病的科学:Pathological Science

 というか科学と非科学のグレーゾーンへの駅

 考えてみれば当たり前なのですが、科学と非科学の区別は容易にはつきません。それらの境界線はくっきりしているというよりはグラデーションになっています。そしてそれらグレーゾーンに存在するものに対する呼び名は、疑似科学とか、境界科学とか、病的科学、異常科学などいろいろあります。それら個々における科学の度合いはさまざまで、それによって呼び名も違うらしい。

 さて、このコンテンツはhilihiliであつかったいわゆる”科学と非科学の境界線上にはいりそうな仮説や学説”を集めて、各々にリンクをはったものです。いってみればHPのあちこちに散らばったコンテンツへ通じる駅のようなものだと思って下さい。

 hilihiliは北村のメモ帳の域を出ないものですし、そもそも疑似科学批判が目的ではないのでこれらのコンテンツの数はさほど多くありません。そして当然のことながらそれぞれの科学の度合いもまたさまざまです。スタンダードな仮説と見た目はあまり変わらない魅力的なものから、だれもが非科学であると見なすものまであります。そしてそれらのHPにおける本来の配置は以下の通り。★印がこれらの”仮説”を扱ったコンテンツであり、HPの分岐構造上における位置を示すために、個々の上位に位置するコンテンツも示しています。。

hilihili  

|__進化と系統のあれやこれ 

|  |__進化学はなぜ誤解されるのか?2(ルイセンコ学説 *注:記述はコンテンツの後半) 

|  |__詭弁の主張の仕方(詭弁の方法論) 

|__恐竜のコンテンツ 

|  |__異説で考える恐竜の科学 

|     |__グレッグ・ポールの仮説 

|     |__フェドューシア教授の仮説 

|     |__ダイノバード仮説 

|__科学のコンテンツ 

   |__ナポレオンは実在したか?(創造科学) 

 

 仮説演繹に基づいた付帯的な説明:

 先にいったようにこれらのコンテンツは別に疑似科学批判が目的ではないので、以上の仮説はリンクされたページの文章すべてにおいて言及されているわけではありません。例えばルイセンコ学説に関しては進化学の日本での普及を阻害した原因のひとつとして扱っていますから、文章の後半でしか出てきません。また、創造科学に関しては素朴な疑問を会話形式でしか語っていません。

 ともあれ、

 それにしても考えるに、こういう病的科学とか境界科学と呼ばれるものはえてして仮説演繹の過程が成り立っていない、そういう特徴を共通して持つように見えます。

 仮説演繹、つまりなんらかの方法で導き出した仮説/理論と前提条件から演繹的に予想を導き出す、そしてそうした予想が現実に見られるかどうかそれを帰納的に探す。そうして最初の仮説/理論を検証する。

こうした方法論は科学の世界では普通に使われているものですが、疑似科学とか病的科学と呼ばれるものはこういう仮説演繹の過程を成り立たせる力が十分にないか、あるいはもともと欠落している。さらにいうと無視する傾向があるように見えます。

 例えばルイセンコ学説は、そもそもにおいて理論があやふやであったらしく、メンデル遺伝学や集団遺伝学よりも予言がいい加減であったように見えます。また、自らの予想に基づいて行なった実験結果も、それが自説に否定的であった時には無視しました。

 創造科学もおよそ同様でしょう。神さまという仮説や理論からどこまで具体的な予測が導けるかというと、それはかなりアバウトであるようです。さらに予想の積極的な検証もされていません。数世紀前の創造科学が非科学であるとはいいませんが、現在の創造科学が科学であるかというとそれはまったく違うように思われます。

 さらに鳥の進化に関する3つの異説。このHPでもうけた異説で考える恐竜の科学とは恐竜学とその周辺で現われた異説に関して紹介したコンテンツで、いま申し述べたように3つの異説を紹介しています。数年前の内容なので書き方や検討の視点が古いのですが、もとの状態のままリンクすることにしました。ちなみに現在、研究者の間でスタンダードである鳥の進化と飛翔の起原に関する仮説については次ぎを参考にしてください。

