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「恋人はサンタクロース問題」を半日考えた挙げ句の結論   2014.12.07

 この季節、松任谷由実の『恋人はサンタクロース』を街でよく耳にするようになって、実にもやもやする。何しろこの曲がヒットした頃から、ずっともやもやしているのだ。「恋人はサンタクロース」とは何を意味しているのか、と。

 

 ふだんそこらで耳にする曲について、常に意味を考えたりしているわけではない。ただし普通 は、好きか嫌いかはともかくサビのワンフレーズを聴いて「あ、そういうことね」と処理できるのだ。それがこの曲の場合、なぜ意味を問いたくなるのかというと「恋人はサンタクロース」でうれしいのか驚きなのか(うきうきした感じの曲だからたぶんそのどちらかなのだろう)まったく感情が想像できないのである。

 

 おそらく、その言葉とメロディと、歌唱のトーンの情報を、私が統合できないということなんだ。「かもねかもねそうかもね」でも「死んだはずだよお冨さん」でも統合できるのに、「恋人はサンタクロース」だけが私に「なぜ?」を残すのはなぜなんだ。

 

 意味を考えようとすると「恋人がサンタクロース、はいはいすなわち物をくれる人ね」みたいな平凡かつ意地悪い読解に陥るので、ひたすら雰囲気で「恋人はサンタクロース」をとらえようとしても、やっぱり何も感じない。何も感じないけれどその言葉がキャッチーで印象的である分だけ、困ってしまうのである。そう、この言葉だ。私はこのフレーズを聴くたびに、困るのだ。ロマンティックな気持ちになりたい感じなのに、何かが邪魔をしてそういう気持ちにさせないからだ。

 

 『ママがサンタにキッスした』だったら容易にロマンティックになれるのに!?

 

 つらつら考えているうちに矛先はそれていき、日本語のポップスで良いクリスマスソングがないからこの曲がかかりすぎるのだ、と思い至る。このほかにかかりまくるJポップといえば、山下達郎のアレくらい。しかしね……あの曲にもリリース当時、私はずいぶん疑問を感じたものだ。これは別 の意味の疑問。これって、山下達郎の曲にしちゃ、そんなに出来が良くなくない? あ、及び腰な言い方になってしまった。ほら、だれも言わんでしょ、山下達郎の曲がいまいちだなんて……。でも、歌い出しはともかくさ、あの「サイレントナイ〜、ホーリーナイ〜」ってトコはずっこけませんかね。私はずっこけますね。

 

 ハロウィンが終わって11月になればそこらじゅうツリーや電飾が飾られるほどクリスマスはでっかいイベントだというのに、どうしてかJポップにクリスマスソングは少ないのだ。いや探せばあるんだろうけど(ビジネスチャンスだし)、たぶんこれらよりいい曲がないんだろう。

 

 桜ソングは掃いて捨てるほどいっぱいあるのに!?

 

 と、考えると、やはり日本人にとってクリスマスはイベントとして定着してはいるけど、いまだに詞が書きやすい題材ではないのだとわかる。

 

 山下達郎が「きっと君は来ない」と、せつない方向に寄せたのはけっこう冒険だったかも。

 では、松任谷由実は何を書きたかった《はず》か、というところから逆算して考えてみよう……その世界においては「クリスマスには、カッコいい彼が車で迎えに来てどこそこに行ってイルミネーションシャンパンディナーブランド品(※中略、というかこの手の事情に詳しくないので割愛)して、一流ホテルでセックス」ということですよね?

 

 ああ……そうか。「恋人はサンタクロース」は、恋人の描写ではなくて、「恋人がいますよ」ってことだったんだね。あからさまに言うと「恋人とセックス」ってことだったんだね。

 

 受け取り方は自由なので、私はこれをもって「恋人はサンタクロース問題」を収拾したことにします。たぶん、もうもやもやしない。ロマンティックを感じなくていいとわかったから。

 

 

テンション高いって素晴らしいことなのか?   2014.12.07

 いつからか「テンション高い・低い」という言葉がよく使われるようになって……それはざっくりと言えば「明るい・暗い」程度のものをちょっと特殊な言い方にしただけなんだと思うが。私は「明るい」も「暗い」もただの事象でそれにたいした意味を感じていないんだけど、ことさらに「テンション」は高いとなんだかいい、みたいな雰囲気になってるのがひっかかるようになった。

 

 たとえばライブなど何か人前でパフォーマンス的なことを行うにあたって、「テンション高い=良いステージ」みたいな? そうだな、これはプロレベルならともかく……アマチュアではむしろテンションなるものに酔っているステージはむしろ遠慮したい。要はたまたまご機嫌ってことでしょ? 酔っぱらいがみんな面 白いわけではないのと同じで、テンション高いすなわち良いステージをできる、ってことではないと思うのです。

   

      

☆大樹の陰にいなくてよかった   2014.11.8

 自分の若い頃を思うと、当時はそれなりにいっぱしのつもりでいて愚かしいこと、身の丈に合わない図々しい言動をしていたものだから、「今の若いもんは…」なんて簡単には言えない。だけど、振り返って「良かった」と思えるのは、「大樹の陰」に身を置かなかったことだ。

