BOOK BOOK こんにちは  2004.4月

 

このコーナーは、3人の精鋭が日々読んだ本の感想を書いていくものです。

   ほかの月を読む→ 2002.8〜9月 10月 11月 12月 

2003.1月 2月 3月 4月 5月 6月 8月 9月 10月 11月 12月 

2004.1月 2月 3月  →top

          アオウ           コマツ            スヤマ

★4月26日(月)更新★★★★★★★★★

『冷めない紅茶』(小川洋子)今は亡き、福武文庫。昨年末に読んだ『博士の愛した数式』がすばらしかったのでこれを機に、小川洋子の未読作品殲滅キャンペーンをはる宣言をし、W氏から何冊かまとめて借りました。この作品は芥川賞受賞作『妊娠カレンダー』の前に書かれたものだそう。加藤典洋氏の文庫解説によると、彼は小川洋子を基本的に「線の細い」作家だと評し、彼女が備え持つべきものは「線の太さ」ではなく「線の細さを保ったままの線の強さ」だと論じている。しかしながら、『妊娠カレンダー』は「線を太く」して書いたような感があり…その結果よくある凡庸な作品になってしまっている、と加藤氏はいう。彼は、世間的には『妊娠カレンダー』ほどの評価を得ていないが『ドミトリイ』こそが、「線は細く、しかし強い」という小川洋子のあるべきスタイルを確立させた作品ではないかと書いている。『ドミトリイ』読んでみたい! 『妊娠カレンダー』は昔読んだはず。さほど良いという印象は持ってなかったけど、比べて読み直したくなった。

『冷めない紅茶』にも、併録の『ダイヴィングプール』にも言えることだが、小川洋子の作品で好きなのは、安直に恋が進行しないところかな(『博士の〜』もソコが好き)。いずれも女性が主人公で、自分が恋人とうまくいってない時に自分の世界に招き入れてくれる男性に恋心を抱きそうで、抱かなかったり。とっくに押し倒してても不思議はないくらい相手のオトコが好きなのに、猛烈にとびこんでいったりはしなかったり。それは現状を壊したくないという臆病な気持ちからではなく、《その恋心がまだ恋として成立するタイミングでない》ことを、主人公が極めて正しく知っているからで…だから、陳腐な話にならないんだよな、と思う。物語が終幕した先にも、主人公たちの人生はあるのだと思わされる…そういう小説が私は好きです。って前にも書いたかも?

ちなみに。『冷めない紅茶』という作品には“冷めない紅茶”というモノが出てくるんだけどね…それは先週読んだ『蹴りたい背中』で“彼の背中を蹴る”シーンが出てくるのとはまるで違うよなあ、と思ったりした。

『結婚の条件』(小倉千加子 朝日新聞社)この本を読んで初めて知ったこと。女性的ジェンダーによる特権を捨てず、条件のよい結婚を望む志向を、女性学の世界では“短大生パーソナリティ”と呼ぶ…のだそうです!うへえ〜!それでいいのか!?この本を紹介してくれたSさんと「負け犬」の話になった。彼女いわく「結婚してない人を『結婚できない』と言い換えられるのがまったく大きなお世話」ということで、同感。酒井順子ってすごくコンプレックスある人なんだろうな。常々不思議に思うのは、酒井氏は自分を「オリーブ少女(非コンサバ)だった時点で、JJ女(コンサバ)とは違うモテない負け犬人生を歩むことになった」と言うておること。そういう割には酒井氏ってどっから見てもコンサバなんだけど…。写真見る限り、全然モードじゃないじゃん!似合ってるかどうかはともかく、林真理子のほうがまだモードですってばよ。私の想像では、酒井氏は「根はコンサバなのに、中学高校の頃、あえてそれはカッコ悪いと非コンサバの旗を持ってしまった」人なんじゃないかと思う。

『極短小説』(新潮文庫)アンソロジー。英語で55語以下(日本語訳だと200字程度)を制限として書かれた超ショートショート集。ショートショートっつうか、小咄。スヌーピーの作者チャールズ・M・シュルツ氏の作品が載っているのでファンは必読。だってだってなんたってタイトルが「暗い嵐の夜だった…」だもの!(これでわかる人には通じますよね?)

