BOOK BOOK こんにちは  2004.6月

 

このコーナーは、3人の精鋭が日々読んだ本の感想を書いていくものです。

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          アオウ           コマツ            スヤマ

★6月28日(月)更新★★★★★★★★★

『歴史としての文藝春秋』(金子勝昭 日本エディタースクール出版部)ようやく読了。評伝、というにはちょっと薄いけど、おもしろかった。菊池寛のことが知りたくなる本です。作品よりも、本人のがおもしろそうだ。とにかく流行を取り入れるのが早く、むちゃくちゃアイディアマンだったらしいです。純文学だけを書く「文豪」じゃなく、大衆のニーズを敏感に察知する職業小説家ね。昭和初期、「大衆小説家」の中でも吉川英治や大佛次郎をはるかにリードして所得はぶっちぎりでトップ独走。谷崎や藤村など純文作家と比べると、約20倍の所得税を払ってるんだから、すごいなあ。しかし、そもそも菊池寛の本ってほとんど読んでないな。「父帰る」とか「屋上の××」くらいしか…。そういや、最近復活ブレイクした「真珠夫人」なんてのもあるね。ちなみに、本書の表紙に菊池寛が書いた「文藝春秋」創刊号(彼が初代編集長であるからして)の広告が載ってんだけど、これがわざと手書きでラフにかいてあってイイ。真ん中に「文藝春秋十月号が出た!矢張り安くて面白いよ」と大きく書いてあるのがカワイイ。

『ベロニカは死ぬことにした』(パウロ・コエーリョ 角川文庫)コエーリョの本は、なんとなく読まないだろうと思っていた。「○万人が泣いた」みたいに書いてある本って、遠ざけてしまう傾向があるので。しかし、これは、とても話がおもしろく魅力的なNさんというお嬢さんが推薦してくれた本なので、読まねばなるまいと真面目に読み始めた。主人公ベロニカは自殺未遂をしたけれど、一命はとりとめる。しかし、自殺未遂の後遺症からあと1週間ほどしか生きられないと宣告され…最初はまったく生きる意志がなかったのだが、ぶちこまれている精神病院でいろいろな人に感化されるうちに、考え方が変わっていくという話。後半からググッと吸引力が強くなった。コラムにも書きましたが、前に「もうすぐ死ぬという状況を、生きる」という設定の夢を見た時と、近い感覚を感じながら読んだ。

『寡黙な死骸 みだらな弔い』(小川洋子 中公文庫)Rさんに勧められたので、さっそく買ってさっそく読む。うう〜ん。これぞ連作の意味ある連作小説群。つながるつながるつながってます。話の中に話あり。至るところに話あり。至るところに死骸あり。小川洋子の書く「死」はとってもよく死んでいて、またとても身近である。死がこわい人は、これを読むと死がこわくなくなるんじゃないか。あとがきに著者は「小説を書くとは洞窟に言葉を刻むことではなく、洞窟に刻まれた言葉を読むことではないか、と最近考える」と書いている。そうした、そこにあるものを読みとる能力があるほどに、創作は無限だなあ。

今週は、ロックフェスで販売用のCDR出荷のため、うちは工場と化しておりました。27日の朝方、製造にいそしみつつ読んでいたのは『黒い春』(ヘンリー・ミラー 水声社)。いいな〜、ヘンリー・ミラー。いつまでも読んでいたい強いグルーヴを感じる。これは一気読みするには惜しい本だ。普通に踊るんじゃなく、もっと噛みしめつつ踊りたい。欲望のままにどこまでもガツガツと読んでしまいそうなのを途中で止め、『時計と人間 アメリカの時間の歴史』(マイケル・オマリー 晶文社)に持ち替える。今、100ページちょい。グリニッチ標準時が採用されるまでのすったもんだ…あたりまで読み進んだ。以降、「新しい時間」の導入が人々の生活にどのように影響し支配していったのか…といった話が展開されるようだ。

