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☆若さは万能ではない    2013.8.24

 ときどき、女性から「この年でもうこんな若者っぽい服は着れない」という声を聞くけれど、これはどういう心理なのだろうか。この言葉に表されるのは、「着たいけど着れない」である。いっぱしの大人ともなればTPOに気をつかって服を着るのは当然としても、少なくともプライベートの服であれば「着たい」がまず一番にあって然るべきで、どんな服を着たってかまわない。そりゃあ「あんな若ぶった服を着てて痛々しい」と思われたくないのは、よくわかる。だけど、その前に「若い時なら、どんなに若者っぽい“KAWAII”服を着ても似合ったのか」を振り返って考えると、そうでもなかったはず。となると、結局は、どんな年代でも服を着るのにある種の努力がいるのは同じであり、若かろうが年寄りだろうが努力なしで似合う服ばかりを着ている人には新鮮さはないと思う。

 

 もろ10代向けの服屋で買い物したとして、そのまま《若者っぽい着こなし》で着たら、似合わないかもしれないし痛々しいかもしれない……だけど、そこは《好きな服、着たい服であるなら》自分に似合うように着ることはできるわけだ。そして、繰り返しになるけれど、それは若者にだって必要なことだし、30代や40代が《年相応と思われる服屋》で買い物したとしてもまったく同じように必要なことのはずなのだ。

 

 10代ならばだれだって、素のままでアイドルみたいな服が似合うわけではない。ひっくり返せば、何歳でもそれが似合うようにできる道はあるということになる。

 

 自分を振り返ると10代のころにシックな服を着るとき、いかに借り物っぽくならないようにするかが一番難しかった気がする。これは、大人が10代の服屋で買った服を着るのと、同じことだ。そうした時に重要なのは、どうしたらその服のムードに馴染めるかであって、目的は「○歳くらいに見せる」ではないのである。

 「この年でもうこんな若者っぽい服は着れない」は、失われゆく若さへの怨み節である。私の場合、若さゆえにちやほやされた覚えがないために、若さというものにこだわる理由がないのかもしれません。若いときにちやほやされつつも、怨み節をはかずフレッシュでいつづける人は、若さの価値にあぐらをかくことなく自分を更新してきたのであろう、ね。

 

☆ああすれば 嗚呼どうすれば こうすれば    2013.8.15

 過去を振り返って「あのときこうすればよかったのではないか?」と考えることは、ほぼない。いや、別 に何もかもうまくいきっぱなしの人生というわけでもなくて(ああ、これを言い出すと「うまくいく」とは何か?ということにも触れなければならなくなるけど、長くなりそうだからとばそう)……つまりは過ぎたことは仕方がない、と割り切るのが早いほうだからだ。

 

 それでもまれには……そうだな、たとえばあの言い方では人を傷つけたかもしれない、と思うようなときは「どうすればよかったか」を考えることがある。そういうとき、「こうすればよかった」という答えはわりにすぐ見つけることができる。といっても、もうそれを試す術はないのだ。

 

 だから、この答えが見つかっても、それは大して役には立たない。

 

 振り返って考えることに意義があるとしたら……「こうすればよかった」がわかったら、次に「では、どうしてそのとき、そうできなかったか」を考えるのがいいのだと思う。

 

 言動には癖があるから。人がする失敗って、だいたい理由は同じようなところにあるんじゃないかなあ。

 

 「こうすればよかった」がすぐに見つからないようのは、まだその問題に対して客観的になれないっていうことかな。その場合は、「なぜそうしたのか」の側から考えてみるやり方もある。

 

 あるいは「そうするほかになかった」ということかもね。

 

1粒で3度おいしい    2013.8.3

 さて、毎度私のさまざまな変化球オーダーにもしっかり振りを合わせてジャストミートしてくる美容師に、先月末はまたまた新しいオーダーをしてみた。

 この夏はともかく(そろそろいい感じに髪が伸びてきたので)カチューシャがしたくて、半年以上前からちびちび買い集めていたのだ! そして坊主以前によく使っていた愛しき髪留めの類もまたガンガン使っていきたいではないか!

