進化学はなぜ誤解されるんだろうと考えるメモ:その2:科学は演繹だけか? (その1はこちら)

 

 1:科学は演繹だけだと思うと進化理論や系統解析が理解できなくなるのではなかろうか? 

 ダーウィニズムや系統解析は歴史科学であって科学でない

 そのように主張する人が時々います。これは一般の人があまりする発言ではありません。むしろ個人的な経験や観察からすると、科学に興味があって科学関係の本をたくさん読んでいる人に見ることができる主張のようにみえます。

もちろんここで引用したこうした主張は表面的には、

 僕はこれを科学でないと分類した

 僕はここまでの範囲を科学という名前をあてはめるカテゴリーとしたが、進化理論はそこには入っていない

という内容でしかないのでこれ自体にたいした意味はないでしょう。むしろ彼らがいう歴史科学と他の科学の違いとはなにか、そしてその違いからどんな効果の差がうまれるのか?、そしてそれを論点とすることにどんな意味があるのか?、が重要です。

 さて、こうした意見をいう人はしばしば典型的な科学とは物理学であり、歴史科学は物理学のように再現実験ができないじゃないか、と主張するようです。

 確かに物理学は科学の王者ですし(このイメージが妥当かどうかはともかくとしてそう見える)、歴史科学が再現実験不可能であることは(後で指摘するようなことを取りあえず無視すれば)まったくその通りだと思われます。そして再現実験可能なものだけを科学であると定義することもできます(その定義の根拠はなんだ?というのは取りあえず置いておくとして)。

 ただそうなると宇宙論や星の進化理論も科学の範疇に入れることができるかどうか、それは怪しい。私たちは実験室で明らかにした幾つかの法則と前提条件から遠い過去の宇宙や未来の星の姿を、素粒子の様相を予測できます。そしてそれを実験や観測で確認することもできます。しかし場合によるとその予測を実験室で再現することに限界が生じることがある。例えば人類の技術では到達不可能なエネルギーが要求される実験というものがありますからね。もちろんそういう場合でも自然の観測を通じて予測を確かめることがしばしば可能ですし、実際に宇宙論や素粒子物理学にたずさわる人たちはそうやって仮説を検証している場合もあります。しかしこの動作自体は再現実験そのものではありませんよねえ。

 ようするに再現実験できなければ科学でないというのは、実験はできないが観察でなら理論を確認できるという状況を認めない融通のきかない考えなのではないかと。

 また、歴史科学を科学ではないと定義しても、その定義自体で歴史科学が行なっていること、つまり過去を推論する有効性なり必要性が否定されたわけではないでしょう。もしそれを否定するのなら、その人はどうやって過去を把握しているのでしょうか?。記憶に頼ればいいという人もいるでしょうが、他人と話していて、昔の自分のメモを見て、あるいは本やなにかの手がかりから自分が思い違いをしていたと気がつく瞬間は誰にでもあるはずです。

 ようするに私たちは過去という推論を現在手元に入る証拠から確認して、証拠を加えて確認したり、場合によっては最初の推論を補正しているわけですね。明らかに我々は過去を検証する作業を絶えまなくしている。

 もちろんこうした動作は必要ではあるが、その有効性それ自体は疑問であるとむべに否定することもできます。しかしそうなると、じゃあお前はどうやって今まで生きてきたのだ?、と突っ込みを入れてもいいでしょう。過去の記憶の補正が有効でもなんでもないというのなら、でたらめにやっても同じなのでしょうか?。

 そうではなくてむしろ私たちの経験からするとこうした過去を検証する作業にはかなり有効性があり、どうやらある程度は実際の過去を正しく復元できているように見えます。そもそも過去復元が不可能で有効性などないというのなら私たちは割った花瓶を元通りに戻すことなどできはしません、またどんな組み立て方をしても同じだということになるはずです。

 このようなことから考えると、結局、歴史科学は科学ではない、という主張は、およそ意味のない主張であるように思われます。さて、さらに考えるとこうした発想がうまれる背景には

