BOOK BOOK こんにちは  2003.6月

我々はもしかして東京でいちばん読書量の多いバンドなのでは?

このコーナーは、3人の精鋭が日々読んだ本の感想を書いていくものです。

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       アオウ        コマツ       スヤマ

★6月30日(月)更新★★★★★★★★★★

 激務の日々は続く。そんな中である日の明け方、どうにかこうにか読んだのが『メジャー・リーグのうぬぼれルーキー』(リング・ラードナー ちくま文庫)。マイナーリーグからメジャーに引き抜かれたルーキー投手が、友人に宛てた手紙、という形式で書かれた1910年代の野球小説。最初のほうは、いわゆる成り上がりサクセスストーリーかと思って読んでたのだが…答えはこのタイトルにあり。主人公である語り手は確かにうぬぼれ屋だけど、その実純朴な田舎モン。女にはすぐにだまされるし…。手紙から、何かと自分の都合のいいように解釈してしまう、おめでたい性格が読みとれてきておもしろい。「つまりおれは16勝0敗の記録を作ったことになるんだな。(中略)ところが事務所じゃ10勝6敗なんて言ってんだ。そのなかには、おれがリリーフをして勝ったのにほかの連中の勝ちになっちまってるのが6つもあるんだぜ」とか。金を無心してくれた相手に対して「できるだけ早く返してくれなんて、君も苦しいのかい?(中略)君に金が入り用だなんて、誰も信じやしないぜ」と書き送る無邪気さよ!のんびりとしつつスカッとつき抜けたユーモア感がここちよい。

 あと、『日本残酷物語1 貧しき人々のむれ』(平凡社ライブラリー)を読み始めております。40年以上前に編まれた、貧乏をフィールドワークした本です。1巻では、海の貧乏、山の貧乏、虐げられる老人や女貧乏、遊女、強盗、乞食、飢饉の記録などなど、さまざまな貧乏sceneを網羅しております。読み応えあり。今、書店で平凡社ライブラリー10周年記念フェアというのをやっておるのだけど…まだ10年? ここはいい本が多いですね。

 子どもの頃読んだ本の中で、財産がなくなって気が変になった人(リア王だったかな・・・)が「びんぼや びんぼ。わたしはびんぼ。あなたもびんぼ。びんぼや びんぼ。」と歌うシーンが頭に焼き付いて離れん。リズムの良さがたまらんのです!この刷り込み現象が、今私に『日本残酷物語』を読ませていると言っても過言ではないだろう。しかし、言葉狩りのうるさい現代ではありえない話ですな。

 本屋でPR誌『一冊の本』(朝日新聞社)を収穫したが、PR誌の中では群を抜いてつまらないなー。唯一、上野千鶴子がくらたま(「だめんずうぉーかー」描いてる人ね)の矛盾をズバッと指摘してたのがおもしろかったくらい。PR誌を収穫するのはタイミング次第なので、どれも毎月読んでるわけじゃないが、10誌くらいは目を通してる。最近、絶対的におもしろいのは『草思』(草思社)、『本の窓』(小学館)だと思う。『草思』は特集がおもしろく、ネタも幅広いのがいい。「書店のあり方」とか、ときには教育問題とか。見つけたらぜひ読んでみて!

★6月23日(月)更新★★★★★★★★★★

 資料書籍を買いに、たぶん私の中で購入頻度年間ナンバー1に輝くだろう、ブックファースト渋谷店を訪れる。ついでにマンガ売場をうろつく。ここの児童書&マンガフロアー大好きなんです。居心地いい。おっ『きせかえユカちゃん』の4巻出とるやんけ、あと『彼女たちのエクスデイ』の2巻も買わにゃー。柳沢きみお『極悪貧乏人』(うふっ、素敵なタイトル)も買っとくか、『四年生』(木尾士目)って前からちょっと気になるんだよなあ…と軽快にザクザクつかんでいると…隣にカップルが来た。男は彼女に「えっ、コレ知らないの〜?ソレやばいって! コレが売れてるから宮本武蔵とかあんなにはやってるんじゃん!」と大げさに驚いてみせている。男はこれはナントカ漫画賞を受賞しただの、累計何万部売れてるだの、(実は帯に書いてあることを横目でチェックしながら)ウンチク語り始めた。彼女はおとなしく聞いている。気になってしょうがなかったのは、彼が最初から最後までハッキリ『バカボンド』と言っていたことだ。「vagabond」なんだってば、バガボンド!ウンチク垂れるのは50年早いったらよー。嗚呼、みっともなし。

 W氏より恒例の段ボールが届く。すでに2人の間を何度か往復した、見慣れたみかん箱が。今回は返却本が主だったが、最新巻が出るたびに借りてるマンガが入っているのはなんだか安心する光景だ。今、ガンガンたっぷり読める状況でもないし…でも何かがちょびっと読みたい気分にぴったりなのである。茶を沸かす間に、台所の床に座って読んだりしている。『プチエゴイスト』の4巻とか、到着をすごく楽しみにしてた『光とともに』の4巻とか。

