BOOK BOOK こんにちは  2003.12月

 

このコーナーは、3人の精鋭が日々読んだ本の感想を書いていくものです。

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       アオウ        コマツ       スヤマ

★12月29日(月)更新★★★★★★★★★★

今週は、なんといっても『博士の愛した数式』(小川洋子)ですね。先日Rさんと話してて「これは読まなくっちゃね!」と盛り上がってた。調べ物せんと図書館に行った時、ちょうどそれが掲載されてる『新潮』のバックナンバー・7月号があったので借りてきて読んだ。ちょっとした空き時間をつなぎ合わせて読みふけった。ん〜、圧倒的にいい。「脳が壊れてしまっている数学者」なんぞが登場するとなると、「センチメンタルすぎ・美談すぎ・オトメチックすぎになるんじゃないかな〜」という懸念をビシャッと払いのける。ロマンティックに酔っぱらいすぎないギリギリのところで抑えたトーンがいい。

『博士の〜』があまりおもしろかったのでもっと何か読みたい気持ちになり、つい同じ号に載ってた『スピログラフ』(鈴木清剛)をうっかり読んでしまったが、これは時間の無駄使いだった。ちなみにこの号は三島賞の発表で、受賞作の舞上王太郎の『阿修羅ガール』も載ってる…と喜んでたら、冒頭部分だけでした。やっぱし買わなくちゃな。

『オレンジガール』(ヨースタイン・ゴルデル NHK出版)15歳の少年が、11年前に死別した父が残した自分宛の長い手紙を読む…という話。父が青春時代に出会ったナゾの少女“オレンジガール”の正体がすぐ割れちゃうのは仕方ないけど、その描かれ方は十分「謎めいて」いて魅力的。一見、陳腐なネタに思えるかもしれないが、何年後になるかはわからないけれど、いつか息子が読むことを思いながらそれを綴った「父」が11年前には確かに生きていた…という存在感をちゃんと感じさせるところが良かった。奇しくも先週読んだ『海辺のカフカ』に続き、“15歳の少年”が主人公。この主人公ゲオルグ君は、手紙の内容が知りたくてウロチョロする家族をシャットアウト、部屋にカギかけてこもり「手紙」とひたすら対話するのみと、超インドアストーリー。それでも。とーちゃんの金のライター持って家を飛び出したりせずとも、ゲオルグくんのほうが立派に“家出”を成立させているなあと思ったりした。ゴルデル2冊目。最後のほう、思ったより説教くさくなくて良かった。たぶん、啓示×説教はこれまで出した本で大体書き尽くしちゃったんじゃないか…というのが私の予想。この2か月でゴルデルの新しい本を2冊読んでまずまずだったわけだが、そういう理由でもって、以前の小説はわざわざ読もうと思わないってワケ。

今年読んだ中でベストを挙げるなら・・・『墜落!からの生還』(マルコム・マクファーソン ヴィレッジブックス)『隔離 故郷を追われたハンセン病者たち』(徳永進・岩波現代文庫)『日本残酷物語1 貧しき人々のむれ』(平凡社ライブラリー)『両像・森鴎外』(松本清張)『美妙、消えた。』(嵐山光三郎 朝日新聞社)。以上、ノンフィクション。

『ドミノのお告げ』(久坂葉子 勉誠出版)『鉤』(ドナルド・E・ウエストレイク 文春文庫)『思い出のマーニー』(ジョーン・ロビンソン 岩波少年文庫)『故郷』(パヴェーゼ 岩波文庫)。以上、小説。

 

年末年始に読みたい本を手近に積み上げている。K氏から勧められてさっそく買った『神戸 続神戸 俳愚伝』(西東三鬼 講談社文芸文庫)『イタリアをめぐる旅想』(河島英明)『李白と杜甫』(高島俊男 講談社学芸文庫』『ある「小倉日記」伝』(松本清張 新潮文庫)『文豪』(松本清張 文春文庫)。読書は気分とタイミングだから計画通りにはいかないと思うけどねー。じゃ、また来年!

★12月22日(月)更新★★★★★★★★★★

ええっと結局、先週追加更新しなくってすんませんでした! 『両像・森鴎外』(松本清張)。鴎外はご存知のように医者(つーか官人)としても出世しつつ、文学者としても成功できちゃったスーパーエリート君である。なんで? 勉強できるから? パパママからのプレッシャーもあって何がなんでも出世しなくちゃいけなかったから? それでも文学は死ぬほど好きで捨てられなかったから?  今の時代は小説書きは小説書き、詩人は詩ばっか書いてるもんだが、昔の「文学者」はいろいろなものに手を出した。詩、短歌、翻訳、評論、随筆、小説、戯曲の執筆、そして同人誌の編集。鴎外は全部に手を出す。鴎外ほど、全部が全部やりたがった人間はいないのではないか。鴎外は、とにかく「書きオタク」なのである。勉強家というよりも、文学者というよりも、いつも何か書いていないと気のすまない書きオタク。

『両像・森鴎外』では、鴎外の代表作のひとつに数えられる『澁江抽齋』の検証に多くのページをさいている。この作品が、抽齋の子が書いたモト資料の存在なくしては生まれなかったということは、すでに評論家の知るところではあるが、実際は「鴎外の創作」と言えるしろものではなかったと、清張は本書の中で徹底的に検証する。まあ、作家のパクリ事件などは珍しいことでないにしても、なぜいつかはバレるとわかっていても「資料丸写し」みたいな原稿を書いてしまうのだろうか? それは「自分の字で書いてみたかったから」なのではないかと、私は思う。以下、本書より引用。「たしかに鴎外には『おれも書いてみよう』というところが強い。インタレストの赴くところである。それも他からの刺激による。漱石の技を意識して『青年』を書いた。しかし、これは失敗した。文学を『求道』と考える自然主義派とはほど遠い話で、鴎外の作品に体系がないのはそのためである。あるものは自然主義的(※アオウ注:自然派をバカにしてたくせにね〜)、あるものはロマン主義的である。それは『遊び』でもある。公務の間に書いているのでよけいにそう見えるが、一つには鴎外の聡明なためである。聡明というのは、彼がいわゆる西欧の本を多く読み、知り過ぎているために、かえって一つのものに凝ることができなかったからであろう。焦点の分散である」。ありがとう、清張。これから『ある「小倉日記」伝』(松本清張 新潮文庫)を読みます。

ついに、アレを読んでしまいました。Oさんから長らく借りっぱなしになってた『海辺のカフカ』(村上春樹)をな!これ出た当初、読んでみたいものの自分で買うのはちょっとな〜という、貧乏くさい気持ちから貸してくれる人を探していたのです。そういえばOさんからは、岩井志摩子の本も借りっぱなしだ。岡山女から借りる『岡山女』…じゃなくって『夜啼きの森』でした(笑)。

