BOOK BOOK こんにちは  2004.5月

 

このコーナーは、3人の精鋭が日々読んだ本の感想を書いていくものです。

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          アオウ           コマツ            スヤマ

★5月31日(月)更新★★★★★★★★★

すいてる電車の中で、私の向かいに座っている人の新聞の、読めるトコを目をこらして盗み読みしていたら、早川書房の広告に『ピアニストを撃て』とあるのを目撃(パソコン始めて視力が落ちるまでは、なにせ視力検査で一番小さいヤツまで見える裸眼を誇っていた私である)。映画がめちゃくちゃ好き…というわけでもないんだが、なぜか「!」につき動かされて、書店に寄りさっそく購入したです。ハヤカワポケミス。いやあ、トリュフォーの映画は有名ですけど、原作小説があったなんて知らなんだ。作者はアメリカの作家だが本国では全然売れなかったのに、なぜかフランスのセリ・ノワール(=犯罪小説)では大ウケ。トリュフォーの奥さんが「あんた、これおもしろいよ」と監督に渡したのがきっかけで映画化となったそうである。今週はやたらに移動が多く、そして眠く。薄い本なんだけど、ちょっとずついろんなとこで読み進め、数日かかって読了した。電車の中で取り落としそうになりながら読み、連日風呂の中で開き、リハとライブの間に読み。ミステリはもちろん犯罪小説と呼ぶのもちょっと違和感あるけど、いい小説だ。全体にハードボイルド(これもジャストじゃないが)的な空気間があって。やっぱアメリカ小説。

そして『検証・ハンセン病史』は現在寝しなに読む本。新聞連載をまとめた本なので、ブロックがこまぎれすぎるのがやや読みにくくって、時間かかる。半分あたりにさしかかって、どんどんおもしろくなってきた。ハンセン病の方々の闘争史として盛り上がってきました。

部屋の中で、70年代のミステリマガジンを「短編1個だけね!」と自分に言いきかせながら立ち読み。立ち読みでもないと、延々読んでしまいそうだから。

んで、前々から読みたかった『マガジン青春譜』(猪瀬直樹・小学館)ちらっと読み始めました(炒めものしてる時間を利用して)。これがいつまでも炒め物していたいほどおもしろいんだよね〜。しかしそれじゃあモヤシに悪いので、早々に切り上げる私であった。川端康成ってホントに素敵だよなあ。この「日本の近代 猪瀬直樹著作集」:ソフトカバー1300円ってお値打ちでいいわー。『ペルソナ』(三島由紀夫伝)も『ピカレスク』(太宰治伝)も読まなくっちゃ。

★5月24日(月)更新★★★★★★★★★

ライブ終わって帰ってきて、ここしばらく机の前の本棚の特等席(座った時目の前にくる位置ね)に居座っている『美の法門』(柳宗悦 岩波文庫)をパラパラとめくっていたら、ビシバシと心打たれてしまい、昂揚す。本書は名も無き人々が作り上げてきた「民芸の美」を唱えて(いわゆる昭和初期の「民芸運動」ね)美術界で賛否両論巻き起こした、かの柳宗悦による。民芸美論を確立してきた柳が晩年に到達した仏教美学により「美」を語るという内容である。私は10年前くらいに、自分の中でとある「美」の定義を試みたのだが、どうもこの一年くらいそれがしっくりこなくなっているのに気付き…新たなる自分の思う「美」の定義を言語化せんとしていたのですが…あった、あったよ、ここに全部書いてあるじゃんかっ!ってくらい、ピンときてしまってます。キーワードは「自在美」。そして「無碍心」。

引用:茶の方で「一期一会」という言葉があるが、これは普通には一生一度限りの茶会と思って心を入れろという意味にとる。それでもひとかどのよい解釈かもしれぬが、本当はそんな、なまぬるい解釈では駄目であろう。むしろ「一度」などという数の入らぬ世界に入れとの意味に受け取ってこそよい。「一会」とはまっさらとか、即今とかいう世界への示唆なのである。二度三度に対する一度ではない。一切の「度」が、現下の新鮮なうぶな「度」となる事である。「一度」は常度の新度である。だから「幾度も」がいつでも現下の真新しいこの「一度」となるのである。常にまっさらな茶を持つのが一会の真意である。「ただ一回のこと」と受け取るのはまだ浅い。むしろ度数なき度数とでもいおうか。そういう茶を点てろとの教えであってこそよい。厳しくいえば「一度すら起らぬ茶」があるが、これを「どうする、どうする」と私たちに迫ってくる公家と思う方がよい。「一回だけ」などという余裕をおくべき沙汰ではあるまい。

(中略)妙好人吉兵衛が、中風で病む妻を二ヶ年も毎日看護した。食事はもとより、室の掃除や下の始末まで、何くれとなく、皆一人で世話してやった。村の人々が同情して「さぞお疲れでしょう」といった。ところが吉兵衛がいうには「私には疲れというものがないのです。一度一度が為始めで為納めなので、為直しという事がないので疲れを知りません」といった。こんな大した答えはない。妙好人の宗教生活のすばらしさが躍如としているではないか。一度一度がはじめてやる仕事となっているのである。だから、昨日したとか、一昨日も行ったとかという思いがない。