 なので、美容師に出した注文は。1=カチューシャをすること前提(両耳を出す場合も)。2=片サイドだけを髪留めでとめて、片耳だけを出すパターン。3=どちらも使わず、両耳はサイドの髪で隠れた基本バージョン。

 すべての場合に合う……つまりはピンで留めた場合にも髪がもっさりしすぎず、かつ、どんな時もほどよいボリュームになるバランスの実現を想定の上カットしてほしいという要望である。

 

 些細なことのようだけど、できる限り条件を伝えておくと仕上がりが違ってくるなあと実感した次第。プロの技は使いまくらねばね!

 

面 倒くさいをモトから断つ    2013.7.26

 日々、自分を機嫌よくさせておくことが、何においても一番効率がよい。思うに、何か始めるのに、いやだな、面 倒だなとぐじぐじしている時間は精神的によくないもので、そんなときはできる限り駄 々をこねるのがよい。いやだ〜っ!と全力でじたばたしたり泣き喚いたりすると、ハッと我にかえれると思う。子どもだって、「これ買って〜!」と床にひっくり返って暴れていても、ひとしきり泣き喚き、それでも親が買ってくれないと悟るやなにごともなかったようにサッと立ち上がったりするものね。あきらめがつく、ということだろう。

 しかし、大人が一人でいる時にこのように泣き叫ぶところまで持っていくのも、それはそれでエネルギーが要る。

 私の場合、一番ぐじぐじしがちなポイントは「パソコンを起動する」ということだ。パソコンって、起動ボタンを押してから立ち上がるまでに微妙に時間がかかるじゃない。私はあれを待つのがいやなのだとある時気づいた。

 

 そこで、たとえば家に帰って、ちょっと休憩してから仕事をしなくては……という時は。面 倒くさいという気分が発生する前に、靴を脱いで部屋に上がったら努めて何も考えず、即刻起動ボタンを押しに行く。

 もうパソコンが立ち上がっていると、お茶を飲んだりご飯を食べたりしてからぐじぐじすることなく、サッとパソコンの前に座れるから不思議。

 

 これって、待ち時間のなかったワープロを使ってたゆえの、感覚なのだろうか。

 

ポーチのなかみ2013    2013.7.16

 幅125mm×高さ95mm×厚さ50mmのポーチのなかみ。小さく三角畳みしたコンビニ袋2つ。ティッシュ。ホカロンミニ。王貞治氏が胴上げされているトレカ(ホークス監督時代1999年のもの)。ジップロックA(バンドエイド)。ジップロックB(輪ゴム、紙マッチ、ようじ、ゼムクリップ大小、ヘアピン、安全ピン大小)。ジップロックC(頭痛薬、胃腸薬)。ファンデーションのコンパクト。厚さ4mmほどのポケットライト。ケース入りの耳栓。折り畳み櫛。眉ペンシル。リップクリーム。口紅。紅筆。リップグロス。三文判。ポケムヒ(夏季限定)。ミニ香水。USB。

 

 全25アイテム。けっこう入るものですね。

 

古書店主の情熱に触れて     2013.7.16

 ちょっと前の話。うちの近所にある、絵本・児童書専門の古本屋が閉店することになり、店主をこの筋の師と仰ぐ私としては当然手伝いを申し出たのであった。そもそも閉店の理由が、日々本を磨き続けたために完全に腕を壊してしまい、何度目かのドクターストップがかかったせいということもあったのですが。しかし、本当に惜しい店。半分くらいは、お母さんが幼い子どもに買ってあげるタイプのものだけど、半分は洋書やマニア向けのもの。わが街はいまや新刊書店も古本屋もほかにない、地味な住宅街なのですが……その環境で7年やってこれたのはすごいと思う。聞くところによると、都内の絵本古本屋さんで、この店を理想と掲げる方がいる、というのもうなずける。

 ところが、閉店まで1か月を切っても、全然棚が空いてこないのだ。閉店を惜しんで日々詰めかける常連客を前に、店主は相変わらずカウンターに山積みの本をせっせと磨いている。閉店するといっても、お客さんが来る以上は棚がガラガラでは申し訳ないからと言って、笑っている。あと半月になっても、残り1週間になっても、まだ磨いている!

