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過去の記事

animal1 2006/12/30 00:15:43
[No.441]万感の思い
oomiya様、早速の御返信ありがとうございます。

「おぼろ月夜」「月の砂漠」、母の鼻歌をよく聴いていた事を思い出しました。
きっとその送る会を思い描いていたのではないでしょうか・・・

私は物心ついた頃から名古屋に住んでいます。上野から夜行列車、青函連絡船、汽車を乗り継いでの幼少の頃の母の実家への帰省は大イベントでした。
母の死その後は疎遠状態となってしまって、美唄という場所の記憶は断片的且つ曖昧なものになってしまっていますが、石炭の匂い、それのストーブの珍しさを思い出します。
とうめいやま?だったか、蝉を捕りにも行きました。
そしてポプラ並木だと思うのですが、歩いて、赤い切妻屋根の平屋の学校だと思われる場所へ行き、
「ママの行っていたところだよ」の言葉などが、oomiya様が教えてくださった「おぼろ月夜」のエピソードから堰を切ったように思い出されてきます。
言葉にならない感情が、元々文章表現のへたくそな私に拍車をかけて乱文になってしまっていることをお許し下さい。

あ、音痴なところはしっかりと水戸部光子のDNAを受け継いでおります。(笑)


またお時間の許す限り、何かお話して頂けることがありましたら、是非教えて頂きたく存じます。

そちらはこれから寒さ厳しくなる季節ですが、どうぞお身体御自愛下さい。
良い年をお迎えくださいませ。

本当にありがとうございました。

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animal1 oomiya 2006/12/26 01:51:01
[No.439]水戸部先生は
確か国語の先生です。
かなりユニークな先生だった記憶しています。
覚えているのは私が中学1年か2年の時、卒業生を送る会が
体育館でありました。
そのとき余興で女性の先生が3人で「おぼろ月夜」を重唱しましたが
水戸部先生が確か真中で歌っていました。
力一杯歌っていましたが、音程は、かなりはずれていた記憶があります。
その後、堀川校長が負けじとばかりに舟木和夫の学園広場を歌っていました。
中学2年の時水戸部先生の授業を受けたような気がします。
思い出したらまた書き込みします。
それにしても30年前ですか。随分若くして亡くなったのですね。
驚きました。

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animal1 頓珍漢 2006/12/14 00:42:55
[No.437]挽曳競馬
久々のメールです。過日新聞で「最後の『ばんえい競馬』
開幕」の記事を見ました。私の記憶では、「ばんえい」とは、
炭鉱の血を沸かした「挽馬競争」のことであり、それは、
美唄炭山の番町グラウンドに溝を掘ったり、小山を築き、
挽馬競争のために工夫を凝らし、当日は、黒山の人だかりを
集めた記憶しかありません。ばんえい競馬とは、炭鉱が主体で
発展したものだと記憶しますが、はてどうでしょうか。

 それにしても、この欄三井の話題ばかりで、三菱の仁が登場
しないのはどうしたことか。

 ”団塊が話題主役のこの頃は
          昭和一桁影も無くなる”

                  あな寂しからずや

一つの発見、「たんざん」という語一発変換ならず。

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animal1 5丁目の住人 2006/12/10 11:54:14
[No.436]中2のとき
okinuさん中2のとき北川先生ということは同級生ということですね
あの当時毎週のように誰かが転校していましたよ、
解散時は37,8人くらいまで減少していたとおもいます。
中学校は近くに移りましたが、ポプラ並木、グラウンド
国旗塔、など当時のまま残っております。
okinuさんは最盛期の三井が記憶に残っていることと思います
その当時から比べますと少しがっかりするかもしれませんが、
青雲寮のあたりは住宅が比較的のっこております。
3丁目下の浴場、配給所なども建物がのっこていますよ
今度いける時があるといいですね。

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animal1 27年生まれ 2006/12/06 17:47:02
[No.435]懐かしい先生
遠藤先生、懐かしいですね私は2年3年担任でした。
3年の秋口、先生の石炭小屋に石炭の入れ込みを手伝い
お礼に焼き鳥をお腹一杯ご馳走成った思い出があります。
恐く、優しい先生でした。

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animal1 okinu 2006/12/05 09:39:25
[No.434]懐かしいです
北海道から内地へ引越ししてきて?十年美唄を知っている方達と初めて出会いました。
これもネットのお陰ですね。英語の北川先生中2の時の担任でした。動ける内にもう一度美唄を訪ねて見たいと思っています。年ですかねぇ妙に懐かしく思い出されます

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animal1 5丁目の住人 2006/12/03 11:36:31
[No.433]なかでんでん、えんちゅ、らきょう
oomiyaさんは遠藤先生でしたか、十勝岳噴火のとき私くしも
1年生で担任は中新田先生でした。遠藤先生とは2年生の2学期からでした
炭鉱閉山でクラスの人数が急減と図書室を使用していたので
途中でクラスが解散数人ずつ分かれて他のクラスに編入しました。
仲のいいクラスで非常に残念でした。このときの先生は
北川先生です、北川先生とは美工でもお会いできました
やはり英語を教えておりました。ちなみに3年生は石割先生です
もし同じクラスの方がおりましたら、懐かしい話を聞かせてください。