(中略)益子に山水土瓶を画くお婆さんがある。何十年という仕事の生活の間に、およそ四百万個の土瓶に山水を描いたという。それこそ繰り返しの繰り返しだが、何辺同じものを描いても絵がだれていない。(中略)不思議にも繰り返しが、ここではやり直しではない。かえってそのままやり初めになる。普通なら嫌気がさして、投げ出したい仕事に違いない。否々、実際のお婆さんの話では「こんな仕事はちっともやりたかーねー」という所なのである。しかるに、やりたくてやる以上の自由さがあるのである。やりたい心などに囚われる縁がない仕事だともいえる。ここが微妙な点で「やりたくねー」仕事の間から生まれる自由さの不思議をつらつら想うべきではないか」

引用が長くなりました。

『私が見たとは言う』(エリザベス・フェラーズ ハヤカワミステリ文庫)名前はよく聞くものの、本を見たのははじめてだと思ったら、長らく絶版だったみたいね。これはひさびさの改訳版。オンボロアパートで起こった殺人事件。ひたすらに純粋なるフーダニット・ミステリ。こーいうの、なごむぜぃ!ミステリを読み始めた小学生のころの喜びを感じつつ…。

ところで小沼丹の全集が出るのですって(未知谷より)!?うが〜うが〜………いっさついちまんにせんえんかけるよんさつ。う〜んう〜ん…………。

今週のお買い物:『こんにちは!マドモアゼル』(内藤ルネ 河出書房新社)伝説のモーホー…もとい、伝説の少女文化イラストレーターの単行本完全復刻。値段見ないでレジに持ってったら3400円もしてびっくりした。レジ打ちのお嬢さんが「研修中」というバッチをつけてたので、「計算まちがってっぞ」と思ってたのだが!Rちゃん買ったかな?あと、ヘンリー・ミラー・コレクション『黒い春』(水声社)

★5月17日(月)更新★★★★★★★★★

『姫君』(山田詠美 文春文庫)短編集。うむ、山田詠美を読むのってものすごくひさしぶりだなあ。やはり文章がイイ。この人のは長編より、中編や短編のほうが好きだな。読んでて、たまにはっとする箴言的なセンテンスに出会うことがある。表紙絵=新垣仁絵の絵はどうも好きになれないな。

『容姿の時代』(酒井順子 幻冬舎文庫)おっ、「負け犬」よりも「少子」よりもこっちのがいいじゃん。キレがあって。ま、膝を打つ…というほどではないにせよ、生き方云々よりもこうした「ルックス」や「ブランド」についての話題のほうが、著者の観察眼や分析力が発揮されてると思った。

『わたしを見かけませんでしたか?』(コーリイ・フォード ハヤカワepi文庫)ユーモア・スケッチ的短編集。はあ、こういうの、弱いんでね。しかし。ミステリマガジンみたいな雑誌にちょこっと載ってるとか、アンソロジーの一編として読むときは輝いていたはずなんだが、まとめて一冊で読むには向かないかも。笑いのパターンが同じなのでだんだんかったるくなってくる。ヘミングウェイのパロディは全然おもしろくなかったな。所詮「訳文」読んでるせいかもしれないが。なんか、小学生とか中学生の時に、国語の教科書に載ってる小説をところどころ書き直してたみたいな(皆さん、やってたでしょ?)…アレに似ている。いや、いっそ小学生の時私が書いたアレのほうがおもしろいんじゃないか!? 『走れメロス』とかやったな。たしか書き出しは「メロスは爆笑した」だったと思うが(原文は「激怒」だよね…)。この本、そもそも南伸坊が解説を書いてるという時点でちょっと軽んじちゃう。私は南伸坊が嫌いなんである。双葉社文庫を買うとオビに伸坊のイラスト(あのオニギリ頭のヤツ)がのってるのが目障りで、殿様よろしく即刻オビをはぎとってゴミ箱に捨てるほどなんだ。何がそんなに気に障るのかはわからねども。

仕事でお会いしたイラストレーターのはまのゆかさんから、あの売れに売れてる『13歳のハローワーク』(村上龍 幻冬舎)をいただく。わっ、こんな高い本をくださるの!うれしい〜。いやぁコレ、いい本ですよ。かなり行き届いてます。

★5月10日(月)更新★★★★★★★★★

金井美恵子『愛の生活』(講談社文芸文庫)より、表題作だけを読んでみた。かなりひさしぶりの再読。ちょっと違和感を感じるが、その正体がよくわからず。私としては、金井美恵子は若いころのものより、最近のもののほうがよいように感じている。若いころのトンガリ方もそれなりに姿のよいものだったかもしれないけど、あまり若さの似合わない人である…からかな? 倉橋由美子を読み返したい気持ちになった。

出かけるついでがあり、前から気になってたブックオフ北烏山店に寄ってみた。ブックオフって、店舗によってアタリハズレ激しいが、ココはアタリでビックリ。ざっと見ただけなんだけど100円でアタリをけっこうつかんだ。ふふふ。今度またゆっくり行こうっと。私が感心したのは、小学生向けの少女マンガ誌でやってる「ミニモニ」のマンガの単行本が「成人男向けマンガ」のコーナーにも配置されていたことだ。まったく行き届いてますな。

小川洋子のエッセイ集『妖精が舞い降りる夜』(角川文庫)もここで仕入れた。薄い本なのだけど、ささっと読み飛ばせないタイプの本で、ちょっとずつ読み進めてるところです。