  科学とは厳密な意味で演繹である

そういう考えなり思考なりイメージがあると考えることができます演繹というのはものすごくイメージ優先で単純化していうと幾何学の証明が典型的な例となるでしょう。例えば、

 2つの異なる点を通る直線は1本だけである

 2つの直線が平行である時、それに交わる直線がつくる同位角は等しい

 ゆえに三角形の内角の和は180度(2直角)である

前提が正しければ結論は正しい。前提が真であるのなら結論は真である。こういうものが演繹です。典型的には数学で使われる(あるいはそのようにイメージされている)方法ですね。

 そして、どうも最初にいったような一部の科学マニア(とでも言えばいいのか)の人たちはしばしばこうした演繹こそ科学の真髄であると考えているふしがある。しかしながら実際のところ現代の科学者にしても過去の研究者にしても、彼らの多くはそういう純粋な意味で演繹な考え方をしているわけではなくて、もう少し違う方法論、例えば仮説演繹法でものを考えているらしい。これは演繹という名詞がついているものの、帰納法の一種です。

 例えばダーウィンの種の起原を読むと、彼の論法は明らかに仮説演繹に基づいて作られていることが分かります。

 しかしこのことは、言い方を変えればダーウィンの理論の展開の仕方が非演繹的であることを示しています。もっともそれをいったら科学のかなりの部分が非演繹的なのですが、すくなくともダーウィンの文章には最節約とか、説明能力の違いなど、法則から法則を導き出す演繹に慣れた人にはあまりなじみない論法が数多くでてきます。多分、これが科学マニアの人がしばしばダーウィンの進化理論を理解できなくなる原因のひとつではないでしょうか?。

 ようするにこれは、科学が好きな人は科学は演繹なりと思っているので非演繹的なダーウィンの理論と論法の展開に違和感を持つ、という解釈です。

 まあこれだけだとこのように考えればならこういう理解のつまづきを説明できる、というだけの話でしかないんですが、個人的にはこんな経験をあげることができます。物理科学や宇宙論が大好きないわゆる科学オタクの人と出会って話をしたのですが、彼曰く、生物進化はダーウィンの進化理論では説明できない、生物進化にはなにか方向性を持った力があるに違いない、といっておりました。ようするにダーウィンの論理よりも明白な法則で進化を説明した方が僕には受け入れられるということではないかと。事実、彼はこういう進化の法則があって・・・みたいなことをごにょごにょいっていましたから、たぶんそうなのでしょう。

 思い返すに、素朴な演繹好みとでも呼べる価値観が、人間がある種の科学上の営みを受け入れられるのかどうかに影響を与えているらしいという実例は意外とあるように思われます。

 例えば最節約原理に基づいて系統を発見する最節約法や分岐学仮説発見と呼ばれる方法論に属するもので、これも明らかに非演繹的な推論ですが、この分岐学の出現は研究者の世界においてすさまじい議論の応酬を巻き起こしました。そしてこれは本を読んでいるうちに分岐学にふれざるをえなかったアマチュアとか科学マニアの間でも同様の騒動を小規模ながら引き起こしています。面白いことに系統解析や分岐学に投げかけられた言葉にはプロやアマチュアを問わず、これは過去の推論であって科学ではない、つまり歴史科学は科学ではない、という主旨の主張がしばしば見られます。

 さらにここでマイナーな実例で恐縮なんですが、北村自身が比較的まじかで見ることができたものをひとつ。ドイツの昆虫学者Henning が系統解析のひとつを開発してさまざまな議論をへた1980年代前後、最節約原理を用いる分岐学が生物学のさまざまな分野で浸透しつつありました。そしてこの時期、恐竜学にも分岐学が流入しはじめます(その概要はこちらを参考)。そしてその影響が一般の恐竜ファンの間で話題に登り始めたのはだいたい90年代中頃からです。