 箱の中に『青い目のバンチョウ』(山中恒)があって喜んだ。これは、W氏も私も子どもの頃に読んだ本で、前に話題にのぼり盛り上がったことがある。言うまでもなく山中恒は名作を山ほど書いているが、これは中でも最高傑作に入ると思う。主人公のデンベエは金髪&青い目だけど、バリバリ普通の日本人ちゅうか江戸っ子の両親(育ての親ね)に育てられた子どもである。ルックスからは想像もできないべらんめえ調でしゃべりまくるのが楽しい。見たとこ完全外人なので、突如英語で話しかけられたりするのに対し、「そのピーペロパーペロ言うのやめてくんねえかな」というセリフが子どものころから好きだった。デンベエの父ちゃんが「オリジナリティ」を「王子になりてぇ?」と聞き間違うトコもお気に入りだったです。

 先週買った『真っ向勝負のスローカーブ』(星野伸之・新潮新書)を読了。楽しい本だった。プロ野球選手の心の内がわかっておもしろい。やっぱり試合に勝つには相手が思いもかけないような作戦にうって出る度胸が大切なのねー。これがおもしろかったので『サムライたちのプロ野球』(豊田泰光・講談社+α新書)を買う。いや、表紙に小さいけど王さんの写真が出ていて…この顔が世にもおもしろいのが購入理由かも。見るだけでも見てみてください。今日という日が楽しくなるはずです。ところでこの類の本って、いっぱい出てるけど内容がナイ本も多いので、買うときには吟味が必要なんであります。

『ローズガーデン』(桐野夏生・講談社文庫)を読む。村野ミロという女探偵ものの、短編集。なんかやらしそうだったので、買ってみた。2つほど読むがまだ可もなく不可もなく。ただ、日本の女探偵ものに珍しく、雰囲気があるなあと思った。主人公に、“非優等生的”な感じが“わざとらしくなく”出ていると思う。

 待望の『故郷』(パヴェーゼ・岩波文庫)を発売日に買った。目黒の駅ビルの書店(有隣堂だったかな?)で、平積みになってないので焦って探した。棚ざしで一冊だけ入っていた。これを手にした瞬間から心の中では「こ・きょ・う! ソレ こ・きょ・う! もひとつ こ・きょ・う!」との、故郷コールが鳴りやまぬ。しかし読む時間がねえ。これはせかせかして読みたくないのよ・・・。来週は読めるかなあ。

★6月16日(月)更新★★★★★★★★★★

 先週同様、時間のない日が続く。土曜はライブだったしねー。相変わらず、寝しなに『幻想小説大全 鳥獣虫魚』を一編読むばかりです。なさけ無し。しかし、読書は量より質だね。昨晩もライブから帰ってきてヨレヨレになりつつ、寝る前に「くだんのはは」(小松左京)を読んだが、これぞ蜜の味。

 先日、週刊文春の書評ページを立ち読みしてたら、すごい書評にでっくわした。元キャスターの広瀬久美子という人が、唯川恵の『永遠の途中』という本にコメントしてるのだが…。まず、イントロで「自分は仕事柄これまでたくさんの本を読んできたが、難解で読むのが苦痛の本も多かった」と始め、おもむろに「この本はサラッと読める」ということを繰り返し強調。「ん、ホメてんの?コレ?…?」と疑問に思ったが、ホメてるらしい。「本は最後まで読み通せなければ意味がないから、これはいい本」と力説。うーん、そうとも言えるし、言えなくもあるし…。しかし、「一気に読み通してしまうほどの面白さ」を語った後で、「読み終わった直後、もう何もおぼえてない」と…「ドロドロした内容なのにすっきり爽やか」というつもりで一応ホメてるんだと思うが。こんな書評を読んで、その本を読む人がいるかどうか謎である。

 最近、もうひとつぶったまげた書評がありました。載ってたのは女性ファッション誌で、中村うさぎが自身の整形について書いたエッセイ本の書評。そのライターは、「自分のなりたいキャラクターイメージに、自分の顔が遠いから整形するのだ」という著者の主張に同調し、「それはすなわち、『性同一性障害』にも似た『容姿同一性障害』めいた感覚がある」と言い切ってしまうのだ。そんなたとえってアリか!? 続いて「私たちはみな、漠然と『美人になりたい』から容姿を飾るのではなくて、『自分自身になりたい』から、服を着、髪を切り、メイクをし、そして果ては整形をするのではないだろうか」とまで書いてしまうのだ。…あんた、キ・ケ・ン! 屁理屈もここまでくると立派…というか、もう理屈をこねる意味すら見えなくなってくるという例。ぼへー。