『桶川ストーカー殺人事件 遺言』(清水潔 新潮文庫)早くも文庫化したので、即購入。これは素晴らしい本だから、みなぜひ読みなさい。これを、学校の国語の教科書にするといいと思う。

『壊れた尾翼 日航ジャンボ機墜落の真実』(加藤寛一郎 講談社+α文庫)いよっ、出ました。航空学の第一人者・加藤寛一郎の御巣鷹山本。1987年に技報堂出版から出たものの文庫化だそうです。そう、このタイトル知ってたんだけど手に入らなくてねー。

★6月21日(月)更新★★★★★★★★★

『春情蛸の足』(田辺聖子 ちくま文庫)読了。この短編集の主人公はどれもこれも、ホントに普通のおっさんばかりである。そういう人方の心の内なる「すき焼きといったら関東風にいきなり割り下で煮込んじゃいかん、まずは砂糖で炒めつけて…」とか、「ここの店のきつねうどんの揚げは、湯だき1時間、煮しめて1時間半くらいではないか」とかっていう、どうでもよくも個人的には重大極まりないモノローグが楽しい。

『偶然の祝福』(小川洋子 角川文庫)作家が主人公の連作短編集。小川洋子はあまり私的なエッセイは書かないタイプだが…そういう人に、突如としてこんなふうに「主人公=著者?」と思わせるような作品を並べられると非常に困惑するのである。実際に小川洋子の書いた短編のタイトルが作中に出てきたりするんだもの。なんなんだこれは!…と思ってたところへ、小川洋子好きのRさんから電話が。彼女もどうやら同じように思っていたそうだ。ふむ。同じ不透明な気分に陥ってる人の存在を認めたところで、今はとりあえずよしとしておくか?

マンガ雑誌の編集諸氏と、最近のマンガ雑誌談義。女性ばかりだったのだが、復刊したばかりの『週刊アクション』は今一番おもしろい、ということで意見が一致。しかも拉致問題を扱った『奪還』(蓮池の兄さんが原作、となってる)に賛辞集中。アクション、おもしろいよー。ノンフィクション好きにはたまらんテーマ選び、徹底した「原作作家付き」態勢、昔の作品を紹介する「アクションクラシックス」もいいぞ。今出てる号でいうと…『ハード&ルーズ』なんて読みたくなったもの。

『FIGARO』(女性誌)を読んでたら、小池真理子とアニー・エルノーの対談が載ってた。アニー・エルノー、かっこイイねー。最近のが読みたくなったぞ。対談のラストのまとめはちょっとクサすぎて苦笑した。お盛んな対談の内容を裏付けるかのように、エルノーの若い彼氏が場に現れて食事に合流すれば、かたや小池は負けじと「約束がありますので」と、席を立つ。ライターはそれを、色っぽ約束があるかのようにほのめかして書く。もちろんそういう香しい約束かはわからんが…。

今週の、眠りに落ちる前の握りしめ本は『黒後家蜘蛛の会』2であった。握りしめるばっかでほとんど読んでないのである。長編はおろか、短編一編をちびちび読む、と、そういう世界になってきました。そうそう、アシモフの『象牙の塔の殺人』(創元推理文庫)を買ってきた。「復刊フェア」でひさびさの重版なのだ。こういう時に買っておかないとね。

★6月14日(月)更新★★★★★★★★★

あわわわ、いやんなっちゃう。今まで、古本のダブり買いというのは時々やっていたが、恐ろしいことに雑誌のダブり買いをやってしまったよ。たった1週間やそこらの間に同じ雑誌を買っちまった、しかもマンガ雑誌!「YOUNG YOU」を風呂に入って読み始め、「ん、なんか読んだような話だなあ」と…。ボケの始まりってこんなふう?