 この時期は少なくとも恐竜学の世界では古典的な憶測の時代と系統解析を用いる新しい時代のいわば変革期、いわゆるパラダイムシフトにあたる時代で、そのせいか両者の相克の界面で生じたような仮説が幾つかうまれました。どういうことかというと昔ならまだ生き残れたかもしれないが、新しい物差の下では確からしくない仮説として却下されてしまうようなもの、あるいはなんとなく両者の折衷案のように見えるものが産まれてきたわけです。その中に”ダイノバード仮説”というものがありました。これは内容的に面白い要素を含んでいて、これを信じる幾人かの人と話をした経験からすると、この仮説の魅力は例えば、

 ドローの法則という法則から導き出されている

 さまざまな事柄がうまく説明できる

などにあったようです。ようするに”法則から理路整然と導き出された魅力的な理論”というわけなのですが、これは明らかに科学とは演繹なり、という価値観が背景にある例ではなかったかと。

 実際、ダイノバードを支持した人の幾人かは、系統解析が導き出した系統仮説を前にしても、歴史科学は科学ではないという言い様や、分岐学は矛盾や問題を見つけているだけではないか、という言い方でスタンダードな仮説に反論しました。これはようするに最節約な基準は判断の根拠とするには足らない低次なものであり、他の方法論の方がより良いという主張です。実際にはこの場合、最節約な仮説の方がデータの説明能力が高いのですが、ここでも非演繹的な推論ではなく、法則から論理的に導き出された仮説を選ぶべきだという価値観が見えかくれするように思えます。

 注:ただし、ダイノバード仮説は実際には”法則から論理的に導き出された仮説”では多分ありません。まず、ドローの法則は形質の進化の方向性を(その根拠はともかくとして)決定するだけなので、これだけではデータから答えを導き出すことはできません(考察してみた)。おそらくダイノバード仮説そのものはドローの法則と恐竜が持つ形質分布などの前提条件から演繹では導けないでしょう。少なくともその過程が提示されたことはありません。この仮説は実際にはデータを説明できる仮説として選ばれたもので、演繹でもなんでもなく、アブダクションで出てきたもののようです。そのこと自体に別に問題はないのでしょうが、この仮説を支持する証拠は特になく、むしろ反証の方が非常に多いというのが現実です。結局のところ、この魅力的ではあるがささやかな仮説は理論から予想を演繹的に導く過程や、予想を支持するデータを帰納的に集める過程や、説明できるデータの数を大きくするように最節約に努力するという点において失敗したのではないでしょうか?(逆にいうとアブダクションを使いこなすには演繹や帰納をちゃんとしなければいけないという興味深い実例か??)

 あと、この仮説はかなり前にされた指摘、すなわち、系統解析によって導き出された系統仮説から進化の様相を論ずるべきであって、その逆ではない(つまり、この生物はこういう進化をしたのだろうというシナリオ(お話)を最初に立ててから系統と進化を論じてもしょうがねーじゃねーかよ)、をしてしまった例であるようにも見えます(いわゆるパターン・プロセス論争にあたる?)。

 このように、科学とは演繹なり、そういう価値観を持っているがために、ダーウィンの進化理論や系統解析のような非演繹的な科学が理解不能になる例は意外とあるように思われます。

 もっとも、そういう価値観で科学を見ている人といえども、最節約性や斉一原理、過去は証拠から推論されるものでそれは経験的に有効である、とかそういう前提を心の底で敷いていないとはとても思えません。

 最後に、最近の系統学の進歩は目覚ましく、現在のデータから過去に存在したであろう共通祖先が持っていた遺伝子を再現し、その様子をテストできる域にまで踏み込もうとしています。歴史科学が再現実験ができないというのも厳密な意味ではさあどうでしょう?。

 

 2:日本の生物科学の歴史に問題があったのではなかろうか?