 先日『真っ向勝負のスローカーブ』(星野伸之・新潮新書)を購入。ロマンティックかつドリーミングな、いいタイトルですねえ!去年引退した、オリックス〜阪神に在籍したピッチャーの書いた本です。彼は、135キロのストレートとスローカーブ、そしてフォーク…この3つの持ち球だけで、歴代16位の奪三振記録をモノにした人。早く読みたい読みたい。

 あと、今読みかけてるのがNさんからお借りした『子どもと文学』。そうとう古い本ですが、石井桃子やいぬいとみこ、渡辺茂男らが集まって、小川未明浜田廣助、坪田譲治、新美南吉らをこてんぱんにやっつけている内容と聞いて、即レンタル予約しました。かわりに、Nさんには渡辺茂男の超名著『心に緑の種をまく』(新潮社)をお貸ししました。この本を読むと、渡辺氏の息子の妻になりたかったと思ってしまいます(まわりくどいが、そのポジションがいいのよ〜ん)。渡辺茂男は、石井桃子やいぬいとみこほどメジャーな名前じゃないかもしれないが、日本の児童文学を語る時に欠かすべからざるお方です。子どもに本を買い与えたいと思ってる方、渡辺茂男の著、翻訳のものは信頼度100%です。

★6月9日(月)更新★★★★★★★★★★

 あまり言いたかないが、ふんとに忙しくて本読む時間が足りなっしんぐ。こんな時、読むべきは短編集だね。床につくまえ『幻想小説大全 鳥獣虫魚』(北宋社)を開く至福の時間よ! 毎日1〜2編ずつ楽しんでいます。順番も関係なく、目次を見て今日はコレ、と思ったやつから読んでいく。「繭」「しで虫の唄」「いも虫」「鯉の病院」「虫づくし」「羽根枕」…題を並べていくだけでもこの手が好きな人はうっとりきちゃいませんか? この手が嫌いな人は鳥肌立つだろうねえ。

 急いでいても古本屋の前は通りすぎがたく、外に出てる本箱のコーナーだけざっと見る。『火の粉』(雫井脩介 幻冬舎)を300円、『君は天皇を見たか』(児玉隆也 講談社文庫)を100円で購入。前者は今、旬のうちに読んでおきたい本。今年の2月頃に出た犯罪小説です。殺人を自供した被告人に、「証拠不十分」として無罪判決を言い渡した裁判官の家の隣に、その被告人が引っ越してくるという話です。半分くらい読んだが、1回読んでまた売ることになるのでは。いや、つまらないワケじゃないんだけど、読み返すほどでもなさそうかな、と。ホントは図書館で借りたかったけど、なかったのよ。これを買った古本屋は、バリバリの本格文芸や思想書専門の店なので、こういう娯楽的小説は安い。普通の古本屋ならまだ500円くらいはついてるんじゃないかな…とひとり悦に入りつつ財布を開いたのだった。

児玉隆也さんは、私が信頼する読書家の一人であるRさんの薦めで知ったノンフィクション作家。『一銭五厘たちの横丁』『淋しき越山会の女王ーもうひとつの田中角栄論ー』『ガン病棟の九十九日』を読んだが、ほかにもっとないんかしら〜と思ってた矢先の発見で、うれしい。早逝された方なので本が少ないのです。

 以前、このページで『60億のシラミ』(飯森広一)全5巻を4000円で購入したと書きました。5冊程度のマンガの一気読みは日常茶飯事なのに、これはどうにも一気読みできなくて3巻で止まったまま! つまらないわけではなく、濃いのです。いろいろな異変から判断すると「このままではあと何年かで地球は氷河期に突入する、たいへんだ〜!」というマンガなのですが…「氷河期?逆じゃんよ!」と思った方、これは70年代に描かれたマンガなので許してあげて。当時、そういう説があったみたいですよ。マンガの中でも大マジメにいろんな文献ひいてるし。科学者やら異能者やら革命家やら政治家がわんさか出てくるのですが、どいつもこいつもネーミングからして凝っており…つまり「ワキ役」然とした人がいないんです。誰もが「重要キャラ」みたいな顔して出てくるので、読んでて気がぬけない。5巻程度ではなくて、もっと長い話になる予定だったんじゃないかなあ。

『少女時代によろしく』(田村セツコ 河出書房新社)イラストレーター・田村セツコのビジュアルブック。待ってました、こーゆうの。タイトル100点。女性なら、名前を聞いてピンとこなくても絵を見れば確実に「あー、この人か!」と思うはず。「HAPPYおばさん」描いてる人ね。最近、亜土ちゃんと並んでちょこっとリバイブルブームのようです。で、6月の末まで、弥生美術館で展覧会やってます。これは死んでも見にいかなくっちゃよ! 去年、内藤ルネ展見損なった前科があるが。

