アオウ | コマツ | スヤマ |
★8月2日(月)更新★★★★★★★★★ 『生まれ変わっても女がいい国ってホント?』(マークス寿子 朝日文庫)よくある、海外生活長くって「これだから日本人はダメなのです!」とどなりまくる系のオバサンかと思いこんでいたのですが、いやはや失礼失礼。非常に気骨あふれるLadyでいらっしゃったのね。視点は柔軟。そして何より物言いが感情的でない。 『煮たり焼いたり炒めたり』(宮脇孝雄 早川文庫)翻訳家として有名な著者は、世界の料理本のコレクターでもあった。お気に入りの世界の料理本を紹介しつつ、レシピをちょこっと紹介するんだけど、あくまでメインは自分流の料理法を語っていくエッセイのほう。料理の本ってこういうのが一番楽しいんだよね。写真なんかいらないのよ。 『一九七二』(坪内祐三 文藝春秋)ようやく読了。連合赤軍事件。横井庄一グアムで収容。カンカン&ランラン日本に到着。ぴあ創刊。ローリングストーンズ初来日チケット前売り。・・・などの事があった1972年を、著者は高度成長の変化が完了した「ひとつの時代の終わり」であり、同時に「次の時代の始まり」であるとして、この本を著すに至っている(著者は1972年当時、14歳)。1972年に、それらの事件がどう報道されていたかという“当時の目線”の検証をも重視しているため、1972年時の雑誌からの引用が多く……資料的にはまあおもしろいけど、引用多すぎてやや私感が少なすぎるのが残念。読みごたえとしては物足りなく、期待はずれだったな。 『友情・初恋』(武者小路実篤)、『小僧の神様』(志賀直哉)、『春琴抄』(谷崎潤一郎)、『伊豆の踊り子』(川端康成)。 『沈黙』(遠藤周作)が読み進まなくて困っている。冒頭5ページほど読んだところで、まったく意味がわからなかったんでビックリした。「ひょっとしてバカなのかな?」と思ってもう一度慎重に読み直した。遠藤周作ったら、やっぱ『ぐうたら生活入門』とか「狐狸庵」モノにかぎるわーい。 ★7月26日(月)更新★★★★★★★★★ 『大つごもり』『たけくらべ』『十三夜』『わかれ道』『にごりえ』等々、樋口一葉まとめ読み。短編ばっかしとはいえ、原文(岩波文庫)は、キツか〜。私は古典は全然好きじゃなかったのでなあ。そこで、対訳本を探してきたら、ありましたよ、河出書房新社から出てる樋口一葉の「現代語訳シリーズ」全5巻が。そう、これ前にNさんから『にごりえ』(伊藤比呂美・訳)を借り読みしたっけな。ほかには角田光代、山本昌代、島田雅彦、篠原一、藤沢周、阿部和重……等の人がチャレンジしておられる。ざっと読んだところ、伊藤比呂美が一番よかった。あ、松浦理英子の『たけくらべ』はまだ未読なんですが、これは読んでみたいな。 この度初めて読んだ超短編『裏紫』、なんて実に良いねー。夫にかる〜くウソをつき、心を燃えたぎらせ不倫相手のもとへと急ぐ女。その心中が勢いよく吐き出され……勢いが死なないままに突如「ビシッ」と幕を引かれる感じが、あざやか。遺作と言われる『わかれ道』初めて読んだ。これは前編しか発表されず、未完てことになってるんだけど、いやいや前半だけでも成立しちゃってることにしてOKでしょ。 『一葉語録』(佐伯順子 岩波現代文庫)、『樋口一葉の手紙教室』(森まゆみ ちくま文庫)、『一葉の四季』(森まゆみ 岩波新書)など、一葉づけの一週間。 『ツバメ号とアマゾン号』(アーサー・ランサム 岩波書店)はめちゃくちゃおもしろかった。無人島行ってなあ、アマゾネスは出るわ、戦争はするわ、宝は見つけるわ…ま、これら「子ども視点サイズ」のモノなんだけどね。だけど、その分ウソっぽくなくっていいんだよ。主人公の子ら4名は、決して自分たちの力だけで無人島生活をしてるわけでなく、それを頭の隅っこに置きながら「ごっこ」に興じる。とはいえ、彼ら一人一人は口に出さないだけで、いつだってそれが「ごっこ」であることを本気で忘れているわけじゃない……という部分までさりげなく書き込まれているところが、なんとも行き届いているんだよ。さっそく第2巻『ツバメの谷』を借りてきた。おお、さらに厚い。560ページ。今週は手つかず。 『月魚』(三浦しをん 角川文庫)舞台は古書店業界。筋はおもしろいんだけど、メインキャラの男性2人が、なんかボーイズラブくさい雰囲気を想起させて困る。そういうつもりで書いてるのかどうか、不明だが。若く目利きの老舗古書店の若旦那と、幼なじみの天才セドリ君コンビ……。同世代(この人1976年生まれ)の女性作家の中では、確実に「何かやろうとしてる感」「いろいろ勉強してます感」感じるけどなあ。 ★7月19日(月)更新★★★★★★★★★ 『汁かけめし快食學』(遠藤哲夫 ちくま文庫)おお、まさに私のためにあるような本ですね。この本、しょっぱなから、「ねこまんま」論争ですよ。みそ汁をぶっっかけたものをそう呼ぶのか、かつおぶしを混ぜたものをそう呼ぶかという・・・。といった身近な体験的エピソードに終始するのでなく、どんぶり物、カレーライスを含む日本のぶっかけ飯の系譜、ぶっかけめしの歴史的検証、小説などに出てくる素敵なぶっかけ飯などの話満載で読みごたえあり。著者の「ぶっかけ飯は行儀が悪いものと片づけて、真の食生活・生活文化を無視するお料理の先生どもに喝!」という気合いの入った態度が頼もしい。さあ、今日の夕食はぶっかけ飯に決定だ。ナスと玉ねぎとベーコンとなんかを炒めて、トマト缶で煮て、ひょっとしたら打ち豆とかも入れるかして…。←こういうのが、私がよく作るぶっかけ飯の典型である。作ってる途中で気が変わって、カレー粉を入れたりしてるうちに、どんどん何者がわからないものになっていくのが楽しい。ぶっかけ飯には勢い×創造力が不可欠なのさ。 『スタバトマーテル』(近藤史恵 中公文庫)この著者の本、まだ当たりと思ったことないんだけど、タイトルにひかれて(ペルゴレージ作曲の「スタバトマーテル」が好きなんだ)つい買ってしまったんだ。主人公はプロの資質を持ちながらも、極度のあがり症のためオペラ歌手になりそこなった女性。