BOOK BOOK こんにちは  2004.1月

 

このコーナーは、3人の精鋭が日々読んだ本の感想を書いていくものです。

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       アオウ        コマツ       スヤマ

★1月26日(月)更新★★★★★★★★★

私は狼狽した。それは、仕事で南紀白浜へ赴かなければならなくなったから。とっとと行って、とっとと帰ってこねばならない。しかし、調べてみると南紀白浜空港と東京を往復するのは、現在エンジン亀裂がざくざく見つかっているJASのヒコーキだけなんである。冗談じゃないよ。今まさにW氏から借りた『隠された証言 日航123便墜落事故』(藤田日出男 新潮社)を読んでる最中でもあるし…。本書は2週前に読んでた『葬り去られた真実 日航ジャンボ機墜落事故の疑惑』と重なるところもけっこうある。焦点はひたすら「事故調査委員会」の事故原因捏造疑惑だが、こっちは門外不出の書類を持ち出した「内部告発者」なども登場して、ますますエキサイティングであります。結局、飛行機には乗らないで済んだ。っつーか、もともと東京ー南紀白浜は1日2往復しかないのであるが、機体チェックの影響で欠航気味なんだって。あなオソロシ。帰ってくる日の夜の便もあっさり欠航になってた。しかしトータル27時間の旅のうち、14時間は移動時間って異常だ。紀州は寒かった。

『音楽を聴く』(片岡義男 東京書籍)読了。これ、読み終わるのにすごく時間がかかった。非常に平易な言葉で書いてあるので、スラスラと読んでしまう。しかし読み流していると、しばらくしてさっぱりわからなくなるから結局2〜3ページ戻って読み直す…をけっこうくり返した。読み流せない本って、いいものだ。この本には書き抜きたい箇所がたくさんある。図書館の本だが、これは自分で持っていなくてはいけないな。この本の中で、著者は店に行っては何枚かのCDを買ってくる。それを聴き、ライナーをじっくりと読む。その感想の淡々とした積み重ねのようでいて…こうも「淡々と」感想を積み重ねることの難しさに気づかされたりする。著者はひとことも悪口は書かない。悪口を書くのはたやすいことなのだけど。それでいて「持ち上げてる」わけでもなくて、それでいえ嘘はないから、すごいと思う。

 今まで古本屋で探してきたがやっぱり見つからない『月と篝り火』(パヴェーゼ 晶文社)、さすがにじれったくなって出版社に注文することにする。前にも書いたが、これは刊行が中絶したままになってるパヴェーゼ全集の一冊で、刊行された数少ない中の、今も在庫が残っている数少ないタイトルなのである。ところがどっこい。出版社に電話してみたら、在庫は残り一冊ということであった。危ない危ない、と同時にありがたや。これで持ってないのは絶版の『浜辺 炎』(晶文社)だけ…のはず。だぶって持ってた『流刑』(カバーナシ)をT君にあげたところ、気に入ってもらえたようでこれもうれしい。この作家の地味さ・ショボさと執念深い暗さでできた弾力のある粘り気世界は、だれにでも勧められるわけじゃない。

今年はなるべく、厚い本を読もうと思っている。先日、ブックオフで見つけた…立ち読みもままならぬほどぶ厚いので積んであった段ボールの上でページを広げた…あのぶ厚い本、やっぱり買おうかなあ。「私が買わなきゃだれが買う!」って気もしたし。どんな本かは、首尾よく入手できたらまた来週に。

★1月19日(月)更新★★★★★★★★★

『アデスタを吹く冷たい風』(トマス・フラナガン 早川ポケットミステリ)いや〜出ましたついに、ようやく。復刊希望読者アンケート1位に輝く短編集。こういうの、一度見逃すとすぐに店頭から消えるので、即買い即読み。何編かの探偵役になっている、地味ぃ〜なヒーロー、テナント少佐がシブイというよりはひたすら暗く、愛想無しなところがイイ! ところで「ハヤカワ・ミステリ総解説目録1953-2003年」版が出たもようですけど、私のように「1953-1999年」版を持ってる皆さんはどう思ってるんだろ。やっぱ買うんでしょうかね、真のマニアは? 将来「2000-2050年」版を出してほしいな、それまで生きて待ってるからさ。あー、しかし当分先だね。