今週は、いろんな本を並行してちびちび読む傾向。『検証・ハンセン病史』(熊本日日新聞社編 河出書房新社)『右脳と左脳』(角田忠信 小学館ライブラリー)。あと、須山氏を通じ購入させていただいた『リズムはゆらぐ』(藤原義章 白水社)などを拾い読み。ちなみに最近の風呂本は『遊学氈x(松岡正剛 中公文庫)。60〜70年代伝説の雑誌『遊』から生まれた「(解説より引用)ピタゴラスからマンディアルグまで、古今東西より選ばれた巨人たち142人の消息を、著者自らの体験をまじえ融通無碍に綴った空前の人物譜」。

『夢の絵本 全世界子供大会への招待状』(茂田井武 架空社)がすばらしかった。戦前、挿し絵画家として活躍した茂田井武は夢を絵物語にしたようなものを好んだそう。本作はどこかラフスケッチ的なのだが…それでいてそのラフさが漫然としたものにはなってなく、グイグイと引き込まれる骨太な勢いを感じさせる。たくさんの独創的なイメージ世界の連なり、冒険活劇的でなくのんびりとした空気感。しかし、そこへラスト近くになり、突然つきつけられる現実感。昭和23年発表の『三百六十五日の珍旅行』が収録されてる『茂田井武画集(1946〜1948)』(JULA出版局)が俄然欲しくなってきた。

仕事で必要になり『限りなく透明に近いブルー』(村上龍 講談社文庫)を何年ぶりかに読む。悪くなかった。このデビュー作で芥川賞とった村上龍も今や芥川賞選考委員かあ〜!

★5月3日(月)更新★★★★★★★★★

先週から続く小川洋子かため読みキャンペーン。提供者W氏に感謝。小川洋子ファンのRさん、ぜひご意見ご感想をお寄せください、とリクエストしてみたりして。

『完璧な病室』(小川洋子 福武文庫)主人公の女性(既婚子ナシ)が、若くして死にゆく弟を、ひっそりとした清潔な病室で見守る…こう書いてしまうとなんだか古くさくセンチメンタルな小説みたいだけど、不思議とやらしくないんだよね。読んでないけど『世界の中心でなんとか』とかそーいうのとは絶対違うはず。病気の弟はめちゃくちゃ美しく描かれてるけど、根っこのところで「死」や「病気」を美化してないからだと思う。

『薬指の標本』(小川洋子 新潮文庫)依頼人のもってくるものをなんでも標本にする、謎めいた男。そして、そこに事務職として勤める、かつて事故で薬指の先をちょっとだけなくした女性。これもねえ、ともすれば不思議ファンタジックすぎになってしまいそうなんだけど、そこにしっかりと濃い情念が入り込んでくるので、読んでてホッとする。併録『六角形の小部屋』では、主人公が告白する、「結婚するはずだった男性への気持ちが一気に冷めた瞬間」についての話が秀逸だった。ある行為を嫌悪するのではなく、ある行為に集約された「その人への嫌悪」が明るみに出る…回想シーン。

★小川洋子の描く女性は、最初っから“美人”に思えないところがいい。それがだんだんと、読みすすめるうちに、たぶんだれが見ても誉め称える超美人じゃないかもしれないにしても、ある美しさをたたえた女性だろうことが想像されてくる、そのころに、その女性のどろりとした内面が呈示されてきて、その人物を想像されていく過程が楽しいのだ。

『ホテル・アイリス』(小川洋子 幻冬舎文庫)すばらしい! 「センセーショナルな死」もが当然の死であり、だれにも訪れるべき当然の死として存在する、その有様がたまらなくいい。恋も死も、当然。

★小川洋子の描くセックスについて。女性は、「抱かれる」。徹頭徹尾「抱く」のではなく「抱かれる」のだが、意識的に「抱かれる」ことでその実は「抱く」…その感じがここちよい。

『妊娠カレンダー』(小川洋子 文春文庫)芥川賞受賞作。先週引用した加藤氏の言うように他の作品に比べたら、やや凡庸かも。文体かな? 平坦というか、小川洋子にしてはテンポが軽い感じ。妊娠した姉に、たっぷりと農薬のふりかかったグレープフルーツのジャムをこしらえては食わせる「妹」(話の語り手)の悪意が注目されるところだろうが、もうひとつの読みどころは、妊娠をはっきり我がこととして捉えきれない姉のヘンな存在感。この姉が、妊娠を喜んだりはしゃいだり落ちこんだりするキャラクターとして書かれていたら、話はつまらくなっていそうだ。併録『ドミトリー』は、まさしく『博士の愛した数式』につながるスジの物語だと思った。

『余白の愛』(小川洋子 福武文庫)ここまで小川洋子作品を読んでいる間、「そうだ、村上春樹に似ているよなあ」とうすうす思っていたが、この作品は一番ソレっぽいと感じた。ラスト近辺の、「速記用紙がなくなるとともに速記者が姿を消す」あたり、非常に!『羊男』なんかを思い出す。この作品には、好きになれないところが一点。妙によく出来た13歳の甥っ子(別れた夫の妹の子…が、ひんぱんに訪ねてくるんだよ)の存在である。私が「海辺のカフカ」を好きになれない理由と、出どころは同じかもしれない。

読了してみたら本作の解説文で、小川洋子が熱心な村上春樹読者であることがあかされていた。ちなみに一番好きなのは「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」だって。わー、あたしもそうなんだよね〜! またまたちなみに…小川洋子のバイブルとも言える小説は金井美恵子『愛の生活』だって。家にあるから、次に読むのはコレね。