 私は、店主が言う「磨ききれなかった、店に出せない本」の分類・処分の仕事をおおせつかったのですが……しかし、それらの本の状態は決して悪くないのだ。いや、普通 に古本屋さんにある中でも普通以上のレベル。店主がいかに、本を大切に扱っているかを改めて気づかされた。

 

 この店では、棚に入っている本はすべてビニールの袋に収めてある。ただし、気取った店ではない。あくまでも本のコンディションを守るため。「袋から出してご覧ください」と貼り紙がしてあるし、袋に戻すにはちょっとコツがいるのでその旨は店主にお申し付けくださいとも書いてあるし……少しでもお客が袋と格闘している《音》が聞こえれば、店主は「こっちで入れますよ」と即刻お客さんに声をかけるのだ。

 

 まあおよそ古本屋らしくないというか……実によく客に話しかける人なのだ、ときにうっとうしいほどに(笑)。私がすでに本に見入っていても、いきなり「ねえねえアオウさん、これすっごいおすすめだから!」と他の本を広げてやって来て、ページをめくり、音読までしてくださる! さすがにこれは気心知れた客に対してだけだろうけど……うっとうしい、なんて書いてしまったけど、たくましさとかわいらしさの同居した店主のキャラクターのせいなんだろうね、まったくもって憎めない。腕が治ったらまた本屋をやりたいけど、それまでバーとかカフェなんかやるのもいいかなあ、なんて話していたけど、それも向いてるだろうな。

 

 結局、完全撤収ぎりぎり、棚を撤去する日になるまで本はいっぱいだった。店主の情熱に敬服しきり。完全にボランティアのつもりだったんだけど、最後のほうは「アオウさん専用コーナーを作ったから」(私の好みは把握しきっている)と、本をずいぶん割引していただいたり、おまけしてもらってばかりで恐縮しつつもしっかりと頂いてしまった。あ、でも、古本市場で高く買い取られないくらいなら、私がとりあえずこの本たちを引き取って、死蔵しないで、適した場所・人にパスしていこうという気持ちは強くあるのだ。本に、この店主に、ご恩返しできる方法を何か考えていきたいと思っている。

 

☆楽屋裏は楽屋でやっておけ    2013.6.23

 今年からトークイベント「四度の飯と本が好き」を始め、勉強の意味もあってちょいちょいそういうイベントを見に行くようにしている。トークでチャージ料をいただくって、考えてみたら恐ろしいことで。そりゃライブにしたって素人に毛の生えたレベルじゃ申し訳ないって思うけれども、「トーク」はさらに《だれでもできる度》が高い気がするものですから。出版まわりの仕事でいうと、私は常々、イラストレーターやカメラマンやデザイナーに比べ、ライターの《名乗りやすさ度》は高いと思っていて……それに近い感じ。

 さて、しかし興味深い映像や画像を見せちゃう系のイベントに行ってみて、思ったことがある。壇上の方は「見せたいとっておきのネタ」をたくさん持ってきてるのね。それは、お金を払って見るに値するものなのね。ここは納得。

 

 ただし、いかんせん「ネタはいっぱいある」ことで「テキトーに見せていけばなんとかなる」っていうダラダラスタイル、好き嫌いというよりも見るのにものすごく疲れるんですよ。あ、ここでは芸風としてのダラダラゆるゆるの話は除く。あくまでテクノストレス(笑)的な指摘です。