忙しい時に限って本が読みたくなるという逃避現象の経験をお持ちの方は多いと思うが、今週まさにそんな感じ。『スローグッドバイ』(石田衣良 集英社)。著者初恋愛小説集。この人の本は安心して読める。こないだ戸梶圭太の“恋愛小説”を読んだので、比較読みしようと思ったのだ。3つに1つくらいはかなりクサかったけど、それでも気取った感じにはならないギリギリのサッパリ感が保たれている。『まぶた』(小川洋子 新潮社)。まだまだ小川洋子読み、止めないでいこう。短編集。『バックストローク』という作品が特に好き。しかし小川洋子って、そんじょそこらのホラー映画もぶっとぶ凄いシーンをいともあっさりと描くよなあ…。ネタばらししたくないので、どんなシーンかは書かずにおくが。

あと今週は風呂で『黒後家蜘蛛の会』2(アイザック・アシモフ 創元推理文庫)。アシモフというと一般的にはSFの印象が強いと思うが、これはミステリ。黒後家蜘蛛の会に所属するメンバーたちは、月に一度ゲストを一人招いて晩餐を楽しんでいるのだが、なぜかいつもだれかが「謎」の話を持ち出し推理合戦に突入。必ず正解を言い当てるのは会のメンバーではなく、そばで酒を出したりしてる給仕のヘンリー…というお約束も飽きず楽しませてくれる。クリスティでいうと「火曜クラブ」みたいな。たしかアシモフはクリスティのファンだったっけ。

『春情蛸の足』(田辺聖子 ちくま文庫)食べ物のあるシチュエーションの、連作小説集。「たこやき多情」「慕情きつねうどん」「おこのみ焼き無情」etc.。田辺聖子ってホントにささやかな食べ物をおいしそうに書く。たこやき食べたくなったぞ。

『歴史としての文藝春秋』(金子勝昭 日本エディタースクール出版部)は今週の「電車本」だったが。数回は開いているんだが、いつも寝ちゃってまだ20ページくらいしか読めず。読みやすいしおもしろいんだけどね。

なんかのPR誌読んでたら車谷長吉が森瑶子の『東京発千夜一夜』(新潮文庫)という超短編集をものすごく誉めてたので、通りがかりのブックオフで探したらすぐ見つかった。105円。上下巻なのか。1冊に100編収録。おもしろかったら下巻を探そう。トニー・ケンリックのスラップスティックミステリ『俺たちには今日がある』(角川文庫とっくの昔に絶版)も見つけた。中学生の時題名の元ネタも知らずに武蔵境のはずれの書店で『バーニーよ銃をとれ』を買ったのがトニー・ケンリックとの出会いだったです。桜井一の表紙イラストが好き。

★6月7日(月)更新★★★★★★★★★

『マガジン青春譜 川端康成と大宅壮一』(猪瀬直樹 小学館)おもしろくって一気読み。この二人、同時代人なんだねー。大阪の、同じ中学に通ってたのだそうです。学年違うのでお互いのことは知らないものの、大宅壮一は少年雑誌の投稿コーナーの常連だったんで、ちょいと中学でも名前が知られていたらしい。二人の生い立ちが綴られていくのだけど、なかなかなかなかクロスしなくて、じれったくも先が読みたくなるのだった。ノンフィクションというより、小説みたいに書かれているのもイイ。読んでるうちに菊池寛に興味がわいてきた。で、図書館で『歴史としての文藝春秋』(金子勝昭 日本エディタースクール出版部)を借りてきたよ。本が本を呼ぶ。

『桃紅 わたしというひとり』(篠田桃紅 世界文化社)ふう〜、やっと見つけた。著者は世界的に知られる抽象水墨画家。現在90歳。美しい人です。作品はエレガントかつ、ダイナミック。残念ながら生で見たことない。エッセイ集成。彼女の言葉も作品と同様に力強い。

『長沢節 伝説のファッションイラストレーター』(河出書房新社)ううーん、河出書房新社には次々にムック本を買わされるなあ。それもほとんど弥生美術館の展示とのタイアップもの…。長沢節って好きなんだよねー。本人のたたずまいも、エッセイで書いていることも、もちろんイラストも。それにしても若い頃の写真のカックイイことったら!

