地球。死すべき人間が試しを受ける場所。象徴的な意味で、神の戒めに従わない人々。
【死すべき状態】
【戒めに従わない人々】
【世の終わり】
イエス・キリストは良い羊飼いである。イエス・キリストに従う人は、象徴的な意味で、イエス・キリストの見守りを受けている羊ということができる。
聖典には、2種類の養子縁組について述べられている。
(1)イスラエルの血統に属さない人は、イエス・キリストを信じ、悔い改め、水に沈めるバプテスマを受け、聖霊を受けることによって、アブラハムの家族となり、イスラエルの家の一員となる(2ニフ31:17-18;教義84:73-74;アブ2:6,11)。
(2)福音の救いの儀式を受けた人は、引き続き主の戒めに従うことによって、イエス・キリストの息子、娘となる(ロマ8:15-17;ガラ3:24-29;4:5-7;モサ5:7-8)。
8歳未満で責任能力がない乳児や子供にバプテスマを施す不必要な慣行。主は幼児のバプテスマを非難しておられる(モロ8:10-21)。子供は罪のない無垢な状態で生まれてくる。サタンは、子供が責任を負えるようになるまでは、彼らを誘惑する力を持たない(教義29:46-47)。したがって、幼児は悔い改めやバプテスマの必要がない。子供は8歳でバプテスマを受けるべきである(教義68:25-27)。
『旧約聖書』の中の、ユダの地の預言者。生没年は不明であるが、紀元前850年より以前のヨアシの治世と、ユダ部族のバビロニア捕囚からの帰還の間に生きていた人物と思われる。
【ヨエル書】
この書の主題は、ユダの地がひどい干ばつといなごによる被害を受けた後にヨエルが発した預言の中に述べられている(ヨエ1:4-20)。ヨエルは人々に、悔い改めを通して再び神の祝福にあずかれるようになると励ました(ヨエ2:12-14)。
第1章は、主の家における聖会の招集である。第2章には、福千年に先立って起こる戦争と荒廃が述べられている。第3章は末日について述べ、すべての国民が戦いをするが、最終的に主はシオンに住まわれると断言している。
ペテロは五旬節の日に、人々に御霊が注がれるというヨエルの預言を引用している(ヨエ2:28-32;使徒2:16-21)。天使モロナイもこの聖旬を引用してジョセフ・スミスに語った(ジ-歴史1:41)。
何かに対する不適切かつ強い願望。
人が啓示によって聖霊から受ける神の霊感に満ちた言葉や記録。イエスの証は預言の霊である(黙示19:10)。預言の内容は、過去、現在、未来を問わない。預言をする者は、神がその人に知ってほしいと望んでおられることを、自らのため、また人々のために語ったり記したりする。人は自分自身の生活のために、預言や啓示を受けることができる。
神によって召され、神に代わって語る人。神の使いとして神から戒めや預言、啓示を受ける。その責任は、人類に神の御心と真の属性を知らせることと、人類に対する神の計らいの意図するところを示すことである。預言者は罪を非難し、罪のもたらす結果を予告する。預言者は義の説教者である。時には、人類のために将来について予告をするように霊感を受けることがある。しかしながら、預言者の本来の務めは、キリストについて証することである。末日聖徒イエス・キリスト教会の大管長は、今日の地上における神の預言者である。大管長会と十二使徒会の会員は、預言者、聖見者、啓示者として支持される。
主はジョセフ・スミスに、福音と神の王国にかかわるすべてのことについて兄弟たちを訓練するために、1832年から1833年にかけての冬に、オハイオ州カートランドで一つの塾を組織するように命じられた。この塾から教会初期の数多くの指導者が出た。ミズーリ州ジャクソン郡では、パーリー・P・プラットが別に預言者あるいは長老の塾を開いた(教義97:1-6)。聖徒たちが西部に移住して間もなく、同じような塾が幾つか開かれたが、短期間で姿を消した。福音は今日、家庭や神権定員会、様々な補助組織、また教会が経営する学校やセミナリー、インスティテュートのクラスで教えられている。
