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この作品は、中間小説と呼ばれ、俗っぽい娯楽小説だといった見方もあって、あまり、重要視されてこなかった作品である、そうです。で、すっかり俗っぽい私なぞはこの作品、大好きでーす。ふさ子かわいー。
康成様ご自身は、フェルナンデス氏が訳したこの作品を評して、「通俗的」だと仰っています。と、いうことは康成様、通俗的な作品だとは考えていらっしゃらなかったのではないかと、思うのですが。だからね、通俗的なんて言うなー。あと、義三が純粋すぎて描かれている、とも仰っています。英語(なのでせうか)なぞ読めませぬのでわかりませぬが、確かに義三は純粋なキャラなんかじゃないぞ!と思います。義三っていまいちわかんない。光源氏みたい、キャラ。
三人の中心的な女の子が登場するのですが、その子たちのキャラに合わせて変幻自在。人間は多かれ少なかれそうですけど、極端!
不幸な(と言い切っちゃいけませぬが)境遇のふさ子に対しては「自分の好きなように仕立てていく夢」を描いたりして、先生というか父親というかオヤジな態度で接するかと思えば、キャリアウーマンである民子に対しては母親に対するような甘えを感じさせたり(民子は義三を「私の坊や」といって抱きしめたい感情を持ったりしてます)、桃子に対してはいいお兄さん、みたいな感じで、どないやねん!と関西弁で言ってみたくもなるのさ。結局誰を選ぶわけでもなく、物語は終わってしまうし。義三ってばモテモテ。康成様の小説には、自分はその気がなくてもモテてしまう男の人の話が多いような気がする。『掌の小説』群の「月」とか。なぜかモテてしまって、自分からは恋しないというか。「女に不自由してない」とは小説内のお言葉ですが。こういうタイプの男の子って今のマンガの主人公に多いような気がする。康成様ってばおモテになったんでせうねぇ。
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