★5月31日(月)更新★★★★★★★★★

えー、『世界に対抗しうるのはオレだけである』。いやホントですよ!オレはメチャメチャケンカが強いんだけど、その理由を説明するなら「戦えるのがオレだけだから」ということになる。このオレの認識に一番近い発言をしたのは小川直也で、PRIDEの試合前の控え室で、対戦相手のステファン・レコに対し「強いだ、弱いだのって、くだんねえヤツだな。オレはもうそんなレベルにはいないんだよ!」と宣っていた。オレはホント!よくぞ言ってくれた!と快哉の声をあげたワケだが、その意味は試合の勝ち負けにない事は明白なのである。小川はその直後いともあっさりレコに勝利した。それまで小川直也を白眼視していた、ムードや流行り廃りに弱いパンピーどもは、いまでは手の平を返したように小川をもちあげている。小川が負けていたらどうだったか?たぶん小川はいともあっさりと「負けました。次がんばります」と答え、自分が観客に対して、面白く新しく衝撃的な負け方をしたかどうか、を検証するだろう。それがプロレスラーなのである。観客に、他者に何かを与えたか否か、それのみがポイントなのだ。巷間強いとされる格闘系選手の弱さ=貧しさとは自分の強さにだけこだわるカッコ悪さなのだ。ストイックな男に憧れる婦女子に告ぐ!それはすなわち「自分のことしか考えない」という構えなのであるぞよ。テレビの支配下にあるこの世界は、美しく、カッコよく、有名で、金持ちで、権力を持ち、強くイケてるものを賛美の対象としておるが、その実それらにはいっこう愛されてはいないし、ただバカにされ蔑まれているのデスぞ(笑)!スマップを中井くん(ちがったっけ?)呼ばわりするのは凡愚の極みで、彼は長者番付1位の血も涙もない(当たり前!)社長会長クラスの人物なのでアール!先日「パッション」というキリストが磔刑に処されるまでの数日間を描いたムービーを見たのだが、感想は「欧米人もキリストの何たるかをいっこう理解していないのだな」というものだった。キリストのことをオレもよく知らないが、神の子なんて、神がいないのだから存在するべくもなく、ただの私生児であることは現代人ならば容易に理解しうるところだろう。超能力的な奇跡をおこなったワケもないことは当然で、それは「ウチのお母様が台所で何故に奇跡を行わなかったか?」に等しいのだ。ただしオレは自分の母親に一度だけ奇跡を見たことがある。ウチの母親はオレに輪をかけてクールで非情で現実的な女子であるのだが、年の瀬も押し詰まったある寒い夜に父親を伴って、ボロ布団を抱えて外出しようとしておるのだ。

「お母様、この寒い夜にいったい何処へ?」

「浮浪者が近くの公園に最近棲みついています。この寒さでは死んでしまうかもしれない。使い古しの布団を持って行ってやるのです」

オレはそれをきいて即座に「コイツ、気がふれたか?」と思ったものだ。やさしいなー、なんてちっとも思いはしなかった。その発言その行動はこれまでの彼女とはまったく印象を異にしていたからだ。キリストのおこなった「奇跡」はおそらくやきっとこれに似ている。自分が飢えているのにそのパンを他人に与える事がいかに奇跡であるのか、現代人は当たり前に忘れている(戦争経験者よ、思い出せ!)。汚いいざりの老婆に手を貸し抱え起こすようなことを当時(無知で野蛮な二千年前のパンピーの世界!)の人間の誰が試してみたというのか。それこそが奇跡なのだ。貧しく身分の低い私生児の鍛冶屋(ちがったか?)が「すべての人間を赦そう」というのであるからタマげた話なのである。後世、キリスト教が何を言ってるのかは運良く知らないが、キリストは意識的にか無意識的にか、「神の子」に自らなったのである。だって「神の子」じゃなきゃムリでショ?逆説的に「神の子」にならなければその「哲学」も「行動」も示せはしなかったのだ。天啓すなわち、気がふれたのである。

オレが今週読んだのは「週刊プロレス」「週刊ゴング」です。

★5月24日(月)更新★★★★★★★★★

オりゃー!みんな元気ー?オレはマアマアだよー、といつもの挨拶も終わったトコロですが、オレが今日読んでたのは、ナント!「新日本プロレス25年史」テス。モチ古い本ね!オレは三銃士時代は全く知らない人間なので、とても勉強になりました。プロレスを勉強とか言うと抵抗のある人もいるかとは思うけど、法律の勉強をするのも、オウム真理教の人が教典を勉強するのも、オレがプロレスを勉強するのも広く見れば同じじゃない?、と思うんですが如何?あ、違う?そりゃスイマセン!オレ間違ってるかもテスね(笑)。まあ、とりあえずココ最近オレは、つねにプロレスから学びプロレスから思考のヒントを得ているのヨ。オレはファンタジー系の人間みたいに思われてるかもしれんが、実際はチョー現実派の血も涙もないハードボイルドなオトコなんよ(笑)。自分と関係ないことに一切思いを馳せる事の出来ない超正統なストロングスタイルなワケよ!意味分かる?(中略)この世には主観しかナイ筈なんだけど、もしかしたらもうチョイで客観に辿り着いてしまうかもしれんイキオイなんよ!意味分かる?キチガイっつう事よ!えー、メチャクチャな事を書くのはヤメにしてプロレスの話に戻ると、レスラーって神話時代の神々にちょっと似てるねー。なんかマッチョだし、ニンゲンより人間臭いしさー。なんかそういうのもオモロイね。K-1で負けちゃったけどザ・プレデターなんてスサノオノミコトみたいだヨ。日本の神様があんなにカッコヨクて知的な目をしてたらサイコーなのになー、なんて思いますヨ。あ、ポセイドンぽい気もする。あと読んだのは「プロレスファンよ、感情武装せよ!/ターザン山本」「真剣勝負/前田日明・福田和也」でしたー!モチ両方ともプロレス本テスねー。あ、ノモンハンについてアメリカ人が書いた本も読み始めたナー。コレはオレ的にどうなのかなー?ファンタジーとして読むのかなー?その辺り(オレに)興味深い。以上。