 会場のスクリーンに、出演者の用意したパソコンの画面が映し出されているわけ。「あ、あれを見せましょう」となって、フォルダを開けてクリック。その場で画像を探してスクロール……目当ての画像が開く(一発で見つからず、間違って探し直すこともある)。それを《見やすく》「拡大する」操作……ここまでの《本来は手元の動作》一連を、お客はじーっと見ているわけで。うん、実際楽しい画像が見られてワクワク、盛り上がりはしても、これを延々繰り返されるとほんとーに疲れるのね! 一度、途中でそれに気づいて、どうでもいい操作中は目を逸らそうと試みたが、それもかえって神経使っちゃう。

 

 どんな形でもいいけど、せめてストレスなく絵を見せる努力はしてほしいなあ。家に友だち呼んで見せてるんじゃないんだからさあ。便利なモノに頼るゆえの《人の退化》を見た気がするんだ。たるんでいる。真面 目にカッチリ用意してきちゃうのがカッコ悪いと思っているのかな、とは深読みしすぎか? 発信すべきおもしろいものを持っていても謙虚さがないとね。「見てほしい」気持ちを直視したら、謙虚にならざるを得ないと思うんだけど……。

 

感情と機能     2013.6.17

 怒るのは悪いことではない、というのは前にも書いたような気がするけれど。詳しくいうと、怒る方向性や熱量 があっていれば、ということになる。「羨む」「悔しがる」 なんかもそうね。冷静に考えたら自分に関係ないものまで羨んでしまうのは強欲だし自分を傷つけることもあろうけど、自分の方向性にあった《羨ましがり》は目標を明確にする役に立つのではないか。「人と自分を比べない」という使われるフレーズ、その本意にはもちろん同意だが、ときにはその差を思い知ったほうがいい場合もあるしね。これらの感情が芽生えたならば、その気持ちが何に根ざしたものかを自分で理解することが必要だ。それを知らずにただ抑えこむのはマイナスだ。。人前で怒りや不満をあらわにすることは良くない(カッコ悪い、大人げない/いい人と思われたい)とするあまりに、それらを抑えこむのが《癖》になり、しかし一人になったときに怒りが噴出、やり場のない気持ちを抱えてストレスまみれになっている人がいる。《癖》と書いたのは、それがもはや考えてそうするのではない、習慣になっているという意味だ。

 笑顔はいいものだけど、これもまた同じような危険をはらんでいるといえる。なんもなくても笑っているのと、なんもないのにムスッとしているのをいっしょにはできないが。おかしくなかったら笑わなくていい。いや、私だってお愛想笑いのひとつもする場面 はあるよ。だけど、それは心の底でわかってやっている。相手を馬鹿にしたり見下したりしてはいないよ。その場のため(つまりは私のため、も含む)に必要だから、やっているんだと思うんだ。

 

 

☆セコい人間の毎日が面白いわけがないのだ     2013.6.7

 子どものころ、マラソンなんかをやる時に必ず「いっしょに走ろうね、早く行かないでね」と約束しあう女子が見られた。正確に、私の記憶でいえばものすごく子どものころにはいなくて、小学校高学年くらいから発生した。元から足が遅いか、あるいは一生懸命走るのがいやで、でも、文字通 り道連れが欲しくて、こういう約束をしあうのである。お互いに意見が一致して約束しあうのなら別 にいいか? いや、でもやっぱりとってもカッコ悪いと思う。

 中学の時、仲の良かった子に、残念ながらこのタイプの子がいた。で、この通 りのことを言われた。ちなみに彼女は運動が苦手ではなかった。ただ、保険をかけているだけ。もちろん私は約束しない。本気になりたきゃ本気出すし、テレテレ走るのも自分の勝手。当たり前である。こう言っちゃうと、(喩えにマラソンを出した都合上)、それは運動の苦手な人の気持ちがわからないからだと思われるかもしれませんが、そんなことはない。私は全然泳げない。それこそ授業で水泳をやるシーズンになると、泳ぎの苦手な同胞にやたら《いっしょうにいようね》モーションをかけられてたわけだけど、蓋を開けてみれば私はだれよりも言葉の通 り「泳げない」ので、きっと彼女たちの心の支えになっていたと思います(笑)。