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animal5 こまっちゃん 2006/11/25 10:39:52
[No.432]4年ぶりの投稿
久しぶりです。oomiya様のお陰で、美東や美中の仲間と連絡が取れるようになりました。
アカシヤ並木がなくなたのは寂しいですね。青雲寮の名前を見ると懐かしい。10数年前に、美唄に行きました。と言ってもサァーと通っただけです。三井美唄の小学校跡地には草木が生え、コンクリートが白い肌を見せていた。それまでは三井美唄の思い出をキレイに残して置きたくて、美唄には行かないと決めていたのです。意を決して行きましたが、すごく落ち込んで帰ってきた。自分が触れたもの、見たものが消えるのは、本当に寂しいものです。
昭和24年?かな、炭坑の野球部が東大のチームと戦いましたが、敢えなく敗戦。東大って強かったんですよ。炭坑チームで、清田さんの名前を記憶しています。眼がギョロっとして、ごつい体で大きな方でしたから。あの球場もなくなったんだろうな。

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animal1 okinu 2006/11/07 15:12:21
[No.430]初めまして
あまりにも、懐かしくて書き込みしてしまいました。私は、昭和38年まで3丁目の青雲寮の前に住んでいました
三井美唄小、中学は2年まで居りました。中学の2階から十勝岳の噴火を見ていたのを今でも覚えています。ところで、このHP、まだやってますよね?!

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animal1 oomiya 2006/11/12 01:25:14
[No.430 - 1]okinuさんはじめまして
懐かしいですね。十勝岳の噴煙は私が中学1年生のときでした。
HRの時間に担任の遠藤先生が窓越しに噴煙を見ながら何か言っていたような
気がします。
青雲寮は後に火災で全焼しましたね。
原因は確かルンペンストーブの過熱だったと思います。
ところでこのHPは一応運営はしているつもりです。
本職が今忙しくてなかなか手がつけられませんが、よろしくお願いします。

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animal1 中年少年 2006/11/11 09:56:41
[No.431]同じ人がいたんですね
okinuさんもも同じでしたか。同じ時期に同じ経験をした方がいらっしゃったんですね。そういえば、体があったまるとかゆくてかゆくてたまりませんでした。あまりにかゆいのでかくのでなかなか治りませんでした。今でも両足両腕にかぶれた跡が残っています。十勝岳の噴煙私も見ました。私の場合は、小学校1か2年生だったと思います。あっ1年生の時の担任の先生は、荒木英郎?先生でしたよ。

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animal1 中年少年 2006/10/18 21:29:06
[No.426]すっかり秋めいてきました
紅葉の便りが聞かれる季節になりました。三井の山はどうなんでしょうか。真っ赤なツタうるしにかぶれて炭坑病院で真っ白な軟膏を塗られた思い出がよみがえります。もう少しで初雪、そして根雪になるんでしょうね。三井の近くにお住まいの方降りましたらお便りください。

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animal1 okinu 2006/11/07 15:25:55
[No.426 - 1]Re: すっかり秋めいてきました
初めまして*記事を読んであっ!私も、と言うわけで書かせていただいてます。夏もよくウルシにかぶれましたが冬、体育の授業で給食のパンを持ってスキー遠足みたいのに行くんですよそうすると、必ずかぶれて、しかも顔と手ですね白い軟膏(たぶんチンク油)塗られて、顔中包帯巻かれてミイラ状態毎年繰り返していました。ストーブの傍にいると、暖まってこれが痒くなるんですよ中年少年様はどうでしたか?美唄には住んで居りませんが同郷だったのかなと思い書いてみました

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animal4 奥山@三菱大夕張鉄道保存会 2006/10/28 19:41:25
[No.428]石炭の歴史村
夕張・石炭の歴史村の施設は、全て冬季休業に入りましたが、報道の通り財政再建に関連して来年以降の存続は不明です。
夕張市石炭博物館には日本の近代を地底から支えた、炭鉱の膨大な資料が、SL館には石炭を運んだ鉄道の車両・資料が保存・展示されています。
また、炭鉱生活館には炭鉱労働者の生活の記録が展示・保存されています。
三菱大夕張鉄道保存会では下記リンク先の通り、北海道産業考古学会の署名活動に賛同し、協力しています。1月ほどの期間ですが、署名やリンク設定などご協力を頂ければ幸いです。

http://www33.ocn.ne.jp/~noritax_world/shomei0610/shomei0610.html

http://www33.ocn.ne.jp/~noritax_world/shomei0610/shomei0610.html
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animal1 中年少年 2006/10/18 21:29:38
[No.427]すっかり秋めいてきました
紅葉の便りが聞かれる季節になりました。三井の山はどうなんでしょうか。真っ赤なツタうるしにかぶれて炭坑病院で真っ白な軟膏を塗られた思い出がよみがえります。もう少しで初雪、そして根雪になるんでしょうね。三井の近くにお住まいの方降りましたらお便りください。