★6月2日(月)更新★★★★★★★★★★

秋田で震度6という地震がありましたが、東京でも震度3!私は揺れを感じた5秒後には座布団を取りに行って頭にかぶり、すばやく台所に避難しておりましたが、部屋にもどってみると『二重人格』(ドストエフスキー)、『多重人格殺人者』(パタースン)上下巻、『失われた私』(フローラ・R・シュライバー)が降ってました。多重人格に関する本を集めたコーナーから、そろって落下したわけです。

今週後半は、4日で10.5時間という睡眠時間だったので、本読む時間がなかったにょらー。

我々のkarda氏がうちにアイロンを借りに来て、ついでに『ワイルド7』のぶっとい愛蔵版を3冊置いていってくれた(もちろんまだまだ続く)。先週の日曜は朝までデモテープを作っていたのだが、さあ寝るかという段になってちらっと見てしまったら…止まらなくなって困った。とりあえず1冊読み終える。

『すえっこOちゃん』(エディス=ウンネルスタッド フェリシモ出版)かの「ピクシー絵本」にはじまり、いちいち「おお!」と膝を打たされるフェリシモの復刻、こんなの出ました。なつかし〜。大家族のいたずらなすえっこが主人公のお話…っていうのは数限りなくあると思うけど、細部にまで神経が行き渡っており、すばらしいです。いまはやりのスウェーディッシュ児童文学なので、北欧のものなら何でもありがたがるオシャレ人に踏み荒らされて「ちょっとイイ映画」にされてしまわないことを切に願う次第であります。

『幻想小説大全 鳥獣虫魚』(北宋社)“鳥獣虫魚”ってとこが気になって、前から目をつけていました。“鳥獣虫魚”が出てくる幻想小説のアンソロジー…当然トラウマになりそうな話が大集合です。むふふふ。虫ダメな人は直視できないような話もある。ちょっとずつ楽しんで読むことにします。このボリュームなら4200円は全然高くないね。

『その時殺しの手が動く』(「新潮45」編集部編 新潮文庫)寝不足でうっとりしつつも、電車の中で読んだ。

『ふたごのルビーとガーネット』(ジャクリーン・ウィルソン 偕成社)そういえば山田詠美の新刊はふたごが主人公らしいね。山田詠美ってずいぶん長いこと読んでないが…。

さっき、温室フリマにちょろっと行ってきたのですが、スペシァル・ビューのセンヤさんから1972年の週刊現代緊急特集号『連合赤軍事件』を200円で買いました! なんと破格な! 連赤事件好きの私のためにコマツ氏がキープかけといてくれたんだよねー。ありがたや。写真も豊富、すごく充実した内容です。

 

★6月30日(月)更新★★★★★★★★★★

こんわんわー。ここには書けないような本を2冊、渋谷のブックファーストで購入、けっこう熟読してました。いまもカバンの中。

もちろんカバーかけて。新刊買ったのってホント久しぶりで。オレ、きっとガロ(もうないか)とかクイックジャパンとか読んでそうに思われてんだろうけど、実は(笑)ぜんぜん読んだことないのです。まれに人と本屋で待ち合わせた時に、松本亀吉さんのコラムだけ探して読むくらい。オレが新刊で買うのは週プロとゴングぐらいですね。で話は戻るけど「ここには書けないような本」のことはやっぱり書けません!オレの沽券にかかわる!うわー、沽券って生まれて初めて使ったよ!イェイ!

「大内アパート月報」の新しいのは読んだよ。じぇんじぇん頑張った!

★6月16日(月)更新★★★★★★★★★★

なんも読んどらんのじゃー。実家の引っ越しやらフリマ企画の準備やらライブの練習やら仕事やらなんやらかんやら・・・。なんかめくらにゃー、と実家で処分した本の残り滓の中にあった石川達三を2冊つかんで寝床へ。まあはっきりいって面白くないし何のタメにもならないのだが、それでもやっぱり本を読んでいる時間とはよいものだと思ったよ。単純に気持ちいい。快適。すなわち、ひとりになれるのである。オレは部屋にひとりでいるだけじゃ、けっしてひとりにはなれない。それがなぜかは説明できないが、そうなのだからしょうがない。ジョアン・ジルベルトの「三月の水」は無音より無音だそうだが、もっと無音に近いのは、明け方に近い深夜に小さな音でボソボソとラジオからこぼれる「ラジオ深夜便」か。かつての下北時代、オレのCDデッキにはエリック・ドルフィーがはいりっぱなしだったが、それも多分「音のない世界、そしてひとり」への指向といえるだろう。同じものだけをずーっと繰り返して聴いてたのはやっぱそうなのかな?何を書いてるのかわからなくなってきたが、テリー伊藤・佐高信の「お笑い創価学会」も読んだのだった。オレの友人・知人にも学会員は数人いる。かつて入信したばかりの友人に路上でカミングアウトされた事があった。彼いわく「コマツくんは偏見がなさそうだから」とのことだったが、すかさず「偏見はあるよ」と即答したのだった(笑)。この反射神経、じぶんを誉めてあげたいくらいにちょっとカッコイイ(笑)。そのココロは、「オレは学会に限らず森羅万象すべてにたいして偏見に満ち満ちている。だからカミングアウトに苦しむ人よ、ワザワザオレに伝える必要はないですよ。オレは普段より素で、そのままを見ているのでゴザイマス」ということなのだった。で、脈略はないが、来週はきっと江藤淳の書いた西郷南洲を2冊読むつもりなのよ。