ゴールデンウィークはたいてい遅れてる仕事のつじつまを合わせたり、たまってるちーさな事たちを片づけるのに当てているが、今年は1日2日本を読んで暮らせるかな。こんな時こそご馳走本。パヴェーゼ読むか、買ったばっかの新刊『検証・ハンセン病史』(熊本日日新聞社編・河出書房新社)にすっか。『晩夏』(シュティフター・ちくま文庫・上下巻)は晩夏に読むべきかなあ。

★4月19日(月)更新★★★★★★★★★

今週は、うじたQ氏の「時の流れに」と連動して芥川賞2作を読んでみました。

『蛇にピアス』(金原ひとみ)あまり好みじゃないだろうなと思って読み始めたのだが、意外やおもしろく読めた。物語の背景にある小道具はボディピアッシングだったりタトゥーだったりするけど、物語自体は古風な感じ。主人公が何かに追われるように舌ピアスのサイズを穴のでっかいものに〈拡張〉していく後半は、凡庸に思えるほど古風。でもまあ、そこが落ち着いて読める理由か。「チンコ」「マンコ」という言葉が濫用されるのに眉をひそめる読者もいるかもしれないが、私としては「ペニス」「ヴァギナ」と書く作家のほうに違和感覚える。あとね、何度も登場する「寝台」という言葉が印象的に感じた。刺青屋だから「ベッド」じゃなく「寝台」は必然なのかな、とも思ったけど、最近あまり使わないよね、寝台。刺青を入れてもらうそのときに、「寝台」の上で起こる業務とは別の行為が、この言葉によって何かエロティックに感じられるのだった。

『蹴りたい背中』(綿矢りさ)いや、ホントに背中を蹴るシーンが(それも早々に)出てくるとは思ってなかったな。それでこのタイトルは、ちょいとダサいんじゃないか。この人、インタビューで田辺聖子好きだって言ってたな。その辺の感覚?ちなみに読んでるのは太宰治だそうです。授業で「浮雲」読まされたそうです。さすが女子大生です。ちょっと気位高い女子高生ってものを細かく描いてる、オタク男子高生を細かく描いてるとは思うが…物語としては、さしてハッとするようなところ、なかったです。

この2作について、今週のうじたQ氏の「時の流れに」で詳しく扱っておりますので、まだの方はそっちも読んでみてね。綿矢氏が男性に受ける理由など、説得力ありますぞ。

K氏より『浜辺 炎』(パヴェーゼ・晶文社 とっくに絶版)が2冊だぶってるので譲ってくださるとのメールを頂いた。ありがたや! ホントうれしいです。これで「古本屋行った時に必ず探す本」リストから1冊が減った。さ、これをいつどのように読むかだねー。日々、飯を食いながら。あるいは寝る寸前に。電車の中で。スクワットしながら…細切れの時間を継ぎ合わせて読書している私であるが、こういうご馳走本は、ゆったりと読みたいものね。

「東京創元社創立50周年」という記念小冊子を書店でもらってきた。紀田順一郎氏、北村薫氏、創元社の特別編集顧問である戸川安宣氏による対談で、紀田氏があの昔の創元推理文庫の背のマーク(猫はサスペンス、紳士の横顔は本格、時計は法廷もの…ってやつね)を「垢抜けない」と言ってたのでビックリ。あれがいいんじゃないの〜!ま、現代ではマークでジャンル分けするのって厳しいから、なくなったのはしょうがないにしても…少なくとも小学生のころの私はあのマークが好きで買ってたさ。いやしかし、ハヤカワミステリ文庫からも同タイトルの本が出てた場合、値段を比較すると創元のが10円くらい安いのも理由だったかも。小学生のこづかいの中で、10円って大きいのよ。

★4月12日(月)更新★★★★★★★★★

今週はひさびさに読書らしい読書をした気分。早く読みたくてうずうずしていた、ジェラルド・カーシュの短編集第2弾『廃墟の歌声』(晶文社)を一日2〜3編ずつ読んだ。冷たく暗い穴ぼこの中で聞こえてくる「小さな人間たち」の歌声…というシチュエーションだけでうっとりくる。カーシュの頭の中にある、奇妙で不気味な世界像を、読む者にたっぷりと想像させてくれるその筆力がすばらしい。この短編集には、「奇妙な味」的な作品だけでなく、コミカルな作品も。自称「犯罪の天才」カームジンが披露する、過去に成し遂げた奇想天外な犯罪話のシリーズがおもしろかった。カーシュってこういうのもあるのね。もっと読みたい!もっとあるらしいじゃないの。晶文社、第3弾も出してくれないかなー。

