、そして《それを撮った人の視点》をも伝えようとするから、読み手はそれを懸命に想像し、だけどその過程で《それを見る視点》をも疑似体験できるのだ。

 

 想像力を喚起させるものこそ、豊かだと思っている。

 

☆無題  2013.3.15

 私はコレクターではないので、一時期「この作家」「このシリーズ」と決めて集中的に買い、読み漁ったりしていても、「もういいかな」と思ったら手放してしまうほうだ。ことに、世の中に《その筋の》ちゃんとした収集家がいるとわかった場合ほど、ふんぎりがつくのが早い。だいたい、置き場と内容を管理するにはコレクター意識に基づく管理能力が必要だ。私にそれはない。

 

 集中的に買う、といってもそのスパンは長い。私は買うために古本市に走ったり、オークションをチェックしたりするわけじゃないから、その集め方はゆるやかなものだ。古本屋はしょっちゅうのぞくけど、あくまで日常生活のついでのレベル。「さあ、今日は古本屋めぐりするぞ」なんて日はないですね。

 

 ここ数年わりと意識して買っているのは、パズルの本。数字パズルとか論理パズルの類。それから、内外の「ユーモア小説」と名のつく選集。このジャンルはとても好きなのだけど、スキマ産業的な視点なのでこれぞ決定版みたいなものが見あたらない。ユーモア小説専門の作家とみなされる人もあまりいないし、どこらへんの感覚をど真ん中とするかも時代によって違うので、こう冠した選集(全集本でも見つかるのはたいてい端本)を見ると買ってみる。ああ、わりとアンソロジーものも買っているかな。知らない作家を発見するチェッカーとして機能的だから。

 

 そして最近、少女漫画の絶版本では、知らない作家のものを、何も考えずにバシバシ買うようになった。むやみに高くないものに限りですが。本、漫画に限らず、音楽でもそうだと思うけど、自分の好きなタイプって未読、未聴でもなんとなくカンが働いてわかるようになっていくよね。そうなると、自分の中の「自分を満足させるセンス」みたいなのに飽きちゃって、大好きにならないかもしれないようなものに出会いたい、って気持ちになることがありませんか。

 

 もちろんB級趣味(忌まわしい!)ということではないし、かといって……「じっくり見ればすべてのものの中に、少しは良さを見いだせるはず」的な考えとも違う。後者は、近いところもあるけど、やっぱり違う。

 

 ひょっとしたら、私、少女漫画ぜんぶ好きなんじゃないだろうか!

 

 と書いて、さらにハッとする。今まで、「パンクとかヘビメタとかジャンルが好きって言い方はなくてー、パンクにもメタルにも、ジャズでもそれぞれ好きなバンドがあるわけですよ」「だよねだよね」……という会話を多くの人としてきた気がするが。もしかして。うーんとざっくり言えば、私、音楽ぜんぶ好きなんじゃないだろうか。「嫌いな作品」に出会ったと感じているとき、本当はそこまで嫌いなわけではなくて、「嫌いなところ」を探しているのではないか。なぜそんな面 倒くさいことをするのかというと、それは何かを下に見たいからではなく、自分が「好きなものを選べる人間だ」と思いたいからではないか。(※これは何が正しい音楽ファンかを論ずる話とは関係ないからね!あくまで、私個人の話です!)

 

 初めてこういう考えに思い到ったので、少し恐ろしくなってきました。

 

 少女漫画の話に戻ろう。古いけど高値がついてない本というのは、ゴミ宣告ギリギリの存在なわけですね。そこを私が拾わずしてどうする? いや、自分でもどこに使命感を感じてるのかよくわかりませんが……曖昧に、コレクターに似たものを目指すわけじゃないけど、とりあえず、今私がそれをすくい上げておきたいという気持ちになったのだ。

 

 で、今後も増え続けるであろう少女漫画について記録することを主な目的として、ブログを始めました。

「ド少女文庫」http://ameblo.jp/doshoujobunko/

 

 ブログのことを紹介するつもりで書き始めたのに、途中で変なことに気づいてしまったので今けっこう動揺しています(笑)。

 

夜道は気をつけて歩きましょう  2013.3.1

 つい先日、吉祥寺の駅からさほど遠くないところで、22歳の女性が背中を刺され、殺される事件があった。第一発見者が通 報したのは、深夜2時前。彼女の財布を持った男が逮捕されているものの、共犯者はまだ捕まっていないとかで全貌はあきらかになっていない。

 

 ともかく。夜道は気をつけて歩きましょうよ!!