さて、『カフカ』です。う〜ん…しょっぱなからもう、春樹節、満開です。読んでない人もいっぱいいると思うので、あまりネタばらしはしませんが。15歳の少年が家出するのに親父の引き出しをひっかき回し、何やら一流品ぽい香りを漂わせた「ナイフ」やら「金のライター」やら「サングラス」を失敬する場面で失笑。なんでこう形から入るのかねえ…、と話にスイスイ入れずに些細なことばかり気になりながら読んでしまった。登場人物の女性が長距離高速バスに乗るのにミニスカートはいてるのはありえないだろとか、血友病で小さな傷すらつくらないように注意してる人がアナルセックスをしてるのはどうだろとか。で、まあ話が進むにつれて「不思議なコト」がいろいろと起こるわけですが、妙に冷めた視線で「さあさあそらそら、『不思議なこと』がたくさん起こってきましたね〜!」と意識させられてしまう。こりゃファンタジーですね、と思ってしまう自分。村上の最高傑作と思っている『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』などを読んでいた最中には、そんなふうに冷めたことはなかったんだがなあ。この本には魔法がない。しかし、この作品の一番の問題は「主人公にひたすら魅力がない」ことであろう。上下巻を読み終えての感想は…「村上春樹ってホモ?」。

『カラフル』(森絵都)ここまでマンガみたいだとは思わなかったけど、まあ小学生〜YA層には定番的な人気を誇ってるらしいから、こういうのがイマの児童文学と言っていいのかな。今読みかけてる『読者は踊る』(斎藤美奈子 文春文庫)にもそんな指摘がでてきたけど、いまだに一部では「推奨される児童文学の例=子どもがジジイババアと交流して忘れていた何かに気づいて心が豊かになりました」てな風潮があって…。いや、ジジイババアとの交流話でも、おもしろきゃいいのよ。『夏の庭』(湯本香樹美)くらいにさ。信じられないくらいに古くさく地に足のつきすぎた設定の上に押しつけがましい教訓がある話こそ「児童文学なのだ」と認め、文体・設定含めちょっとでも軽いタッチのものは「こういうのは児童文学というよりジュニア小説(今やそんな言葉ないよ!)ですね」と一蹴する若い(!)編集者の言葉に唖然としたこともある、私である。

★12月15日(月)更新★★★★★★★★★★

『両像・森鴎外』(松本清張)すごかった!解けた、解けましたよ、鴎外が・・・。一冊通して、要点の嵐。

えー、すんません、この続き、明日かあさってに詳しく書きます。

★12月8日(月)更新★★★★★★★★★★

『あほらし屋の鐘が鳴る』(斎藤美奈子・朝日新聞社)元気いいです。4年ほど前に出た本で、いろいろな新聞雑誌に書いた書評、雑誌評、エッセイをまとめた一冊。批判すべきものはしっかり名指しで批判する…けれど、矛先を向けている内容・ポイントがしっかりが整理さているから好感もてるんだよね。彼女が批判するのは『誰か』の『何かの作品(あるいは発言)』であって、決していけすかない人をめったやたらに攻撃し、おとしめまくっているのではない。そこが、先日とてもガッカリさせられた『まれにみるバカ女』(宝島社文庫)の態度の煮え切らない、しかもキレを欠くため悪口としても大変威力のない悪口とはまったく異なるところだ。ちなみに私が本書の中で一番援軍を得た気分になったところは、パフィーに関するこの記述。『たとえばPUFFYなどという最近の女性デュオは、とうてい見るにも聞くにも堪えない代物である。なあに、あの元気を誇示するようなカッコウと投げやりな明るさと♪これがわたしの生きる道、とかってポジティブ・シンキングな唄は。ワルイわね、ありがとね、これからもよろしくね、などとポップにユニゾられた日には、「ワルイわよ」と言ってやりたくなる』。ただし、このくだりが出てくるエッセイの本論はパフィーを語ることではなかったので、著者もこんなトコで膝を打たれても困るかもしれないが…。

仕事で、鴎外攻略に励んでいる…はずなのだが、どうもいかん。鴎外がわからないったらわからない。『鴎外・五人の女と二人の妻』(吉野俊彦)、『評伝森鴎外』(山室静 講談社文芸文庫)、『妻への手紙』(森鴎外 ちくま文庫)、『父親としての森鴎外』(森於菟)。いろいろ読めども依然、鴎外の姿がつかめず。この人、いったいどういうヒトなの? ということに切りこんだ本もあまり見当たらない。人間くさいエピソードを探そうとすると、出てくるのは「実は子煩悩」とか「饅頭茶漬け好き」とかその程度。かといって、「エリートだけど実はこんなカワイイところも」…とかそういう情報が欲しいわけじゃないんだよな。もっと子どものころのエピソードとか知りたいな。鴎外のあの、ムチャクチャに守備範囲の広い作品群はなんなのか? 勉強家で聡明だからできたことだよね? しかし、ソレらを全部読んでるヒマはなし。今読み始めた『両像・森鴎外』(松本清張)に期待をかけよう。清張、たのむぞ〜!

『ゴールドフィッシュ』(森絵都 講談社)どうも『DIVE!』以外の森絵都の本はあまり性にあわないのだが、人からすすめられて読んでみた。出世作(たぶん)である『リズム』の続編。なんだけど…ちょっとキツかった。主人公の憧れのイトコのお兄ちゃん(バンドでデビューを目指すも、バンドが解散してシオシオと地元に帰ってくる)が、どう見ても「憧れの対象」に思えないせいか…。

『ユウキ』(伊藤游 福音館書店)この人の『鬼の橋』『えんの松原』といった平安ファンタジー路線は見事だった。太田大八の絵、渋い装丁もあいまって、手にとった時はとても21世紀に出た本だとは思えなかったもんね。出た瞬間にして古典の赴き。その著者が、こんなに達者な現代モノを書くとは…オドロキオドロキ!

『ぼくはきみのおにいさん』今をときめいてるらしい角田光代による児童文学。坪田譲治文学賞受賞。1999年ごろ出た本だが、本の後ろの広告を見たら、このころ河出書房がとんでもないシリーズを展開してたことを知る。そこに紹介された書き下ろしシリーズの著者をあげると…増田みず子、田中康夫、花形みつる、高山栄子、立松和平、久間十義、川西蘭…文藝賞の受賞者を並べてるだけみたいですけど…ホントに全部刊行されたんかなあ?