 日本の生物学史にはひとつ大きな事件、いわゆるルイセンコ騒動がありました。こうした事件が日本における進化学やネオダーウィニズムの普及をさまたげたのかもしれません。なぜかというとこの騒動、この事件自体は1950年代に沈静化した後も知識人の間にネオダーウィニズムや集団遺伝学への無関心、あるいはそれらが間違っているのだというイメージを植え付けたようですし、さらにはこうした主張にそって書かれた書籍が、現実問題として当時の学生に読まれ、影響を与えた痕跡があるからです(例えば「現代によみがえるダーウィン」pp26 を参考に。詳しい内容はおいおい補完の予定)。

 ルイセンコ騒動。これはソ連の研究者トロフィム・デニソビチ・ルイセンコが獲得形質などに基づいた独自の進化理論や育種理論を考えだしたことに由来します。その内容はおおざっぱにいうと、生物の特徴は環境で変化する、しかもそれが子供に伝わるので、これを応用すれば品種改良を意のままにおこなえる。農業生産は飛躍的にのびる(実際に生物の種から別種を作った。注:ちなみにこれは捏造か派手な勘違い)、メンデル学説は観念論であって間違いである。というものでした。

 もし彼の主張したことがこれだけだったのなら検討すべき仮説がひとつあらわれたというだけだったのでしょうが、1935年になるとルイセンコはスターリンに取り入る形で、いわゆるスタンダードなメンデル遺伝学や育種学を行うソ連国内の研究者たちに激しい攻撃を始めました。

 1937年になるとルイセンコはソ連の農業科学アカデミーの総裁になり、権力を用いた国内のメンデル遺伝学派の排斥に乗り出します。多くの研究者が失脚あるいは粛正され、例えば海外の研究者とも親交のあったロシアの遺伝学における第一人者バビロフも1940年に逮捕され、刑務所で42年(「ルイセンコ学説の興亡 個人崇拝と生物学」メドヴェジェフ 1971年によると)に死んだといわれます。

 じつはルイセンコがソ連で大きな権力を握った時、日本の知識人のなかにもルイセンコの理論を取り込んだ農業(当時はミチューリン農法と言われた)や生物学を実践するべきであると考えた人がかなり多くいました。そのためルイセンコの理論を支持する一部の研究者と、メンデル遺伝学者および当時発達しはじめたネオダーウィニズムを支持するいわばスタンダードな研究者たちとの間で、激しい議論が巻き起こりました。特にルイセンコたちによってソ連の遺伝学者が粛正されてしまったことが分かると議論は激しいものとなります(当時は情報がほとんどシャットアウトされていたのでルイセンコ派の人はこの事態を”人事”と表現した:「二つの遺伝学 農業に革命をもたらしたルイセンコ学説・その世論と批判」徳田御稔 理論社 1952 pp33~35)。

 この争いはスターリンの死、さらにフルシチョフが失脚する50年代から64年にかけてルイセンコ自身が力を失い、ソ連で失脚してしまうことで終息しました。しかしどうも日本のルイセンコ支持者の何人かはこれ以後も(さすがにルイセンコという名前はあまり前面に出さなくなったようですが)進化理論を解説した本を幾つも書いています。そしてそれらは結局のところ、かつてルイセンコを支持した彼ら独自の世界観や哲学を通してみた進化の本だったらしい。

 そして冒頭で述べたようにこうした書籍の影響が当時やはり存在したことは明らかであって、もしかしたらその影響がおそらく今でも私たちの間に、特に50代くらいの年令の人に残っているのかもしれません。

 実際、非常におかしな話に聞こえるのですがルイセンコがすでに力を失ってしまった1960年代の後半になっても、なお、日本の知識人の間ではルイセンコの理論自体の正しさを信じている人がだいぶんいたらしい(「ルイセンコ論争」中村禎里 昭和42年 pp157を参考に)。

 こうしたことからすると、ルイセンコ騒動が進化学の普及に与えた文化的な影響は非常に大きかったと言わざるおえないようです。

 注:ちなみに今西という人が提案した今西進化論というものも相当大きな影響を与えているのですが、ここではとりあえずふれません。

 

 3:自然科学と文化人の相克?