『小さな町で』(シャルル=ルイ・フィリップ みすず書房)実はくそ古い岩波文庫版を持っているのだが、改訳版ということで図書館から借りてきた。こういうささやかな小品集の魅力を説明するのは難しい。内容を説明しようとすると、田舎の、貧しい暮らしをする大人や子どものスケッチというしかないので…。はは、タイトルの通りですね。が、その中の、淡々としかし的確に現される感情の動きに、読むほうも心動かされるのですよ。私が最初にフィリップの小説を探してきて読んだのは高校生の時。今も愛読の書である井上靖の自伝的小説『夏草冬濤』(『しろばんば』の続編ね)の中に、フィリップが出てきたためだった。旅行に出かけた先で、主人公の友人が『ビュビュ・ド・モンパルナス』など携行しておって、夜寝ながら読むシーンがあるのでした。の、ように、本は本を呼ぶ。

前から気になってた『マンガ原稿料はなぜ安いのか?』(竹熊健太郎 イースト・プレス)をようやく買って読み始めたもののイマイチ。既にどっかで聞いたような話ばっかで目新しくないのだ。「えっ!」と驚くような舞台裏が暴露されてるでもなし、分析っぽい文もハッとする切り口があるわけでもなし。この人多摩美の非常勤講師なの、ふうーん…。

 

 

★6月28日(月)更新★★★★★★★★★

※少々お待ちください

★6月14日(月)更新★★★★★★★★★

やっと人里に帰ってきたワーイと思ってたら、またお山に逆戻りって感じの1週間でしたゾー。たぶん何も読んでないゾー。いったいナニやってたんだろうニー?さっぱり思いだせんのジャー。ホントなんジャー。自分ながら感心なんジャー。きょうの事は覚えとるんジャー。レコーディングをしたんジャー!5時間ばかりで3曲をゼロから作って、もう録っちまったンジャーニー!タイトルは「EXOTIC BEATNIK BOY」「きみほんとにすてきだね」「ロストハイウェイ」なんジャー。日本ロックフェスの時に会場で売るシングルCDRの、いわゆるB面曲なんジャヨー!カツ丼を出前でとって食いながら詞を書いたのだゾヨー。オレもレコーディングで初めて、ほんの少しだけギターの腕前を披露しとるんジャゾー!みんな気が向いたら買ってくレロー。たノンダヨー!ジャ、オヤスミー!

★6月7日(月)更新★★★★★★★★★

オロオロ。6月中は猛烈に忙しく余計なことを何一つしている暇がない、と占いに出た。そう言われるとそんな気がするもんで、オレはもう既にアップアップ状態なのテス。本当は「冬のソナタ」を一話から最終話までぶっ通しで見たり、温泉につかったりしたいんだけどナー。今週ヨンでた本は「メルロ・ポンティあるいは人間の尺度」(X・ティリェット/大修館書店)「反哲学史」(木田元/講談社)「比較思想序論」(三枝充○/春秋社)テス。○の部分は書けなかったヨ。「直」の下に「心」と書く字でした。アホですいませぬ。

