帰納 : Induction (枚挙帰納法 Enumerative induction )(暫定的)
アリストテレスは演繹の出発点になる事柄を見つける方法論として帰納を考えていたそうです(「科学哲学の歴史 科学的認識とはなにか」 ジョン・P・ロゼー 1974 紀伊国屋書店 を参考のこと)。しかし帰納と演繹はまるで違う方法論です。帰納とは
すなわち個々の事物あるいは事象の言明をそれらの属する種についての一般化の基本として取り上げる
同上pp16より引用
というものです。ここでいう種というのは生物の種というわけではなく、いわばひとつのカテゴリー、つまりカラスとかエメラルドのことをさすであろう言葉です。ようするにここで言われていることとは
個々の観察から、それら個々のものが所属する集団全体が共通して持つ特徴や性質を導きだす
ということになるでしょう。これだけでは分かりにくいので具体例を上げましょう。帰納法の例としてしばしばひかれるのは、
カラスAは黒かった
カラスBも黒かった
カラスCも黒かった
以上の観察から考えるとすべてのカラスは黒いだろう
というものです。なんかおおげさな言い方をした割には当たり前な考え方ですね。まあ実際に当たり前な考え方なんですが、帰納法には他にこういう例もあります。
これまで観察したエメラルドはどれも緑だった
だからすべてのエメラルドは緑だろう
またこういう例もあります、
おとといも昨日も太陽は東の空から登った
ゆえに明日も太陽は東の空から登るだろう
これもまた帰納。もう少し科学っぽい例を示すと、例えばX軸とY軸にそれぞれ年令と身長の数値を割り当てて小学生のデータをプロットしていき、小学生の成長をあらわすグラフを描いていく。これも帰納です。
改めていうと、以上のように個々の事例(例えばひとつひとつのエメラルドが緑である)を観察していって、そこから観測された事実(緑色)がその集団やカテゴリーにおける一般的な性質や特徴(緑はエメラルドという集合に共通してみられる特徴)であると結論する方法が帰納法(特に枚挙帰納法 Enumerative induction : )というものです。
帰納的な考え方抜きでは人間は日常生活なんて送れないと言われますが、それもさもありなん。見れば分かりますが帰納という方法論は科学者どころか私たち全員がほとんど当たり前のように使っている考えです。これがなかったら科学どころか日常生活さえ送れなくなってしまうでしょう。
しかしそれほどあたりまえで重要な考え方である一方で、帰納というのは根本的な部分で疑問をもたれている方法論です。例えば演繹のような厳密な方法論からすれば、帰納の考えは認めがたい。実際、人間が観察できる個々のエメラルドやカラスはエメラルド全体やカラス全体のごくわずかでしかありません。そんなごくわずかなデータからいきなり過去・現在・未来、世界と地球、さらには宇宙すべてのエメラルドやカラス一般に共通する性質を導き出す。これは相当な飛躍であると同時に演繹では成り立たちません。
わずかな観察例から得たにすぎない特徴やら現象やらが、そのグループや事柄すべてに共通するとなぜいきなり結論づけられるのか?。
18世紀の哲学者ヒュームは、帰納法は過去と未来が似ているとか、同じ種類のものは似ているとか、そういう仮定をしいており、そうした仮定がないと帰納法は成り立たない。そう指摘したそうな(ここは以下で述べるソーバー 1996 とジョン・P・ロゼーの「科学哲学の歴史」を参考にしました。詳しいことはおいおい補完の予定)。
確かに実際のところ演繹では
昨日、太陽が東の空から登った
という観察から明日も太陽は東の空から登ると答えることはできないでしょう。ですが帰納法ではそれをしてしまう。それはおそらくヒュームが指摘したように人間が暗黙の前提として、
明日と今日、そして未来は似ている
そういう信念なり仮定なりを敷いているからです。逆にいうとこうした仮定がないと、このような結論を導くことはできません。この仮定をくわしくいうと、宇宙や時間の一部で見られた現象が宇宙全体、時間全体ですべからく同じように見られるだろう、というものなわけですが、これを斉一性原理と呼びます。
注:ちなみに斉一性原理などという仮定を敷かなくても、理論上、太陽が明日も東の空から登ることを結論づけることが出来る、そう思う人がいるかもしれませんが、そういう答えは哲学者ソーバーの指摘を待つまでもなく、あっという間に突っ込まれてしまうたぐいのものなので注意しましょう。参考として「過去を復元する 最節約原理、進化論、推論」エリオット・ソーバー 1996 三中信宏 訳 蒼樹書房 pp68~69 を見て下さい。
斉一性原理は科学のいろいろな場所で使われています。物理学者は実験室で明らかにした原子やら素粒子やらの性質から、未来や過去の宇宙や遠くの星で起きている現象までも推しはかりますが、そうした議論を展開する時、宇宙は地球と同じ素粒子でできている、という仮定をしいていることは明らかです。また、地質学でも現在起きている侵食や隆起が過去同じように起きたと仮定することで地層や地形の生成のプロセスを推論しています。ダーウィンの進化理論もまた同様。
注:ちなみに斉一性原理はいわゆる最節約とか最小化原理と呼ばれるものと同じです。
もちろんこれは斉一性原理が真理であり、宇宙全体、時間全体、過去と未来のすべてが似ていることを示しているわけではありません。単にこの原理がおそらく役に立つ(あるいはそのように見える)ということを言っているだけです。斉一性原理も、それを足下に敷いている帰納法も、演繹という立場からすると一体全体お前達の正統性はどう示されるのだ?、と突っ込みたくなるのも当然でしょうが、この突っ込みにはどうにも答えようがないか、あるいは適切に答えるのがなかなか難しい。
とはいえ、今いったように帰納法も斉一性原理も世界を理解するのにどうやら役に立つらしいということは経験的には確実です。そして先にいったように、帰納法とそれが前提としている斉一性原理がなければ人間は科学どころか日常生活さえまともに送れません。例えばの話、過去と未来が似ているという前提が実際に崩れたのなら、昨日、食べたものと同じものを目の前にしても、それがはたして今日も栄養になってくれるのかどうか確信を持てないことになります(ようするに何を食べていいのか判断できなくなる)。
帰納法は科学の世界において非常によく使われる方法論で、過去の時代には帰納法、それもここで取り上げた枚挙帰納法こそ科学である、そう言われていました。
しかしどうも実際には科学者って呼ばれる人々は枚挙帰納法とはもう少し違う方法論でものを考えているらしい、そう言われます。それが仮説演繹と呼ばれるものです。呼び名に演繹とはついていますが、データから仮説を導きだし、観察によって確立していくという点で、これはむしろ帰納法の一種であると見なされています。
また科学者は枚挙帰納法で仮説を見つけていると言われたことがありますが、これもどうも怪しいようです。科学者が仮説を見つける時にやっていることはしばしば演繹でもなければ帰納法でもなく、仮説発見というもののようです。