 さらにルイセンコ騒動についてひるがえってみると、ここには自然科学の方法論と文化人や知識人のものの考え方の相克が見えかくれするように思われます。60年代以後はおろか、それ以前の時代においてさえ日本のルイセンコ学派がルイセンコの失脚まで健在であったこと、それ自体がこれを仮に純粋な自然科学の営みとしてみた場合、非常に奇妙に思えます。当時の幾つかの書籍を見るとルイセンコ派が書いた本は理論こそ述べているものの、仮説を支持する具体的な証拠がほぼ皆無です(今から考えると当たり前なのですが・・・)。

 例えばルイセンコ派の書籍である

「二つの遺伝学 農業に革命をもたらしたルイセンコ学説・その世論と批判」徳田御稔 理論社 1952年

 および、メンデル遺伝学者とネオダーウィニズム支持者、ルイセンコ派がそれぞれ自らの主張と研究の進展を書いた

「生物学選書 現代遺伝学説」ネオメンデル会編 北隆館 昭和24年(1949年)

を読むとそれがよく分かります。

 1950年の前後においてルイセンコ派の主張には具体的根拠がほぼ皆無であるのに、反対にメンデルが想定した遺伝子というものがあるらしい証拠は着々と積み上がっていました(そもそもメンデルの仮定した遺伝子と染色体が同じ挙動をすることはすでに知られていた)。さらに集団遺伝学が扱うような野外における遺伝子頻度の変動、遺伝子や染色体の動態といった事柄、遺伝子の発現の過程などにも数多くの証拠がすでに見つかりつつありました。ようするに当時からしてネオダーウィニズムとメンデル学派は証拠を次々に積み重ね、一方、ルイセンコ派は時間の経過とともに、相対的にじり貧になっていったらしいことがうかがえます。

 ところが科学の世界ではそのような状況であったのにルイセンコ派の支持者はあいもかわらずいた。これはいったいどういうことか?。そればかりか興味深いことに、50年ごろに出た一般書籍のなかにはメンデル遺伝学を機械論としてしりぞけ、そしてそれに代わる理論としてルイセンコの理論を大々的に認める本が複数でたそうな、このことについて「ルイセンコ論争」中村禎里 1967 みすず書房では

 よかれあしかれ科学の啓蒙家や科学史家は、職業がら千島喜久男のいう「理論家型」の人が多く、またアカデミズムの外にあってこれに反発する人が多かったため、このような結果になったのであろう。 pp124

と説明しています。このことは、こういった文化人とか知識人と呼ばれるような人々が自然科学とはまるで異なる方法論や世界観を持っており、それに基づいて行動し、判断するということなのですが、これは言い方を変えれば彼らは、理論が実際のテストや現実のなかで有効であるかどうかなんて知ったこっちゃない、と考えていることを暗示しています。あるいはそういうことは吟味しないということですね(どっちにしても結果は同じですが)。

 これはサイエンスライターとかでもあんまり事情は変わらないらしい。例えば、1963年には国立遺伝学研究所の駒井卓による「遺伝学に基づく生物の進化」培風館 が出版されており、ここには集団遺伝学の理論と予想、その予想をサポートする自然の観察例や淘汰の実例などネオダーウィニズムの具体的な実例がすでに述べられています。ようするにスタンダードな進化理論とその具体的な観察例を示した書籍は昔から存在するわけです。

 ところがサイエンスライターとか知識人と呼ばれる人たちでさえこうした情報を把握しているようにはどうも見えない。事実、書店は進化論百家争鳴になってしまっているわけですし、進化を扱った書籍の参考文献にこういった本が出てくることはまずほとんどありません。まあ人によってはライターってのはなんて怠慢なんだというかもしれませんが、言い方を変えればここには文化人と自然科学者の思考の違いが、すなわち、

 検証なんて知ったこっちゃない

 と、

 検証しなければ意味はない(言い変えれば食えるか食えないかは食ってみれば分かるという泥臭いが堅実な考え)