 

 そうそう、テスト前にやたら「勉強なんてしないよね? 絶対しないでね」と言ってくる人もいましたね。あれはもっと不思議。だってマラソンのようにギャラリーの前で一目瞭然になるわけでもないのに。で、テスト勉強に関していうと私は誇張でなく、本当にほぼ何もしたことがない。これは、別 にだれかとの約束を固く守っているわけではなく。なので、「勉強なんてしない」と言ってた子が素晴らしい点を取ったって、「あの野郎!」なんて思いやしない。

 

「目の前にあること、すべてなんでも全力でがんばるのが理想」という主義の人もいるかもしれない。いるんだろう。うん……美しいけど、私には共感できない。しかし、「好きなことをがんばればよい」という言い方もいささか甘美すぎて、現実的ではないと思っている。「自分にとってがんばったほうがよい、と思えることを(その度合いに合わせて)がんばればよい」というのが、たぶん私のスタンスだ。

 

 がんばらないと安堵され、がんばると「ずるい」と言われるとは……なんてセコいのだろう。繰り返し言うけど、たくさんはいなかったですよ、そんな人。でも、大人にも稀にいることも、知っている……。

 

 がんばりどころもサボりどころも自分で決めればいいじゃない? 

 

 高3の時、私はクラスの旅行委員になった。役目は卒業遠足の仕切りだけだったので、年間を通 しての仕事がなかったからである。クラスの皆からの希望をまとめ、行き先を決め、スケジュールを組むなどの仕事はやってみるとけっこう楽しく、自分も盛り上がっているような気がした。ところが遠足の前夜、私ははっきりと「あ、行きたくないな」と思ってしまう。集団行動が嫌いな人なんて珍しくないだろうが……仲のよい友だちもいたのだけれど……それでもやっぱりどうにも行きたくなくなった。都内のバスツアーだし、当日の仕事は別 にない。それよりさすがに気にかかったのは、同じ委員の友だちを裏切るのかってことだ。委員は4人いた。そのうちの一人は、親友だ。彼女も私と同じようなたちであることは嫌ってほど知っている……。

 結果、私は親友にも前もって連絡することなく、当日休んでしまった。ズル休みだってバレバレだろうなと思いつつ。

 

 ところが。次の日に登校してみると、なんと彼女も欠席したというのだ。

 

 お互い、「なんで連絡してくれなかったの!?」などと非難しあうこともなく。この一件で、私はますます彼女を信頼するようになったという話。おっと、向こうはどうか知らないけどね(笑)。

 

 

☆自由     2013.5.27

 縛られる要素が少ないのは私にとって好ましいことだけれど、それがすなわち《自由》というものではないと思っている。 

 自由はみんなの永遠の大好物で、憧れだ。いうまでもなく素晴らしいものだ。

 しかし、ときどき、フリーランスやフリーターなどの《自由な》生き方が美化されすぎているのではないかと思う。組織に属さない生き方を選択するのは、勇気がいることかもしれない。でも、別 に勇敢な行為というわけじゃない。

 

 フリーランスやフリーターを賛美する必要がないのと同等に、会社員を賛美する理由も私は持っていないのだけど、会社員の方々がもれなく(たぶん)きっちり税金を納めてる存在だということは賞賛に値すると思っている。

 

 おっと、フリーランサーおよびフリーターが払ってないっていうわけじゃないよ(私は払っています、今のところは)。ただ、会社員以外の人はばっくれようと思えば可能で、それに甘んじてるキリギリスも少なくない(あくまで心身健康なキリギリスについてのみの言及です)。