紀元前641-610年にかけて在位したユダの義にかなった王(列下22-24章;歴下34-35章)。彼の治世に、主の宮で律法の書が発見された(列下22:8-13)。
『旧約聖書』の中の人物。ユダの忠実な王(列上15:24;22章)。
『旧約聖書』の中の人物。預言者、指導者、モーセの後継者。イスラエルの子らが脱出する以前にエジプトで生まれた(民数14:26-31)。ヨシュアとカレブは、ほかの10人とともにカナンの地に斥侯として送られた。カナンの地について良い報告をしたのは、ヨシュアとカレブだけであった(民数13:8,17-14:10)。ヨシュアは110歳で世を去った(ヨシ24:29)。ヨシュアは預言者と戦士の両方の務めを忠実に果たした偉大な模範であった。
【ヨシュア記】
この書はヨシュアの名を冠しているが、それは彼が主要な登場人物だからであり、ヨシュア自身がこれを記録したということではない。ユダヤ人の伝承では、エレミヤが過去の記録に基づいてヨシュア記を書いたとされる。第1-12章はカナンの地の征服について述べたものであり、また、第13-24章には、イスラエルの部族が土地を分けたこととヨシュアの最後の勧告が記されている。
ヨシュア記で特によく知られている二つの箇所は、聖文について深く考えるようにとのヨシュアに与えられた主の戒め(ヨシ1:8)と、主に忠実であるようにとのヨシュアの呼びかけ(ヨシ24:15)である。
アリマタヤのヨセフはサンヒドリンの議員であるとともに、キリストの弟子でもあった。裕福で忠実なイスラエル人であり、主への罪の宣告には関与しなかった。十字架の刑の後、ヨセフは救い主の遺体をきれいな亜麻布で包み、岩を掘って造った自分の墓に納めた(マタ27:57-60;マコ15:43-46;ルカ23:50-53;ヨハ19:38-42)。
イエスの母マリヤの夫。ヨセフはダビデの子孫で(マタ1:1-16;ルカ3:23-38)、ナザレに住んでいた。ヨセフはマリヤと婚約していた。結婚を間近に控えたあるとき、マリヤは天使ガブリエルの訪れを受け、救い主の母になる者として選ばれたことを告げられた(ルカ1:26-35)。ヨセフもまた、救い主の降誕について啓示を受けた(マタ1:20-25)。
マリヤは、この世におけるイエスの親としては唯一の人である。父なる神がイエスの父だからである。しかし、ユダヤ人たちはヨセフをイエスの父親であると考え、イエス自身もヨセフにそのように接した(ルカ2:48,51)。夢の中で天使から警告を受けたヨセフは、エジプトヘ逃れて幼な子イエスの命を守った(マタ2:13-14)。ヘロデの死後、天使はヨセフに、幼いキリストを運れてイスラエルに帰るように告げた(マタ2:19-23)。
『旧約聖書』の中の人物。ヤコブとラケルの間に生まれた最初の息子(創世30:22-24;37:3)。
ヤコブの最初の妻の長子ルベンが過ちを犯してイスラエルの長子の特権を失ったので、ヨセフはその特権を得た(歴上5:1-2)。ヨセフはふさわしかったので、ヤコブの2番目の妻の長子として、次にその祝福にあずかる順位にいたのである。ヨセフはまた、父ヤコブが死ぬ直前に、彼から祝福を受けた(創世49:22-26)。
ヨセフは高潔で「さとく賢い」人物であった(創世41:39)。ポテパルの妻の誘惑を拒んだことは、信仰、純潔、高潔の模範である(創世39:7-12)。ヨセフはエジプトで兄たちに自分がだれかを明かしたときに、彼らが行ったことを責めず、逆に感謝の気持ちを示した。兄たちの行いが、神の御心を成就する助けになったと信じていたのである(創世45:4-15)。
末日の啓示は、終わりの時にヨセフの子孫が果たすさらに大きな使命を明らかにしている(JS創世50章;2ニフ3:3-24;3ニフ20:25-27)。
旧約の預言者。ニネベの町に対して悔い改めを説くよう、主に召された(ヨナ1:1-2)。
