BOOK BOOK こんにちは  2003.10月

我々はもしかして東京でいちばん読書量の多いバンドなのでは?

このコーナーは、3人の精鋭が日々読んだ本の感想を書いていくものです。

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       アオウ        コマツ       スヤマ

★10月27日(月)更新★★★★★★★★★★

 今週は本当に睡眠時間が少なく、週後半は電車に乗るとほぼ乗り越すというありさま。ロアルド・ダールの『マチルダはちいさな大天才』(評論社)ジャック・タチ『ぼくの伯父さんは郵便屋さん』(平凡社)を読む。ダールは何を読んでもおもしろく、言うことないなあ。でもこのラスト、めずらしくハートウォームな感じでした。『ぼくの伯父さん〜』はバカバカしくてよかった。

 26日の夕方、無力無善寺『日本ロックフェスティバル』初日に販売用の、いまさっき完成したばっかの『ナイン・ストーリーズ』を届けに行く。帰りに本屋にちらっと寄ったところ、ポケミス『殺人犯はわが子なり』(レックス・スタウト 早川書房)が目にとびこんできた! ななななんと! ハヤカワは10年以上も前に『ネロ・ウルフ最後の事件』を文庫で出していて、もうネロ・ウルフものを出す気がないんかなあと思っていたところだったが…。その後、光文社からはちょこっと出ているけど、ホントにひさしぶり。ポケミス50周年記念出版というオビがついている。

 ネロ・ウルフは体重100キロを超す巨漢探偵。美食と蘭の世話が生きがい。趣味に贅を尽くすために仕事をやっている、というタイプである。めったに現場には出ていかない安楽椅子型探偵で、外を駆け回るのは彼の片腕アーチー・グッドウィン。アーチーはただ従順な部下でなく、ときに批判的であったり命令の通りに動かなかったりするところがおもしろい。

 私が初めてネロ・ウルフを知ったのは中学2年の冬だった。今は亡きミステリ雑誌『EQ』(光文社)に掲載の中編『苦いパテ』。私が『ミステリマガジン』(早川書房)より『EQ』を好んで買っていたのは、ひんぱんにスタウトの作品を載せることが理由だったと思う。『EQ』の読者プレゼントにはよく当たったっけ。ロゴ入りTシャツとかポーチとか。読者が少ないのかなあ、なんて思ったりしていた。

 近年バカ売れしている児童書の『パスワードはひみつ』(松原秀行 講談社青い鳥文庫)に出てくる、探偵クラブのリーダー役の女性がコードネームを「ネロ」としているのは、ネロ・ウルフからとったものだと作品中で説明されている。すごい。ネロって言ったら小学生にとっては普通=『フランダースの犬』でしょ。ネロ・ウルフはミステリーファンでないとちょっと知らないかなあ、というくらいの知名度なので、こげなメジャーなところで登場しているのはうれしい。パスワードシリーズを読んでる子どもらがネロ・ウルフファンになってくれるといいなあ。そんで、ファンが増殖して雑誌のみに翻訳が掲載されたようなのも続々本になるといいなあ。

 今週は児童書を20冊前後読むことになるだろう。仕事ではほかに、来週にかけて森鴎外の評伝、資料を読みまくることになるな。おもしろい本があったら教えてください。子どもたちも各々いっぱい本を書いてるし、集めようと思うと厖大なので…。それがすんだら、たまっている趣味の本たちにひたりたいなー。どんなにおもしろい本でも仕事で読んでるとなると「義務」が付加されてて、純然たる愉しみとは感触が異なるので。11月後半は羽のばすぞ!