母親と異常に密着してる、売れっ子銅版画家と恋に落ちるが、なぜか身の周りに異変が起き始める、という筋。途中まではまあまあおもしろかったが、終わり5分の1くらいは超かけ足で、犯人と動機を一方的に「説明」するのみ。紹介文には「恋愛ミステリー」って書いてあるけど、読み手に推理の余地はなく…、そんであわてた「説明」に終始しちゃってるのかな。 先週読みかけの本は何事もなかったようにほっぽらかし、さあさあ今日から夏休み(2003年6月のコラム「夏休みごっこ)参照)。夏休み的読書の始まりですよ。前に予告したように今年の夏はアーサー・ランサム全集を読むんだい! 図書館で『ツバメ号とアマゾン号』(岩波書店)借りてきました。きょうだい4人だけで、無人島でキャンプをはるんだぜ!わ〜い、冒険だ〜。今日のおやつは、主人公たちをマネして黒パンにママレードさ(ホントに紀伊国屋で買ってきたよ)。なんか今週は食べ物のことばっか。 『蒲団』だの『夜明け前』だの『土』だの『浮雲』だの『当世書生気質』だのはまったく読んでないなあ。 ★7月12日(月)更新★★★★★★★★★ 今週はあんまり本読めなかったです。湯わかしてる間とかに台所の床に座って、W氏から送られてきた箱の中のマンガをひっぱり出して読むのが日々の楽しみでねえ。 『姉飼』(遠藤徹 角川書店)おっと、これもW氏からのレンタル本でした。ホラーの怖さよりも、独創的なフリーク、グロテスクさが立ってる作品が魅力的。なかなか新しい「気持ち悪いモノ」を創造する人だなあ、と感心してたら、これが小説デビューとなる著者はモンスター、フリークなどに詳しい研究者であるらしかった。 『ロッカーズ』(川島誠 角川文庫)ぞくぞく出るねー、川島誠の旧作文庫化。彼の作品の中では最良とは思わないけど…ちょっと見には〈サクセス・ストーリー〉のようであって、実はまったくそうじゃないところがさすがであります。 以下、同時進行で読みかけ中の本。 『ニューヨーク編集者物語』(ドナルド・E・ウェストレイク 扶桑社文庫)古本屋で105円。ウェストレイクらしい、じわじわ抑えたユーモア感がやっぱりツボにくる。まだ3分の1も読んでないけど。ん、ミステリじゃないウェストレイクの作品て初めて読むかも。 『戦士の抱擁』(ナディン・ゴーディマ 晶文社)これまた通りすがりの古本市で格安購入。ゴーディマにこんな本があったとはしらなんだ。ノーベル文学賞を受賞する、はるか前の短編集。しかし、これを読みたくなる時はなぜか眠い時が多くてねー。どうにか1篇読んだだけ。きのうは寝る直前に3ページ読んでブラックアウト。 『一九七二』(坪内祐三 文藝春秋) 今週は古本屋でいい買い物多し。ずっと手に入れたいと思ってた『初恋、その他の悲しみ』(ハロルド・ブロドキー 東京書籍)を入手。前に図書館で借りて読んだのだけど、これは手元に置いておきたく。東京書籍の本って、地味に好きなの多いな。あと絵本専門の古書店で『リボンときつねとゴムまりと月』(村山籌子作品集1 村山知義・絵 JULA)ええ〜っ、これ古本屋に出るタイプの本じゃないよね! 『小人ヘルベと大食らいのツボッテル』(プロイスラー 偕成社)ええ〜っ、プロイスラーでこんな本あったんだ!…と歓喜の買い物。プロイスラー本人が描いてるザックリした挿し絵もいいなー。 これからしばらく仕事の関係で、日本の“近代名作小説”ばっか読むことになりそうです。いよいよ。有名な作品ばかりなのでタイトルだけは知ってるけど、実は読んでない本がなんと多いことよ、と気づく。この機会に一網打尽にするのもいいか。『蒲団』だの『夜明け前』だの『土』だの『浮雲』だの『当世書生気質』だの…。 ★7月5日(月)更新★★★★★★★★★ 『東京発千夜一夜』上巻(森瑶子 新潮文庫)ショートストーリー100編。極短のストーリーというのは技術を要するね。やっぱり重要なのは文章力ですね。オチがあればいいってもんじゃなく…短い中でムードがしっかり作れているのが魅力である。車谷長吉がすすめてなければ読まなかったであろうこの本、読んでよかったなー。下巻も探そう。 『安全学の現在』(村上陽一郎 青土社)医療、社会、環境、都市、思想…などなどの「安全学」について、著者が各分野の専門家と対談したもの。興味深い分野です。実に21世紀的な学問です。「security」の語源であるラテン語の「securitas」は語義的には「気づかいがない」ことだそうです。セネカ曰く「心の平静(セクリタス)にとって最も重要なことは、決して不正を行わないということである。自制を欠く者たちは混乱し、動揺した生をおくる」…とな。よーいちろーの本で『安全学』てのも出てるようですね。読んでみよっと。 金曜の午前、W氏より貸しっこ本段ボール箱が、(ついに)2個届く。多量のおもしろげなマンガ、そして下山事件関連本の新刊がいっぱい入ってて心ざわめく。前回送ってもらってて未読の『シモヤマケース』とまとめて読みたい。あと『ブラフマンの埋葬』(小川洋子)が入っててうれしーなー。 『唐詩選』(岩波文庫)拾い読み。漢詩好きなんです。で、『厄除け詩集』(井伏鱒二 講談社文芸文庫)をひさびさにパラッとめくる。やっぱ「ハナニアラシノタトエモアルゾ サヨナラダケガジンセイダ」は名訳だよなあ、と思いつつ…。 『断片と全体』(デヴィッド・ボーム 工作舎)読みはじめたトコ〜。