『現代日本文学「盗作疑惑」の研究』(竹山哲 PHP研究所)本書の長い前書き(谷沢永一氏による!)によれば著者は、松本清張の研究をフォローしていた人物だそう。てなわけで、この本では森鴎外についての「疑惑」に多くのページをさいている。鴎外の盗作っぷりを著者は「創作ではなくリライト」と呼んでいるが、確かに資料(というか元原稿)提供者の原文と照合されてみると、「リライト」と呼ぶにふさわしい。原文のままでは読み物として世に出せないクオリティだが、それを読みやすくわかりやすい文章にリライトしてあるのだから。ホントに原文に赤字を入れて修正したような感じだから、たしかに創作とは言い難いんだよね。ほかには井伏鱒二(主に『黒い雨』ね)、田山花袋、徳富蘆花、太宰治など。ちなみに松本清張の『両像・森鴎外』が出た時も、猪瀬直樹が『ピカレスク 太宰治伝』で井伏鱒二のリライト問題を書いた時も、文壇からはほぼ黙殺されていた…という谷沢氏の指摘が興味深かった。ま、時代が時代ですから、作家たちも原文を書いた人から訴えられたりなんかしてないし。どちらかというと仲良くやってたわけですけどねぇ。

『ヨットクラブ』(デイヴィッド・イーリイ 晶文社)昨年大当たりだった『壜の中の手記』(ジェラルド・カーシュ)と同シリーズに属する新刊。アンソロジーなどでこの著者の名前はうっすら記憶してたが、個人短編集の翻訳が出るのは初めてだそう。不気味っていうより「不穏」「不吉」を予感させるエンディングが好きな私にはど真ん中ストライク! 「衝撃の結末」というほどクリアじゃなくて曇天な感じ。このシリーズでカーシュの第2弾短編集も出るらしい。楽しみだ。

『音楽を聴く』(片岡義男 東京書籍)図書館から借りてきた本。まだ冒頭をちらっと読んだ程度。メガストア的CD店についての考察に、心動かされる。CD店になかなか足を踏み入れられない自分のリハビリになってしまった。そもそも私はCDを初めて見た時、あたかも骨壺を見たような気がしてしまったものだ。「こんなに小さくなっちまって…」と。私はCD全盛になるにしたがい、音楽を消費しなくなった。しかし、そろそろ、ジメジメしとらんでCDを買えるようになりたいと、ここ何年か思っていた。長く時間がかかりすぎたかもしれないが、片岡氏のおかげでようやく喪が明けそうだ。以下本文より。「広い店のいくつもの棚に、最新のもののような装いで数多くのCDが並び、どれもがきらきらと輝きつつ、圧倒的な多さで眼前に迫る。そしてそれらのCDは、じつはすべて過去なのだ。過去というものの膨大さを、人々はメガ・ストアから感じ取っているだろうか。」「現在がすべてであり第一義であり、この世には現在しか存在していないという不遜な考えを修正して小さくし、正しい均衡に戻すために、過去はたいへんに有効だ。」

グレン・ミラーについて書かれているあたりを読んでるので、今日さっそくグレン・ミラーのCDを買ってきたよ。

★1月12日(月)更新★★★★★★★★★

『妖精の出現 コティングリー妖精事件』(あんず堂)は、コナン・ドイルが書いた原著を、そのまま翻訳して出すのではあまりにキチガイじみているので、日本における妖精界(?)の第一人者、井村君江先生が翻訳に解説を加えつつ、同事件の顛末を紹介したものである。表紙は、くだんの事件の「証拠」となった、クラシックな風情のイギリス美少女と妖精のツーショット写真…。

 コティングリー妖精事件とは、1917年に、当時16歳のお金持ちの少女エルシー嬢が「10歳のいとこと妖精が戯れる写真」の撮影に成功した、というものである(この時代にカメラを持ってるなんて、そうとうのお金持ちだね)。神秘主義やら心霊写真に傾倒していたコナン・ドイルをはじめとする一部の大人たちは、小娘たちが撮ったこの写真に夢中になり、熱心に鑑定してこれがトリック写真でないことを一生懸命唱えているのだが…。娘たちは、「もっと写真を撮ってくれ」というリクエストに応え、さらに新作を撮って送ったりもしている。写真自体がトリックじゃなくても、被写体のほうは一目瞭然、つくりもんですけど…。どれも妖精はモデルばりのキメポーズだもんね。しかし、絵がとっても上手で、写真から浮いてないから完成度はなかなかのものだ。いっしょに写ってる女の子もとってもかわいいから、なおさら画面はファンタスティック。信じたくなる気持ちもわかるけどね。ちなみにこの写真を撮った張本人は晩年に「自分が紙に描いて色を塗ったものを切り抜き、長い帽子のピンで留めてキノコの上に刺し撮影したものだ」と告白しており、「偽作を人々にもっとも長く信じこませていた事件」としてギネスブックにも載ったそうである。やるねぇ。