★6月9日(月)更新★★★★★★★★★★

何も書くことがないー。たしか鶴見俊輔の「日本人とはなにか?」といったようなタイトルの本をめくったような・・・。理想の日本人像として若き日のノーベル大江健三郎が二葉亭四迷を挙げていたのが記憶に残った。以上。

★6月30日(月)更新★★★★★★★★★★

 ジャック・デリダ『たった一つの、私のものではない言葉』を読了。どういう了見か らこういうご意見がでてくるのか、いまだに理解できないんだけど、「日本人なんだから日本語でロックやれよ」と常々思ってる人たちがいるみたいよね。そういう(頑迷な)人たちに捧げたい。「何々人」=「何々語」ということはできない。「だっ て、日本語じゃなきゃ、伝わらねえじゃんよー」違う。違うな。その「日本語」ってやつ自体が、異種言語なんだよ。あんたの日本語と、わしの日本語はまったく別モノなのさ。アルジェリア生まれでありながら、アラブではなくイスラムでもなく、ユダヤであり、しかも使用言語はフランス語であるジャック・デリダさんはすべての言語 は翻訳可能であり、同時に翻訳不可能だ、と語る。ようするに、「一つの言語」に固有性はない、固有性は言語話者に使用されながらドンドン裏切られていく、というの がケンゼンなことばの流通のありかたじゃあないか?ということだ。極端に言ってしまえば、「そもそも言語などというものは存在しない」ということだ。「英語」で ロックをやること=欧米ロックへの無反省な信仰、そういう図式は「英語で歌う人」=「イギリス人・アメリカ人」という短絡的な発想からくるんであって、そういうのは「英語」にあるはずのない固有性を賦与することで「英語」に対するコンプレックスをワダカマらせているのにすぎないのである。

 わしは自分のバンドではポルトガル語と英語とフランス語とイタリア語で歌っているが、もう「ナニナニ語」なんていちいち考えてない。べつにオーディエンスが歌詩の 内容を理解する必要などない。だいたい「ナニカを伝えたいから歌を歌う」なんてい うスタンスが湿っぽくて暑苦しくて受け入れがたいんだよ。ことば、ソレは愛でなく、感情でもなく、自己表現でもなく、「切り刻み」であり「裂け目」なのだ。対話するとは、互いのコトバで互いを切りなでてやることだ。議論なんてしてるバヤイではないぜ。イミを超えたコトバのやりとりを、もっと楽しみましょうよ。

  小熊英二&上野陽子『癒しのナショナリズム』(慶應義塾大学出版会)を読む。わし にとって不世出の同世代ヒーロー、小熊氏の最新作にして、教え子さんとの共著であ る。ちょっと前に流行った保守主義カルト「新しい歴史教科書を作る会」に共鳴する市民の人々の内実に迫るレポートが教え子の上野さん担当。大著『「民主」と「愛 国」』をモノした立場から、カルトの誤謬に仮借ない鉄槌をくらわせるのが小熊氏の3編の論文、という構成。上野さんは学生というクリーンな(?)立場を利用して敵 陣に入り込み、カルト集団に参加している人たちが、実は結構「おれたち良識あるフツーの国民」意識を共有する優しいウヨクであることを解明。「つくる会」本部の幹 部たちがワリと嫌われていたことや、戦前派と団塊さんと若者たちではグループ内においても主張がかなりズレていたこと、なども伝えてくれる。わしなんかは、「ウヨク」と「セイヨク」は分離不可能だと思ってた(大江健三郎『セヴンティーン』など 参照)ので、「あっ、そんなもんなんだ」とかなり拍子抜け。海軍将校のまっしろな制服を着てオトコ同士時には激しく罵りあい、時には激しく肉体を求め合う、という のが「ウヨク」のあらまほしき姿と念じてやまないわしにとって、この主婦やサラ リーマン、学生などから構成された小市民的ウヨクたちの言動は実におそろしいものであった。だって、靖国通りを大音声でぶっとばすウヨクたちより、ずっと活動に有効性がありそうなんだもの。こんな人たちの間から、計画性と政治力のある紳士ご婦人が出現し、ホントに参政しちゃうようなことが、ひょっとしてあるかも知れない、と思わせるからねえ。やっぱり、ウヨクは破天荒に生きていてほしいな。怒号をあげ、罵声で市民を脅し、はやばやと女を妊娠させ、家族を15〜16歳で背負ってたち、警察とは仲良くし、縁日の屋台をちゃんと仕切っていてほしい…。ウヨク像の根本的な変革を強いられる本書。小熊さんの論文がまだ一編残ってるので、又来週、ソーカツして報告します。