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★8月2日(月)更新★★★★★★★★★ ちょっと待ってクダサーイ!忘れた頃にウプしマス! ★7月26日(月)更新★★★★★★★★★ 「きょうりゅうがすわっていた」(市川宣子・矢吹申彦)を高円寺の絵本専門古書店で購入。とても素敵な本だった。前回に続いて「考えるヒット」(1ね!)も読んだ。時は小室哲哉全盛期である。もうエラく前のような気がするが、ほおー、7年まえであった。パフィーとかね、懐かしいね。けっこう曲好きだったな。テレビとか、まだたまには出てるんでしょうか? テレビと言えば、旧知の俳優トシくんがナント月9ドラマで主演をしてるらしい。ちょこちょこ映画に出てるのはきいてたが、まだ画面内では未見である。人を通じて、外国の俳優(名前が出てこない!「殺しのドレス」とか「探偵スルース」の人・・・と、ここまで書いて思いだした(笑)。マイケル・ケインだ!)の映像演技の本を貸したままなのだが、はたして読んだのだろうか?この本はなかなか素敵な本テスからみかけたら皆さん読みなさい。そしてオレは既にその本を再購入済なのよネー。なんかオレはそういう性格みたい。なんか気に入ったブツはいつも近くにないと落ち着かないンよねー。これまた人に貸しっぱだった「エレメント・オブ・クライム」のビデオも最近買っちゃったしねー。逆にオレが借りっぱなしなものはCDが多い。でもオレになんか貸してる人安心めされい。ちゃんと全部ありマスよ!いつも返そう返そうと思いつつ・・・なのよ。あ、ヤベー!アオウにもスヤマにも本借りてるわー(笑)。オボエテマスヨネ? 今からクーンツのストレンジ・ハイウェイズ「奇妙な道」「闇へ降りゆく」を読みマス! ★7月19日(月)更新★★★★★★★★★ オレは7,8月を「夏休み」と決めていたので、チョー猛スピードで夏を満喫中テス!とりあえず夏っぽいことは、すべてしたい!海にも山にも川にももう行ったし(茅ヶ崎のボードウォークで「勝手にシンドバッド」歌ったヨ!)。神宮球場で高校野球開幕戦も観たし(小雨の中のショボいブラスバンドが良かった!)。東京ドームで「NOAH」のプロレス興行も観たし(ムトちゃん&太陽ケア!)七夕パーティーにも参加したし(「金が欲しい!」と黄色い短冊に書いた!)日本ロックフェス2のスタッフ打ち上げもヤったし(「大将」から追い出された!また大柴くんと狩生くん!:笑)。フリマもヤったし、夜の公園でカップルを覗いたりもシました。そんなこんなで忙しくしてたので、何の本を読んでたか、イマイチ不明なンよー(笑)。あ、部屋の中で見失ってた「ドリーム・キャッチャー」の1巻が出てきたので即読んだなー。チョーいいトコで終わっちゃって続き読みたいのに、今度はソレが行方不明(笑)。ま、いいんですけど。いつもこんな調子テスよ。 「コマツの部屋」でヤってる「戦争カレンダー」について「本当なンですかー?」と尋ねる人があって「ま、詩だと思ってください。ホントは新しいジャンルなんだけど」って答えました。オレの日常と言葉の関係を実験・研究・発表ということなんテスが、ちょっと素人(オレ以外)にはムツカシイかもしれませんね。オレは日々黙々とその実存への影響を検証中なンですが。簡単に言えば「魔法」ということデスね。HP上にやってきた「嵐」は見事に「魔法」にかかったワケで、ちょっとオモしろかったテス。「彼」は愚かにも「言葉」を信じていて、その証拠に文中で一般論や綺麗事をまるでじぶんの仲間のごとくふりかざすワケです。ソレはたとえ架空の人間を装っても同じことで あって、こんな方はきっと直接に小説修業でもされたほうが、ずいぶん自身についての理解が深まってよろしいのではないか、と老婆心ながら思う次第でありマス。「彼」は恐るべき「ニンゲン」であって、だからこそ「言葉=魔法」にかかってしまうのでありマス。オレは「ニンゲン」ではなくておそらくや「言語を解する野獣」でありマスから言葉の罠にひっかかる筈はない、との仮定の上でトレーニングを重ねているのです。例えば、雪山で腹をすかせた羆に遭遇する場面を想像してください。一切の既存の言葉は無効でありマス。説得はムリでショ?「嵐」クンは「音楽業界が〜」「人に真剣に何かを伝えたいと〜」「生きることを真剣に考えたことが〜」等の蒙昧たるフレーズを堂々と、飢えた羆の前で述べ立てる勇者=ニンゲンでありマス。 「魔法」について少し書きましょう。オレは今月のカレンダーに「また羆に襲われる夢を見た。勝ち目はないのか」と書きました。そして、その夜早速羆に襲われる夢を見たのデス。オレはその日から具体的に羆に勝つ方法を考え始めました。あらゆることを考えましたが何も思いつきません。数日前に「羆についてもっと知ろう!」と思いました。人には「熊の出そうな場所に行かなければよい」と言われてその場は笑いましたが、翌日すでに熊に接近遭遇する道を実際にたどりかけていたのでした。オレは不意に高円寺の路上で羆と遭遇しても驚かない唯一の男でありマス。ただ「ついにこの日がきたか!」と思うだけでありましょう。先日、部屋で中学時代の作文をみつけました。「初夢」というタイトルで書き殴られたモノで、教師からクラス名(そんな事も間違っていた!)に朱を入れられ、文末に「期限内に提出する事!」と書かれていましたが、その内容と言えば「羆に襲われる」モノでした。カウントダウンはずいぶん前に始まっていたのデス。「羆」は「死」の喩なのでありましょうか?それとも・・・。オレは高円寺でうどん屋の角を曲がるとき ★7月12日(月)更新★★★★★★★★★ 先週はうまく字数を稼いだので、今週は楽勝である。たまたまスヤマさんとかぶったニーチェであるが、オレが読んだ「この人を見よ!」は原題がECCE HOMO (ヱクセ ホモ)であり、そのしめす処の人物はイエス・キリストである。ニーチェ最晩年のこの著作は、イエスを意識しつつも(つーか、はりあっている?)自らの半生と作品を語ったものであって、チョーオモロくてかなりイケてるのであった。まあ、色々あるワケだけど例えば、「仏教は衛生学すなわちルサンチマンを克服する学である。物言わぬことは必然的に良くない性格をつくり胃まで損なう」としておりルサンチマンは「弱さから生まれたものであり、本人自身にもっとも有害、翻って、強い人間には余計な感情である」と斬って捨てている。な、クセに(笑)すぐ「戦いとなるとまた話は別である。私は私の流儀にしたがって戦闘的である。攻撃は私の本能の一つである」とくる。まあ理屈はどうとでもつくケドも(笑)、とりあえず自由な人であることは間違いない。