 

 私は長い間個人で仕事をしているが、個人で何かやってるからといって必ずしも「大樹の陰」にいないとは限らない。また、組織に身を置いている人が「大樹の陰」にいるという意味ではない。大きな組織にあっても、自分の意識ひとつで《過度に守られすぎない》ことはできる。個人で活動している人も、大樹の陰に寄らせてもらうことはできちゃう。心意気の問題だ。

 

 私は「鶏口となるも牛後となるなかれ」という諺が好きだが、自分よりレベルの高い人とつきあうことの大事さも知っている。ただ、それと対等にやりあえるようになろう…いつかは、ではなく、今すぐに、という意識がなかったら「寄らば大樹の陰」なのである。大樹の陰はきっと楽だけど、今より強くなることはできないよ。

 

 ことに女性は、その危険が多い。世の中には、いい感じに女性を表に立たせて看板にしながら、ちゃんと守ってくれるプロデューサー気質の男性ってけっこう多いからだ。「女性を看板にする」なんて古くさい? いやいや、そんなことないよ。だってどんな世界においても……結局《社会》では男性が看板を背負っているほうが圧倒的に多いでしょ!?

 

 尊敬する先輩には絶対に牙をむかない良い子でいては、成長はないってことです。

 

 自分がどのように動き、何を言うかをだれかの監督下に置かれているのだとしたら、それは「大樹の陰」にいるということです。

 

どうしてそんなに女子は女子が好きなのだろう   2014.10.18

 現代ほど、女子がかわいい女子にマニアックに注視している時代がかつてあっただろうか、とよく考えている。たとえば私の知る限りの時代……80年代にしても女の子が同性のアイドルに夢中になることはあったけれども、今ほどではなかったような気がする。あくまで私感なのだが、それは「こうなりたい」という憧れを含んだ目線が中心だったように思うのだ。

 

 現代は「かわいい女の子を見ることが至福」と公言してはばからない女性が多く、より趣味的なニュアンスをそこに感じるのだ。そうした女性はそんな己をよく「オッサン(笑)」と表現しがちだが、それもしっくり来ないと私は思っている。

 

 《女子は同性を「かわいい」と敢えて言うことで自分の立場を維持している》といった考察はとっくの昔からあり、これもひとつの真実ではあると思うが、最近私が感じているのはそういうレベルをはるかに超えたものだ。見た目のかわいさだけでなく、よく耳にする「がんばっている女の子が好き」や「女の子はみんなかわいい(かわいくなれる)」という言い回しも同種のものに思えるし、ここにこそ、その謎に迫る鍵があるような気がする。

 

 昨年の10月、このコラムで「女の子はみんなかわいい」という言い回しがあるのに、なぜ「男の子はみんなカッコいい」と言われないのかということを書いた。

 

 少しずつ、性差による壁が少なくなっている時代においても、男同士は「かっこいい」と誉め合うことをしない。

 やはり女の子は圧倒的に許された存在なのだ。そして、時代による変化ということを軸に話をするとしたら……女の子は《男に許される》ことを願うのでなく、女同士で許し許されることを望む時代を迎えているのかもしれない。

 

最近発明した言葉〜その1    2014.10.18

 どういうタイミングで言ったのか忘れてしまったが、激しく同意を求める場面 にて自然に口をついて出たのが「でしょだろ?」。

 これ、なかなか良くないですか。成り立ちはシンプルそのもので「でしょ?」と「だろ?」がくっついたものなんですが。

 積極的に使っていこうと思っています。

 

☆最近発明した言葉〜その2   2014.10.18

 「このぉ〜。金玉がぁ〜?」っていうの。ずばり、男子に向けた挨拶みたいなものです。

 シモネタじゃないです。セクハラだと思われないように軽い雰囲気で言うのが大切でしょうね。「Hey,boy?」みたいなイメージなんですよ。まあ、それなりに親しい人にしか使えないですが。繰り返して言いますが、シモネタじゃないです。なので間違ってもこう言いながら相手の下腹部に視線をやったり、触ったりしてはいけないのです。

 「最近どうよ〜?」「まあ、ぼちぼちですね」「このぉ〜。金玉がぁ〜。」って感じで。

 かなり気に入っているんですが、どうでしょう?