『ディフェンス』(ナボコフ 河出書房新社)寝かせてあった本だが、カーシュの後に読むのはこれだとひらめいて。チェスしか能のない男の物語。若いころは神童と騒がれ幾つものタイトルをものにするが、だんだんと陰っていく男の人生…。訳者が「読みにくいところもあるが、原文の雰囲気をなるべく壊さないように訳した」というように、たしかに一文が長い! 最初はちょっとキツかった。うっかりすると、どこを読んでたのかわからなくなったりして。が、読み慣れてくると次第にリズムにのれてその長さが心地よくなってくる。なんといってもやはり、その、一文を果てしなく長くしている装飾部分を読み取る快感にとりつかれる。その形容は無駄にあるものじゃなく、凡庸じゃなく、陳腐じゃない。ひさしぶりに没頭して読めた。大阪ー東京間の新幹線で読み、東京駅で中央線に乗り換えてまだ読み続け、「あと書き」の途中でふと顔をあげたら、ちょうど降りる駅だった。

この小説は、単に「ある偏った男の一生」のストーリーを追うものではない。一生の中のいろいろな場面で、さまざまな偶然や必然がぶつかり合い、小さな火花を散らす。そんな火花を緻密に拾って描かれているように思う。圧巻なのは主人公と宿敵との一戦のシーン。対局の様子を音楽のように…対戦相手との一手一手をセッションになぞらえて描写しているのだが、ここでは読みながらまさにそこで紡がれる音楽を聴いているかのような興奮を覚えることができた。ちなみにディフェンスとはチェス用語で「黒の序盤戦法に用いられる作戦」のことだそうである。

たぶん、次に読むのはポーカー小説です。リチャード・ジェサップの「シンシナティ・キッド」。

★4月5日(月)更新★★★★★★★★★

え〜、最近どうも言い訳ばかりでしまらないが、今週は『アマチュアたち』の制作に追われておったので、読書が進んでおりません。

W氏が、芥川賞2作品『蛇にピアス』『蹴りたい背中』が掲載された文藝春秋を貸してくれたので、前菜として島本理生『生まれる森』(芥川賞候補のひとつだった作品ね)の掲載された文芸誌を図書館から借りてきて読んだのだけど、あんまり覚えてない。中絶した女子大生(実家住まい)が、夏休みに帰省する友達のアパートを1か月だけ借りて、ひとり暮らしごっこをしながらあれこれ考える、という内容だったかな。特にインパクトなし。

『蛇にピアス』ちょっと読み始めた。余談ですが、金原ひとみのおとっつぁん、金原瑞人氏の翻訳してる本ってアタリが多いのよねー。

『ゼロ・ビートの再発見』(平島達司 ショパン)←※ショパンってのは、出版社の名前です。現在では、ピアノをはじめとする鍵盤楽器は「平均律(1オクターブを均一に12分割した音律)」で調律されている。が、ロマン派、古典派の時代は、今の平均律とは違う音律によって調律が行われていたので、当時の音楽を再現するならば「古典調律」で調律した楽器で演奏しなければ、その本来の美しい響きが得られない…と説く著者による本。最近は古楽器、古典調律というものが見直されてきているそうですが、本書は1983年に出版された先駆的な本だったそうで、長らく絶版になってたのの復刻版。まだ50ページくらいしか読んでませんが。

手元に置いておきたくなって、『大きな木がほしい』(佐藤さとる・文 村上勉・絵)を買った。やはりすばらしい絵本です。どのページを見てもわくわくする。

『ジオジオのたんじょうび』(岸田衿子 あかね書房)これ、復刻したのね。私が子どものころよく図書館で読んだ『おしゃべりゆわかし』とか『スカンクプイプイ』『はらぺこおなべ』なども同じシリーズで、いっせいに復刊。タイトルを覚えている人も多いのでは? 「ジオジオ」はもう1作あるのだけど、かわいいんだかかわいくないんだか、うまいんだかいい加減なんだかわからない中谷千代子さんの絵がなんとも魅力的。

★4月26日(月)更新★★★★★★★★★

こにゃにゃー。オレの収入は一定していない。ある月はさほど多くなく、またある月は更に多くない、といった具合だ。しかし毎月本は買う。そしてそれにかかる費用は収入とはまったく比例していない。読みたい本が多い月はたくさんに買い、少なければ勿論少なく買うのである。あまり書きたいことも無い今週は、先月末にまとめ買った本をただ挙げてみることにする。では・・・。

「パリのめぐり逢い/フランク・ヤービー」「荷風パリ地図/小門勝二」「パリ祭・河明り/岡本かの子」「ピエールとリュース/ロマン・ロラン」「戦後欲望史 黄金の六〇年代」「戦後欲望史 転換の七、八〇年代」「戦後欲望史 混乱の四、五〇年代/赤塚行雄」「おくのほそ道/松尾芭蕉」「戊辰物語/東京日日新聞社会部編」「失われた志/城山三郎対談集」「歴史の読み方 人間の読み方/谷沢永一ほか」「君たちはどう生きるか/吉野源三郎」「至福千年/石川淳」「豆盆栽 カラーブックス」「人里の植物氈v「人里の植物」「昭和金融恐慌史/高橋亀吉・森垣淑」「わたしの流儀/吉村昭」「戦う石橋湛山/半藤一利」「眼球たん・マダム・エドワルダ/ジョルジュ・バタイユ」「禁じられた領域/ポール・レオトー」「若者よ、きみは死ぬ/ジョーン・フレミング」「ウィトゲンシュタインの講義 ケンブリッジ1932ー1935年/A・アンブローズ編」