 鳥の進化はどのように考えられてきたか 

 ミクロラプトル・グイの発見は科学にどのような影響を与えるか?(2004年における記事の補完) 

 また、以上のスタンダードな仮説に基づいた鳥の進化の解説を左の書籍で紹介しました。これは基本的に国立科学博物館の真鍋主任研究官の記事、パリティ 2003.11 pp52~56 に従っていますので、参考にしてください。まあ系統解析の結果から考えても現時点では”新しいムササビ説”は”飛行機説/疾走離陸説”に取り込まれるというのが妥当でしょう(ようするに鳥の飛行の起原は基本的に地上から始まっている)。

 さて異説に話を戻すと3つのうち、グレッグ・ポールの仮説はたぶん、スタンダードな仮説ともっとも整合的であるように見えます。ある意味、境界線にあるもののなかでも、既存の科学に一番近いのかもしれません。そうなった理由はおそらく彼が考慮したデータが非常に多く、なおかつそれらをなるべく整合的に説明しようと試みたからのように見えます。ようするに観察が鋭いんですね。逆にいうとなんで既存の仮説と整合的でないかというと、どうも前提にした仮定に無理があったり、あるいは化石記録の産出順序を系統にそのまま反映させてしまったことにあるように見えます(こういう化石記録の不完全性については例えば古典的にはダーウィンがよく検討しているので「種の起原」を参考にしてください)。

 それにくらべるとフェドューシア教授の仮説ダイノバード仮説はかなりまずいもので、仮説演繹の過程がほとんど成り立っていないようです。予想を導く能力が既存の仮説にくらべると劣っていたり、そもそも自力では導けないようになっているように見えます。さらに悪いことに予言を帰納的に検証するという点において失敗しています。ようするに仮説を支持するデータがまるで出てこないのですね。増えるのは反証だけで時がたつにつれてこれらの仮説がどんどん不利になっていくように見えるのはそのせいでしょう。そういう点において、これらはおそらくルイセンコ学説や創造論とあまり差がないようです。たぶん、提案された時点では科学的仮説であっても、現在は検証の結果棄却されてしまったもの、というのが現時点における評価ではないでしょうか。

 こうした仮説の問題点を仮説演繹の視点からまとめると、おそらく

 より多くのデータを説明する仮説ではなくて、むしろ説明能力が劣る仮説を選んでしまった。導ける予言がしばしば曖昧であるか、あるいは自力では不可能だった。しかも仮説を支持しないデータがどんどん増えている。場合によっては反証を無視している。

ということになりそうです。ようするに仮説演繹の過程がうまくいっていないわけですね。そのためこれらの仮説はスタンダードな科学ではなくて、境界科学とか異常科学とか、疑似科学、非科学といわれてしまう領域に入ると思われます。

 注:ちなみに北村のいっていることは、たいして使い勝手もよくないし、あらが目立つし、予想もはずれるし、あげくに不利な証拠が増えても耳をかさずに言い訳ばっかりしている、こうなるとそれはもう科学と呼べないよね。という程度のことです。また、世の中にあるすべての怪しげな仮説や面白い理論にこの特徴のすべてがあてはまるわけではないですし、ここで取り上げた仮説にしても同様です。ようするに程度の問題ってわけですね。

 

 たぶん、パターンとプロセスの話: 

 ちなみに、どういうわけか鳥の系統仮説や鳥の飛翔の起原については以上のような疑似科学的な議論が非常に多いようです。まず例え話をしましょう、”サルが樹上性であるからウシの祖先は樹上性だった”このような主張を北村がした場合、多くの人がこの意見に違和感を持つことは疑いがありません。しかしながら同時にこれは興味深いことを示しているように思えます。ようするに人間は、ある動物の祖先の特徴を推論する時、他の動物との類縁関係なり体系的な関係を考慮しているのではないでしょうか?。