 しかし、これを女子向けに言い換えるとすると、どうやっても俄然セクハラ感がぬ ぐえない感じになるのはなぜでしょうね……。

 

☆私はおしゃべりだ、と気づく   2014.10.18

 今年、初めて文学フリマとコミティアに出展した。以前から興味はあったのだがなかなか行けずにいたところ、ブースを確保している方から「いっしょに出展しないか」と声をかけていただいた。どうせ行くなら客として行くのも出展するのも似たようなものだ。OKしたものの、出展するとなれば売るものがいるわけなので、大急ぎでエッセイ漫画のようなものを描いてコピー本を作ってみた。そんなに売れるわけないのだが、なぜか「1冊だけじゃなくて2冊並べたい」という気持ちが働いてしまい……2冊目の下書きが終わったのが前夜の21時だったのだが、そこからファミレスを3軒はしごして2時にペン入れ終了。24時間、5円コピーが使えるありがたきコンビニのおかげでどうにか完成させた。出展してみて案外売れたのは、いっしょにお店を出していた人のお客さんがついでに買ってくれたのが大きいのだが。売り上げを抜きにしても、やってよかったと思うのは、締切がないとなかなかまとまったミニコミを作ることができないからだ。

 

 ミニコミ! だいたい、どうして私がこんなに長くミニコミから離れていられたのだろう。我々のライブのたびに作っている「我々新聞」もまあぎりぎりミニコミといえなくもないし、不定期でやっている読書普及トークイベント「四度の飯と本が好き」でもブックガイド的な小冊子を作ったりしてはいるが。

 

 しばらく日々のあれこれにめっちゃ忙殺され、このページの更新もブログ「ド少女文庫」の更新も滞っていたわけだが、その間もずっとこう思っていた。「ああ、金にならない原稿が書きたい」と。この「金にならない」という表現に深い意味はない。日銭を得ている原稿仕事の揶揄でもなんでもなく……そうだな、「おしゃべりがしたい」と思うような感じだ。

 

 私はおしゃべりだ。書きたいことが山のようにある。何を見ても何かを思ってしまう。気がついたらけっこう長く生きていて、前に思ったことと今思っていることをなんとなく比較して発見があったり、ここのところ見えてきたものについてしゃべりたくなったり。

 

 そんなわけで、ここの更新もちゃんと続けていこうと思っているのですよ。

 

 

☆すべての長男は殿様である   2014.6.8

 と、タイトルに掲げてみましたが、もちろんこれは私が発見したことではなく……長男のわかりやすい特徴であると思われます。私は外的な環境による性格形成というものにはとても興味があるけど、かといって会う人会う人に尋ねているわけでもありません。ただ、ふとしたときに、これを実感することが多いんですよね。

 

 きょうだいの性格をテーマにした本はたくさん刊行されていて、それらには必ず、まずざっくりと「上の子はまじめで堅実、下の子は要領がよい」 と書かれているはず。でもこの基本の定義、なんかピンと来ないんだなあ。で、私がなんとなく思いついた、上の《男の子》の基本の定義が「殿様」なのです(ちなみに長女は、お姫様ではないと思っています)。殿様には、わがまま暴君もいれば、開拓精神旺盛なリーダータイプもいれば、おとなしいというかボンヤリしてるのもいる。気づかいできて要領のいい殿様もいるだろう!共通 項としては、愛されていることを疑ったことがないということか。愛されているか否かなんて考えたこともないかもしれないくらいに。

 

 わたしが「長男は殿様だ」とふと思ったのは、ある日バンドでスタジオに入っているときでした。メンバーに一人次男がいると、なんだか風通 しがいいなということに気づいたのです(ちなみに私がこれまでやってきたバンドは、ほぼ自分以外に女性がいたことがありません)。風通 しというとちょっと語弊があります。簡単にいうと、ラクだなと感じたのです。もちろん前述したように長男にもいろいろなタイプがありますから、長男は何も進めてくれないとかそういうことを言ってるのではありません。長男より次男のほうがつき合いやすいという話ではないですよ!

 

 この話を先日、とある20代女性にしてみたところ、共感を得ました。彼女の、いっしょに住んでいる恋人がまさに「殿様長男」だと感じるというのです。彼女はいくつかの例を話してくれましたが、もっとも印象に残ったのが、彼女がりんごを切っていっしょに食べていると、彼は「自分がいくつ食べたかを気にせずにどんどん食べてしまう」という話でした。

 

 すべての長男がりんごの数を勘定せずにバクバク食べてしまうわけではないでしょうが、これは一つのたとえ話と思っていただければ。少なくとも、私の「愛されていることを疑わない長男」のイメージにとても合致したのです。きっと食べてしまった後で、「あれ、オレばっかり食べちゃった?」と謝る長男もいるでしょう。

 

 私が、バンド内に次男がいたときにラクだと感じたのは、たぶん先に「りんごの数を数えるような人が、自分以外にも一人いる」ためだったのではないかと思います。

 

 

 現在の「我々」には、長男が三人います。うん、全員タイプは違えど殿様です(笑)。ま、長男の比率のほうが高いんだから当然っちゃ当然なんですが。

 

 

卓袱台、ひっくり返せますか?     2014.4.25

 先日、とある出版社のコンペに参加した。たぶん守秘義務があるので詳しくは書けないが、まあ決まった企画枠があり、そこに何人かのライターに作品を出してもらってふるいにかけるというもの。私の場合、ふだん、仕事は指名で依頼が来るもので、こうしたコンペに 参加するのはそう頻繁にあることではない。声をかけてもらうのはうれしいし、わりと《試合》が好きなので喜んで参加した。

 