これ以外にもここに書きたくない本が2冊、エロ雑誌の類を3冊、ビデオ1本、DVD2枚、劇画1冊を買った。本だけで大体5000円ほどの勘定となる。ふだんよりはかなり少ないほうだ。バタイユは再読、他は初めてだが対談エッセイ等はほぼ読了した。一応吟味してから買ってるのでさらっと目は通してある訳で、ただ何時フラフラ読み始めるのかは自分でもわからない。岡本かの子はイイな。さぞやいい女だったろうな。

★4月19日(月)更新★★★★★★★★★

こんわんわー。『ボケかた上手』(東海林さだお/赤瀬川原平・新潮社)読みました。ショージくんのご尊顔はじめて拝見したンですが、いいお顔なさってマスねー。好きになってしまいました。ショージくんはなぜかウンコを嫌悪していました。そして頭髪をスンゴク大事にしておられるようでした。日野啓三はガンになって「死」を考えた末に、石とか鉄にも生物と同じような意味があると考えついたのだそうです。オレもそう思っています。対談中にゲストが何人か入ってますが、群を抜いて豊田泰光がいい男でした。ちょっと忙しくて、読んだものを思い出せませんが、実際、読んでないのかもしれませんなー。ダメだ、こりゃ。

★4月12日(月)更新★★★★★★★★★

『GO』(金城一紀・講談社文庫)を読んだ。前回から引き続いて在日朝鮮人の青春を描いた作品だった。差別がテーマだと思うが、実際いまどうなんだろう?自分とは違うということに、嫌悪やおそれを抱く人間もいれば憧れや興味を抱く人間も当然いて、それがどうした?という気がオレはする。旧態依然たる差別意識はなくなっていくだろうが、それからが問題だろう。好きとか嫌いとか平気で言える場所に立ったときが始まりだ。キム・ドク(タイガー戸口)というレスラーがオレは好きだったが、キム・タクってのは一体何人だ?何人だか知らないが、イケメンで金持ちでタレントならなーんも問題ナイでショ。センター街でアンケートとりゃスグわかるよ。たぶん問題はそこにない。あ、小説は爽やかでよかった。主人公はイケメン風だしケンカも強いし家も金持ちだしよかったね、って感じ。そっちの方がいまやデカイんじゃないの?いやマジで。

『男の子女の子』(鈴木清剛・河出文庫)美術系専門学校生カップルの話。おわり。ってかんじだ。実際読み始めてしばらくは会話文がキツくてシンドかった。だが読み進めていくうちに、うまいことかいてんなー、という気がしてきた。確かにタイトルどおりの内容にキチンとなっている。青春小説。というよりは青春ドラマ。たぶん女の子はYUKIみたいなタイプなんだろうね。悪くはないが小説と呼ぶにはかなりギモンが残る。いや、正直な話(マジで、の大阪弁的表現)。

『浮上せよと活字は言う』(橋本治・平凡社ライブラリー)とてもいい本だった。この人の本はいくらか読んでるが、コレはとてもわかりやすく親切に書いてる気がしたなあ。著者が年齢を重ねたせいもきっとあるだろう。出だしがオレの大好きな「プロスペローの本」についてから始まってるのも嬉しい。「プロスペロー」はピーター・グリーナウェイ監督の文字どおり「夢のように美しい」映画だが、著者は原作である「テンペスト」を未読である、とした上で話を進めていく。

「好きだけれど分からなくて、ビデオになったものを改めて見て「これは『テンペスト』を読めば分かる」と思って、初めて『テンペスト』を読んだ。ビデオの再生スイッチをオンにして、その前で『テンペスト』のテキストを繰って行った。それが恥ずかしいことだとはちっとも思わない」つづけて著者は「日本人は、一体、分かる、ということを、どのように考えているのだろうか?分かる、ということに時間をかけてはいけないのだろうか?すべてが、すぐに分かる、ということでなければ、何か不都合でも起こるというのだろうか?たとえ分からなくても「なんだ大したことないのか」の一言が言えさえすればそれでいいのだろうか?(略)分かる、ということは、そのことによって全く新しい視野を切り開いて、恐れることなく未知の領域に進み込んでいくことなのに、どうしてこうも日本人は、自分の頭で考えて分かることをいやがるのだろう?」と述べる。