 私が年末に送ったばかりのみかん箱がさっそく返ってきた。恒例のW氏からの本&漫画ギッシリ箱である。私が本屋の店頭で見て「買おうかな〜」と思ったけど買ってない本が入ってたりするからさすがである。まっ先に読み始めたのが、『葬り去られた真実 日航ジャンボ機墜落事故の疑惑』(宮村浩高 青心社)。またもや、アレです。85年の日航123便・御巣高山墜落事故の本でございます。今、3分の2ほど読み終わったところなのだが、事故調査委員会の調査報告捏造疑惑にビシビシ切りこんでおり、白熱中。事故機のボイスレコーダー(コックピットでの機長らの会話の記録ね)の内容発表が、回を追うごとに変わっていっていることをねちっこく追究していて、読みごたえあります。あと、墜落してから事故現場を特定するのに時間がかかりすぎていることに言及しているのも…そうそうそこが気になってたんだよ!「事故調査委員会は、何か本当の事故原因を隠すために、事故原因を捏造している」というのが著者の訴えだが、「本当の事故原因」は本書で指摘されるのだろうか?どきどき。興奮はたかまるばかり。がっかりさせないでくれよ!と吠えつつ、今宵ラストに向かいます。

★1月5日(月)更新★★★★★★★★★

 年が明けるギリギリに実家に帰るのが、恒例行事。片道1時間とかからないってのに1年にたった3日帰るだけの不肖の娘なので、一人で閉じこもって読書に打ちこむわけにもねえ? なので、まあかろうじて読了したのは『或る「小倉日記」伝』(松本清張 新潮文庫)のみなんです。表題作は芥川賞受賞作。鴎外が小倉に住んでいた3年間の間に書いていた通称「小倉日記」は、ずっと所在が見つからないでいた。そこで、ある青年が鴎外と親交のあった人を探し出して、小倉時代の生活に関する証言を集めようとする物語なのである。これは実話を元にした小説で、主人公は生まれつき体が不自由でスムーズにしゃべることも覚束ないが、頭の中身は優秀という人物。結局研究をまっとうできないままに死んでいき、彼の死後に「小倉日記」が発見されるという物悲しい結末となるのだが…。ん〜、こうなったら「小倉日記」も読まざなるまいな。この短編集に収録されてる杉田久女のモデル小説も大変おもしろかった。

実家の自分の本棚から『赤色エレジー』(林静一)を引っ張り出してきて久々に読んだ。あと、母と姉が「はじめてのおつかい」を見てる横で『ブラックマスク異色短編集5』(小鷹信光・編 国書刊行会)を読もうとしたが、これはかなり無理がありました。さすがに…。

★1月26日(月)更新★★★★★★★★★

ドベー。現在3冊並行して読んでるよ。

「実録・天皇記」(大宅壮一・角川文庫)、「脳男」(首藤瓜於・講談社)「アメリカ日常語辞典」(田崎清忠・講談社)。どれもそれぞれに面白いよ。ムフフ。チビチビ読んでるのでなかなか先に進まないけど別にいいのだー。

 

「アベちゃんの悲劇」(阿部寛・集英社)は一瞬で読んだ。かつてカルトっぽい映画で、エキセントリックな役を演じてるのを見たことがある。ヘタだなー、という印象だった。割と最近もラジオでナレーションをしていたが、役者とは思えないヘタさ加減であった。でもなんだか好き。「熱海殺人事件」やったら絶対見に行く。

仕事場にあった「前略人間様。長渕剛詩画集」を読んだ。つーか、見た。相田みつをとか326とかあーいうのが好きじゃないので、キツイなー、と思いながらめくってたら「馬鹿丸出しの人生」という字があった。それはなんだか説得力があって、ちょっと良かった。絵は上手だが、まあ、ってかんじ。日本回帰的な題材より、ブルースハープやラジカセ描いてるものの方がよい。全体に色のセンスはいいな、と思った。