★6月28日(月)更新★★★★★★★★★

今回取り上げる一冊は、読みようによっては「ものすごくナイーヴ」あるいは、イヤ な形容をすれば「愚直」な本である。タイトルからして、「わっ、はずかし」とか、 平台にのってたのでとても目立っていたのにもかかわらず、書店で見て思わず購入を ためらってしまった。『平和と平等をあきらめない』(高橋哲哉・斎藤貴男 晶文社)。ためらったまま、三省堂から戻ってきたわしに、偶然「すーちゃん、コレ読む ?」と、まさにこの本を差し出す同僚がいた。このひとはわしによく本を貸してくれる、通称「カリー・ホッター部長」という人物である。「あ、読みますソレ」。自分では「あ、この二人の対談なら読んでみたいな、でも買うのはずかしいな」と逡巡した本が拝借できて、渡りにフネであったので、早速読んでみた。ああ。このタイトルはやはり一種の「開き直り」なんだろうか。いやそうじゃない。「高橋・斎藤コンビ」は真剣に、「平和」と「平等」を希求しておるんじゃな。このタイトルで、もし 80〜90年代に本書を刊行したとしたら、「わっ、だっせ。そんなコト、いまさら本にするかフツー」であっただろう。いや、通勤電車でこの本(カヴァーをはずしても、表紙にタイトルがどど〜んと大書してある)を開くとき、「あら、この人、宗教書なんか読んで」「池田大作の本かな」とか思われてるんじゃないかと、ちょっとビ クビクであった。はい。・・・そういう失礼な感想はここまでね。

なぜことさら、 「平和と平等」などと臆面もなく宣言するのか? ソレは、このニホンという場所 で、その二つがドンドン有名無実の概念になりつつある、いやもうなっている、てい うかもう無くなってて、すでに取り返すのが難しくなってるんじゃないか、という危惧が、本書の二人の論者を駆り立てておるからである。本当にそうなのか? イラク 派兵はやっぱりどうしようもなく交戦権の容認になるのか? 「君が代」を生徒に唄わせない教師は容赦なくクビになって、それでもいいとみんな思ってるんか? 新聞 やテレビなんぞをあんまり見ないわしのような者には、果たしてどの程度、シャカイのみなさまが憲法第9条改正やら教育基本法改正などに同意しておられるのやら知らんが、この本を読んでいると、「まあ、最低ここ10年の間には自衛隊は「日本軍」 になり、中東や北朝鮮などへ、アメリカの同盟軍としてジャンジャン攻め込むようになるんじゃないか。どうも、いま政権を握っている人たちは、ご自分の利権を優先するため、「新自由主義」の旗印のもと、若い男たちを従順な愛国マシーンに教育して おクニのために死んじゃえ死んじゃえ」と、基本的には考えているんではないか、と いう気分になる(いやー、わしって暗示にかかりやすいから・・・)。「ゆとり教育」とかゆうのも、「いいのよ、因数分解や三次方程式なんか出来なくても。せめて 学校にはちゃんと行って、みんなと一緒に君が代唄おうね。成績なんか悪くたって、 キミたちの世代は人数少ないから、大学のほうから「ねえねえ、経営苦しいの、お願い入ってちょうだい〜」って寄ってくるって。ベンキョウもいいけど、ま、まずは公 徳心・愛国心を身につけなくっちゃね。ハイ、じゃ、まずは教育勅語ね」っていうことでしょうか。

ところでなぜ、80〜90年代だったらこの本のタイトルが「だっせ !」になっていたかというと、その当時はまだ、「平和と平等」=戦後民主主義の残滓はソレなりにまだ健在だったからである。その残滓に寄りかかって、「気分はもう 戦争」とか、「銃を我らに」とかオチャラケを言っていたのが、わしら80年代の ケーハク世代であった。講義の後、夜な夜な六本木に繰り出す快楽の使徒のごとき同級生たちを苦々しく見送りながら、「てめえら、アフガニスタンでも行ってソ連軍の機銃掃射でも浴びてきやがれ、この平和ボケ飽食野郎どもがっ!」とココロの中で叫 び図書館へと消えていったわし。ああ、そのころ、「平和」は忌むべきステレオタイ プであり、「繁栄」を謳歌する者たちの普遍的基盤ですらあり、繁栄を享受できない者(わしのような暗い学生)にとっては、呪詛の対照ですらあったのでした(そんなんで、ナニが「平等」だい・・・嘆息・・・)。