『犬のほうが嫉妬深い』(角川文庫)内田春菊が2人の子を連れ(次なるダンナの子をはらみつつ)家を飛び出して、次のダンナと暮らし始める…という顛末を書いている。まだ読み始めだが、前のダンナが困った人なのは真実だろうが著者の主張にも疑問を感じるところが意外に多くて…。しかし、コレほどの修羅場をサクサク書いて発表しちゃうとは、良くも悪くも強い。やっぱし。女のほうが絶対つよい。

★12月1日(月)更新★★★★★★★★★★

『いたずらロバート』(ダイアナ・ウィン・ジョーンズ)基本的に魔法ファンタジーは好きじゃないんだが、この著者はいろいろなファンタジーの公式・定番要素を踏まえつつも、絶対的に「新しいものを創り出す」という意志を持っている人だなあ、と感じた。この著者の『魔法使いハウルと動く城』(ジブリがアニメ化するとかなんとかいってる)を読んだ時にも、同じことを思ったっけな。

『〈ヤギ)ゲーム』(ブロック・コール 徳間書店)サマーキャンプで、裸にされて小屋に閉じ込められたいじめられっこの少年と少女が、そっから逃走。ご都合的に「楽しい旅」となるわけではなく、けっこうハードなロード・ノベルになってるとこにシビレた。

 久米川に行った。東村山市、であるみたい。その日は夕方まで都心にいて…最近は5時ともなるともう真っ暗になってしまう…これから西武新宿線に乗ってそんな遠くまで行くのかと思うと絶望的な気持ちになったりした。着いてみたら、思いのほかでっかい駅だった。西友がある。西友があると、心が落ち着く私。多摩っ子だもんね。打ち合わせが終わってから、古本屋など探しにうろついてみることにした。生活用品を売ってる激安店で、蛍光灯の輪っかのヤツがあまりに安いんで「何もこんな大荷物を持ってる時に買わなくても」と思いながらも購入。さびれた商店街をさらに突き進んでいたら、ありましたよ、小さな古本屋が。店主は白髪交じりの文系アウトロー路線な感じのオッサンなのだが、なぜか店内には20歳くらいの女子が2人いて、店主と仲よさげにしている。店内にベタベタ貼ってあるパソコンで描いたヘタウマ(死語ですけど)的イラスト…幼稚園児の作品かと思ったが、話を聞いてると彼女らの作品らしい。そんで、どうやら彼女たちは明日からこの狭い店で「展覧会」をやるために準備してることがわかった。

 ドナルド・E・ウェストレイクの『ジミー・ザ・キッド』(ふっるい角川文庫)を発見。コレ、見たことな〜い! 狭い店内をくまなくジロジロ見回した挙げ句にもう一冊、今は亡き福武文庫『家族のいる風景』(八木義徳)を買うことに。レジで金を払おうとすると、全部ついてる値段の半額になるという。なんと、この店、明日で閉店だというのだ。んじゃ、もうちょっと気合いを入れて見なくっちゃとがんばり、『自然界における左と右』(マーティン・ガードナー 紀伊国屋書店)を見っける。この本、前から読みたかったんだよね。鏡像、植物のツルの巻き方や貝殻の巻き方、風呂桶のセンを抜くと生じる水の渦、音楽のカノン形式に至るまで、とにかく「左と右」を追究しまくった書、なのだ(後半、物理や宇宙の話になってくるので、ついていけるか不安。たぶんついていけないだろう)。帰る電車の中で、これをポツポツと読んだ。

 古書店には、さらに店主の友人が集ってくる。「西友の7階の中華料理屋の冴えない女の子が、今1階で中華弁当を売ってるんだけど、実は眼鏡を取ったらカワイイんじゃないかってことを発見した」とか、そんな話をくり返ししている。店内はにぎやかだが、客は私一人だ。店主のオッサンが「明日、よかったらここで展示をやるから見に来てよ」と言って案内ハガキをくれた。店を出てからよく見たら、それは1998年の展覧会のものだった。西友の1階に立ち寄り、お弁当売りの女の子の顔を見ることを、もちろん忘れなかった。ボストンフレーム。若いのに、ずいぶん懐かしい眼鏡をかけてるなあと思った。

★12月29日(月)更新★★★★★★★★★★

ウニャニャー。今年もいよいよおしまいですな。オレは年の瀬も正月も大嫌い、でこれまでやってきたのだけれど、何故か今年は自分の中にその気配がない。あまり構えてないのです。またひとつ楽になった、と感慨をもつこの頃です。え、ここには読んだ本、読みつつある本などを書くのでありまして、まず「萬月療法」(花村萬月・双葉社)というエッセイを読みました。このひとは三鷹に住んでるのかな?吉祥寺の「一二三そば」が美味しいと書いてあったので、いってみようかな、と思いました。最近ラーメンが食べれるようになったのです。文中に「馬鹿とは、ひょっとしたら自分は馬鹿かもしれない、という疑問を抱かない者のことである」とあり、可愛い人だなという印象を持ちました。「タバコはボケを阻止するか」(高田明和・角川書店)によると、いわゆる「ボケ」の大半を占めるアルツハイマー病とパーキンソン病は喫煙の習慣によって、発病のパーセンテージをかなり下げられるようです。オレはタバコ喫ってないと絶対ヤバイよ!かろうじてやってる社会生活もタバコ抜きでは営めなくなるのだ、と知りました。著者は、自身はもとより家人にも喫煙の習慣を持つ人がいない方のようですが、最近のヒステリーにも似た世間の嫌煙ブームに抵抗を持ってらっしゃるそうです。なんて素晴らしいお方!チューしたいくらいテス!「司馬遼太郎の『かたち』〜『この国のかたち』の十年」(関川夏央・文春文庫)は良かったテス。司馬が最晩年に書きつづった「文藝春秋」の巻頭随筆のことを著者らしく綿密に取材したものでした。連載二回目で司馬は「自分の好きなことばと嫌いなことば」を挙げており、好きなのは「リアリズム」嫌いなのは「正義」としています。山本夏彦も「賄賂は国を滅ぼさないが、正義は国を滅ぼす」と書いていたそうですが、ホント、そうよねえ。気持ち悪い人間って時々実在するからコワイよねー。イヌネコのように死を予感せずに生きる自身を、浅いと断じる司馬は、時には酒場で「やるかっ!」と眼鏡をはずす硬骨漢であり、「竜馬がゆく」や「燃えよ剣」(おもしろいよ)でさわやかな青春を描いた作家なのですねえ。著者の好きな「坂の上の雲」も読まないとねえ。たしか親父の本棚にあったので帰省したら読もうかしらん。ほかにも、桑原武夫との対談エピソードや、三島の自死についてのコメント、書けなかった(書きたくなかった?)ノモンハン等いろいろと興味深い箇所の多かった本でした。次につながるという事で。「川柳のエロティシズム」(下山弘・新潮社)仕事場で手にとって読んでたら、再読でした。しかもウチにあった!が、面白いのでまためくりました。ひとつふたつ好きなのを紹介。「女房と相談をして義理をかき」「かこわれに地ごくは無いと実をいひ」「そこかいてとはいやらしい夫婦中」。解釈が著者と違うものもあって、これまた面白い。人は実におもしろいものです。話はかわるけど2チャンはいいよね。アレきっといいものだよ。司馬の言う「ホンマのこと」もそこにあると思うなあ.ばれ句にも通ずるよ。まだ数冊あるんですがメンドクサイので今年はこのへんで。来年はもっと読むぞ!