★5月17日(月)更新★★★★★★★★★

本ね。本、本と・・・・。何も思いつかない。参ったな、こりゃ。ま、イロイロ読んではいるけど、それについてアレコレ書く気分ではナイんよ、まったく。で、どうしようかな?何だろ?そうね、いま読みたい本でも書いてみようかな。えー、「第4の警官」。それから・・んーと・・・・「若気の至り」あとは・・・・・んー・・・あ、スティーブン・キングの「ドリーム・キャッチャー」読み始めたのヨ!1巻がなかったのをアオウがくれたンよ。いい人ネ!ああ、いいこと思いついた!久しぶりに新刊書店でもブラついてみようじゃないの!

ギャー!これで終わりにしようか、と思って左右を見たら、なんだかいっぱい書いておる様子じゃー。アホー!バカー!ヤメロー!と一人騒いでもムナシイだけ・・・トホホ。何しようかなー、と。フーン、フーン。ブブーン!ブッブーン!なんてね・・・オレは何をやってるんだろう?あ、そうねー、左右のヤツらが書いてるのをマネて読んでみたりしてー。いまパーッと見てみて、小川洋子と「パサージュ論」いってみっかー!とひとり叫んでみてもナンとも孤独。ナンだろねー、一体?なんだか気が急いてておちつかんのかも知れンねー。

いま、左見ててドキッとしたぜ。アオーが林真理子を誉めてる?!よく見たら山田詠美だった!あー、よかった!ホッ!でも何でいまオレはホッとしたんだろう?もー、頭がグルグルするー。楽しい!バイビー!

★5月10日(月)更新★★★★★★★★★

ハロー!オレの最近のお気に入りのSHOPを紹介しまショ!それは高円寺の「ZQ」テス。いつもココに行くと、予定以上に買いモノをしちゃって、明日の生活費もヤバイ、といった感じになっちゃうのヨ!レコパトネタや、中古の本やビデオ、わけのわかんないモノがいっぱいあって楽しいテス。そうそう、プロレス本やプロレス雑誌等もあって、そこもとてもイイ!イイ!橋本真也のCDも壁に貼ってあった。今回はちょっとレコパト風に、先日「ZQ」で買ったブツを紹介しちゃいマス。

投げたらアカン!/鈴木啓示 105円 鉄人中の鉄人なのダ。くわしくはアオウに訊け!

ピクニッキズム/ばばかよ 525円 たしか松本亀吉さんの友人でアル。スゴイ人なのではないか?とGET!

真剣勝負/前田日明・福田和也 105円 前田!

ポップ中毒者の手記2/川勝正幸 945円 1を買ったが未読。なのに2もGET。

別冊宝島 僕たちの好きなTVゲーム 80年代懐かしゲーム編 420円。

わー、ファミコンやりてー!!しかしオレはファミコンに手を染めるのもやはり遅かった。たしかドラクエの2か3が出た頃の事だと思うが、オレはたしか電話口に出た旧知のドラクエ作家堀井ゆーじさんに「最近もうかってんだってー?」と言ったのだった(笑)。今、考えるとオソロシイが、無知とはそれぐらいモノスゴイものなのである。みんな、誰に何言ってるかワカッタもんじゃないんだねー、つってオレぐらいのもんかナー(笑)。堀井さんの返事は、たしか「イヤイヤ、そんなでもないよー」だったと思うゾ(笑)。

あとまだ欲しい本があったんだケド、金がなくて、次回にしようと断念。一応書名を記すと『悪質借家人を追い出す家主の正攻法』『片づけられない女たち』『河原官九郎』。オレが買うから、みんな買っちゃダメだよ。もし買ったら殺すヨ(笑)。あ、河原さんの本はやっぱり買ってもいいデス。オレ、ここ「ZQ」のフリーペーパーに何か書くかもしんないンで暇な人はチェキッてみてね!