ドイツ嫌いでパリが大好き!なとことか(オレも大阪嫌いの東京好き!)、読書は休息である、とか「あらゆる理想主義は、必然から逃げている嘘である。そうではなく必然を愛すること」とかスゲー気が合う感じ!哲学者の概念を、「アカデミックな反芻動物などでなくその前に置かれるものすべてが危険に曝される一個の恐るべき爆発物」とくれば、もう我々に誘いたいくらいなのだ(実際にはそんな人バンドに何人も要らないけど:笑)。まあ、言ってはならない(コワー!)一部を除いては(笑)この人オレとほぼ同意見なワケだけど、ちょっと、ホーと思ったとこもあって、それは「健康人とデカダン」についての箇所であった。ちょっとその辺りについては、いずれ落ち着いた40分(オレの人生の)をあててみる価値がある、と思ったなー。いや、25分か(笑)。 近田春夫さんの「その意味は 考えるヒット4」も素晴らしい。知性があるってイイね!「日本のヒップホップはモデルガンとしての自覚を持った方がもっと面白くなる」とか藤井隆や斉藤和義についての考察とか、いろいろタメになった。さっそく釈由美子のシングルも買っちゃったよ!ホント、いちいちスゲー人だ。そしてこの人は基本、肯定的に作品を捉えようとしている。そこがなんといってもイイのだ!文中に何度もでてくる「ネガティブチェック」がナイのである。とかく権威主義的であったり一般論的であったるすると即あらわれがちなソレがない、というか否定してるのがサイコー!です。そしてオレの大好きなルナ・シーについての文章の美しさ!一度みなさん読んでください。一時はオレに「バンドの理想形態」とまで言わしめた後期ルナ・シーの姿がここにぜんぶかいてあります!
★7月5日(月)更新★★★★★★★★★ ウヒョー、ひさしぶりー!元気ー?オレはマアマアってとこかなー。でも、今日ちょっとカチンとくることがあったゾー。ナント、我々のBBSに嵐が出没!ガーン!なんとタイトルは「憎悪」ですよ!もうヤベー、あるいはクルクルパーですよ、この人(一応まださらしてあるんで見てね!)。ヒドイのよ、もう。我々のシングルの内容があまりにヒドくて聴くに堪えない、「音楽の道」をあきらめろ、とかさー。「業界」には入れねーゾ、なんてね。別に入りたがってねー、つう話よ。いちいちワードも「キモイ」んよ。だいたいが大きなお世話じゃんネー。おまえに迷惑かけてねーよ、バーカ!てなモンなンですが、それについてアオウに訊いたワケ。 「で、誰なの?」 「わかんない。メールアドレスは「パイの実食べた」なンだけど、なんだかそのアドレスにおぼえがあるんだよねー」 「あ、なんかオレもおぼえがあるような・・」 ちょっと面白いでショ!まるでミステリ。オレとアオウは二人で新・黒後家蜘蛛の会を結成しようか!、なんて話が出るくらいのミステリファンなので、がぜん盛り上がっちゃいました!まるで「名なし鳥飛んだ」みたい!この謎ぜひこの手で解明したい!犯人は一体だれなんだ? 「ごく最近だよ、そのメアド見たの」 「オレもそうだわ」 「たぶんロックフェス期間中、会場でだねー。そしてワタシが行ったのは金曜と日曜の2日だけ・・・あ、そうだ!たしか金曜に誰かにビラをもらってそこにそのアドレスが書いてあったんだ!」 「そうだ!たしかオレもそこに居合わせて、なんだか少し奇妙な印象があったんで、たぶん記憶に残ってるんだ」 ものすごく人でゴッタがえしていたロックフェス会場の片隅で、おそらくや初対面(か、それに近い状態)であろう人物から渡された1枚のビラ。ただでもブッキラボーなアオウは話題に困り、メルアド「パイの実食べた」について触れてみようか、と考えた、と言う。ただし、オレの記憶は少し違った。 「その話題に触れたんじゃない?パイの実好きなんですか?って」 「いや、実際口にはしてないと思う」 「え?オレその会話聞いたような・・・」 オレとアオウの推理(というか記憶)はここで食い違ってしまった。不思議なことである。オレは普段ほとんどと言っていいほどメールをしない人間だ。するとしてもごく限られた友人数人だけ。すなわち、ビラに書いてあるメルアドには当然興味がいかないのである。だから特別な何か、オレとアオウ二人に同時にアドレスに興味を持たせる何かがそこであった筈なのである。オレはそれを実際に発語された会話だと思ったのだ。しかし、それ以外にも二人の記憶には齟齬があった。まずアオウはオレがその場にいなかった、と言う。 「え?いたよ!階段の上の入口あたりでさ・・・」 「ワタシの記憶では店の外の受付の辺りなんだけど・・」 また食い違った!そんなバカな・・・。オレの記憶力に乏しいことは、読者の皆様の多数はご存じかと思う。しかしアオウは、かの酒鬼薔薇聖斗と同じく、あの「直観像素質」を持っているのである!説明しよう。直観像素質とはあたかもビデオテープに録画したかのように、映像として記憶を残すことの出来る(というか残してしまう)体質を指す。アオウが店の外だ、と言うなら十中八九、外である筈だ。もしや二人はそれぞれ別々に犯人と接触したのであろうか・・・。ただしこの日は二人共に、ものすごく疲弊しきっていた事も付け加えておかねばなるまい。普通の状態ではなかったのだ。かなりモーローとしていたのである。それにしても・・・。アオウは犯人を男性だ、と言う。オレは当初は、女性に違いないと主張していた。しかし、オレが感じた違和感、奇妙な印象の出所を考えたとき、やはり男性だったのかもしれない、と考え直した。その推論はこうである。「パイの実食べた」という可愛いメルアドの印象と、それの持ち主(犯人)の間に少なからず違和感があったのではないか?だからアオウは話題にあげよう、と思ったし、こんなにアルツハイマーなオレの記憶の端にも引っかかったのではないか、と。