 実に当たり前のことなんだけど、ふだん見てる限り、全然気をつけないで歩いてる人が多いんだよね。音楽聴きながらじゃ危険が迫っているのには気づけないし、携帯見てるなどはもってのほかだ。

 後ろを歩いている人をチラ見する「牽制」は、やりすぎると、かえってその気のない人を怒らせてしまうからスマートにやらなきゃいけない。気になる人はなるべく自然に先に行かせるようしむけるとか、自分が道の反対側に渡るとかね。

 

 私はときどき、少し前を歩いている人の背中を眺めながら、「この人にいきなり飛びかかって殺すことができるかな?」と考えることがある。そういう願望があるわけではありませんよ。ただ、なんとなく《必要があったら》それをできるのだろうか、とシミュレーションしてみる気持ちになるのだ。体当たりをかましてまず倒す? 何かを使って首を絞める? 鞄をひっぱって転ばせて馬乗りになる? などなど、相手の体型に合わせて、どんな抵抗を受けるかなども想像しながら、また相手の弱点はどこにあるだろうかなどと考えてみる。

 

 以上は私が本能的に行っているシミュレーションで……これはまったくの後づけになるけれど、こうしたことを考える中で「襲いやすい(=襲われやすい)タイプ」が理解できる。スキがある、だけじゃなくて。自分よりでかい人はハードルが高い。いや、自分より小柄な女性でも武道の心得がある人なら、あっという間に形勢逆転されそうだ。となると、運動神経鈍そうな人をねらったほうがよい。どこで見分けるかといったら、歩き方に表れるのでは。足をあまり上げずにてれてれ歩いてる人はねらい目な気がする(あくまで私の観察に基づく!)。

 

 攻撃は最大の防御というから、自分が襲いかかる側の気分でいたら、襲いかかられにくくなるのではないか? 理不尽は理不尽をもって制す!

 

春休みっていいじゃない  2013.2.27

 例年、私が夏休みごっこを楽しんでいることは常連読者の皆さんはご存知でしょうが、これもすっかり板についてきたのでさらに「春休みごっこ」に挑戦してみようかなあなどと思ってしまった。

 

 夏休みの過ごし方には、いかにも夏らしい行事や長期バイトなど定型のイメージがあるが、春休みの魅力は逆にそうしたイメージがないところだ。小中学生なら2週間あるかないか。高校生はもう少し長いかな。その半端な長さも、まだ春本番といえないような気候もまたやるせなくていい。なんといっても学年の切れ目であるゆえの、所在なさを思い浮かべるとうっとりくる。小学6年の春休みは、もう小学生ではないしまだ中学生でもない。卒業・入学が絡んでなくても、学生の頃は、学年がひとつ違うだけでも意識がだいぶ違うものだし。

 

 学生の頃の春休みって何をしてたんだろう。小学生のころは、自転車乗ってるイメージだ。暖かくなるからね。それから、新学期に備えて、教科のノートを揃える。これはいい、きゅーんとくるね。中学になると、春休み公開の映画を見に行く。予算が限られてるから1回だけね。中学3年のときは、高校が私服なので洋服やカバンや靴を揃えるのでわくわくしてた。

 

 なんだ、結局ただわくわくしてるだけなんだ、春休みって。実にいいじゃない! しかし、その分これは大人が取り入れるのは難しいわー。フォームの研究が必要だね。

 

「ガーリー」問題  2013.2.23

 「ガーリー」とか「女子(※大人が使う場合の)」という言葉がどうしてもひっかかっていて、一体私は何にそんなに抵抗があるのか考えるともなく考えてしまう。

 