ひるがえって、本書の話者ふたりは、「ポスト団塊直後世代」として、「ボクらは戦後民主主義の恩恵を全身で受け止めた世代」と、臆することなく宣している。それゆえに、昨今の政治社会の風潮は、 その時代に自明の権利として受け取られていたことを次々と切り捨てていく、どうにもやりきれないものに思えてならない、というワケなのである。「国民を何かから守 るために、権力者は戦争をしたりは絶対しない。権力者は(血縁者をふくめて)自分 自身が戦場に出て行くことは決してない。殺されるのは一方的に、僕たち国民それ自身だ。いいのかそれで!」というのが、本書の究極のテーマである。

やばいぜ若ぇやつらよ。わしはもう40台だからいいとしても、チミらは10年後、the soldiers of japanese armed forces として、アメリカやイギリスの兵隊さんたちと仲良くやっていかねばならんのじゃよ。体力・知力に自信はあるかい?英語はちゃんと喋れるかい? それで復員してきたら、彼らとバンドでも組むがいいさ、ま、絶対的強者アメリカとつるんでれば、そんなに命の危険もないよ。兵舎の食堂で、「ヘイ、 ジョー。気分はどうだい? アッチのほうはご無沙汰なんじゃねえのか〜い?」「オオー、マサノブ! 今夜もあのパンパンのとこへしけこむのか〜い? このスキモノがよう、イエー」なんて会話ぐらい、交わせるようにしといたほうがいいぜベイベー、へっ!

★6月21日(月)更新★★★★★★★★★

わしの部屋のトイレにはいろいろなマンガが積まれている。さいきんは『のだめカンタービレ』が9巻揃ったりしている。そしていま、わしの中では「よしながふみ」の 諸作品が、大きなムーヴメントを引き起こしている。だがしかし、先月より一冊だけ、マンガではない本が常備されておる。その本の名は:『絶対毎日スエイ日記』 (末井昭、アートン)である。なぜお便所にあるのか? 900ページ(しかも紙が 厚め)という大部な本なので、持ち歩けないからなのじゃ。うんにょ・おしっきょ (わしはオンナのように座ってホーニョーする習慣がある)などをするときに、よっこいしょ、とこの本をヒザの上に置いて、読むのじゃ(たまに休日の朝など、缶 チューハイを伴うこともある)。たのしい。うれしい。白夜書房取締役・末井氏の日常が淡々と、トツトツと、つづられている。文章は別に巧緻が凝らされているワケで も、文飾がちりばめられているワケでもない。じつに「あるがまま」の記述がそのま まに報告されているだけ。そしてところどころ、末井さんのセンチメンタリズムがほのかに薫る、懐旧の追憶記がはさまっており、そしてまた、日々繰り返される狂乱の酒宴のありさまがつづられる。

末井氏の日常を構成するのは、「旅」であり、「酒」 であり、「妻」であり、「会議」であり、そしてなんといっても、「パチンコ」である。わしはパチンコというものをやらんので(ときおり、酒に酔うとオシッコをするついでにパチンコ屋に入り、ついでに2000円くらい打ってみることはある。もちろんスグ負ける)、この本で頻出する「CR」とかいう機種の(?)タームや「この台はよく回る」とかのいいまわしのイミは不分明なのだが、「かつて住んでいた思い出 多い土地を訪ね、ついでにパチンコをする」という、白夜書房のHP連載のための取材 日記などは、読んでいてじつに滋味深いものがある(南武線線沿線あたりの街の悲しみ が味わい深く伝わってくるので、その街に出かけてみたくなる)。神蔵美子さんの写真も数多く収載されており、その愛の暮らし/酒席続きの暮らしもほの見えて、以前 このコラムで紹介した神蔵さんの写真エッセイ『たまもの』の世界をホーフツとさせ る局面もある。