★5月3日(月)更新★★★★★★★★★

イエー!オレ、ちょっと今回お休み。「池袋ウェストゲートパーク」とか田口ランディとか哲学の解説書みたいのとか読んだんだけど、あまりそれについて書く気が起きないんだわ。それより新曲2つの歌詞のほうが大事で気になる。タイトルは決まってて「愛と青春の80’S」「問題児」。

 パラダイス・ガラージの豊田さんと新宿でお茶をしてたら、いきなり「読んだ?」って言うから「何を?」って尋いたら「BUNGEI」に連載しているという自分の小説の事らしい。「しょってるなー」とは思ったが(笑)、確かにちょっと気にはなった。中原昌也さんと仲良くならんで掲載されている様子だ。「コマツさんは小説とか書かないの?」って言うから「書く前に自殺する」と答えた。そりゃ、よいのが書けて評価されたら楽しいとは思うけど、たぶん小説は自分がものすごくさらけ出されるようでオレにはちょっとキビシイと思う。小手先で隠したってたぶん丸見えだ。その点バンドはまだ夢がある、というか虚構の世界だなー、と思う。オレは甘ちゃんのウットリ系だから今はまだムリだ。でも作家なんてステキ!死ぬまでに一度はトライするよ、きっと!。そりゃもうコソコソだろうけど(笑)。

★5月31日(月)更新★★★★★★★★★

『「パサージュ論」熟読玩味』(鹿島茂、青土社)の新装版が出た。たぶん岩波文庫 版が5冊出そろったので、この96年に出ていたこの本も再発されたのだろう。前書きに、「二〇世紀最大の思想的課題を秘めたゲーム・ブック、あるいは本の形を取っ たロール・プレイング・ゲームのようなものだといってもいい」と書かれてあるのを読んで、「ホホー」と思い購入した。例によってまだ三分の一くらいしか読んでない ので、ちゃんとした報告は次回にまわすけれども、とにかく、くだんの『パサージュ論』のほうもまだ第四巻の途中で、しばしば読んでいて「わしはなんでこんな引用文ばかりの本を読んでるんだろう」と、いささか途方にトホホな思いにとらわれるため、何らかの「指針」が欲しくなり、鹿島氏のこの本で『パサージュ論』の読み方の一例を教示してもらおうとしている、というのが正直な動機である。「ゲームの本」 と言い切られると、少しは気分もラクになってくるというものだわいな。

ベンヤミンは、「事物に憑かれたコレクター」であった。のみならず、「裸体の異性よりも、最新のモードをまとった女性のからだにセックス・アピールを覚えるフェティシスト」でもあった、という。おそらく、このフェティシスムに裏打ちされた 「唯物観」ゆえに、生身の女性からはあまり愛されなかったそうな。「その精神、その会話はじつに印象的であり、魅惑的でさえあったが、男性としてのかれには少しも引かれなかった」と、いろんな女たちに評されてしまう。「ヴァルターにはいわば肉体がなかったのよ」・・・ベンヤミンが女達に求めていたものも、「肉体」とは別の モノ=事物としての女性のフィギュアだったのかもしれない。 くわえて彼はすさまじい蒐集家であった。とくに古本の。鹿島氏が分析するところでは、古書のコレクターは「古い」ゆえに古書を集めるのではなく、1.とにかく「自分が所有する」ことではじめて、意味をもつのが古書 2.古書をもとめることで、 「古い世界」を「新しく」する3.蒐集家は「子供」である、子供は古い物を古い体系から切り離して、自分だけの新しい価値体系に入れてしまうから・・・。稀代のコレクターである氏のおっしゃることだから、この分析は正鵠を得ているのであろう (ちなみにわしは古本という物にほとんど価値を見いださないんだけど・・・でも、ガキのころはいろいろと集めて楽しんでいたよねえ、「仮面ライダーカード」とか。 サッポロ・オリンピックの競技種目シンボル王冠とか。あ、若い人にはナンのことやらよねえ)。

子供を古い/新しいというふたつの意味を自由に行ったり来たりできる 存在、と定義するなら、ベンヤミンはまさに「子供」だった、ということになる。その自覚は本人の中にもあった。「妖精=子供たち」がからだの中に棲みついていて、 <所有することこそが事物に対して示しうるもっとも親密な関係である>、とささやいていたそうなんである(ちょっとベンちゃん、電波来てる?)。そのとき、ベンヤミンの周りには、子供時代から蒐集されてきた何千冊という本がうずたかく積まれていた、という(なんか、「我々」というバンドの歌唄いの生活を書いているような気 がしてきたぞよ)。 鹿島氏はまた、『パサージュ論』は「蔵書目録」のようなものであり、また、パリ国 立図書館の蔵書から執拗にそのまんま抜き書きする、という作法は、「しかじかの本 を「所有する」ということとパラレルだ」とも言う。この異様な引用だ(ら)けの膨大な書物は、そうすると、蒐集する行為に歯止めがきかず、ひたすら集め続けたことのなれの果て、ということに他ならないんだろうか? あ、いま思い当たったんだけど、そういや、わしもコレクションしてるなあ。「有名店のラーメン再現カップ麺のパッケージ・コレクション」。これも、もうそろそろ卒 業しなきゃな。

★5月24日(月)更新★★★★★★★★★

『「知」的放蕩論序説』のつづき。この書物のクライマックスである「第3部」を読 んでいて、表層主義的言説が政治的言説をはるかに凌駕して人々の口にのぼっていた時代のことを懐かしむ気分にひたった。それはいつの時代? わしがハタチだった80年代初頭から半ばである。幸福な、軽薄な、凡庸な時代であった。で、その表層主 義的傾向を成り立たせていたのは、もちろん70年代的汗と涙クサさへの嫌悪と拒否 の面もあったにはあったんだが、それ以上に、「ものごとには正義と悪の対立もな く、ウソとマコトの区別もなく、すべては等価にして表面上の事象にすぎない。ボクちゃんたちはその表面のみを凝視し、味わい、楽しめばいい。」という通念が支配し ていたがゆえなのだった。蓮実先生が、よく「快楽」というコトバを使っていたころ。で、それはまた、記号論とロラン・バルトがいまより30倍から50倍くらいもてはやされていた時代だった。それは、「見ること」がニンゲンの五感のなかでもっとも重要だと考えられていた時代であった。ああ〜ん。そう。「見るもの=見つけるもの=楽しいもの」が人類の周囲にはまだいっぱい存在していたんだ。みんながみんな、なんか面白いコトなあ〜い? と探し回っていた。そのころわしが参加していたバンドの歌詞にこんなのがあった:「頭の中にあることは 雑誌の中のヒーローさ  おいらニヤニヤむかついて 宝探しに無我夢中」。