★12月22日(月)更新★★★★★★★★★★

ありゃりゃ忙しくて参ったなこりゃー。いよいよ忘年会シーズンも到来。同時にクリスマスもついに始まりやがった。イブイブのイブイブ。オレはアンチ・クライスト派(パンク)なので、寒い自室に蟄居し、たて笛を吹きつつひとり聖夜を過ごす所存で居ります。何人もオレの狂おしい孤独を奪うことなかれ。邪魔する者には必ずや災いが降りかかるであろう。そしてオレは仕事場の上司にあたる人に1本のビデオを借りたのである。ソレはなんとスカパーより録画された12.14ゼロワン大会(プロレス)なのであった!ふふふふふ、もう最高!わからんでショ?わからんでいいのよ。オレはまったくもって他人を啓蒙する気などは毛ほどもないのであるから。オレはオレの道を、フフフ、行くのであるからね(笑)。きょうも初対面の人間と、話の流れからプロレスの魅力について語ることになった。面倒くさいので途中でやめたが「とにかく深いんですね」ってなお決まりの結末と相成った。それはそれでいいし、ちゃんと説明しないオレも悪いのだが、それとは別に、あんまり安易に深いだの浅いだの言うのは如何なものか。深いというのは、もしもそんな事があるならば、深さを知った者にしか言えないのではないの?謙虚さが欲しい。。テキトーに喋る人間の皆さんにぜひ呪いあれ!たぶん「深い」ってのは「理解不能」って事で「興味ナシ」って事で「でも気を悪くしないでね」って事なんだけど、そんなどうでもいい言葉およびその応酬はまさに時間のムダ。割愛できる部分はできるだけ割愛したいもんだエコ。ウソウソ。またどうでもいい事をダラダラ書いちゃったなー。オレは何かに怒りを抱いてる人間みたいに見える?やっぱそう見える?ならそれはただ言葉や文字にアンタが騙されてるだけだジョー(笑)。「海辺のカフカ」(村上春樹)を四ドルよ。前に少し読んで、あまりの●●●●に途中でやめたんだけど、アオウと話しててウケて盛り上がったので、やっぱ続きを読むことにしました。気持ちの悪い少年主人公はチンコの事をペニスと呼ぶのです(笑)。誰か頼むからすぐにやめさせてくれー!なんか自分でわかってる事ばかり書いてるのが腹立つのよ。お前がわかってることは、当然オレにもわかって当たり前なのだよ、と何故にそのことに気付かないのかが不思議でオナニー。「海辺の〜」に一切謎はないが、あえて言うならその一点のみが謎なのだ。

ダウンタウン「HEY!HEY!HEY!」を読む。テレビ番組のゲストとのトーク部分をおこしたもののようだ。泉谷しげるはオモシロイな。最近はどうしてんでしょうな?あとよかったのは松山千春と南こうせつぐらい。奇しくもフォークって事ですねえ。お友達の不動産屋(たぶん)の社長と電車でバッタリ。オレがたまたまギター持ってたもんだから「ブルースはやんないの?」ときかれた。「やろうかな」と返したら「ブルースとロックやポップは違うの?」とまたきかれたので「おんなじだよ。日本語で歌えば」と返答。電車降りてから、そうなんだなー、へー、と思ったりして。ソンナモンテスよ。

★12月15日(月)更新★★★★★★★★★★

ほにゃー。仕事が終わり、悪名高きセンター街の回転寿司屋で、同僚の娘たちと乾ききって変色したスシらしきものをつまんでみたり。しかも不味い。実に不味いがちょっと面白いのだ。さあ、食べよう、と重なった醤油皿をとりあげてみると、その下にはもう既にペッタンコになった通称ガリが何故か居ったりするの。回っているブツは全てブキミな色をしていて、しかも閉店まぎわも相俟って品数僅少。完全にヤバい。普段ならサッと席を立ちショバを変えたりするのだろうが、あえてウニを頼む。隣の娘の顔を見ると、食うなり「味が変…」と、もっとも言ってはならぬフレーズが期待通りビシッと決まった(笑)。オレはかつて食中毒になったことがあり、その症状がではじめた夕べに「何だかアンニュイな気分なんよ。オレにこんな気分があるなんて今まで知らなかった…」と語ったことがあり、彼女はそのことを知ってたので、黄色い紙に殴り書かれた「生ガキ200円」を注文しようとしたら「やめなさいよ」と窘めてくれたのである。しかしギャンブルという言葉はこういう時のためにあるので振り切って注文。しかし「売り切れ」だったんよ。セーフ。相手がおりたワケよ。まあ、そんなことはどうでもよろしいが、まずはオレのほうが途中でおりた本から始めまショ。「ココナッツ」(山本文緒・角川文庫)地方都市に住む中学生の女子が主人公。ファーストシーンで彼女は、「脱サラ」して「何でも屋」をしている「ちょっぴりくだけすぎ」のパパにつきあって、コンサートチケットの代理購入のため徹夜で並んでいるのである。そのコンサートはいまや「人気絶頂にあるロックスター」の凱旋公演的なものであり、その地方の出身者であるスターはあろうことか、彼女の「幼なじみ」であると同時に「憧れの人」でもある「イトコ」の「お坊さん」(笑)となんと「高校時代の学友」であったことが後々判明してくるのである!なんたる偶然なんたる符号、列挙されたこれらの事実は、主人公を待ちうける何らかの運命を予期させるために作者がしくんだ巧妙かつ周到なワナなのか・・・。この難解な不条理劇は早々に投げ捨てて「空の色紙」(帚木蓬生・新潮文庫)を読んだのテス。主人公は犯罪に関わる精神鑑定を生業とする初老の男子。仕事で訪れた知覧で彼は、特攻隊として戦場に散った兄を思い出す。兄は、かつてじぶんの妻の夫だった・・・。男の嫉妬を描いたこの作品はなかなかオモロかったよ。ホント、男ってネチネチしてるよねー。そこがヤだったり、ちょっとよかったり(笑)。こないだオレは友人に心理テストをしてもらったんよ。すると結果は、オレはズバリ「可愛い少女」を頼りにしており、「不器用な男」的なものををフォローしたい、という願望があるらしい。これはなんか当たってる気がしたなあ(笑)。他にもイロイロあって、この際、もうオレの深層心理(?)をズバッと大公開しよう!