いま、220ページくらいのところを読んでいて、2000年10月 の時点にさしかかっておる。なにぶん近過去の日記だから、「このころわしは、何をしておったかのう」と読む者自身の過去も顧み重ねつつ読むとまた楽しい(このころわしは、「悲しみ荘」という風呂ナシのアパートに住んでいた)。「公表を前提とした日記」という性格上、それほど赤裸々にぶっちゃけた感情の流露はないのだけれ ど、数奇かつ生の彩り濃密な過去に裏打ちされ、アラーキーや数々のパチプロ、雀士 など、怪人色ゆたかな人脈に取り巻かれてはいても、というかそうだからこそ、末井という人がいかに「まっとうな人柄」を保持できたかがスナオに伝わってきて、「ジ ンセイ、まだまだ捨てたモンじゃない」と、安らかな気分でご不浄を後にできる、精神衛生上すこぶる清涼なる優良図書なんである。これで二千数百円なら、じつにじつに安い。 あと、大きなモンダイをはらんでおる著作なので次回にまわすが、『平和と平等をあ きらめない』(高橋哲哉・斎藤貴男、晶文社)を読んでおる。一見ごくナイーヴな反戦論・政治社会批評でありながらも、「ハッ」とする発言が随所にちりばめられてお り、その看過すべからざる知見を、次回にご紹介したいと思う。

★6月14日(月)更新★★★★★★★★★

おお。いま読んでいるモノ、それはゲラじゃよ。そして原稿じゃよ。校了日が迫って おるんじゃ。今週は徹夜の日もありそうじゃ。でも本は読まねばの。長谷川宏『丸山 真男をどう読むか』(講談社)じゃ。いやいや、まったく丸山真男はえらかった。えらかったけど、ちょいと物申したいところもあった、という理由で書かれた本じゃ。 丸山真男というと、吉本隆明が「あいつ、お高くとまりやがって、チョー気にイラねえ」とかみついた人として有名だが、なんでそうなのか、この本を読むとよくわかる。というか、ま、隆明さんとしては気に入らないだろうな、と思わないではいられないキモチにさせてくれる。ようするに、「無自覚に生きる」という姿勢が、丸山さんには気に入らず、「何事も自覚的にキッチリなし得る」という姿勢が、吉本さんにはガマンならなかったのである。「この世のことはおしなべて「個」の独立した責務感によって行われなきゃいかん。なにか特別な存在を措定して、ソレに準拠しながら 生きていくのはナマケモノなのでダメなのにゃ」というのが、丸山真男の立場である。

高校生のとき、課題図書であった丸山真男の『日本の思想』を読んだときには、 「ふむ、日本の知識人もひたすらいわゆる学究的に、「タコツボ」の中に閉じこもったまま研究ばかりしていてはならん。大きな組織に寄りかかってばかりでもイカン。 独自の道を切り開く、解放された姿勢を忘れてはいかんのだ」とか、スナオに思った もんだけれど、さすがに体力が衰えてきた最近では、「まあいいじゃない。家族も養わなきゃいけないし、誰も読まないような専門的な論文も、チョボチョボ書いて業績つくらなきゃ」とダキョーしてしまう。 丸山氏がかつて説いた、「開かれた、しかも独立自尊の知識人」像は、2004年のいま、はげしく時代錯誤になりつつあると思う。知的レヴェルの著しい低下、を大学人は嘆息して訴えるけれども、もはや「知性」とは追い求め樹立するものではなくなっている。大学教育とはなにか、と問われて、わしならばこう答えよう。「時間つぶし」だと。もはや大学は無用の長物だと、わしは感じている。かといって、感覚的生活にどっぷりとして、論理的整合性を看過しつくしてもイカンとは思う。

