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■お信地蔵■
主人公の「彼」ってばとんでもない輩だと、思いました。お信の伝説を美しいと感じるのは自由だし、あいまい宿を利用(したかは定かじゃないですが)するのも、まあ勝手ですが、そのあいまい宿の女が作った(と勘違いした)氷水を汚いと言うか?吐き出すか?何様のつもりじゃい!
で、その一方で彼は、そのあいまい宿の娘に「聖なる者」を見出したりしている。色情の美しさなるものをお感じになったりしている。何なんだ!
「彼」は女を、人間として圧倒的に否定すると同時に、神様みたいに崇め奉ったりもして、このバカ、と、思わず言ってしまいたくなるのですが、そういう、二律背反する気持ちが、男の人の、この「彼」の、素直な心境なのかなぁ、とも思え、そうすると、なんか男って可哀相な生き物だなぁと、しみじみ思ったりして。現実の中では女を卑下することで、なんとか自分の位置を確固たるものにしつつも、幻想では女を愛するしかないというか、結局女を捨てては生きられないというか。この「彼」の場合は、ですが。
で、思うのですが、康成サマの作品たちは、ともすればフェミニズム批評方面からの攻撃を受けやすい状況にあると思うのですが(これまで何本もそういった論文を拝見してきました)、すごーくギリギリのところでむしろ女性の側に立っている、という表現はおかしいですが、けして女性を卑下しようとしているわけではないと思います。
この「お信地蔵」にしても、この主人公の「彼」は確かにバカで(怒られますね。ごめんなさい)、その彼が男のある意味本質を表している存在として描かれていることは否定できないと思うのですが、最後の場面で女たちが大きな声で笑っていることが、この「お信地蔵」の重要な部分ではないかと思います。
解釈のし様によってはいろんな読み方ができると思います。男の人の高尚かつロマンティックな思想を全く理解してないバカなオンナども、とか。でーもー、その女たちの笑い声は秋の高い青空に響き渡るような明るい声なんです。私には、勝手かつか弱い「彼」のちんけな思想を、もろともせずにケラケラ笑っていられる女の強さとか、美しさが感じられました。
ものすごく勝手な解釈をさせて頂いちゃいますと、この「彼」の必死さというか、この「彼」の考え方には説得力はあるけれど、ある意味「滑稽」で、そういう男の人を描くことで、康成サマがちょっと自嘲されているようにも感じられました。女の笑い声と秋の空はセットで、それに対峙する「彼」の考え方は人工、それも男が作り上げたものであるというか。「お信地蔵」自体、人間が勝手に形作ってそこに信仰を見出したものだし、それを否定するとかしないとかではなく。うまく言えないなぁ。ほんとにいろんな風に解釈できるお話だと思います。私には美しかった、どぅえっす。ナカヤマキンニクンどぅえっす。
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