 課題作品を提出してからしばらくして、最終2枠に残ったと知らされた。正直、そこまで残る自信はかなりあったのだ。うふふ。そこまでは編集部内の会議での決定。もう一方のものと互角の評価だそうで、次の段階では読者モニターに読ませて投票させるという。

 

 1週間ほどして、「残念ながら…」と連絡があった。担当編集さんは実にくわしく説明してくれたのだが、獲得票も同数で、会議も平行線でどうしようかとなり……最終的な判断として、より読者層の中心である年齢の得票が多いほうを採用、となったそうなのである。

 

 まあそこまで行けば好みの問題もあろうから……(いや勝ちたかったですけど!)諦めはつく。

 

 だけどね。そこまでていねいに経緯を説明してもらってナンなんだけど、そうまでして公平な審査じゃなくてもいいのではないかなぁ、とも思ってしまったんだ。ここは、自分が採用されるか否かとは関係ない話として。

 

 たとえばさ、《点数》で結論が出なくて煮詰まったとき……編集長とか(あるいはそうじゃない人が)「みなに反対されても私はこれを推す!」みたいなのがあっていいんじゃないか。いや、《点数》で絶対不利な作品を「それでもこれで行きたい!」みたいなのもあっていいんじゃないか。

 

 なんて思ってしまったのは、たぶん私がちょうど『週刊少年サンデー』『週刊少年マガジン』が同時に創刊し、鎬を削り合った時代の熱血編集者を描いたノンフィクションを読んでいたせいなんだろうけど。繰り返すけど、自分の手近な損得とは関係なしに……そういう《熱》に触れていたいんだ。実際そんな熱血漢がいたらうっとうしいかって、そんなことはない。現代にだっているさ。と、言う前に自分が忘れずにいたいね。ときに卓袱台ひっくり返す勇気を。

 

☆「お疲れさま」という便利な言葉   2014.3.14

 「お疲れさまでした」というのはとても使いやすい言葉だ。どんな立場の人にもとりあえず失礼はないような、オールマイティーのカードという感じである。仕事の場とか、ライブハウスまわりとか、何かのイベントの際に。別 れ際にこう言うとき……間違ってはいないけど、ちょっと違和感を感じることがある。

 

 ライブハウスの何周年かの記念イベントに行ったとき。私は店長や出演者をよく知っていたこともあり、お赤飯を俵に握って楽屋に差し入れることにした。店長の顔を見て開口一番、「今日はおめでとうございます」と言ったところ……彼いわく「今日、おめでとうって言ってくれたのは君が初めてだよ。みんな『お疲れさまです』って言うんだよね」。

 

 お客さんに対してなら「今日は来てくれてありがとう」。「さようなら」「おやすみなさい」のほうがふさわしいときもあるんじゃないかと思う。「お疲れさまでした」も、決して悪くない。だけど、やたら便利に使ってしまうと、「お疲れさまでした」の意味が薄れてしまうんじゃないかなあ。それを言う自分の中でも。

 

暗くてまことに結構なり   2014.3.3

 スーパーに行くと、「うれしいひなまつり」のインストが流れているこの時季。「あかりをつけましょ、ぼんぼりに〜」ってやつです。「うれしいひなまつり」というタイトルがそぐわないというか、そんなにうれしくなさそうな、辛気くさいメロディーで良い。そして、保育園や幼稚園やなんかじゃ昔ながらの古くっさい音楽・唱歌はだんだん割合が減っていき、子どもたちはJポップのヒット曲なんかでお遊戯を踊ってたりする昨今…しかしひなまつりには欠かさずこれを歌わされていると思うと楽しくなる。残念ながら、これ以上にメジャーなひなまつりソングってないからね。

 

 私が子どもの頃、家にあった「ひなまつり詰め合わせシングルレコード」みたいなのは3曲入りだった。もちろん筆頭は「うれしいひなまつり」。「赤いもうせん敷き詰めて/お内裏さまは上の段/金の屏風に銀の台」という歌詞のは、題が「ひなまつり」。のんきで明るい曲調。

 もう1曲の「おひなまつり」は「赤いひな段金屏風/お内裏様や官女さま」…という歌い出し。これもなぜか暗い!でもいい曲!

 

 もろ和旋律の暗い曲が歌い継がれることに安心するのは、たとえば子ども向けの本にしても、暗く厳しい内容のものは減っている傾向にあると感じるからだ。音楽に関していえば、暗い曲には暗いからこその陰りや美しさがあり…明るくはずんだ愉快な曲ばかりに触れてれば素敵ってわけじゃないと思うのだ。大方の好きな《豊かな感受性を育てる教育》ってことを狙いにするならなおさら。私が懸念するのは、明るいのが楽しくて善で、暗いのは忌み嫌われるということだけど。ちょっと前に、『はだしのゲン』が図書館で閉架図書になる云々が話題になったけれど、それにも通 ずる話じゃないかな。