●オレがいま一番ほしいのは「いらないのに花びん」

●オレが心に隠し持ってるのは「オーソドックスな雪だるま」

●他人と交流したい度合いは「薄めに開いているドア」くらいで、

●隠されたHの力は「けっこう繁って」おり、

●やばい事があると「ヒェーッ」ととびのくらしいぞよ。

雨は変化の兆しをあらわし、ポツンポツンと今にも上がりそう、なのだ。ハハハ。どう?急に話は戻るが、他に読んだのは「居候●々」(内田百けん・福武文庫)あー、ムカツク!!ひゃっけんのけんはパソコンでは出んのよ!しかも題名が読めん!●の部分がわからん!誰か教えて。ひゃっけんは「字引をひくのを面倒くさがるな」とよく言ってたらしいけどさ。カンジンの内容は、と言うと、トボケすぎてて意味不明(笑)だがオモロかった。ムリヤリな終わらせ方もテキトーでよい。ネコラツとかオットセイとか先生のネーミングがグー。「ゲルマニウムの夜」(花村萬月)かぶいたような名前と風貌にあまりいい印象を持ってなかったのだが意外に良かった。カトリックの孤児院を舞台にしたポルノ風だが、うまい。10代の男子にはぜひ読んで欲しい。巻末の小川国夫との対談もオモロかった。この人、もっといろいろ読んでみたくなった。「暮らしの中の日本語」(池田弥三郎・旺文社文庫)折口信夫の弟子。バリオモロで内容豊富。マジ勉強になった。で、なによりイイのが口が悪いところ(笑)。こんな先生ならいいねー。やっぱ昔の人のほうがオモロイねー。本があってヨカッタねー。なかったらヤバかったねー。もう地上にはあらかた昭和生まれしか残ってないワケでショ?なにも学べないよ。だって現代っ子ばっか、って事じゃん。ちょっとマズイよね。以上!

★12月8日(月)更新★★★★★★★★★★

「好き嫌いで決めろ」河上和雄 こんなアホなタイトルの本だが著者がロッキード事件で辣腕をふるった特捜検事だったので読んでみたのよ。まあ、なにもビックリするような事は書いてなかったし、著者がマジメでいい人だっていうのがわかったくらい。いろんなエピソードがね、そういうの好きね。でもあんまり信じないな。字で書いてることなんてね。ま、基本ね。「知性はどこに生まれるか」(佐々木正人・講談社現代新書)ジェームス・ギブソンという人が思いついた「アフォーダンス」という考え方を紹介した本だった。アフォーダンスとは、「環境にあって、行為が発見している意味」に与えられた名称であるそうな。ちょっとオモしろかった。エコとかではけっこうポピュラーな考え方なのかも知れないね。オレはアンチ・エコ派(笑)なので寡聞にして知りませんでしたが。いや、いいね。なんでもかんでも名付けていく情熱ってのは。アフォーダンスは「たしかに主観的ー客観的の二分法の範囲を超えている」そうだ。そりゃそうね。人間ってものをはずしちまえばね、そりゃそうね。オレはね、やっぱね、しつこいようだけど(笑)「プロレス」ってものをね、いろんな人にちゃんと考えて欲しいね。オレはテレビってものをみないしね、2年くらい「週刊プロレス」と「ゴング」だけを毎週読んで、それからはじめてプロレス会場に足を運んだワケよ。べつに娯楽で見てるワケじゃなくてね、もっとも知的な営為のひとつとしてね、ウソウソ(笑)。

先日、新宿ロフトプラスワンで行われたプロレストークイベントに参加した。参加(笑)。いい言葉ね。なつかしい響き。友達といちばん前の席に陣取ってね、バクバクいろんなもん食いながらビール飲んで。内容は、っていうと、一応、高田伸彦っていう、かつてのスタープロレスラーが書いた「泣き虫」という本を弾劾する集まりだったワケよ。高田っていう人は、現在「PRIDE」っていう格闘イベントのプロデューサーなんだけど、プロレスは結末の決まったお芝居である、といわゆるプロレス内幕の暴露本を書いたんだよね。ハハハ。で、そういう事をプロレスファンはプロレス外の一般の人からふだんモノスゴーク言われ慣れてるワケで。やっぱね会場に来てる人たちはもうカンペキに高田をバカにして憐れんでてね。ぜんぜん違う話で熱くなってた。ま、プロレスを説明することはメンドくさいしムリっぽいのでヤメるけど、変化していく状況の実況として素晴らしい、ていうのはひとつ言えるね。で、渋谷のスクランブルにある、文庫ナンとかで人待ちついでに今日捜したんだけど、ないのよ。立ち読みしようと思ったのに。で、ないって事がまたバカにされちゃうのね。あ、もしかして発売前だったのかも!ついでに書くと、音楽誌ってのダメね。日本のね大衆ロック誌。圧倒的にヤラセでね(当たり前なんだけど)。プロレスファンが言うのもナンだと思うかもしんないけどさ(笑)。もう一方的な情報ばっかでさ、編集者がムリヤリ盛り上がってパフォーマンスやってんのがさ、傍目にキツイってのがわかんないのかね?もうオレだったら自殺もんなんだけど。いくら高い給料もらったってダメだなー。デカイ声で喋れば正しいのか、っつうと、違うのは明々白々でね。ま、地方の若者向けの洗脳誌っていう感じ。あ、テレビね。テレビにいちばん似てるわ。のみならず興行屋も最近兼ねてるしね。売れてるのかな?もし売れてないならその辺ちょっと考えないとヤバいかもね。編集者もなるたけコンプレックスのない人材に変えてさ。そうじゃないから、十年一日の如く、くだんない「才能」とかワケわかんないワードがさ(笑)。もっとちゃんとアーチスト側からの自主的な話を聞いてさ(たぶん原因はコレが全くないからだと思うんだけどさ)。なんか何万字インタビューとかいってさ、だいたい20かそこらのさー舞い上がってる子供をさー、さらに煽りまくってさ、オモロイけどさー(笑)。なんで思わずこんな言わずもがなの事を(笑)書いちゃったかっていうと、最近内容(音楽自体ね)との乖離はなはだしくてさー。そこが許せない。社長に手紙書いちゃおうかなー。ま、ちょっと大人げなかったかなー(笑)。