【ヨナ書】
ヨナの生涯の出来事を記した『旧約聖書』の中の1書。この書はヨナ自身が記したものではないと思われる。ヨナ書の主題は、エホバは全地を治める御方であり、一つの国または民だけを偏愛する御方ではないということである。
第1章には、主がニネベに教えを宣べる召しをヨナに与えられたことが書かれている。ヨナは主から命じられたことに従わず、船で逃げたが、大きな魚にのみ込まれた。第2章には、ヨナが主に祈り、魚がヨナを陸に吐き出したことが書かれている。第3章には、ヨナがニネベに行き、滅亡を預言したことが書かれている。この結果、人々は悔い改めた。そして第4章には、ニネベの民が救われたことで怒っているヨナに対する主の叱責の言葉が記されている。
イエスは、ヨナが魚にのみ込まれたことは御自身の死と復活のしるしであると教えられた(マタ12:39-40;16:4;ルカ11:29-30)。
『旧約聖書』の中の人物。イスラエルの王サウルの息子。ダビデの親友であった(サ上13-23;31章)。
雄々しい霊の子供たちに現世で、ある使命を果たさせるために、神が前世で行われた聖任。
『新約聖書』の中の十二使徒の一人。ゼベダイの子で、ヤコブの兄弟。初めは漁師であった(マコ1:17-20)。ヨハネ1:40に出てくる名前の分からないバプテスマのヨハネの弟子は、このヨハネと思われる。後にイエス・キリストの弟子となる召しを受けた(マタ4:21-22;ルカ5:1-11)。ヨハネによる福音書と3つの手紙、それに黙示録は、彼の手によるものである。彼は、ヤイロの娘の蘇生(マコ5:35-42)、変貌の山(マタ17:1-9)、ゲツセマネ(マタ26:36-46)にイエスとともにいた3人の弟子の一人である。ヨハネは自らの記録の中で自分自身を、イエスの愛された者(ヨハ13:23;21:20)、また「もうひとりの弟子」(ヨハ20:2-8)と述べている。またイエスは、ヨハネとその兄弟をボアネルゲ、すなわち「雷の子」(マコ3:17)と呼ばれた。十宇架の刑と復活に関する記述の中には、ヨハネについての言及が数多く見受けられる(ルカ22:8;ヨハ18:15;19:26-27;20:2-8;21:1-2)。ヨハネは後にパトモス島に流刑になり、そこで黙示録を書いた(黙示1:9)。
ヨハネの名は、末日の啓示の中で何度も述べられている(1ニフ14:18-27;3ニフ28:6;エテ4:16;教義7章;27:12;61:14;77章;88:141)。これらの聖句は、『聖書』のヨハネの記録を確認するとともに、彼が新約の時代と終わりの時に地上でなすように主から託された業の重要性と、彼自身の偉大さについても理解を与えてくれる。末日の聖典は、ヨハネが死んでおらず、主の再臨の時まで仕える天使として地上にとどまるのを許されたことを明らかにしている(ヨハ21:20-23;3ニフ28:6-7;教義7章)。
【ヨハネの手紙】
この3つの手紙の著者は自分自身の名前を挙げていないが、言葉遣いが使徒ヨハネと非常によく似ているために、ヨハネによって書かれたと推測されている。
第一の手紙の第1章は、神との交わりにあずかるようにとの聖徒への勧告である。第2章は、聖徒が神を知るのは従順によることを強調し、世を愛さないようにと教えている。第3章は、すべての人に対して、神の子となり、互いに愛し合うように呼びかけている。第4章では、神は愛であり、御自身を愛する者の中に住まわれることが説かれている。また第5章では、聖徒とはキリストを信じることによって神から生まれた者であることが説かれている。
第二の手紙は第一の手紙とよく似ている。ヨハネはこの手紙の中で、「選ばれた婦人」の子供たちが従順であることに喜びを表している。
第三の手紙では、忠実さと、真理を愛する人々を助けたことについて、ガイオという人物をたたえている。
【ヨハネによる福音書】