 もっといえば、だれが言ったか知らないが「かわいいは正義」っていう言い回しも私は好きじゃない。「嫌いだ!」と大マジで言うほど本気で取り合うような言葉でもないのはわかってるけど…こういうの、幼い子が本気に取っちゃうとも限らないからさ…やっぱり言っておこうと思うのだ。

 

瞳に宿る輝き   2014.3.3

 聞くところによると、いまや黒目を大きく見せるコンタクトというのは就職活動時の女子学生必携アイテムだそうで。まあ…極めて短い時間で印象的に自己アピールとやらをしなくちゃいけない就職活動において見た目は大事な加点チャンスらしいし…ああダメだ、就職活動をしたことのない私がこれについて何か言ったところで説得力はないんですけど。

 就職活動はまあ脇において、日々のおしゃれアイテムとしてのカラーコンタクトというのは理解できるけど、黒目を大きく見せるコンタクトというのはどうも魅力を感じない。そもそも黒目が大きいほどかわいい、といえるのか? おたまじゃくしみたいな目だけど印象的でチャーミングな娘もいるよ。それにみんながデカ目になったら、どうせそれに埋もれるんだ…。表情のないデカ目は気持ち悪い。小さかろうが大きかろうが、輝きのある瞳は魅力的ですよ。

 

 だいたい、デカ目やバサバサまつげや、あの目尻のアイラインを跳ね上げるやつ、もう見飽きたんだよね。よほど効果 的にそれを使いこなす一部のメイク巧者は別として、たいがい凡庸に見える。流行ってそんなものだけどさぁ。…と思ってたら、きょう女性誌の表紙で「もう盛りメイクはやめた」みたいな(うろ覚えです)見出しを見て、おおついに来たかと膝を打った次第。赤文字系の雑誌だったと思う。明日、見てみよう。別 にナチュラル信仰者じゃないけどね、その人の表情を殺すメイクはつまらない。あなたの瞳に宿るものを見たいんだ。目は心の窓。

 

豪雪サバイバル in Tokyo  2014.2.15

 サバイバルというのは大げさかもしれないが、雪に慣れない東京人にとってはこの程度でも十分サバイバルと呼ぶにふさわしい……と感じた2月14日のことを書いておこう。

 私が高円寺駅から総武線のくだり電車に乗ったのは23時20分くらいだったか。本当はもっと早く帰るべきだったのだが、なんとなく中央線・総武線のどっちかは大丈夫だろうとたかをくくっていたのは、前週の土曜もどうにかなったからだ。あの「45年ぶりの豪雪」と言われた2月8日。その日は高円寺のドムスタでライブをやっていて、いざ帰ろうとなったときに総武線が止まっているという情報を得た。まだ22時過ぎくらいだったのであまり緊張感はなかった。まあいざとなったら漫喫にでも泊まるか……とうだうだしているうちに、20分もしたら運行再開の情報が入った。車内で多少待ちはしたものの、そう苦労しないで帰宅できたのだ。

 電車がスムーズに動くことを疑いもせず(本当はちゃんと調べていれば、もっと前から中央線がまずいことになっているのはわかったはずだ)……荻窪でいきなり電車が停止した。先の駅に電車がたまっているための停止だという。この時も、まだ全然あわてていなかった。いったんホームに降りて温かい生姜チャイを買う。

 焦ったところで電車が動くわけもないので、持っていた漫画を読んで過ごす。30分ほどして、別 のホームに停まっていた中央線各停が動くというので、そちらに移動。しかし、次の西荻窪でまた停止してしまう。このとき、確か24時を回っていたと思う。30分くらい待てば、吉祥寺までは行けるだろう。1時頃に着けば井の頭線に乗れる、いやもうちょっと遅くなっても井の頭線はたぶん待っててくれるんじゃないかと、まだ楽観的だった。

 1時近くなってから、車内アナウンスで「パンタグラフの点検を行っている」と報告が入ってから、だんだんことの重大さに気づき始める。もう漫画も読み終わってしまったので、ノートを取りだして書き物を始めた。携帯の充電器は持っていたし、充電器用の予備電池もあったけど念のため消費は最小限にしようと考える。だんだんと、車内から出ていく人が多くなり、すいてきた。でも、どちらにしろ既にタクシー乗り場は長蛇の列だろう。おなかが減ったので、買ってあったジャムパンを食べ始める。水分はあまり取らないことにする。ドアの開閉は自由だけど、万が一トイレに並んでる間に発車されたらたまらないもの。近くにいたおじさんが、ビジネスバッグからかわいらしいラッピングの袋を取り出した。手作りっぽい小さなチョコカップケーキ……あ、バレンタインデー! この日、義理チョコに深く感謝した人は多かったんじゃないかなあ。

 私のいた車両ではパンタグラフの積雪のために電力が供給されなくなっているとのことで車両内の点灯を減らして節電、しばらくすると「まもなく暖房も入らなくなるので他の車両に移動してください」と。「パンタグラフに積もった雪が取り除けない状態です」との報告で、さすがに見切りをつけることにした。2時。もう2時間以上立っているし。駅員が勧めるように、同じホームの上り線の車両に移動すれば座ることができたけど、こうなったら落ち着いて過ごしたいのでファミレスに避難しようと思った。

 西荻の北口にある漫喫やカラオケ屋に避難した人もいるだろう。駅すぐのところにマックもあるけど、そこはとっくにいっぱいだろう。ジョナサンに駆け込むとまさに、カウンター席残りひとつ。助かった。ジョナサンからは中央線も見えるし、タクシー乗り場の行列具合も見えるのでベストだと思ったのだ。寒さに著しく弱いので、この時間帯に行列に並ぶという選択肢はナシ!