この『「知」的放蕩論序説』には、その時代の残映のようなものがほの見える。というか、蓮実先生はやはりその時 代のヒーローだったのだ。この本は蓮実氏と、5人の対話者との間でかわされる、信じがたいくらい知的にスパークする目も彩なコトバの速射で成り立っているんだが、 5人のなかの数人はあきらかに蓮実的表層言説に違和感を抱いている。その違和感を 具体的に象徴するのはジャック・デリダをめぐる、あるいはモーリス・ブランショをめぐる解釈の相違であり、昨今のカルチュラル・スタディーズやあるいは「共同体」 論などへの着眼点の違いである。ひいては、「9月11日以後」を世界の転回点とみなすか、それとも蓮実師のように「それは結局「近代」の継続にすぎない。そんなに 騒ぐな」とするか、という大いなる齟齬にもつらなっていく(ただ、この本でも、 「9・11の共犯者はハンチントンだ」とされていて、その点では先月このコーナー でとりあげた、『「文明の衝突」の欺瞞』の主張に通じている)。

誤解をおそれずに言ってしまえば、蓮実氏の言説は「この世に生きることが快楽でしかありえない」と 思えるひとの言いざまであり、「自信に満ち、その自信にふさわしい業績を数多作り上げた者」のみが発言しうる「反・時代的挑発」なんである。そう。「挑発」も先生のキーワードだった。現在、思想関連分野のメインストリームのひとつである「ポスト・コロニアリズム(ナショナリズム研究といってもヨイ?)」は、所詮「ケチくさ い疎外論」でしかない、と切り捨てられる。いやあ、やっぱ、こんな一刀両断、ハスミさんじゃなきゃ言えないよ、とわしなんかは小心モンなのでビクビクしちゃうんだ けども。・・・と、いうことで、さあ、はたして、世界はもういちど「あのころ」の ように、先生の挑発に見合う、幸福な面白半分に立ち戻ることができるのだろうか?  そうして、『監督 小津安二郎』を読みながら、なんの屈託もなく「見ること」の ためだけに、映画館へ足を運ぶ日々をむかえられるのだろうか。そしてまた、あの浩瀚な『凡庸な芸術家の肖像』を、間接照明の部屋でワインを飲み、フリッパーズギターを聴きながら、ゆったりと繙くことができるのだろうか? いまひとたび・・・ (落涙)。

★5月17日(月)更新★★★★★★★★★

『「知」的放蕩論序説』(蓮実重彦、河出書房新社)を読んでおります。まだ全部読んでいないので、ここに報告するのは気がとがめます。このコラムを書くために一週間で数冊の本を読破してしまうあおうこずえのような芸当は、わしのような不完全なモノの脳髄にはフカノーなので、おゆるしくらさい。だから、この本のちゃんとした ご報告は来週にいたしましょう。いま、カイシャでこれをポコポコ打ってるのだが、 これから神楽坂までデザイナーに色校を見てもらいに行かなきゃにゃらにゃくて、しかもそのあと、馬場で札幌ラーメン「すみれ」を食わにゃきゃにゃらにゃいんにゃ。 あっ、いま、待ち望んでいた原稿も送信されてきて、コレもただちに入校せねばな。

・・・しかし、「知」の一字を最近、久しぶりにこの書名で見ましたな。80年代には盛んに見ましたが最近見ませんな。「知」は死んだ、と語られておったのが90年代だとすれば、00年代になって、そろそろ「知」も復権の可能性があるのでしょうか(ていうか、別次元の「知」の発生が待たれているのでしょうか?)。しかも「放蕩」ですよ。この書の中で、蓮実さん(学生時代以来のクセでついこう呼んでしま う)はご自身を「放蕩者」と称しておられる。その一方で、「自分が何学部の何々学科の学生だ」などと思っている18歳のニンゲンはもうダメだ、「優れた研究者はきまって「学部・学科におさまりがつかぬ放蕩息子のような存在なのです」18歳のニンゲン、それははたしてニンゲンなのか?このあいだ、ワケあって某大学の授業にニセ学生のフリをして潜り込んできたんだが、いまの18歳くらいの人、あれはいいね。ココロが洗浄される。そりゃ最初見たときはその無気力・無能力・無動機に「なんじゃ、こりゃあ〜!」とわが目を疑うが、慣れてくると、「ああ、コレで、これからのニンゲン(日本人)はちょうど寸法に合ってくるんだな」と思わされる。「もういいんだ、なにもかも」というツブヤキが安堵のキモチとともにはき出されてくる。 ・・・そしてこの蓮実さんの本を読む。いや。やっぱダメなんだ。無気力じゃ。