★6月23日(月)更新★★★★★★★★★★

 じつに久しぶりに小説を読んでおりやす。開高健『輝ける闇』でございます。 先日、叔父が逝去したおり、これも実に久しぶりに彼の家を訪ね、弔問に赴いたのだ が、帰り道で読む本がたまたまなかったので、叔父宅の本棚から抜き取ってきたので ある。開高健の「闇モノ」は三種類ある(三部作なのか?)『夏の闇』『花終わる闇』そしてコレである。わしは以前、イラストレーターの今川崎(いまがわさき)かほり(仮名)さんという人を知っていた。打ち合わせのときに「今川崎さんの好きな作家は誰ですか?」と訊いたところ、「開高健です」とお答えになられた。「おすす めの作品はなんですか」「『花終わる闇』と『夏の闇』です」当時、わしは今川崎さんに気があって、どうにかしようと思っていたので、ハナシの接ぎ穂にしようとその2冊をただちに購入し、たてつづけに読了したのである。わしの感想:「ねばねばし てて、不気味。ニンゲン、こうなったらホント、やばいわよね」とにかく、脂肪分の 多い食い物を食べまくる、それでなければ酒。セックス。睡眠。「やばいけど、今川崎さんとならこういう生活、やってみたい…」今川崎さんは、なぜこのような自堕落な小説がそんなに好きだったのかしら。

「弓子のアパートへいき、いつもの洗面器で 体を洗いあってから雨戸をたてて寝床に入ったが、こんなのを買ったんだけどといっ て弓子のさしだしたモノを見ると、本の形をしたケースに入ったコンドームだっ た。…真紅の地にすみっこにたった一行、横文字がついている。金泥である。Knock, and it shall be opened unto you: Matt.7(叩けよ、されば開かれん。マタイ伝第七章)」あっ、なんかちょっと引用してしまった。

 この2冊の小説を読んで数年後、 今川崎さんは結婚してしまった(わしは袖にされたワケね)。しかも、紹介されたダンナさんはなんと開高健クリソツ(おデブさんで、お眼鏡さんで、細目さん)であっ た。 しかし、開高健の「闇」三部作、「ねばねば」しているけど、「しつっこく」はないのである。トロトロ・ギットリ豚骨ダシ・ネギたっぷりの博多ラーメンだけど、麺は130グラム程度で軽い…そういう感じ? そう。 「私は、「そこだ、顎のうらだ」といったり、「うん、そこの縫い目のところをずっ と」といったり、「皺しわを軽く噛んでみて」といった」 しゃべりコトバの描写は、とても軽いのだ。「これ、菊みたいだけど」「アレチノギ クじゃないかな」「ウンコちゃんは何でも知ってるのね」「あてずっぽだよ、ネズミ ちゃん」「ごけんそんを」 ああ、でも開高さんの小説はチャーシューの量が若干多くて味付け濃くてむせちゃう かな。

 わしはセックス(というか女体の趣味)に関してはかなり淡泊な方だと思う (大きな乳房見て吐いたことあるし、足裏とか舐めないし)。食物の嗜好も、同様にあっさり好きだと思う。タイのメシはキライ。ヴェトナムのメシもダメ。ソウル行っ たとき一番旨かったのはホテルの朝飯のサンドイッチだった。開高健にとってセックスおよび食事は、ほぼ同一の感受性で捉えられる。メシを食ったらオンナとヤル。語り口は軽快でも、やってること自体は濃厚なんだな。今川崎さん、あなたのダンナさ んもそうなんですか。もしそうだとしたら、わしがフラれたのも致し方のないことざ ますわね。末永くお幸せに。

 口直しに、ジャック・デリダ『たったひとつの、私のものではない言葉』(守中高明 訳、岩波書店)を読んでみよう。・・・あなたにとって、「自分」でいられるコト バって、何語? 日本語? そうなの、ホントに? でもなぜ? デリダはアルジェ リア生まれのユダヤ人である。でも、日常的に使う言語も、著作する言語もフランス 語。でもなおかつ「それは唯一、わたしが使いこなす言語でありながら、わたしのも のではない、他者の言語なのです」と語る。「日本語のロックにこだわる」とかいう人がよくいるけど、なんでなんだろう? 彼らにとって、「日本語」とは、そんなに特別なコトバなんだろうか…たまたま「日本語」だった、それだけのことじゃないの か?ヨーロッパの言語で歌っちゃ、「通い合」えない? というか、そんなにも、「日本語」は依拠の地盤たりうるのか? この島で「日本語」がバンバン通じるのに 安心して、キミの日本語をナマクラにしないようにね。まだ半分しか読んでないから、この本についてはまた、機会をあらためて。