『新約聖書』のこの書の中で、使徒ヨハネは以下の事柄を証している。(1)イエスはキリスト、すなわちメシヤである。(2)イエスは神の御子である(ヨハ20:31)。ヨハネはこの目的を念頭に置いて、イエスの生涯の中の様々な出来事を慎重に選び、配列した。この書は、キリストは神とともにあり、神であり、万物の創造主であった、という前世におけるキリストの状態についての言葉で始まる。キリストは御父の独り子として肉体をもってお生まれになった。ヨハネはイエスの神性と死者の中からの復活を特に強調しながら、イエスの働きの跡をたどった。ヨハネは、奇跡や証、預言者の言葉、キリスト御自身の声を証拠として、イエスが神の御子であると断言している。またヨハネは、光と闇、真理と誤り、善と悪、神と悪魔を対比しながら教えている。イエスの聖さと支配階級のユダヤ人の不信仰をこれほど分かりやすく述べた記録は、ほかにないであろう。
マタイやマルコ、ルカがガリラヤにおけるキリストの働きに重きを置いて書いているのに対し、ヨハネはユダヤにおける働き、特にこの世で過ごされた最後の週に重きを置いている。この福音書に記録されている幾つかのことが、末日の啓示の中で明確にされた(教義7章;88:138-141)。
各章の概要については、「福音書」の項を参照。
【黙示録】
「黙示録(ヨハネの)」の項を参照。
『新約聖書』の中の人物。ザカリヤとエリサベツの息子。ヨハネは、人々にメシヤを受け入れる備えをさせるために遣わされた(ヨハ1:19-27)。アロン神権の鍵を持ち、イエス・キリストにバプテスマを施した。
『旧約聖書』の中の人物。非常な苦しみを受けながらも、忠実に神への信仰の中に踏みとどまった義人。その話はヨブ記に記されている。
【ヨブ記】
この書はヨブの苦難についての記録であるが、ヨブ(あるいはだれか他の人)の苦しみ、ならびに家族や財産の喪失の理由が何かという問いに対して、すべての答えを与えているわけではない。ヨブ記が明らかにしているのは、苦難は必ずしもその人が罪を犯した結果として受けるのではないということである。主は苦難を罰としてだけではなく、経験や訓練や教育を与えるためにも用いられる(教義122章)。
ヨブ記は4部に分けることができる。第1-2章は全体の序である。第3-31章には、ヨブと3人の友人の間で交わされた一連の対話が記録されている。第32-37章には、4人目の友エリフの語ったことが載っている。エリフは初めの3人とは異なる理由を挙げてヨブを非難した。第38-42章はこの書の結びであり、ヨブは自分の生き方が初めから正しいものであったという確認を得ている。
ヨブ記は、神について正しい知識を持ち、神に受け入れられる生活をするなら、訪れる試練にさらによく耐えられるであろうということを教えている。ヨブの不屈の信仰は、「神がわたしを殺されても、わたしは神を信頼する」(KJヨブ13:15)という言葉によく表れている。ヨブについては、エゼキエル14:14;新約ヤコブ5:11;教義と聖約121:10でも言及されている。
ガリラヤの海から死海に向かって流れる川。ヘルモン山からの幾つかのわき水を集め、約160qの長さがある。イスラエルで最も重要な川である。
この川にまつわる二つの重要な出来事として、イスラエルの民のために主が川の水をせき止められたことと(ヨシ3:14-17)、イエス・キリストのバプテスマ(マタ3:13-17;1ニフ10:9)がある。
義にかなった生活から得られる非常に幸せな状態。現世の目的はすべての人が喜びを得ることである(2ニフ2:22-25)。満ちみちる喜びは、イエス・キリストを通してのみ得られる(ヨハ15:11;教義93:33-34;101:36)。
死すべき状態にあって、能力や体力、技能が不足していること。弱さは死すべき状態に必ず伴うものである。人は皆弱い存在であり、義にかなったことを行う力を受けるのは、ただ神の恵みによる(ヤコ4:6-7)。この弱さは、個人の短所やもろさとなって表れることがある。