ホントだよねー。この最後の部分はテッテー的に当たり前の、基本中の基本なんだけど、実際そうなってないもんねー。なんでも丸暗記ワールドだから記憶力の皆無に等しいオレなんかもうアホ中のアホですよ。オレ、かつて皮肉な気持ちで、雑学本100冊読んだらどうだろう?ってここに書いたことあったけど、すぐそのあと思ったんだ。あ、始終テレビ見てる人間にはかなわねえや、って。いつも見てる人にはワカンないでしょうが、20年来見てないオレがたまに見るとテレビって、モノスゲー情報量ですよ!もう吐き気しちゃうもんね。自慢じゃないけど関西大地震もオウム報道もいっぺんも見てないッスよ。必要ないし。おっと、誤解をよぶような発言はヤめて(笑)話を元に戻すけど、考えること、自身とそれ以外の現実に抗うことはとてもエキサイティングで面白いことだとオレは思いますヨ。著者は「活字の人間」として「活字の責任は想像を絶して重い」と述べる。そこにはいやらしいスノビズムの影はチラリとも見えない。あらゆる方向にステップを踏み、あらゆる角度からジャブやストレートをはなつ華麗なボクサーさながらの章立ては素晴らしく、イヤまったく感心してしまいました。・・・・オレ、だんだん書くのがメンドーになってきたンですけど読んでてわかりました(笑)?まー、とにかくこの本はじつに面白い!エゴイズム、思想、女(他者)、「POPEYE」(笑・雑誌ね)等々、現在のオレの興味に見事に答えてくれているのデス。

最後に一つだけ「なにしろ日本には「他人が演ずる行為を積極的に拾い上げてその意味を探る」という知的習慣がないのだから。つまり、科学する姿勢がないのだ。公正中立、という及び腰の態度だけがあって、果敢な客観性がない」

ホントそう思いますよ。オレ賛成です!まあ、なんのまとめにもなってないけど(笑)いいよ、別に。読んだ方がいいと思うよ、オレは。

アート&ファッシヨン雑誌の駆け出し編集者の女の子が「もっと深く考えられる人間になりたいから本が読みたい。なにか本を紹介しろ」と言ってきた。オレはあんまそんな事で考えたりしない方だけど、その時は「うーん」と思った。その子は、ホント田舎育ちの土人(笑)で、まともなものなんか読めっこないのだ。ちょっと考えて「だれも知らない小さな国」をすすめた。オレが一番はじめに心を動かされた本だったから。でも書店に置いてなかったらしい。ヒドイね。負け犬とかなんとか平積みにしてるクセに。橋本治なら「商道徳にもとる」と言うだろうね。

★4月5日(月)更新★★★★★★★★★

新入生諸君!元気テスかー?オレはマアマアですよー。『修羅を生きる』(梁石日・幻冬舎アウトロー文庫)を読んだテス。スゲー怪物オヤジが出てくる自叙伝でした。いちいち扉をぶち破り、毎晩じぶんの家族を襲う恐るべき酒乱&怪力オヤジは、マジ現在なら格闘家ゆき間違いナシの逸材です。オヤジがやってた食事療法(みたいなもの)のルーツがチョー知りたい!!そのレシピ本作ったら売れそうだけどなー。いや、売れないか(笑)。家族はオヤジを忌み嫌っているけど、オレは何となくワカラないでもない気がするのは何故だろう?そのワケは知りたくないナー(笑)。これ読んでてホント楽しかった。

★4月26日(月)更新★★★★★★★★★

福田和也氏『晴れ時々戦争いつも読書とシネマ』(新潮社、2月刊)を読んだんにゃ。じつに趣味多彩で豊かな感情生活をおくっている人でございます。古代中国の壺を愛でるときもあれば、『のだめカンタービレ』を語り、ミステリーの現在について口舌をつくすかと思えば株価の動向に言及し、稀代のシネマフリークとしてポランスキーを激賞した次の章では丸谷才一をけちょんけちょんにする、六本木ヒルズの「森美術館」で深夜の美術鑑賞のあと、帰宅したらデヴィッド・シルヴィアンまで聴いちゃうといったアンバイ。「わしも酒を酌み交わしてバカばなしばかりしてるヒマはとってもあるんだから、こういうさまざまな創造物を享受する時間を、ちゃんとつくらねばなあ」と反省させられる。しかも、このひと、食い物関係にも詳しくて、とうぜん酒関係にも通じている模様。アタマいい人は舌もいい。腹もいい。体格もいい。五感すべてが発達しているということは実にうらやましいのである(福田氏、プラモデルにも造詣が深い)。この世にはキモチいいものがたくさんあるのよね、ということが確認できる一冊。