 これはおそらく、データをよく説明できる仮説を見つけてから仮説から推論できる過去に関する議論を行なうということです。これはおよそ正しい考えで、生物の歴史の過程を調べるにはまず系統解析をして系統樹や分岐図を手に入れなければいけません。ようするに最初にデータ。そしてデータが指し示す最良の系統仮説を選んでから過去に起きた進化のプロセス、つまり歴史を議論しなさいということです。

 しかし、スタンダードな研究者以外の人が鳥の進化の過程や飛翔の起原を論ずる時には、以上のことがしばしば無視されます。例えば鳥の飛翔は樹上ではじまったという意見がその典型ですね。古典的に信じられてきた鳥の樹上起原説はいまや非常に不利な状況なのですが、いまでもこれを支持する人々の間では、まず議論の大前提になるはずの系統仮説の妥当性が不明のまま話が進められる、そういうことがよく見られます。

注:考えてみればそれは当然かもしれません。古典的な樹上起原説が不利になったのは、そもそも系統解析という手段が妥当な系統仮説を見つけたこと、そしてそれが樹上起原説を支持しなかったからです。反対にいうと、このような状況でもなお古典的な樹上起原説を主張するには、系統解析と系統仮説を無視する必要がおそらくあります。だとしたら、根拠不明の系統仮説を持ち出してくるのはむしろ必然となるでしょう。樹上論者はしばしば分岐学や最節約法を無視したり攻撃したりしますが、それも当然なんでしょうね。歴史科学は科学じゃないという言い訳もまた同じ。

 一例をあげると次ぎのような論法がそれでしょう。

 翼竜やコウモリは樹上から飛翔を始めたから鳥の飛翔も樹上から始まった

 これはコウモリや翼竜の飛翔起原はすでに解決済みの問題であるということを大前提とした議論です。しかし果たしてそうでしょうか?、例えば翼竜やコウモリが樹上に起原したことを支持する確からしい系統解析の結果はほとんどありません。コウモリが樹上性の動物と姉妹グループになったという系統仮説で確かな例はどのくらいあるでしょうか?(例えばMurphy etal 2001 nature 409 pp614~618 では翼手類は食肉+奇蹄+偶鯨類の姉妹グループになっている)。

 あるいは翼竜のことを考えましょう。翼竜の飛翔の起原もまた議論の的になっています。例えばスクレロモクルスという小型動物と翼竜が姉妹群をつくるという結果(Sereno 1991 J.V.Paleontology, VoL11 Supplement to Number 4 pp1~53 を参考のこと、ただし著者が書いているようにこの結果は不安定)があり、人によってはスクレロモクルスが樹上生活者だから翼竜も・・・といいます。しかしながらスクレロモクルスと翼竜が姉妹群であるかどうかはかなり不安定な仮説で、恐竜+ラゴスクスの姉妹群になる時もあります(The Dinosauria 2ed のBenton による記事 pp7~19 を参考のこと)。

 またそもそもスクレロモクルスが樹上性であるのかどうかが問題になりえます。ちなみに翼竜の飛翔は地上起源だという仮説もじつはあるんですよね。なお北村のスクレロモクルスに関する愚痴は恐竜学講座2004. 01 を参考のこと。

 ようするに翼竜やコウモリが樹上起源だから鳥も、という論法は、そのままでは根拠があいまいか、あるいは乏しい仮説に基づいた正当化であって、最悪の場合、単なる憶測に基づいた主張になってしまいます。これは悪い意味での循環論法ではないでしょうか。

 こんなことになってしまうのも、おそらく最初にいったスタンダードな手続きを無視したからでしょう。ようするにデータから系統仮説や分岐図を導き、そしてその後、導いた分岐図に基づいて進化の過程を議論しなかったからこういうことになっている。反対にいえば、最初に考慮するべきデータを無視した。そして何をどうやったのか知らないけど系統仮説を作って(しまって)、さらにそこから議論を展開したことが地雷となっているのでしょう。