この話は唐突だがここで終わる。犯人はただオレたちが忘れてしまった人物で、BBS上に記名したとおりの「ナカザワ」あるいは「ナガサワ」(おそらくや同一人物もしくは仲間)でメルアドも「パイの実食べた」なのかもしれないし、もしかしたらその人物の名を騙ったまるっきりのニセモノかもしれない(だとしたら「パイの実」さんゴメンナサイ!)。ただ一つ、事実がこのどちらかにあるという事だけは間違いなく数日うちに判明するだろう。が、問題はそこにない。真に問題とするべきは記憶の混濁あるいは混在である。ここまで読んでくださった皆さん、お忘れではないだろうか?コレが「BOOK BOOK こんにちは」である、という事実を!「シナプスの入江」(清水義範/福武文庫)である。主人公は遠い親戚の法要に父親の代理として、かつて幼少時を過ごした町を訪ねる。 30年以上の時を隔てて再会した幼なじみのミヨちゃんは、当然の事ながら年配の女性として現れた。モチロンまったく面影がナイわけではない。懐かしい二人はおぼろげな記憶を寄せ合い過去への道を辿る。しかし二人の記憶は互いに食い違っていた・・・。記憶がテーマのこの本は面白かったヨ。ただアイデンティティ方面に流れたのはどうか、と。そりゃないだろ、と。 他に「この人を見よ!」(ニーチェ/新潮文庫)と「その意味は 考えるヒット4」(近田春夫/文春文庫)も読んだよ。面白かったけど、もうイッパイ書いた(笑)のでまた今度ねー! |
★8月2日(月)更新★★★★★★★★★ あらためて言うまでもないが、アメリカってでかいよね。そんで、アメリカって国に はなんの興味も抱けないね(もちろん、音楽はベツよ〜ん)。でかいからかな。でか い=薄い=つまらない、というのが、わしがコレまで抱いていたアメリカ観である。 このたび、小熊英二『市民と武装』を読んで、違う視点から、「やはりアメリカは薄いな。ムリヤリにナショナリズムを作り出さないと、「国家」として成立できない脆弱なる世界なのだな」と感じたのじゃった。前回は、本書の第一部にあたる、タイトルにもなっている「市民と武装」を取り上げたが、今週は第二部にあたる「普遍という名のナショナリズム」を読んだ。アメリカはでかい。のみならず矛盾に満ちている。どんな矛盾か。「理想」なるものがあると仮想したうえで、何事も為そうとする 矛盾であり、「理想」を時とバヤイによっては「コロッ」と変更しちゃう矛盾である。 まず、第一次世界大戦。「ヨーロッパの旧大陸のヤカラは、なんであんなフモー な陣地争いばっかしてんのかしら。その点、うちらは新世界! 「アメリカ」は20世紀にはばたく、新天地! アッチのことはほっといて、みんなでがんばろう、ホワイト・アングロ=サクソン・プロテスタントとしての矜持をもって!」ところが、イギリス客船がドイツの潜水艦に轟沈されて、百何十人かのアメリカ人が殺されたり、 ヨーロッパへの救援物資を積んだアメリカ船が沈められたりしたあたりから、 「ちょっ、ナニすんだよー。コンチクショ」ということで参戦に踏み切る。 ここで 「アメリカの理想」は大きな転回点に直面する。自国に住む大量の「移民&元奴隷」 を兵隊にしたてあげねばならんがため、さまざまな民族を統合できるような理念をでっちあげる必要がでてきたのじゃ。(ここでちょっと休憩。そのころ、反ドイツの気運がたかまって、「ザワークラウト」は「リバティー・キャベツ」に名称変更されたそうだが、「ホット・ドッグ」もそのころ出現した名前だそうよん。もとの名前は 「フランクフルト・ソーセージ」だったのらー)その新しい理念とは「アメリカナイ ゼーション」と呼ばれた。「さまざまなる民族から成るアメリカ」の創出であり、戦 争参加にむけての、新たなる愛国心と「同化主義」の発動じゃ。もー、なにがなんでも、「僕らはみんなアメリカ人。みんなだってさあ、ヨーロッパから来たんだろう? みんなのフルサトが、ドイツやオーストリアなんかにメチャクチャにされてるんだぜ! ワタシらと一緒に戦おうでわないかっ!」う〜ん、ちょっと前まで、「移民、 やだー。だってボクらのWASP精神をこれっぱかりも理解しないんだもん。せっかくボクらが勤勉に働いて開拓してきた土地なのにさっ。そんでもってなんか汚くてビンボーで臭いし」とか言ってた人たちが、手の平を返したように「一丸となって、ドイツをぶったたく」兵力を備給するため、新たなイデオロギーをネツゾーし始めたのだ。コレが今のアメリカという国のホントのはじまり、といえるのではないかな。 (日本帝国主義と一緒テスネ(コマツ風)。朝鮮・台湾・沖縄・アイヌの人々への対 応とクリソツテス・・・) さらに・・・アメリカの戦争とは、つねに「十字軍的な改革理念を強く」持っている。自国領土を防衛する目的で戦争が行われたことはない(でかいし・資源いっぱい あるし・周りは海だらけだし)。そして、アメリカはつねに、「連合軍や国連軍な ど、何らかのかたちの多国籍軍の一部という名目で戦う」。湾岸戦争でも、このたびのイラク侵攻でも、同じパターンが踏襲されている。 小熊氏のこの論文は、10年以上前に書かれたものであり、氏の机の引き出しにずっと「放り込んだままになって」いたそうだが、「湾岸戦争にタイムリーなテーマとして書いたものが、イラク戦争後で ある現在からみてもタイムリーに読めてしまう」ことに、「あとがき」でご自身でも呆れていらっしゃる。「人間の愚行というものは、10年やそこらでは変わらないものなのかもしれないという気がしてしまう」・・・ ああ、アメリカよ、もうヒトゴロシはいいよ! どうかこのへんで目覚めてくれんものかね! ★7月26日(月)更新★★★★★★★★★ おお。知ってるか? わがヒーロー小熊英二がまたまた本を出したんだ。なんと小熊氏が30ちょいの時(10年以上前ね)書いた論文が本になってたんだー。いやーホ ントは知ってたんだー。だけどテーマが「アメリカ市民の武装」だったんで、「ええーなんでなんでー」と思って購入をチュウチョしてしまったんだー。「日本/日本人」について「コレでもかコンチクショー、コレでもか」と考究してきた彼が、「なぜアメリカ市民論?」とイブかってしまってすぐレジにもっていかなかった・・・ごめんなさい小熊さんー。