この本、モトになったのは「週刊新潮」の連載コラムである。連載当時は「闘争的コラム」といて世情をにぎわしたそうだが、そうかな? わしは「快楽のネタ本」として読んだのじゃが。というか、我が身を省みて、「食わず 嫌い」ってダメね、としみじみ感じたのよ。ちゃんと『海辺のカフカ』も読んで絶賛してて・・・「流行モノ食わず嫌い」な自分って、やっぱダメ? ああっ、そうなの!とにかく、カネはバンバン使って五感をフルに開いていろいろ体 験しなきゃ!(とか吠えといて、けっきょく立ち飲み屋とかやきとん屋とかで憩っちゃうのよね。)まあ、この人、大学の先生もしてて、学生との交流も密なので、若い人からの情報をバンバン吸収してる、という環境のよさもあるだろうけど。同世代としてうらやましいカギリ。

ところでわしは世情にはうとい(新聞取ってない、テレビ持ってない・・・雑誌買わない・・・グータラさん)。イラク派兵の是非とか小泉総理はすごいアホだとか、この本でもさんざん書かれている。コレが「闘争的」なゆえんなんだろうけど、イラク派兵については、日々情勢はめまぐるしく変わっているだろうから、この本で言及されているオピニオンをそのまま批判することは避けたい。このテの本、とりわけ時事 問題についてのハナシは古びやすいからのう。とりあえず、このコラムを書いた時点では、福田氏は「アメリカという怪物の跋扈も、現下の状況においては、やむなし。 たぶん、アメリカはバリバリ本気だ。つきあわされたらトコトンつきあわなきゃならん。コイズミ、ぬるし!」という立場のようです。(ただ、自衛隊の派遣については、このコラム執筆時にはまだ行われていなかったので深い言及はナシ。)とくに国 内の政治談義のことはわしはよくわからんのでコメントはひかえます(自民党と民主 党ってどう違うの?)。

さ〜て、これから『のだめカンタービレ』全7巻を「書泉ブックマート」へ買いに いってきます。あと、文中で絶賛されてる矢作俊彦の『ららら科学の子』も買ってこようかにゃ、って。

★4月19日(月)更新★★★★★★★★★

ベンヤミンの『パサージュ論』の第3巻と、ジョン・ダワーの『敗北を抱きしめて』 の上巻を、同時に風呂場で読み終わったのじゃ(共に岩波書店)。ではまず前者。風呂場でふにゅふにゅとコレを読んでいて、3巻の後半にさしかかった頃、「なんでわしが19世紀パリの歴史資料めいた引用ばかり読まにゃあならんのかいのう」と、さすがに疑問に感じはじめた。「どうでもいいんじゃよ。リーパのそんなムカシのこと なんて」。なぜベンちゃんはこんなに19世紀リーパにこだわるんかいのう。(だっ てまだ4巻・5巻と続くのよ・・・。)今日、出社したら机の上に企画書が配られてあって「近代フランス風俗講義」という仮タイトルで出したい本があるそうなのでなのであった。「あー。もうゾラとかバルザックとかスタンダールとか、充分いろいろ本は出たではないか藤原書店とかから・・・」と嘆息をついたのじゃった。

で、『パサージュ論』なのだが、にも関わらず、いっこうに読むことをやめられんのだわ。なぜって、いろいろ出てる19世紀リーパものとは、やはり違うのじゃもの。これはやはり「かなしみノスタルジア」であり、「20世紀からの逃避行」ではないのか?と 思えるからね。どうしても、「ここ(1940年代・ファシズム)から救出しておくれ。もしソレがかなわないなら、せめて私をベル・エポックへ戻しておくれ。そう、 あの幸せな19世紀の終わりごろまで・・・」という、一種の祈念のように読めてし まうのじゃ。ベンちゃんの専門家にとっては笑止な読み方なのだろうけど。わしに とってはそのような「回帰」願望にそそられる時代はいつじゃろう。そーねー生まれる前ね。昭和28年ぐらいに戻ってみたいわね。それにしても、「ユーゲントシュティール」(ま、一種のアールヌーボー的美術傾向ね)にまつわる章で、「ユーゲントシュティールの根本モティーフは不妊の聖化である。身体はもっぱら性的成熟にい たる前の形態で描かれる・・・生殖は創造の動物的側面を肯定するきわめて野卑な流儀として受けとめられた」などの(資料からの引用でない、ベンちゃん自身の)コトバを読んでいると、「ああ、なるほど、ベル・エポックは産業の発展とリゾートと博 覧会の時代だったかもしれないけど、出産とか生殖とかの方面は隠蔽されていたかもね」という発見をしたキモチになる。ううむ。19世紀フランス・・・そうね、わし にとってその時代のイメージは、「オヤジは娼婦と浮き身をやつし、いっぽう若いオ トコは年上の成熟したマダムとの恋に焦がれる」というトコロかしら(フロベール 『感情教育』的世界?)。そう、だから、「幸福な家庭。そこでは男女は愛し合い、 産み、家族をはぐくむ」という観念から人々がへだたった時代ではなかったのかな (おなじくフロベール『ボヴァリー夫人』的世界?)。