 実際、これは非常にまずいことです。例えば私たちが人間の成長について論じるのなら、赤ちゃんから大人にいたるまでの人間の年令と身長のデータをとって、そこからまずそのデータを説明する成長グラフを描く。そしてこの成長グラフから人間の成長に関する議論を進める。たぶんこれが正しいやり方です。

 しかしこれを逆にしたらどうなるでしょう?、人間はネオテニー進化したから人間の成長曲線は非常にゆるやかなカーブを描く、そしてそのようなグラフにそって議論を展開しデータを解釈する。これは手続きとしては一応ありなのかもしれません(非常に好意的にいうとアブダクションということで発想の根拠は問わないことができるかもしれない)、しかしこの後ちゃんと仮説演繹の過程をふまないと、このままではいかにもまずい世界に突っ走りそうです。

 例えばこのような成長グラフを考えた上で周囲の人間を見回せば、自分の理論を支持しない事例がいくらでも見つかるでしょう。これは予想して観察したら反証がたくさんでてきたということであり、こういう場合、研究者だったら自分の最初の仮説や理論を疑って捨て去るのが普通です。そしてこのような動作も仮説演繹の過程(ただし仮説が否定されてしまった例)です。実際、こうすることで私たちは最初の間違った仮説を捨てて軌道修正できるでしょう。

 しかしもしその人がそうしなかったらどうなるか?。場合によってはこれは適切な事例ではないという言い訳を呪文のようにくり返して反証を無視するかもしれません。ようするにまずい世界へ突っ走るわけですね。

 そしてこういうことは系統仮説を作っちゃいましたではたぶんものすごく起こりやすい。直感に頼った方法で系統仮説を選ぶことにはどだい無理があって、例えば10種類の動物が持つ30個の特徴、合計300のデータが指し示すもっとも妥当な系統を、私たちは暗算で導くことができるでしょうか?。これはデータとしてずいぶん少ない部類のはずですが、よほどきれいなデータでないとおそらく無理でしょう。現実問題として生物が持つデータはかなり複雑怪奇でぐしゃぐしゃな構成になっています。ですから人間が霊感で導ける系統仮説とは、せいぜいが任意で選んだわずかな特徴を考慮しただけの恣意的で簡単なものでしょう。

 だとしたらちょっと議論が進めばあっというまに自説が危うくなりえます。たとえば霊感、直感で系統仮説を選んださいに無視したデータが、自説を支持しない(なにぶん無視しただけに)反証となってすごい勢いで出てくるかもしれない。

 でっ、まさにこれが現在における鳥の樹上起源説でしばしば行なわれていることらしい(例えばフェドューシア教授の仮説ダイノバード仮説をもう一度検討してみよう)。

 くりかえしますが、私たちは最初にデータから系統解析で分岐図なり系統仮説を導きだし、そして今度はそれにもとづいて過去の歴史を議論するべきです。じじつ、研究者が行なっているのはこういうことであり、たいていの場合、論文の記述もそういう形式になっています。

 また仮にそういう手続きを踏まないにしても、仮説演繹な過程は厳密に踏むべきでしょう。霊感から選んだものがすべてダメなわけでは多分ありませんから、うまくすればそれが検証された良い仮説であることが分かるかもしれません。ですが、それには厳密な予想と予想を支持する証拠集めが必要です。反対にいうと鳥の古典的な樹上起源説や以上で取り上げた異説がいまやほとんど支持されなくなったのは、このような形式をいずれも踏んでもいないし、条件もみたしていないからです。

 また、ここにはもうひとつ別の大きな問題が隠れているように見えます。

 例えばスタンダードな系統解析方法である最節約法で分岐図(最節約法で選ばれた系統仮説)をチョイスした場合、それは説明できるデータは最大に、収斂とか逆転というようないわば誤差や特別な説明にあたるようなものは最少になるようにしてあります(例えばこちらを参考)。