この本の著者、長谷川氏は、自分で塾を開校して自分なりの教育をコドモらに施している人である。そういう人が、たとえば本書のように丸山氏を論じるとすれば、やはり「それだけじゃダメだったんだよ、丸山さん」という論調になってしまうんである。そうし て、12歳で同級生の首を明らかな殺意のもとにかっ切ってしまうコドモが生じている現在、追い求めるべきは「知性」どころではない。「自分の親はなぜ自分を生んだのか。友達の親はなぜ友達を生んだのか。いなくても別にかまわない私たちは、なぜここにいるのか」をはっきり認識することだけが必要なのにゃ。それは倫理以前の問題であり、「かけがえのないモノなどこの世の中にない。ないのであるから、自分は自分の存在をかけがえのないモノにするべく他者に暴力を行使してはならない」ということを分かる必要があるのだ。日本人には、「近代人としての自立」はムリだと丸山氏は唱えた。いや・・・。もはや「自立」と「依存」の境界すらことさらに問う対照ではないのだ。ただただ、つねに他者とオノレをペアにして、ムジュンと時のムダ使いのなかを、よろめきながらシズシズと進んでいくしかないのじゃよ。お互いをホホエミで揶揄しながら。

★6月7日(月)更新★★★★★★★★★

なぜに、わしらは、生産されるCD/書籍の無用な堆積から脱出できないのか? そして、なぜ、若者はムカシの歌謡曲のカヴァーばかりやるのか? 生み出すモノがも う自分の中にないのなら、なにもしなければヨイではないか。なのに、彼らはあのよ うなヘッポココピーに走るのか? それは、彼らが「夢」を見ているからである。

さて『「パサージュ論」熟読玩味』(鹿島茂、青土社)のつづき。ベンヤミンは「歴史は、眠りから醒めた瞬間に、いま見たばかりの夢のことを語るように語られねばな らん」と言っておった。しかもソレは、「ニンゲンは目覚めないようにするために、 筋肉活動の微細な部分をも動員して、夢を見ようとする」というフロイトの理論にイ ンスパイアされているのだ。「夢」から醒めたばかりのように語る、とはどういうことなのか。歴史上の変化とは、つまり「覚醒」であり、まどろみと覚醒を分かつ瞬間 にこそ、記述すべき「歴史」の表現があらわれるからである。 そして昨今の若者は、70年代の夢を見続けたいと念じるがゆえに、「ブルーライト ・ヨコハマ」や「花嫁」や「贈る言葉」や「結婚しようよ」などを再演するのだ。おお、1970年、人々は来るべき21世紀にどんな想像をつのらせていただろうか。もちろん、限りなくSF的な未来像であっただろう。しかし現在、かつて人々が「21 世紀はこんなのがあるんじゃないかなー」と想像した、「ロボット、テレビ電話、空飛ぶクルマ、宇宙コロニー基地」などのイメージを、ほかならぬ21世紀に生きるわ しらは、もはや持っていない。

鹿島氏は言っている:「大人たちはだれ一人として、 自分たちが夢を見ていることをしらないが、母親の上着の裾につかまりながら、ドレ スのスカート部分のギャザーやプリーツの中に顔を埋めた子供は、のちに成人したあ と、それが十九世紀という一つの時代が見続けていた「夢」であったこと、そして、 自分こそがその夢の目覚めに立ち会うために送り込まれた(トロイの)「木馬」であったことを認識するだろう。」

おお、コドモたちよ、おまえらは目覚めねばいかん。「わたし待〜つ〜わ いつまでも待〜つ〜わ」などとムカシの歌をまどろんで唄っていてはイカンのだ。百恵の歌は百恵しか唄っちゃイカンのだ。なのに奴らは 「前世紀のギャザーやプリーツに顔を埋めたまま」、夢を見続ける。ということはア レかい? もういよいよ、「歴史」を変革するムーヴメントは発生しない、ということなのかい? 若者よ、もう待つな。親の世代がやっていたことを再現するのはもうやめたまい。「トロイの木馬」となってわしらを覚醒させてくれ。