 これらの《言葉》そのものを嫌悪しているのではない。 「ガーリー」は、「少女趣味」や「おとめちっく」の延長線上にある言葉で、女性がいくつになっても少女趣味を好むのは別 に近年の傾向というわけじゃないし。 しかし、「ガーリー」の使われ方に、なにか特有のものはあるように思う。おそらく私がひっかかるのは、まっすぐにその《文化》に耽溺する態度とは別 に、「今日はガーリーねらってみました」などというような《自己演出的な》態度にであろう。

 

 あくまで私の理想だが、「ガーリー」や「女子」は、外から言われたり評される言葉であってほしい。ごくたまに、そっと「私、ガーリーなものが好きなんです」と独白する場面 があってもよいかもしれないけれど。「どうよ!」とばかりに宣言されるときに生じる、「ガーリー」の根底にあるものとのねじれが私を不快にさせるのだとわかった。

 

 そう、「女子力」という言葉もそうで……「女子力上げなくっちゃ」なんて公然と宣言しちゃうことは、私の思う女子力とはほど遠い、矛盾したものに思える。要するに品がない。

 

 おそらくずっと昔から、女の人はいくつになってもかわいいものが好きだ。しかし、そこに「大人になってもガーリーなものが好きで」と口にはしないまでも、一点の恥じらいが欲しい。ひけめに思う必要はない、好きなものは好きなんだ。堂々と好きで、ただ、ほんの少しの恥じらいがあれば……そこにこそ本来「ガーリー」の精神があるのではないかな。

 

 いまや「ガーリー」「girl's」「女子」という 言葉を冠にしておけば、オールマイティーの通 行手形になってしまうような雰囲気はある。そういうポジションになりさがっている安さをひしひし感じつつ、それでも、これらの言葉を使うに適した場面 は確実にあるので……そうとう取り扱いに注意してつきあわなきゃならないと思うばかりだ。

 

ファンシー考  2013.2.8

 ときどきサンリオショップに行きたくなる。ノスタルジックに浸るつもりではなく、いまだに私にとって《贅沢》である《ファンシー》に触れるためだ。200円ほどの薄っぺらいノートの美しい表紙……イラストがきれいに印刷されていることはもちろん、デザイン性を高めるレースや金糸をあしらったタオルなどを手にとって、素晴らしい、と思う。100円ショップにも最近はなかなかのクオリティのものが並ぶけれど、当然その違いは格段だ。

 

 ずいぶん迷った挙げ句に、一冊のノートを買ってみる。贅沢なことだ。

 

 考えてみると、私の場合、学生時代にこうしたかわいらしいノートを勉強用に使ったことはなかった。もしかすると、周囲の友人はそうでもなかったかもしれない。まあ私が人よりいささかケチだったのかもしれないが……いや、やっぱり私としては、その美しいノートは学校の授業などに使うには「もったいない」というよりも「そぐわない」と思っていたのだ。かわいいノートを使えばつまらない授業も楽しくなる? そういう考え方もあるのかもしれないが。私が授業に使っていたのは高級なほうでコクヨのCampusノート、あるいは親がスーパーで買って来てくれる5冊組みのノーブランドの大学ノートだった。美しいノートを何に使うかといったら、自分の日記や交換日記、それからちょっとした考えごとを書きつけたりする日記に準ずるメモだったり。あるいは、料理のレシピや、好きな曲の歌詞をせっせと書き写 すとか。そうしたノート、一冊一冊の表紙を、中ページを、ほぼ完璧に思い出すことができる。子どものころからせっせと書いていた小説のまねごとも、勉強と関係ないとはいえ大学ノート組の分類だった。

 

 だから今も、私は生活の実用品(家事に関係するもの)にファンシーが入りこむことを慎重に避けている。かわいいものだけで身のまわりを埋めつくすということは、《贅沢》に思えないのである。

 

 引き出しにしまったそのノートが、一枚のハンカチの存在が、心を慰めたり温かくしてくれること。これが私にとっての《ファンシー》である。

 

 ちなみにサンリオショップ以外で、私が好む「ファンシーショップ」とは、カントリーとか薔薇の模様の大好きな中高年の主婦層向けの雑貨屋だ。そういう店で、たとえばこみ入った細工のフルーツピック(私の生活にはまず必要ない)とか、オルゴール付きのアクセサリー入れ(これも収納の工夫に勤しんでいるタイプにはそぐわない)とか、ヨーロッパ趣味の陶器の置物(意外に高く、しかしその手のホンモノに比べたらきっと安いはずの)を眺め、ごくたまに小さなものを買ったり買わなかったり……。