ジョンダワーさんのほうは、「ううむ、やはりこれは「へえ・へえ」本として書かれ たのではないか」というギワク(というか)に囚われつつある。これを読んで、アメリカ人なら「おお、ジャッパニーズ、あの頃はそういうふうだったのね。まっカワイ ソっ」と感慨深く思うだろうけど、わしらぐらいの世代だと「戦後のニホンのそーゆーアレコレなら、親やジイサンからさんざっぱら聞かされて知ってるよ」って、 きっと思っちゃうであろう。ああ、でも、我々のライヴで見かけるワカモノたちは、 たぶんアメリカとニホンが戦争したことも朝鮮戦争も知らんだろうから、こういう本 はぜひ読んでおくといいと思うのじゃ。読みなさい。

★4月12日(月)更新★★★★★★★★★

チェーザレ・パヴェーゼ『故郷』を読みおわった。この前も書いたけど、原文と照らし合わせて読んだのだ。パヴェーゼの簡潔な文体は、日本語に移し替える際に、 ちょっと説明的になるようだ。たとえば、訳文上では「振り返って、連中は待っている。それはジゼッラの死を悟った、一瞬の構図のように、見えた」(203ページ) の箇所は、イタリア語原文から直訳すると「振り返ってみんなは待っている、彼らは ジゼッラが死んでしまったかと悟ったように見えた」となる。「一瞬の構図」という 言葉は原文にはない。あるいは205ページ、「もうたくさんだ、二度と、おまえには触れないぞ。おまえのことを思えば思うほど、彼女の死が確かめられてくる」の箇所で、「・・・彼女の死が確かめられてくる」の「確かめられてくる」は直訳すると 「彼女はさらに死んでしまう」である。161ページ「そして老婆も満足だった。年老いた彼女の歯でも、噛むことができたから」は、「そして老婆も満足していた。噛むことができたから」のみであって「年老いた彼女の歯」ということばが補足されて いる。翻訳には、とかくこのような、訳者の「意味補強」は行われるけれども、パヴェーゼの文体はとりわけそのような作業が必要とされるシンプルさを特徴としているのではないか。

このことは、パヴェーゼがアメリカ文学の熱心な紹介者であったことと絡んでいるのかも知れない。ヘミングウェイや、スタインベック、メルヴィルなどの「新大陸的ブッキラボー文体」を繰り返し翻訳していく中で、パヴェーゼのエクリチュールは生成されていったのではなかろうか。このへんの事情は、もすこし調べ てみたいので、神保町の「イタリア書房」で他の短い作品を求めに行こうと思う。長 いヤツはザセツするからね。

それにしてもパヴェーゼの人生はやるせなし。政治運動してたカノジョをかばって ファシスト政権にとっつかまり、1年間投獄されて戻ってきたら、そのカノジョは別のオトコとできていた・・・という。この『故郷』という物語にも、その裏切りのエピソードが反映している。主人公も現実のパヴェーゼのように投獄されていたのだが、出所してスグやはりムカシの女に会いに行くというトコロで物語がスタートするのだ。だがその女は、いまだ出獄できないでいる、主人公の友人ともできていたフタマタ女なのだ。だから主人公としても、「会ってはみたけどヤル気にならんな」と、 トリノの街を後にして田舎で機械工として働くことにする。そこには大家族の中で唯 一イナカ臭くないイイ女、ジゼッラがいた。しかしこのジゼッラさんは実の兄とヤッてしまった女であり(どんどんハナシの業がふかくなる)、そのことを指摘されて カッとなった兄に刺し殺されてしまう(首を三ツ又で刺されるのだ。このコロシの場面と、それにつづく、オビタダしい血液の流出のイメージは強烈だ。描写はクールだけど)。