お、いま読み返して思ったけど、ロック暴露本だれか書きなよ!売れるよ絶対!「GLAYの真実」とかそういうんじゃなくて(笑)。読者層はって?そりゃもちろん地方の若者層だよ(笑)!簡単簡単。業界人には当たり前のことを地方の純真な若者達は意外に信じたくないんだから。ただズバッとフツーに書けばさ、それでいいんだよ。「必殺」ないいタイトル考えろよ(笑)。ロックに寄り添って生きるなんてあり得ないってこと、もー十分判ったでしょ?寄り添うもんじゃねーんだよ。ハハハ。告発。それがいちばんのお前自身のロック革命かもよ(素)。

★12月2日(火)更新★★★★★★★★★★

おこんばんわ。えー、先週は何よんでたっけ?と何故かインディー時代のCOBRA を聴きながらメモを探してるんだけど、みつかんないのよこれが。思い出しながら書くけど、いま読んでんのは平野啓一郎とアンドレ・モロワである事は間違いない。あ、加賀乙彦(だっけ?)の「犯罪」(たぶん)を読んだな。まあ面白かった。陰惨な犯罪実録風。人埋めちゃったりするような。キライじゃないね。たぶん河出書房文庫。「女たち」(中村真一郎・中公文庫)まあまあ。前半よかったのに後半の戦後編があまりにステロタイプすぎてキツい。まあワザとやってんだろうけど。美術史家(たぶん)の中年男が婚約者の若い娘に過去の女体験を告白していく、といった話だった。オレが女だったらこんなオトコやだな、ってかんじだけど、男のいい気な感じっぷりが「マジかも?」ってちょっと興味ひいた。「近代日本人の発想の諸形式」(伊藤整・岩波文庫)。ていっても文学における、である。何書いてあったっけなあ(笑)。いや、我ながらヒドいけどツルツル読めて面白かったよ。でもきっとガツンとはこなかったんだろーね、きっと。あー、いろいろ書いてたな、だんだん思い出してきたけど(笑)、まあ別に、ってかんじかな。でもオレ凄いなーこの記憶の無くなっていく速度たるや!でもね、これ不思議なもんでおぼえてるのが面白くて、おぼえてないのがつまんなかったっつうワケでもないのよ。「居酒屋兆治」(山口瞳・新潮文庫)オモロかった。で、憶えてる。うまい、って事かな?たぶんそうかも知んない。この人はどうでもいい事(オレにとって)を面白く書くのがバツグンにうまい。で、そういう人がオレ一番好きなのかも。退屈しのぎ。いい言葉だな。なんか山口瞳ってウジウジしてんの。そこがいい。でも同時にドライな感じもするんだよね。不思議。どうでもいいのかな?そういうワケでもなさそうだしなー。「変なおじさん」志村けんの伝記。真面目な人。オレはたぶん「変なおじさん」というキャラクターが動いてるのを見たことがない。ちょっと見てみたいな。ドリフのボーヤだったころ、金がなくて小道具のわらじを履くか、裸足だったつうのにはたまげた(笑)。すでにスターだったカトちゃんとは仲がよくて可愛がってもらってた、なんてすごーく素敵!ドリフのメンバーが残したラーメンの汁に白飯をぶちこんで食ってた、というエピソードは、ちょっと食ってみたい気がしたよ(笑)。「THE BOOK OF JOE」ジョー・コールマンの作品集。ヤバい人かと思いきやすごく優しそうな楽しそうな人である。ハンク・ウィリアムスとかの肖像が好き。バックにその人のエピソードを絵解き風に描いてんのがすごく可愛くてイイ!「DISCIPLE&MASTER」Joel-Peter Witkin。マン・レイ、ブラッサイ、ブレッソン、ウィージー、ダイアン・アーバス、ルイス・キャロル等の作品を基のイメージとして、出来たウィトキンの作品と並べて対比してるんだけど、やっぱもー狂ってる。「もう、これがなんで?」っていうくらい。でも当たり前だよなー芸術だもんな、イメージの喚起力がスゲー!まだあるんだけど、きょうはこれで。

★12月29日(月)更新★★★★★★★★★

今年一年の回顧でもすんべえや、と思って本棚を眺めると、「年々フィクションを読 まなくなってきてるな」と思う。今年読んだ小説は、三島の『宴のあと』ヘムパパの『日はまた昇る』のみである。ま、この二人の作品群は谷崎&荷風とあわせてわ しのジンセーに欠かせないモノなので例外的に特権性をおびてしまうので特別賞。 しっかし、なぜ虚構の世界に身を任せるのが、うざったくなってきているんだろう。 ストーリーが展開し、それにハラハラさせられる自分を意識するのがキライ、という傾向はチュー坊のころからの習性で、映画も、物語性ができるだけ少ない作品が好みであったし、この世でもっとも苦手なジャンルはミステリーや推理小説や冒険譚などであった・・・まあ、そんなことはそんなこととして、今年はなかなか良い本を読んできた、とワレながらマンゾクしている。

まず、ナンバー・1は、いうまでもなく、 『民主と愛国』小熊英二である。この本に限らず、小熊氏の著作を読むことによって 得られるスリルはナニモノにも代え難い。 ナンバー2は石川忠司氏の『孔子の思想』。この本をネタにして、当HP上では仲々笑えるレヴューを書くことができた。石川氏には是非また再会したい。池袋北口の日活えっち映画館に行けばモギリをしている氏に会えるのだろうが、あそこのロビーにはファーコートを着た半裸体のオカマさんが常駐していて、私が何年か前に入っていったら物凄くいたしたそうな目で寄ってきたことがあったので、おいそれと立ち寄れないのである。ナンバー3は『パリ写真の世紀』である。この本の著者・今橋映子さんには来年度“ふらんす”(雑誌の名前ね)で連載を頼んだので今からワクワクである。「パリは憧憬のチマタ、花の巴里ではなく、練馬区である。もしくは足立区である。ときに赤羽〜東十条であり、荒川のほとりである」とわしに気付かせてくれた、謝恩を捧げたくなる重厚な一冊。さ、来年はどのようなケッサクにありつけるだろうかのう。予期せぬ新刊書がポーンと現れることを願って。

