仮説発見 : Abduction (暫定的)

 法則と前提条件から予想される現象を演繹する。そして観察や実験を重ねることでその予測を帰納的に確かめて、最終的に法則の確からしさを検証する。それが仮説演繹だとすると、では、最初のその法則ってやつはそもそもどこからくるのか? 

 そんなの既に確立された立派な法則や理論を使えばいいじゃないか・・・と思う人もいるでしょうが、世の中、そうはいかない。

 だって、科学者ってのはまだ誰も知らない、誰も理解できない現象を扱うことがある職業です。というよりも、まだ分からないことを解明する、そのことこそ科学の華であると言えるでしょう。研究者なら、手持ちの理論や法則では説明するのが難しい、あるいは説明不可能な現象にばったりとぶつかることがあります。これ自体は困ったことですが、それはむしろ自分が新しい理論の創始者となること、大発見の栄光をつかみ、新時代を切り開く先駆けにもなれる可能性さえ示しています。

 しかしそうはいっても、そもそも予想をたてなければ検証することができません。そして予想を演繹するためには、その、おおもとになる法則なり仮説なりがなければいけない。それが仮説演繹でした。そしてなにぶん未知の領域のこととて既存の理論や法則は今ここでは役に立たない。

 さて困った。どうするか?

 既存の法則から演繹して新しい法則を見つけるのか? はたまた枚挙帰納的に現象を淡々と見つめて一般化を行なうのか? そうしたやり方が現実的かどうかはともかくとして、どうも科学者というのは、こういう方法論とはしばしばまったく違うやり方で理論や法則を思い付くらしい。それが仮説発見。これは英語だとアブダクションと呼ばれるものです。これはおよそ以下のような動作です。

:おどろくべき出来事Cがある

:しかし仮説AならばCを説明できる

:だから仮説Aは正しいのではないか?(そして仮説Aを確かめる)

*以下の参考図書から孫引

科学的説明?検証と反証 藤本隆志 「科学哲学 現代哲学の転回」北樹出版 2002 pp48~49

パースの記号学」米盛裕二 1981 頸草書房

 

 このアブダクションというもの、アメリカの哲学者パース(1839~1914)が示したもので、具体的な例とされるものを、「パースの記号学」から2つだけ引用すると、

惑星の軌道は楕円であると考えると観測結果を説明できる(ケプラー)

陸地のずっと奥から魚の化石が見つかった。だから昔、ここ一帯は海だったに違いない

というものがアブダクションの具体例にあたります。そしてどうも、科学の世界で導き出された仮説のかなりのものはこうしたアブダクションで産まれ、そして仮説演繹的な作業で検証されてきた模様。

 アブダクションは構造上、あやまった仮説を提出してしまうことがしばしばあるそうですが(経験的にも、考えてみてもそれは当たり前)、まあその時には別の仮説を見つければいいだけです。とはいえ、思い付けばなんでもいいというわけでもない。仮説Aが出来事Cを理路整然と説明できないとどうしようもないし、仮説Aから観察するべき事柄をこれまた理路整然と導き出せないと、実験なり観察なりで仮説Aの妥当性を確認することが出来ません。

 逆に言うと、そこんところがだめだと、いかによさげなものを思い付いても、あるいは手持ちにもっていてもどうにもならないってことなのでしょう。

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 さてここから先はさらに感想文なお話。

 遺伝子も、その発現機構もまったく知らない19世紀の架空の科学者がカラスを見て次のように考えたとします。

:カラスAは黒かった

:カラスCは黒かった

:カラスDも黒かった

:カラスは黒い羽を作るなんらかの機構を体内に持っているのではないだろうか?

この人は次に、ではこの仮説が正しいかどうかをどうすれば確認できるのか? と自問自答し始めるでしょう。これは究極的にはカラスの体内にある遺伝子とその発現機構の発見へとつながる問いかけです。

 さて、この人のこの発想を生み出す過程、これは演繹でもなければ帰納でもありません。例えば、枚挙帰納ではカラスが黒いからという観察例から、”黒くする機構が体内にある”という結論をいきなり導き出せるわけがない。細胞を観察したらカラスAには羽を黒くする機構があった、カラスBにも・・・というのであったら導き出せるでしょうが、そういう観察は遺伝機構をすでに見ることができた場合にしか成り立ちません。黒いカラスを観察した、という事実をいくら累積させても、出てくる結論は当然のことながら”カラスは黒い”これだけです。

 またこの推論方法は演繹でもありません。カラスAとBとCが黒いことから、どこをどうすればカラスの体内に黒い機構が共通して存在するなんて答えが導きだされるというのか? 