 

☆私たちは雛壇芸人にあらず  2013.1.29

 マキタスポーツさんが実名で書いた『一億総ツッコミ時代』という新書があるそうで、ぜひ読んでみたい。聞きかじりの情報なので間違ってたらすみませんが、要はSNSなどで多くの人がひょいとニュースや人のブログやコメントを取り上げて「それってどうなのwww」的な態度でツッコミを入れる、そうした態度の蔓延に言及している……らしい。一億総評論家、ともいう。

 

 少し前に、円盤の田口さんと「ネタで音楽を聴いたり、本を読む人っていますよね」「そういうのと誤解されるといやですよね」という話をした。たとえば田口さんの場合、円盤を知る人には説明不要だけれど、たくさんのヘンテコな音源を集めていて、テーマ縛りの編集盤を作ったりジャケの展示をやったりしている。私の場合、事件に関するノンフィクションを多数取りそろえていたりする、が、それは「ネタ」のためではないのだ。

 

 「これはヤバい」というひとことで、なんとなく流せることが多くなりすぎた。たとえば、デアデビルで古本まんが市を行った際に気づいたこと。見るからにエグそうな、ガチホモ漫画の表紙を、生まれて初めてまじまじと見たであろう人の反応は、たいていは「ヤバい」だ。うん、まあ、モノがモノだから第一声がこれなのは致し方ないだろうね。大事なのはその先。それが「ネタ」と誤解されないために、ポップも書いたし、実際にお客さんに話しもした。パッと見は異形だけど、《何が気に入るかわからないから、まずは先入観を持たず、フラットな気持ちで読んでみてください》ということは、他の漫画と何ら変わらない。ただ、最初からとんでもないコマを見つけだして指さし、「これはヤバいっしょ〜」とツッコむ視点では、何も吸収しえないから。

 

 例えば、「トンデモ本」なるものを収集し、それを紹介する書籍を作っている方々もいるが、それは専門家の仕事である。薄っぺらいツッコミ目線だけでは作り得ないものである。どうしようもなく惹かれ、一つひとつをじっくりと鑑賞したあとに、初めて的確なツッコミが可能となるのだ。今日初めて、細部まで執拗に描き込まれたガチホモのアナルファックの絵をパラパラ見て「ヤバい」と騒いでみたって、業界のなかではいたってフツーの表現であったりもする。

 

 芸人でもない私たちに、ネタなんか必要ない。

 

我に問う  2013.1.29

 現代ってすごいよなぁ。CDとか映画とかPVとか、素人が簡単に作れちゃって(あ、ここでは内容のグレードの話はナシです)。ホームページとかブログとかだれでも全世界に発信しちゃって、さらにはおうちでユーストやったり……テレビごっこもラジオごっこもだれでもできてしまう。ほーら、こんなにパソコン技術がない私でさえも(ショボいサイトだけどさ)できちゃう、そういう《フォーマット》があって、苦もなく《できちゃう》ことが、なんだか急にバカバカしく思えてしまった。

 

 《内容》のグレード、完成度はさておいて。私が、恐ろしいなと我が身を振り返って思うのは、《体裁が整いやすい》という点についてだ。何かを発信したいという気持ちにいちいち、それに意味があるのかと難癖をつけるのではなくて。アマチュアはアマチュアの矜持を持ってやるべきだ。プロを目指す者が「プロと肩を並べてやっている」という自負を持ってやるのは当然なのだけど、だれもが《プロっぽいフォーマット》をなぞることが容易だからこそ、かえって《外側》や《態度》だけがそれっぽいだけのお寒いものになってやしないかということ。フォーマットにとらわれて、自由さが失われてはいないかということ。これを考えることを忘れたくないと思ったのだ。

 

 自分のやっていることに疑いを持ってね。何かひとつでも、アイディアを。何かひとつでも、意地を見せたい、見せてほしい。

 