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animal1 中年少年 2006/09/22 15:12:17
[No.425]寂しい限りです
アカシアの並木は消えていましたか。だんだん当時の思い出の場がなくなっていくのは仕方ないにしても残念でなりません。三井には行こうにもやはり遠く、なかなかいけません。せめてこのサイトでたくさんの方々の思い出話で子供の頃の三井を懐かしむしかないのでしょうか。老後は、三井に住みたいとも考えていますが、それも難しいのでしょうね。

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animal6 通りすがりのもの 2006/09/24 00:01:47
[No.425 - 1]Re: 寂しい限りです
どうぞ思う存分書いて下さい。三井に住んでもバスの便も
悪くなっていますし、労災病院まわりと2本立てとなり、
利用しにくいです。バス会社が変わってから一度も乗って
いません。

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animal1 5丁目の住人 2006/09/18 21:59:28
[No.424]少し時間がありました
先日美唄に用事ができ、多少時間がありましたので三井のほうを歩いてきました。
3丁目の生協、消防署、4丁目の配給所などのっこておりますが、そのままの使いかたを
しているのは三井美唄幼稚園だけのようですね、手入れがよく昔のままですね
多くの子供たちでにぎやかだった3丁目の公園は、プールが埋めたてられ、当時の面影を
残すのは滑り台の横にある大きくなった柳の木だけです。
私の住んでいた5丁目下は道もなくなり、寂しい思いがします。
よく遊んだ下沼はきれいとはいえない沼でしたが、今は水が澄んでいました。
下沼の脇にある6丁目の配給所は夜8時、9時まで開店している部があり、大人たちが
立ち飲みをしてました、その配給所も風雪のため半壊状態でした、ひとつずつ思い出が
消えていくのでしょうね。
中年少年さんアカシアの並木は残念ですがなくなってました、でもアカシアの木は
多く見かけましたよ。今度帰ることがありましたらもっとゆっくりまわりたいです。

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animal6 太郎 2006/09/05 15:10:18
[No.422]懐かしいです
ふるさと「美唄」で検索したら出会いました。
出てから40年。東高から途中で転校しました。
私も良い年ですが、参加の皆さん大先輩が多いようです。
また、三井の関係者も多いようですね。
私、三菱の関係者。(父が美鉄に勤めていました)
なにしろ子供時代の思い出が強く残っています。
高島屋のジンギスカン。
まるじゅうデパートの開店。
美唄初のエスカレーター(ベルト式)に乗りまくりました。
和田公園のボートとスケート。
あまりにしょぼい花火大会も楽しみの一つでした。
(打ち上げ間隔が3分位あったと記憶しています)
お祭りの屋台。
いつも小学校の運動会と重なることが不満でした。
そして、夏休みの少年野球大会。
いつも負けてばかりでしたけど。
東京に出て出身地を言った時、「美しい唄の町ですかすばらしいですね」と言われ、
あーそうか、と初めて認識しました。
住んでいる時は、「美しい唄の町」という実感はゼロでしたから。
札幌までは行く機会があるのですが、一度是非、帰りたいと思っています。

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animal1 浜のカッペ 2006/08/08 19:44:40
[No.421]美唄の絵葉書
 美唄を出て30年以上経ちました。美唄に想いを寄せるみなさんの書き込みをよませてもらっています。
 7月下旬に数十年振りに美唄に行ってきました。街の様子はかなり変わっていましたが、やはり美唄は美唄見覚えのある風景も沢山ありました。
30日、帰る前にと市内を散歩中、ホテルスエヒロで、美唄出身の田中一生さんが文化講演会をやっている看板を見かけましたので、覗いて見ました。講演会は丁度終了するところでしたが、この会場のコーナーで「スケッチ美唄」という絵葉書を販売していました。
ポスターに[本日リリース]とありましたので、手にとってよく見ると、美唄出身の画家・北浦 晃さんが現在の美唄の風物をスケッチしたもので、8枚一組のスケッチ絵葉書でした。絵の説明文は美唄在住の研究者・白戸 仁康さんとなっていましたが、観光地などの絵葉書とは一味も二味も違った美唄育ちにはたまらない傑作品でした。
お土産に最適と6組ほど購入して、友知人に贈ったところとても喜ばれ「どうすれば手に入るのか」と口々に言うので、それならばと美唄を偲ぶみなさんにも紹介したくなったわけです。見本を紹介できないのが残念ですが、[ギャラリーどらーる]というHPを見ると紹介されています。

 発行・発売は美唄新聞社(TEL・FAX 0126-64-4260)で定価は一組500円です。

美唄新聞社のHPは分りません。

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