注:以下のコンテンツでは演繹から仮説発見までを題目としてつらつらと文章を書いていますが、北村のメモと覚え書きの域をでていないので適切なことを知りたい人は適切な文献に直にあたることをおすすめします。
演繹 : Duduction (暫定的)
演繹というのは科学においてしばしば使われる方法論で、ものすごく大雑把にいうと、
確実に正しいと思える幾つかの明白な事柄を前提として、その前提から論理的に(ようするに正しく)文章を組み立てることで新しい事柄を答えとして導きだすこと
です。イメージ優先で単純化していうと幾何学の証明が演繹の典型的な例であるといえるでしょう。例えば、
2つの異なる点を通る直線は1本だけである
2つの直線が平行である時、それに交わる直線がつくる同位角は等しい
このような前提から次ぎの結論を論理的に導き出すことができます。
三角形の内角の和は180度(2直角)である
このように、答えの導きだし方が論理的(あるいは文章として正しい)で、かつ前提が正しければ結論もまた正しい。前提が真であるのなら結論は真である。これが演繹です。典型的には数学で使われる(あるいはそのように考えられている)方法ですね。あるいはアリストテレスが示した次ぎのような論法もまた演繹です。
すべての人間は哺乳類である
たかしくんは人間である
ゆえにたかしくんは哺乳類である
これはいわゆる三段論法というものです。アリストテレスの主張とは、
「自然の必然性」が対象と事象の種および類との間の関係を秩序づけているのだから、これらの関係についての適切な言語表現は必然的真理の地位を占めているはずだ、というものだった。「科学哲学の歴史 科学的認識とは何か」ジョン・P・ロゼー1974 紀伊国屋書店 pp54
[ A Historical Introduction to The Philosophy of Science ] John Price Losee 1972 Oxford University Press.
であったそうですが(アリストテレスの原文はまだ見ていないのですけども・・・)、このことからすると、アリストテレスは世界におけるカテゴリーというものは明白なものであり、そしてそれらの間には秩序だった関係があり、ゆえにそのさまを論理的に記述すれば(つまり正しい文章として記述して演繹できれば)世界の有り様を正確に探究し、答えを導きだし、かつ把握し、理解できる、そういうことを考えていたようです(この受け取り方が正しいのかどうかはおいおい補完の予定)。
アリストテレス自身は演繹の前提となる明白な事柄は、観察から帰納という方法論(演繹とは違う)によって導き出すことを主張していたそうな。
しかし古代の物書きたちはそういうところをはしょって、論理的な演繹こそ科学の真髄であり、はなはだしい場合には演繹こそ科学のほぼすべてであるとして、観察とか経験とかを軽視する時代が長く続いた言われます。そして現代においても、科学が好き、という人々のなかにそういう人がいるらしい。
事実、論理的な答えであれば実験で確認しなくても正しいのだ、そう主張する科学好きの人を北村も目の前で見たことがあります。そしてこのような主張の背景には、演繹すれば科学であってそれでいいのだ、という考えがあることはまず間違いないでしょう。ようするに幾何学に代表されるような非常に数学的な、それもおそらくかなり素朴なイメージで科学をとらえているわけですね。もっともその人たちが実際に厳密な演繹でものを考えているかはかなりあやしいと思いますが。
まあ本人たちがどうであるにせよ、そういう人たちは時として幾つかの真理なり公理から出発して宇宙全体の事柄を演繹できるかのように話すことさえあります。そういうことがそもそも理論上可能であるのかどうかはここではとりあえず触れません。しかしながらたとえ数学という営みにおいてさえも、それは演繹という作業だけ成り立っているのでしょうか?。例えばの話、経験的に証明できなかったのだから、むしろこれができないことを証明しよう、とか、証明されてはいないが経験的には正しいらしいという事柄が数学にもあります。そういうことから考えると、数学どころか自然科学が演繹だけで成り立つというのはいささか非現実的でしょう。
いずれにせよ、現代の科学者にしても過去の研究者にしても、彼らの多くは科学=厳密な意味での演繹であり、それですべてである、そう考えていたかというと、どうもそうではないらしい。彼らは作業の過程でこそ演繹的な推理を使っているのですが、データから仮説を見つける時や仮説を確認する時にはむしろまったく別の方法論、帰納や、仮説演繹、そして仮説発見を用いているようです。