★12月22日(月)更新★★★★★★★★★★

『清水幾太郎 ある戦後知識人の軌跡』(小熊英二、御茶ノ水書房)を読む。畢生の 力作にして名著、『「民主」と「愛国」』には収め切れなかった原稿が、別冊みたいにしてあらためて出版されたもの。著者の小熊氏自身は、『「民主」と「愛国」』は 「戦争体験」を前提にして書かれたものなので、清水幾太郎のように戦争体験が活動 に反映する度合いが低い著作者は、あえて割愛した、と巻末の注で述べている。その理由はたしかによく分かる。清水幾太郎は、イヤな言い方をすれば「一貫性のない変節漢」であり、戦後思想界の決まったポジションに位置づけることのできない、クルクルと意見を変える「お調子者」であり、そのときどきのジャーナリズムの論調に左 右されがちな「売文野郎」である。しかも、清水自身それを自ら認めており、「オレは編集者というお客様のご要望のままに原稿を書き散らす「芸人」なのだっ!」と発 言してはばからない。小熊氏の本が、戦後において「民主」と「愛国」という二つの概念が、あるときは相克し、あるときは相乗し、またあるときは並列し、綯い交ぜになるサマを描出していたとするなら、どちらの概念にも影響をこうむることが少なかったチューブラリン清水のような人物には、「外伝」として異なる発表の場をもうけることが妥当と考えられたのだろう。

しかし! それにしてもこの清水幾太郎とい う人物、面白すぎる! そして、「こういうヤツが居ても、ぜんぜんかまわない」と 思う。あえて清水の存在をナニかにたとえるなら、「戦後思想界のボビー・ギレス ピー」と言っちゃたら怒られてしまうだろうか。だって、ボビーちゃんって、こういう人物っぽいじゃない? はっきり、「こういう音楽こそが、やりたい音楽なんだ !」と、そのつどは宣言してるんだけど、2〜3年たつともう全然違う音楽をやってしまい、しかも自分でソレがわかってるんだかどうだか、ステージのセット・リストの傾向が60年代と70年代と80年代がごっちゃになってても一向に気にしない。このあいだ、ベストが出たから、全部アルバムもってるんだけど一応プライマルフリークと して購入しましたが、「これ、1枚通して全部おんなじバンドのナンバーだなんて、 知らない人が聴いたらわからんのじゃないかな」と思わずにいられなかった。で、幾太郎だが、ご存知のようにこのひと、戦後スグの頃はギンギンの左翼だった。しかも かなり闘争的な。アメリカ基地建設反対とか60年の安保反対運動とか、なにかにつけ て火種を見つけては現場に急行し、「全学連サイコーっ!」とか「つっこめーっ!」 とか叫んでた。で、敗北するとこんどはオイオイ涙にくれてばかりいた熱いオッサン だったという。このあたり、ボビーがシャラシャラしたクラブ・チューンやダブダブ した音響モノをさんざんやったあとで、結局インタビューやアンコールのMCで言語化するのは「ロックンロール!」の一語であるのと似通っていないだろうか。「とにかく、今っぽくてイケてそうなコトをもう一度引っ張り出してきて、やる。それにオレ、いちおうソレが大好きだしね」という姿勢。そしてしかも、「オレの好きなソレ」は「沸き出る独自なアイデア」ではいささかもなく、初期にはバーズの模倣だっ たのがいきなりMC5のようになり、しかしある時期からはアシッド・ハウスであり、 ファンカデリックであり、アメリカ南部サウンドであり、ケミブラだったり、パンク だったり、ダブ・サウンドだったり、キャバレー・ヴォルテールだったり(以下略) ありとあらゆる既成の表現形式の「引用」であり、「変形」であり「列挙」であり、 ときには「マンマ」である・・・幾太郎氏の場合、それは「ジャーナリズムの要請= 原稿注文に応じて、仕方なく書いたり発言したりしてたら、いつのまにか自分自身が ノリノリになってしまい、気が付いたら与えられたそのテーマにどっぷり首をつっこんでしまった」というケースに相当する。「自分」はあるようで実は「無い」のであ る。

でも、清水の場合悲しいのは、また、「・・・だったんだけど、活動の潮流が ピークを過ぎると、バリバリにがんばっちゃった分、なんかうるがられてウザイやつ に思われちゃってひとりぼっちにされてしまい、こんどはかつて共に戦った仲間のほ うを攻撃する立場にたってしまう」ことである。たとえば、執筆の主要な媒体であっ た岩波の雑誌「世界」は70年代になるとまったく清水に原稿を発注しなくなり、いつしか文春の「諸君!」がとって代わってお客さんになっていた、という。そして、 晩年の清水幾太郎はビンビンの右翼、しかも核武装論者であった・・・。チューブラリンで一貫性がないのはボビーちゃんと似てるけど、「共闘関係の輪」がどんどん狭 まってしまうのは、イクタローさんならではの事態だったみたいだ。最後に、清水の 「名言」を孫引きして、この稿のシメにしたいと思う:「ぼくは本来、放火魔的なところがあってね、だれもやってないところを見るとすぐ火をつけたくなるんだ。それで火がつくとさっさと逃げ出しちゃって、あとは知らんというわけね」

★12月15日(月)更新★★★★★★★★★★

先日ライヴで『拒否』という唄を演ったが、元になっている歌詞はそもそも、20世紀を代表する詩人“ヨルゴス・セフェリス”さんの作品であった。ヨルゴスさん(英語読みならジョージさん)は外交官をやりながら詩をナニしていた。1930〜1940年代に、ギリシアで外交官をやる、というのはどういうことか?先だって以来遅々たる進み具合で読んでおる“Inside Hitler's Greece”に描かれているとおり、オスマントルコをやっつけて一気にバブリーに国力増大した時期がこれまたいっぺんにしぼみ、〈アレは夢にすぎなかったのね〉とショボ〜ンとしているうちに、アレよソレよとナチスに分捕られ、飢えと寒さと労働力搾取と凄まじいインフレに翻弄されていく、という状況だったギリシア。その国で外交官をやるということは一体どういうことなのか?しかもウラ稼業として詩をナニする、ということは?

 ヨルゴスさんが処女詩集『転回点』を発表したのは1931年、まさにギリシア全土はトルコ戦勝後の浮きたったムードの中にあった。この詩集で「どんな精神で/どんな心で/どんな欲望と情熱で/ぼくらは人生を選んだことか、間違いだった!/だから、ぼくらは人生を変えた」と書きつけた31歳のヨルゴスさん。しかしやがて、そんなシニシズムで詩帳を埋めるノンキな時代も続かない。40年代の『航海日誌』ではこんな詩を書き綴る。:「…山々と海の間を散歩しつつ/完全武装の兵士たちとふと語りあいながら/不思議なことに、わたしは彼らの声だけをみていたのに気付かなかった/彼らにおしゃべりを強いていたのは血だった/わたしが屠り 彼らの足下にひろげた牡羊だった…」

 ギリシア現代史はやるせなさと憤りのハザマでいつも揺れている。「拒否」をネタに曲をつくった26歳のころ、わしはそんなことを顧る知識など無かった。でも、あの詩の中で“正午 ぼくらは渇いていた”のはやがて避け難くのしかかる飢餓の現実、そして海の微風によって消し去られてしまう〈彼女の名前〉とは、ギリシア=エラーダ(女性名詞)=ヘレネーの国の名、そのものをイミするワケではなかっただろうか?