 とりあえず暖をとろうと、ふだんはあまり食べないグラタンとドリンクバーを注文。入店する人が続々やって来るが、満席だと断られてしまう。こんな時は積極的に相席にするべきだと思うけど……。

 そもそも家に帰れていたって朝方まで起きてるほうなのだから、なるべく生産的なことをしようとノートを開くが、席がなんとなくうすら寒いのでしばらくすると疲れてきて小1時間くらいウトウトした。気づくと5時半。電車はまったく動かない様子。 タクシーは相変わらず30〜40人待ち状態。

 これまで何度か、歩いて帰ろうかという考えも頭をかすめたものの、西荻から三鷹台までの道はうろ覚えなので不安。ただでさえ方向音痴だし。雪は雨に変わっていたけど、風も激しい。吉祥寺からの慣れた道程でも厳しいかもしれない。家までのルートはもろ住宅地中心だし、真面 目に遭難しかねないので却下。

 6時。そろそろ決断のときが来たと思った。たぶん、時間が進むにつれて、今度は家からやむを得ず外出する人がタクシーに並び始めてますます競争率が高くなってしまう。ここはモーニングでも食べて英気を養おう。

 タクシー乗り場の人数が20人くらいになったのを確認し、7時に店を出る。とはいえ、15分待っても1台も来やしない。これは相当かかるかなあと思ったとき、駅からアナウンスが聞こえてきた。電車が動き始めたらしい! 助かった!

 即、列を離れて駅に駆けこむと、下りは三鷹まで運転が再開したらしい。吉祥寺に着いたとき、ホームからタクシー乗り場を見下ろすとやっぱり20人くらいは並んでいる。そういえば西荻のタクシー乗り場は屋根の下で、駅に密接しているため風を受けにくくてしのぎやすかった。吉祥寺駅前のタクシー乗り場は2か所あるが、私が使う、ライフ(スーパー)前の乗り場はすっごい寒そうなんだ。結果 論だけど万が一、吉祥寺でビバークすることになっていたとしたら、あそこに並ぶのはよりハードルが高かったなあと思う。

 井の頭線はちゃんと動いていて、スムーズに乗り換えられた。帰りながら、自分の判断を省みる。ポイントは体力保持、経済性、時間効率。もし、一刻も早く帰りたいなら、早めに電車を見切ってタクシーに並ぶのが得策だったろう。だけど、私は厳寒の中で並ぶことは避けたかった。快適性にお金を払うことにしてのファミレス逗留は正解だけど、ちょっと判断が遅かったら席を確保できなかったろう。ここは反省点。時間に関しては、翌日の予定はあって早く帰りたかったはものの……やっぱり自分のコンディションを守らずして予定もへったくれもないので、優先順位 では下位。

 

 読みの甘さでこんなことになったわけだけど、それでもこの日は相当の厚着をしていたのは良かった。キャミソールのヒートテック、長袖ヒートテック、長袖Tシャツ、衿つきシャツ、セーター、ダウンベスト(フードあり)、ダウンジャケット(フードあり)。7枚重ね、しかもダウンONダウン(笑)。もちろん「貼るカイロ」も貼ってる! もちろんマフラーも。下はタイツ+靴下、ジーンズにブーツ。手袋は薄手で暖かいやつ(本のページがめくれる)に、指なし手袋を重ねて万全。え、これで何で歩いて帰れないかって!? 人一倍寒さに弱いんですってば! これだけはね、根性で乗り切れないんです。ちなみにバッグの中には予備の貼るカイロと、貼らないカイロ1枚ずつ(これを持っていることには、大いに勇気づけられた)。コンビニで買えばいいじゃんって!? 売り切れてる可能性だってあるわけですからね……。

 持ってて良かったのは食料(これはたまたま)。キャンディーは必ず持ってる。今回は車両を自由に出入りできる状況だったけど、閉じこめられた場合を想定して。あと、ホームで買った以外にもペットボトルは1本持っていた。これは高円寺の改札を入る前に買ったもの。なぜかというと、前週の大雪のとき、高円寺のホームの自販機で「あたたかい」飲み物が見事に全部売り切れていたので。

 記録的豪雪の山梨で、勤務先のコンビニから歩いて帰宅途中(車が立ち往生したためらしい)の58歳の女性が凍死したというニュースを知る。ああ、本当に人ごとじゃないですよ。暴風をともなう雪を経験したのは初めてだが……今年だけじゃなく、異常気象の一端ではないかと思ってしまう。必ずしも冬ばかりでなく、こういう事態に直面 したときの判断、日ごろの装備について今一度考え直さなくてはと思った次第。