んなトコで。

 

★1月19日(月)更新★★★★★★★★★

「カフカのかなたへ」(池内紀・青土社)は読みやすいカフカ伝記だった。カフカは自作品をノートに直に書く人だった。書き直しなどもほぼなかったが、ノートが終わってしまうことに心理的な動揺をきたしていたようだ。最終ページには書き直しのあとが多く見られ、作品内容にも影響があった、という。このエピソードはちょっとオレの興味をひいた。が、もしかしたらただのオレの思いつきかもしれない。

「ユダヤ人の思考法」(大嶋仁・ちくま新書)ユダヤ人は民族的な記憶(物語)を思い出すことを自身の頼りとしている、というような事がかいてあった気がする。

「明治天皇を語る」(ドナルド・キーン・新潮新書)明治天皇は質素倹約を旨とし、古い軍服にツギを当てて着るような人だったらしい。酒とダイヤモンドが大好きで、風呂と医者と写真が嫌いだった。いわゆる御真影はこっそり外人の画家に描かせたものを写真に撮ったものだそうで、オレは遠い昔、高知の駄菓子屋の奥に見たような気がするが、夢かもしれない。

「夜と女と毛沢東」(吉本隆明/辺見庸・文春文庫)オレは辺見庸の小説がなんだか好きである。暗いが赤く燃えてる炭みたい。この本はいい湯加減の会話が楽しめそうで買ったのだ。で、良かった。

「赤い唇 黒い髪」(河野多恵子・新潮文庫)ホントは唇じゃなくて、もちょっと難しい字なのである。くち、と読ませている。短編集で二話ほど読んだところ。ストーリーとは直接関係ないのだが、読みながらなんだか女性の潜在能力という事について漠然と考えてしまうのだ。社会的に発揮されにくい、とかそういうはなしではない。まだよく判らない。

「夜の河を渡れ」(梁石日・新潮文庫)面白い。ピカレスク仕立てだが率直でさわやかだ。新宿でポーカーゲーム屋をはじめた二人の男の話である。たぶんあと15分で読み終わる。面白いので「血と骨」も既に買ってあるのだ。

洋書バザールで働いたこともあってJEFF WALLの作品集を購入。この作家をオレは寡聞にして知らないが、現物を見てよかったので買ったのである。これはちょっと自分にビックリしたのだが、あろうことかオレはアートを好きになりかけている!オレはいわゆる現代アート的なものにかかわった場所で働いてもいるのだが、これまで特別に興味を抱いたことがなかった。書画骨董にかかわる店にもいたことがあり、こちらにはほんの少し関心があった。現代アートが一体なんなのか、少し自分なりの手がかりがつかめたのかもしれない。たぶんそうなのだが、いかにもオレらしく歩みの鈍いこと甚だしい。でもとにかく嬉しいことだ。バイバーイ。

★1月12日(月)更新★★★★★★★★★

ふにゃー。『ガロ曼陀羅』(TBSブリタニカ)を読んだデス。オレはあまり読んだことのない雑誌だけどちょっとバックナンバーを探して読んでみたくなりました。つげ忠男、花輪和一なんかけっこう好きデス。『ナゴムの本』(平田順子・太田出版)も読んだデス。偶然デスがつづけて2冊サブカル青春の回想本となりました。で、面白かった。その理由は、著者自身にナゴムに対する思い入れがさほどなくインタビューと資料のみで書かれてるからだと思います。よかったのは、アルルカンというバンドのボーカルが当時を振り返り「(自分は)イヤなヤツだったと思うよ。人の悪口ばっか言ってたし。でもそんなぼくでも居させてくれるような鷹揚さがあった」というような発言をしてるトコと、たまのボーカルのひとが「あの頃がいちばんよかった。道で知らないカワイイ子に話しかけられたりしてプチ有名人気分をくすぐられた」というような発言をしてるトコ。オレももうちょっと頑張って、そのくらいのポジションを目指そう!と、初日の出に手を合わせて心に誓ったのでした(笑)。そういえば、ずいぶん前だけど、田口さんに「我々はナゴムの全盛期にいたら売れたんじゃないかな」みたいな事を言われた様な気がする(笑)。それに、我々結成前のことデスが、アオウは実物のオレに会う前に、歌声だけを先にテープで聴いており「ケラの性格を悪くしたような男」といった印象を持った、と後に語っておりました(笑)。あー、人生のCD売らなきゃよかったなー。なんだかケラという人に好印象をもった本でした。なんかやっぱ時代は世知辛くなってんデスねー。他に読んでる本もありますが、またねー。