★10月20日(月)更新★★★★★★★★★★

 かなしいかな、予想以上に本を読む時間がありません。仕事がらみで読むこと必至の本すら。やばい。やばいなあ。今日も注文しといた本が宅配便で届いてしまい、玄関先に置かれたままだ…。おととい着いた11冊の本にも手をつけてないってのに。

 今日の午前中は資料を探しにK図書館に行った。先日M図書館でも10冊借りているのだが、それでは足りないとわかったので。それにしても、今年の正月に母から「デカすぎて使えないから」と譲り受けたマックスマーラのデカバッグが図書館用として大活躍だ。デザインはイマイチなんだけど、腐ってもブランドもん。一見普通のデカすぎるトートバッグのようだが、つくりが良い。今日はハードカバーを10冊(そのうちの3冊は事典!)借り…よせばいいのに、ご自由にお持ち帰りになってよい「リサイクルブックス」コーナーで、これいいじゃ〜んという本を4冊も(これも全部ハードカバー)見つけてしまい、貧乏性を発揮して持って帰ってしまった。こないだ、リンゴ5個とバナナ1房、でかいトマト4個、米5キロ袋を片手で持ち運んだ、《ひとつ人より力持ち》な私だが、今日は背骨が折れるかと思ったぞなもし。

なのに、本屋を1分ほど通過した際に、『モノマガジン』がサバイバル特集なのを見過ごせなかった。そして『sesame』の増刊『sesame jr.』を見ては「えっ、なんで発行が角川になってんの?」といぶかりつつレジに持っていってしまった。レジ脇に目を走らせ平積みになってる『リアル』3巻(井上雄彦 集英社)を追加。会計する間に「草思」「これから出る本」「岩波書店の新刊」をパンパンのかばんにつっこむのだった。

…と、読書報告ができないので、こんな話ばかりでごまかしていてスミマセン。11月は浴びるほど読んでやります。来週はたぶん無理です。でも、なんかは読んでると思う。なんかしら報告します。

★10月13日(月)更新★★★★★★★★★★

 毎日がリハ、レコ、リハ、レコのくり返しで、10月はすごいスケジュールになっております。手帳に書いてみたって何がなんやらとても把握しきれないので、バンドのスケジュールだけを表にまとめてみた(私は「表にまとめ」好き)。すごい。空いてる日がない。仕事はいつやるんだろう。すごくナゾ。

 まさに1分1秒が重大な意味を持つ今月は、何をするのも超効率重視である(私は超「効率」好き)。外出する用事はなるべく1日にまとめロスを減らす。電車移動中もビジネス書に書いてある例並みに働くぜ。企画案を考えるor原稿の下書き。そんな中、資料探しで立ち寄ったブックファースト渋谷店(制限時間:5階児童書マンガ売場=45分、2階文庫新書売場=30分)。「リンドグレーン 幻のデビュー作」というオビにひかれて『ブリットーマリはただいま幸せ』(徳間書店)を購入。すぐ読んだ。他作品にくらべてやんちゃさは少ないが、そもそもこれは「少女小説」のコンテストに送られ、賞をとった作品なのね。リンドグレーンがこの次に世に送り出したのが、かの『長くつ下のピッピ』。今や定番中の定番ですが、発表当時はあまりに過激で「児童文学の範疇を超えている」などと賛否両論だったそうだ。それにしても徳間書店のBFCシリーズはいい本をボカスカ出すよなあ。しかしどういう層が買ってんのか不思議ではある。私は小学高学年のブックガイドではせっせと紹介しているが、小学生にはちょっと難解かなあと思うのもけっこうあるので…。

『ゲーム脳の恐怖』(森 昭雄 NHK出版 生活人新書)ゲームをやりすぎて「ゲーム脳」になった人の脳波は痴呆症の人と同じ状態になっているそうです。そんなこったろうと思ってたよ! ゲームを始めると視覚神経回路だけが強烈にはたらき、前頭前野の細胞が一気に働かなくなるんですってー。「目から入ってくる情報を脳の後ろ側(視覚連合野)と横側(側頭連合野)と頭頂(頭頂連合野)で処理し、最終的に手を動かす運動野へ指令を出す」。RPGみたいなのを除き、ゲーム(=つまりスピード重視のやつ)は思考を必要としないので、このように思考する場所である「前頭前野」を使わなくなる=思考力が退化する。それを毎日、長年続けてると元に戻れない「ゲーム脳」(=痴呆)になっていくらしい。おそろしー。ところで私はテトリス以降のゲームを知りません。幼児のころからパズルが好きなのでああいう図形を組み合わせるゲームってのは好きなのですが、アレをやってる時、ふと「心が死んでいく……」とリアルに感じた経験があります。感情・感覚が壊死していくイメージ。「無」になっていくような。無我の境地ってワケじゃなく、ホントにただの「無」。