いま読んでますー。すげー面白いですー。書名:『市民と武 装 アメリカ合衆国における戦争と銃規制』。 さて、ハッと気づいたら、ココは高円 寺の最底辺の呑み屋でした:あのさあ、みなさん、オンナ・オトコ限らず、「ピストル持ちてえ」とか思ってるヒトいますか? 「あ、オレオレ、オレ銃とか欲しい」 「なんで?」「サツとかケンリョクとか、ムカツクこと言ってきたらドカーン、てぶっ放せるじゃん」「あ、そーね。で、アメリカ人はほとんどみ〜んな、ライフル持ってんのよね」「でしょースヤマさーん。やっぱ、オレ自身のことはオレ自身で守 んなきゃって思うわけじゃーん。つーか、アメリカってすんげえ民主主義っしょ? 政府とかが何かうざったいコト要求してきたら「てめえら、間違ってる!」てソッコーピストル持ってぶっ倒さなきゃ。だから武装賛成」「市民の自覚、ってヤツね」 「そーっスよー。つーか、自分で武器持ってりゃ軍隊要らないっしょ。スヤマさんだって、酔っぱらうと「日本は絶対にヒブソーを貫ぬかなけりゃイカン」とか吠えて チンチン出してるじゃないスかっなんで出すんスか」「まあソレはおいといて、アメリカで実際そんな「てめえら政治家は間違ってるドカーン」なんてコトがホントに起 こってるのかね」「よく知んねーけど、そうなんじゃないスかあ」「でもなんか、南北戦争のころは、「武装するのは白人に限る」とか規定されてたそうよ」「え? あ、ソレだめ。ぜんぜんダメ。アメリカ人っつったら、すなわちブラザーっしょ、ス トリートピーポっしょ。」「でも、独立戦争のときなんか、「イギリス軍と戦う権利は奴隷や移民にはない」って」「じゃ、なんスか? 戦って死ぬのにも「権利」とか 必要だったんスか」「まったくバカげたハナシだよな」「死ぬのに「権利」とかやばいッスよねえ」「それがまあ、「近代市民概念の誕生」ってことなんじゃないの」 「あっ、すいませーん、チューハイおかわり」「ようするに、武器を取れる人間は市民であり、戦闘に加わる、ということは市民としての権利を獲得できる、という論理なんだな」「論理はロンリー、っつって、あ、すんません」「でもココで重大な矛盾があらわれてくる。本来なら、国家同士の戦闘行為は傭兵に担われていた。ま、つまり戦争のプロ、いまで言えばフリーの編集者(あおうこずえ)みたいなのが「へ〜 い、戦争いかがッスか〜」とか営業して、どっかの土地を分捕ろうと思ってる王侯貴族(スヤマさん)みたいなのに「おお、じゃいっちょ頼まあ」とかで雇われて」「・ ・・ちょっと、たとえがベタすぎて、ヤバくないっすか」「いーの、いーの。所詮 「ウケ狙い」ってコトで許してくれるであろ。で、本来は「プロ」の仕事だったもの が、「市民たるもの兵士となりて圧制者と立ち向かうべし」ってコトになっちゃうんだよね。」「ソレ、でも、「権利」じゃないんじゃないスか? 死んじゃうかもしん ないんだし」「だから、すり替えなワケよ。たとえばあおうこずえが、その持てる技術を駆使してやりとげるべきシゴトを、そのへんのおっちゃんとかが」「あー、分かった。フランス革命とか、パリ・コミューンとかが、その「市民皆兵」の起原だったと」「ナニよ、いきなりスルドイじゃんよ」「そんでまた、「民主主義」なんての は、しょせん「プロ」の役割を「シロート」に肩代わりさせるだけの仕業だったと」 「いや、そこまで言うツモリはないけど、小熊さんが説くには、18世紀くらいまで は、戦争というモノは<ナアナア>の行為に過ぎなかった、というんだよね。国と国とのあしだでムカツクことが起こったときに、とりあえずプロの兵隊を雇って戦ってるフリをしてもらって、ま、お互いの言い分は良くわかりましたとナットクして、 チャンチャンお手打ち、というのが常套だったそうなんだ「へえ、気楽なもんスね」 「国と国とかいっても、当時はヨーロッパ中が縁戚関係だったワケで、マジな戦争なんかやる気ないのよね」「ああ、貴族同士の戦争ですしね所詮」「そうそう。 「ちょっとー、アンタんとこのヨメさー、持参金多すぎない?」とかいうのが争いの タネだったのよね。でも、フランス革命以降、とくにナポレオンの登場以後は、そう はいかなかった。貴族のなれあいじゃなくて、いわゆる市民アンド旧勢力・または市民同士の「マジ」戦争になっちゃった。だから、アメリカの独立戦争のときなんか、 イギリスの軍隊はえらくビビッたらしいのね。「なんであいつら本気で殺しにくるん だよー」って」「え? でも、殺しあうのが戦争なんじゃないんスか?」「いやあ、 「アメリカ市民」にとっては、そうだったんだけど、「18世紀のイギリス貴族」に とっちゃあ、「戦争で殺しあう」なんて野蛮の極みだったのよ。テッポーぶっぱなして、「さー攻めてきたわよ、どきなさーい」「やーよ、アタシだって武器くらい持っ てるのよー」くらいの威嚇ごっこのつもりだったのに、「われら市民! インディペンデンスのためには命も惜しまず!」と立ち向かってきたんだから」「スヤマさん、 そういうの、どう思います?」「わし? ま、思うにサイテーね。」(この項つづ く) ★7月19日(月)更新★★★★★★★★★ 『魂の労働』についてしつこく今回も。前回、この本は「コワイ・・・ホラー」だ、 と書いたけれども、実はそのホラーさを救うのがこの本のための書き下ろされた最終章なのだった。ここでようやく渋谷氏の本性があらわれる。「もうこの世の中には、 助けを求めることのできる場所も、機関も、組織も、なくなっていく。生命維持を享受できる人間は、自己管理をキチンとできる者に限定されてしまうだろう」。ずっと、ずっと、そんなふうに、「暗黒の未来像」を読まされ続けてきた読者は、終章 <生が労働になるとき>にいたって、はじめて、「ああ、よかった。著者は、絶望し てるだけじゃあないんだ」と安堵するであろう。希望のきっかけはどこにあるのか? なんと、ラスタファリズムである。そしてなんと、前々回わしがとりあげた、ドゥルーズの『ニーチェと哲学』である。