とにかく、「放蕩せよ」とセンセイは言われている。(どうすればいいのか、はわからんのだが)東京大学学長を4年間つとめたあとで、「さ、またまた放蕩するぜ」という 気概がみなぎっておるご様子。1936年生まれだからわしのオヤジの世代だ(なのに昨今の18歳より冴えてる&キレてる)。その挑発的なモノ言いは、さすがに健在 である。さ、このくらいにして、ラーメン食いに行かなきゃにゃ。あ、あと、ここん とこ、自宅のトイレで『絶対毎日スエイ日記』を読んでます。900ページ。持ち歩 けないからねえ。それと、風呂では『パサージュ論』の第4巻ね。

★5月10日(月)更新★★★★★★★★★

『文明の衝突という欺瞞』についてのレポートのつづき。この本は大きく分けて4部に分かれている。著者マルク・クレポンの論文にたいする、2人の論者からのコメント、およびそうしたコメントを受けてのクレポン氏自身の「翻訳論」という構成である。いいわね。こういうふうに、「フランスの先鋭的思想家のご意見紹介」だけではなく、それに応答する、日本人学者からのまとまった論考が一冊にまとめられているというのは。おそらくクレポン氏と訳者、および2人の論者の4名は賢密なネットワークでつながっておるのであろう。

訳者あとがきに述べられているように、この4者が共有している理念は「人文書による批判の契機、その信憑の回復」なんであろうと思うんだが、それぞれ、文学/哲学/人類学といった異なるフィールドに属しておられる。このかたがたが、異なる“文明同士”は戦いあうウンメイにある、と認識するハンチントンの『文明の衝突』に抗いの声をあげておるわけだが、けっきょく「文明」という名で特定される概念とは何なのか/そして〈異なる〉と目される「文明」は相互に如何に共存(交流)できるのか、を探るのが本書の眼目なんである。そして、そうした声をうけて、著者クレポンからの回答としての「翻訳論」。“文明とはすなわち、絶えざる翻訳の過程である”という視座がここで提示される。訳者の白石氏が語っておられたが、「文化とはあらかじめあるものではなく、“出会う”ことではじめて生じるモノである」

グローバル・スタンダードとしての“文化”概念は単一アイデンティティへの固執にしかつながらない。4人の論者をつなぐのは、単一性に起因する頑迷(批評性の欠落)に痛罵を浴びせることであり、このスタンスは、〈俺を見ろ〉〈勝利はつねに俺サマのもの〉と信じて疑わぬ、アイロニーの欠如=一元的思考(さらにイコール)「帝国」指向への“ダメにゃー”である。引用:「アイデンティティとは、つねに防衛の対象というよりも創出すべきものであり、翻訳はその創出の特権的な原動力のひとつである」(マルク・クレポン)

コレは人生論的に言えば「守るも攻めるもありゃしねえ。アンタのコトバが聞きたいだけさ、カモーン!」ということである。「あんたのことが気になるんだ。あんたのあんた性を感じさせてくれ…」どうしてヒトはこんな単純なコトを(でもホントは単純じゃない)まわりくどく自分にひきつけてこねくりまわしてしまうのか?“自分”にこだわる奴にロクなヤツはいないんだーっ。!

★5月3日(月)更新★★★★★★★★★

『文明の衝突という欺瞞』(マルク・クレポン著、白石嘉治訳、新評論、1月刊)を読んでおる。“文明の衝突”という本が98年に既に出ておって、この本のテーマは:“わたしたちは永遠に分かりあえない。なぜなら違う文明に属しているから”というものであった。この本の著者、サミュエル・ハンチントンはアメリカの軍事顧問なのだが、〈アジア〉とか〈イスラム〉とか〈キリスト教〉とか、いろんな文明に属している者同士は、必然的に争う運命にあるのであってソレはどうしようもないのじゃ、という主張をしておった。この『文明の衝突』(集英社から邦訳が出ておる)への反論として、上記マルク・クレポンの論述は書かれたのじゃった。

そもそも「文明」とは何を意味し、何を境界として“この文明”、“あの文明”の差は生じ定義づけられるのか? クレポンはハンチントンの運命論に疑義をなげかけつつ、「文明の衝突」を不可避とする立場は、けっきょくテロリズムの正当化に帰結するしかない、と論じておる。

そもそも、ハンチントン著『文明の衝突』は、2001年9月11日の出来事をもって“予言の書”としての世評を高めていた。クレポン氏はこれに対し“文明とはそも、あらかじめ混然とした透過状態であり、文明Aと文明Bの対決が歴史意識の根幹にあるといった認識自体が誤っている”として、ハンチントンに真向から反論を投げかけたのだった。

訳者の白石嘉治氏とわしは、最近急速に知りあいになっており、氏のトークセッションの報告などもあわせ、さらにつっこんだ報告をしてみたい。今回はGWであるということもあり、手短かにクレポンの本の紹介のみにとどめて、乱筆に書きなぐられたこの原稿を、あおうのもとへと送信するにとどめたい。語りたいことはまだまだあるのじゃ。

今週のお買い物:池内恵『アラブ政治の今を読む』(中央公論社、2月刊) 末井昭『絶対毎日スエイ日記(アートン、4月刊、写真:神蔵美子)後者は910ページという大著なので、こりゃお風呂で読むしかないわいな…。前者はかなりタイムリーかつアクチュアルな中東分析となっていて読みごたえありそう。この著者、池内紀氏のご子息で1973年生まれ。大佛次郎賞も取っているんにゃー。