 Nさんから借りっぱなし、読みかけっぱなしになっていた『子どもと文学』(石井桃子・いぬいとみこ・瀬田貞二・鈴木晋一・松井直・渡辺茂男・共著)を読了。浜田広介はかなりやっつけられていた。『泣いた赤おに』の「どこの山か、わかりません。その山のがけのところに、家が一けんたっていました」という書き出しがいかん、と言ってるのが印象に残った。「導入部は、時・場所・人物などを、読者にはっきりわからせるような書き方が、なによりもたいせつ」だそうで、「ある山のがけのところに、家が一けんたっていました。」とするほうがよいと言うのだ。そうかなあ…そんなにこだわって攻撃するところかなあ? 著者は「ある山」と書けば「何かを明確に示していることになる」と言い張っているが、「どこの山か、わかりません」だってその言い換えでしょ? それがどんなに適切な言い方でも「あるところに」「むかしむかし」という常套句に慣れてしまえば、どんな「あるところ」か、いつごろの「むかし」か、なんて考えもせず、ただ意味もなく子どもの耳を通りすぎてしまうのじゃないか。しかし、時に「どこの山かわかりません」と言われたら、ハッとするんじゃないか? 少なくとも自分はそう感じると思う。著者は別の項で「『むかしむかし』という言葉を聞くと子どもはこれから始まる物語世界へ入る準備をするのだ」と書いてもいるが…。

 筒井康隆のわりと最近の短篇集『エンガッツィオ司令塔』を読み始めたが、あまりにつまらないので2編目途中で放棄。古本屋にたたき売る本が積んであるコーナー、まただいぶたまっちゃったなー。

 来週は仕事がらみの本以外読めないだろうなあ。ロアルド・ダールの『マチルダはちいさな大天才』、ジャック・タチ『ぼくの伯父さんは郵便屋さん』などを予定。

★10月6日(月)更新★★★★★★★★★★

先週読みかけていた『波のうえの魔術師』(石田衣良)読了。おもしろかった…んだけど、ラスト近くちょっと“甘くせつな”すぎるような。まっ、それが持ち味なのだろうけど。それがなけりゃ、普通のクライムサスペンスになっちまうのだろうけどなあ。甘く…と見せかけてもうひとひねり辛口な仕掛けがあったら最高なんだよね。

ところで戸梶圭太を読んでみたいのだけど、うっかり放置しといたら本がいっぱい出ちゃってて選びかねている。どなたか、オススメの作品があったら教えてください。ちょっと前にミステリマガジンに連載されてたホームレスたちを主人公にしてた話がおもしろかったんで、読んでみたいなあと…。

『夏の滴』(桐生祐狩 角川ホラー文庫)小学生たちの間で不気味に当たると評判の植物占い…を背景に、子どもが行方不明になる事件が続発。なのに大人どもはしらん顔。とってもグロテスクなのに爽快な読後感。

『星に帰った少女』(末吉暁子 偕成社)以前に読んだ『タイムトラベルトマンス』(梶尾真治)で、「古いアイテムがキーになって、その時代に行ける」類のファンタジーについて論じていたが、これはまさにその典型。本作は初版1977年。ひさびさの新装改版らしいが、古びない良さがある。何より文章が美しい! この著者のものってなんとなく乙女ちっくすぎるんじゃないかと敬遠してたのですが、なかなか骨太。他の作品も読んでみたくなり。

『おばかさんに乾杯』(ウルフ・スタルク 小峰書店)Rさんが読みかけ途中で「すばらしい」とメールを送ってきたので、四の五の言わずに読む。詳しく言うとネタバレするんで書けないが、2003年度最高の告白シーンを読んだ気がする。これ、スタルクのデビュー作だったのねー。