★6月16日(月)更新★★★★★★★★★★

「カミュトルとサル」とはなにか。 某学生(フランス文学科)の卒業論文のテーマである。 先生が「これまでに読んだフランス文学の書名を書け」というアンケートをしたところ、帰ってきた答えにはひとこと:「カフカ」と。 このように、いま、セーガクの間では外国文学が認識されているそうだ。 内田樹氏の著作『おじさん的思考』(晶文社)の一節である。 バンド「我々」のライヴにやってくる若者たちも、このような認識を共有しているのだろうか。 40になって、ますます20代の若い人たちとは交流が希薄になっているこの頃、彼らがいったいナニを考え、ナニを欲しているのか。なんとかナマの声をうかがいたいと、わしは常々思っている。 ま、それはわしの努力次第だからソレとして。 「お先にどうぞ」という倫理的生き方」という一章がこの本にはあるが、このタイトルこそ、内田氏の主張のポイントというかテーマというか、キー概念だという気がいたします。 この「お先にどうぞ」は他ならぬエマニュエル・レヴィナス師のお考えでもあるそうだが、一方、夏目漱石の作中人物を駆動させるモチーフが「欲望しないことを欲する欲望」であるという読み方を提示する内田氏の着眼点のモトにもなっていると思う。 「他者を生かす」思想である。 たとえば、『こころ』である。

『こころ』には、「私」と「先生」が登場する。 「私」は「先生」を敬愛しているが、なぜ敬愛しているのか、その理由はほぼ「無」 である。で、あえて言えば、「先生」のもつ「欲望しないことを欲する欲望」ゆえに、「私」は「先生」に敬意をはらってやまないのである、と。そこには「零」をやりとりする師弟関係だけがある、と(この立場からすると、自動車教習所の教官と生徒は「師弟関係」にはない。むしろ「スキル」をいかに奪うか、いかに授業料を奪う か、という形態をとるというイミではたんなる収奪関係にすぎない)。いわばそれは、バルト風にいえば「シニフィエなきシニフィアン」のやりとり、記号のたわむ れ、と言ってもいい。「先生」はしかし、自殺する、という究極の手段によって、この「零」を遺書というかたちで「私」に伝授する。消え去ることによって伝授が行われるのだ。なんというパラドックス。「なにも教えない」ことですべてが伝わってし まうのだ。 さきほど、「いまどきの若い人」についてふれたけれども、彼らには、「須山にはそろそろ「まあこんな程度」が見えてきたようなので、須山の「まあこんな程度」をと くと見届けて、その「無」なかんじを愛おしんでいただきたい」のである。それが、 たとえば『こころ』における「先生」の役割にすこしでも似通ったスタイルをとれたら、こんなにこんなに嬉しいことはないではないか。「須山はゼロだ」と。いま、わしは彼らに言いたい「そうですか、ゼロですか、ではお先にどうぞ」と。しかし、「お先にどうぞ」とつぶやくわしを前にして、「いやいや、いっしょに行こうよ、あんたゼロだけど、なんとなくそこに居てほしいし」とも言ってもらえたらラッキーなのである。 「子供を大人にしてしまうことで、事後的にひとは大人になる」と説く内田氏。若者たちよ、わしの弟子になって、わしを大人にしてくれ。空虚な遊技を、ともに楽しんでくれ(それには「カミュトルとサル」のディメンションに移行するのが手っ取り早 いのかな〜?)。

今日、中央線に15〜20分ほど閉じこめられた。これこそ好機と、『帝国』(以文社)をわしわしと読み進んだ。「ポストモダンは、敵対する支配的権力がもはやハイ ブリッドな変容をとげてしまっていることに気づいていない。すでに権力はポストモ ダンを追い越してしまった」ああ、やっぱり言いたいことはソレなのね。ネグリ& ハートにかかるとイスラム原理主義もポストモダンの一形態に分類されてしまう。 「ポストモダニズムの言説はグローバリゼーションの勝者に訴えかけ、原理主義はその敗者に訴えかける」と。おっと、電車が動き出した。新宿を過ぎ、信濃町あたりにさしかかる頃、わしは「貧者」そして「マルチチュードの神性」を礼賛する著者の凱歌のような一節を読みながら、「やっぱりこの著作は、別種の全体主義、大衆・民衆 へのオプティミズム、シニシズム廃棄のユートピア思想にすぎない」のではないかなー…そして中央線快速電車は大幅な遅れをもって御茶ノ水駅に到着した。ああ、ア ントニオよ、そしてマイケルよ、わしもプロレタリアートとして、これから賃金労働 に向かいますからね、ココロの中でそう呼びかけながら、「それでもオレはドゥルーズを捨てないぜ(寄る辺なき一人左翼だぜ)」と、不敵に微苦笑をうかべるのであっ た。

★6月9日(月)更新★★★★★★★★★★

 また、「読書ならざる読書」の話で恐縮なのだが、『間取りの手帖』(佐藤和歌子、 リトル・モア刊)を楽しんでいる。著者が収集した、賃貸物件の「間取り」集成の一 冊である。とにかく、「こんな部屋、誰が住むんかい!」というしかない物件のみを 一件1ページのレイアウトでコレクションしてあるので、ページをめくるたびに 「うっひゃっ」と声をあげそうになる。そして、著者がそうしたストレンジ物件に付けるひとくちコメント、コレがまた笑える。これは実際に書店で手にとって見てもらわないと、コトバでは説明できないんだけど…「風呂場の態度がでかい」「覗かれても仕方がない」「うにょうにょ」「もげる!」「入ってびっくり、同じ部屋」「靴はどこで脱ぐ?」など、ハイ、どんな間取りだか想像できますか?