「ラスタマン meets ニーチェ」と題された項 目で、『ニーチェと哲学』に出てくる、<わたしはよい、ゆえにお前は悪い>と<お 前は悪い、ゆえにわたしはよい>というドゥルーズの定式が引用され、最初に「わたしはよい」と自己価値化する者の「高貴さ」が語られる。どういうことか? 「オ レ、すげえ。オレがそう思ってるんだからべつに気にすんな」ということである。 で、そう思ってる代表的存在がラスタマンである。「大胆不敵にガンジャを吸い、レゲエに興じ、ドレッドロックスは伸ばし放題」・・・「怠惰」の象徴のようなあの 方々である。彼らは勤労意欲とは無縁であり、「生活レヴェルの向上」など毛頭考えておらん。なぜか? 「わたしはいい」からである。(ま、べつにラスタマンじゃなくても、「無力無善寺」にはそーゆー人はいつもたくさんいると思うが。)しかし、 世間はそーゆー人間を許してくれない。「働かざる者食うべからず」で、ある。だけ どちょっと考えてみれ。「勤労の美徳」をことさら言い立てるのはムジュンなのだ。 なぜなら、「働くことがそんなに良いことなら、とりたてて賞揚しなくても自然にみ んなやってるって」そう、人間とはフシギなもので、誰も「セックスの美徳」などことさら唱えはしないのに、みんなセックスはかなり好きこのんでやるのである。「や りたくないこと」ほど、「美徳」に祭り上げられるんだな。「月給は安くても、「やりがい」のある仕事が大切ですねー」 ホントかい? なんだよ、「やりがい」って ? それは:やらずに済めばこんなに良いことはないのに、それでもムリしてやる= そういう自分がいとしい=やりがい、じゃないでしょうか? そしてさらに、著者は書く:「勤勉な主体としての自己肯定は、<怠惰への攻撃>によって、はじめて可能になる」。そして著者は、ついにこの章で、ネオリベラリズムはルサンチマンのなれの果てである、と宣言する。いいかえれば、「ちっくしょう。あいつら、怠けモンの くせにチャラチャラしやがって、オレたちがどんなに苦労して働いてるのか考えてみろ穀つぶしめが」というルサンチマンである(ニホン国の、50代以上の多くの人は そう考えている)。<お前は悪い。ゆえにわたしはよい>の命法だ。でもはたして、 ラスタさんはホントに労働していないのか? ラスタさんは言うであろう。「お前らのやりかたと、オイラの働き方は、えらく違うんだよ。街をプラプラ歩いて、仲間とつるんで音楽やってることだって、オイラにとっちゃ「労働」なのさ」って。極論してしまえば、お金がもらえなければ、ソレは「労働」ではないのか? マーケッティングに成功しなければ、しかじかのマテリアルは無価値なのか? え? そんなことはないだろう、と問い直すことで、この最終章はマルティチュードな希望へとつながっていく。 そのキーワードは「自分のなし得ることの果てまで進んでいく力」だ。 そして、この力は他者のまなざしから遮られたアンダーグラウンドでこそ生成する、 という。オーバーグラウンドで自明とされている価値や尺度(資本力・有用性)のシステムとは異なるゲームを作り出す空間。もうひとつのキーワードは「手に負えない スタイル」だ。誰にもマネできないマイノリティとなること。この本の、この箇所 は、書き下ろし僅か20ページのドンデン返しのなかでも、いっちばん端っこの最終 ページでおとずれる、「啓示」である(ちょっとナイーヴに切られたタンカかな〜、 という気もするが・・・)。書き下ろしの章=ニューエスト・パートに、突出した救済感をあふれさせるというのも、この本の著者、渋谷氏の戦略なのだろうか。最後まで目が離せない一冊であった。 ★7月12日(月)更新★★★★★★★★★ 前回予告したように、『魂の労働』(渋谷望、青土社)について、報告せにゃならん。わしはこの本を読むのが怖かったんじゃ。なにしろ、「絶望の現在および未来」が滔々と語られておるからの。これはホラーじゃ。この世の中は「誰かがどうにかしてくれる世の中」だと思っている者はおらんか?ん?わしじゃよ。「飯が食えなくなったら、誰かが恵んでくれる」「カネが足りなくなったら、誰かが貢いでくれる」 と思っている者はおらんか?ん?わしじゃよ。いや、いままではそういう世の中だったじゃありませんか。だって国民年金だって払ってるし税金だって納めてるし。いずれはお上がとぼしい銭を勘定してくれて、独居老人のわしをなんとかしてくれると 思ってたわさ。ま、それが甘い考えだということは分かってましたよ。でも、この本を読んで、「そこまで突き放すおつもりですか、お代官様」・・・わしはワナワナと 虚脱してしまった。「お上が望んでいることはナニか? それはな、お前さんの自己責任、ソレだけじゃよ。自分で自分の身の世話はナニからナニまでこなさねばいかん のじゃ。福祉社会はもうおしまいじゃ。病気になっても、だれも無償で世話などせん ぞ。その前に、いかにして病気にならんようにするかを自分で考えい。そして、絶えずスキルを磨くことじゃ。優れた技能と知識のない人間は用なしじゃ。IT に精通するなんてことはモー常識じゃ。それができないナマケモノは死んでしまえ」これからはそういうシャカイになるというのじゃ・・・ところでワカモノ諸君、就職活動は首尾良くいっておるか? ご苦労であるな。しかし、 これからの時代、この本の言うとおりなら、キミらのお父さんが享受していた、カイシャと家族との扶養ネットワー クは存続不能なのよ。労働組合なんか作っても、企業との交渉の場ではもはやありえない。わしも含めて、すべての人々は、「お上(権力を掌握してる政府)」と「個人」の関係のみ(!)の「スーパーパノプティコン」システムのなかでボーフラのよ うに生きねばならんかもしれんのじゃ。ああ、もう、和気アイアイと親睦会や社員旅行なんてしてるのは、どこぞの神保町出版「H」だけになってしまうかもしれん(いや、出版社「H」だけが、浮世離れしているのであろう)。 ああっ!