 

 その上で《自由》を謳歌するなんて、大人としちゃ、ごっこ遊びにおける“オミソ”みたいなもんだ。

 税金を踏み倒して通す生き方も否定はしないよ。ただし。(“ただし書き”が多くて申し訳ないけど、デリケートな話題なのでね。)

 《河原乞食》の自覚を持ち、《自由を謳歌してる》そのことだけで、吾を必要以上に美化してはならないと思う。それがキリギリスの仁義じゃないかな。

 

 ギャグで言ってる人も多かろうけど、会社員の人に「社畜」なんて言葉、使ってほしくないんだよね。それを言わせているのはブラックな上司かもしれないし、無自覚なキリギリスかもしれないな。

 

眉毛ぼうぼうの愛すべき少女     2013.5.20

 お母さんといっしょに電車に乗っている、小学校高学年くらいの女の子。髪の毛をやや幼いきちっとした二つ結びにしていて、眉毛は整えられておらず、ぼうぼうである(ちなみにお母さん自身はファッションに無関心というふうではない)。

 

 こういう子を見るとなんだか安心する……といってしまうと大人の勝手な、健全なる(?)子ども像を賛美しているみたいだが。そういう意味ではなくて、「この子はまだ立派に子どもで、この先にやることがたくさんあるのだ」と思うとうれしくなるのである。

 

 いまどきの子どもは、私の子ども時代に比べてとてもおしゃれだ。趣味や行動範囲も、かつての子どもよりは広いかもしれない。しかし、私が見る限り、内面 に違いがあるかというとそうでもないように思う。 見た目ほどませてはいないってことだ。

 

 私は早く大人になりたくてしょうがなく、11〜12歳ともなれば、まあ並み程度におしゃれへの関心はあった。だけど、一方でものすごくそれに踏みとどまる気持ちもあった。大人に憧れる分、自分がいかにまだ子どもであるかを痛感していたからだ。だって、子どものくせにおしゃれなんて……あどけない幼児が「あら、かわいらしい」といわれるようなおしゃれはもうしたくない。だけど、もうちょい上の大人をマネしたようなおしゃれには、まだ見合わないと思っていたからだ。

 

 あの子は、自分のあか抜けなさに気づいている。一見おしゃれに興味がなさそうに見える子が、まわりの子の変化に鈍感かというとそういうわけではない。

 

 女の子の多くは小さい頃から背伸びをするもので、それ自体は微笑ましい。だけど、あまり小さいうちから、なんの葛藤もなく大人ばりのおしゃれを許され、するすると身につけてしまうのは、もったいないことのような気がするのだ。あえて乱暴な言葉を使うが、《“未完成の、みっともない”子ども》であることに焦れ焦れする時代があってこそ、脱皮の喜びも感じられるのではないかな。そうした脱皮のステップを一つひとつ味わえたなら「○歳になったらもうオバサンだ」などとうそぶくことなく、やっていけるんじゃないかと思うのだ。

 

おひとり様はさびしい人だと思われていないことの証明     2013.5.11

 世の中にはけっこう「ひとりでご飯食べてたら、さびしい人と思われないかしら?」と気にしている人がいるみたいだ。

 純粋にひとりでご飯食べるのがさびしい人、退屈だと感じる人はだれかを誘えばよい。だけど、「さびしい人と思われないかしら?」と人目を気にする考えに到るってことは、本来は別 にさびしくない人なんだよね?

 

 昨今「おひとり様」という言葉がポピュラーになって、「おひとり様でもOKなお店」ガイドみたいなものが出回るということは、本当はひとりでも差し支えないけど人目を気にする人の数も多いということになり。

 

 ということは、実は「自分はひとりでも差し支えない=おひとり様をさびしい人だと思ったりしない」人はたいして少数派でもないということになる。

 

 Q.E.D.