こういった両者の思考の違いが反映されているのでしょう。

 書籍における文献の引用はしばしばそのジャンルの文化の系譜をしめしています。さてはて、書店の書棚をにぎわす進化論百家争鳴の書籍たちはどんな系譜に属したものでしょうか?ネオダーウィニズムを中心的な仮説とする研究者と、ダーウィンの進化理論は死んだと受け取った文化人や知識人の知的伝統は、50年代から交流することのないまま現在まできてしまっているように思えます。そしてその責任は研究者にあるというよりは、むしろライターや文化人にあるのではないでしょうか?。

 なお、これはまだ確認しなければいけない事柄なのですが、ルイセンコ騒動はダーウィンの「種の起原」の翻訳においても微妙な影を落しているのではないか?、と個人的な疑問を抱かせる点が少しあるようなのですが、さてはてその確認はおいおい。

 

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 おまけ:ルイセンコ騒動の補足的な説明

 ルイセンコ学説を支持した人々の問題点は一般的な自然科学の手続きとまるで異なる方法論をとったことにあったのでしょう。

 例えば「二つの遺伝学 農業に革命をもたらしたルイセンコ学説・その世論と批判」徳田御稔 理論社 1952年を読むと次ぎのような文章がでてきます。

 右の主張はいちおうすじのとおった主張のように聞こえる。しかし、ここでは、生殖における異なる細胞の合一ということの生理的意義がまったく無視され、ゲンという不可知な単位体に、いっさいの生理現象をすりかえてしまっていることに気ずくのである。 pp221

この文章におけるゲンというのはジーンのことで、ようするに遺伝子のことです。右の主張というのは、ネズミの近親交配を続けると、その過程で最初は生殖不能や身体の大きさが小さくなるなどの悪影響が見られるが、やがて成長の速さや大きさ、出産数がむしろ増加するという現象があること、そしてこの現象をスタンダードな遺伝学者が次ぎのように説明したこと、

 最初は同系交配によってホモ接合となったいわゆる悪性な遺伝子が発現する

 それが淘汰でとりのぞかれる

 結果的にそうした遺伝子と影響が消える

をさしています。これを批判した著者の徳田さんはスタンダードな仮説は生理的な意義(これはルイセンコ理論に基づく)を無視しており、なおかつこれは不可知な要素による説明にすぎないのではないかと言っているわけです。まあ自分がチョイスする仮説に基づいて反論を加えるのは当然のことなのですが、ここで面白いのは不可知な単位体という言葉を使っていることですね。

 確かにメンデルは眼で見ることができない要素で遺伝を説明しています。では不可知であるなら誤りなのか?。ここでメンデルの著作である「雑種植物の研究」 メンデル 岩波文庫 1999 を読むとメンデルの論法が興味深いものであることが分かります。彼がやったことは

 エンドウの交配と形質のあらわれを説明する遺伝理論を考え、遺伝子を粒子として仮定した

 その理論から考えると次ぎのような交配を行なった時、以下のような結果が得られるはずである

 実験するとその通りになる

ということであり、ようするに遺伝子という仮定は現象を予想できるし、実験することでそれを確認もできる、ということを言っているわけです。1950年代当時、すでに遺伝学者のほとんどはメンデルが仮定した遺伝子を支持していましたが、それは当然ではないでしょうか?。ようするに現象を非常によく説明し、予測も実際にできるという積極的な根拠があったのでメンデルが仮定した遺伝子という概念を受け入れているわけです。

 実際、不可知というのなら電子も不可知です。もちろん電子は存在しないと仮定して電子に基づかない理論を作ることはできるでしょうが、それだけでは誰も喜んで新理論に飛びつくわけではないでしょう。電子の存在を疑うような事例が幾つか報告されて、なおかつ既存の理論を上回るなにかの利点や説明能力をもった”電子を使わないで説明する理論”が提案されないと受け入れられてもらえません