やっぱりこの本、ホラーじゃないか! もう暗黒の未来世紀ブラジルはすぐソコなのか? ゆるゆるの日常が依然としてゆるみっぱなしの中央線に住んでいるとまったく見えてこない、過酷な現実。ホントに、この本に書かれているような事態が 進行しているのか? 高円寺のフリーターくんたちは就職のコトなんか全然気にしてないみたいじゃないか。情報管理が極限まですすみ、アイデンティティの選択はもはや終焉、とまで言われているというのに、ニシオギの路地裏にはチマチマとした飲み屋がほぼ毎日のように勝手気ままに増殖しているではないか。この本についてはもう 一回、紙幅を頂戴して、きちんと述べさせてくれい。だって、だって、書かれてることと、わしの生活のリアリティのあいだに、すんごいギャップがあるんんだもん(もちろんわしの無知のせいなんだけど)。わしの周りはみんなすごいハッピーそうなのに、この本は恐怖の黙示録を唱え続けるのである。 もう一冊読んでる最中です:『ナショナリズム 名著でたどる日本思想入門』(浅羽通明、ちくま新書)。今年5月に出た本。タイトル読んで字のごとしの内容。上記 『魂の労働』を読んでズタズタになったココロをなだめるのには良いかも。あっ、これって、「癒しのナショナリズム」じゃないのか?そりゃイカンわな〜。 はたして その帰趨やいかに? まだ1章しか読んでないので、答えは控えます。わが英雄、小 熊英二氏の『<民主>と<愛国>』も取り上げられていて、読むのがすこぶる愉しみ ! ★7月5日(月)更新★★★★★★★★★ 今週は某大学教授が書いたニーチェ論の編集の仕事でイッパイイッパイだったん じゃ。2回も徹夜してしもた。そんな仕事をしておると、なんとなく、学生時代に読んでおったニーチェ本の記憶が立ち上がるっちゅうもんじゃよ。で、ジル・ドゥルー ズ『ニーチェと哲学』なんぞ引っ張り出して再読に及んだのじゃ。もちろん拾い読みね。っていうのも、20代になったばかりのわしは、読書してて「おっ!」と思った 箇所に線をひっぱるクセがあったんだが、今回、その、線が引かれた部分のみを読ん で、ちょうど20年後のいま、わしがどう感じるかを検証してみようと思ったん じゃ。ま、わしもノスタル爺になったもんじゃよ。 「ニヒリズムを克服する価値転換 は、ニヒリズムそのものの完全に完成した形態だということではなかろうか。実際、 ニヒリズムは克服される。だが、それはニヒリズム自身によってだ」こんなところに傍線をひいて喜んでおるなあ。なんでじゃろ。お、書き込みもあるな。「肯定は否定 との対立関係においてしか成立しない」だそうだ。こんなのもある:「否定的な積極 性→みせかけの肯定(ロバ、キリスト) 積極的な否定性→ホントの肯定(ディオニュsos)」はああ、なんでsosだけアルファベットなんじゃろ。それはソレとして、 この当時のわしは、この本を読むことで、まさに何かを克服しようとしておったらし い。たぶんそれは、「セイシュンの光と影」の違いを塗りつぶそうとしていたんだろうと思う。「ジンセイにおいて、「やらねばならぬこと」などないのだ。仮にそんなものがあったとしても、「是が非でもやらねばならない」とはかぎらないんだ」ということを証してもらいたがっていたのではないだろうかしら。他の傍線箇所:「生成 するものの存在とは、生成し始めもせず、生成し終えもせぬものの存在とは、どのよ うなものであろうか。回帰すること、これが生成の存在なのだ」その当時、「セイシュン」というコトバをまるっきり信用していなかった、若き老人のようだったわし にとって、ニーチェとは、「どうだっていいんだよ、やりたいようにやんな。「セイシュン」にまみれているかのような周りのやつらも正しい(間違ってる)し、レコード屋(当時CDはなかった)と映画館と本屋しか行くところのないおまえさんも正しい (間違ってる)んだよ」とツブヤキながら、泣きじゃくるワカモノを教え諭す、定食屋のテーブルに座って(当時わしは酒が呑めなかった)楊枝をシイシイしつつヒゲを 捻っているのがピッタリな、陋巷に身を沈めかけたニヒルな賢者だったのだ。「なんで、オレとあいつらはこんなに違うんだろう」ということが、思想のそもそもの出発点であることを確認させてくれた1冊、それがこの、初期ドゥルーズの本だったの だ。 ニーチェ(ドゥルーズ)は繰り返し言う:「あいつら」に「怨恨」だけは抱いちゃならん。それよりは、能動的なアクションを可能な限りさりげなくかけていくんだ・・・そのためには「肯定的なニヒリズム」の装いが求められていたのるのじゃ。 ・・・しかし、いま思えば、当時のわしにとって、それは「装い」というよりも「ヨロイ・武装」であり、「やせ我慢」であったと思う。先日までかかずらわっていた ニーチェ論も、「もしかして、「大いなる健康」を標榜していたニーチェ自身も、 「大いなるやせ我慢」をしていただけなのではないか」と書いていた。しかしなが ら、やはりわしは信じたいのだ。大いなる肯定を。そして、この本に書かれている通 り、ニーチェにとって、「歴史とはニンゲンの絶えざる反動化(恨みと、そのはらし 合い)そのものに他ならず、弱者や奴隷を生み出し続けるものである」のならば、 「ニヒリズムを乗り越えるニヒリズム」にはまだ可能性がのこされている。わしがこの本を読んだ20年後、つまり2004年の現在、世界は「怨恨」に充ち満ちてい る。人種的怨恨・国家的怨恨・人間関係的怨恨・情報操作的怨恨・・・その否定的パ ワーは80年代の比ではない。そうじゃ、いまひとたび、ニーチェを! 諸事万端に は、始まりもなく、また終わりもない。すべては等価であり、しかもすべては差異化されている。世界はあらかじめ混沌のなかにあり、その混沌を整えようとするところ に権力は生まれる。生まれてはいかん! しかし、死んでもいかんのじゃ!混沌を整序するべからず! このようなことを考えつつ、ハッと気づくと、わしは『魂の労働 ネオリベラリズム の権力論』(渋谷望、青土社)を購入し、激しく読み始めているのじゃった(この本 については、次週、報告の予定)。 |