 

不思議と目をひく人   2014.2.7

 街で、ふと目をとめるファッションの人がある。いわゆる《計算された、洗練されたおしゃれな人》の場合もあるけれど、印象に残る人を頭の中で並べてみると不思議と《おしゃれ》という言葉にはそぐわない人が多いことに気づいた。

 

 きのう振り返って、二度見た人。自転車に乗っていた40代くらいの女性。紺のコート、パンツは緑と紺のタータンチェック。裾のやや広がったデザインは、今ふうのものではない。そして、白地に赤、グリーン、黄色を配したタータンチェックのマフラー。これも、一昔前風の巻き方で。

 

 服は、楽しみをもたらしてくれる。きょう選ぶ服で気分も変わる。これまで着なかったタイプの服に挑戦することで自分を更新することができる。服で自分をひとつの型にはめないことから得られるフィードバックもある。基本、そんなふうに考えているのだが、ときどきそうした……はっきり言っておしゃれにさほど興味のなさそうな人のファッションにハッとすることがある。「似合うものを知っている」「確固とした美学がある」とか「流行にまどわされない」とか、そうした態度の有無とはまた別 なんですよね。繰り返すけど、それは《おしゃれに興味がない》からこそかもし出される良さであって、しかし《おしゃれに興味がない》人すべてが持っているものではない。

 

 あの魅力はなんだろう。「その人にしかできない着こなし!」「すっごく素敵!」とまで賛美するものでもない。トータル的に冷静に見ると、どこかダサさをともなっている。有り体の《おしゃれな人》 は何着てたか思い出せないことを考えると、やはりヒントは《おしゃれのこと(ばっかり)考えてない》という点にあるのかもしれないなあ。

 

自分が持てるもの   2014.1.20

 私はモノに対して執着があるほうだと思う。執着という言葉をもう少しやわらかくして、愛着と言ってみるか。モノを間に合わせで買うことはないほうで、ペン一本でも気にいらないものは使いたくない。よほど困らない限りは、ナシですませる。買ったものはとても大事にして、消耗品は最後まで使い切る。

 

 モノを大事に使うのは美徳だと思うけど、こんな調子だからモノが捨てられない。子どものころからの年賀状や手紙なんかも全部とってある。決定的に置き場に困ったら、いつか処分しなければならなくなるのだろうけれど。

 

 それでもひとつ自覚的であるのは、中途半端にオタクまがいの収集をしようと試みないように、ということだ。私は精神的にはオタク気質であるかもしれないが、オタクの資質は備えていない。つまり、完璧な《良い状態》でモノを収集し保存するというこだわりがないのである。なので、自分に役立つ、自分が潤いを感じる範囲を超えて、うっかり収集に走らないようにしようとは昔から思っている。

 

 服や本やCDや……その他、分類しがたい自分の好きなたくさんのモノに囲まれて暮らすのはとても幸せだ。だけど、それに縛られないように、モノへの愛着にとらわれすぎないようにしたいと、ときおり考える。10代の頃に、寺山修司の本の「持たずに持つこと」と題した文章を読んでからこっち、ときどき。

 

 先日、昔からずっと行きたかった世田谷ボロ市に行った。滞在1時間、その間に買ったのは、お盆(私はとても小さなお盆が好きなのだ)、プラスチック製の“まこと虫”(ピンクとブルーを1個ずつ。手を連結できる)、たたみのヘリ(リボン状で、巻いてあるもの。初めて見た)2種。こんなふうに、実にどうでもいい、気に入ったものを手に入れるのはとても楽しくて、私は一生「断舎離」なるものとは無縁だろうけれど。

 

 だけど最近、自分の持っている《財産》は厳密には自分だけのものではないんだという気分になっている。相変わらず愛着はあるにしても……たぶん、何が本当に自分の《持てるもの》かが身に染みてわかってきたせいじゃないか。

 

 それは、楽しみや苦しみだ。きれい事を言うようで少し恥ずかしいのだけど、自分の感じる楽しみや苦しみ以上に自分だけのものがあるだろうか。その次元で言えば、楽しみも苦しみも等価だと感じる。もちろん進んで苦しみたくはないよ、修行僧じゃないんだから。だけどね、人が苦しむのは、たいてい何か大切な物事に瀕しているときではないか。それならその苦しみをもね、ただ憎むのではなく……自分のものとして眺め、扱ってやったらいいんじゃないかと思うのだ。

 

面倒くさい子も置いてかない授業とは   2014.1.17

 児童書の仕事をしていて、ときどきは“お勉強”関連の本を手がけることもあり、どんな本を作ったら子どもの興味をひくことができるのだろうかと考える。最近の教科書を見ると、驚くほどカラー図版・挿絵は多い。しかし、だからといって「おもしろい」ってわけでもないんだよなあと思っている。