★1月5日(月)更新★★★★★★★★★

実家にあると思った「坂の上の雲」がない。母に尋ねると、入院した伯父に持って行ったっきりでない、と言う。仕方ないので「酔って候」(司馬遼太郎・文春文庫)を手に取った。主人公、山内容堂は幕末の土佐藩主で見栄えのいい男。大酒のみだが馬に居合いにと腕が立つ。詩歌をよくした教養人でありつつ、実際の頭も切れてなおかつオシャレ。ちょっとしたスーパーマンなのだが、勤皇と佐幕の間を揺れ動く時代のなかで、結局はなにもしなかった、というオソマツであった。いくら無頼や粋を気取っても、しょせん封建時代のインテリ殿様。時代を変えるほどの蛮勇は持ちようもなかったのである。なんかしんみりといい話ではあった。「私は忘れない」(有吉佐和子・新潮文庫)何も知らずテキトーに読み始めたのだが、意外な展開で面白かった。映画スターになる千載一遇のチャンスを逃した駆け出し女優が、失意のハートを癒すため、たまたまグラビア誌でみかけた「忘れられた島」に旅に出る。着いてみると島は思った以上に原始的でチョー不便。女優はゲンナリ。しかも島内の2つの村は対立していた。なんか他にもイロイロあるんだけど、いきなり台風がやってきてお話はパニック小説風に進んでいくのであった・・・。ムチャだけど筆に勢いがあるなー。「深海パーティー」(黒岩重吾・集英社文庫)は作家最初期の短編・連作集。意外にコレが良かった。オレは好きね。主人公は大阪・ミナミの大キャバレーのフロアマネージャー(だか何かそういったヒト)。いろんなホステスやそのオトコたちが、金や色に狂っては、人を殺したり人に殺されて死んでいったりするのテス。ミステリ風ではあるがミステリでないとこがよい。「カップルズ」(佐藤正午・集英社文庫)にもそれは言えて、オチはべつにないのである。これも同一主人公を配した連作短編集だった。「人生で最も輝いた一日」を描いた一篇がせつなくて良かった。「おそい愛」(藤原審爾・講談社文庫)も面白い。これは派遣家政婦が主人公。これも連作。なんか、今回たまたま「ド昭和な」作家のものをいっぱい読んだけど、通ずるものは真面目さ、だなと思った。それを何と表現すればよいのか・・・。真面目さ、つったって倫理的なものだけではなく・・・。そう、たぶん他人への興味、に関する真面目さだ。他人への興味(謎)を解くために、主人公はかならず他人を観察・類推する。その類推が実に気持ちイイのです。それがなんだか真面目な感じがすんだよな、何故かはよくオレにも判らんが。現代の小説(たとえば海辺のカフカとか)にはそれが稀薄な気がする。自分の観念ばかりあって他人が不在。貧しく薄っぺらいのがどうにもこうにもキツい。まあ観念でもあればまだマシなんだろうけど、実のところはそれもアヤシい。文学史的にどうなってんのかは知らないが「物語」を言い訳にしたような寝言よりは、風俗小説と呼ばれるようなもののほうがオモロイかも、とちょっと気付いちゃったテス。他に池内紀が書いたカフカの伝記風読み物も読んだテスが、書名がわからないし、もう疲れたので今度書くテス。いやホント面白けりゃ何でもいいのテス。

★1月26日(月)更新★★★★★★★★★

モーリス・ブランショは「最もフランス的な作家だった」と言われている。“フランス的?”“それってナニ?”