仕事で『星の王子さま』を読んだのだが、またもや頭を抱えてしまった。「宮沢賢治」に続き、私にはどうしてもわかりません…この世界。また実家に電話してねーちゃんに「これはどこがおもしろいのか?」と直球な質問を投げかけるはめになった。むむむ。

マンガ。カンで『キス、絶交、キス』(藤原よしこ 小学館フラワーコミックス)を買って読む。今どき珍しい、もっちゃらもっちゃら進行の遅い恋愛マンガ。なにしろ絶交がとけて告白するまでに5年もかかっておる。赤毛のアン並みの遅さですな。女主人公の側から見た話と、男主人公の側から見た話を一話ずつ交互に置く、という手法は悪くないけどその視点の違いによって解き明かされる謎が特にナイので、ほとんど効果が生まれていないのが残念。同じ内容を2話ずつ読まされてる感じ。このシリーズ、単行本で3冊出ていてまだ続く様子。しかし、一夜をともにしたのに高校生にもなっていながら何もしないというのがイイじゃない! 貴重なマンガだわー。今の高校生だって、そんなに処女童貞率が低いわけじゃないと思うしな。

『イエスタデイをうたって』(冬目景 集英社)前にポコッと3巻だけ買ってあった。ので、今度は1巻だけ買ってみた。おもしろかったら、2巻も読もう。

 

 

 

 

 

 

 

★10月27日(月)更新★★★★★★★★★★

★10月13日(月)更新★★★★★★★★★★

★10月6日(月)更新★★★★★★★★★★

★10月20日(月)更新★★★★★★★★★★

 

★10月27日(月)更新★★★★★★★★★★

★10月20日(月)更新★★★★★★★★★★

『ピカソ』(瀬木慎一著、集英社新書)を読んだ。ピカソって、ホント女たら しだったのが今更ながらこの本でわかった。しかも、たらしこんだ女をつきあってる 時期時期にあわせてちゃんと画にしてるのもわかった。画だとピカソのことだからうにょうにょになっちゃってるけど、本書に所収の写真を見ると、コレがみなみな揃ってイ〜イ女(しかもめちゃくちゃわし好み)ばかりだということもわかった。稀代の天才画家だというだけで20〜30代なのにこれらの極上女たちはホイホイたらしに応えてしまうのか。ジジイがみんな、そろいもそろってこんなにモテたら世の中大変だ。考えただけで戦慄がとまらない。このわしにはぜったいにムリな所行だと思う。

 こないだ死んだわしの父親も、どーせ50過ぎて再婚するんだったら、18くらいの極上の生娘としていたらばよかったのに。さすればその女はいま28になっている勘定だ.まだまだイケル年齢ではないか。オヤジ死したのちも、ひきつづき須山家の嫁として、バンド「我々」のコーラス&ハーフヌードのダンサーに仕込んで、バンドの集客力のささやかな一助とすることも可能だったかもしれん。せんだって箱根にわがハニーと小旅行したおり、「ピカソ美術館」で死後30年記念 展を鑑賞してまいった。そのほとんど狂気のような創作力と大量の作品群は、さすがの「あおうこずえ」もかなうまい、と思い知らされたものだ。しかもじつに表現方法 が多岐にわたっている。ところでなんかコマツ&こずえはスタジオに籠もりきりで陽光を眼にすることすらままならぬようだが、健康を害することのないよう、留意していただきたいものだ。まあ彼らのことだから、ピカソのように90代(あるいはソレ 以上?)までしゃあしゃあと生き延びるではあろうが。