1950年、パヴェーゼ42歳のある日、あらゆる女友達に電話をかけて、 「会ってくれないか」と懇願する。なのに、すべての女はパヴェーゼに会うことを拒 絶する。絶望した彼は、大量の睡眠薬を嚥んで自殺するのである。遺言は「みなを許します。みなに許しを乞います。いいね? あまり騒ぎたてないでください」であった。そういえば女がひどいめに遭遇するハナシが多い作家のようにも思う。つねにオンナがらみで被害・加害の渦中にいたオトコだったのかねえ・・・。

★4月5日(月)更新★★★★★★★★★

『編集とはどのような仕事なのか 企画発想から人間交際まで』(鷲尾賢也、トランスビュー)を読んだのじゃ。この本はとにかく読んでおいて絶対ソンはないぞ。「おお、本とは、そのように出来るのか」と瞠目させられるに違いない。編集作業に携わって銭を稼いでいる人もいない人も、この本を読むことで、書籍出版という「欲望のあいまいな所産」について多くを知ることであろう。 とにかく、プライドの高い人には、編集は向いていない、と著者は一貫して言い続ける。また、「編集者ほど、人間が好きでないとやっていけない職業もないだろう」とも。専門があるわけでも、特別な技術があるわけでもない。著者・装丁家・印刷所の 営業の人・レイアウターなどなど、人と人の間を経巡ることだけが編集者の仕事なのだ。経巡り経巡りしているうちに、もにょもにょとしたカオスが一冊の本に仕上がっ ていく。

「ああ、できあがった! 無事書店に並んでよかった」と安堵の吐息をつくとき、編集者の脳裏をよぎる思い:「で、オレはこの本でナニをやったんだったかな ?」極論すれば、ナニもやっていないのである。ひたすらスケジュールを合わせ、校正のやりとりに追われ、同業者を意識しすぎて読者を忘れる著者をなだめすかし、装丁の費用をめぐってデザイナーと製作部との板挟みになり、ときには印刷所で工場の オジサンや営業の人と酒呑んで、日頃のギクシャクとした関係を修復したりする。みんなが折り合いをつけられるようにアンバイする。そのためだけに機能する存在。で もソレでいいのである。「オレはいったい、なんなのだ?」なんでもないのである。 そしてソレでいいのである。ときには関係者たちの飲み会で芸者まがいのこともする。失策を犯したときは、ひたすらあやまる。編集者、それは何人もの人間の中にお かれた、「中心である虚無」なのじゃ。この本は、最近とみに、編集者のハシクレと しての我が身を省みて自己認識していた、このようなアレコレを、あらためて確認させてくれた。・・・て、全部自分にひきつけて読んじゃいかんのである。 著者の鷲尾氏は講談社に勤務し、「講談社現代新書」や「現代思想の冒険者たち」や 「選書メチエ」といった、普段わしらがお世話になっているシリーズの編集に携わってこられた方なのじゃ(わしなどとは全然格が違うのじゃ)。だから、学者と一般読者の橋渡し役として、「ムズカシイものをいかにわかりやすくするか」に心血を注いでこられたのである。「わかりやすいものをそのまま出せばちゃんと売れる」分野にいた人とは違って、「いかに人々が手にとってくれる読み物にするか」をめぐって、 専門的すぎる筆致につい走る著者サイドをコントロールし、討議を繰り返す中で濃密 な人間関係を作り上げてこられた人ならではの、現実的な説得力がある。実際の編集作業に役に立つ記述が豊富であると共に、鷲尾氏自身の出版理念も明確に(しかも、 なりすぎないほど厳格に)提示されるので、実技&ココロ構えの両側面が理解できる。編集者の書いた本にありがちな「オレだけが知ってるあのモノ書きのマル秘エピソード」を詠嘆的に回顧するたぐいの自慢話などはイッコもないのじゃ。

そしてこの著者がいくどとなく繰り返すヒトコトに、「書物には汎用性がない」ということがある。「走行性に秀でたクルマ」「おいしいゴハンが炊ける炊飯器」など は、どんな人にも便利だし、ウケる。「この洗濯機、便利よー。いろんな洗い方ができるの。売れ行きいいみたいよ」とかいうことはできる。しかし、本はそうではな い。一人残らず万人にまんべんなく売れる本などはない。ものすごく売れる本と、あ んまり売れないが熱烈な愛読者に支えられている本もある。本を計る一義的な尺度な どはないんである。著者は、商品としての書物のそういう性格に、空前の不況に悩む出版経済を理念的に救い出す最後の手がかりを見ているように、わしには読まれたのじゃった。そして、それは読書という行為の「非効率性」(早く、大量に読みゃあいいってもんやあらへんのや!)に直結するがゆえに、「効率性一辺倒」の電子ブックには取って代わることのできない、独自の内的思考フィールドとしての「紙本」は滅びないであろう、という確信につながっておるのじゃ。にゃはっ。