ところで、『デュラス、映画を語る』を読んだ。訳者の岡村民夫氏はわしの大学時代の先輩(41歳独身)である。敬愛している。この本は実にすばらしい。3200円を支払って、誰彼なしに読んでいただきたいのである。(みすず書房が版元です。)なぜすばらしいのか?「フランス的なること」がモロモロに露呈しているからである。敢えて、ひとことで言うなら、「内在性=筋書きの否定=ハラハラドキドキの拒否=“面白かったねー”“そうだねー”という会話への嫌悪=〈表現手段〉そのものへの疑念表明と同時に、その手段そのものを考究すること」である(ひとことで言ってないわね、ゴメン)。

マルグリット・デュラスは、日本では『愛人』の作者として一般に知られている。それでは勿論ダメなのである。では、デュラスとは何か?「限りなく言語表現に近いカタチで映画を撮ったことのある小説家(ただしストーリー無し)」である。と同時に、『24時間の情事“Hiroshima mon amour”)』も『モデラート・カンタービレ』も映画化されている(あの『愛人』も映画化されており、この映画化にデュラスが激怒したことは周知の通り)のがとってもとっても逆説的なのである。よく人はフランス映画を評して「動きがない」だの「コトバが多すぎる」だの「眠い」だの「アクションがたりない」だの「娯楽性に欠ける」だのとタワケたことを言うが、畜生、全くその通りなのである。わしはよくフランス映画を観て眠ってしまうが、ソレでいいのである。

なぜ、映画を観、小説を読んで、そこに展開している世界に刺激をうけねばならんのか?視覚体験とは、あるいは言語体験とは、〈物語〉を前提として成立するのか?断じて否、である…とするのが即ち「フランス的」ということであろう。そこでは、登場人物たちはみな、孤立している。役柄を“演ずる”ことすらない。デュラスの映画では、(とくに『インディアン・ソング』では)俳優が演技をしながら喋る、ということがない。言葉は演技と遊離している。ストーリーをつむいでいく表情、感情の連鎖は全くない。おおここで思いおこせブランショの小説を。あそこでは一切のドラマ的展開は封じこめられ、“孤立した者”の行き先のないモノローグのみが延々とつづけられていたんじゃなかったか?「フランス的」。それは殆どナルシスティックなまでの停滞性。“じゃっ、そういうことでおつかれっ!”とハナシを完結させて安心立命することを耐え難いと感ずること。デュラスはこの『デュラス、映画を語る』(原題は『言葉の色』)のエピローグで書いている:「フランス語のなかで、そして思うにすべての言語のなかで、私がいちばん嫌悪している言葉は、「夢」という言葉。私はけっして夢を見ず、だからこそ書く。…〈中略)自己のうちに生じるものしか、つまり物語的性質をもっていないものか興味深いものはない。それを物語ることはできない。」そして作家は言う。「夜」「太陽」「家」「死」などの言葉は、あらゆる文法性から孤立している、と。孤立。それは解決=“これで安泰!”の状態=起・承・転・結の調和からの逸脱、でござる。カッチョイイ〜!でもやっぱりソレって「フランス的」、ひいては「ヌーヴォーロマンの美学in 50's」ですよね。「我々」(バンド名)のくちひろげてるステージはどうなんだろうか。すぐ終わるから、たのしいじゃないか。“あらゆる文法性から遠ざかった音楽”というものがあるとしたら?〈無調性のゼンエー音楽〉になってしまうじゃないか?そんなのイヤー!音楽はやっぱり、ハーモニーとリズムがきちんとしててほしー。だってそうでしょ。音楽はストーリーじゃないんだ。眼前で進行するドライヴなんだ。だから変拍子はキライじゃー、でもブレイクは好きじゃー。

…はい。では 結論。映画や小説は退屈。でも音楽は?キモチいい…。それがすべて…。映画も小説も、退屈なほうがいい。たとえばベケット晩年の芝居も「退屈」さが心地良い。でもライヴは…お客さんを楽しませなくっちゃね。

★1月19日(月)更新★★★★★★★★★

 前回書き付けた「無能界」というコトバは、「芸能界」との関連で発案いたしたのであり、「無能」すなわち「芸」としてジャーナリズムをもにぎわせることのできた、 日本近代史上まことに稀有な時代こそが、大正〜昭和であった、と言いたかったの だった。