 こういうことを考慮すると、不可知だからだめだというのは、おそらく仮説の説明能力や有効性の違い、証拠の数を無視した考えでしょう。

 注:ちなみに、あなたのいうそれは不可知な理論上の存在でしかない、そう言って、仮説の説明能力の高さや証拠の多さを無視して否定する論法は今でも見ることができます。例えば利己的遺伝子を否定する時にそういう論法がときどきあらわれる。もちろんそうした科学上の概念が結局否定されてしまうこともあります。そういうものには天球やエカント点、エーテルなど数多くありましたが、とはいえそれらも不可知だから否定されたわけではないでしょう。

 困ったことにルイセンコの理論は、すくなくともこういう著作を見る限りでは説明能力がメンデル遺伝よりもはるかに劣っているように思われます。細胞の結合が生活力を高める、というような言葉はでてきますが、具体的な予想や説明がありません(考えてみればこういう前提や理論から具体的な予想を立てるのはそもそも無理ではなかろうか?:例えば「二つの遺伝学」のpp222, 226 )。

 作者の徳田さんはメンデル遺伝ではすぐには説明できないような事例を目の前にしたことを語っていますし、そこから既存の理論に疑問を持ったのは、これは自然なことなのでしょう。しかしそのことが、既存の理論よりも説明能力の低い仮説を選ぶ理由になるかというと、それは怪しい。

 実際、先にいったようにルイセンコ派の人は具体的な例を集めることや、理論の説明能力の高さを示すことをどうもほとんどしなかったらしい。ではどうやって自身の正しさを主張したのかというと究極的にはマルクスやエンゲルスによる唯物弁証法によって正当化される、そういうものでした。

 ようするに真理に基づいているからこの理論は正しい、という主張なのですが(マルクスやエンゲルスが自分の理論は真理であるといったかどうかは寡聞にして知らないのだけど、ルイセンコ支持者たちがこういう論法を使ったのは事実)、これはいわゆる自然科学の歴史や現実とはずいぶん異なる考え方です。例えばアリストテレスは天上の運動は地上と違って円であると考えました。そうした前提から彼は円の組み合わせで天体の運動を説明する理論を打ち立てたのですが、この前提は最終的にケプラーによって放棄されることになります。こんな例は科学の歴史ではあっちこっちで起こっていて、自然科学と呼ばれる人々の営みにおいて、研究者は理論がよってたつ前提にさえ時には疑いと検証の目を向けることを物語っています。

 一方ではルイセンコ支持者は実験をほとんどしませんでした。たとえ自分達の理論の正しさを検証したと彼らが主張した例があったにしても、その事例はスタンダードな集団遺伝学やダーウィニズムで十分に、あるいはもっとシンプルに説明可能なものでした。ようするにルイセンコ派の人々のやったことは実験や検証、観察を軽視して仮定が真であるから結論も真であると言い続ける素朴な主張でしかなかったわけです。

 注:ルイセンコ自身はある意味では実験をしています、ただ、その結果、ロシアの農業はどえらいことになったらしいですけど。 参考として「ルイセンコ学説の興亡」 メドヴェジェフ 1971 河出書房新社 。

まとめると彼らの主張からは以下のような特徴を見ることができます。 

 生物のような有機体は化学や物理学や数学では扱えない

 機械論反対

 還元論反対

 生物が内部に持つ内因で進化が起こる(生気論)

 実験、検証、証拠の量の無視

 仮説の説明能力の違いを無視する

また、彼らはこれは農業の生産を増加させるいい方法なのだ、とも主張しました。

 ある科学の理論が全面的に正しいばあいは、その理論にしたがって生産は無限に高まってるくはずである。「二つの遺伝学」 pp2

しかし、スタンダードな理論よりも生産を増大させるから確からしい理論だというのなら、アトム論よりも錬金術の方が生産性が上がりうるわけですから(例えば錬金術なら水銀や、場合によっては海水を金に変成できる)、この理屈からすると錬金術はアトム論よりも確かな理論だということになるはずです。

 そのことから考えると個人的にはルイセンコ支持者やスターリンがどうして錬金術に飛びつかなかったのか正直理解できません。幸か不幸か彼らはその点においては常識人だったということでしょうか?。

 

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