すべてのカラスの羽の色は体内にある機構を原因とした結果である

:カラスの羽は黒い、ゆえに・・・

というのなら成り立ちそうですけど・・・。しかしそうだとしたらカラスの遺伝子の発現を知ってからでないとこういう推論はできないってことになります。

 次ぎは過去、実際にあった推論です。

:幾つかのハトの飼育品種にはカワラバトに見られる羽の特徴がない

:しかし、そうした飼育品種をかけ合わせて産まれた子孫にはカワラバトと同じ特徴がみられる

:ハトの飼育品種とカワラバトは同じ羽の特徴をつくる遺伝を共有しているに違いない

これはチャールズ・ダーウィンの推論ですがこの場合はどうでしょうか?この発想も演繹や帰納では導けるものではないものでしょう。ダーウィンのこの推論の仕方は、

 飼育品種のハトをかけ合わせるとカワラバトの模様と色が再現されるという驚くべき現象は、ハトの飼育品種とカワラバトが共通の祖先から同じ模様と色をつくる遺伝を受け継いでいるという仮説によって説明できる

というものであって、これもまた典型的なアブダクションに思えます。あるいは事態はもう少し込み入っているとも言えます。例えば演繹でこういう結論を導き出すにはどうすれば良いか考えてみましょう。

同じ特徴を持つものは同じ祖先を共有している

:飼育品種のハトを交配させると青い特殊な羽を持つ子供が産まれる

:青い特殊な羽は野生のカワラバトと共通する特徴である

:ゆえにカワラバトと飼育品種のハトは共通の祖先を持つ

まあ、こんな感じになるでしょうか? 少なくともこの時、”同じ特徴を持つものは同じ祖先を共有している”という最初の前提は、明らかに進化を前提としたものです。言い換えれば以上の論証は進化という仮説を論理的に導くものではおそらくありません。なぜなら最初の前提にそもそも進化が組み込まれているからです。つまり進化という仮説をまず前提において、それを論証するために驚くべき事例を集めたのが、以上の文脈だと言えます。

 実際、チャールズ・ダーウィンの進化理論のそもそものスタートは、ガラパゴス諸島でマネシツグミという鳥を観察したこと、しかもその鳥が本土である南アメリカのマネシツグミと似てはいるが微妙に違っていることから出発しています。ようするに奇妙で不思議な現象を説明できるものとしてアブダクションで得られた仮説が進化理論だということです。”飼育品種のハトを交配させるとカワラバトと同じ羽ができる”という報告は、彼が進化理論を論証するために行った実験の結果でした。

 一方でこうも考えられます。”飼育品種のハトを交配させると野生種と同じ特徴が現れる”という驚くべき現象を説明する仮説として、”飼育品種のハトと野生のカワラバトは祖先を共有している/ようするに進化で誕生した系統である”という仮説がここで提案されているのだと。

 ようするにこう把握すればいいでしょうか

現象A:ガラパゴスのマネシツグミは南米のものとは違う

仮説X:ガラパゴスのマネシツグミは進化で生じたのではないか

現象B:飼育品種のハトを交配させるとカワラバトと同じ羽が現れる

仮説Y:飼育品種のハトはカワラバトから進化した(品種改良された)ものではないか

現象AとBを説明できる仮説Xと仮説Yはどちらも同じ結論、進化を示している

 実際、ダーウィンは以上の指摘の後、ウマ属でも同様の例があること、痕跡的な器官が遺伝のきまぐれで出現するようなキンギョソウの具体例などがあることを列挙します。ようするにアブダクションで導き出された仮説を支持する事例を帰納的に集めた上で、最終的に、現在では隠されているが共通する祖先から同じ遺伝子が複数の種に受け継がれている事例があること、つまり共通祖先から複数の子孫種(や品種)が分岐したことを結論づけてみせます。ようするにアブダクションで発見された仮説を論証するためにデータを集める、つまり仮説演繹しているわけです。ダーウィンと進化理論の論証は仮説演繹であり、なおかつ、その根底にはアブダクションがあったとも言えます。

 

 さて、ここで懐疑的になる人もいるかもしれません。例えば仮説XとYの代わりに、神がガラパゴスのマネシツグミも作った。飼育品種のハトは今では絶滅した品種から作られたことは確かだが、カワラバトとは別個に創造された。彼らに他種との近縁性や共通点があるとしたら、それは神が共通の設計思想をもって創造されたからである。このような説明を持ち出しても良いからです。事実、これは19世紀当時のポピュラーな考えでした。一方のダーウィンは以上に続いて、そういった、個々の種や個々の品種が別々に神に創造されたと説明する創造論を批判し、自分の仮説の説明能力の高さを示してみせるのですが、これはつまり、

:よりよく説明できるのだから創造論よりも進化理論の方がよい仮説である

という論法ですね。これは科学者の考え方を示す具体例として興味深いと思えます(以上のダーウィンの説明は「種の起原」(下)岩波文庫 第5章 pp208~218 を参考のこと)。

 さて、よりよい仮説というと、科学者がしばしば使う判断基準として有名なのは、最節約という考え方です。例えばダーウィンが創造論に関して自分の進化理論の説明能力の高さを示す時、そこには明らかに最節約な考えが顔を出しています。そして最節約という基準は仮説を見つける方法としても使われます。そしてこの作業もやはり演繹でも帰納でもなく、仮説発見、つまりアブダクションとして扱われます。

最節約な基準による仮説の発見というのは、

:AからDまでの仮説のなかでは仮説Aがより少ない仮定で現象を説明できるので、仮説Aがよりよいだろう

というものです。確かにこういう最節約な考え方は、データを説明できる無数の仮説の中から、シンプルだからより良いという基準である仮説を選ぶのですから、それは演繹でもなく、帰納でもありません。まさにより良い仮説を発見する方法です。言ってみれば進化理論はアブダクションによって発見され、仮説演繹的に論証され、なおかつアブダクションによって創造論よりも優位性を示した理論だと言えるかもしれません。

 このように科学者というものはなにか帰納でも演繹でもない、にわかには推し量りがたい思考方法で仮説を見つけ、優劣を競います。

 

 

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