 今週はクセジュ文庫『古典ギリシア文法』の校正に没頭したので、本はヨルゴスさんの詩集再読にとどまりました。

★12月8日(月)更新★★★★★★★★★★

大阪の街をあちらこちらと這い擦り歩きながら、安岡章太郎『私の墨東綺譚』(新潮文庫)を読んだ。安岡氏は昭和二十年、衰滅の際にあった日本帝国のど真ン中、摂津の国は堺の町の傷病兵病院で、荷風のこの作品に再会する。腸結核で次々と死んでいく仲間の兵士たちを見おくりながら、日本近代文学史上最高の文体で書かれたこの“大人の文学”を読みながら、史は悦愉の淵へとひきずり込まれていく。(因みに、“子供の文学”はナニかというと、横光利一の『旅愁』であるとされている。これら2作品は、それぞれ同時期に新聞小説として発表されていた。横光は『墨東綺譚』を読んで、「オレの書いている小説、荷風のアレに較べたら全然なってねえ」と嫌気がさし、連載を中止したという。)

『綺譚』の大成功に勢いを得た荷風翁は、こんどは小説の舞台を向島玉の井から“北廓”吉原に移し、一場の艶聞記をモノそうとするが、何度となく実地取材を重ねたにも関わらず、明確な結構を創案することができない。何故?『綺譚』のときは、あんなに一気呵成に脱稿できたのに?安岡さんの分析&想像に拠ると、「吉原には、小説を書かせるに足る刺激を与えてくれるイイ女が居なかった」からだ…えっ。ソンな、身も蓋もない(実はある)しょうもない理由で?「30〜40年前、あたしが若い頃は吉原もよかったんだけどなァ」「そう云や、浅草の銘酒屋の安娼婦のほうが、当時から吉原の女よりイロイロと上手だったよねェ。十二階下から焼け出されて向島に移ってきた連中が玉の井でウリを始めたワケだから、吉原より向島の女のほうがイイのは当たり前か。ハッハッハ。吉原でハナシをでっちあげるのはもうヤメだヤメだ。」

 荷風文学は、概してこのような“しょうもない理由”で草されたものだと、わしは思っている。そして、20代の後半に荷風の書いた作物に夢中になった時以来10数年、その思いは安岡さんのこの本を読んでより強くなった。荷風が小説の中で転回するストーリーは“よしなし事”であり、変な云い方だが、「血も涙もない世界」なのである。血=闘争、涙=人情に相当する。この“よしなし事”を如何に《旨い》文体で読ませること、それだけのために筆は動いていく。荷風が書いたものの中で、真に価値のあるものは日記であり、それに次いで随想であり、小説は三番目にしておけば十分、という序列は広く流布した評価のようだが…それはそうだとして、荷風はなぜあのように膨大な書き物をつづったのだろう? 「イイ女はイイ。そうじゃない女はダメ」…ソレだけのロジックでジンセイを貫き通したこのエゴイストにとって、〈作品を外部に発表する〉という営みはどんなイミがあったのだろうか。

いっぽう、“子供の文学”の烙印を押された横光利一の文筆活動=殆ど空振り(しかも大振り)スイング続きのような活動のほうには、書くことに関する捉えようのない焦燥感と切迫感がある。カフーとヨコミツ、どっちがより“ロック”か? 考えてみてもいいかもしれないわね。

★12月1日(月)更新★★★★★★★★★★

ボードレールとは誰か?詩人である。美術評論家である。彼の妻は黒人女性であった。マーク・ボランの妻も黒人女性であった。

ベンヤミンの『パサージュ論』第2巻、“J”の項は、ボードレールに関する資料の分類にあてられている。パサージュ論執筆にむけて行われた資料収集のなかでも、このボードレールに関する章が最も長大である。これを読んでいて、なぜベンヤミンがボードレールにこれ程こだわるのか、ようやく分かった。

要するに、「19世紀と20世紀をつなぐリンクであり、両世紀の矛盾と特徴と“面白さ”を体現する存在であるのじゃなかろうか」という視点へのこだわり。両世紀の結節点に横たわる転回とはナニ?敢えてひと言で云えば:《進化なんて無い。目的なんて無い。産み出さない者が社会から放逐されるというのなら、私はすすんでそういう者になろう》ということになろうか?

言いふるされたコトかもしれないが、それこそが「モデルニテ」の実像じゃないのか?この言葉を“現代性”と訳すとすれば、21世紀のいま、ボードレールがモロに100年間をとび越えて、わしらの眼前に立ちはだかるのだ。

だってそうじゃない? 今、「オレたちがこれまでとは違う、あたらしい理想を体現した社会と文化を創りあげていくんだ」なんて思ってる20代の人がいると思う?

いないでしょ。(過去の音源発掘に血道をあげてばかりなんだから。)40のオジサンはもちろん思っていないよ。そんなこと思ってる若者がいたら、「西荻にでも来たら。宗教施設いっぱいあるみたいだから」と助言しよう。みんな地方から出てきて寂しいんだ…って。(コレは余計。)

ボードレールは母に手紙を書いた。〈この書物(『悪の華』)は不吉な冷たい美で飾られています。これは怒りと忍耐で書いたものです〉…詩人は酒場を謡い淫売を謡い路上の汚濁を謡う。街路を彷徨し詩を綴ることがなぜ“怒り”であり“忍耐”であるのか。暴虐にうったえ、高らかに自己主張することだけが“怒り”ではないでしょ。永井荷風を引き合いに出すならば、“冷笑”こそが怒りの表現たりうるのだ。「不吉な、冷たい美」…。

10年前に母が死に、今年父親が死んだいま、わしは解放された。「なぜ彼らはわしを産み、産まれたわしはどうすれば彼らの意に沿うことができるのか」というくびきから。ここらでイッパツ、キツ〜イ“冷笑”をかましてみても好いかもわからん。そのためにボードレールはベンヤミンの手を通じて、わしにアイロニーの甘い味わいの旨みを伝えてくる。

あとは「アレゴリー」と「コレスポンダンス(照応)」のつながりの謎を解く、という課題が残っておる。あらゆる感覚をひらいて、訪れるものを可能な限りうけ入れるのだ。そこに“私”は居ない。“君ら”すべてがいるのだ。だからわしは、つけ麺屋を渡り歩く。味わいのために。