『<パリ写真>の世紀』『パサージュ論』はいうまでもなく読みつづけておる。なかなか進まぬが。ジャック・プレヴェールを知っておるか?彼のプレイヤード版全集 がちょい前に出たらしいが、「パリ写真」のカメラマンたちとコラボレートしたときの詩作品からは、詩のモチーフとなった写真は全集からすべてオミットされていたと いう。嘆かわしいではないか。「いちいち写真の権利取るのがめんどっちい」という 編集者の怠慢に起因するものであろう。コレについては、自分の胸に訊いてみようっと。(ニーチェの)永遠回帰の思想は、19世紀後半に実在したと考えられるバブリーな エポックにおいて「いつまでもこのまま景気がよけれいいのにな」幻想をもとに発生 した潮流だ、という『パサージュ論』中の記述(このバブリー・エポックは、「泡沫 会社乱立時代」と訳されておる)。繰り返しと永遠という、相反する快楽の志向を結 びつける思潮。う〜む。かつて、80年代のニーチェ流行りも、ソレと通ずるものが あったような気が・・・。また、この時代において、「永遠回帰のヒロイズム」は 「ボードレールのヒロイズムと対をなし、現代のファンタスマゴリーを呼び出す魔術をそなえていた」とも書かれておる。さしずめ、後者・ボードレールは現代におきか えれば、どんな人物にあてはまるだろうか。次の3人から選びなさい:1 柄谷行人  2 坪内祐三 3 中条省平

★10月13日(月)更新★★★★★★★★★★

 ヴァルター・ベンヤミン『パサージュ論』(今村仁司・三浦憲一他訳 岩波現代文庫)。このような断片だけの&引用だらけの本(テーマごとに分類されているとはい え)、を、なぜ人は編集し、訳出し、出版し、読むのか?しかも、文庫で全5巻。1巻につき約470ページ。ま、かくいうわしも、現在刊行の済んでいる3巻まで、一 括して買ってしまった。なぜ? 答えは:この膨大な断片から、おそらく書かれたで あろう書物をイマジンするヨロコビのためである。「メイキング・オブ・・・」とは また異なる、永遠に「未完成」以前のままの状態。(あるいは、この形態であるがゆえの、『パサージュ論』なのだろうか?)周知のように、「パサージュ論」なるものを著すという大志を抱懐したままで、断片の収集者(あえて「著者」とはいうまい)は、ユダヤ人の出自ゆえにナチスから逃れることを余儀なくされる。しかし、いったん離れたパリに、収集者はさらなる断片を集めるために舞い戻り、それがため迫る追っ手から逃れきれず、ピレネー山麓で自死してしまう・・・書物を、そしてエクリチュールを偏愛するわしらとして、まさに「書かれたもの」に殉じたヴァルターBを 21世紀のいま弔うために、この断片たちに眼を注がなければならんのだ。しかも、 その草稿を託した相手が、だれあろう、当時国立図書館に勤務していたジョルジュ・ バタイユだったというではないか。バタイユは「バレたら即没収、解任、ひょっとすると銃殺?」の危険をかえりみず、「わかった。ヴァルター、オイラに任せな」とつぶやき、ニヤリと笑い、「ナチ野郎どもに殺られんじゃねえぜ。イクサが終わった ら、また呑もうな」と言ってベンヤミンの背中を二,三度叩いたのだ(というわしの妄想)。そして草稿はパリの図書館の書庫深く隠匿されたのだ。・・・しかし、現在 なら、この秘匿文書、フロッピー2・3枚で済んじゃうんだろうな・・・それに、も しいま、ベンヤミンがナチスに追いつめられて、進退に窮して自殺するとしたら、イマワの際に自分のパソコンから「パサージュ論」のデータすべてを地球すみずみに向けて発信しちゃうのだろうな。「へへっ、ザマミロ」とか言って。 しかし、全5巻か。いつ読み終わるんだろうな・・・。

 さて、先月より長期にわたり取り組んでいる『<パリ写真>の世紀』(今橋映子、白 水社)であるが、読めば読むほど、「パリ郊外」に魅せられてしまう。ロベール・ドアノーを取り上げた章にさしかかったのだが、こいつがまた、いい。ここで語られて いるのはひたすら、「都市の中心ではなく周縁こそが、その街そのもの」というこ と。パリ市の周辺200メートルは、建設禁止区域・ノーマンズランドなのだが、ド アノーの被写体は、そこと、その区域を取り巻くように居住していた人々である。先 日、勤め先の書庫を漁っていたら、むかしリブロポートから出たドアノーのパリ郊外 写真集が出てきたので、仕事の手を休めては見入っている。ぜんぜんパリらしくない 風景と人々(小さな工場、さびれた街路、なんだか葛飾区民のような風体のひとたち、広漠たる空のもと荒涼とした空き地が広がる風景)。でも、これがパリなんだ、 まぎれもなく、というところがミソ。ベンヤミンは「パサージュ」にパリを見いだし、墓地や売春宿、裏路地、ラブホにまで地誌学的な視点を向けようとした。一方ドアノーは、何に「パリ」を見いだしたか?いかにも「さびしげ」で「スカスカな」 まったくおふらんすのイメージからかけ離れた、まるであきるの市のような風景と、 野暮ったくて移民ぽくって冴えないのに妙にのんびりと淡々と満足げに暮らす「もう 少しでパリジャンだけどぜんぜんパリジャンじゃない人たち」の対比・コントラスト に、である。