日本人の才能が活かされる洋装とは  2013.1.29

 前回、日本人の洋装を憂えたりして、またそれからいろいろ考えてみたのだが。日本人が洋装がへったくそと言い切れるわけではなく、日本ならではの着こなし文化もそれなりに作られてきたのだと思う。

 

 ここのところ、外国人の《一般人の》ファッションストリートスナップの本をよく見かけるようになった。ロンドン、NY、パリとか……昔からファッション雑誌の中で、こうした企画ページはあった。それを1冊の独立したムックにしたものが、書店やコンビニに並んでいる。それらをパラパラと眺めていると、正直、日本人が参考にすべきものなのかという疑問がわいてきた。

 

 海外の人の、日本人のファッションに対するコメントの好意的なものの多くは「流行に敏感で、おしゃれ」。あくまで全体を見ての雑感だろうが……日本人のファッションに昔ほど絶対的な流行の核はないけれど、単純に海外スナップと比べてみると、その年の流行アイテムというのが見てとれる。私はよく海外からの留学生に取材する機会があるのだが、彼女らは、日本人の女子学生が《日常的に》ひらひらしたミニスカートのようなかわいらしい格好をしていることに驚くようだ。確かに、日本の女の子たちはみんな一生懸命に《キメて》いて、ラフだけどカッコいいというタイプは少ない。

 

 おっと、私が海外スナップを参考にすべきものかと疑問を抱いたのには、「ラフな格好(スタイルの良さを含む)ではかなわない」という意味からだけではない。自由でドハデな着こなしの方も紹介されてはいるが、モノトーンに一点差し色を入れるような単純なものが目につくからだ。

 

 前に何かの雑誌で、海外の人から見た日本人のファッションへのコメントに「なぜ、あんなに重ね着をするのか理解できない」といったものがあった。しかし、その緻密な重ね着技術こそが、外国人にはマネできない日本人のキモなのではないのかな。つい十二単などを持ち出したくなってしまうのは安直かもしれないけれど、海外スナップがなんぼのもんじゃい! 勤勉も一生懸命も繊細も日本人の美徳である。

 

 

☆2013年初ガッカリ  2013.1.10

 正月二日に、初詣に出かけた。近場の神社とはいえなかなかの混みようで、列に並んでいる間になんだか気になったのは、正月だというのに、みんな薄汚いかっこうをしているなあということだ。ときどきピンクや水色のアウターを着ている女の子は見かけるけども、総じて黒、グレー、茶色、カーキ。このとき気になったのは、おそらく色じゃなくて素材のほうかも。老いも若きも暗い色のダウンジャケットなのが、なんとも貧しい光景に映ったのだ。

 

 暖かくて軽いダウンはそりゃお年寄りにもやさしい。しかし、やっぱり私はそんな《お正月》の光景を見ていてなんだか悲しかった。日本人の日常着が洋装になり、そりゃもともとヨソ様の文化の服だからなかなか本家ほどカッコよくは着こなせなくて、それでも思い思いにおしゃれをし……。ほとんどの世代が洋服を着るようになったのは戦後のことで、吊るしの「既製服」が一般 的になって数十年余。その結果がこれとは、残念でたまらない。

 

 本来ダウンに罪はないんだけど、なぜそれが《貧しく》見えたのかといえば、中高年に関していえばカジュアル文化の素地を持たない方々が急速にそれを取り入れたためだろう。それはズバリ、ユニクロのせい。あの、爆発的なフリースのヒットのときに、違和感を覚えた方は多かろう。ユニクロはもともと意識して、高年齢層のモデルも広告に使っていたので、多くの人がしっかりそれに乗っかった。私はあの冬に実家に帰ったとき、母親が黄色のフリースを着ているのを見て、なんとも貧乏くさいなと思った。とはいえ、私が憎むのはユニクロではなくて、「安いし、無難だし、まあこれを着とけばいいだろう」っていう雰囲気だ。おしゃれかダサいかが問題ではない。日常の服を大事にする気持ちを忘れていることだ。服だけではなく何にも言えることだと思うけれど、「とりあえずこれでいいだろう」は、人を鈍感にする。ものの大切さを忘れる。だらしなくさせる。

 

 昭和30年代が美しく見えるとしたら、それは一つひとつのものに対してありがたみを感じていた心根のせいではないかな。