 自分を振り返ると、小学2年生くらいまでの教科書は興味を持って読んでいた。そのくらいまでの教科書は、情報の与え方がわりにフラットだからだったではないか。こういうものがあるよ、こういうことがあるよ、という態度。私がはっきりと教科書がつまらないと感じたのは、歴史と美術だ。その理由は、なんとなく漂う「古いからすごい」「ここに載っているものは価値がある」という押しつけがましい雰囲気。最初から、「これはすごいんだ」と言われちゃうとしらけるんである。ふーんそういうものがあるのかと知って、「ここがすごい!」と自分で気づきたかったのである。

 歴史についてもう少しいえば、気にくわなかったのは書かれているのがいわゆる《勝者の歴史》にすぎないという点。

 

 もちろん、そういうことに気づきつつ割り切って受け止めながら……一方的に年号や固有名詞を暗記させられるだけに甘んじず自分なりの興味を掘り下げていく人は多いはずだ。割り切る以前に、「もうしらけたから一切見たくないもんねー」とへそを曲げてしまう私が幼稚かつ偏屈だったということになる。で、だからこそ、そういう子もいるんだということを踏まえた本作りが必要だと思うのだ。

 

 馬鹿親切にハードルを下げるということではなくて、「知ればこういうおもしろさがあるんだ」ということを語りかける態度がどこかに含まれていたらいいんじゃないか。その部分は本来、先生の仕事かもしれないが……そういう説得力を感じさせてくれる先生にいてほしい。

  

 いっぺんにたくさんの、いろんな性質を持った生徒を相手にしなきゃならない先生に、あまり多くを求めるのは酷だろう。「教えるのが上手」な先生であっても、その教え方が全員にマッチしたものとは限らない。私が、先生に求めるのは、「せめて自分だけでもその教科を楽しんでいる(ふうにしている)」ことだ。苦手な教科であっても、別 に好きな先生じゃなくても……先生がなんだかやけにおもしろそうにしていると、そこに興味をひかれる。目の前の人がおもしろがっていると、その遊びに入ってみたくなるものだからね。

 

ハレの食べ物   2014.1.7

 去年の秋ごろ、ふとアメリカンドックを食べたいと思った。アメリカンドックはどこに売っているのだろう? 人に訊いてみたらコンビニにあるという。日々、コンビニは使っているくせに全然気がつかなかった! 唐揚げ棒とかコロッケとか、ごくまれに買うことはあるんだけど、目に入っていなかった。それらは、けっこう《ハレ》の食べ物なので、日ごろあのケースをあまり見ないようにしていたのかもしれない。ファストフード店はまあまあ使うのに、何が違うのか。ファストフードは私にとって街の《止まり木》である、と位 置づけられる。コンビニのおにぎりやおでんは日常食として認めることができても、あのフライヤー系の食べ物は敷居が高いのだ。私だけの不確かなカテゴライズでは。

 

 さて、私は「きょう、アメリカンドックを食べよう」と心に決め、しょっちゅう利用する近所のセブンイレブンに行ってみた。ちゃんとあるではないか。それは夢のようにおいしかった。人に話すと、ファミリーマートのもおいしいよ、と勧められた。なるほど……しかし、すぐに食べるのではありがたみがないので、1週間か2週間かたってから食べてみようと考える。ところが、それから2か月くらいが経過して今に至っているのだ。今も、アメリカンドックを食べたいような気はする。そろそろ食べてみてもいいだろうか。《ありがたみ》のために我慢しているつもりもないのだが、やっぱり自分にとっては《ハレ》の食べ物なのだ。私の中に、あの秋の日にアメリカンドックをとてもおいしいと思った感動が深く残っていて、それにいまだ浸っていられるから次のアメリカンドックを食べようと思わないってことなんだろう。

 

 この感覚はかなり極端だと自覚してはいる。何度か考えてみたのだが、私は清貧を目指しているわけではない。《ハレ》のハードルが、かなり低いのだと思う。

 

 たとえば、うちのおやつ箱に入っているのはとても地味なお菓子だ。五色豆、クラッカー、マリービスケット、プレッツェル、八つ橋(堅いほう)、ラムネ菓子、せんべい。《ハレ》が値段の問題でないことはおわかりだろう。これ以上華やかなお菓子は、だれかと分けあって食べたい。

 

 ブルボンの、シルベーヌというお菓子がある。コンビニにも売っている。三角形の、スポンジにほんの少しクリームが挟んであって、外側をチョコでコーティングしたケーキ。上に、小さなガナッシュチョコが乗っている。2個入りで100円くらい。あれも、私にとっては《ハレ》である。2つ入っている以上、あれは2人で食べたいと思う。1日に1個食べればよさそうなものだけど、それができないのは分けあう幸福感を知っているからだ。

 

 しかし、喫茶店で、ひとりでケーキを食べることができるのだし。自分ひとりのために1ピースのケーキを買って、家でいただくくらいのことはできていいかな。

 

 2個入りのシルベーヌはさておき……ケーキ屋さんのケーキより、私にとってはこっちのほうが《ハレ》度が高いのだから。