『パサージュ論』にしても、この本にしても、読んでいてまったくパリへ行きたくならない。しかし「パリ」なるものにわしを惹きつけ、ほとんど陶然とさせてしまうマジックをはらんでいる。なぜ?それはわしがこの40年間というもの都市生活者であ り続け、東京の郊外にも同じものを感じているからだろうか。十条や三河島、京成線 沿線あたりを散策しているときの、もの悲しい安堵感、それに似た感覚がパリにも あった、それがなにより新鮮で、うれしい。そういえば、このあいだ父親の葬式を葛飾区のお花茶屋でやったが、駅前が再開発でガラ空きになっていて、荒れ果て、ホコ リ舞い散っておった。そのくせ、さびれはてたクリーニング屋とか、看板のはげ落ちた豆腐屋なども、残っているのだった。わしは「おお、まさに郊外」と感嘆した。その風景は、ドアノーの撮ったパリそのものであった。 おっ、AERAの表紙が、なんと我がヒーロー、小熊英二氏ではないか。 内容も見ないで、購入した。 去年の今頃だったなあ、小熊さんの著作に出会ったのは。

★10月6日(月)更新★★★★★★★★★★

 松永尚三(なおみ)『ポン・ヌフ物語』(文芸社)が寄贈されてきた。早速読んでみました。80年代初頭、エイズの出現に脅かされる、在パリ日本人ゲイたちの焦燥が短くも濃縮された一編に余すところなく描破されている。

 当時パリの地でエイズ禍に巻き込まれた日本人は何をしたのか:@自然食に走る・ベジタリアンになる→A宗教にハマる→Bオンナ(本物の)と婚約する…というのが悲しくも真実であったらしい(そういうヒトが多かったということで)。で、この小説の主人公は、そのコースをすべて辿った末、「生きているって感じたいんだよ。…俺たちのセックスなんてそれしかないじゃない」と病床で呟く恋人とコンドームを敢えて外して愛を注ぎ込んでしまうのである(当然感染するのだろうが、この小説ではソレについてはコメントなし)。いやあ、思い出しますね、あの頃を。最初は“ゲイ特有のシンドローム”だと本気で信じられていましたものねえ。

 ところで「スノッブで通俗的なモノがキライで泉鏡花の“日本橋”の一節をポンヌフ橋上で再現するのが大好きな松本先生」というのが重要な役柄を担っているんだけど、「いつもはひどく下品なオネエ言葉でしゃべる」この松本先生(50代?)は著者自身のカリカチュアではないかと、何度かご自宅でお食事を供していただいたわしなどは推測する。(いつも日舞の発表会のチケットも送っていただく。)この小説のラスト、“スノッブで気取り屋で、団体の日本人観光客が大嫌い”な筈の松本先生が、ゲイ友達の日本人の葬式の帰り、ポンヌフの橋の上から日本人観光客をたくさん乗せた遊覧船にふと手を振り返してしまうという件り、…ああ、やはり著者はいくつもの戯曲をモノしている芝居書きだな、と思わせられ、カラックスの映画のラストなんぞも思いうかべて、「おお巴里よ」なのであった。パリの日本人たちに、ぜひ一読させたい。

『パリ写真の世紀』『パサージュ論』も読みふけっておりますよ。わしのパリ仮想旅行は続くのでした来週も…。