 さて、今、再読しているのは、安岡章太郎『僕の昭和史 2』である。 この本では、敗戦〜復興期までが扱われている。ここでも、「無能界」がひしめいて いる。「いつまで生きられるかわからない」という「無能」が。 戦争をはさんで、日本近代はふたつの「無能=ダメさ」に浸されたのだった。 安岡さんは、「障子紙売り」「GHQ接収建造物清掃」「進駐軍宿舎見張り」などをしながら、「無能」の泥濘をさまよっていた。 復員後、28歳でようやく慶応大学から「追い出される」ようにして卒業する。当時の 教官はかの西脇順三郎先生である。その西脇先生が言う: 「なんで、キミたちのうち、誰も就職の相談にこなかったのかねえ」来ないのである。就職先など、日本のどこにもないのだから。でも、西脇先生の時代には、就職先はいくらでもあった。 仕事口がなかったのは、「ダメ好み」の時期にあった日本。すなわち、「昭和初期」 と「大戦後」のこの国である。 たとえば太宰治。このひとは、まさにこの「ダメ好み」の時代を象徴するかのよう に、(しかも、大正期私小説作家の「ダメ」振りとは異なる自己韜晦でもって)戦前 ・戦後を書き抜けた。そういう彼も、戦時中は「市井の人」として、無力ながらコツコツと生きる、「圧倒的な国策の重さに耐えてなんとかダメにならないようにする人」として小説を書いていたのだ。でも、国破れ、国策の重さも一夜にして解除され、「自由に」モノを書ける時代になった途端、太宰は「ダメ」になる。もういちど、情死へ向けての歩みがはじまるのだ。(このへんのことは『<民主>と<愛国>』にも書いてあったな。) でもなぜ? そもそも、小説を草するのに、「自由」も「統制」もない、ということなのだろうか。

★1月12日(月)更新★★★★★★★★★

 いま、読んでおるのは計6冊である。なんで並行して同時に6冊も? 理由はひとつ。すべて面白いので次々に読み始めるのだが、読むのが遅いので溜まってしまうんである。とりあえず一番進んだのが『藤澤清造貧困小説集』(亀鳴屋)。ある日、勤め先で仕事をしているフリをしていると、前の席に坐っている同僚が「すーちゃん、面白え本屋があるぜ、いまその本屋のサイトのアドレス送るから、見てみな」と声をかけてきた。で、見たのがこの出版社『亀鳴屋(かめなくや)』のHPであった。そのHPに出ている、この金沢にあるらしい殆ど私設の出版所(“社”ではなく)が最近出した僅かな新刊書のなかに、前述の本の紹介があったのだった。この藤澤清造という人物は大正〜昭和にかけて、性欲と貧窮と病苦という三大テーマを私小説のうえに叩き刻んだ、よくある「ダメな人小説」の、隠れた名手であったらしい。住んでいたのが根津神社裏だったり西荻窪だったりと、わしの生活圏と重なるということもあり、ちょいと興味をもった。早速亀鳴屋にテルし、注文したのだが、なんと木箱入り特装本・代価は二万円である。送られてきたその本の表紙および扉には、つげ義春画伯のイラストがあしらわれており、《無能界》にて描きだされた作品集であることを劈頭から告げておった。一読して、“貧困”の有様がコレでもかコレでもかと押し寄せてくる、愚痴と溜息ばかりの作風であるのはマァ看板通りとして、こういうダメな人がソコソコ発表の場を得られて(中には初出誌『文藝春秋』や『週刊朝日』なんてのもある)、ロクロク作家修業もしてないのに(上京当初は演劇志望だった)ポコーンと小説家になっていた大正時代という時代。この作品集の巻末には「藤澤清造ゴシップ細見」という別章がもうけられており、同時代の文壇誌や新聞誌上に載った、この小説家の行状を丹念に追っている。(「読売新聞」、「サンデー毎日」「新潮」等々。)この時代には、《無能界》もマスコミのネタの供給源に立派になり得手いた。と言うよりむしろ、この時代そのものが、総じて「ダメ好み」だったのかもしれん。日本がもし、そのまま昭和10年代まで「ダメ好み」のままでいられたら、大東亜共栄の大風呂敷は必要とされなかったかもしれん…。その意味で《無能界》にも思想的意義がある。そして21世紀のいま、《無能界》はどこに在るのだろう…高円寺の、阿佐ヶ谷寄りガード下あたりであろう…。

 最後に、三上於菟吉が昭和2年の「サンデー毎日」誌上で言ったという言葉とそれへの記者のコメントをここに孫引きする。「『ありゃ(=藤澤は)病気でも何でもない、電車賃がないから東京に出て来ないんだ、それで文壇でも忘れられるのだ』…荻窪から東京までの電車賃で文壇から葬られるとは、文壇的なあまりにも文壇的な…」

 いまでは考えられない、ノンビリとしたダメ振りである。

 藤澤清造、昭和7年1月29日、数日間の彷徨の末、芝公園にて凍死。享年44歳。