 また、コラムとして、「こういう間取りの部屋に住んだら、人間、こういうふうになっちゃうんじゃなかろうか」というシミュレーション・コーナーもある。たとえば玄関がふたつある部屋に親に内緒で同棲した場合、とか、ロフトの大きさが部屋の広さと同じ部屋に住んだ場合、など。(ロフトのスペースって、やっぱり万年床になりやすい→人間をだらしなくさせやすい、みたいね)13年間に13回引っ越したことのあるわしとしては、ボーナスがこんなに下がってなくて&もしいま腰痛じゃなければ、読んだとたん にスグにでも不動産屋に走り、さまざまな図面を漁り、引っ越しの準備をしたくなってしまうだろう。

 この本、装丁もヒトクセある、やはりストレンジな造本になっている。本体価格950円とお安くなっているので、賃貸主義者のあなたには、ぜひ買い求めることをオススメする。しかしこの佐藤和歌子さんという著者、なんと1980年生まれ!おーいおい、1980年つったら、わし17歳よ〜。17歳。トーキング ヘッズのライヴで踊ってた頃だっしゃー。「間取り収集家 madorist 「間取り通信」発行人」とオクヅケにある。「宅建資格取得に向けて勉強中」ともある。23歳 !まだまだ、いろんな生き方ができる年齢よね。コマツも引っ越したし、わしも老骨 にむち打ってニューライフ・ベースメントを確保してみようかな…いや、西荻は捨てないよ、西荻は。

★6月2日(月)更新★★★★★★★★★★

『サバルタンは語ることができるか』(G.スピヴァク著、みすず書房)を読んでいま す。 『帝国』(アントニオ・ネグリ&マイケル・ハート著、以文社)も読んでいます。 両方とも読み応えボンボボンです。 どちらの本でも、フランス系の思想家(とくにフーコー、ドゥルーズ)は結構やっつ けられていて、ああ、時代は移り変わるのね、と思ってちょっとイタイんです。 とくにドゥルーズは、わしにとって「二十歳の原点」なので、イタイんです。 くわしいご報告は、もうちょっと読み進んでから致したいと存じますが、今のところ : 前者には、なんだか、「自分勝手な発言は、もう許さないわよっ!」というタンカみ たいなのを感じる。 後者は、「コレでダメなら、もう、ホント地球はオワリだぜっ!」みたいな威勢の良 さを感じる。 (・・・ぜんぜん書評になっとらんね。)

さて、わしはこの際だから(どの際っすか?)言うが、左翼である。 で、前述の2冊、両方ともたぶんバリバリ左翼の本である。(『情況』誌上で『帝国』の特集やってたし。) あらたな左翼的ストラテジーということになるんかね(もちろん「新左翼」とは関係 ない。わしは「新左翼」の世代感覚も、行動様式もキライ。)。あらたな「全体主義」の出現、といったら完全に誤りなんだろうけど、「何か分類できないミンシュウ の大勢力」に結局期待してるようなトコがないかねぇ。または「ことばを奪われたタ イシューの沈黙の重み」の訴求? で、さらにせっかくだから(ナニがせっかくっすか?)言うけど、わしは「ひとり左翼」で「勝手に左翼」なので、こーゆー「ニュー全体主義」=ニュー・グローバリ ゼーションみたいなのは、イタダケないものを感じてしまうのねーすいませんねーエラそうなこと言って。 「ひとり左翼」は孤独ではぐれ雲な80年代を送りすぎて、「リゾーム」とか「スキ ゾフレニア」とかのコトバに、まだロマンを覚えてしまうんだあ。「ボクはボクだけどボク自身というモノは他者なんだあ」とか今でも思ってしまうんだあ。 (ところで「帝国」という概念はとっても両義的。「アメリカ」はもちろん「帝国」 で、鼻持ちならないヤツってことなんだけど、「超・(国民)国家」という位相で捉 えれば「帝国」も(左翼的には?)歓迎すべき政治形態なわけよね。)

たぶん、もう少しベンキョーすれば、こんなナマイキなこと言わなくなると思うん で、姜尚中先生、ひとまずお許しを・・・(こないだ、お台場のブックフェアで先生 をお見かけしました。藤原書店のブースでサイン会をやっていた。イイオトコだった わよ〜)。