 反対に、先にいったような根拠不明な/あるいは支持するデータが少なくてかたよっている系統仮説はそうではありません。この場合、むしろ説明できるデータは少なく、反対に誤差や特別な説明が多く取り入れられています。ようするに言い訳を多く持ち込まないと成り立たない仮説をわざわざチョイスしてしまっているわけです。これはじつは、

 仮説に不利な証拠が現われたら言い訳ですませようとする考え方をも同時に選んでしまっている

ようにも受け取れます。

 実際、言い訳の数を最少にしようと考える人ならこのような仮説をわざわざ選ばないでしょう。反対に、言い訳の数が多くないと成り立たない仮説を選ぶことには、その背景にあるであろう、必要以上に補助仮説を導入する哲学や考え方まで選んでいるかもしれません。例えばフェドューシア教授の仮説も、ある特徴が系統を絶対的に反映している、という仮定がないと成り立たないんですよね。だとしたらそういう仮説を選んだ時点でそういう仮定も選んでいるわけです。

 言い訳を多くする。これはしばしばまずいことで、補助仮説を必要以上に導入することは任意の仮説の正当化につながります(例えばアメリカ政府がUFOを隠している説はこれにたぶん該当する)。ようするに疑似科学でもっともありがちな行為にいたる傾向を選んだと受け取ることができる。

 例えば自説に有利なように大規模な収斂進化を説明として導入したり、あるいはこの特徴こそ系統を裏付ける証拠だと主張したり、あるいは過去の歴史だからそこまで分からないと不可知論に逃げたり、あるいはこういう意見があってもいいだろうと価値観に逃げたり、あるいは手に入る証拠が少ないのだからこれでもいいだろうと実際にはすでに存在する証拠を無視したり。最節約が正しいとは限らないといったり、自分には理解できないから間違っているに違いないとか(理解できないものはすべからく間違っているという主張のこと)、あるいは陰謀論とか研究者は保守的だとかそういう意見を・・・・。

 逆にいえばスタンダードな研究者が異説を選ばないのは、一部の人がいうような保守性とか価値観とか感情的な理由が原因ではありません、むしろちゃんとした科学の手続き上における正当な理由があるわけです。

  

 系統解析に関して知りたい人は以下の書籍を参考のこと

 「生物系統学」三中信宏 東京大学出版会

 「系統分類学入門」E.O.ワイリー 文一総合出版

 「過去を復元する」E.ソーバー 蒼樹書房

系統解析に関するhilihiliのコンテンツはこちら

  最節約法による系統解析→

  最節約原理→ 

 翼竜の飛翔と航空力学の簡単な解説については

 「恐竜解剖」マクガワン 工作舎 (ちなみにこの本は原題の[ Dinosaurs, Spitfires, and Sea Dragons] の方が作者のメッセージが分かりやすい)

 ちなみにスタンダードな研究者や仮説の支持者に問いつめられて困った人のための便利な詭弁の使い方についてはこちら→詭弁の主張の仕方(詭弁の方法論) 

 

 科学のコンテンツに戻る→  

 

 ちなみに、北村がどうしても理解できないのは、鳥は樹上起原の動物だ、なぜなら地上(平面)から飛行にいたった生物などいないではないかという主張があることなんですよね。これは不思議な主張で、ようするにこれ、私は過去の地球で起きたことを知っている、という主張なんですな。それとこれが正しいとするとトビウオが樹上起原だってことになる。いや、それでもいいんですけど、さすがに無理があるだろうと。

 また、それをいったら滑空から自力飛行に移行している生物だっていないし(いるかもしれないが少なくとも私は知らない)、滑空から自力飛行に移行する進化の瞬間を目撃した人もいない。さらにいうと滑空から自力飛行する動物が進化したことを示す系統解析もほとんどない。

 思うに、鳥に関することとなるとどうも得体の知れない疑似科学のような主張がわさわさ巻き起こるように見えるのだけど、これはもしかしたら人間は鳥になにかひどく強い思い入れがあるせいかもしれない。実際、彼らはしばしば神の使いとして神話、伝承にあらわれる。